はてなキーワード: 不文律とは
ハックルの中で、「読書体験かくあるべし」って不文律があって、それを布教してるだけなんだよ。
人によって感性は様々で、世界との向き合い方にも様々あるわけだが、「文章は××のように読めなければならない」と言ってしまうわけ。
だから、こんなの書いちゃう。
「真の教師の心得」
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20110915
こういう考えの奴は、自分の文章は「正しく解釈される」と思い込むし、批判するのは「正しく解釈できてない」から理解できてないだけと思ってしまう。
自分の文章に「正しく解釈させる」ためのしくみを施そうとは思わない。
なぜって、文章には「正しい解釈の仕方」があり、当人にとって、それは自明なのだから。
普通は、そういう自明の部分をこそ共有できるように心をさくし、それが出来る人が良い教師なり、良い表現者となるのだがね。
これね。
現代アートはあれだけぶったたかれて、原作改変パロ系コラージュ作品が受け入れられる理屈が全然分からないから誰か教えて。
原作へのリスペクトはなく、アフィブログに転載された時点で両者は「金稼ぎに使われた悪意のコラージュ」という点で極めて同一の存在になっているはず。
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http://anond.hatelabo.jp/20110813025538は要するに「現代アートが美術作品として格式ある評価を得ることが気に食わない」ということか。
Bクラス女子のジャンクな曲が「国民的アイドルソングと呼ばれることが許せない」っていうアンチAKBに近い考え方で合ってるだろうか。
「俺が評価したくないものが、他人に美術作品として(あるいは国民的アイドルソングとして)評価されてるのが許せない」っていうのは浅ましくて穢れた考え方だなーとしか思わないなぁ。
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http://anond.hatelabo.jp/20110813025958の考え方だと明らかにミクやこなたが素材になっていると、パロディ元が分かる現代アートならば許せるってこと?
多分君は許す気ないと思うからそんな理由で怒ってるんじゃないと思うよ。
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id:qadapの考え方だと現代アートや美味しんぼコラの改変の手法それ自体は問題なくて、芸術家の露出に対する嫌悪感がある、ということなのか。
手法自体を叩いている人が多いから的外れだと思うし、なぜ芸術家が嫌われるのかまでの説明がないと理解できないな。
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id:tyokorataの理屈というのは例えば社会的に見ればいじめ行為も、コントであればお笑いとして許容される、というような理屈か。
現代アートと美味しんぼコラは共に社会的には犯罪であるけれど、元ネタが誰もが理解できるもので、笑いが取れているから許されていると。
許すかどうかを決めるのは「大衆」かな。もし大衆がマンガや同人誌踏み付けで笑えるなら、踏みつけアートも許していいということ?仮定の話をしてもしょうがないか。
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id:temtexはアートの権威なの?やるべきこともやらないなら叩く、ってのは既にそれなりの実績を持った人間がいうならかっこいいけど素人が言ってもなぁ。
ただオリジナリティへの回帰の流れは来ると思うけど、もはやアナログの絵画はCGには勝てず、CGに芸術らしさを宿すことができるかどうかが課題だろうね。
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http://anond.hatelabo.jp/20110813100051は大して叩かれてないからそう思うわけで。みんなアフィブログ見て、おかげで彼らは推定月収100万近く稼いでるわけで。
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http://anond.hatelabo.jp/20110813110155が今のところ一番納得できた意見。
美味しんぼはそこまで好きじゃないけどああいうコラはまず嫌悪感がくる。でもそういう人間が少数なら絶賛され、多数なら糾弾されると。
とするとそれは物の価値や論理や倫理ではなく、声の大きさが評価を決める、衆愚社会そのものだとも思うんだけどね。
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http://anond.hatelabo.jp/20110813141721、おぉこわいこわい。ミスってたよ。
本当に多数から叩かれたものは誰も見なくなって廃れる。アフィブログはうるさい少数派が叩いている一方で、物言わない多数派がアクセス源になっているから成立していると思うけど。
「多数派もきっと叩きながらアフィブログを見ているんだ」と考えているならそれは見解の相違だね。ゲハブログの一部を除けば現代アートほどアフィブログが嫌悪されている印象はないんだよ。
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id:leveleとid:ululunの考え方は「ふたば(や2chやアフィブログ)はオレ達」で、アート界隈の人間は「オレ達じゃない」という文化の壁から、利用されたという敵意が生まれたという考え方で納得できる。
「オレ達」という曖昧ながら強固な連帯意識、文化意識がどこから生まれて何を拠り所にしているんだろう。そしてなにのためにあるんだろう。
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現代アートに「オレ達」がブチぎれたように、美味しんぼの原作者は一連のコラ群にブチ切れてるかもしれない。(あまりネットが好きな作者じゃなかったから快く思っていないだろう)
またアフィブログは金稼ぎのために話題のネタを集めているだけかもしれないし、「オレ達」という保証はどこにもないわけで。
だから現代アートは「オレ達じゃない」から怒るが、美味しんぼコラをアフィブログに載せるのは「オレ達」だから許せるってのは、何を根拠にそう考えているのか理解できなくて、すごく違和感がある。
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http://anond.hatelabo.jp/20110813145112。しっかりしたレスポンスを頂いてしまうと申し訳なく思えてくる。ありがとうございます。
「財産」に対する所有意識の根拠、が一番謎なのかもしれない。上手く説明する方法はないのかもしれない。
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id:vidの、現代アートは「オレのもの」が可視化されているために敵意が生まれ、コラは「誰のものでもない」ように見えるために受け入れられるというのは一理ある。
でもそれは傍観者の主観でしかなくて、製作者にしてみれば匿名の人間に弄り回されていたら、「オレのもの」が勝手に「誰かのもの」にされたと考えて敵意が生まれるんじゃないかな?
コピーライトの有無は「オレのもの」にされたという事実自体は変えないと思う。
けれど一定のネットの不文律を守れば、「誰のものでもない」と錯覚されて、大多数の空気に許容される、ということか。
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「オレのものだと主張する」「金稼ぎに利用する」を両方満たすとネットの多数派の怒りが爆発する、というのは現象から逆算するとかなり正解に近いようで、決定的な何かが欠けているという感じ。
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いくつかまとめて。
id:himajin774 心理的に直接金銭のやり取りがあるか、というのが重要なのはわかる。
ではアフィブログが金稼ぎの為に無断転載を繰り返して運営している、と踏まえた上でコラを見たら評価が変わるか?というと恐らく変わらないと思うので、そこは本質ではないと思う。
他のポイントと総合して、怒りを感じる閾値を超えた、ということは考えられるけど。
id:md2tak も同様で作成者と販売者が別だったら、水濡れアートや踏み付けアートを許せたか?というとそんなことはないと思うので、そこは本質ではないと思う。
金稼ぎまでしていなければ、水濡れアートや踏み付けアートを展示するだけだったら、怒りは爆発しなかったのかもしれない、という可能性はあるかも。
id:lefu はあえて書いていないけど、コラ画像作成の場となっているふたばが広告収入を得ているという視点が抜けている。「アフィブログ」の方が設定としてわかりやすいから省いただけで、最初から金稼ぎの道具になっていると思う。
「広告収入」が金稼ぎの手段として認知されているのは、アフィブログに対してよい感情が抱かれていないことから自明だと思うけど、もちろん「直接商品を販売していないからOK」という人も一定数いるんだろう。
id:guldeen のような指摘のために、両者の労力がほぼ変わらないコラージュで、また原作へのリスペクトが感じられない題材を選んでみたんだけど、それでも両者に違いを感じる、ということだろうか。
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本題と関係ない部分。
id:nagaichi 「カオスラウンジ、カオスラと呼ぶやつは擁護か身内、カスラジ、カスウジと呼ばないやつは敵だ」みたいな面倒臭い考え方の人がいるから敢えてボカしたけど、結局認定ラッシュ食らったから意味がなかった。
「カオスラウンジはネットの総意として敵であり、叩かない人間は擁護工作だから黙らせろ」と考えてしまう人は、いちいち突っかかってこなくていいからお互いに不干渉でいましょう。
だいたいテレビの話やドラマの話、他人の陰口に「馬鹿ばっかだな」と思いながら付合っていますよ。
見たくもない朝ドラ見て、韓流のスターの名前位は知っておいて、他人の家庭事情も覚えます。
案外その場にいる全員が「こいつら馬鹿ばっかり」と思いながら、表面的な付き合いのための会話を続けていることも考えられます。
主婦にとっての立ち話は外交であり、子どもがいれば我が子を守るための術になりますからね。
大体外堀から固めて周りを味方につけておかないと、イジメなど回避出来ないです。
主婦ですけどと言ったけど、一応フリーで職も持っている身なので
外のサラリーマン達と話す機会もありますが、彼らが興味もないスポーツの話題や、飲みたくもない酒を飲まされているのを見て
主婦と大してやっていることは変わらないと感じる事もありますよ。
なんで飲めないなら「飲めません」て言わないの? そもそもさっさと帰ればいいのに。
なんであなただけが雑務やらされてるの? 断って本来の仕事させてもらいなよ。
そういう安易な質問をされると「何も知らないくせに」と言いたくなる人もいるように
素直につくると、ウケが悪いようだ。
「カッコイイだけ(なんじゃそりゃ)」
運指がマズいとか実演に即した指摘はありがたいのだが、上のような中身のない、あるいはあっても価値観の違いだとかその程度の指摘はもらってもあまり嬉しくないというか、その程度にしか思ってないんだろうな、と少し憤慨してみるなど。
もっともゲーム音楽からの影響がないというのは嘘になる。ゲームするし。むしろ何者の影響も受けない、独立した音楽があるなら聞いてみたいものだ。
でもこういうことを言うと頭でっかちだとか人の話を受け入れない頑迷な人間だという謗りを免れないので、仕方なくニコニコした風な顔を装ってみる。ああめんどくさい。
まあ、「◯○の作った曲のほうがマシ」なんて言われるぐらいならまだマシですよ。そこに挙がる◯○ってのはだいたい私より実力は上だし、むしろ当然でしょう、という感想を持ちたくなることばかり。なので、変にイライラしない。こっちのが平和。
というわけでだいたいのアドバイスとも批判ともならない空気のようなことばを先日も一身に浴びてきたわけです。まあわからないでもない。言うべき言葉が見つからないけど言わなきゃいけない、そんなときは中身がなくなる。形だけ。そしてそれを聞くだけ。全部空っぽ。
というわけで最近ファンファーレなる楽式の委嘱を受けたんですけどね、まあ依頼内容が面白い。
「無調で」
えーとですね。ファンファーレというものがどういうものかご存じないのでしょうか。一度に始まり五度に終わる。これがファンファーレの不文律。金管楽器の構造上旋律も三度、四度、五度になるわけですね。ぱっぱぱぱーって鳴ればいいってわけでもないんですよ。いや、吹く側からしたらそんなことは些末な事かもしれませんがね。
たぶん無調ってのもなんか厨二の延長ぐらいの要望なんじゃなかろうか。まあそれはいくらなんでも依頼主に失礼か。
MTL2で作ってあげようかしら。ああ、今日も半分が終わった。作らねば。
よしなしごとだが、今日18日午後、twitterで唐突に東浩紀氏が曰く、一昨日の晩から原発関連の報道が少なくなったかの印象があるとのこと。
もちろん、事実報道は絶えずなされている。ご本人も「放水してることぐらいは知ってます」と書いている。
事実そのものの緊迫度合いは変わっていない。事態の進行状況や対策対応を見れば情報を量的に計算しようともそれは変わるまい。いや、合衆国政府からの協力への強い要請(の露呈)や、IAEAからの情報開示要求というニュースを見れば、事態は以前を凌ぐものだろう。
東氏ご自身は政府が情報統制を始めたんじゃないかと書いていたので、ここに書くのは東氏の意図とは違う。もっと曖昧な「印象」についての話である。印象とは根拠のないものであり、帰納的にしか語ることができず、つまり「論」ではない。まさによしなしごと。
その印象が何を指しているか。
事実の質と量は充分であるのに、事実以上の報道はされていない?番組が少なくなった?という印象?
似たような話がある。
国内メディアの報道のトーンについては当初から、悲惨さに寄り過ぎる、自衛隊ほかによる救済など「いいニュース」が海外メディアにばかり流れている、避難所はもっと前を向いているのに伝えられない、等の批判が出ていた。twitterなどでも同様だったが、ロケ先で被災したコメディアンであるところのサンドウィッチマンによるコメントは、その国内メディアでも報じられたのでかなり広く知られるに至った。これらを受けてNHKでは編成方針を変更したようだ。
「ようだ」というのは、上記のようなことは定量的には前後比較できない、当事者の公表なしには視聴者の感想(の露出)によってしか測ることができないことだから。逆もまた真なり、敢えて書くことはしない。
それから、これも今回の震災に絡めてTwitterで見かけたエピソード。
阪神淡路大震災の折、被災地を放送エリアに持つ読売テレビが、番組編成を報道偏重からアニメやバラエティなど日常的なコンテンツを採り入れたものに切り替えたところ、賛否が多く寄せられたそうだ。不謹慎だというクレームはもっぱら被災地外からのもので、被災者からは「ひさしぶりに笑った」という感謝のメッセージが届いたという。
tweetの主旨は、悲惨な状況にこそ深刻さばかりでなく笑顔を生みだすようなものが必要だ、それを実現した読売テレビさんは素晴らしい、在京各局も続くべしということ。
それにしても、こうまで深刻である必要はどこらへんにあるのか。といっても「こうまで」の「こう」が曖昧至極であるが。
下位に対する憐憫という「善意」の発揮によって穏当裡に、普段は緩やかに規定される上下関係こそ、ここ最近のこの共同体を支える文化的精神的基盤だ。
もちろん、階級のないこの社会を円滑に運営するうえで有用だからこそ基盤たりえる。が、善意の発揮は多くを包み隠しもする。
女性差別を訴えられた男性は少なからず心外に感じるだろう。だって自分は女性を「弱き者」だと理解し、その通りに行動しているのだから。その振る舞いに、端から自立を放棄せよとのメッセージが含まれているとしても。
現在中年以上の大人であれば、街ですれ違う病者や障害者を「じろじろ見ちゃだめよ、可哀相でしょ」とたしなめられた記憶のひとつやふたつあるのではないか。乙武洋匡氏を引き合いに出すのは失礼と承知しているが、氏のような快活さをいまだに受け入れられない大人はいる。
それと同じように、被災地に救援物資と称してぼろが届く。「伊達直人」氏によって児童養護施設にランドセルが届いたのをきっかけに始まった伊達直人ブームも、しばらくすると最初の伊達氏の志とは随分違ったものになってしまったような印象だ。
しかしそれを差別だと大っぴらに言うことは憚られる。なんといっても善意だから、悪気はないのに、それを責めるのか、ひどい。
翻って、在日朝鮮民族・韓民族に対する差別があからさまに起き続けるのは、彼等がこの不文律を共有しない、憐れみに対して首を垂れないからではないのか。いうまでもなく不文律とは心の中にしか存在しない。印象と同じようなものだ。
そのような一連の意識を反映するものとして、原発関連の報道が、少なくなった、印象だ。
憐れまれる側にまわった者に供給されるべき「深刻さ」の座興などないということだろう。
最後に、東氏が18日未明に書いたもうひとつのtweetを引用しておく。
このような表現を使うと不謹慎と怒る人もいるかもしれない。しかし、ぼくたちはこの未曾有の災害を「好機」として捉えなければならない。バブル以降の20 年間の停滞に終止符を打ち、麻痺から脱し、日本をまともな国に戻すための最後の好機として。この好機を生かせなければ日本は本当に終わる。
さて、タイトルで「議院内閣制」「二院制」「二大政党」と並べられていますが、これはそれぞれ制度として次元が違う話です。また「この3つの制度を組み合わせて使った方が良い」とかいう根拠は政治学的には特段存在しません。例えば、「強い大統領制-二院制-二大政党」のアメリカ、「議院内閣制-一院制-二大政党」の現在のスウェーデン、「議院内閣制-二院制-多党連立」のイタリア、といったように各制度とも、様々に他の制度との組み合わせが存在します。もちろん英国のように「議院内閣制-二院制-二大政党制」でやっている国もありますが、これが特別にメジャーな組み合わせというわけではありません。
そしてこの3つの次元の違う制度の中でも、「二大政党」は他の2つとレイヤの隔たりが大きいです。「議院内閣制&二院制」と違って「二大政党」は時に「二大政党制」などという風に「制度」として扱われますが、厳密に解釈すれば「制度」として(すなわち法的な根拠を以て)「二大政党であるべき」と定められているものではないからです。「二大政党」というのは「結果としてそうなってる」という状態を指していっているものですので、本来的には制度ではありません。それでも「二大政党制」という言い方が(政治学においても)許容されるのは、二大政党の国の大半は、小選挙区制度等で「二大政党になるよう誘導している」実態があるからです。直接的には「二大政党制度」という法的規定が無くとも「立法精神において二大政党を期待・想定している」と言えることが多い、という程度の根拠なのです。
日本の政治制度も、もちろんこの区別の原則から外れるものではありません。「議院内閣制&二院制」は「日本国憲法」という最高法規で規定されている制度of制度な代物ですが、自民、民主の「二大政党制」になったのは、あくまで「選挙制度(及び政党助成金等の法規定)を大政党に有利な制度としたこと」「大政党有利な選挙制度をひっくり返す程の大きな民意の動きはなかったこと」の結果でしかありません。
長々と前置きしましたが、「議院内閣制」「二院制」といったレベルの狭義の『制度』と、「二大政党」のような実際的な『政党のありよう』は、政治制度論的には全く別レベルの話だ、ということです。
以下、本題。
●他の国のように二大政党制に~
良く聞く言説ですが、これは「間違い」に近い話です。日本では米英の政治が有名なため、あたかも二大政党制が欧米の標準的な制度のような印象がありますが、政党結社の自由が保障されてる国に限っても、二大政党になっている国はむしろ少数派です。しかもその過半を英連邦またはその流れを引く国家で占めています。二大政党は「民主主義国の標準的な制度」ではなく「アングロサクソン系国家での標準的な制度」です。
更に言えば大国で単独政権が普通な国は英米と昭和日本、サイズを広げてギリシャくらいで、二大政党制の国でも連立政権の方が普通です。英米の政党のあり方はかなり特殊で、英米それぞれに、特有の固有事情によって成立している面が大きいのです。
●一党優位用の仕組みを二大政党時代に利用しているのが問題だと~
日本の政治制度は、憲法で規定されているような大枠の部分では、別に一党優位を想定した仕組みではありません。日本の政治制度を大枠で分類すると、「立憲君主国-議院内閣制-(民選第二院型の)二院制」と言うことになりますが、これは結社の自由が保障されている民主主義国家では比較的ありふれた組み合わせです。天皇制を維持することを前提とした上では最も無難な標準パターンと言えるでしょう。このありふれたタイプの政治制度の国での政党のありようは、分極多党制、穏健多党制、二大政党制、一党優位制(例は戦後日本とマレーシアぐらいしか思いつきませんが)など様々です。従って、この「大枠」の部分について「一党優位用の仕組みである」とするのは無理があるでしょう。
そもそも日本国憲法には「一党優位」どころか「政党」に関する規定そのものがありません。日本には戦前から政党政治の伝統があったにも関わらず「国会運用の主体は別に政党である必要はないよ」というのが日本国憲法の立場なのです。
●何かシステム的に抜けているところがあるのでしょうか。
「大枠」が特に関係無いならば「細部」で抜けている可能性が高いでしょう。二大政党制が定着している米英の日本との違いを挙げてみます。
強い大統領制(首相がいない)を採っていて、議会と大統領が別個に選ばれるアメリカでは「大統領-議会」及び「上院-下院」のねじれが日常茶飯事です。どちらでもねじれが生じていなかった期間の方が短いくらいのはずです。それでもアメリカの政治が何とかなっているのは(実は「レームダック現象」のように結構止まってるのですが)、「大統領権限の強さ」及び「習慣的に党議拘束が無い」ことが挙げられます。実は日本の首相も法制度上は非常に権限は強いので(後述)、違いとして大きいのは「習慣」でしかない党議拘束の面です。アメリカ議会においても党の決議というものはありますが、党の決定に反した投票を行っても除名されるというようなことは滅多にありません。従って、大統領が少数派政党所属でも野党の一部を引き抜いて政府法案がとおってしまうことが良くあります。もちろん一部と言えども説得するためには、法案の修正などを余儀なくされることも多いですが、「0か100か」ではなく話し合いで妥協案が作りやすいということです。野党の中核が認めてくれる(かつ与党が我慢できる)ような修正は困難ですが、野党の一部を納得させるだけなら説得でなんとかなることが多い、という感じです。「与党40、野党60、このままじゃ法案通らないので、修正して野党から20人賛成に取り込み。修正を批判して与党から8人離反したけど可決」なんてことを日常的にやっているのが米議会です。
当然ながらアメリカでも日本でも「党議拘束をどうするか」というのは政党内部での独自の取り決めであって、法律で規制しているものではありません。
イギリスではそもそも「ねじれ」は問題になりません。第二院が「貴族院型第二院」であり、貴族院型の通例として非常に権限が弱いからです。貴族院が否決しても庶院が可決していれば、再議決等もなく法案は成立します。
ただ、この両院の権限については「細部」というより「大枠」に近い部分です。日本でも衆議院の優越具合は憲法上で定められています。ちなみに「日本の参院は強すぎる」とよく言われますが、政治制度論的にはこれは怪しい話です。確かに「貴族院型第二院」の場合は第二院の権限が非常に弱い(しばしばイギリスのように形式的存在)場合が多いのですが、日本のような「民選型第二院」や「連邦型第二院」の国では「ちょっとだけ第一院が強い」というのが標準で、日本の参院の権限は(どちらかと言えば強い方には入りますが)「第一院がちょっとだけ強い」の範疇に収まる話です。
●(なぜ)ねじれた時点で機能不全になる仕組みがまかりとおっているのでしょうか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E9%99%A2%E5%88%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%99%A2%E5%88%B6
あたりをご参考に。
もちろん二院制には欠点も多いのですが、実は世界の主流は二院制です。一院制をとっている国は「軍事政権or一党独裁時代の歴史的な経緯を引き継いでいる国」もしくは「人口数百万以下の小国」が大半です。
確かに二院制は本質的にねじれ可能性を内包しています。にも関わらず二院制が主流だということは、多くの国が「ねじれ」を始めとする二院制のデメリットよりもチェック&バランスのようなメリットの方が大きいと判断している、ということです。
制度論としての正面からの回答としては「なぜ両院の与野党構成がねじれた程度で簡単に機能不全になるんだ?ねじれ議会なんて良くある事じゃないか?」という話になります。
実は(二院制とは別の側面ですが)日本の採っている議院内閣制は、行政府の安定性が最も高い制度になります。強い大統領制や、大統領と首相が行政権を分け合う半大統領制は、議会勢力と行政府の代表が独立した選挙で選ばれますので、制度の本質として行政府と議会の一致を担保していないため(両院間の対立ではありませんが)、行政府と議会の対立は議院内閣制より遥かに起きやすいのです。フランスのコアビタシオン時代にせよ、アメリカ大統領の任期後半(たいてい議会が野党多数です)にせよ、ひどい政治停滞にはなっていないわけで、普通はねじれても何とかなるよ、というのが民主主義国一般での実績なのです。
●それとも二大政党制の作法を政党も国民もマスコミも知らないのが問題なんでしょうか.
そもそも二大政党制と「ねじれ」とは直接的な関係はありません。
議院内閣制の日本では「ねじれ」が「両院対立」として現れましたが、「ねじれ」の問題点の根本は「行政と議会の対立」なわけです。この対立は「一党が圧倒的に優位で行政も議会も常に押さえている」という(自由主義的民主国家としてはかなりレアな)状況でない限り、しばしば起こる方が普通な訳です。
「作法を知らない」とするなら「二大政党制の作法」ではなく「議会制民主主義の作法」というべきでしょう。そもそも英米以外の大国はほぼ常に連立政権ですので、どの政党も最終的に何らかの妥協すること無しには政策が実現しないため、閣内/閣外双方の政党間での政策のすりあわせや、政権交代/政権与党組替時の継続性、について不文律が確立しているケースが多いです。
「日本の政治制度は大枠としてはごく標準的なもの。それが上手く行かないなら、制度大枠に起因する本質的な欠陥ではなく、日本特有の事情による欠陥と考えた方が良い」
ということになると思います。(その特有の事情って何だ?という話は政治制度論の範疇を超えますので、ここでは省略させてください)
もし「ねじれ」のような問題を解消するなら、制度論から言っての解決策自体はいくつもあって、例えば
・狭義の「制度」面からの解消→イギリス流に実質的一院制にしてしまう。
(自由主義的民主国家において最も行政府が強力となる政治制度は大統領制ではありません。議院内閣制&一院制の組み合わせになります)
・運用面による解消→アメリカ流に各党が党議拘束を外し、個別の議論で成否を競う。
の2つの方法なんかは、二大政党との相性に100年以上の実績があります。日本の国会の「ねじれ」については制度の大枠の問題、運用面での政治行動の実態の問題、の双方が重なったゆえに生じているので、どちらか片方の解消だけで解決するはず、という考え方ですね。
最も前者は憲法改正が必要な点で、後者は政党の内部規定という法律で縛りにくいものである点で、実現可能性が非常に厳しいのですが。
http://d.hatena.ne.jp/ever_neet/20110113/1294916683
国連の調査員いわく「日本の差別問題は根が深い」「役人たちはこの問題の大きさを認識していない」のだそうである。
穏やかじゃないですなと読み進めると、"日本の差別は、日本人の見えない輪をつくり、そこに「違う者」が入ろうとする「忙しい」などの建前を使い静かに拒絶すること"であり、"悪意はなく、酷い差別を受けることも無いが、友好的な人からも小さな差別を沢山受ける"ことであると。
欧米の某国に長く住んでいる人間として言わせてもらうなら、これを人種差別ととらえることこそ、問題の本質を理解していない。このような仲間/よそ者の区別はどの国にも存在し、それをレイシズムと定義している国をほかに知らない。そして、このマイルドな「差別」を一概に悪いことであると定義してしまうべきでもない。
たとえば、自分が昔ロンドンの会社で働いていたとき、外国人(非英国人)向けの「イギリスでの生活になじむための講習」のようなものを受けさせられたことがある。そこで最初に言われたのが、「イギリス人の友達が出来なくても心配しないように」ということ。実際その通りだった。ホームパーティーに誘われることは何度もあったが、例外なく外国人から。外国人の同僚に尋ねても、一様に同じ感想を漏らしていたし、イギリス人の同僚もその傾向があることは認めていたから、講師が言ったことはある程度一般化可能な事実だったのだろう。ちなみに、ロンドンは移民の人口が3割を超える多民族都市だ。
ニューヨークですら、事情は大して変わらない。アメリカ人は「イギリス人とそれ以外」のような分け方はしないが、「アメリカ的な振る舞い」をしない人間に対しては厳しい。そして、それは当然不文律であって、社会人になってからでは学ぶ機会が無いし、そもそも不文律自体が場所とコミュニティで異なる。個人的には、イギリスに比べればだいぶやりやすいとは思うけれど。
どちらも、上で紹介したブログが書くところの「静かな拒絶」の一例だ。それは確かに広義の差別になるのかも知れない。しかし、このような「差別」をしなければ、人種差別は確実に激化する。世の中には生き方の違う人間というのが確実に存在するのであって、そういう人たちを遠ざけたり遠ざかったりして無用な摩擦を避けるのは、ごく一般的な生活の知恵だ。この棲み分けが機能していない社会では、大抵人種差別が起こる。生き方も考え方も違う人間が密接に関わりあえば、当然不愉快な経験もする(ルームメイトがウンコのついた左手で蛇口をひねり、そのまま蛇口を洗い忘れて出て行った、とか。どこの国の人かは敢えて書かない)。そういう「不快な経験の積み重ね」が人種差別を拡大させる。こういう差別は理屈ではないので、より根深く残る。
こういうことを書くと「異文化を真っ向から乗り越えてこそ真の理解があり、人種差別の解消はそこを目指すべき」みたいな幸せなことを言い出す人達がいるが、そういう人間に限って「異文化を真っ向から乗り越える」経験をしていない。それがどれだけの時間と忍耐を要求するかを理解していない。この世の中には異文化摩擦を乗り越えることに生活をささげられるほど暇な人はほとんどいないのだ。人種差別反対、あらゆる差別に反対、と叫んで悦に入るのは気持ちいいのだろうが、もう少し現実を見ろと言いたい。
人種差別には反対だが、それを抑制するために、少なくともそれによる不利益を抑制するために、受け入れたほうが良い差別はある。受け入れ側の日本人が「外国人をもっと平等に扱おう」と考えるその心根は善い。だが、それこそが日本人の人種差別に火をつける可能性は考慮すべきだ。目をきらきらさせて非現実的な理想を語る前に、カエサルの言葉をかみ締めよう。
「どんなに悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によるものであった」
そもそも、同人にせよ痛車とやらにせよ、許可をしていない限り、合法違法で言うなら、間違いなく違法。
でも、著作権者は、悪質じゃなければ見逃してくれる構造になっている。著作権者に迷惑がかからないように羽目を外さず細々とやってれば、いちいち刑事告訴したり民事で損害賠償なんかしない不文律がでてきる訳。
それで満足すればいいのに、馬鹿なオタクが欲張って明確に合法だと言い張ろうと必死に自己主張してるけど、そんなの墓穴を掘ってるだけ。目立たないから見て見ぬふりできていた話を、余計な議論をしてわざわざ日の当たる場所に引っ張り出してどうするんだよ。白黒付けないからお互いにとって良い落としどころになっていたのに、白黒付けたら黒だとハッキリするだけだろうに。
合法と違法の線引きにしても、はっきり線を引いたら、確実に利用者側にとって今より不利なところに線が引かれるだけ。はっきり線を引いてしまえば利用者側はその線の内側なら好き勝手できると自分の都合だけ考えて夢見てるのかもしれないけど、それは裏を返せば利用者が好き勝手した責任を権利者側が負わされるということでもある。その結果、権利者側は自己防衛のために、好き勝手されても自分に被害が及ばないようなところに線を引かざるを得なくなる。つまり、今より締め付けが厳しくなるだけ。
もうちょっと大人になって、白黒付けないことのありがたみをちゃんと認識しようぜ?
国際河川の開発の中で,昔から一つの不文律がある。経済が発達した国から水資源開発の優先権を与えて行こうと言う考え方である。例えば,1980年代から1990年代にかけて,インドシナ半島の中でタイの経済発展が突出した。カンボディアはポルポト政権の後で,まだ政治各派が争っていたし,ベトナムはカンボディア侵攻で世界の経済制裁を受けていた,ラオスは完全にタイ経済の中に組み込まれていた。
勿論中国は,天安門事件などが起きて,まだ海外進出を考えるどころか,内政に腐心していた。このような情勢の中で,タイは着々と自国領域内,国際河川であるメコン河の左岸支流,チ川,ムン川の開発を進めていた。1992年を境目に,カンボディアが和平復帰,ベトナムへの制裁解除,と進んで,メコン河の水の使い方で,メコン委員会の場でメコン河の開発に於ける原則論が議論され,一つのルールが確立された。
このときに一つの議論になったポイントは,インドシナ半島が混乱している中で既に灌漑など,メコンの水を取り込んでいるタイの施設がどう扱われるべきか,と言う問題である。タイの当時の既開発は,メコン河支流にダムを造って灌漑に導水したものであるから,灌漑後にメコン河へ返される可能性もあるが,殆どは灌漑として消費されてしまう水で,下流国としては本来容認できない問題である。
このタイの既得権は,新しいメコン河委員会が組織されたときに,ベトナム,カンボディア,ラオスの沿岸諸国の代表によって,追認,承認された形をとった。当時は,タイと他の三国との間に余りにも大きな経済の実力差があったから,このような追認が出来たわけである。今,もっと激しい議論の渦中に合うのが,カシミールを中心としたパキスタンとインドの水争いである。
メコン河のケースと違うのは,パキスタンとインドの間で,水資源開発能力に,メコン河の場合ほどは,格差がないと言うことである。それでも,1960年代に結ばれたインダス河水条約の中には,先に開発した方が水利権に優先権を主張することが出来ると書かれている。インダス河上流のニールム川は,下流はアザドカシミールのパキスタン実効支配地域,上流はジャムカシミールでインドの実効支配地域である。
インドは,上流で348MWのキシャンガンガ水力を建設中で,水は分水されてガンジス河流域に転流される。また下流のパキスタン領内では,969MWのニールム-ジェルム水力が既に着工している。インドは上流なので黙々と工事を進めているが,下流のパキスタンは機会ある毎に,インドの暴挙を非難して国際社会に訴えている。場合によっては国際調停の場に出て行く覚悟もしている。
パキスタンは,幾らインドに抗議しても,インドは物も言わずにただ黙々と上流プロジェクトを進めている。ここでパキスタンも悟ったようだ,実際に開発が先だ,と言うわけである。先に運転状態に入ると,上流のダムの優先権を否定出来る,というわけである。50kmに及ぶパキスタンのプロジェクトの導水路トンネルが工期を左右している,ここにトンネルマシンを導入して工期を2年間短縮し,インドを追い越そうと言う。
最近おもしろい傾向がある。インターネットに明るい者ほどインターネットの問題点を認識し、逆に初心者や盲目的信仰者ほどインターネットのすばらしさを謳歌する。
それがもっとも顕著にあらわれているのが、言わずと知れた匿名掲示板2chである。開設当初は不文律というものも出来ておらず、確かに問題点は多々あった。だが、現在ほどひどい状況ではない。なぜならば、当時の主なユーザー層は非常に限定されており、時代背景を考えても比較的専門性の高い知識をもった者のみ書き込むことが出来たからだ。
最近wikipediaを読んで知ったが、2ch創設者のひろゆき氏は2009年にこういった言葉を残したらしい。
00年代前半期には、偏差値とインターネット利用者が比例する構図があったが、PCが安価になり始めた00年代中期頃から、一部の議論好きな人間を除いて馬鹿ばかりになってしまった。
この一文は長年ネット文化に言及している人物らしい、的確な指摘が簡潔になされている。
また、今から10年前にプログラマー兼ライターである掌田津耶乃氏はこのようなコラムを書いたようだ。
「2チャンネル」という最低最悪のサイトがある。(中略) 面白いのは、彼らの多くが「自分は知性があって偉いやつなのだ」と思い込んでいるらしいこと。よくコンピュータ関係で見かけるのだけど、「知識がある」のを「知性がある」と勘違いし、「自分はすぐれている」と錯覚してしまう人は多い。知性は知識+人間性であることに気づかないのだろう。本当に知性ある人は、匿名で他人の悪口をいって喜んだりはしない。
この二人の発言を参考に、現在の2chユーザーを分析すると、質の低い人物がネットで得た知識を自らの知性と勘違いし、高圧的な書き込み繰り返している、ということになる。
これではまだ少々抽象的すぎるので具体例を出したいが、そのもっともわかりやすい例が、ニュース速報板と呼ばれる、話題をニュースに限定された2ch内の板であろう。こちらでは、一人が自分の立てたスレッドに外部ニュースサイトよりコピーした記事を貼り付け、それに対して複数のユーザーがコメントを書き込む、というのが基本的な流れである。
その場合、書き込まれるコメントというのは9割以上が批判文である。
一見、この行為自体には問題がないようにみえる。テレビの前でお父さんがニュース番組に対してブツブツと文句を言っているような微笑ましい光景である。
けれど、そこには知性というものが存在しない。
現在、このニュース速報板の大半が10代、大学生、ニート、フリーターのユーザーで占められていることは書き込まれる時間帯や内容から疑いの余地がない。例外を認めながらも、社会経験や学力の低い者たちが多い。
確かにネットによって多くの有用な知識を得ることができる。社会的地位を得る人はこれらをうまく活用している。だが、ニュース速報板のなかで無意識的にもっとも発言力が高いとされるのが、暇をもてあまし数々のスレッドにより得た雑学やネタを多く理解している者の書き込みである。
その彼らがあらゆる記事に対して斜は構えた発言をし、それを見た同様のユーザーが煽動され同様の発言を繰り返しているのだから始末に負えない。
なぜそういった発言をするのかと言えば、それは彼ら自身が優れていると錯覚しているからに過ぎない。彼らはネットの可能性を信じ、ネットこそが真実であり、ネットを自由に使いこなす自分こそが正しいと思い込んでいるのだ。斜に構えた発言をした方が、玄人っぽくみえる……というのはいったいどこの小学校の文化であろうか。これに該当する人物はもちろん全力で否定するのだろうが。
他にもこの板では二つの類似した物どうしを戦わせるという不毛な争いが“議論”という名の下で真剣に行われている。その代表格といえば、「ゲームハード×ゲームハード」「新OS×旧OS」「サッカー×野球」「文系×理系」だろうか。端から見れば、脱力するくらい低レベルな諍いであるが、これにいい大人が熱中しているというのだから感心する。
また、同様にこういった争いがある。「右翼×左翼」「信者×アンチ」。これは想像力もしくは知能の低い人物が二つの事柄までしか処理できないために起こる。どのような事象にも世界には二通りの立ち位置しか存在しないと決めつけているから、架空の敵を作り出し、特に敵対意識がなかったにもかかわらず、口角泡を飛ばしながら叩き出す。
2ch文化にあまりなじみのない人には実感が湧かないかもしれないが、実は日常的に行われている議論の9割がコレなのである。知らない人は知らないままの方がいい。怖いもので、人は幼稚な環境に身を置くと途端に幼児退行するものなのだから。
たとえ知性の感じられない議論や独自文化であろうと、限られた空間内で楽しんでいる分には私としても文句をつける気はない。けれど、暇人によって書き込まれたスレッドが暇人の運営するブログにコピーペーストされ、多くのネットユーザーに影響を与えているのはいささか看過できない。メディアリテラシーが不十分な人にとっては「2chの意見→多くの人の意見→世間の一般認識」という図式が当然のように成り立つ場合があるからだ。
もちろんこれは2chユーザーの責任ではない。彼らは時間と勘違いによる優越感をもてあまして似非批評家気分に浸っているだけなのだ。その彼らを責めるのはお門違いも甚だしい。
しかし、そういったブログがアクセス数で日本国内トップを独占している事実は、日本のネットユーザーの知的レベルが諸外国と比べて明らかに劣っていると識者に多く指摘されることと無関係ではないだろう。
発言の自由が保障されている日本で、たとえ一般人にまで悪影響を与えるブログだからと言って閉鎖させることはできない。かといって、国民全員にメディアリテラシーを期待するのも不可能だ。
今後、情報化社会はますます加速する。人々の暮らしが便利になっていくなか、有害な情報とどうやって付き合っていくかが当面の課題となってくる。問題提起のみにとどめる無責任な文章で恐縮だが、高度に発達した情報技術のなかで社会システムはどのように機能していくのか見守っていきたい。
http://anond.hatelabo.jp/20100202103159
Twitterでは他人の発言の「受け手」側としての能力を求められることはわかった。
だが、書き手としては2ちゃんよりひどいやついると思うのだが。
自分が2ちゃんもTwitterもあんまり使ってないのでわからんが、
田村ゆかりの話とか相当ひどいと思ったぞ。2ちゃんはアレよりひどいのか?
コテハンでも自重しない奴がいるのと同じで、結局現実とリンクしてない奴はその気になれば逃げられるわけだから好き勝手書くよな。
まぁこういう底辺の奴は存在自体抹消される、底辺の奴は存在自体許されない、というのがTwitterのいいところだってのならわかる。
まあ、確かにそこらへん言いたい部分はある。事実エロ漫画でも出版社の規定とオーサリングの際の規定とで齟齬があるみたいで、重要な部分がカットされていたりとかままある。
それはそれで、デバイスに依ってしまった不文律ではあるんだけど逆に紙にもそういう不文律はあるわけじゃよ。どちらがいいと悪いとではなく、漫画/小説の本質は紙に依らないはずで、デバイス依存の作品もあっていいけどそれはいづれ廃れる存在じゃん。鳥獣戯画の本質は背景のセピア色ではなくウサギとカエルさんだろう?
そこを捨ておいて「紙じゃないと駄目ー!」っていうのはただの我儘でしかないと思うんさね。
お前が見ているものはしょせんインクの染みだよ? そんなの崇めてどうするのさ。
今回の件では@k_taimaniaさんや@manameさんに批判が集中する結果になったが、
彼らを叩いてるうちのどれだけが携帯業界に関するネットの不文律を知っていたか大変疑問です。
普段から2chの携帯関連のスレやTwitter、@k_taimania氏や@shoinoue氏などの携帯アーリーアダプターの方々のブログでは、
「auはどれだけ叩いてもいい」「auユーザーはそれを真摯に受け止めて謝罪する」といったお約束があるわけです。
@k_taimania氏はおそらく、そのお約束に乗ってあのような批判をされたのでしょうが、
結果的にそれが「空気を読めない」「お約束を知らない」「ネット文化を理解する気がない」
大量のイナゴユーザーによって炎上の憂き目にあったのは大変遺憾です。
そもそもauがtwitterに参入したと言うだけでバッシングは当然なんです。
twitterというのは外出先ならiPhoneでつぶやくのが当然、許せてHT-03Aなのに、
ガラパゴス携帯しか出していない(WM端末は出していますがMSの時点で問題外)auがdocomoやソフトバンクに先行して
twitterのアカウントを解説するのは何様のつもりなんでしょうか?
(モバツイというサービスや公式の携帯ページもあるようですが、アレは縛りの都合でiPhoneに機種変できない人々が
「つなぎ」で利用する物ですし、携帯関連のつぶやきのアカウントがmovatwitterなら失笑されるのも常識です)
そういう前提知識のある側からしますと、今回の、逆に@k_taimania氏が鍵モードに入られるという結果は残念でありますし、
いよいよtwitterも衆愚化が進行し、住みにくくなってている事の証明でもありやりきれない思いで一杯です。
このままでは終われない、という思いの方は大勢いらっしゃるでしょうので、明日の発表会は
そりゃもう社会の木鐸じゃなくなってるよ。
確かに公器としては、マスコミも「チェンジ」なるものをポジティブにとらえたほうがいいだろうが、
日本国民がまずそういうことを思ってない。
なぜならもう民主党は権力になったから。「反権力でなければ非国民」という不文律を破れない。
それでもあえて、一種のプロパガンダとしてマスコミが期待感を煽るのなら、
とにかく(民主党とか関係なく)頭が変わったんだからいい機会だと思って愚痴はやめて、
自分たちの生活を立て直そうという意欲が国民に無いのが問題だってのは大いに同意するけどね。
日本人は脅威に対してじゃないと頑張らないから。
ていうかさ、その「理想」を阻む存在としてのレイパーとかセカンドレイパーをあげてるけどさ、これって対処しなければならない優先順位としては低くね?
いや、低いどころか国の責任の範囲外にさえあるようにさえ思う。
トラバのトラバがあげてるように、確かに「気に入った男にだけ気軽に股を開く」自由はあって、それが侵害されている後進国とかがたくさんある。
でもその侵害って「法律」とか宗教上の「戒律」とかでしょ。これを撤廃しなければならない、そして新しい法律によってくだんの自由を保障しなければならない。
ここまでが国のできることで、日本はすでにそれをやっている。つまり法律上の自由はあるわけだ。ところがレイパー等によってそれが侵害されている。法律の理念が結果的に達成されていない。ここまではわかる。
でもそこから先のことって国が、つまり法律が介入できることか?
例えば、結婚してる男が風俗へ行ってプレイしてくる自由はあるわけだ。それを奥さんが怒った。怒る奥さんは(犯罪ではないけど)旦那の自由を侵害してるよな。
で、そこから先、法律は旦那の自由を保障するどころか、奥さん側に莫大な慰謝料を獲得させて離婚させるわけだ。
つまり、法律が保障できる自由って言うのは、あくまで「規則で縛ったりしない」レベルであって、そこから先に障害が生じて、法律の当初の目的=自由が達成されなくても、関与できないということになると思う。
いや、元々の話が「国はなんとかしろ」という話じゃないのはわかってるんだ。そうじゃなくて、『自由が達成されてないのはおかしい』という価値観が共有されてないのはおかしい」という文意だったんだろう。あくまでそのおかしさに共感して欲しかっただけで、実際にどうにかできるとまでは考えていないんだろうと思う。
しかし問題は、その倫理的根拠として「人権」を出してきたところなんだよな。これを出しちゃうとどうしても法律の話を避けて通れなくなる。
というか、法律のないところにおそらく人権は存在しない。その法律が原始的な「不文律」であっても。