はてなキーワード: 二元とは
http://anond.hatelabo.jp/20110504151727
コレという根拠はない。ただ、あなたの反応が露骨にそれを物語ってると思う。
ただ、表現として「一切」という言葉を使ったのは私の勇み足。これは撤回する。
この点は指摘感謝。
ただ残りの部分は誤読というか曲解であると思う。私の上記の表現がそれを引き起こしたというのであればそれは申し訳ない。
「フリージャーナリストの責任を問うのは正しいか」という疑問もしくは
「フリージャーナリストの責任を問うのは誤りだ」という主張があるかと思ったんで
それに対して、当然だろ、って返したんだよ。
なんで「妥当な責任の程度」を問うたら全面否定だと誤解できるのかわからない。
それを守るために、一般人側との関係をセットで考えるのが大事だっていってるんだけど。
誤解だったら申し訳ないけど、
一般人側に目を向けたら、すぐにフリージャーナリスト側か、みたいな二元論で考えるのはちがうとおもうんだ。私はあなたの言葉にそういうニュアンスを感じた。
シビアアクシデントが起こらなかったからに決まってるだろ。それらの炉は原発事故的には全てどう高く見積もってもレベル3は超えていない。
INESは「震災の規模」の話じゃなくて、「事故の評価」であって、プールの水が溢れたりしたのはレベル1~2なんだが。
女川原発は7日深夜にも電源車とかバックアップはあったらしいが、3系統死んだりしてたじゃねーか。
「起こってから」の政府側の手当が一切ない。というか「絶対起こらない」という政治的建前を堅持するため後者の対策は意図的にゼロになっている。
なに、その二元論。
想定どおりに揺れを感知した時点で原子炉は停止したし、被害直後から、対策は始まってる。そして、今も対策は進行中だ。
いくらなんでも対処訓練の問題なわけないだろ。あの設備配置であの津波が発生した後にステーションブラックアウトを防ぐ手順があってその訓練が存在したのなら聞いてみたいわ。
とりあえず、変電設備の復旧と非常用ディーゼルの起動を行うのが手順だし、訓練もしてるだろ。
非常用ディーゼルが全滅とか東北電力と東京電力、他電力会社からのラインも遮断という結果だっただけで。
その場合、電源回復の努力もするだろうけどさ、まずは、冷却システムがダウンした事の対処が先だし、そのために動いてるだろ。
元々保安院は「絶対に起こりません」と政府としてお墨付きを与えるための組織であって「本当に起こること」を想定しているような組織じゃない。
じゃぁ、なんで、アクシデントマネジメント評価とかやってるの?
今回だって、アクシデントマネジメント整備で作られたマニュアルに添って運用されてるんだよ。
現時点でレベル4以上が起こるといきなりクライマックスになってしまう構造欠陥が存在してるとか、自公が組織も設備も意図的に放棄したとか、
お前が言ってるのはただの陰謀論なんだよ。
学力低下に関した議論はもはやふたつの二元論に落ち込んだと言ってよい。
ひとつは「学生が馬鹿になった(学力低下は正しい) vs 学生は馬鹿じゃない(学力低下は正しくない)」という対立。
もうひとつは「大学以前までの教育に問題がある(学力低下は正しい) vs 教育内容も問題ない(学力低下は正しくない)」という対立。
この手の問題は諸説あるが、概ねここまで単純化されていると思う。
関連した議論に就職の問題もあるが、この手の主張はまず、こちらの問題でどういう主張をしているか、ということを把握しておくと良いと思う。
つまり、就活制度にシステム面で主に問題があると主張する人は、こちらの方でもだいたいシステム的不全を主張するはずであるし、学生に問題があるという人は無論学力低下も肯定しているはずだ。
もう一段階前に遡れば、「そもそも大学とは何か」というところになると思う。
研究の場、学問の場、教育の場、いろいろ言いたいことはあるだろうが、それは「選民」によるものか「万民」によるものか、というところがもっとも立場を異にし、旗色を明らかにするものだと思う。
たとえば、選民的機能を求めるものは、スクリーニングによる選別、歴史的なブランドによる選別(一種のサラブレッド)を肯定するだろうし、大学全体にそれを強制するだろう。そこに通うものはもちろん同年度生の優れたものにのみ与えるべきだし、すべてにそれを求めるのは平均的知性の低下として糾弾する。そして偏差値の低い学生が通う大学は不要であると切り捨て、万民に開かれた大学(放大やサイバー大)は学士の安売りだとして非難する。通底するのは、大学と大学生には望まれるべきハードルがある、ということだ。それは過激になると学問それ自体にも矛先を向け、よく文学、哲学系や現代のカルチャーを扱う学問などが犠牲になる。
また、万民に開かれたものを求める場合は、サイバー大などのようなものはもちろん、できる限り多くの学生に、望むならば与えようという姿勢を持つ。
金銭的なハードルさえも、給付金で賄おうという立場をとり、多くの学問を認め、可能なかぎり多くの学生も認めようとする。学歴ロンダリングにも冷めた視線を注ぐのはだいたいこちら側である。彼らに共通するのは、包摂主義であり、ハードルは存在しないか、できる限り低くすることを望む。
これを先に挙げた人とシステムの目線で(自分で言うのもなんだが)分かりやすくまとめれば、
「大学は一部の優れた人間が通うところ vs 大学は誰もが通えるところ」
「大学生は高等な知識を有していなければならない vs大学生は高等な知識を有している必要はない」
という構図となるかと思う。
これをさらに突き詰めれば、「規範と自由」の対立まで遡ることができるのではないだろうか。
経営戦略として自由な大学像を目指すことを認めるか、淡々と上澄みの10%だけに通わせときゃいいんだよ、とするか。
実際は多くの人間がグレーな思想であり、ここまで極端な人間は少ないだろうが、あえて型枠に嵌めるとするとこうなるかと思う。
あるべき姿を創り、それに合わせようとするのか、今そこにあるものこそがあるべき姿だというのか、ということだ。
結局のところ立っている前提が違うのだから話が噛み合うわけがない、というのが私の感想である。
バカを見下して優越感を味わうなりなんなり、好きにすればいいんじゃないでしょうか、というぐらいである。
一貫した主張をしているという前提に則れば、
ということになろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%A8%A9
かつては、人権の根拠は自然法つまり神(宗教的権威性)に求められていた。しかし、世俗主義の民主主義国家において、特に、日本においては、人権そのものが、根拠・命題と自然法論で主張される(トートロジー)。これが日本においては個人の尊厳に求められる。日本国憲法第13条の「個人の尊厳」はこの意味に解される。この場合、人権の観念は憲法も含めた法律の上に位置付けられるという法学者が多い。一方で、法実証論においては、人権の根拠は単純に法律(ほとんどの国では憲法)にあるとされる。
公民権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%B0%91%E6%A8%A9
公民権(こうみんけん)とは、公民としての権利のこと。公民としての権利とは、公職に関する選挙権・被選挙権を通じて政治に参加する地位・資格、公務員として任用される権利(公務就任権)などの総称で、参政権、市民権とほぼ同じ意味である。
人権のよってたつ根拠を、神や法律や人権そのものに求める立場がある。
世俗的な国家にとっては、ちょっと神はないだろう、となる。人権トートロジーも心身二元論みたいで整合性がなくなる。
法律が根拠というのはかなり正しく聞こえる。ということは国ごとの、あるいは国の間のものであり、国主体ということになる(EUはあるけど、各国の国民投票が欧州憲法より優先されているはず)。
気になるのは公民権なのよね。参政権が人権全体にとってかわる? 足りないものが多すぎる。自由権とか社会権とか受益権とかどうすんの。
それとも人権概念の根拠は参政権だといいたいのだろうか。それなら分かる。公民が国家にアクセスできる仕組みが参政権なので、参政権がない=公民は国家にアクセスできない=国家が公民に一方的にアクセスすること(これが問題になるということは大抵は人権蹂躙状態になっている)を防御できない、ということだろう。
何か在日韓国人が参政権欲しがる理由が分かるような気がするな。参政権がないということは、国や地方にアクセスできないのに、国や地方のアクセスは受けねばならんということだ。そして人権は蹂躙される(というか、そもそもあるべき人権が認められていない)。それはモノスゲーイヤだろう。俺がアメリカンドリームで一山当てるためにアメリカに行ってそういう扱いだったらファックだぜ。
だったら国籍取ればいいじゃない? そう、ここで第五の条件、身分証明書が出てきた。人権には国籍・戸籍・住民票のような身分証明書が必要で、それが人権を支えているのだろうか?
というわけでアンケート。
1:神
2:人権そのもの
3:法
4:参政権
5:身分証明書
6:他の何か(内容も書いてください)
気が向きましたらお答えください。
読んでみた印象。
オタクの脳内=「村上隆は俺たちによって叩かれている」。精神的満足。
村上隆の脳内=「オタク達は俺の仮想的、というかエサ」。隆氏~大勝利。
ガンダムにたとえると
極論はこんな感じではないか
オタク通しの会話としか言いようがない。
会話してるように見せかけてどっちも
そもそもオタクに対話なんて無理、
という話ですねわかります。
全力で彼を滅ぼす必要があると思いますが、
そういう心配はないんじゃないかな。
個人的な意見としては
ハイパーインフレよりは安い方がいいのです。
16億の世界があってもいいですが
私はその世界には無縁なので
私の生きがいがなくなって二日後には首をつあらないといけないので
なんとかならなかいなぁとかそっちのことを気にしてます。
個人的に気に言ったtweet抜粋
<村上隆さんの聡明さ>
村上隆さんの聡明さとは、彼を敵視するタイプのオタクがもはや死滅しているにもかかわらず、そのような仮想敵を仕立て上げることで、二元論の構図を戦略的にかたちづくり、じぶんの美術作品とそれらが帰属するコンテクストを「メロドラマ的な物語」として流通&消費しやすく演出してる点。村上隆を叩くのって完全に彼の策略に乗ってるとしか思えないなーと人のツイートをみながら。
俺の考えたアーティスト作戦2 1の続き→日本で「海外では数億の価値を見出された、今最前線の、これぞアート」として、外人コンプレックス丸出しの日本人の島国根性を刺激しつつ宣伝する→借りた金の利子と出品料より宣伝効果があれば成功→繰り返す 誰かやろうぜこれ
→これ、地でやってる人々。自称「アートファンド」ってやつ。GEISAI出身の若手が随分鴨にされてました。警告してたのに金で釣られてしまってました。アート転がし、よく見破りましたね!凄い!
村上隆の実践は素直にすごいと思うけど、アンチ村上なオタクたちを上から目線でバカにするのはちょっとちがうと思う。彼らの生理的な反発や嫌悪感を「わかってない」で済ますべきじゃない。さっきも言ったけど、現代アートの回路に乗せることのメリットとデメリットを測量しないと。そもそもアート自体が日本に根付いてるとは言えないのだから、オタクたちが村上隆の活動に反発を抱いたとしても不自然じゃない。それを無視して「おれ、アニメも現代アートも好きなんだよね(キリッ」的な態度で村上隆を無条件に支持する人たちはほんと鬱陶しい。それで外部に開かれたつもりなのか。安易に「閉じた」オタクを批判する気にはなれない。少なくとも僕の理解では、日本のオタクカルチャーを経済的・文化的に支えてきたのは、その評判の悪い「閉じた」オタクたちだったはずだから。もはや現状がそうでないとしても、現代アートの世界に接続すべきかどうか判断が分かれるのは当然のことだと思う。村上隆には彼なりの哲学がある。でも彼の作品に16億円の値段がついたとき、脅威を覚えなかったオタクはいないのではないか。彼らは自分たちのカルチャーが手の届かないところで、まったく違った価値観で評価されてしまうことに戦慄したはずだ。だからこそ反発した。
(中略)
村上隆の仕事を、たとえば僕のようなぬるいライトオタクが、先行するディープな世代に対して上から目線で批判するための道具にしてはいけないと思う。それこそ閉じている。村上隆の作品はオタク以外からも嫌われてるので、「オタク vs 村上隆」みたいな構図で語るのは不毛。まぁ、声が目立つのはオタクなんだけど。
そう。どっちがよいかは軽々には決められないが、少なくとも、医療との連携の道も選択肢としてはありうるだろ。
選択肢を排除するような方向での議論の進め方は賢くないと言うこと。
加えて、ニセ科学を信奉するような共同体は、治療機関としては使い物にならないとしても、宗教と同類の、マイノリティのうけ皿としての社会的機能を果たしている場合が多い。これを啓蒙の名の下に一律に排除してしまうことは、ニセ科学によって個人の健康が損われる以上の、余計なトラブルを生み出す可能性が高い。
そういう人たちは「利害調整=悪」というか、そういうことをしているから何時まで経っても国が良くならないんだ、と思ってるフシがあるから、善悪二元論での解釈はあながち間違ってないかも。
嘗て日米貿易摩擦が熾烈だった頃、プレストウィッツが書いた『トレーディングプレイス』(邦題は何でしたっけ?)がベストセラーとなって、日本のマスコミが派手に騒いでいた。
未来学者のハーマン・カーン博士が「二十一世紀は日本の世紀」と激賛し、TIMEも日本の大特集、日本のGDPがやがて米国を抜くのは時間の問題だと言っていた。
覇者アメリカにとっての感覚は、いまも同じで「いずれ中国がアメリカをGDPでも超える」と危機意識を煽る。
1982年から85年頃、アメリカ人の学生や若者と話していると、日本に行きたい、景気が良いから米国で働くより実入りが良いんじゃないか。本気で相談を持ちかけられた。
80年代後半、米国の不動産事情をしらべに行った折、白人の業者が斡旋してくれた数件の物件を見学したあと、おもわず『安い』といったら、じつに不愉快そうな、複雑な表情で反応した。
ラジオ番組でロスのマネー局と二元中継を週一回持たされていた折、日本の失業率が上昇したと数字をあげると、相手のアメリカ人が「それは良いニュースだ」と言ったのにも驚かされた。
やがて日本のバブル経済が破裂し、株は往時の四分の一に暴落し、日本経済は沈没し、失業は恒常化し、新卒にまともな職場はすくなくなり、派遣社員とかアルバイトでしのぐ『負け組』が増えた。
中国人の観光客が増えると売り上げが伸びるといって期待したら、風呂に不潔なまま入って泳いだり、浴衣もポットも持ち帰り、廊下は痰で汚れ、ろくなことはなかったと嘆く温泉旅館が或る事態を象徴する。
日米関係は米国が政治力で捲土重来を期して、いまでは『日米関係は米中関係の従属関数』といわれ、日中関係はあからさまに中国優位関係、日本従属関係となった。つまり、トレーディングプレイスがおきたのだ。
さて同類のパターンとは言えないが、アフリカのルアンダでいまおきていること。アンゴラは奴隷貿易の時代、もっとも栄えた。新大陸へ奴隷として売られた黒人は数百万に達した。
いかなる具体例があるか。
旧宗主国のポルトガルへアンゴラから留学生が大量に行って、卒業するとアンゴラへ帰る。いやポルトガルの同級生が「ルアンダに職がないか。アンゴラで働きたい」と打診があるようになった。
2006年にポルトガルからアンゴラへ移住したポルトガル人は156人だった。
2009年にそれが23787人に増えた。すべては石油とダイアモンド算出によるアンゴラ景気の良さ、経済成長は8・5%。
アンゴラの企業が旧宗主国ポルトガルの企業を買い占め、逆にポルトガルの学生がアンゴラで職を求める時代へ突入していた。
ホセ・エドアルト・ドス・サントス(アンゴラ)大統領の娘イザベラは国有石油企業ソナンゴルの大株主であり、近年は盛んにポルトガルの銀行に大型投資をくりかえして次々と株主におさまり、なんとポルトガルの最大の投資家は旧植民地アンゴラからとなった。
大統領一族が政府要職をしめ、空港におさめるガソリンの流通から、はてはルアンダのホテルを経営し、ごったがえす国際ビジネスマンの弱みにつけ込んで一泊五百ドルをふんだくる。
だから中国人は安いビジネスホテルを建てて対応した。中国からしてみれば、内戦時代からゲリラ組織を支援してきたのであり、キューバが義勇兵をおくりこみ、中国は武器などで支援した。
いまアンゴラの不動産開発の一翼を担当するのも中国企業であり、大手「中信集団」が契約、全体で35億3500万ドル。中信集団はアンゴラで幼稚園、中・小学校、発電所、汚水処理工場、マンションなどのインフラ建設に従事している。
ルアンダのチャイナタウンは推定人口が四万人、華字新聞が二種類以上でている(キューバですら百年以上前の印刷機をつかって華字新聞が唯一許可されているが、キューバ在住の中国人はすくなく、かろうじて留学生が購読対象とか)。
しかしアンゴラの庶民は大統領一族と中国があらゆる事業、入札そのほかのビジネスに密接に繋がり、一族の汚職があると推定し中国人を嫌っている。
04年には「シナ人は帰れ、中国企業はされ」と叫んだ反中デモが発生した。
それが原因かどうか。自信に溢れだしたアンゴラは、これまで容認してきた中国企業のアンゴラにおける専横と、中国人エンジニアしか雇用せず、地元民の雇用がないままに建設してきたプロジェクトに横やりをいれはじめ、いくつかの中国が推進するプロジェクトは中断に追い込まれているという。
まぁ、個人によって違うのだけれど、このエントリ内では「下の事項に一個でも当てはまる人」をネトウヨという事にします。
だから「はぁ?俺はこんな事言わないぜ」という人は、私はネトウヨだと思っていません。
支持政党とか関係ない事項もあるので、これに当てはまる民主党支持者や共産党支持者もいるかもしれません。
例えば彼等は「民主党の目的は売国だ」というように考えている(ようにしか見えない)から、在日米軍の削減の話についても「人民開放軍でも迎え入れるのか?」のような発言をする
在日米軍削減派にしても「自衛隊を強化してから」と考えている人も多いが(流石にその議論無しではありえないだろう)、彼等の思い込みから、「防衛力の弱体化が目的に違いない」のような発言が多い
誰も得をしない外国人参政権についても、まるで民主党がそれを最重要視しているかのような言い方をする
本当に重要視してたらとっくに通しているはず
重要視しているというのならどういう仕組みで誰が得をするように出来ているのか聞かせて欲しい
中には「日本を中国の一省にして、そこの支配権を貰う為」のような発言も見るが、普通に日本を支配した方が得だろw
(個人的には「ブラフかなー?」と思っているけど、確証はないです)
民主党内の保守派についても、「彼等は民主党が左派でないように見せかけるためのカモフラージュだ」のような発言をする
別に党の所属を分けているのが左右の差ではないというだけの話でしょう・・・
まぁこんな感じです
気が向いたら続きを書くかも知れません
ネトウヨを批判する発言の中にも上記に当てはまるものは多いです
ロクに読まずに「ネトウヨは小林よしのりの本に影響を~」とか言っている人とか
あれに影響を受けたら自民党の支持者にはならないだろうし、むしろ反米に傾くんでないのと思う
個人的には好きな政治家だったのでとても残念でした
>地下猫は公権力が嫌い
ここが笑えるというか、中々頭の痛いところでもあるのだけれども、地下猫やはてサは
公権力が嫌いというのはその限りにおいてはそうではあるんだろうが、権力的なもの
それ自体を嫌ってるわけじゃあ無いんだよね。むしろ逆で、権力志向自体は強い人種
なのだと思うね。
たとえば、「自分が」(ここ重要)権力的に振舞うこと自体はなにより大好物でしょ。
他者に対して悪い意味で権力的に、つまりオイコラ式の警察官のように、気に食わない
相手に対して自分の特権性を背景に、強圧的、威圧的に、居丈高に、嘲弄的に、攻撃的に
行動することを非常に好む、という意味で。この場合彼らの「特権性」というのは言説
の絶対的な正当性(勿論彼らの脳内において、だけども)によって担保される。
はてサの皆さんが自己の善性、正当性とその「無謬的な絶対性」に異常に固執する、
これがその理由だね。単に自分が正しい、ということへの自己満足からだけでなく、自分を
特権的な立場に祭り上げておくために非常に重要な道具だからだ。
おまけに、その「気に食わない」という基準も要するに彼らの幼稚なプライドに抵触するか
どうかというものでしかないとくるわけで。
で、うわべだけの綺麗事で公権力を糾弾してみせつつ、「ボクのかんがえた、りそうのしゃかい!」
を実現するためなら、ファッショの極みみたいな抑圧的な社会ですら全肯定しそうな、どうしよう
もなく権力オリエンテッドな主張を平気でするからねぇ。
要は「他人が」権力を行使することがその是非に関係なく嫌いなだけであって、「自分が」権力を
行使する(または行使する様を妄想する)場合にはね、彼らに権力一般への批判性なんてもの
を期待するのは実にお門違いだろうと思うよ。
単なる無定見や日和見主義を揶揄するための言葉ならまだ理解は出来るけれども、はてサが
使いたがる「自称中立」とか「妖怪どっちもどっち」ってのは大抵はそうじゃないね。
はてサが憎悪してやまないのは、是々非々のスタンスというか、物事を非党派的に捉えるような
スタンスそのものなのだと思う。
そういうのに色々呼び名をつけてはあしざまに攻撃しまくるのは、結局はある種のポジショントークってやつでしょ。
いにしえのサヨクが好んだ罵倒用語の「プチブルなんたら」ってのと似たようなものかと。
その場合、対象となる言説の内容の是非が問題なのではなく、物事を二元論的に、党派的に捉えない
スタンスそれ自体が彼らにとって都合が悪いからだろう。それはつまり、単に二元論的、党派的な視点から一方
を攻撃するのとは違って、党派的な世界像そのものを解消してしまいかねないから、つまり、彼らが
大好きな特権的な立ち位置、「常に自分は無条件に善の立場、真理の側」というポジションを相対化して
なんの保証も無いものにしてしまいかねないからね。
その「自分は無条件に全面的に正しい側である」という前提が脅かされることを何より忌み嫌うのは、
要するに他者や愚民、社会や世界を無条件に嘲笑し、罵倒し、攻撃するための(そして同時に自分がいかに
優れたあたまがいい特別な人間かを再確認するための)特権的な立場が(まあこれも彼らが自分で自分に
対して自作自演的に付与したまがいものの特権でしかないわけだが)少しでも傷つけられることが
我慢ならないからだろね。
簡単に言えば、お子ちゃまな勧善懲悪脳で自分はいつも正義の味方役じゃないと嫌な(そういうわがままな
子供っているよね)のはてサの皆さんにとっては、自分から「正義の味方の役どころ」をとりあげかねない
全てのものが憎悪の対象になりますよってことかな。
「自称中立」的な言説もそうだし、彼らの「脳内正義」と違ってより現実的な「正しさ」に近い人たち、
信条や思想に基づいて現実の社会の中で(たとえば外国人のために活動する弁護士とか)それなりの実績
と立場を築いてきた人たちが、彼らの言論オナニーの場に入り込んできたときとかもね。
全て俺のためにこの世が存在してるんだ、って思うことは正しいかもしれん。
論理的に。急に閃いた。
落ち込んで、自分なんかダメだと思ったり、前まであんなに仲良かった女の子の態度がすごい変わって、ありえねええって思ったりしても、全ては俺のためにあるんだと思う事が可能だ。というか、それが正しい。
単純に、どんな不幸があっても、何故落ち込むのか?という疑問。その答えは、自分のためだろう。
自分がどうでもよかったら、どんだけ自分が不幸だって幸せじゃないか。何故なら、自分なんかどうだっていいんだから何にも気にする必要がない。どんな痛みや苦痛があっても自分なんかどうでもいいならお構いなしで、それさえも楽しいし幸せだ。だって自分なんて関係ねーもん。そんな状態はいわば「悟り」の状態だ。
結局二元的に考えると、「自分のためか」「自分のためじゃないか」でいって「自分のためじゃない」状態なら、自分は常に幸せだ。何故なら自分なんかどうでもいいから。しかし、そうではないなら完全に「自分のため」だ。自分の認識するもの全てが。
普通の人は落ち込む。もうダメだって鬱になる。じゃあなんで鬱になるの?それは、自分のためだろ。
何もできないヒキコモリニートが鬱になるのは、なんで?それも、自分のためだろ。
結局、どんな苦しみも、もしくは惰性であったり、意志に反した行動でも、それは自分のためにつながる。
逆説的に言えば、どんな事象も主観を持って観測している時点で「自分のため」という物差しでしかはかれないし、それが自然。そこに自分のためでしかありえないがゆえ落ち込んでいる状態を、そんな状態自分が求めていないと思おうとするから苦しく感じるんだ。
落ち込むのは何故かって、自分のため意外の何者でもないじゃん。
ゆえに、好きな女の子にありえない態度をとられても、それは自分のためでしかない。
好きな女の子と話せるのも自分のためだし、嫌われるのも自分のためだ。そして、それで落ち込むのも自分のためでしかありえない。
だったら何も気負う必要なくないか?
なんとなく、自分が中心に世界が回ってると思うことが幼いことで、自分は他人の流れの一部でしかないと思うことが正常だと思われてるが、もしかして、これが間違いじゃないのか?
論理的に、同じリンゴでも他人と自分でまったく同じく認識する事は不可能だ。だとしたら、自分がみている事全ては、自分のためでしかない。全てが。既に。
となると、論理的帰結で、世界は自分を中心に廻っていると認識せざるおえない。それ以外の認識は、ありもしない認識で、不完全だ。
他人の流れの一部としての自分を認識しようとする事は、芽を摘むっている間だけ、実は目の前にリンゴが現れる。自分にはそういう能力があるかもしれないが自分は目を瞑ってるのでわからない。といってるようなものだ。
とことん二元論の人だなぁ。
もう少し、メタに考えられません?
でもね、俺は空気を読みたくも疑いたくもないわけです。
つかもー、空気を読め!いや、そんなもん読むな!の二大勢力の戦いは
どっちも本当に心底押し付けがましい。
「素朴」とか「自然」とかって語が気に入らないなら変えましょ。
応援したくてする人に
「応援するな、空気を疑え!」って言うのは
「応援なんかしたくない!」って人に「日本人なら応援しろ」ってのと
全く同じなんですよ。
なんかもう、時代のイデオロギーを覆す戦士様みたいな振る舞いだけど、
「空気を嫁」サイドにも、「空気を疑え」サイドにもいい加減黙って欲しいもんです。
自分が「空気嫁」サイドと全く変わらないことを、ホントに自覚して欲しい。
http://anond.hatelabo.jp/20100212220657
内心は確定不可能である、という前提が生きていれば出来てくると思うんだけれども。
他人がどのように自分を思っているかなんてのは、わかりようがないよね。
でも、恋愛というのは基本的に「相手に自分を押し込む」場だと思うんだ。
だってね、相手は本当にイヤになったらイヤだと意思表示すればいいんだから。
相手が「現在」自分と「差し向かいでメシはちょっといやだな」と思っていても、
「差し向かいでメシを食いたい」のが、恋する側なのだから。
そして、ある種の頑張りを経ないで「この人と一緒にいたいな」なんて、少年誌的な恋愛状況に
いたるのは、非常に稀なことだ。なんとなーく一緒にいたり、あるいはちょっとめんどいけど一緒にいたりするうちに
人は人を、なんとなーく好きになるもんなんだ。所謂、非モテを自称する人はまるで少年誌の「愛」や「恋」のような
二元論の地平で恋愛が進むと思っている。でも違う、恋愛というのは
たとえ、自分がそれほど愛されていないことを自覚しながらも、それでも「求愛」するしかないんだよね。
もちろん、これは「求める」のであって「脅迫する」ではないことを自覚しなければならないけれども。
こうして、「相手がどう思っていようと自分は相手がすきなのだ、ということを伝えるしかない」
みたいなことを言えば、「性犯罪者」と言われてしまう。
しかしね、恋愛とは基本的に愛を乞うものであって、ある日突然二酸化マンガンとオキシドールが反応するみたいに
フラスコの中で起こるわけではないんだよ。そういうことがたまにある、というだけで。
嫌われていようがなんだろうが、恋っていうのは起こるもんだ。
最善を尽くすしかないんだよ、最善も尽くさず「俺はどうせダメだ」なんてね。
自殺を勧めるほかないじゃないか。