はてなキーワード: モナリザとは
大学生だった頃、ぼくはかなりとんがったやつだったと思う。
とんがるといってもとても格好いいとはいえないとんがりかたで、世界を敵にまわしているような、一人で戦争をしているような、敵意を剥き出しにして斜に構えるような、そんな生意気ながきだった。
自分の好きなものだけに触れて、世の中間違っていると言い張った。
作り出される自分のアイデアが、とても素晴らしいもののように思えて、それだけに夢中になってあれこれと作った。
ハードボイルドの主人公のように両肩で風を切って、ギャングのように何か面白いものはないかと物色しているような、そんなたぶん二十歳ぐらいの自分を思い出すとなにか冷や汗が出るような気がし、その一方で、なかなかに冴えていたなとも思う。一切を閉ざしてしまって、自分だけの世界に閉じこもって、世の中のものをせっせと自分の世界に取り込んでいたような気がする。
ほとんど誰とも話さずに過ごし、たぶん話していてもかなり機械的な反応しかできなかったと思う。その頃のメールの下書きのテキストが残っていて、それを読むと、官僚的というかガチガチな隙のない文章を書いていて、なんだこいつはサイボーグみたいな文章を書くやつだと、なつかしくなって笑ってしまう。
その文章の中にいる二十歳のぼくはいつも完全武装なのだ。
そんなことになってしまったのは大学一年の頃に起こった事故のせいで、ある事件をきっかけにぼくは人間というものが信じられなくなり、社会を敵にまわすようになった。数ヶ月は立ち直れず、それでも本を読んでいるうちにだいぶ立ち直っていき、読書欲に駆られながら読みふけるうちに、復帰していた。
好んで読んだのはハードボイルド。
チャンドラーとか、ジャック・ヒンギスとか、ギャビン・ライアルとか。
ハードボイルドを読む人なら、この手の小説が汚れきった社会を渡り歩く勇気(社会に絶望していたのでそういう勇気を必要としていた)をもたらしたこともわかりやすいと思う。ぼくはあろう事か、ギャングや、探偵や、元軍人や、スパイに社会との渡り合いかたを教わってしまい、いつも鞄のなかには拳銃が入っているようなそんな心地で、復帰していったのだ。
それは今からしてみれば、常時戦場にいるような緊張感で、そんな状態でまともな会話など出来るはずもないし、たぶんしても鋭すぎる態度で、相手を居心地悪くさせてしまっただろううと思う。それでもギャングだが、探偵だか、スパイだか、元軍人気取りのぼくは、そんな完全武装であちこちを歩き回り、あれこれと色々作って、仲間に見せたりしていた。
それは今から見ても、あの頃に作ったものはすごかったと思うほどで、錯覚ではあるのだけど、本当にたったひとりで世界を相手に戦っていたのだと思うし、シャープで甘えがなく、手を切りそうなほどの切れ味あるものたちを作っていたのだと思う。
だから、こう言いたい。
完全武装の時代もそんなに悪い時代じゃなかったって。
その当時にどのように世の中と接していたかと言われて、ふと思い出した言葉がある。
著名なSF小説「ニューロマンサー」の続編「モナリザ・オーバードライブ」の解説にその言葉はあって、それらの作品を評して「鏡に覆われた(ミラーシャーデッド)表層」と言っている。
この感覚。
ガラス越しという言葉があるのだけど、それよりもシャープな感じで、こちらの表情が見えないようにスモークガラスで覆っている感覚。そして、社会もスモークガラスに覆われていて、お互いが冷たく冷淡で、それが日々すれ違っているのだけど、完全に別け隔てられている。
あちこちのバイトを短期でまわって、世の中のいろいろな風景をスパイしながら(そういうつもりだった)、いろいろに世の中の仕組みを知っていくようになった。会話をしなければならないところでは当たり障りのない、そしておそらくかなり素っ気ない会話を交わし、とても冷淡にその体験だけを盗んでいくスパイのように働いていた。
もちろん、その短期バイトをあちこち回ったことが、のちのちまともに社会に出て、効率的な現場のまわしかたみたいなところでとても大きく効いてくることになったのだけれども、誰もが短期なだけにコミュニケーションらしいものは皆無で、煙草を吸いにいってせっかく話す機会があっても、他の誰かがはなしているのを聞いているだけという、なんという非コミュ。
あの当時のぼくはとてもプライドが高く、口を開くにしてもなにか高級な事を言わなければと思っていたように思う。例えばハードボイルドの主人公のようなセリフなど、いま思えば、現場にまったく必要のない言葉以外話したくなかったのであるが、結局の所それは自分の我が儘で、自分の価値観以外のコミュニケーションを仕事場でさえしたくない、もしくはそれをしなくて良いようアンドロイドのように、時間貸しのロボットのように、ただ効率的に現場をまわすにはどう動けばいいか、だけを考えていたように思えてくる。
ボトルネックを事前に発見して、誰も気づかないうちにそれを埋めていく、それで今日の作業は30%ぐらい効率化できたと悦にいる。そんな毎日。それはリアルシュミレーションゲームのように思えていたし、コミュニケーションなどなくとも、出来る遊びではあった(そしてこの経験はのちのち凄まじい威力を誇った)。
しかし、その当時のぼくはやはりゲーム感覚で、いつでもスイッチを切ってさよならできる現場でしかなく、ミラーシャーデッドどころか、液晶パネルの中の駒でしかなかったのかもしれないと思ってしまう。
そんな事をしているうちに、交通誘導の仕事をやってみることにした。
これは簡単に言えば、工事現場に立っている警備員で、たぶんやってみないとわからないが世の中の潤滑油的な仕事である。仮設の信号機でいいのではないかと言われれば、まあ、そうかもなのだけど、ぼくはその辺の議論はどうでもいいし、もう交通誘導をするはずもないので、あんまり関係がない。
で、いきなりやってくるのは、研修。
法定で4日だったかの研修が義務づけられているとかで、ひたすらに、交通誘導がどんな仕事かをたたき込まれる。そこで言われるのは、ひたすらに危機対応、そして、顧客である工事現場の人たちを守るか。酔っぱらい運転で工事現場につっこんでくる車から顧客を守るのが、交通誘導の第一の責務だとか何とか。まあ、ねえ、顧客だからねえ。
そうやって始めてみるしょっぱなに言われた。
「あれさ、お互い遠くに立ってるじゃない。互いに孤独で。8時間とか、12時間とか。そうするとね、話せないから、上手くいかないと不満がたまってどんどん上手くいかなくなるんだ。そうするとたいへんだよ。向こうはぷりぷり怒ってさ」
これはチームワークなのだと、コミュニケーションなのだと、ぼくはあなたのことを信頼していますと伝える事が重要なのだ。あなたが怒らないように、要らぬ誤解を抱かないように、あなたがぼくが心配ないというシグナリングをしなければならないんだって、あの赤く光る棒を振りながら、ずっと伝えなければならないんだと、それはプレッシャーだったのではあるのだけど、それまでの自分とは違うことが価値があるのだということを、思い知らされた事ではある。
交通誘導に業務効率化する要素などなく、どうやってチームワークをよくしていくか以外に改善点はない。そういう意味では完全コミュな仕事であり、ぼくはあんまり自信がなかった。
それが初めての集合で、煙草を吸っていて結構くせがありそうな人に言われた。
ぼくは、どれだけハードボイルドな世界でショートピースが標準か語りたかった。
「香りがいいんです。それでくせになっちゃって」
「どれ、吸わせてよ。うわ、きつ、なにこれ」
その人は笑う。
「缶で吸ってたときもあるんです。あのときは肺に穴が開いたのがわかりました」
ぼくはきっと「ショートピース野郎」と記憶されたことだろう。それでもその瞬間に、ミラーシャーデッドが融けたのを感じた。ぼくの世界に入ってくる人がいた。確かにさりげないのだけれども、それで勇気づけられたのは確かだ。
そういう感じ。
その瞬間に、一緒に仕事をする人々の世界観もわからないとと思って、一瞬にしてぼくのミラーグラスは破壊された。
同じ人と同じ現場になって、その頃はきつい両切り(ショートピース)はやめていて、もうすこし穏健なロングピースになっていたけれども、その人は、仕事が終わってヘルメットを長時間かぶっていたせいで髪型がめちゃくちゃになっていたけれども帽子をかぶって、自転車に乗る。
そういって、現場から明るくたちさる。
あの職場で、いろいろな人々と、その職場を暖かくする事にどれだけ尽くしただろうか。誰もがその底辺で生活しているわけだし、いつの間にか、それは自分の片足だけつっこんだ居場所になりかけていた。世界がガラス越しではなくなったのこの職場だったし、それはなにか守らなければならない暖かいチームワークの場所だった。
底辺などというべからず。
その後の十年近いキャリアを通しても、素晴らしいチームワークだったと断言できるし、この1/5000ぐらいの荒涼とした、無生産な現場は大量に見てるし、基本的に言えるのは底辺ほど効率的で、上層ほど無能であるということだ。のぼるほど無能になっていく。
機能不全とすべての罪は上層にあるのだけど、わかっているか。
ちょっと言い過ぎた。
ぼくが言いたいのは、底辺を経験してすばらしく暖かく機能的で、ここは問題がまったくない、ということなのだ。ここには何の問題もない。すばらしい経験だった。ぼくの非コミュも解けた。
貴族趣味なぼくは結局ほぐされて、そして紹介で別の職場に入ることになる。
本格的な就職に近い形で、人事のトップに笑われる。
「いや、こんな真っ白な履歴書を見るのは初めて」
その履歴書は真っ白だろうか?
数こと話すと人事の最高責任者は頷く。
じゃあ、採用するけど、明日からちゃんときてね。
配属されたのは実務の最精鋭部隊が集まっている部署で、そこで、笑い合いながら、冗談を言いながら、学びながら、いろいろ効率的なオペレーションを学んだ気がする。それで、特別なプロジェクトが立ち上がって、それにたったひとりで派遣されて、その現場監督(ただし、実権はまったくなし。不安にさせるな)で、まったく見知らぬコミュニティーにぶち込まれる。
「山崎まさよしさんに似てますよね、雰囲気だけ」
「あー、そう言われたのは初めてで」
(ブルースは好きなんだけどねえ…)
そうやって、あ、これで大丈夫なんだ、これで上手くいくのだと、そう安心した。
「黄・赤・白・青」は全く要らない情報。省略。
私のクラスのギャル系の人たちは、署名を集め生徒会に提出すると頑張っていて
いくら署名を集めても、現状は変わらないと思っています。
主語が途中から変わっているのに明示していない。
頑張るのが無駄だと思ってるのはあなただろうが、ならばちゃんと「私は」という一語を入れよ。
「いて」という接続もおかしい。「いるが」だろう。
普通科は文字しか書かないのか絵も描くのかどっちなんだ。
で、つまり何が言いたいの。この部分は何を説明したいの。
私は皆が学校に反対してまで署名活動や、盛り上がってるのがよく分からないのですが
友達になぜそんなことをやるのかと聞いたら
「絵を描きたいから描く。Tシャツに絵を描くことを規制されるのはありえない」
とか言われました。
あら?あなたも最後の体育祭だから素晴らしい絵を描こうと意気込んでたんじゃなかったの?
意気込んでたのは友達で、あなたは冷めてたの?
とにかく文章が滅茶苦茶だから主語がわからない。
皆さんはどう思いますか?
結局あなたの論点や考えが曖昧なので「どう思いますか」と言われても困る。
我々他人にはあなたの学校の行事なんてもっとよくわからんしどうでもいいんだから。
体育祭の中で「黄・赤・白・青」それぞれ自分のチームのTシャツを着るのですが
私の学校は美術科と普通科に別れていて、運動を苦手とする人が多い美術科はTシャツに
最後の体育祭なので、すばらしい絵をTシャツに描こうと意気込んでいたのですが
今年はTシャツに絵を描くことが禁止になりました。
私のクラスのギャル系の人たちは、署名を集め生徒会に提出すると頑張っていて
いくら署名を集めても、現状は変わらないと思っています。
先生はTシャツに絵を描いた生徒は体育祭に出場させないそうです。
美術科は絵を描くのですが、普通科はTシャツに文字を描く人しかいなくて
しかもその文字というのが「おっぱい大好き星人」「Gカップです」や性器の絵を描いたりしている人もいます。
美術科は なのはや初音ミク、モナリザやアジカンのCDジャケット等を描いている人が多いです。
私は皆が学校に反対してまで署名活動や、盛り上がってるのがよく分からないのですが
友達になぜそんなことをやるのかと聞いたら
「絵を描きたいから描く。Tシャツに絵を描くことを規制されるのはありえない」
とか言われました。
皆さんはどう思いますか?
http://anond.hatelabo.jp/20090210131133
別に何とも思わねえな。ただ、弱者救済のために
わざわざ生活保護給付のつもりで書いてやったら小賢しい小言でしか反応できない、
退化しきったジジイしか現れないんでそこは残念だな。
SBMはお前らのちっぽけな自尊心を取り戻すためにあるんじゃねえし、
徒党を組んだところで程度の低い皮肉しか言えないようじゃ、
俺の書いたことを立証しているだけだぜ。
アクセス数があるから終わってないみたいに書いている奴がいるが、
それだけ情弱が多いってだけだろ?沈みゆく船の上で
「こんなに乗客がいるんだからこの船は沈んでいるわけない」
ってアホじゃねえか?状況認識と、危機回避ができてないだけじゃねえか。
アクセスがあるから自分には価値があるんだと思い込みたい勘違い馬鹿も沸いてるが
お前は単なるはとバスだぞ。
バスで自民党と社民党の区別もつかないオバちゃんを何十人美術館に送り込もうが
美術館の価値があがるわけじゃねえし、バスにアート的な価値が出てくるわけもない。
バスの運転手が「このバスは何百もの人にモナリザを見せたんで、モナリザ並みの価値があるんです」なんて言ってたら
失笑だろ?
だいたいお前らがいくらアクセス数を競ったって、
ニュースサイトに紹介されてアクセスがあったって喜んでる奴なんて
記事を書くたびにあらゆる場所からリンクされて
連日数万ヒットの状況を経験しちゃえば
あらゆる場所からリンクを受けて、
日本だけじゃなく海外からも数万、数十万もの人が押し寄せてくる状況があった。
ニュースサイトの奴らも評判が良いもんだから
けど、今じゃ誰も脱出ゲームになんか見向きもしない。
それなのに脱出ゲームを未だに紹介し続けてるような
情弱がいつまでも身分をわきまえないんで
次の潮流を全然掴めずにフラッシュゲーム自体の活気を失わせてしまった。
状況さえ見誤らずに次々とニューウェーブを紹介できてれば
今ごろニコニコ動画なんか寄せ付けない重厚なコンテンツが出来上がってたのにな。
全部お前らの責任だぜ。
そんなのを有難がる情弱どもも同様だ。
何も行動できない、考えることもできない情弱を集めて大将気取りか。目出度いな。
だけどそいつら、服を着てるだけの進化しきってない猿だぜ。
そんな情弱をぬくぬくと守っていったい何になる?
おい、まなめ。まずはお前からやめろ。
折れた骨がくっつくとさらに頑丈になる。マリナーズの佐々木も、肘の手術をしてからの方が活躍をしている。
私は中学生くらいの男の子が好きです。初々しくて、穢れていない未発達の身体。何より「可愛い」。見ていて癒される、キュンとなる。オタクっぽい言い方をすれば「萌え」。
と言っても対象は二次元に限られていて、そこまでディープじゃない。「私ショタコンだから(笑)」って笑いにできるようなポップな変態。だから、口では色々理由つけて魅力を語っていても、それはあくまでネタで、実際はチワワ見て可愛いみたいな、愛玩動物感覚で見てるに過ぎない。何より私は「キャラ」にしか興味ないわけで、「子どもの着替えが毎日見れる!」って教師になったり、「男の子に抱きつきたい!」って紛争地域にボランティアに行くような、自らの歪んだ性欲を満たすためにアクティブに行動する正真正銘のキ印とは違うんだよ。
そんな風に思っている時期が、私にもありました……。
私が最初に三次元の男の子にハマッたのは、誰でもそうだと思いますが、神木隆之介くんです。日本のショタコン人口を数万人単位で増やすためにこの世に降臨した天使。今これを読んでるあなた! youtubeで「神木隆之介」って検索してみてください。私の言っていることが世迷言でないことがわかるはずです。わからないあなたは正常な美的感覚を失っている証拠ですので、モナリザでマスでもかいて反省しなさい。
もちろん共演してる他の男の子にも興味が沸いてきます。
「山田涼介くん可愛いなぁ。でもジャニーズだし……。ジャニーズにハマッたら女としてお終いだな!」
そんな葛藤の日々。
「マイブームは好きな映画俳優が出てる映画を、年代を追って見ていくことかな」
本当はミクシィで素人の可愛い男の子を探しては保存しています。フォルダ名は「英会話関係」です。
「違法ダウンロードソフトって言うの? ウィン、何とかだっけ? 最悪だよね!」
情報革命第三の波の象徴とも言っていいソフトを利用して、ショタで検索しまくりですよ! そしたら可愛い男の子が恥ずかしそうにオナニーしてるんですよ! そこら辺の何千万と予算をかけたかけた恋愛映画よりも遥かにドキドキするですよ。この行は全部冗談ですよ。
電車に乗っている時、皆さんは何をしますか? ケータイを見る? 広告を見ながら何となくボォーッとする?
私は可愛い男の子を探します。近づきます。触ります(頭の中で)。
ただじっと見つめてるのも良いけど、マイメロ風に「満員電車で会えたらイイナ!」って妄想もします。つまり混んでるのを利用して可愛い男の子にべったりくっついて、感触を楽しむのです。相手は恥ずかしながらも嬉しそうな反応をします(確定しています)。
本気でヤバイかもしんないなぁ。そのうち誘拐とかしちゃうかも。
http://anond.hatelabo.jp/20070924231846
著作物の流通、対価の支払いなどにいろいろと問題が起きている。PC関連機器の発達が著作物の流通過程に生じるコストを大幅に現象させたからである。著作物をなにか形のある商品として流通させることが困難になった今、著作物の概念の見直しが迫られているのではないか。
この文章では、著作物とは「誰が」、「何を」(、「誰に」)伝えたかが重要であると主張してみる。例えば、ゴッホが描いた「モナリザの微笑み」には価値があっても、私が描いた「モナリザの微笑み」には価値が認められないだろう。ビートルズが歌うイエスタデイは、私がカラオケで歌うイエスタデイとは違う。
録音物はあくまでも録音物。MP3プレーヤーがどんなにがんばろうと、歌い手も聞き手もそこには存在しない。録音物を聞く限り、自分はそれを横から聞いている第三者でしかない。
言い替えれば、現行のインターネット上における著作物の流通は中身だけが先行し、その中身を伝える人が見えない。これは表現の世界においてものすごく損をしているのではないか。J-POPの歌詞がどれだけ愛を叫んでいても、それをCDプレーヤーで聞いている限り、その伝えたい内容はあくまでも他人ごとでしかない。つき合っている彼女が私に「愛している」と言えば感動するが、スペースシャワーTV(歌や音楽の専門チャンネル)などで「愛してるぅ」といったフレーズを百万回聞いても感動しない。
つまり、メディアの流通はあくまでデモであり、そのアーティストが自分という個に向けて発信(すなわち、聞き手が共感)したときに初めて大きな価値が発生すると考える。そのアーティストが使った表現を他人が単にパクるだけでは単なる劣化コピーでしかなく、アイディアを拝借するにしても、それが作品として認められるにはより高度な洗練が要求される。
本文章の問題点:
http://anond.hatelabo.jp/20070314201650
というところがとてもじゃないが耐えられない。
一行知識というのが世の中にはある。雑誌のハシラに書いてあった「サンドイッチはサンドウィッチ伯爵がトランプの合間に食べられる食事として発明した」といったような、どうでもいい雑学のことだ(唐沢俊一さんが詳しい>http://www.tobunken.com/)。今はトリビアとか言うんだっけ? この一行知識のよいところは、あまりにくだらないから誰も正誤を確かめない、ということだ。
「ものを知っている」というのは「見たことがある」というのとは根本的に違う。原著にあたれとは言わないが、少なくとも「インターネットのウィキペディア」で手に入れられるような知識に、正誤の確証性は求められないだろう。
だが、それでもいいのだ、それが一行知識ならば、その知識は「いかに役に立たず」「いかにくだらなく」「いかにソースが不明瞭」でもかまわない。面白いことが第一であって、他には何の役目もない。
ところで、カラスの脳には霊長類の新皮質に似た構造があって、他の鳥よりはるかに頭がいいらしい。
そう、スチャダラパーの名曲「ヒマの過ごし方」で歌われるように、人類の脳も、発達すると同時にヒマを知った。
ヒマを潰すために絵を描き、音を発し、言葉を生み、知識を遺す。
性本能は水爆戦がなくとも暴走し、テレビモニターの中に映る肌色の物体に欲情することを喜んだ。
かなり思いがけない事だが 人は必死でヒマをつぶしてるだけだ
本来 人はヒマだった そしてそれを受け入れることができた
世界中の至る所そんな足跡を見つけることができるだろう
スチャダラパー「ヒマの過ごし方」WILD FANCY ALLIANCE
酒の席で発酵と腐敗について一言、殺人の前にはモナリザの素晴らしさを語ろう。
女子プロの前座で小人プロレスやってた頃って百貨店の試着室で誘拐されてタイかどこかでだるまにされて、なんて都市伝説がありましたよね。
長い人生を生きていれば、要らぬ知識を溜め込むぐらいのヒマは誰でも作れるだろう。
そこで何を溜め込むかは人の勝手だ。できることなら、要る知識を溜め込んだ方が良いのだけれど。
本・テレビ・インターネットで見聞きしたことを話してるだけの浅いことしか知らないひとたちと、本当の知識を持っているひとの差は、誰にでもわかる。
「大切なのは何を知るかではなく、いかに知るかだ」という言葉にもある通り「インターネットのウィキペディア」ではそれなりのことしかわからない。
なぜ、自分よりも知識の少ないひとしか周りにいないのか、その原因を深く考えてみよう。
それなりの知識を溜め込んだ自分を、後悔する前に。