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2020-05-25

anond:20200525162538

佐清自分も思ったし

あそこまでドロドロの家なら家系真実に気付いてるやつ

物語が始まる以前からもっといそうだよなと思った

(というよりは村人全員知ってそう)

映画犬神家の一族(1976年版)」の疑問

探偵映画最高傑作の一つ「犬神家の一族(1976年版)」。子供の時にみたときはなんか怖い映画という印象しかなかったが改めて成人してからみたら「まったく隙の無い見事な作品!」と思っていた。

さら20年ぐらい経って最近観たらけっこう「あれあれ?」というポイントがあった。

疑問を書き出してみた。

2009-05-30

連続SS

 再び教室である。

「さっきのを見ての通り、何故かあいつはモテる。なんせツラが………」

 そこで言いよどむな。事実を真摯に受け止めちまえ。

「…………あー…………ツラ“は”いいしな。見た目はともかく」

 妥協点を見出しやがったコイツ。

「おまけにアレなのにスポーツ万能で、成績もどちらかといえば優秀なんだ。

 ちょっとばかし変人でも、黙って立ってりゃそんなことわかんねぇし……」

「それにも、何かエピソードがあるの?」

「一時期は、ちぎっては投げちぎっては投げ、てやつだったな」

 ちょっと待て。“とっかえひっかえ”なら分かるが何故に“ちぎっては投げ”なんだ。

「いわゆる『私に勝ったら付き合ってやる』理論だな。さっきのもそれ」

「あー、よくバトル兼ラブコメ漫画であるよねぇ」

 月刊誌でもそんなのがあったな。つきあってよ! みたいな。

「そいつぁ知らねえ。とにかく、対決方法は……まあなんとなく見当はつくだろ。

 俺が知る限り、一番長く続いて30秒。最短は……さっきのだな。5秒無かっただろ、アレ

 ああ、まさに瞬殺だった。

「そんなわけで、過去にぶん投げられた男は数知れず。中には涼宮山に――」

 その瞬間だ。

 「ぃゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………」どぱぁん。

 またかよ。

 呆れつつ窓から身を乗り出し、悲痛な叫びと激しい水音が聞こえてきた方向を見ると、だな。

 まあなんというか見事に――佐清がそこにいた。

 あれほどベタ突っ込み方をしていることにある種の羨ましさを感じるような気がしないこともない。いや突っ込まれたくないが。

 その後方、プールサイドに仁王立ちしているのはもちろんハルヒで、



『――普通人間と勝負している暇は無いでごわす!!』



 大鐘音もびっくりの音量でそう叫んだのだった。

「――あの台詞を言われた奴もいたとさ」

 肩をすくめる谷口。……お前まさか

「………………ねえ」

 疑いの視線で谷口を見る。

「ぁ? ……! っ、聞いた話だってマジで! 何でか知らねえけど、勝負を申し込まれて断るということをしないんだよアイツは!」

 情報を持ちすぎている、とはツッコむまい。もう面倒だ。

「だから! お前が変な気を起こす前に言っといてやる」

 そう言うと谷口は、ふ、と息をつき。

「――やめとけ、マジで

 それはさっき聞いたっての。

 やめとくもなにも、そんな気は無いんだがな。

2007-01-03

DJ OZMAと僕

 僕はテレビを見ない人間だ。ブラウン管テレビはホコリ置き場になっていた。邪魔なので捨てたら、一人きりの年越しはとっても寂しかった。TV人間もいない年越しは寂しい、というか虚しい。孤独で死にそうだった僕は、ラジオ紅白を聴いていた。

 ラジオで聴く紅白は、ラジオで聴くワールドカップサッカーと同じくらいわけがわからなかった。何が起こってるのかさっぱりわからない。野球競馬ならわかるけど。それで、『犬神家の一族』を文庫本で読みながら聴いていたら、DJ OZMAという名前がコールされた。

 このDJ OZMA、僕が先日「何その人? 芸人?」と知人に言ったら散々馬鹿にされた(m9(^Д^)プギャー)、少々恨みがましい存在だった。初めて

耳にした時は、DJ あづま(納豆メーカー)の聞き間違いだと思ったくらいだ。その知人は、DJ OZMAを知らない僕を馬鹿にはしたけれど、結局DJ OZMAの何たるかは教えてくれなかった。二重の意味で気になってしまい、僕は佐清の手型の鑑定結果が出たところで本を置き、ラジオに耳を傾けた。

 きっとほとんどの人がそうだろうと思うけど、あれを曲だけ聴いたって何が何だかわかるわけがない。まして僕だ。ラジオアナウンサーが「OZMAさん、服を脱ぎ始めました」とか解説してたけど、僕はどうでもよくなって、また『犬神家の一族』を読み始めた。僕の耳は騒音をスルーしていた。サブちゃんが出ていたことより、犬神家の秘密の方が興味をそそられた。

 その後、アンジェラ・アキをスルーしてさだまさしに感涙する僕は、年のわりに耳が古いのかもしれない。今井美樹もよかった。その次の徳永英明の『壊れかけのRadio』の素晴らしさといったら! 今思い出しても、つい「レディオ」につられてRedioとミスタイプしてしまうくらい感動した。でも(壊れかける気配の無い)ラジオで聴いていた時は、感動の余韻もくそも無かった。曲が終わったすぐ後に、NHKアナウンサーの謝罪コメントが入ったからだ。

 コメントが読まれる際、会場からは二度も笑いが起こった。だから僕は、ちょっと下品な演出があって、PTAのオバサンみたいな神経質な視聴者様方が過剰反応してヒステリッククレーム押し付けてきたのかなと思った。まあ紅白だし、ちょっとやんちゃが過ぎたのかと。それ以上にどうでもよかった。だって紅白だし。聴いといてアレだけど、興味無いし。

 それからしばらくして、DJ OZMAパフォーマンスが問題になっているってネットはてブ)で知った時は、正月からはてブをやっている虚しさを吹っ飛ばすくらい、驚いたものだった。腐っても鯛視聴率低迷が言われている紅白と言えど、まだまだ世間への影響力は侮れないものだと思った。その批判内容(はてブコメント)を見たら、僕がイメージしていた「PTAのオバサンみたいな神経質な視聴者様方が過剰反応したヒステリッククレーム」まんまで、さっきよりも驚いた。ネット上には良識派を気取って重箱の隅を突っつき回したがるナルシズムエゴイズム溢れる人々が意外に多いのは知っていたけど、それにしてもなあと思った。そこで、僕自身がまだかの映像を見ていないことに気がついた。だめじゃん。

 で、Youtubeを見た。読みかけの『犬神家の一族』は、湖面から逆さまに人の足が突き出ている、かの有名なシーンにさしかかっていた。

 まず感じたのは、戸惑いだった。僕はものすごく戸惑った。どう反応したらいいのかわからなかった。ああいう騒々しいモノに対して、僕はパターン化された理解を持たなかった。テレビを見ていないと最近の娯楽についていけないのか、テレビ買おうかなとすら思った。その戸惑いをよくよく分析してみると、僕は不快だった。美しくない眉を顰めていた。そう、悲しいことに、僕自身もクレーマーと同類だった。僕はDJ OZMAを見ていて、どうしようもなく不快だったのだ。画質の悪さでおっぱいが本物らしく見えるくせに、その実本物でないのも腹立たしかった。

 しかし僕は、クレーマーたちと自分を差別化しなければならない。そうでなければ、頭がおかしくなりそうだ。いや、もうおかしいのかもしれない。

 もう一度、DJ OZMAパフォーマンスを眺める。そして、何故彼がこのような馬鹿げた、下品なパフォーマンスをするのか、しばし考えてみた。

 そうだ、アホの坂田がアホでも何でもないように、DJ OZMAもきっと、真実馬鹿げた人間ではないのだ。彼はきっと、僕よりもずっと高いところに立って、釣られクマーな僕をあざ笑っているに違いない。

 その時僕は、どうしようもない屈辱感に襲われた。DJ OZMA、彼に何らかの反応を示した時点で、僕は彼に負けたのだ。彼はきっと僕の、このような反応を全て了解済みだったのだ。「下品だ」「紅白にふさわしくない」という反応も彼の想定内であれば、「DJ OZMAはお前らの反応も織り込み済みなんだよ」「ナンセンスだ」というメタぶった反応すらも想定の範囲内に収めていたのだ! 僕がどう考えようとどう反応しようと、僕はただDJ OZMAの掌の上で踊る哀れな猿にすぎないのだ。一連の事実が彼を中心に回っている以上、どうメタ分析を試みようが上から物言おうとしようが、僕は、いや僕らは、彼を超えることなどできないのだ。騒ぎの渦を一つの世界と看做すならば、彼は神だ。唯一絶対の神だ。愚かな人間どもを哂う神だ。いっそどんな形でもいい、彼に心囚われてしまったことが(または正月からこんなことで騒いでいることが)すなわち、僕らの負けであり、彼の哂いなのだ。

 僕の心は虚脱感に包まれた。もう、全てがどうでもいいのだ。僕の正月は暇だった。このテキストの記号的意味でなく、存在意味が、悲しい事実を何よりも雄弁に物語っているではないか。傍若無人。かたはらにひとなきがごとし。如しじゃなくて本当に誰もいない正月を、僕はDJ OZMAに哂われて終えることにしよう。テレビはやっぱり買わない。

 追伸:『犬神家の一族』、読み終えました。映画よりも、やはり原作の方が描写が濃密で面白いです。

 
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