はてなキーワード: 下宿とは
自立って訳じゃないwww
自分の部屋にこもって、オンラインゲームばかりしていたから、下宿の人がいなくなるくらいに感じるんだろうなぁと思ってたんだwwww
メシも呼ばねえとこないし!w
俺、奥さん大好きなの。
だからさ「また新婚みたいだね(ハート)」みたいな、ちょっと楽しさもあったんよ!www
でもさ……がらんとした部屋は、意外と寂しいもんだね。
オンラインゲームをしていた時のうるさい声も、ないならないで静かすぎるな。
せっかくノンキャンのヘッドホンを買ったのに使わなくなるじゃねえか。
____
◯◯さんへ
あなたが成長し、独立するこの日を迎えることができたことを、私たち両親はとても誇りに思います。
あなたと過ごした18年。
数々の瞬間、一緒に過ごした時間はーーあなたが覚えていないことまでーーお父さんとお母さんの心に刻まれています。
私たちは◯◯さんの成長と進歩を見守ることができたことに感謝しています。また、新たな旅路が今始まることに喜びを感じています。
人生は時に困難だったり面倒だったりするクエストに満ちています。
しかし、ビデオゲームが好きなあなたは、数々のクエスト報酬が◯◯さんをより強く、より賢くするための経験になることをよく知っていることでしょう。
今回とりあえず、初回のエンディングを迎えました。
そして、ここからが本番で、自分の足で立ち、自分の道を歩む、素晴らしい冒険の始まりです。
とにかく無理をせずに、自分を大切にしてください。
自分の大切な友達を労ったり励ますように、自分自身を労ってください。
最近の研究では、自分を大切に出来る人の方が、他人に優しく出来ることがよく知られています。
また、自分を大切にするためにいろいろな人を頼ってください。
自立とは「依存先を増やしていくこと」(熊谷晋一郎:脳性麻痺の小児科医)だそうです。
あと、困ったことがあったら、些細なことでも、いつでも両親のサポートが◯◯さんのそばにあることを覚えていてください。
新しい経験を積み重ねながら、自分自身を見つける旅を楽しんでください。
とにかく、あなたが穏やかで、平穏で、無事で、幸福でありますように。
____
わい20年前くらいにいった地方の、高速出口から一番最初にみつかった(といっても10キロくらい走った)ラブホが、
もう記憶から消し去ったけどだいたいこんなかんじだったとおもう。
これだけヒドいともしかして当時でも下品とされてた回るベッドだの大人のおもちゃなどあるんじゃないかとか、ものすごい疑念が湧いたけど、
部屋の間接照明をドピンクにしただけの貧乏下宿みたいな感じ。風呂とかいうレベルじゃねえし布団も不潔だし服着たまま寝るだけしかできねえよっていう。
ちなみに初めていった地元(もど田舎)のラブホテル、あれってすごくちゃんとしてたんだ……という発見もした。
ほんで、このレベルでホテルとしてまだ喰っていけてるということは
で、「せっかく初恋がみのってセックスできるようになって二人で探した一番ちかいラブホがこれだった」田舎のカップルの気分になって泣きそうになったわ
漫画だから表現やわらげたのかもともとそんなひどい宿に主人公たちをとめるわけがないのか、
ちゃんとしてたな……
えたいの知れない不吉な塊が私の腹を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――飯を食ったあとに宿酔があるように、飯を毎日食っていると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した裂肛や神経衰弱がいけないのではない。また胃を焼くような粗餐などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は厠から厠を浮浪し続けていた。
(中略)
ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿の雪隠を転々として暮らしていたのだが――不浄が大壺へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取り残された。私はまたそこから彷徨い出なければならなかった。何かが私を追いたてる。そして厠から厠へ、先に言ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ち留まったり、乾物屋の乾蝦や棒鱈や湯葉を眺めたり、とうとう私は二条の方へ寺町を下り、そこの果物屋で足を留めた。ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな厠であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の香しさが最も露骨に感ぜられた。(中略)
その日私はいつになくその店で弄便をした。というのはその店で麗しい”檸檬”が出たのだ。(中略)いったい私はあの”檸檬”が好きだ。オリーブブラウンの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。――結局私はそれを一つかみだけ拾うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の腹を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。(中略)
私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅いでみた。それの産地だというインテスティンが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲つ」という言葉が断れぎれに浮かんで来る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。……
実際あんな単純な温覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。
私はもう往来を軽やかな昂奮に弾んで、一種誇りかな気持さえ感じながら、美的装束をして街をした詩人のことなど思い浮かべては歩いていた。汚れた手拭の上へ載せてみたりマントの上へあてがってみたりして色の反映を量ったり、またこんなことを思ったり、
その重さこそ常づね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての旨いものすべての美味しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。
どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。
「今日は一つ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。
しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。
(中略)
「あ、そうだそうだ」その時私は腹の中の”檸檬”を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この”檸檬”で試してみたら。「そうだ」
私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な樋箱が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その樋箱の底に恐る恐る”檸檬”を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
見下ろすと、その”檸檬”の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、プーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その”檸檬”の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
――それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出る。――
私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄土色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
増田の経歴と研究分野はしらんけど、万が一増田に失礼なことを言ってたらごめんよ。
理系だとあまりお金のない家に生まれても国公立医学部や旧帝大に学部から進学してる野生の天才もいるから、実家の太くないアカデミシャンも多い。
あくまで私が見てきた限りだと、理系は頭のよさ一本で生きていきやすいから実家が貧乏でも上に行きやすい。
理系の才能があるならあまり教育課金しなくても公立高校から国公立に進学することも可能。
(余談だが、男尊女卑から女に機械を触らせない地域の貧乏な家庭に生まれたけど理系の才能がある女子もいる。
東工大女子枠は東京の男並みに教育課金された凡才女子ではなく、地方に取り残された英才女子を吸い上げるべき。)
実家は学問に興味がないし太くもないが、学問の才能を見抜いた先生からの応援を受けて、旧帝大の理系学部や実学系文系学部に進学した地方民は案外いる。
農家のように実学系の学部にしか進学させる気のない親でも、理系学部だと進学させてくれる。
ただ、本当に親が貧乏なら研究能力が高くてもせいぜい修士で普通に就職するケースも多い。
文系のアカデミシャンなら実家が普通以上にお金を持ってる率も高い。
あくまで私が見てきた限りだと、有名大学の法学部(法経)の学生は親から多額の教育課金を受けてきた確率、私立中学に行ってた確率が高い。
好きや得意を追及するハイ・ソサエティであっても、サラリーマン家庭の受験勉強漬け人間であっても。
(余談だが、同じ教育課金を受けてきた人間でも受験以外の課金をほぼしていない場合、見た目やコミュ力、消費活動含むステータスにしか興味がなく、社会競争とはあまり関係ない知的文化の素養がほぼない人間になりやすい。
麻布競馬場自身からは文化的素養と教養を感じるが、作品からはこの手の文系私大生への蔑視を時々感じる。)
なお、文一だけはシンプルに頭のよい人が集結している印象で、教育課金の額などどうでもよくなってくる。別格。
実家の太さと研究といえば、遊んで暮らせる資産家のご子息ご令嬢がなんとなく博士課程に進学するケースもまあまあ見かける。特に旧帝大。
ふわふわした気持ちで博士課程に進学して思ったより研究成果がないならあっさり3年で中退して、しっかり就活もせず実家に引っ込むケースは文理ともにある。
ちゃんとバリバリ研究して博士号をとって研究者になる資産家のご子息ご令嬢もいるけどね。
ふわふわ資産家は一見地味で資産家であることを言わないが、よーく話を聞いたり行動を見てると、とんでもなく経済的に恵まれた家庭だとわかる。
25歳を超えてふわふわしてるし、バリバリ研究する訳でないのに進学するから、一般的な感性の学生から異常者扱いされている。
当然浮いてる上、研究もできるわけでないならラボ内いじめに会うこともしばしば。
あと、長男教か親からの特別扱いゆえ他の兄弟より多額のお金をつぎ込んでもらってるケースも複数見てる。
例えば他の兄弟は家から通える大学にしか行かせてもらえず就活して家にお金をいれてるのに、長男だけ下宿してポスドクになっても仕送りしてもらってるとかね。
弟は中学から特に理由なく引きこもってる、今もう21。こいつは家で何もしてないのに親にすごくつらく当たる。
父親が早起きしてテレビ見てたらそれに文句を言う。自分は10時に起きたのに。
理由はいつも食べている場所が空いていないかららしい。おそらく俺が実家に帰ってきたからいつも食べている場所がとられたからだと思う。
母さんが少し料理に失敗すると、それに文句を言う。自分は何も手伝わないのに。
どうして殴り返さないんだろう?どうして家から追い出さないんだろう?
高校生の時は、それが親の幸せだと思ってたけど、ほんとに幸せなんだろうか
一度子供を産んでしまったら、もうその子をはなしたくないんだろうか?
一緒にいるだけで幸せで、たまに暴言を吐かれても我慢できるんだろうか?
俺は親が結構好きだから、好きな人がひどいことを言われているのがどうしても許せないのだけど。
どうなんだろう、親の人が見てたらここら辺教えてほしい。
弟よ、消えてくれ。率直に言って〇ンでほしい。わかりにくい文章でごめんなさい
弟は中学から特に理由なく引きこもってる、今もう21。こいつは家で何もしてないのに親にすごくつらく当たる。
父親が早起きしてテレビ見てたらそれに文句を言う。自分は10時に起きたのに。
理由はいつも食べている場所が空いていないかららしい。おそらく俺が実家に帰ってきたからいつも食べている場所がとられたからだと思う。
母さんが少し料理に失敗すると、それに文句を言う。自分は何も手伝わないのに。
どうして殴り返さないんだろう?どうして家から追い出さないんだろう?
高校生の時は、それが親の幸せだと思ってたけど、ほんとに幸せなんだろうか
一度子供を産んでしまったら、もうその子をはなしたくないんだろうか?
一緒にいるだけで幸せで、たまに暴言を吐かれても我慢できるんだろうか?
俺は親が結構好きだから、好きな人がひどいことを言われているのがどうしても許せないのだけど。
どうなんだろう、親の人が見てたらここら辺教えてほしい。
弟よ、消えてくれ。率直に言って〇ンでほしい。わかりにくい文章でごめんなさい
反応ありがとう!なんかこんなに反応してもらえて、しかも結構真面目に返してくれてすげーうれしかった。
書き込み初心者なので分かりにくかったり、文章下手なとこ結構あったな、読んでくれたのにごめん。
できる限り質問に答えるよ~見てるかわかんないけど。
で、前提として書き忘れてるものが結構ありました、ごめん。下に書いときます。
①地方大学で下宿してるから基本みんな下宿先から大学まで自転車なんだよね。だからそいつが来る前まではみんなサークル終わったら自転車でパ~って帰ってた。
以下、質問(面倒見てもらえなかった部分)
→大体かかって5分ぐらいかな
学内では何で移動してるの?
→学内移動は基本自転車。そのぐらい広い。ただ問題の人物(ここからはAとする)が徒歩のせいで、Aに合わせて徒歩になってる感じかな。
自宅がどうたら
→これも書き方が悪かった、自宅から兼バス通学の人って言いたかった。わかりにくくてごめんよ…。
バス停の謎
→上にも書いたが、基本みんな自転車だから。そもそもバスを使わない。Aだけがバス停利用者。
サークル棟すぐ近くにバス停があるのに歩いて30分の方のバス停を使って帰宅するのは何故?
→ほんとにわかんない、Aに聞きたいんだけど聞いたら「お前そっち使って帰れよ」って言ってると思われないか不安で聞けてないんゴ…。
あと、4.元増田の人となりに係る手がかりについてちょっと読んでて面白かったから返信!
投稿時間見てもらいたいんだけど、その日結構サークルの作業が立て込んでて朝まで作業してたんよ。
で、やっと終わって、そっからいろいろ考えこんでこの記事書いたって感じなのね。だから文章もひどいことになっちゃってるのよ。ほんとに申し訳ない…。
あと、
少なくとも既に元増田よりは人気も人望も勝ち得ているのではないか? って部分について、
もしかしたらそうなのかもしれない。全部俺目線の話だから、そう考えるのもしょうがないし、あり得るかもしれない。
でも、これも後出しになって申し訳ないんだけど、実は一回別の友達が、Aに近くのバス停で帰るようにお願いしてるのよね。歩く時間がかかりすぎるから。でもなぜかまた一緒に帰ることになってるけど…。その友達は諦めたみたいだけど…。
だから、一緒に帰りたいって考えてる人は多分あんまりいないと思う、あくまで俺目線だけど…。そもそもAと一緒に帰る人が少ないのもある(方向が違うとかでね)。
それと、Aは結構イベントごとハブられてるよ。まあ遅れて入ってきたから、最初からいる人たちだけのグループとかもあるからだろうけど。
あと、「にも拘らず時間の浪費についてこれだけ居丈高で攻撃的と言うことは自己客観視がかなり苦手な人物。」ってあるけど、普通はこんな攻撃的ちゃうわ!!!いろいろ我慢して愚痴でここにかいてんねん!そら口悪なるやろ!
話が面白いのは絶対にない。これだけは言える。少なくともそいつの話で周りが爆笑してるのを見たことがない。たいてい滑ってる。でも不快にはならないからいいかなって感じ。
あと、大学に相談しろってことだけど、一回したんよね。した結果、言われたのは話し合ってみてって言葉だった。
当人もうっすら自己や他人の「普通」が気になる、何らかの自覚の萌芽ぐらいは持ってたと見るべきなのかもしれない。
これそうで、ほんとに最近Aについて悩みすぎて頭おかしくなりそうなんよ。この下校時間を苦痛に思う自分が普通なのか、はたまた普通じゃないのか。これは時間が解決してくれるのを待つしかないんですかね…。たすけてええええええええええ
また下手な文章だ、ごめんよ~。もしほかに疑問点とか、突っ込みあったら返信オナシャス!マジ読んでくれてせんきゅ~!!!真面目にうれしかったぽよ~!!
自己紹介で普通の地方大学生。自転車で下宿先から大学まで通学してる。
そいつ(ここからはAとする)は普通で、ほんとうに良くも悪くもなんか普通のやつなんだが…。
Aは大学があるところからは少し遠い実家から大学に通ってる、だから電車で大学の最寄りまで向かって、そこから大学のバスに乗って向かう形になってる。
Aはサークルに二年生の時に入ってきた。俺は一年から入ってた。
だから、A以外は全員自転車なのにそいつに合わせて徒歩でバス停まで徒歩で帰ってる。(下校ルートに二つほどバス停がある。)
これ言うとばれるかもしれないけど、うちの大学は結構敷地がでかくて大学のバス停まで、サークル棟からだと結構時間がかかる、それこそしゃべりながらだと徒歩で30分ぐらい。
おれはこれが時間の無駄に思えてならない。本当に無駄。くそほど時間の浪費だ。
しかも、サークル棟からすぐ近くのバス停もあるのだが、なぜかいつもサークル棟から遠いところまでついてこようとする。わけわかんない。近いほうに向かったらいいと思うんだけど…。
こいつのせいで帰宅時間が15分から45分に増えた。意味が分からない。
まだそいつのする話が面白いならいいのだけど、そいつは前述したとおりそこまで面白い話ができるわけじゃない。というより正直面白くない。
そのせいで正直めちゃくちゃ一緒にいるのがしんどい。
で、疑問なのがサークルのほかの人たち。この人たちはなぜかそれについて一切疑問を持ってない。みたいにおれは感じる。普通に一緒に歩いて帰ってる。
なんでなんだろう?どういうことなんだろう?普通人は面白くなくても一緒にいて苦痛じゃないのか?わかんない。
もしくはこのぐらいは我慢するべきなんだろうか?
そいつが入ってくるまで、結構サークル楽しかったんだが、そいつのせいでサークルがすごい憂鬱なんだが…今から無駄な時間を過ごすということを意識するとどうしてもそう感じてしまう。
誰か有識者教えてくれ、これは俺がおかしいのか?俺がもっと我慢すべきなのか?
こういう時、正直に本人に話したほうがいいのかな。愚痴になってごめん、でも吐き出させてくれ~
相変わらずジェンダーがどうとかつまらない話が多いので、過去の用例から「奥さん」あるいは配偶者呼称についていろいろ考えたいなあ。と思って書きます。
勿論、女中などに似ようはないと、夢か、うつつか、朦朧と認めた顔のかたちが、どうやらこう、目さきに、やっぱりそのうつ向き加減に、ちらつく。従って、今声を出した、奥さんは誰だか知れるか。
それに、夢中で感覚した意味は、誰か知らず、その女性(にょしょう)が、
「開けて下さい。」
と言ったのに応じて、ただ今、とすぐに答えたのであるが、扉(ひらき)の事だろう? その外廊下に、何の沙汰も聞えないは、待て、そこではなさそう。
「ほかに開ける処と言っては、窓だが、」
さてはまさしく魘(うな)された? この夜更けに、男が一人寝た部屋を、庭から覗き込んで、窓を開けて、と言う婦(おんな)はあるまい。(「沼婦人」泉鏡花、1908(明治41年)
「奥さん」は、自分の配偶者というより既婚女性に対する敬称として用いられています。「女中などではなく」自分が夢想する上流階級を思わせる女性(奥さん)が誰か分からないが、夜更けに訪ねてきた「女性(にょしょう)」は普通の「婦(おんな)」ではないだろう……という流れですが、この呼び分けは、日本語代名詞の豊かな言語世界を垣間見せてくれますね。
「奥さん」という語がめちゃくちゃ出てくる小説と言えば、やはり夏目漱石「こころ」(1914(大正3年))でしょう。前半では「先生」の妻である静さんの呼称として、後半では先生が青年期に下宿していた、静さんの母親の呼称として「奥さん」が登場します。この作品は、一人称の語り手による手記の体を(前半後半とも)取っているため、固有名詞を避ける書き方をしており、その結果であると思われます。
私はすぐ玄関先を去らなかった。下女の顔を見て少し躊躇してそこに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまたうちへはいった。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
「奥さんらしい人」という表現から、「奥さん」が「配偶者」の意味で用いられていることが感じられます。ただ、自分の配偶者を呼ぶ呼び方ではないですね。
私の知る限り先生と奥さんとは、仲のいい夫婦の一対であった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論わからなかったけれども、座敷で私と対坐している時、先生は何かのついでに、下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静(しず)といった)。先生は「おい静」といつでも襖ふすまの方を振り向いた。その呼びかたが私には優しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子もはなはだ素直であった。ときたまご馳走になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間に描き出されるようであった。
「こころ」は新聞連載ですが、奥さんの初登場は先の連載4回目、その後奥さんと先生(夫)の重要なシーンである第8回を経て、この第9回で初めて名前が登場します。この作品、先生を訪問してきた「私」と奥さんが共に食卓を囲むシーンなどが多くあり、この夫妻は大正当時の一般的な夫婦関係よりも幾分現代に近い感じで描かれているように思います。
次は、「先生」が若いころ、その奥さんの自宅に下宿をしたとき、奥さんの母親を「奥さん」と読んでいたというシーンの引用です。(中略があります)
それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官学校のそばとかに住んでいたのだが、厩(うまや)などがあって、邸(やしき)が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人で淋しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人(びぼうじん)と一人娘と下女より外にいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極好かろうと心の中に思いました。
(略)
私は未亡人に会って来意を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て差支えないという挨拶を即坐に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、また判然(はっきり)した人でした。私は軍人の妻君というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性でどこが淋しいのだろうと疑いもしました。
(略)
私は未亡人の事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます。奥さんは私を静かな人、大人しい男と評しました。それから勉強家だとも褒めてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。
「上さん」「未亡人」「妻君」「奥さん」は全て同じ人物を指していますが、それぞれの場所でニュアンスが異なることが分かります。それぞれ「下宿屋の女主人」「(夫を亡くした)配偶者」「配偶者(尊称)」「既婚女性(尊称)」くらいに捉えるのが適切でしょうか。
そういうわけで、私たちは家の主婦を奥さんと呼んでいました。下宿屋のおかみさんを奥さんと呼ぶのは少し変ですが、前にも言う通り、まったく上品で温和な婦人で、どうもおかみさんとは呼びにくいように感じられるので、どの人もみな申合せたように奥さんと呼び、その娘を伊佐子さんと呼んでいました。家の苗字は――仮りに堀川といって置きましょう。(「白髪鬼」岡本綺堂、1923(昭和3年))
…「下宿屋のおかみさんを奥さんと呼ぶのは少し変」という言語感覚から、「おかみさん」「奥さん」の使い分けがくっきりと見て取れて面白い用例ですね。この話は、発表は昭和ですが、岡本綺堂は明治生まれですし、物語内時間は10数年前(つまり震災前)という設定ですから、言語感覚としては漱石の少し後、大正期の中頃を反映していると言った方が適切かもしれません(まあ、それを言うなら「こころ」の場合、おおむね時代は明治期の想定と言えそうですが。)
昭和に入ると、「奥さん」が配偶者を指す呼称としてライトに用いられ始めたように思います。太宰はこういう言葉のちょっとしたニュアンスが本当に上手な作家で、次の用例の言葉の使い分けは非常に印象的です。
「奥さま、もうすこしのご辛棒しんぼうですよ。」と大声で叱咤しったすることがある。
お医者の奥さんが、或るとき私に、そのわけを語って聞かせた。小学校の先生の奥さまで、先生は、三年まえに肺をわるくし、このごろずんずんよくなった。お医者は一所懸命で、その若い奥さまに、いまがだいじのところと、固く禁じた。奥さまは言いつけを守った。それでも、ときどき、なんだか、ふびんに伺うことがある。お医者は、その都度、心を鬼にして、奥さまもうすこしのご辛棒ですよ、と言外に意味をふくめて叱咤するのだそうである。(「満願」太宰治、1938(昭和13年))
医者が、夫の体の静養のためにセックスを禁止して…というちょっとした掌編なのですが、最初の「奥さま」は、医者が患者の配偶者である若い奥さんに言い聞かせるときの呼称、医者の「奥さん」は医者の(やや年配の)配偶者のニュアンスで用いられていますが、地の文での「奥さま」と「奥さん」の使い分けで、雰囲気が表現されているのは実にうまいです。
最後に、呼称という点で、最初に見かけてこれは書き留めておきたい(ぶっちゃけこの記事を書くきっかけになった)のがこちら。
妻は水の引くように痩せて、蚊帳の中で死んでしまった。死ぬ前「今度奥さんを貰う時は、丈夫な奥さんを貰ってね」と言った。
「莫迦、お前が死んだら俺は一生独身でいるよ、女房なんか貰うものか」
彼は妻の胸に涙を落しながら言った。その涙をふいている内にふと俺は嘘を言ってるのかも知れないと思った。
しかし、妻が死んでしまうと、彼は妻に言った言葉を守ろうと思った。死んだ人間に対しては、もう約束を守るよりほかに何一つしてやるものがないのだと思った。
この3つの呼称の呼び分けを、代名詞が豊富でない文化圏の人にどうすれば伝えられるだろうなあ、と思ったりします。
さて、蛇足ながら、このエントリを書いた理由について。呼称、代名詞というのは、時代によって変遷し、人の心を映すもの。だから、いろいろな意見や議論はあっていいと思いますし、そもそも言葉が時代のジェンダー観を反映するというのは、取り立てていう必要もないくらい当たり前のことではありますが、そういった、人々の内心の方を変えるのが面倒だからといって、言葉の方に罪を着せるようにして言葉狩りじみたことをするのは、正直「違うんじゃないかなあ」と思います。人々の心が変化すれば、誰が強制しなくても言葉は廃れ、変化していきます。〇〇という言葉を使うな!なんて言わなくても、それが指す事象が消えたり変化したりすれば、あっという間に言葉は移り変わっていくものです。だから、変えるべきことを人々の総意に基づいて粛々と変えるよう努力するのが重要であって、「言葉狩り」みたいな遊びで何か大きな社会貢献を為したような気分になるのは、正直やめてもらいたいなあ、と思っています。そんな感じのことを感じていただけたのなら、この記事を書いた意味があったというものです。ありがとうございました。
元増田みたいなのが居るから地名変えちゃったってケースを出すよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230912103559
地下鉄南北線に志茂駅というのがあるが、ここは昭和初期まで「下村」だった。上村は近くにないので、岩淵宿から見て下の村という意味かと思われる。
関東大震災後に人口が流入して町になる時、「下町」じゃあれなのでちょっとこじゃれて「志茂町」とした。
後に町が取れて志茂となり、駅も出来て有名になったが、住んでる人も元は「下」のこじゃれた書き方だったとは知らないことが多い。
関東大震災後に東京近郊は下町からの移住で人口が増え始め、川口町と合併して川口市になる横曽根も人口が増える前に区画整理をする事になった。
横曽根の中心の北には「北」、南に「南」というおざなりな小字があり、西側は「新田」という小字があったので、「北」を「北町」、「南」を「南町」、真ん中を「仲町」とし、西側の新田は「仁志町」とした。
仲は中を、仁志は西をこじゃれた風にしたものだ。
だが西川口駅が出来て人口がどっと増えると、駅西側は全部西川口にしちゃえという事になって北町も仁志町も全部西川口になってしまった。
「仁志」とかせっかく付けたのに結局に「西」で上塗りされちゃっというケースである。
余談だが、南町は残ったのだが、ここは市境に近く、川口市南町から歩いて5分に蕨市南町があるので混乱の元だ。この命名法はよくない。
先の事を考えない鉄道会社に振り回されたケース。
東上線の中板橋駅の西側に711の弥生町店があるが、実はこの辺りは川越街道の上板橋宿跡である。
大正初めに東上鉄道(現東武東上線)が開通すると、始発駅の池袋の次は板橋下宿に近く貨物扱いで重要な下板橋駅が設置されたが、その次は4km先に設置する事になった。当時は蒸気機関車の単線運転だから交換用の駅で距離もその程度が適当だった。
だが駅の周りがマジで何もない。だから駅名に適当な地名も無い。
だが昭和初期に電化されて加速性能がいいので駅を沢山作る事になり、下板橋と上板橋の真ん中にも駅を作る事になった。だがこの近くの地名は、上板橋宿に因んで全域が上板橋になっていた。
でも下と上の中間の板橋だから中でしょと「中板橋」駅としてしまった。
すると上板橋が上板橋駅付近になくての隣の駅の周辺にある、しかもその駅名は中板橋というおかしなことになってしまった。
地名変更できるようになると上板橋は古い名前を捨てて「弥生」というこの地に特に縁のない名前にしてしまった。
元々池袋村は今の下板橋駅付近が村の中心で(現池袋本町)、池袋駅が設置された当初は池袋村の村の外れの村境ぎりぎりの場所だった。
今の西口付近はその名も「上」という小字の場所だった。その他にもこの周辺は「原」とか「下上」とか「西山」とかおざなりの超てきとうな小字ばかりであった。さすがは人もろくに住まず雑木林のままの村はずれだ。
だが鉄道がどんどん集まってきて人口も増えるとそんなてきとう地名は「池袋」で消されて無くなってしまった。
そもそも下上って何なのか?
葛飾区と足立区の区界を見ると綾瀬駅の付近で絡まったコードのようにやたらグネグネしている。これは古隅田川の流路で、中世では住田河と呼ばれていた。
荒川放水路が出来るまでは堀切駅の付近で今の隅田川に合流していたので、その上流までが荒川、その下が隅田川と呼ばれていた。
一方、江戸時代に水墨画が流行すると、「墨」という字とそれを「ボク」と読むのが粋でブランド的価値を持つようになった。
隅田川がカーブしながら先述の古墨田川と合流する場所の外側にあるのが隅田村で、洪水が頻発するので幕府は隅田堤という陸の堤防を築造、桜を植えた。桜を植えるのは花見客が大挙して訪れて踏み固められるからである。今も川べりに桜が植樹されるのはこの幕府の知恵に由来する。
するといい景色なので山水画や浮世絵が多く作られたが、何しろ「隅」より「墨/ボク」の方がカッコいいもんで、隅田堤じゃなくて「墨堤/ボクテイ」と題されたりした。
その他にも隅田村/隅田川関連のものが「墨田」と呼称されたので、隅田村→隅田町となっていたが住んでる人らは勝手に隅っこよりもイキな方がいいと「墨田町」と書くのが流行し、本所区と向嶋区が合併した際には墨田区となった。
隅田町が町名変更できるようになるとこれもやはり墨田となった。
中仙道の板橋宿は超巨大宿場町で、JR板橋駅から都営地下鉄板橋本町駅の2.5kmくらいもあり、北から上宿、中宿、下宿(下板橋宿/平尾宿)と分かれていた。
鉄道道路の時代になると宿場町の記憶は無くなって何が中なんだという事で、仲宿と改称された。
下谷はいかにも下に見られてるみたいなので、台地の東、と台頭を兼ねた造語を区名にした。
吉原遊郭とか上野周辺とか山野とか実際にスラムが幾つかあったのが余計にコンプレックスを刺激した。
十条と呼ばれる地区には北側に上十条村、南側に下十条村という二つの村があった。尚、この当時の上、下というのは京都に近い方が上である。江戸北側には中仙道があるので京都に近い方の北が上であって、東海道周辺なら西が上になる。
両村を縦貫する形で日光御成道(別名 岩槻街道)があり、下十条宿という幕府非公認の小さな宿場町があった。今の東十条駅から坂上がったあたりの塾や郵便局があるあたりである。
明治になりその十条の西の方に現赤羽線(埼京線。開通当時は日本鉄道品川線)の十条駅が出来た。
次に東北本線(京浜東北線)にも駅が出来る事になったが、当然、一番栄えている下十条宿に近い場所に設置された。また駅に来れる道もある。だから当然駅名も下十条駅だった。
ところが昭和に住居表示で町名が変えられるという事になると、下十条が「今は東京駅に近い方が上だからこっちが上十条だ」とか言い出す。
それで町名を押し出された元の上十条は、下はヤダってことで中十条となってしまう。何でだ。
こうして下十条が無くなったのに駅だけ下十条を名乗ってる状態になったので、十条の東だし、東十条に隣接してるってことで改称されて東十条駅になった。
そりゃ下扱いは誰でもイヤなもんだが、下剋上的というか身勝手というか。
ここを東急電鉄の後藤慶太のデベロッパが買い上げ高級住宅地「田園調布」の分譲を開始、鉄道も開通し、調布駅が設置され、直ぐに田園調布駅に改称される。
「田園」の文字の由来は、ロンドンに視察に行った後藤が田舎に住んで都会に鉄道で通勤するというゆとりがある生活スタイルに触れて感銘を受けたため。当時のロンドンは児童含む超絶ブラック搾取労働や、一晩で数百人が死ぬほどの超絶大気汚染、ゴミや糞便に混じって死体も流れるテームズ川の超絶河川汚染、多発するスリ強盗殺人林立する売春婦など、文字通りに死ぬほど環境が悪かったために富裕層にこのような生活スタイルが流行した。
昭和3年に人口が増えて町制施行されることになったが、調布町とすると京王線沿線の調布と被ってしまうので「東調布町」と呼称。
だがその僅か五年後には荏原郡自体が東京市に編入されて東調布町も消滅。短い命であった。
初めは東急(の子会社デベ)が開発した駅前の高級宅地だけが田園調布だったが、住居表記施行で町名変更が可能になると、元の田園調布の周りの○○沼とかの町も「沼とかヤダ田園調布にしたい」という事になって、全域が田園調布となった。
①→そうだよね。質問で奨学金の話を出したのは、下宿代含めてもお釣り来るような地方医療用の奨学金があって、
恐らく都内の学生は、わざわざ地方医療の奨学金なんか考えなくても地方医大に出してもらえる子息が多い環境だったろうから、
そういう環境に囲まれていると尚更「そもそもなんで家庭環境のせいでそんな事まで考えないといけないのよ」って不満が溜まりやすくなるよね。
②→そういう事か!女性の友人同士だとこんな事言われずに済むの、
やっぱりまだまだ男性の同僚や旧友の母親には理解されてない証拠だよね。
なんか知らん横増田達が「会社の男性の同期からも環境のおかげだと思われているのは、元増田が無能だからじゃないかな?」とか
無責任に「元増田は研究はかなり向いてなさそうなので、理系だと開発職しかないだろうね。」とか言ってくるの見てると、
そんな類推される筋合い無いのに言われるって、尚更やるせないよね。