はてなキーワード: メジャーデビューとは
というようなことを最近思う。
90年代の匿名掲示板文化は「ネットはリアルでは語れない本音で語れる場」として受け手側からは重宝される一方で、作り手側からは「自分のスレは絶対に見れない」という声が多数派だったように思う。
00年代、10年代に入ると個人の発信手段は発達し、作り手側がtwitterで呟くことはもはや珍しくもないし、素人が作り手側に回りセミプロ化することも増えた。
匿名掲示板の存在がメジャーになったり、まとめブログで当たり前のように参照されるようになると、「ネットの本音」もマイルド化してかつてほど刺々しい論評は見なくなった。
それでも匿名掲示板文化が生み出したメンタリティは今もネットに染み付いていて、ゲハ論争に苦言を呈す開発者がいたり、一方でニコニコ動画はまさにクリエイターと2ch的論評を結びつける場でありながら、バブリーな成長を遂げている。
かつては動画で多数のファンを相手にしていた歌い手が、生放送で同じ歌い手や限られたユーザーと深く交流するようになり閉じていく光景。
セミプロクラスの実力で大勢のファンを獲得しながら、傍から見ればどうでもいいことで動画が炎上し、吹き上がるユーザーに傷つき作品を消して去っていく光景。
ニコニコでブレイクしてメジャーデビューしたヒャダインですら「なので,最近はなるべくそういうものを目に入れないようにしています。」と語り、匿名の批評を受け入れられきれない。
人の精神は匿名の批評に耐えられるほど強くないのかもしれない。
そしてネットは作り手の技術・発表の場を躍進させる一方で、受け手を成長させることはなかった。全員が作り手側という建前で動いていたコミケに、「ネットのお客様」である歌い手ファンが乱入し混乱を引き起こしたのは必然のように思える。
http://anond.hatelabo.jp/20110206173305
バンドマン『イェァァァァァァァァァ』
エリート『ザワザワザワザ・・・ きゅ・・・急にどうしたんだね?わ・・・我々に何か?落ち度があったかね?そ・・・そんなに怒らずに・・・』
ふと、彼について想うことを書き認めたくなってこうしてキーを叩いている。
春にリリースされた「CHRONICLE」はとても良いアルバムで、年末になっても日常的にアルバムの曲を聴いていて、次のアルバムでの変化をわたしは楽しみにしていた。
そんな矢先の出来事だった。
家でひとり泣いた。
私は志村正彦と面識などもちろんない。
フジファブリックの音楽は彼らがメジャーデビューしたころから聴いているけど、ライヴには一度も行ったことがない。
そんな私ではあるが、志村の死に泣いた。
フジファブは初期に春夏秋冬をテーマにした曲をリリースしている。
あんなもんを残されたらそれぞれの季節がくる度に嫌でも思い出す。
桜が咲けば「桜の季節を」、灼熱に揺らめく街角では「陽炎」を、金木犀の香りを鼻にすれば「赤黄色の金木犀」を、澄んだ冬の夜空には「銀河」を。
何度聴いても、志村の声はその瞬間のまま色あせることない。今、志村がいないことのほうが不自然なくらいに。
音楽配信の多様化とか、若年層の嗜好の多様化とか、いろいろ原因が取りざたされている。
で、「10代20代の人口自体が減っている(団塊ジュニア比半減)ので、
市場が縮小して当たり前」とされている。
「人口が減っている」というのは、「市場が縮小する」ということなので、
その意味では正しいのだが、逆の面も見る必要がある。
つまり「消費者側も半減」しているが、同時に「生産者側、アーティスト側も半減している」のである。
いや、メジャーデビューしているアーティストの数は20年前と大差ないのだろうが、
つまり、
「100万人に1人の音楽タレントの持ち主(20代30代)」の数は、
20年前だったら20人いたのが、今なら10人に減っている計算になる。
逆に言えば、「20年前だったらベスト200にしかならないB級タレント」でも、
今ならタレント数半減で「ベスト100に入れちゃう」のである。
今から20年前といえば「イカ天」とかのバンドボームが始まり、
90年代のJ-POPに繋がるのだが、これは「団塊ジュニア層が20代になった」ので、
同様のことは、他の才能世界でもありそうだ。
例えば、大相撲。
20年前に「若貴ブーム」が到来し、それなりに日本人力士も頑張ったが、
これは「団塊ジュニア層が力士になったので、タレントが豊富」だったからだ。
世代が半減した結果、タレントが不足してしまって、空いた枠に外国人力士が入り込んでいるのである。
20年前と比べればレベルダウンしてしまう、ということか?
プロになってしまったがゆえに、すでに価値を認められたアマチュアとの差に葛藤するってことか?
例えば、音楽でしか食べていけないとおもってメジャーデビューにまで辿り着けたけど、CDやライブチケットもそんなに売れない。
まわりを見渡すと普段はリーマンしてるけど、ニコ動でオリジナル曲を発表した人が、JOYSOUNDでトップチャートにいてカラオケ配信でチャリンチャリン儲けてる。
プロの俺より、地域のゴスペルサークルのほうが出演依頼もおおい。
会社勤めで最低限の給料を確保しつつ、趣味の音楽の二束のわらじの人達に、(本業である音楽関連収入でも、需要の意味でも)勝てないプロってなんだ?みたいな感情かしら。
けど古今東西、バンド始めた(=楽器に触った)理由の筆頭って”女の子にモテたかったから”じゃん。
そういう不埒な理由じゃ良い音楽作れない!ってのは本末転倒だよ。
アーティストの中身や、考えなんて、正直どうでもいいんだよ。作品の質には関係ない。
お金の為に音楽やってますが何か、って人よりも”良い物”を作れるなんて言うのは
所詮精神論・根性論で”良い物”を選り分けているだけで全然良い物でもなんでもない。
無償でのネット配信が、メジャー化や金儲けを目的としたアーティスト以外の作品を
受け手に対して楽に配信するようになるのは喜ばしいし、
そうした作品のレベルが本当に高いのなら、プロもプロなりの質を求められていくだろ。
そもそも、ネット主体の活動で儲けよう!儲けれる!って考えが、現実を見ているのかすらあやしいんだけどな。
そうした儲けれる人たちと、メジャーデビューしている”目立ちたがり””お金儲けたい”人とどう違いがあるっての?
プロデュースもセールスも自分自身でプロ同様に、それ以上にできるってんなら、
君の論理で言うと、最も良い音楽なんざ作れないつまんない輩なんじゃないのか?
そして、ニコ厨なんて、そうした輩の代表じゃないのか?
ごめん、よくわからん。
何を葛藤するの?
自分の音楽が”受けない・売れない”=”食っていけない”=プロとしてやってけない
っていうのは、別に今に始まったことじゃないんじゃ?
元記事って、
「受ける音楽はメジャーデビューしなくても良くなっていく」って話だから
そういう人たちは音楽で食って生きたい層じゃないし
何をもって「まとも」というのかもよく分かんないよな。
懐古厨とか言わないから、昔はこんなまともな人たちがメジャーデビューして憂いない時代だったんだ!って具体例を挙げて欲しい。
とりあえず尾崎豊がそれに属しない事は分かったので。
ノーム・チョムスキーの本読んで怒った。
ホーリーランド読んで泣いた。
芥川の歯車読んで震えた。
わけがわからないんだ。感性って奴なの?
どこの世界にだって真剣な人間はいて、そいつらは誰だってなんだって素晴らしいんだ。
だけどどうしてだろう?曖昧でいい加減な態度を取ってしまうんだ。みんな。
何ニヤニヤしてるんですか!」 と言う。
別に俺は政治に興味があるわけじゃない。一番好きなのは文学だ。
そして政治に関しては、俺が与えられる影響なんてカスみたいだからって理由で
ロクに考えようとは思わない。投票に行くなんて時間の無駄だと考えている。
江藤議員のこの言葉は象徴的なんだ。これと同じ状況は、音楽にも文学にも漫画にもある。
大学にも高校にも。
神聖かまってちゃんのヴォーカル「の子」は2chで荒らしをしていたんだけど、
でもそれっておかしくない?
彼の主張はシンプルで、2chのバンド板でなんでみんな女の話や、バンドメンバーの愚痴
そういうことしか言わないの?みんな音楽が好きなら曲をみんなに聴いてもらって、
批評してもらって、そうやっていい曲を作ろうよ、
音楽で周りを変えようよ、ってことだ。
だけどの子がメジャーデビューしても2chの現状は変わらなかった。
もともと彼が建てたスレッドにいる奴らは、俺が育てたんだなあとか言って感慨にふけってる。
でもそれって何か違うよね?あんたは何にもしてないよって言いたくなるよね?
の子はそれでもかなり上手くやった方だ。彼自身が新しいやり方で成功したからだ。
だけどそれでも周りを変えることはできなかった。
もっと上手いやり方が必要なんだろう、きっと。
で、その上手いやり方ってなんなんだろうね、って話だ。
でも芸術使った方が影響力は大きい。音楽とか、小説とか、漫画とか。
だけど気になることが一つ。
洗練されちゃったら、メッセージだって、伝えたいことだって、鈍い奴には届かないんじゃないの?
の子が2chで荒らしと認定されたのは、彼の文章がむき出しで、
今までのやり方でいいと思ってる老人みたいな奴らの神経を逆なでしたからだ。
村上春樹の小説がめちゃくちゃ売れるのは、面白いストーリーと、真剣な考察があるからだ。
そしてそれはどっちか一つだけでも楽しめるんだ。
どちらもかなり上手くやっているんだが、最高に上手くやったとはいえない。
鈍い奴が気づく程度に露骨で、鈍い奴が嫌悪しない程度にポップな文章。
そんなのが書ければ理想。
それで鈍い奴がいなくなればきっと世界も変わる。
そんな楽観主義。
ゆずの代表曲の一つに「夏色」がある。
そしてその曲の有名なサビの部分はこうだ。
この長い長い下り坂を
君を自転車の後ろにのせて
ブレーキ一杯握りしめて
ゆっくりゆっくり下ってく
そもそも自転車の二人乗り自体、道路交通法第57条第2項、さらにゆずは横浜出身なので神奈川県道路交通法施行細則第9条の該当規定により、2万円以下の罰金又は科料が課せられる立派な犯罪行為なのだが、まー警察の必死の抵抗むなしく(嘘)ヒット曲になっちゃったわけだし今回そこは大目に見てしまおう。
しかしサビの部分をもう一度確認していただきたい。
どこかおかしくないか?
長い長い下り坂、自転車の後ろに「君」をのせ進む。
そこでブレーキをいっぱい握り締める。
ていくわけないじゃん!
坂道で、しかも人ひとり余分に積載した自転車のブレーキを思いっきり握り締めたら、急停車するに決まってるじゃん!
こりゃおかしくねー???
こんなありえない歌詞を堂々曲に、しかもジャンジャン流れるサビにしてしまったゆずもおかしいし、それを黙って受け入れる日本国民もおかしいぞ!
しかし俺の知る限り、このことを指摘した人をまだ知らない。こんなに大ヒットした曲なのに、そしてかなりの国民が自転車で坂道を駆け下りた経験をもつであろう自転車大国日本であるにも関わらずだ。
もしかしてこの痛恨のミスは「J-POP界のタブー」で、これを指摘した人間はひとり残らず「粛清」されているから、そしてその指摘は完膚なきまでに「検閲」されているから世の中に流通していないだけかもしれない。
だとしたら俺も危ないのかもしれない。今この日記をかいている瞬間も、ゆず直属のスナイパーが俺の命を狙っているのかもしれない。
しかしやはり俺はこんな物理的にありえない歌詞を看過しておくわけにはいかない。俺が指摘してやらなければ、だれがする。そのためにとられる命であるならば、一遍の悔いもない。
さてそもそもなぜゆずはこんな歌詞を書いてしまったのか?その原因をさぐってみたい。
(1)単に表現の仕方をあやまった説
マジメに考察するなら、この説がもっとも有力だろう。つまり本当は「ブレーキを適度に握りしめながら」と歌いたかったところを、PVに見られるような「溢れだす若さ」が災いして勢い余って「いっぱい握りしめて」なんてやってしまったのかもしれない。
実はゆずの二人は好きな人を自転車の後ろに乗せて坂道を駆け下りるなんて、もう教科書レベルに模範的な「まぶしすぎる青春の構図」を体現したことなどなく、それどころか女子に相手にすらされない、悶々とした青春時代をおくってきたのではないか。それゆえ歌詞を全て「妄想」でこしらえたために、リアリティーが極端に欠如したこの歌詞が生み出されてしまったのではないか。しかもこの曲は彼らの「メジャーデビュー曲」である。根暗なやつが何らかの「デビュー」(その多くはいわゆる「大学デビュー」というやつである)を機にリア充をきどろうとして痛々しい結果になるのは、毎年この時期全国各地で見られる恒例のシーンである。つまりこの歌詞は、非リアの非モテがリア充をきどってかえって痛々しくなってしまった一つの例に過ぎないという説だ。
もしゆずが本当に長い長い下り坂をブレーキ一杯握りしめて「ゆっくりゆっくり」下っていった経験があるとしよう。全くきかないブレーキの自転車で長い下り坂を下ったら間違いなく猛スピードになるだろうから、ある程度ブレーキは効いていたのかもしれない。しかし人間二人(推定100キロ)を積載した上、ブレーキをいっぱい握りしめても停止しないということは、やはりその自転車は完全に整備不良である。
そもそも長い長い下り坂の後半にはそれなりのスピードに達していると思われるが、この自転車は止まることが出来るのか?もし坂道の途中でクルマが飛び出してきたらもう轢かれるしかないし、止まることがマトモに出来ない自転車で二人乗りなんかしてたら確実に事故る、もしくは誰かを轢いてしまって殺してしまったり重大な障害を負わせる結果となるだろう。そしたら最悪死ぬか、重傷を負うか、あるいは交通刑務所行きのあげく多額の損害賠償請求を受けるだろう。死んでしまったら「ゆず」は下界ではデビュー出来ないし、仮に重傷を負ってしまったり刑務所行になったならそんな悲惨な経験をあんな楽しげに歌うはずがない。よってこの説の可能性は非常に薄いだろう。
個人的には(1)の説を信じたい。言い間違いか、ただの語呂の問題だったのかもしれない。しかし(3)はともかく(2)の説もまたやはり濃厚だ。デビュー曲の、よりによってサビの大事な部分がそんな痛々しい「非リアの似非リア充アピール」だったなんて、今や紅白出演アーティストであり、北川悠仁に至っては「月9俳優」でもある彼らにとっては「不都合な真実」だろう。そしたらやはり、俺は「ゲシュタポゆず」によって粛清されてしまうのかもしれない。
でもやっぱりこのことを伝えずにはいられなかった。もし俺がゆずに消されてしまっても、俺が残した「ゆずの夏色のサビってヘンだよねー」という指摘が消えずに読者のみなさまに残っていくのであれば、筆者として望外の喜びである。
天才が死んだ。彼女とは高校の部活で出逢った。自分という可能性に自惚れやすい時期だったにもかかわらず、自信という自信を木っ端微塵に打ち砕かれた。圧倒的なまでの天才。その天才が死んだ。自殺だった。
次の休日。同じ部活だった後輩に会いにいった。もう何年も会ってなかった。後輩は天才と同じ道に進んだが、持っているモノが違いすぎた。歌手としてデビューするもパっとせず、今は秋葉原で路上パフォーマンスをしているらしい。駅をでるといくつもの人だかりができていた。大きなかたまりから探していくと見つけることができた。7番目だった。体に密着したエナメルの衣装は申し訳程度に体を隠すだけで水着と遜色のないくらいに肌が露出していた。不自然に高い甘えた歌声は観客には届いてないようだった。ぴろりん。ぴろりん。観客たちは忙しそうに彼女のスカートの中身を携帯のメモリーに入れていた。
前日の夜、友人に電話をした。彼女も天才に打ちひしがれたひとりだった。あるとき彼女が徹夜して書いたスコアを持ってきたことがあった。小学校の時、ベースに目覚めて以来、毎日練習を欠かしたことのなかった彼女は上手だった。少なくとも同じ世代の中では間違いなく上位だった。でも上手なだけだった。恥ずかしそうに彼女が演奏を終えると部活のみんなは聞き惚れていた。いい曲だった。だが天才が、ここはこうした方がいいんじゃないと即興で直すと、はるかにいい曲になり、全体を直し終える頃には、震えるくらいの曲にまでなった。これは暇つぶしに作った曲だから。耐えられなくなった彼女はそういって徹夜で作ってきたスコアを破いた。
電話に出た彼女は天才の死を知っていた。運良くメジャーデビューできたけどやっぱり彼女にはムリだった。出す曲はワンパターンだし、ピークは3年前。そんなことを言う彼女に今なにをしてるのか尋ねると詩や曲を作っていてるらしい。「それよりも今」興味のない話を打ち切るように彼女は言った。「学園祭の映像を見ているんだけど、懐かしいなー、みんな若くてカワイイし、このときは良かったよなあ」それは彼女がヴォーカルで、天才がバックをやってた時の映像だった。彼女は何年も前からそんな調子だった。
後輩のパフォーマンスが終わり後片付けをしていたところに声をかけた。思いの外、彼女の驚きは少なかった。先輩、お久しぶりです。そう挨拶され近くのファミレスに行くことになった。世間話から会話をはじめたものの、それもすぐに尽き、話題はやはり天才のこととなった。本当に残念です、と俯く彼女は、友人とは違い、心から悼んでいるようだった。天才と同じ道に進むくらい、誰よりも憧れていた彼女。
「ねえ」尋ねるべきではないかと思っていたものの聞かずにはいられなかった。「なんでそんなことしてるの?」
「ああ」過去を思い出したのか彼女は苦笑いして答えた。「わたしこういうの否定してましたもんね」
そう。彼女は誰よりも、今の彼女がしているようなものを否定していた。
「耳にタコができるほど聞かされたからね。あんなの音楽じゃない。恥知らずで信じられない。って」
「あはは。そんなことも言ってましたね」
「じゃあ――」
「先輩。やっぱりわたしには才能がありませんでした。部活の時からわかっていましたけど、実際にプロの世界で仕事をして、もしかしたら、なんて淡い期待も消え去りました」そう言うと彼女の瞳がまっすぐにこちらを向けられた。「でもね、先輩。やっぱりやめられないんです。わたし。それでも音楽がやりたいんです。続けたいんです。だから音楽ができるなら、たとえそれがむかし軽蔑してたようなことでも、頑張ってやらさせてもらってるんです」
「まあ、できればやっぱり、多くの人に聞いてもらいたいんですけどね」照れ隠しに笑う彼女に対して私は曖昧な返事しかできなかった。
頭がぐるぐるしていた。家に着くとベッドに倒れ込んですぐに眠った。とにかく眠りたかった。けど夜中の2時に目が覚めた。冷蔵庫にミネラルウォーターを取りに行きソファーに座るとDVDラックが目につき、学祭のDVDをプレイヤーに入れてみた。流れる映像。あたしたち。音楽。また頭がぐるぐるしてきた。でも眠った。明日は仕事だった。
http://anond.hatelabo.jp/20090629223650の続き
Ⅱ、物語の面白さについて
小説とは、物語を読者に伝えるために文字で書かれた文章だ。書き手が小説を書く動機はおそらく大きく分けて四種類あるだろう。物語の面白さを伝えたいという動機、物語という糖衣に包んで何らかのテーマを伝えたいという動機、物語を伝えるための表現方法の工夫を見てもらいたいという動機、小説を書くことによりカネや名誉を得たいという動機だ。テーマを伝えるためにはそれを包むための物語が必要だし、表現方法を見せるためにも、表現される物語が必要になる。そして、面白い物語でなければカネや名誉を得ることは出来ない。
物語そのものの作り方については、特に語る必要はないだろう。これを読んでいる方の大多数は日本で生まれ育ち、テレビという媒体によって物語の構造を経験的に知っているはずだ。
物語にはどのような面白さがあるかについて見ていこう。
以下の広告文を見て欲しい。これらはダ・ヴィンチの2006年5月号から採取した。
(削除)
これらの広告文から想像できる物語は、結構面白そうだと思えないだろうか。少なくとも、本屋でこういった文面が目に飛び込んできたら、手に取りたくはならないだろうか。むしろ、そういう小説が面白いからこそ、こういう広告文をライタ―は考えるのだ。「暴力や性などのように、人間の生理的なものに根ざしているものが面白いのだ」、とキンチュという学者も1980年に言ったらしい。生理的なものに根ざしているということは、きっと「すごくトイレに行きたい!」というような話も面白い部類にはいるのだろう。それを確かめるためにもとの文献に当たろうと思った。Poeticsという雑誌の9号にその論文が載っているらしいのだが、しょっぱい図書館には7号までしか置いていなかった。だから上の括弧内の言葉は、孫引きだ。本当はやっちゃいけない。
生死や性と言うとハリウッド映画のようなバタバタと煩い小説が思い浮かぶかもしれないが、静かな小説だってこの面白さを持つ。重松清の『舞姫通信』はアクションシ―ンなんて全くない静かな小説だけれども、主人公の周りでは自殺がたくさん起こる。市川拓司の作品群だって恋愛とヒロインの死が物語の主軸となっている。
物語は大体、始まりに主人公にとって悪いことがあって、それが改善されることで終わる。内田の言う〈欠損―補充〉の物語の構造といっても良い。こういった〈欠損―補充〉の構造を持った物語は、主人公の感情を推測しやすかったり後々に読者が内容を思い出しやすかったりするらしい。これについてはいろんな人がいろんなことを言ってる。「物語は葛藤から生まれる」、「物語は欠如から生まれる」、「物語は主人公の目的意識から生まれる」等々。だからこれ以上、このことについては触れない。
どんでん返しと言ったら、『……だと思いこんでいたにもかかわらず、実は……だったぁ!!』という、物語のクライマックスで頻発する奇怪な現象だ。歴史は古く、2300年以上も前に、アリストテレースがこれについてゴチャゴチャ言ってる。
基本的には、『主人公は目的達成に関わるものが或るものだと仮定して行動する。その仮定が正しくなかったことを知るや否や、知る前にとった行動が本来の意味とは別の意味を持ってしまう』というものだ。そうじゃないのも沢山あるけど。
作り方は簡単。
ⅰ)主人公はaという存在(人でも物でも良い)を求めている。ⅱ)aと共通項を持つαを発見し、αに対して何らかのアプロ―チを取る。
ⅲ)αは、あたかもaであるかのような反応を示す。
ⅳ)何らかの要因(約束を守るとか破るとか色々)によってαがaでないことに気づく。
ⅰからⅴのaとかαに好きな言葉を入れれば、即席でどんでん返しを作ることが出来る。
市川拓司の『いま、会いにゆきます』を例にとってみよう。
ⅰ)主人公の巧は、死後の世界からもどって来る妻、澪を待っている。ⅱ)ある日、工場跡で、巧は記憶を失った澪を見つける。彼女に過去の思い出を話したり彼女と愛しあったりする。
ⅲ)澪は、生前の彼女がそうであったように巧のことを愛してくれる。
ⅳ)澪が再び消えた後、彼女が残した手紙によって、巧は澪が蘇ったのではなく過去からタイムスリップしてきたのだと知る。
ⅴ)それによって二人が愛しあったことの意味合いが少々変わってくる。
一見とても複雑で、私のような凡夫には到底思いつくことが出来ない、と思われる人もいるかもしれないが、そんなことはない。「実はタイムスリップだった」というところを思考の出発点にして、「戻ってきたと思ったら、実はタイムスリップだった」、「妻が戻ってきたと思ったら、実はタイムスリップだった」、「死んだ妻が戻ってきたと思ったら、実はタイムスリップだった」とアイディアを広げていき、そしてそのアイディアを盛り込むのに相応しい物語の全体像を考えてやれば良い。
読者の持っている常識または読者の予想からズレのある状況を描くことで、読者の気をひきつけることができる。シャンクの言う「スキ―マに一致する期待を破ったり逸脱する場合」の面白さになるのだろう。
期待を破るという点では、どんでん返しも同じである。どんでん返しはズレの中の一つと僕は考える。
ズレは『……にもかかわらず……』の形で表される。『にもかかわらず』の前の言葉が、読者に或る事象や状況を想像させる。『にもかかわらず』の後の言葉が、想像した事象や状況とはズレた事象や状況を表す。
いくつか例を挙げよう。
①、能力がないにもかかわらず、行為を行なう。例:武器を持っていないにもかかわらず、敵に挑む。
②、立場がふさわしくないにもかかわらず行為を行なう。
③、不本意であるにもかかわらず、止むを得ない理由により或る行為を行なう。
④、以前はpであったにもかかわらず、今はqである。
⑤、本来はpのために存在するにもかかわらず、qとして利用する。
①~③は人物の行動に関連したもの、④、⑤はものの存在に関連したものだ。飽くまで例を挙げただけで、全てのズレを網羅しているわけではない。
ズレで注意しなければいけないのが、あまりにもズレが大きすぎると読者が小説についていけなくなったり、期待を裏切られた衝撃で読むことを止めてしまう危険があることである。読者がそのようなことを起こすことのないよう、ズレが起こる前にある程度読者にズレを予想をさせて、ズレを少なくしなければならない。
①・②のズレを少なくする方法の一つとして、それを行う登場人物に前もって「或る状況に陥ったとき、この行動をとる」と宣言させれば良い。そもそも我々が暮らしている現実世界においても、能力や立場が行動を実行に移す足かせになっても、動機さえあれば動き出すことがある。①・②のズレは、ズレが大きくなりすぎるようなことが少ない。
③のズレを無理なく(読者が拒絶することない程度に)作るには、或る目的を成し遂げるためには無理にでも何かをやらなければならない状況を主人公に与えればよいのではないだろうか。
例えば、三谷幸喜監督の『有頂天ホテル』であれば、主人公が別れた妻に良い恰好をするために自分が受賞したわけでもない賞の受賞コメントをする。
④の場合は、状況が大きく変わるための理由付けをしてやれば良い。その最も簡単な方法は約束をすることである。状況が悪いほうに転じる場合には約束を破れば良いし、逆に好転する場合には、約束を守っていれば良い。
⑤について考える。例えば「aをbに~する」というようなズレのある状況を作りたい。そのときには、
ⅰ)aを元として含む集合Aもしくはbを元として含む集合Bを提示する。もしくは、aは集合Aに元として含まれることやbは集合Bに元として含まれることをこじつける。ⅱ)「Aをbに~する」、「aをBに~する」、「AをBに~する」のいずれかを物語の中で提示する。但し、宣言された行為にはズレはない。
ⅰとⅱを任意の順番で行ったうえで「aをbに~する」というような行為を行えば自然ではないだろうか。
伊坂幸太郎の「アヒルと鴨のコインロッカ―」を例に採ろう。この小説では、終盤でドルジという登場人物がボブ・ディランの曲を流したままのラジカセをコインロッカ―の中に放置するという、常識的にあまり考えられない行動をする。しかしそれは「善いことも悪いことも、やったことは全部自分に戻ってくる」と言うドルジに対してドルジの恋人である琴美が「それならさ、神様には見て見ぬふりをしてもらえばいいって。緊急事態だから。神様にはどこか見えない場所に閉じこもってもらえばさ」と言い、また、別の場面ではドルジの友人の河崎がディランの歌について「あれが神様の声だ」と言ったからだ。
小説の序盤や中盤にあった状況や事象を小説の終盤に再び置くことで読者に一種知的な発見をさせ、はっと驚かせる効果がある。これも、いくつか例を挙げよう。
順境から逆境、または逆境から順境と言ったような状況の大きな変化に用いられる。報いが起こる以前に行われた約束を守っていた(破っていた)ことが原因となって、主人公の立場が大きく変わってしまう。
例えば、綿谷りさの『インスト―ル』であれば、主人公はネット上の文字のやり取りでは「自分をキャラクター化している傾向が強い」ような人は「しょっぱなからH会話をしたら憤慨してしまう」ため、そのような人とはそのような会話をしないように誓うが、結局そのような会話をしてしまい、会話の相手を憤慨させてしまい、窮地に立たされる。④のズレを作るのにも使うことが出来る。
物語の序盤や中盤に立たされた状況に、物語の終盤で再び立たされる。序盤や中盤で採った行動と異なった行動を、終盤で採る。主人公の成長を表すのに使われる。
例えば乙一の『しあわせは子猫のかたち』であれば、主人公は物語の序盤と終盤で同じ一人暮らしという状況に立たされるが、序盤では「陽の光は嫌いなのでカ―テンを閉め」たが、同居することになった雪村サキとのふれあいを通じて終盤では自発的に「カ―テンを開き、窓をあけて風を入れ」るようになる。④のズレを作るのに使うことが出来る。
ある現象・行為に対して意味づけをし、それが物語終盤で再現される。
例えば伊坂幸太郎の『陽気なギャングが地球を回す』では、「人生を楽しんでいる人が寄っていくと赤ん坊が泣き止む」と、登場人物たちが冗談で言う。小説の最後で主人公達が銀行強盗に入ったとき、赤ん坊が泣き止む。⑤のタイプのズレを、⑧の伏線のタイプに含むことが出来るだろう。
物語序盤で現れた事象/状況が物語終盤でリフレインさせることにより、はっと驚かせる。
伊坂幸太郎の『重力ピエロ』は、最初の行と最後の行が「春が二階から落ちてきた。」となっている。
伏線は悲壮感の軽減するのとズレを少なくするために使える。
『しあわせは子猫のかたち』であれば主人公の成長により雪村サキが消えた悲壮感が軽減されるし、伊坂幸太郎の『アヒルと鴨のコインロッカー』であれば、ドルジが辛い過去を語った後でレッサーパンダ盗む子供たちが再び表れ、場面が明るい印象になる。
約束や意味づけはそれ自体がズレのある状況の理由となるため、ズレた状況の蓋然性が増す。
素晴らしい小説に出会えたとき、人はその後の展開を想像し、読み終わった後も空想の中でふわふわと浮かんでいるような感覚を味わえるものだ。もしかすると、逆をとって、そのような小説は素晴らしい小説だといえるんじゃないだろうか(『逆は必ずしも真ならず』ってのは知ってるけれども)。
想像というのは一般に、確定していないことを想像する場合と、すでに確定した状態についての反実仮想とがある。物語の中での前者の確定していないことを想像する場合は、未だ語られていないこと、たとえば登場人物の未来や知られざる過去などを想像する。後者のすでに確定した状態についての反実仮想は、過去において登場人物がとった行動をもしとらなければ物語がどう展開していたかを想像するというものである。
物語における想像の主体は読者と登場人物である。読者が自発的に想像する場合と、登場人物がした想像を読者が受け取る場合とがある。
〈自発―未確定〉〈自発―反実仮想〉
〈受容―未確定〉
〈受容―反実仮想〉
の四つに分けられる。本当は想像を提供するのは登場人物の他にも物語の語り手も含まれるのだが、語り手が読者に意見を押し付けるような小説は最近の主流ではないのでここでは無視する。
読者が自発的にが想像をするときには、ある程度の制約が必要である。たとえば舞台の上に割り箸が一膳転がっていても漠然としていて想像の仕様がないが、舞台袖から現れたコメディアンがそれを拾い上げると、何か芸をするのだと想像ができる。読者が自発的に想像する場合は、制約を使う。物語世界を飛び出して現実世界に想像を膨らませる場合もある。
登場人物の想像を受け取る場合は、制約は必要ない。登場人物が発想したことを、読者が自分の考えとして取り入れたりありえないものとして棄却したりする。すでに読者にとっては確定した内容について、そうとは知らず登場人物が想像を巡らす場合もある。
このパターンの場合の制約は読者の持つ物語の鋳型である。読者の持っている物語の鋳型と今読んでいる小説の文から与えられた情報から、今後の展開を予想するのだ。想像によって複数の物語が出来上がってワクワクする。
一般的に読者は、登場人物が道徳とか願望とか義務とか知識とかの欠損を埋めるという物語の鋳型を持つ。登場人物の悪事は罰せられ、道徳の範囲内で主人公の願望は叶えられるように物語は動き、願望を果たす範囲内で義務は遂行され、ミステリーの場合は犯人は誰であるかという知識の欠落が結末までに必ず解決されるものと予想する。
読書経験によっても物語の鋳型は作られる。連作物の場合、最終回でないにもかかわらず最終的な目的が成就されることは無いし、週刊少年ジャンプに載っている漫画の場合、恋愛が成就するような展開はなかなかありえないだろうし、花とゆめで連載されている漫画の場合であれば逆に恋愛が絡まない話の方が難しいだろう。
主人公に選択肢が与えられたときも、選択肢という制約によって想像が発生する。ただ、物語の鋳型によって実現の可能性がないものとみなされ、想像から棄却されるような選択肢はあまり有効ではない。だが、ありえないとみなされる選択肢は反実仮想としての面白さになるため、選択肢が全くないよりは実現の可能性の少ない選択肢でもあったほうが物語の面白さは高い。
過去において提示された選択肢について、もしあの選択肢を選んでいれば主人公は別の状況に立たされていたのに、という想像を読者は巡らす。面白さに及ぼす効果は⑬と似通っている。ただ⑬とは違い、登場人物がそれについて想像や言及をしない場合である。
O・ヘンリの『賢者の贈り物』を見てみよう。デラは髪の毛を売るか売らないかという選択に立たされる。夫が髪飾りを買ってくれるが、デラは髪を売ってしまったため、その髪飾りを使うことができない。過去における選択肢という制約により、髪の毛を切らなかった状況を読者は想像できるのだ。
登場人物が自分の計画・推測・願望を語り、それが実現するかしないかを読者が想像する。複数の人物が自分の計画・推測・願望を語る場合、それ選択肢の形になり、読者はそのうちの全部か一部を採択するか、どれも採択しないかを選ぶ。⑩の場合との違いは、⑩の場合は読者の能力によって想像の幅が決まるのに対して、⑫の場合であると登場人物の側から想像を提供することである。
アレックス・シアラーの『13ヵ月と13週と13日と満月の夜』の主人公は、友人のメレディスが祖母を虐待しているのではと想像し、読者はそれを信じたり信じなかったりする。
過去において提示された選択肢について、もしあの選択肢を選んでいれば登場人物は別の状況に立たされていたのに、という想像を作中の人物が巡らし、それが読者に採りいれられたり取り入れられなかったりする。
東野圭吾の『手紙』はこの連続だ。主人公の兄が金を盗み取るという行動を採択したために、主人公はメジャーデビューするバンドのボーカルになる機会や逆玉に乗るチャンスを失ってしまう。後々になって、そのことについて主人公の周りの登場人物がそのことについて言及し、現実にならなかった状況を想像する。
登場人物が事実とは異なる想像をすることで、事実と想像のズレを生み出すことが出来る。
森絵都『永遠の出口』では、主人公の母親が主人公の振る舞いについて相談する手紙の内容が、主人公の思惑と全く噛み合わず、面白さを生む。
登場人物が死後の世界についてとか、この世の成り立ちとか、この世界が本当はどうなっているかとかについてを説明し、読者はそれが本当かどうかと空想をめぐらせる。死んだあと人間はア―カブイ星に行くとか、この世の最強の動物はクマであるとか、この世界は三年前に一人の少女によって作られたとかの、登場人物による様々なアイディアを、読者は採択したり棄却したり別のアイディアを考えたりして楽しむ。もし現実に、物語の中の状況に自分が立たされたらと想像する読者もいる。
⑩・⑫は先を予想する面白さ、⑪、⑬、⑭、⑮は今読んでいるペ―ジの面白さと言える。
⑩・⑫は、物語の展開によっては「……と予想していたにもかかわらず、本当は……という展開だった」というズレに使える。週刊少年ジャンプのギャグマンガの登場人物には普通、まともな恋人ができるわけがない。ラブレターを渡されると思ったら茶封筒に入ったただの手紙だったり、恋人になった人が広末涼子に似たとても可愛らしい女性だと思ったら実際はマウンテンゴリラだったりするのがギャグマンガの常だ。そういった鋳型を破壊したとき、読者の予想を裏切った面白さが生まれる。
森絵都の小説の会話が、まさに予想を裏切りによる面白さ(例えば、愛の告白をするのかと思ったら、突然晩御飯のメニューを訊いたりする)を持っていると思うのだが、それはまた別の話。
以上でまとめた面白さはそれぞれ完全に独立したものではなく、複数にタイプに跨って存在している。どんでん返しはズレの範疇に入るし、反実仮想や登場人物による誤った想像もまたズレに入れられる。不安の解消による面白さは、それが成し遂げられる以前(物語の序盤や中盤)では、解消されるという予想として存在する。だが本稿では、それぞれの面白さを二、三の大きな分類に還元することよりも、思考のツールとして使いやすい程度に細分化することを目指した。
以上で述べてきた物語の面白さに関するツールが実際に役に立つかや他にどのようなツールがあるのかを検討するべきなのだろうが、あとは知らないです。ここまで読んだ人は、本当にとてつもなくえらい。えらすぎです。
この書きなぐりの文章を鵜呑みにせずに、否定するべきところは否定して、無視するべきところは無視して(そうすると、この文章に書いたことは何も残らないかもしれない)、自分なりのスタイルを確立してください。
ここに書かれていることは正しいことではなくて、僕が話を書く上で寄りかかっている杖に過ぎません。くじいた足を引きずりながら歩いていたら、運よく見つけた棒が、ここに書かれている方法です。それが、折れやすい棒なのか頑丈な棒なのかは、僕自身にもわかっていません。
「阿呆なことを妄想している暇があるなら原稿千枚書いて来い若造」のような感想を抱く方もいると思います。それは当然のことで、文学者でもない、文学部でもない、当時ただの経済学科生が色々な本を読みながら、自分なりのスタイルを掴むために書いたものです(今現在の自分は、これとは少し違う方法で話を書いています)。
そのような感想を抱くということは、言語化できる根拠があるはずなので、是非、それを文字にしてみんなに見せてください。それが、必ず小説の未来に繋がります。
最近だんだんVOCALOIDから遠ざかるようになってきて、supercellのデビューを境にすっかり嫌いになってしまった。
VOCALOIDを知らない一般人にも十分聴かせられるような歌唱力の作品がメジャーデビューするなら大いに歓迎するけれど、あの歌声はロボっぽさが目立っててとても他の人には聴かせられないし。ニコニコや同人活動で盛り上がるだけならいいけど、あれを一般流通に乗せてほしくない。
もともと自分が好きだっただけに、「VOCALOID曲の最高峰でもこんなもんか」って思われるのがすごく嫌なんだよね。「ぼかりす」レベルとは言わないけれど、もっと調教はしっかりして欲しかった。
お店の中や街中であのミクの声が聴こえてくるのがすごく嫌だ。
似たようなことを、僕も思いました。
「正直どうでもいい」「(現代語的な意味で)『耳触り』良ければそれでいい」「歌詞で泣きそう(;_;)」
というのが、初音ミクのヒットの根っこにある気がします。
ふと、初音ミクの歌の中の人(≠初音ミクの中の人)って、基本的にはシロートさんだよな?と思ったのが、
私の疑問のキッカケです。これまでの音楽業界でいえば、そこいらの街中やライブハウスで自作の曲を
歌ってたり、インディーズ扱いでデモテを配ってた、プロの音楽家カテゴリーには入らないような人たちが、
「初音ミクの歌の中の人)」・・・初音ミクのプロデューサーと言い換えてもいいかも知れませんが・・・、
だと、思うのです。
で、そういう人たちが、これまでと変わらないDTMの延長に、初音ミクに歌を歌わせただけで、
なぜか「初音ミク」扱いでプロデビューできてしまった(楽曲提供できた)。それはなぜだろうか?
1つは、
誰が聴いても初音ミクの声だと解るから。
どこの輩か分からないインディーズ歌手とは違って、少なくとも「初音ミク」ブランドという
裏書きがついている。
そしてまた、「『初音ミク』という歌手を知っている」という共感を喚起させる。
だから、フツーのシロート・インディーズとは違った受け入れ方ができた。
もう1つは、
店内とかで流れてる曲とかPVの曲とか聴いても、誰の歌かすら解らない。
正直どれもこれも同じように聴こえる。
どれもこれも同じように聞こえるような雑多な音楽の中では、正直、他の歌手と差異がない。
そうなると、どこに共感できるか?というのが受け手の判断基準になるし、ならざるを得ない。
すると、「共感できる(苦笑)歌詞」「バーチャルな歌手(という不思議な存在)」
「シロートでもこんないい曲・歌詞を作れてメジャーデビューできてる(私もできるかも☆)」
僕が思ったのは、こんなところです。
あと、脱線しちゃうけど。。。
「機械音がイヤだ」「練られていない音楽がイヤだ」という論調もあるけれど、
正直、大衆向けJ-POP音楽というカテゴリの中では、殆ど五十歩百歩だと思う。
(もちろん、真っ当な歌謡曲・演歌歌手や、いわゆるクラシックの領域は別。)
誰とは言わないし好みの問題だけれど、某アイドルグループや、某エイベックスの歌姫みたく、
音程も当たってないしアンサンブルもできていない楽曲を聞かされるよりも、
まだ音程が当たっててリズムも正しく、平均律の中でアンサンブルできてるボカロイド楽曲の方が、
少なくとも僕は、「安心して」聞ける。
http://evnote.net/2009/01/28/business/2125.html
メジャーになりきれないインディーズミュージシャンと、子供の心を持った大人たちが集うインターネット特区。
だがしかし、そのけな気な姿を維持し続けることが人生で最高の幸せと知るがゆえのツンデレ戦略。
彼らははてなが一般的なサービスとして成功することを望んでいるとは思えない。
はてなは、ちょっとユーザーが一般とは離れすぎていて、日本におけるインターネット特区ですね。
「量(PV・売上)じゃない、質(技術にとんがりすぎ)なんだ!」を地で行っています。
はてなブックマークを大衆受けするようにリニューアルしたりとか、たまに「はてなはみんなが思ってるはてなじゃなくて、もっと一般的な誰にでも使ってもらえるサービスなんだよ」とアピールするあたりツンデレで、今のはてなユーザーを満足させる原因のひとつになっていると思います。
本当に一般大衆に受けてしまっては駄目なので、ギリギリ一般大衆にうけないバランスを慎重に考えながら、でも一般大衆受け目指しててお前らとは違うよ、というツンデレ姿勢を保ちながらやっているのは結構才能だと思います。
ある種、インディーズにおけるトップミュージシャンが「オレ、実はメジャー目指してるんだ」とファンに語りながらも、タレントになりきれずメジャーデビューできない、でも目指している姿勢を見せないとファンに申し訳ない。ファンはいつもおなじみのライブハウスで一生懸命歌っている彼(はてな)を見て、いつか彼がメジャーに出たら私はインディーズのときから応援していたのよ、という「先見の明あるね私」的な自尊心を満たしたい、でも、実はメジャーにいってほしくない、私の手が届く距離、インディーズで歌い続けてほしい、切ない・・・
はてなブックマークを一日10回以上は見ているから、はてなは十分メジャーだと思っていた。
アメブロやFC2とかライブドアがまとめサイトとか、AV女優とか、芸能人バンザイってやっているなら、独自路線を出していてとんがっていると感じていた。
2008年12月2日、音楽ニュースサイト『ナタリー』にてこんな記事が配信された。
http://natalie.mu/news/show/id/11396
9nineのCha-ponこと西脇彩華が、GOATBEDの石井秀仁とエレクトロポップ・ユニットORDINARY VENUSを結成。12月17日にデビューアルバム「ORDINARY VENUS」をリリースする。
このユニットでは石井がトラックメイキングやアートワークを手がけ、Cha-ponがボーカルを担当。松田聖子、工藤静香、Wink、南野陽子、中森明菜、宮沢りえ、早見優などの1980年代名作アイドルポップスが、GOATBEDならではのキラキラした艶やかなサウンドで蘇る。
どうやらperfumeのメンバーの一人である西脇綾香の妹がメジャーデビューするらしい。
perfume妹+電子音? これはもろに便乗じゃないか……。そんな考えが脳みそに掠める。
プロデュースする人物はGOATBEDの石井秀仁という人物が行うという。石井秀仁? いったいどんな人間だろうか。
ヴィジュアル系バンド『cali gari』のボーカリストで解散後の現在は『GOATBED』の名前でソロ活動中……。調べてみると2chのテクノ板にスレッドがあったりとやはりそちら寄りの人間らしい。「perfumeみたいのを作ってくれ」と頼まれたのだろうか?
しかし、楽曲を聞かずに便乗だ、パクりだと言うことはできない。
それに80年代のアイドル歌謡をカバー、とそれなりの一捻りは加えてある。全然違う雰囲気のものになる気もする。
では、聞いていただきたい。
http://jp.youtube.com/watch?v=5GoY0wnE8xY
こ れ は ひ ど い 。
わざわざ全曲ボコーダーで声を変えてperfumeのパクリであることを強調している。
身内がこんなに堂々とパクリ楽曲を出していいのだろうか? 臆面もなくよくできるものだ。トラックも安っぽくてチープ。
ポストモダンな状況では既存のピースの組み合わせこそが創作であり未来を思考するならパクりまくるべき、
これは「新ジャンル・近未来パクリポップ」だとでも言うつもりだろうか?
最近は音楽業界も斜陽だと聞く。様々な要因が考えられるがこのような志の低い作品をリリースしてしまうのも一因なのではないか。
──最近は中田さんのフォロワー的存在も増えてきましたが、それはどう捉えていますか?
中田ヤスタカ:好きでやってるんだったら良いと思いますけど、売れると思ってるんだったらいらない(笑)。あと、作ってる奴がインタビューとか受けた方が良いと思う。それは歌ってる人じゃダメって訳じゃなくて、作ってる人が好きなのかが気になる。「今はそういうのやっとこうぜ」ってやってんだったらもう死んで欲しいね(笑)。
中田ー、うしろうしろ!
改変元→http://anond.hatelabo.jp/20080721222220
まあ、どのくらいの数のハロヲタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「ハロヲタではまったくないんだが、しかし自分のヲタ趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らない最近のHello!Projectの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、最近のハロプロを紹介するために
聴かせるべきシングル10枚を選んでみたいのだけれど。
(要は「宇多丸のマブ論」の正反対版だな。彼女にアイドル世界を布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、経済的に過大な負担を伴うイベントDVDやコンサートDVDまでの言及は避けたい。
できればマキシシングル、例外としてミニアルバムも可としたい。
あと、いくらハロプロといっても古びを感じすぎるものは避けたい。
市井ヲタが『青いスポーツカーの男』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じなので、2003年以降の作品に限った。
彼女の設定は
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「辻加護卒業以前」を濃縮しきっていて、「辻加護卒業以後」と「久住加入以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。2もあるし。
ただ、ここでヲタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、ヲタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「ヲタクが考える一般人に受け入れられそうなユニット(そうヲタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「ハロヲタとしてはこの二つは“混成ユニット”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のアイドルヲタが持ってるアダルトなエロスへの憧憬と、あき竹城監修のクチャーズ的な衣装へのこだわり((そんな事実はない))を
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもつんく♂な
の二人をはじめとして、ヲタ好きのする仕草を振り付けにもちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを聴いた彼女は「ビーチボーイズだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の作品がその後続いていないこと、これが美貴ヲタでは大人気になったこと、
美貴ヲタならこれがミリオンになって、ハロプロ大復活の原因になってもおかしくはなさそうとすら思っているのに、
キッズヲタにこういう感性が理解されないこと、なんかを非ヲタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりハロプロは子供のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「Buono!」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかけるnkskの思いが好きだから。
断腸の思いで雌伏の時期を経てそれでもイマイチ意味不明のユニット、っていう不遇さが、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「キッズオリメン」ということへの諦めきれなさがいかにもnksk的だなあと思えてしまうから。
nkskのダンスを俺自身は最高とは思わないし、まだ伸びしろはあるだろうとは思うけれど、一方でこれが
夏焼雅や鈴木愛理だったらきっちり一万枚は売ってしまうだろうとも思う。
なのに、がきさん・みっつぃー・nksk・ちさとでユニットを作ってしまう、というあたり、どうしても
「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないハロヲタ」としては、たとえnkskがそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今のキッズヲタで安倍のシングルもチェックしてる人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
キッズ発表を含むハロマゲドンよりも前の段階で、つんく♂の哲学とかアイドル理念とかはこの人物で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの作品がセールス的に振るわなくてもこの時代にもリリースできるんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくハロプロ好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆる黄金厨的視点でしか安倍なつみを知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
嗣永桃子の「尻」あるいは「キャラづくり」をヲタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらない青春を毎日生きる」的な感覚がヲタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそ2007年SSAでのBerryz単独コン「桜満開 Berryz工房ライブ?? この感動は二度とない瞬間である!」のクールダウン用VTRは本作所収の「ありがとう! おともだち」以外ではあり得なかったとも思う。
「青春化した30代を生きる」というヲタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「ヲタクの気分」の
源は「ありがとう! おともだち」にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういう女は早起きして薄化粧くらいしとけ風味の恋愛をこういうかたちで歌詞にして、それが非ヲタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的に℃-uteを選んだ。
娘。から始まって℃-uteで終わるのは全然収まりはよくないんだろうけど、℃-uteのメジャーデビューとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。℃-uteに全く触れないわけにもいかなかったし。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
地震情報のチェックにTVを入れてそのままつけっぱにしていると、NHK朝の連続テレビ小説が始まったんですよ。
前にちらっと見たときは老舗旅館を舞台にした話だったな〜と、今はどうなってるのか見てたんですよ。そうしたらさ。
「初めてクラブに行く事になったのでした」
なんてナレーションが。
画面に出ているヒロインはどう見てもJCにしか見えないがきんちょです。
クラブに入ると同じような年代の知り合いが何人か居て「さっきはごめんね」とヒロインが先週のフラグ回収とおぼしき行動に出ています。
想像するに、ダンスチームでちょっと喧嘩して仲直りしようと追いかけてきた場面でしょうか。
そしてそのままDJが現れ「yo, yo, M.O.B.U モブですヨロシク。みんないい顔してるね。踊って輪になろう」とか煽って happy なクラブの時間が始まります。
スキルフルなダンスグループが何組か代わる代わる登場し、パフォーマンスを披露します。
そして佳境、
「遂にメジャーデビューする事になった(忘れた)です、応援よろしくぅ!」
そのパフォーマンスの途中に
「今日は俺たちの師匠、、、(忘れた)が駆けつけてくれました!」
おお、誰が来るんだ?と wktk してたら先程ヒロインのJCと仲直りしていた女子が、、、え、、師匠?
伝説の女性ダンサーらしいです。普段着のままエロカワなパフォーマンスを披露してくれました。
「一緒に踊ってみると、、、彼らが今日までどれだけ頑張ってきたか、分かります。応援をお願いします。」
視聴者もここが泣き所です。
そして場面一転、フリータイムに。
ヒロインのJCがカウンタに走って「ジンジャエール頂戴」と声かけてます。
ついでに隣にいた男性に自分から声掛け。積極的ですね!
「何歳?」「・・30」「え?」「30歳」「30歳つったらおっさんじゃん!」「そうだよね。おっさんだね(笑)」
そんな馴れ合いの最中、M.O.B.U モブが再び登場して次の見せ場が始まります。
戸惑うJC。
「え?」
「知らないの?ケンさん知らないなんてモグリだよ。
18でダンスコンテストに突然現れて優勝し、そのまま行方不明になってたんだって。」
「行方不明・・・」
そこに先程の伝説のJC女性ダンサーが現れて絡みます。息を合わせて語り合うように踊る二人。
「あの二人、恋人同士だったらしいよ」
行方不明だった設定とか、年齢差とか、がきんちょ若すぎだろとか、そんなの感動の再開とバーバルを越えたダンスコミュニケーションの前には忘れ去るべきですね。
で、ヒロインJCが終電を逃しかけて焦ってる場面で明日へ続く。
ついつい明日の放送を見てしまいそうです。
終電を逃し一人街に放り出されたヒロインが困り果て、そこに伝説のダンサーが颯爽と登場、行方不明の背景を語りそのまま恋人妊娠結婚、海外で認められてハッピーセレブで世界平和とか期待が膨らみます。
非常に濃密な15分でした。
恋空より新條まゆ先生より楽しめる、秀逸なストーリーテリングです。
さすがNHKですね。
テレビは環境情報、自己形成のジャンクフードなんて言いますが、とんでもない。
ダンスの素晴らしさ、人との出会い、恋愛、JCでクラブとか新しい可能性に挑戦する事の大切さ、色んな事を教わりました。
家族で仲良く見て欲しいですね。
「私もダンス、やってみたいなぁ」
「@@ちゃんもクラブ行ってみたら?」
なんてほのぼのした会話が食卓に広がりそうです。
っていうかクラブは自分で金稼ぐようになってからだろ、なんて思っている俺が旧世代なんですかね。
ガチで不安になって来ました。