はてなキーワード: 一眼レフとは
写真を撮るようになった。
日常を押さえて歩くほど暇ではないし、そこまで繊細な感性も持ち合わせていない。
昔は写真が好きではなかった。
撮影者は今その瞬間の世界にあえて没入していないと思わせ、実のところ望んで没入することができない、なにか傍観者であることを肯定している人のように思えた。
写真を撮る人は、客観視できることの優位性を示すような、冷めていることを美徳とするような、リアルでない世界の人だと思っていた。
後で写真を見返して、当時を振り返るのは、現実現在からの逃避だとさえ思っていた。
今ならよくわかる。
未来は暗い。
撮影の瞬間思っていたことを、その瞬間生きていたことを、確認したい。
写真を撮るようになった。
日常を押さえて歩くほど暇ではないし、そこまで繊細な感性も持ち合わせていない。
昔は写真が好きではなかった。
撮影者は今その瞬間の世界にあえて没入していないと思わせ、実のところ望んで没入することができない、なにか傍観者であることを肯定している人のように思えた。
写真を撮る人は、客観視できることの優位性を示すような、冷めていることを美徳とするような、リアルでない世界の人だと思っていた。
後で写真を見返して、当時を振り返るのは、現実現在からの逃避だとさえ思っていた。
今ならよくわかる。
未来は暗い。
撮影の瞬間思っていたことを、その瞬間生きていたことを、確認したい。
普通の女子大生がなぜ、Google+で「日本一」になったのか - nanapi Web
真性引き篭もり: 普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。
他の記事もひと通り読んだので長くなるが思ったことを。
久々に様々な意見が読めて、数年前までのはてなのようで楽しかったから、感謝として。
「わたし、写真が大好きだと思われてるんですが、嫌いですね。撮るのも、撮られるのも」
写真が嫌いで、SNSも苦手だという坂口さん。それでもGoogle+に写真をアップし続けているのは、「就活のため」だ。
大学3年生になり、就職活動を始めたが、「就活でしゃべれることがないんです。好きなこととか、何もなくて。何も好きじゃないし、何もできないから、流行ってることとか、これから“来そう”なことをやろうと。目標に向かって努力した経験や、自己PRが求められた時、なにか印象に残ることが言えたら」。
「恐怖感」という言葉で感じ取り、理解した者もいたことだろうと思う。自分になにもないような気がして焦燥感に焼かれるような時期のことを覚えている者なら。
彼女は賢い女性だ。自己分析も、目標設定の仕方も。早稲田という学歴を手にしたのはなんら不思議なことではないと思う。「意志が弱い」のに「恐怖感」で毎日朝3時50分に起床できる。これだけでも「普通」じゃない。褒められていい。好きでもなく、むしろ嫌いなことのため。けれど、将来に向けて役立つものを作るため。長所で点を稼ぐことでは行けない場所に彼女はいるのだろう。弱点を克服してこそ立つことができる場所に。
そして、就活を目前に控えても彼女はその方法論を用いて不器用に「これから“来そう”なこと」を選んだのかもしれないと感じた。この選択に自尊感情の低さを読み取ったとしても、病的と謗るのはどうだろう?彼女は自分と自分の人生に果敢に向かい合っている。安易に楽を選ぶような人ではないようだ。きっと彼女のいる場所では自分と同程度に出来がいいだけでは評価されないのだろう。だからこその課題解決と弱点克服。お前は何者だ。その問いにも、その答えにもおそらく彼女は気がついている。
彼女は結果を出した。Google+とInstagramということを差し引いても称えられていいのではないだろうか。確かにそれは誰にもできそうな話だ。お手軽で浅薄にも思える。パソコンとiPhoneがあればできる。インターネットは「自分だって」という幻想をもたらすツールだ。ユーザが少ないから、顔が綺麗だったから、学歴があったからということは自分も思った。嗚呼、またカモネギか、と。けれど、そういう一面もあったとしても彼女の努力は称えられていい。それがどんなやり方であろうとも自らに欠けているものを獲得しようとしている者の痛ましい努力を。壊れたiPhoneに感じるものはないだろうか?もしかしたら、壊れていたのは彼女だったのかもしれないとさえ自分には思えた。
事実、元記事にはこうも書いてある。
「1日1枚はInstagramに上げないと、というノルマに対する恐怖感で起きています。写真を1枚逃したら、私は何もない元の自分に戻っちゃう」
何もないわけがない。そんなに綺麗じゃないか。そんなに有名な大学にいるじゃないか。Google+で一位じゃないか。
ここで大事なのは“彼女にとって”は「何もない」ということだ。Google+を取ったら、彼女のいる環境では普通(以下含め)に埋没する。その恐怖感たるや如何ばかりだろうと考える。自分は自分だろなどと励まされても、“彼女には”そうじゃない。それに「何も好きじゃないし、何もできない」ということは本当に苦しいことだ。それだけ頭が良ければなんて言ってはいけない。彼女以外の者が自分のいる場所から考え言葉を発するのなら、彼女だってそうしていい。なによりも、なにもないという自分との対峙は大学生らしくまっとうな悩みではないだろうか?むしろそこに一度撓んで伸びようとする魂を感じはしないだろうか?
なにもない自分と向かい合うのは力のいる作業だ。彼女はいま奈落と向き合っているところなのかもしれない。それはこれからも時間をかけてやっていくことになる作業だろう。途中で転職や結婚や出産という転機にだって出会うことだろう。そしてそのたび自問自答しつつ、誠実にひとつずつ向き合っていくように感じた。そう信じたい。
「気持ち悪い」と思っていた一眼レフカメラも、最近は欲しくなってきた。「iPhoneのカメラには限界がある。誰かに伝えたいと思うような美しい景色が思うように撮れない時は、ちゃんといいカメラで撮りたいなと」
「気持ち悪いと思っていた一眼レフカメラ」「誰かに伝えたいと思うような」この言葉も印象的だ。
関心や興味は良いものとされがちだが、あまりに強い関心というものは異様に映る。強すぎる情熱を持って自分には興味のないことを続けている者を見かけたとき、つい引いてしまったことはないだろうか。それに、物事への関心が薄い者はネットでは目立たない。彼や彼女の発する情報はあまり役に立たないからだ。そもそもネットに現れないことの方が多いのだろう。語ることがないから。伝えたいことがないから。なぜそんなことをする必要があるのかわからない。ネットと接してきた時間が長い者と彼女のような伝えることのないタイプは互いに異形の者。でも、彼女はネットを選んだ。
何かを伝えたいと思うようなことがなかった女子大生がインターネットで「伝えたい」方向に気持ちが動いた。この先「やっぱりカメラは気持ち悪い」と思うことになっても、ここに自発性や意欲の萌芽を読み取ることはできないだろうか?
彼女は「好き」を獲得し忘れてしまったのか、どこかに置き忘れてしまったのだろう。だからこそ傾向と対策を練り、「型」の反復から入って習得しなければならなかった。そして、恐ろしいまでの勤勉さで、本来は好きというだけで心理的報酬が発生する行為を、他者からの称賛という報酬で自分の中に意欲として還元し定着させつつある。このことがいつか他者からの称賛という報酬がなくても行為自体が報酬をもたらすようなものとして彼女の中に育っていくといいと願う。考えてみて欲しい。多くのひとはもう記憶もないような幼い頃に獲得したか、考えずとも手にしているものを彼女は二十歳を超えてから獲得しようとしているのだ。野暮なことは言わず、讃え見守りたいと思う。もしよかったらあなたもボタンを押し、気が向けばなにかコメントするだけの簡単なお仕事をしてみてはどうだろうか。翼を広げ飛翔する彼女を目にすることができるかもしれない。それはインターネットから翔び立つことかもしれないけれど。
岡田有花という方を自分はよく知らない。しかし、この取材はきっと彼女も困ったのではないかと感じた。岡田氏は「写真大好き」な女子大生と出会うはずではなかったのだろうか?意外な言葉に戸惑ったのは彼女も同じだったのではないか?確かに記事の内容はありがち。わかりやすい良い話にしたかったのだろう。しかし、穿った見方をすればこの方は自分がネットで付与された(と思しき)物語を坂口さんにも着せようとしているような気がしてならない。「普通の女子大生」なんて表現は彼女が京大でなければ出て来なかった言葉ではないのか。また、彼女は一度自らに問うてみるといいと思う。自分が向けられた男性からの視点を内面化していないかどうかを。こうすればネットでは受ける視点が男性目線からのものであるのなら、あざといパッケージは文章を安くする。
そしてこのありがちな文章に対してのカウンターである『普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。』があまりに凄すぎた。素晴らしすぎた。誰もが薄々感づいていて言葉にしなかったことを暴いてしまった。それぞれの方がそれぞれの部分に喝采を贈ったのであろうが、自分は次の部分だった。
3年以上前からブログを書いている女性を、思い出せるだけ思い出してみてほしい。全員ぶさいくである。1人の美女もいない。美しさの欠片も無い。顔も醜い。心も醜い。そういう人達ばかりである。不平不満とくだらない馴れ合いをはき出して、だらだらいきている醜い人ばかりである。1人として美女はいない。もちろんの事、美男もいない。美しさは消えるのである。インターネットから消えるのである。時間と共に消えるのである。美しい者は、インターネットを捨て、廃棄し、跡を濁さず消えて行くのである。インターネットという地獄では、醜い者だけが生き残るのだ。そういう風に出来ているのだ。
すべてとは言わないがそう思う。自分にとってこの「美しさ」に儚さや弱さも含みたい。多分、ある種の脆弱さという美しさを持った彼や彼女たちはインターネットからも弾かれる。長くネットに表現を置くことができる者は強者であると言ってもいいと自分は思う。
だから思い出して欲しい。「ワンチャンあるかも」ということがどれだけ美しい者たちを潰してきたかを。
女性に「クン」とつける中高年男性向け雑誌のように「タン」などと語尾につけてキャラ化し、持ち上げるだけ持ち上げてコンテンツとして消費し、そして次の対象へと関心を移す。そのとき、賢く、美しく、センスのあり、慎ましやかな者を選んでいたのは他ならぬ「ワンチャンあるかも」という者ではなかったのだろうか?そういう者たちが結局美しい者を淘汰していってしまう。残るのはマシュマロの中に鉛が入ったような女性だけである。「私の名ならば女。それ以上でも以下でもない」と賢い女なら気づく。そして鎧を身につけるか、鉛を飲むか、逃げるかしていく。また、当然の如く逆もある。どちらかだけが捕食者とは限らない。女というだけで入れ喰いならフォトショ覚えるくらい安いものだ。これを楽しめるのもまた人間としてのある種の強さとこじつけてもいいのかもしれない。
男の敵も女の敵もお互いとは限らない。いつの間にやら話の流れは新旧ネットの流れになっているらしいがそれも含めて自分が感じ取ることをどんなゲームにしてもいいし、そんなものはないと木で鼻をくくったように言ってもいい。それが自分の考えだと感じるならそこから行くしかない。そして、それが違うからこそ人と出会うのは面白い。
最後に、個人的にはネットで多数と繋がりたくはないと考えていることについて。
Twitterが普及してからある種の文章をあまり見かけなくなったように感じている。エッジの効いた、ヒリヒリするような、血の滴るような文章を。嫌だったひともいるのだろうが、自分はああしたごりごりとした長文が読みたくてネットを見始めたクチだから大変残念だ。その一因はネガコメとかあの辺もあったんだろうなと思う一方で、ブログならば見えない読者を一人失うだけだったのがTwitterと連動させたことで明確に誰から拒否され関係が切れたのかがわかるからではないのかとも考えていた。それが罰のようなものとして認識されているのではないだろうかと。人間関係の煩わしさがネットに持ち込まれることで混沌と表現と情報は薄まっていく。ネットを現実と重ねていく流れがあるのならば空気を読むのは当然のことだ。日常の罪をネットで告白することの意味に気づかない者たちが晒される見せしめのショーも連日開催中だ。自宅、職場、学校まで晒される。あまりにリスキー。お利口でいい子になっていくのは必然だろう。誰かが自分に関心を向けてくれたときのあの興奮を一度でも味わったことがある者ならば。好かれたい、愛されたい、褒められたい、繋がりたいと願うのならば。
旧世代と誰かを括って責任押し付けるのは簡単だ。若いってそういうことだ。けど次はお前の番だ、お若いの。この流れの先に待っているのがパノプティコンでも向かいの囚人に片目を瞑ってみせようじゃないか。
「Facebookによくあるウザい写真」みたいな記事を見た。
変な角度から撮った写真、本人じゃない写真、鏡を見ながらの自撮り、一眼レフでの鏡自撮りなどがウザいらしい。
もうそういう記事書くの辞めてほしいなぁ。
以前は幼少の頃の写真だったけど、それじゃFacebookの恩恵受けられないなと思って自分で撮った。
でも記事によると「男が自撮りとか萎える」ってことらしい。
気にすんなと言われればそれまでだけど、こういう記事を見て気にしないわけがない。
自撮りしたのは写真を撮られるのが苦手だからなんだけど、ナルシストっぽいのか?
・・とか気にしちゃうんだよ!こういう記事見ると!
写真とか興味なくて本当に1枚もない。
しょうがないじゃん・・。
まぁもう気にしないようにしよう。
先日、これを読んでいて思った。
http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51621646.html
サブカル女が好かれないのは、多分、認めてほしいオーラが出てるからじゃないのかと。
女性は「自分がかわいいと思うことをする」信念みたいなものを持って行動していると思う。
一歩ひいてみれば、目が異様にでかくなるメイクも、露出高めの服も、「花や草木から祝福されてる♥」的発想も、理解しがたい。
が、それをやっている本人達はいたって純粋にそれが「かわいい」と思っているからやっている。
そこには、「私は好きでやっている。文句言われても、これがいいと思うからやる」という潔さがある。
彼女たちのエネルギーのベクトルは常に内側から発散されどこまでもまっすぐ突き進んでいく。
それに対して、上であげられたサブカル女はというと、バックを求めてる感がする。
「漫画も本もけっこう読む私ってどう?」
いつも「どう?」という問いかけをしているように思える。
彼女たちが放ったエネルギーは、受け止め、きれいに返してくれる相手を探してまがりくねる。
「一眼レフ」や「抹茶スイーツ」「マニアックな漫画・映画・音楽」ではない。
それをたしなんでいる自分って好き→どう?という「認めてほしい」オーラがめんどくさいだけだ。
サブカル女が好かれるには、「認められるはず」という期待をしなくなればいい。
自信のない自分を隠すための趣味を持たず、「好きなこと」を探せばいい。
こんなことを書いている私も、抹茶スイーツ大好きだし、一眼レフで写真とるし、漫画も映画も好む(マニアックかどうかは他人が決めることなので分からない)。
ラーメンズも好きだ〜。
服装はZipperではないけれど、近い。森ガールちょい入りくらいだ。
自分がサブカル女と認めるくらい、好きな物が当てはまっている。
腹の底から大きな声で好きな物を言え、他人にどう思われようともかまわないくらい、
TVゲームが跳梁跋扈する昨今、みなさんいかがお過ごしですか。最近3DSが発売されたそうですね。
wi-fi環境があろうと、基本的に個人が向き合っている。相手は別に機械だってわからないから機械でもいいんですが、あくまでも対人を主張する。
先日、友人が遊びに誘い、まあ仕事も忙しいけど息抜きも必要だなと思い、家に向かったわけです。
で、家についてまあ世間話でもする。コーヒー飲む。おいしいですね。よくあることかと。
話が一段落したところで、「実は最近またゲーム買ったんだよ」と友人。
「へえ。」と私。興味ないからそれぐらいしか打つ相槌もないんですがね。また、というのも知らないし。
で、まあ結構な数のハードとソフトがずらりと。ファミコンなら私もやったことはありますが、それ以降はやらなかった。
友人、私がゲームをすることに合意をしたかのようにはしゃいでるので、仕方なくいっしょにすることに。
当然ですが、友人ゲームが上手いです。私は殆ど勝てなかった。腕前はすごいと思う。
だけど、なんというか、「まだTVゲーム?」という感覚が抜けない。
他の友人もゲームはしますが、さすがに彼ほどではない。ある人は楽器吹いたり、ある人は本や映画を見たり、ある人はジムで汗を流したり、またある人は一眼レフ片手に外へ。
いろんな趣味があっていいのですが、なぜかTVゲームに対してだけは偏見を持っているし、自覚している。
たぶんそれは子供の頃からのおもちゃという感覚に囚われているからだと思うのだが、間違っているとも思わない。
友人は「やってりゃうまくなるよ」という。そりゃあだいたいはそうだろう。
うーん。
幼稚だなあ。
元増田です。
→動画撮影機能がついたデジタル一眼レフカメラ
を買うんですよ。
いま使っているのは動画撮影機能がついていない2世代前のデジタル一眼レフカメラなので。
26歳女です。
学生の頃から色んなおじさんとご縁(?)があります。
見事に変な人ばっかり。こうも続くと、自分に原因があるのだろうかと若干凹んでしまいます。
いままでのおじさんとの思い出を箇条書にしてみます。
●視線を感じて振り向くと一眼レフを向けられてた事、過去2回。こちらが気づいたとみるや、そっぽを向いて去っていく…。ちなみに全く別の場所で別の人。
●すれ違いざまに鎖骨触られて「男?」…そこじゃない。おっぱいはもっと下だから!(心の声)でも勿論やり直せとも言えないし、呆然としてる間に去っていくおじさん。普通は鎖骨と胸、間違わないですよね。
●バス乗車中、えなりかずき似のおじさんに肩をつかまれ掠れた声で「おはようございます!」って言われました。席を譲って欲しい人かと思ってイヤホン外したのに…。
●バス乗車中、「携帯いじるなって何回も言うとるやろ!!きいとんかお前は!!言いたいことあるんなら言えや!!」と言われるも、そのお方とは話すのはそれがはじめて。優先席付近でも通話してたわけでもなく。。目が危ない感じだったので怖かった。
●電車降りざま、手をやんわり握っていくおじさん。
●いっぱい席空いてるのに、私の前に立つ松葉杖のおじさん。(座ったらいいのに!!)「◎◎までは何分かかりますか?」と聞かれたので答えると、「そうですか」と隣の車両へ…。なんなん(・∀・)!?
●電車待ちをしているとポンと肩を叩かれ、「クモついてましたよ」と小さいクモをつまみながら満面の笑みのおじさん。私もなぜ体にクモをつけていたのか謎。
●仕事柄、一眼レフカメラを持ってうろうろすることがあるのですが、すごい手を振ってくるおじさんとか、「おっちゃんモデルになったろか?!」とか言ってくる人とか。
●仕事帰り。道案内を頼まれたので一緒に歩いているところを会社の同僚に見られたりとか。違う!そういう関係じゃないんです。。
●博多に出張に行った時に道を尋ねたおじさんとの距離が、気づいたらはんぱなく近くなってたので離れるもまた近づいてくる。でもすごい真剣に道案内してくれてるので聞くんだけど本当に近くて笑いが込み上げてきて大変でした。
●クラブ帰りの朝にバス停で座って寝ていると、遠くで卑猥な単語を叫んでいるおじさんを確認するも、眠さに負けて熟睡。ふと目が覚めると目の前で叫んでいるご様子…。どうやら隣のサラリーマンとカップルだと思われたらしく、気に食わないみたいですごく怒っていたのでどうしようかと思っているとサラリーマン逃亡。ええ〜〜!!
「蹴るぞこらぁぁぁあ!」とか叫んでいるので、ひとり残された私は意を決して「あの、カップルじゃないんですけど…」と言ってみる。すると急に笑顔になって、「そっか。ごめんね♪」とさっきとはうってかわって上機嫌で去っていった…。
●信号待ちで。独り言すごいなぁと思っていたら私に話しかけていた。
●電車で席を譲ったら「ええねんお嬢ちゃんすわっとき!!!いやぁ〜ありがとうなぁ〜おっちゃんにもお嬢ちゃんくらいの娘がおってなぁ〜〜ぺらぺら〜」延々15分。離れて座ってた同僚はずっと爆笑。
ざっとこんなかんじですがまだまだあります。いわゆる性的なかんじの絡まれ方は滅多にされません。
関西在住なのも理由のひとつかもしれない。ちょっと個性的なおじさんが多いのかもしれない。
でもそれだけじゃないお前の何かがおじさんをひきつけるのだと周りは言います。
若干童顔のようですがそれが原因でしょうか。(藤井フミヤみたいな年のとり方しそうで怖いです)
ぼけーっと歩いてるのがいけないのかしら。
今は何事もなく済んでるからいいが、そのうち大事件に発展したら…笑ってくださいませ。。。。
子持ちだからこそそう思うんじゃない?
子ども持ってない人からすれば、同じ入園料払ってる時点で皆平等だと思うけど。
そりゃ子どもが見えないだろうなぁと思ったら子どもに見えるようにしてあげたりするけど
人形と写真撮りたいなら並べばいいことだし、なんで譲れっていう気持ちが一番前にせりでてるのだ?
いまディズニーのパレードとかは一眼レフ持った追っかけがいっぱいいる状況だし
ショーのファンだってたくさんいるんだから子どもだけもものではないよね。
ディズニーランドは子どもだけの場所、って思わない方がいいよ。
子どもに色んな経験させたいんだったら渓谷で川下りしてみるとか
キャンプに連れてってみるとか、もっと良い体験させてあげれ。
鬱っぽい期間になってしまい、なんにもやる気がわかない。ネット巡回してばっかりで生産性が悪い。だから増田になってとにかくなんでもいいからアウトプットして気を紛らす。思いついたままにとにかく書く!長文失礼!!今、彼女からもらったトリュフ(チョコレート)食べながら更新している。
だめだ、優先度が高いことに対してやる気でない。
しかし、自分の研究をとにかく進めたい。今年度は、後輩の研究の共著ばっかりだったよまったく!研究以外のことに手を出しすぎたんだ俺は。だから、これから国際会議があるっていうのに、準備がはかどらない。英語がああああああ。
自己責任なのか?!俺が要領悪いのか?!
ああああメール返さなくちゃ。やっぱり、大学院生ともなると、大学外の方たちと頻繁に連絡とるようになるだね。どんだけ返信遅いんだまったく。すぐ返信できるようにしたい。
朝8時に研究室に来て、仕事して、昼飯食って、仕事して、夕飯食って、仕事して、8時には家に帰る。そういう生活したい。
なんで俺は、「今すげー楽しい、集中出来る!!」なんてテンションが上がって早朝まで作業をしてしまうんだろう。だから、翌日に負荷がかかって、起きれない&やる気がでない。みたいになるんだ。
前に、すげー気分が落ち込んで、ヤバイ状態になったじゃないか。よくもまぁ、誰にも相談せず、下調べもせずに精神科に行ったな俺。最初のカウンセリングで「クスリやったことあるか?」「自殺経験があるか?」「トラウマになるような体験はあったか?」と聞かれて面食らったわ。だから、先生に「あなたは、うつ病ではないですが、生活リズムが大きく関係しています。でも、一応お薬だします。」と言われたじゃないか。たしかにお薬めちゃめちゃ効いた。朝自然と起きられて、なんでも無い日でも、研究が進まなくても毎日が楽しかった。
というわけで、生活リズム直せ俺。でも、〆切とかまずいじゃん、どうすればいいの??
俺は、なんらかのイベント(学会、論文投稿、ゼミ、etc..)が近いと、妥協点というか、踏ん切りがつけられないんだな。
あきらめが悪い。だから、ダラダラしちゃうんだ。
もっとこうサバサバ出来ないかな。
「これ、今出来ないと、後で大変だ・・・」
(しばらくたって・・・)
「まずい、これは遅れが生じる。遅れを取り戻さないと・・!!」
の繰り返し。目標の下方修正をよしとしない。
というか、作業をすこしずつ多くこなせない。一つのことにしか取り掛かれない。
まだまだスケジュールを立てるのがヘタクソなんだと思う。
全体を見通して、だいたいこんな仕事がある、という見積もりが甘すぎる。
だから、突発的な仕事がどんどん入ってくる(と感じる)。無理に断ったとしても巡り巡って、困るのが自分というパターンが多い。だから断れない。
そして、年度末だから、やたらと事務関係がめんどくさい。予算を使い切ったり、年度末のシンポジウムの関係で色々忙しい。(ボスがとってくる予算のうちで、シンポジウムを開くという名目があるらしい。よくある話なのかな?)
ボス:「○○大学から、○○先生とその学生さんが来るの知ってるでしょ、その日なにやるかとか打ち合わせよろしくね」(1週間前)
で、今月頭くらいに、
ボス:「ここ最近、というか今年度は、ほとんど増田くんの研究進んでないよね?どうしちゃったの?危機感もたなきゃ」
増田:「その通りでございます。今○○をやりたいと考えていてるのですが、ちょうど先日、○○装置が導入されたので、それを使って云々・・・と考えているのですが」
のやり取りを2回くらいしたわ!!
うちの研究室ってこんなんだけど、、他の研究室(生産性の高いところ)の博士の学生さんはどんなんかかなり気になる。
手本があれば参考にしたい。
小さいころ「子どもは遊ぶのが仕事」と言われた。でも周りの大人たちが一生懸命に汗を流して働いていたから、自分だけが遊んでいちゃいけない気がしてた。だから何かに取り組むときに、自然と一生懸命にやるクセがついた。かたくなに取り組む姿勢がついていた。「これをやらなくちゃいけない」
大人になると、その姿勢は仕事に向かった。だから仕事ばかりやった。そしたら何だか疲れた。30を越えたら白髪も増えた。そんな生活の中で自転車に乗りたくなった。自分のカメラも欲しくなり中古の一眼レフを買った。面白い。世界がファインダー越しに見える。今はカメラを構えていないのに、画角や光や構図を、自分の瞳のレンズを通して見てる。
まるでボクシングをしていた時みたい。「もし今、右(ストレート)が来ても、この距離なら(カウンターで)いける」「この人のクセなら潜ってよけて左フック」と普段の生活中にいつも考えていた。山手線で居眠りしながらパンチを打った。世界がボクシングを通して見えた。遊びを通じて世界の見え方が変わった。遊びに夢中になっていたら、遊びの技術も向上した。ボクシングは遊びすぎてプロになった(2006年に目を壊して引退)。
今になって分かる。「遊ぶことは、まだ知らぬ自分の感覚を掘り起こすこと。自分の可能性を引き出すこと。」遊びの行為を通して世界の見え方が変わる。技術を伴う遊びが見知らぬ自分を掘り起こしていく。だから「積極的に遊んでいこう」と思えるようになった。この考え方なら遊ぶことに罪悪感がない。
ということで年末は海外旅行に行って遊んできた。知らない世界は新鮮で、新しい言語を使った交渉は面白かった。言葉を覚えて、また行きたい。カメラも自転車もボクシングみたいに遊んでしまいたい。ついでに仕事に関しても、遊ぶようにやってしまおうと思う。そういえば、幸いにも自分で勝手に研究していた技術が、社内で有用なものとして取り上げられた。なんだ遊んでいたら仕事が広がったじゃないか。
http://anond.hatelabo.jp/20091006210805
カメラ選びにかんして、家の兄が手紙を書いたからポストに出してくれって言うの。
でも、1年前にカメラを買った僕からも一言付け加えたい。
ちなみに僕は一眼カメラなので一眼カメラ中心の説明になってしまうかもしれません。
まず、自分はどんな用途にカメラを使用すのかを考えてみてください。
特に一眼レフの場合カメラボディの他にレンズ選びという要素もあるため
自分がどんな写真を撮りたいのかが明確になっているとカメラ・レンズ選びの方向が見えてくるでしょう。
この場合カメラ選びを難解にし、さらに具体的な被写体が定まっていないため、
カメラを購入してもあまり使わず放置または手放してしまうことになるかも。
逆からに考えてみることで目的にあったカメラ選びができると思います。
また、一眼レフの場合は撮りたい写真に応じて適切なレンズが異なるため、
まず被写体に適したレンズを選び、そのレンズが使用できるボディを選択するとよいでしょう。
一眼レフカメラは一眼レフ特有の写真を撮影するとこができます。
また、レンズを付け替えることでボケ味や画角の違った写真を撮影できることも一眼レフカメラの楽しみでしょう。
いくつか例を上げてみますが以下のような一眼レフカメラの利点が必要ない場合はコンパクトデジカメで十分だと思います。
写真撮影を目的として撮影を楽しみたいのであればコンパクト一眼レフカメラの入門機から選択してみるのもいいでしょう。
またこの際に使用するレンズですが、単焦点レンズがオススメです。コンパクトな入門機用一眼レフのボディにマッチするコンパクトなレンズで、各社から価格も安いものがそろっていますし、切れのある写真とボケを生かした写真を撮影することができます。
人や被写体が限定された写真を撮りたい場合、背景をぼかし被写体をクローズアップさせる撮影方法があります。
残念ながら彼女ができなかった場合でも、世の中には綺麗な衣装を集団で身にまとい写真を撮らせてくれる女の子がいるようです。
この場合も高い解像力と大きなボケを出せるよう、彼女が居ない分お金をつぎ込みフルサイズ型の一眼レフを購入してみてはどうでしょうか。
上記に似たシチュエーションですので一眼レフと単焦点レンズの組み合わせが最適です。
また、F値の低い明るい単焦点レンズは暗い室内での撮影にも適していますので、明かりの少ない室内でも手ブレの心配はありません。
機動力を生かすのであればコンデジになるかもしれませんが、高倍率ズームレンズのを使用することで一眼レフを活用することができます。
スポーツシーンではシャッタースピードが必要とされるためISO感度を高く設定できる物がいいでしょう。
各社同系統のラインナップのなかでキャノンの機種にシャッタースピードが早いものが目立ち、
風景写真を撮るためにはこれまで紹介してきたような単焦点では全体的にボヤボヤしたような写真になってしまいがちです。
したがってこの場合はシャープで解像力の強い広角レンズを選択するとよいでしょう。
夜景は風景と同じで抽象的な被写体がないため、全体をきちんと捕らえられる広角レンズがよいでしょう。
暗い場所での撮影だからといって絞りを開けて撮影するとボヤボヤした写真になってしまい
とくに建物の明かりが丸くボケてしまったりすのでISO感度を高く設定して撮影しましょう。
また、暗い場所でのISO感度を高く設定できてもシャッタースピードは遅くなりがちなので三脚も必要になるかと思います。
この機械を操作するには様々な設定項目をいじって撮影することになるのですが、
すぐに取り出して撮影して満足のいける写真が撮れるのはコンパクトデジカメです。
これはコンパクトデジカメはオート撮影を前提に使用されることを想定して
撮影モードが調整されているからではないかと思います。
ですからコンパクトデジカメはホワイトバランス等のミスがおこりずらいのです。
一方、一眼レフカメラはコンパクトデジカメのようにオート撮影、全てデフォルトのままでは
ホワイトバランスがおかしかったり、色の反映の仕方がおかしい場合もあり
絞り・シャッタースピードの設定ミスにより真っ白な写真や真っ黒な写真になることもありうるのです。
また、手ブレ補正機構も近年やっとレンズ内に搭載されるも、ボディ内に搭載された機種はまだ少ないのが現状です。
逆を言えば一眼レフカメラはシチュエーションに合わせた色造りや
水の流れを演出する手法、歩いているはずの歩行者を消す方法など
撮影者しだいで様々な写真を作り出すことができるのです。
撮影場所の環境によっては大きな三脚を持ち出したり、撮影者が寝そべって撮影をしたりと
自分の描く写真を現実化するためなら苦労を惜しまない人には一眼レフカメラはうってつけでしょう。
近年、デジカメ以外にも携帯端末などにもカメラを搭載した端末が増えてきていますね。
ここでよく画素数やメガピクセルなどと言うスペック値が出てきます。
この画素数は年々数値が大きくなってデジカメのセールスポイントとしても使われているのですが
このスペック値は大きければ優れているかと言うとそうとも限りません。
しかし、現在の携帯電話で撮影した写真は高解像度にはなっているが、
相変わらず虹色のノイズなど混じっていて、優れているかと言うとそうではないと思いませんか?
そうなんです。今も昔も携帯で撮った写真は携帯で撮った写真でしかないのです。
この画素というのは画像の最小単位で、イメージセンサに並べられた数を画素数といます。
イメージセンサというのは被写体を写しこむためのフィルムのような物で
カメラの大きさに比例して主に搭載されるサイズが決まっています。
画素は年々小型化され小さなイメージセンサに大量に敷き詰められるようになった結果
小さなイメージセンサを持つコンパクトデジカメでも1000万画素を持つスペックへと成長しました。
しかし、高感度設定が可能な一眼レフカメラに搭載されている画素と違い
小型化され、小さなイメージセンサに搭載可能となった画素は感度が悪く
今ではコンパクトデジカメでも1000万画素を下回る機種は珍しいかもしれませんが、
印刷目的であっても雑誌の表紙を飾るような写真を求めない限り、600万画素もあれば十分だと言われています。
くれぐれも有効画素だけでカメラ選びをしないほうがいいと思います。
読みづらい、わかりづらい点があるかと思いますが、参考にしていただければ幸い。
http://anond.hatelabo.jp/20091006210805
ツッコミをモヒモヒして待ってたのに、はてブばかりが伸びてる割にトラバツリーがイマイチ伸びてないように見えるので、増田からも。
基本的に「コンデジ」と「デジイチ」を「使い方」という面から差別化するなら、前者はレンズがカメラに据え付きであり、後者はレンズを替えられる、というのが最大の違いとなる。因みにこの分け方の場合、「一眼レフ」ではないオリのE-P1だのパナのGH1だのは、後者。こいつらは「レフ」と表現されるミラーを持たないからデジイチにしては薄くて軽いが(ミラーってカメラの中で斜めに寝た状態にあるから、場所喰うんよ)、ファインダが光学じゃないから、気をつけろ。ファインダが光学である利点は、↓とかを参照。無論、ファインダがデジタルであることのメリットもまたある。
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/480
は置いといて、コンデジの場合、レンズが据え付きだから、後で替えが利かない。「画質がいいですよ~」とか店で言われたのをそのまま受け取ってGR3とか買っちゃうと、運動会でガキが豆粒にしか写らなくなるので注意だ。一方、やたらズーム率の高いデジカメ買っても、所詮今の高画素なカメラであればトリミングさえしてしまえば十分だったりするので、用途によってはオーバースペックになることもある。ただ、コンデジの場合多数派は後者で、要するに「誰でも何でも撮る」ことを優先していて、ズーム率も高いしシーンモードも色々ある、ことが多い。
自分も、コンデジを買うなら「汎用性」を重視すべきだと思う。ほぼフルオートで、ズームで構図とる以外はほぼカメラ任せでも、とにかく常時携帯して何か見つけたら撮るくらいの気持ちで付き合えば、かなりお気に入りの存在となるはずだ。その場合、広角端を意識して買うべし。さっきも書いたが、ズームはある程度まではトリミングで誤魔化せるからな。
逆にデジイチはレンズが交換できるのが、逆に、あれ撮りたいこれ撮りたいとかなってレンズを無限に買い出すと、レンズ1本でコンデジ2~3台レベルなんてのは普通にいくらでもあるので、財布に気をつけろ。概ね、こうしたレンズ選びは「何を撮るか」の目的に合わせたものになると思う。被写体がはっきりしている場合には、向いているだろう。最初にキットレンズからはじめて、撮る目的が色々見えてきたら、というのはレンズを選ぶ感じか。
室内とか曇天とか、ちょっとした悪条件でカメラのシャッタースピードはすぐ落ちるので、特にコンデジや携帯だと家で子供とかぬこを撮る場合に大いに苦労する経験をされた方は多いだろう。
シャッタースピードは、当然のことながらカメラが受け取る光の量に比例する。逆に言えば、同じ明るさでもカメラで受け取れる光の量を増やせばシャッタースピード稼げるわけで、受け取る量は「レンズの口径を広げる」か「素子を大きくする」ことで実現し、このいずれについてもデジイチはコンデジを大きく凌駕する。ただ、素子の大きさに制約のあるコンデジにおいても、素子の形状や光の受け取り方を工夫することでこの制約を突破する試みは存在し、全社の代表格として富士のEXRシリーズ、後者の代表としてソニーのExmor-R採用コンデジがある。
無論、それでもデジイチとの性能差は大きいのだが、どうせ室内で子供とかバシャバシャ撮っても、A4にすら引き伸ばさず、せいぜいL版でアルバムに収めるくらいなんだったら、コンデジのこの辺りの性能が高いヤツでシャッタースピード稼げば、十分歩留まりのよい撮影になるだろう。それでも「画質がいい方がいい!」だったら、基本デジイチのレンズキットでそんな明るいのは無いので(例外:パナソニックのGF1→キットレンズが20mm/F1.7)、レンズを別途見積もるのを忘れるべからず。
少なくとも今現在の話として、コンデジは、現下の不況と画素数競争の終焉、携帯撮影文化の定着という逆風の中で絶賛苦戦中である。そうした中で、(特にソフトウェア的な)技術だけは着実に進化を遂げる中で、進化の袋小路的な変態機能が各社から繰り出されている。カシオの超高速連写、ニコンのプロジェクタ内蔵、富士の3Dコンデジなど、言わば「ガジェット的」方向性が見出されるコンデジは多い。こうした機能に「釣られてみる」のも悪くは無いだろう。
一方、デジイチというか伝統的なカメラにおいては、伝統的な遊びとして、テレコンやワイコン、マクロレンズ、フィルタ(クロススクリーンでキラキラな夜景とか、NDフィルタで滝の流れを撮るとか)などによる様々な表現手法が存在する。こうした機材による撮影表現遊びは、ハマると愉しいだろうと思われ。
色々と違いを述べたが、最大の違いはここかも知れない。
コンデジはともかく、結構オート化している。高級なものはある程度マニュアル機能も充実しているが、そういうのはむしろ、デジイチを持ってる人が軽さや機動性を求めて購入するものだろう。
確かに、シーンの操作やズームなど、撮影者の意図は入力されるものだが、大きな方向性としてはプログラムシフトだの絞り優先だのシャッター優先だのよりは、カメラが「勝手に決めた」設定で撮影が行われ、カメラが「勝手に」補正し、時にはカメラが勝手に顔色まで認識してくれた上で、絵として記録される。AFやファインダの敏捷性も高くないので、タイミング的な意味でもある程度カメラに「引っ張られる」部分はあるだろう。というと何かコンデジ駄目じゃん的な印象はあるが、実際「カメラが決めてくれる」気持ちよさ、みたいなのは、確実にある。暗所などの弱点はあるが、記録としての歩留まりは確実に今のコンデジは確保してくれるだろう。
で、デジイチの方はというと、これも一部にはオート機能がオプション的に充実してたりはするものの、総じてはある程度以上「撮影者の意図」を反映する機材である。観光地とかで「シャッター押してください~」と声を掛けてデジイチを渡す人は、普通はいない。
絞りをコントロールしてボケを付けたり付けなかったりとか、わざとシャッター速度を最適からはずして流し撮りとかをしてみたりとか、ピントを被写体の目に合わせてみたりとか、色のバランスを変えてみるとか。こういう機能は、ある程度コンデジにもあることはあるが、制約が付いてるケースが大半である。言わば、コンデジが「メニューから選ぶ」もので、デジイチが「自分で組み合げる」もの。ただ、センスがなければ、機材がいくら良くてもヘボいものしか出来ないという意味で、間違いなく敷居は高く、挫折したら投資が無駄になるリスクもあろう。
そうは言っても、素子とレンズの質の高さでしか実現できない絵はあるので、金と目的があるなら、デジイチに挑んでみるのも良いかな、とは思われ。
じゃあ視点を変えて、「撮りたいもののためにはどんな性能が欲しいか」でも書いてみるか。
デジ一眼にはデジ一眼の良さが、コンデジにはコンデジの良さがある。道具は良い写真を補佐するけど、結局モノを言うのは自分の腕だ。
ただ、明確に目的があるなら、そのために最適な性能というものはある。全部を一台で賄うのは無理だ(デジ一眼はそれに近いことをやってるけど、代わりにレンズを何本も持つことになる)。目的を絞って、必要なら目的別に機種そのものを変えるのもひとつの手。
風景といっても様々だけど、一般的には「広い範囲を切り取る」ことになると思う。
観光地なんかで記念写真撮ろうとして、背景の収まりが悪くて苦労したことはないか?特に建物の前で撮ると、画面に入り切らなくて困る。離れればいいんだけど、そんなに距離を取れない場所だってあるわけで。
こういう時には広角レンズが欲しい。
レンズの倍率はmmで表されてる。ズームレンズなんかだと28-135mmとか、そんな風に。この数字が小さいほど広角に写る。普通のスナップ写真、例えば写るンですなんかは35mmあたり。28だとやや広角ぐらい、21ぐらいになると結構広角。14とかになるともうかなり広角。
広い範囲を無理矢理収める分、広角レンズは端が歪む。球の表面に写真を貼り付けたような、そんな風に直線が曲がる。だから正確な形は把握できなくなるんだけど、これはこれで味わい深い。歪みの面白さを利用して、わざと広角を使うことだってある。
広角の極端になったものが魚眼レンズ。全周魚眼にもなるとレンズ面から180度、つまり真横まで全部写る。
魚眼となると普段使いには不便だし、ほぼ一眼一択になっちゃうけど、単に「広い範囲を写したい」だけなら実はレンズに拘る必要もない。撮影画像を繋げてパノラマを作ってしまえばいいのだ。写真加工ソフトがあれば自力で作れるし、最近では写真を自動で繋いでパノラマにしてくれるソフトまである。またカメラ側にもスウィングパノラマなんて名前で、「前の画像の端に合わせて次の1枚を撮る→終わったらカメラが自動で合成」なんて機能もあったりする。やろうと思えば360度ぐるりと見回す画像が作れたりして面白い。
さて、なにも風景のすべてが広範囲というわけでもない。時には近付けない距離のものを大きく撮りたいこともある。そういう時は勿論、望遠レンズだ。
望遠は大雑把に言えば「画面の一部を切り取る効果」だ。Photoshopなんかで写真を切り取り処理したことはないか?不要な部分が消えて写真の中心が変われば、印象は随分変わる。望遠は、それを撮影段階でやっているようなものだ。そう考えれば、これはまあなくてもやって行ける。でも切り取った分だけ画素数は減るから。大きくかつ微細な画像を使いたいなら、やっぱり望遠が便利。
望遠には他にも用途があるんだけど、それは後述。
雑貨や植物、昆虫のようなサイズの小さい静物を大きく撮るには、普通マクロを使う。大雑把に言えば、カメラに凄く近いところにピントを合わせるレンズだ。コンデジでもリコーやソニーなんかはマクロに強くて、レンズ前1cmまで近付くことができる。最近の薄型機には「スーパーマクロ」とか「拡大鏡モード」などと呼ばれる機能を備えたものがあって、この辺になると接写どころか10倍ルーペ並みの解像力を持つ。布の繊維一本が確認できるレベル。
勿論一眼レフにもマクロレンズはあるし、大型のコンデジなら外付けのコンバージョンレンズでマクロを使えるものもある。
ただ、この手のマクロはカメラと撮影者が対象に超接近するので、被写体に影が落ち易いという欠点がある。そんな時は望遠を使って離れた場所から撮影するのもいい。要は細部を大きく撮れればいいわけで、意外に望遠で1mぐらいから撮った方が綺麗に見えることもあるものだ。
このふたつは割と似てる。動きが早いこと、近寄れないこと。だから撮り方も割と近い。基本はズームと高速シャッター。
シャッタースピードを早くするのはブレを抑えるためだ。動きが早いから一瞬で撮影しないと手足とかブレてなんだか判らない。また望遠で狙うということはカメラの僅かな動きでも視点が大きく動くということだから、手ブレが強くなる。それを抑えるためにも高速シャッターは重要。
シャッタースピード優先モードがあって設定した速さで撮影できる機種が欲しい。
人物や花なんかは日常的にかなり撮影頻度の高い被写体だけど、綺麗に撮るのって結構難しい。なんだかパっとしなくてガッカリした経験も多いだろう。
実は、撮影にはコツがある。被写体以外をなるべくボカして撮るのだ。
低価格なカメラは単焦点のものが多い。写るンですなんか典型的だけど、80cm〜無限遠にピントが合うようになっている。こういうので撮ると、被写体にも背景にもバッチリピントが合うので、被写体が背景に沈んでしまう。
これを絞りを開放して望遠側で撮ると、前景や背景が大きくボケて被写体近辺だけにピントが合うので主題だけが浮かび上がって効果的。
これをやるには、それなりに強い望遠レンズと絞り開放可能な設定、あとなるべく大きなCCDが必要になる。この点ではやっぱり一眼レフが強いけど、一部の超望遠系コンデジでも勿論可能だ。
なお被写体が小さい場合、例えば料理写真なんかの場合もボカシは有効で、雑誌なんかで美味しそうな料理写真を見ると結構一部にだけピントが合ってて前後が大きくボケてるものがある。これは望遠よりマクロの出番。拡大鏡モードで奥行きを強調する感じにケーキの写真なんか撮るとかなり美味しそうに見える。蛇足ながら料理は逆光気味に斜め奥方向から光を当てるのが基本。手前に影が出すぎないように白い紙なんか立てて柔らかく反射させると更にいい。
日常の風景って意外にフォトジェニックで、普段見慣れた場所でも時間や天気、向きが変わると新鮮味を増す。そういうのは普段から撮るつもりで見ていないと仲々気付かない。そのためには普段からカメラを持ち歩くのが一番いい。
最近はケータイのカメラがかなりパワーアップしてるから、それである程度賄える部分もある。それならそれでいい。でも撮影までにあんまり時間がかかったり、画質が気に入らないようだったら薄型コンデジでも用意した方が幸せになれると思う。沈胴ズーム式(電源入れるとレンズがニューっと出てくる)じゃなくて屈曲光学式{レンズが飛び出さない望遠。ズーム部分が横向きに入ってて、プリズムで反射させて向きを変えてる)だと起動も早いからチャンスを逃さない。
余談ながら、実はこの部分ではiPhone最強。撮る→その場で加工→そのままアップロードして公開、まで一台でできてかなり幸せ。画質はチープだけど割り切ればそんなに気にならない。
実はメカニカルな動作だけで比較するとコンパクトデジカメの方がはるかに手ぶれを起こしにくいのよ。
一眼レフは確かに保持動作をしっかりせざるを得ないから一見ぶれに強いように見えるんだけど、カメラ内部でミラーが上がったり下がったりしたりシャッターそのものが大きいためにシャッターを切ったときのショックは大きい。
一方コンパクトデジカメはレンズ内にあるシャッターが小さく動くだけなので衝撃そのものは小さい。だから保持さえしっかりすれば一眼じゃ絶対にぶれるラインであるところの1/4秒だとか1/8秒のシャッタースピードでもブレずに撮れたりする。手ぶれ補正機構入りコンパクトデジカメの場合工夫すれば1/2~1/4秒でもイケたりする(ただし被写体が動いちゃったら意味ないけどね)。
逆に考えるんだ。手で保持しなきゃいい。一番マッチョな解決法としては三脚。もしくは台に載せる。要はシャッター切ったときに手で持ってなきゃいい。
地面に置いたまま撮って画面の半分が地面、なんてのもそれはそれで味。横木安良夫のおじちゃんはそれで作品組んでるぞ。
よし分かった。そしたらまずは片手で撮るのをやめよう。そもそも片手で撮るのは広告のポスターだけだ。まず両手で保持する癖を付けるだけで全然違うぜ。
液晶しかないから一眼レフみたいな持ち方をしちゃいけないなんて決まりはない。ざっと構図を決めたらそのまま額をくっつけちゃってもいいんだ。
なに、額をつけるとファンデがついて嫌だ?しょうがねえなあ。
デキる「わたーしにほーんからきましたー」観光客スタイルを身に付けて首からカメラを下げよう。何格好悪い?大丈夫、誰も君のことなんか気にしてない。
問題はここから先だ。首から下げたカメラを両手で持ったらピンと手を伸ばすんだ。そしてそっとシャッターを押す。どうだい、片手で持って撮るよりずっと絵がしっかりしないかい?首と両手で3点支持されるのでカメラがすごく安定するんだ。
だいたい手ぶれがどうしたら起こるかっていうとシャッターを押したときの手のプルプルが収まってないから、ってのが原因の大半。なら実際にシャッターが切れるまでにラグを作ればいいんじゃね?っていう考え方。いまどきの機種だとセルフタイマーを2種(2秒と10秒、みたいな)持ってる機種が多いので2秒セルフタイマーを有効に使おう。
1枚撮ってぶれるなら押しっぱなしで3枚撮れば1枚くらい止まるんじゃね?って考え方。案外馬鹿にできないぞ!
デジイチブームを否定する気はないし自分も散々使ってるからあんま悪く言いたくないんだけど、「コンデジで上手く撮れない」→「よくわかんないけどデジイチ買えば上手くなるんじゃね?」って勢いでデジイチ買っちゃってそのまま箪笥の肥やしにしてレンズカビ放題、てのも結構あるわけよ。そうするとカメラが可哀想じゃね?
物欲の消化に走るのは日本経済を回すという意味でたいへん結構なんだけどさあ、まずは手持ちのコンパクトをもうちょっと使ってあげようよ。さんざん使い倒して不満が出てから一眼買ったっていいんだよ?
デジタル一眼レフカメラ欲しいなぁって思ってからもう3年がたつかもしれない。
電気屋、ネット、TVとかで見るたびに心惹かれるのだけれど、どうしても踏み切れない。
宝の持ち腐れにならないか心配。
今もっているコンパクトデジカメでさえ年に数回しか使わないし、特に写真が趣味というわけでもない。
これを気に写真を趣味にすることはやぶさかではないのだが、コンパクトデジカメ買ったときもそう思った前科あり。
さらに親戚から昔の一眼レフをもらった時も1年ほどで飽きてしまった。
でも、ファインダー越しに見る景色とかピントが合うときのピピッって音とか好きだし、あのメカメカしたフォルムが誘惑するんです。
欲しいという思いと無駄にしてしまうという思いの間で3年もふらふらしてる。
デジ一買ったはいいけど、しまいっぱなしって人って結構いる?