はてなキーワード: ネットショッピングとは
株超初心者。
とある機器メーカーの株を1万円で数株購入し、数か月忘れていた。
それを全部売ってとあるアウトドア関連の株を購入したら、数日で株価が数百円も下がり1万円から少しマイナスになった。
株だけで食っている人は、業界のトレンドを常に頭に入れつつ、リアルタイムで会社の動きを把握して下がる気配を先読みして売却して、逆に上がる会社の株を買う、ということをしているの?
極端な例えだけど、コロナがニュースになった2019年12月の時点で「これはこの先パンデミックが起きて家から出れなくなる。ということはアウトドアやネットショッピングの重要が増えるから、そこらへんの恩恵を受けそうな会社の株を買うぞ!」と予想していたってこと?
そういう先を読む力が求められるの?
ほんの最近だけ見ても、オンライン会議やリモートワークの普及は仕事のやり方をだいぶ変えただろ。
他にも、Suicaなどの普及は随分と生活の仕方を変えたと思うぞ。いちいち券売機に並んでいた時代を思い出せないかな?
だいたいケータイの無かった時代のことをもう忘れてる? デジカメもGoogle MapもGPSも無かったらいろんな仕事が大変だよ。
ちょっと前までAmazonをはじめとしたネットショッピングも無かったんだから、随分と生活の仕方に影響があったろ。
もっと昔は経理をはじめとした数字を扱う仕事は電卓、その前はソロバンを使ってたんだぜ。パソコンの出現の前と後では隔世の感ありだよ。技術計算だと計算尺かな。
値段見ちゃうと買うべきか買わないべきか悩んで気持ちが消耗する
(大抵、数十分悩んで買わないに落ち着く)
以前は通帳見ることも出来なかった
スーパーとかだったら高価な商品はないから値段見ずにポイポイって投げ込めるんだよ
服や家電を買う時も必要が出たから買うので値段見ずにポイポイって投げ込めるんだよ
だって必要だったからな。4万以内だろって思ったのが10万オーバーでやっぱやめますしたことあるけど
だってわかりやすく値段書いてあるじゃん!!!!!!!つまり!!!!!この額は確実に!!!!!通帳から減る!!!!
そう思うと買えないで疲弊して終わる
あー・・・廃盤になってるCDヤフオク出てんじゃんとか、Amazonに○○在庫復活してるじゃんと思っても
リアル店舗なら躊躇なく投げ込めるんだけどな
同じ理由でネットアプリから出前するのはダメだった(外食は見ないで頼めるから好き)
けどコロナで使っているうちにアプリの出前でお金を使うのは慣れた
店が増える速度がめっちゃ遅いので飽きたけどな
お金が減るのを見つめたくない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
昔は給与明細書は紙だったので気が向いた時に見てたけどペーパーレスになってから全然見なくなってしまった
なきゃ増えていないんだから見ても仕方なくね?みたいな
そんな風に過ごしてたら3年連続アホみたいに所得税が引かれている事に通帳を記帳するまで気づかないをかましてしまった
そもそも年末調整しようよ?だけど給与明細書を見るようにするにはどうしたら良いのだろうか?
あと通帳記帳するのもめんどくさいというか特別収入があったわけじゃなければ見てもしょうがない、
むしろ使った分だけ減ってるのでそれを毎回確認するのは気が滅入るなぁと思っていくら銀行に入っているか把握してなくて
みんなどんな風に給与明細書と通帳と向き合っているんだ?
ちなみに6年間で給与所得以外で500万くらい得ているけどそれも何に使ったか思い出せない
これもなんとかしたい
同じ学校で酸いも甘いも嚙み分け、私が友人に入れあげていた(多分初恋だった)女子高生時代も今は昔
安定期に入ったから会わない?って今すぐにでも会いに行きたいよ、勤め人だから無理だけどさ
結婚を報告された時にも思ったけど、喜びの気持ちが全く湧いてこない
結婚したのか…俺以外のヤツと…という感情ではなく、結婚・妊娠が自分の生活から遠すぎるので、祝うべきなのかがわからないのだ
私の生活といえば、激務職ゆえ社内の女性はみんな高齢結婚か早々に退職(男性は早婚と晩婚とぱっきり分かれる)
もちろん自分にも伴侶はいない、マッチングアプリ始めたけど引退気味限られた可処分時間を人と会うのに使いたくない
休日は資格勉強しなきゃな~と思いつつ寝たりネットショッピングしたり外食したりで終わる
それって新しく生まれてくる命のために、自分の時間とお金を注ぐ、ってコト?全然ピンと来ねえな…
ミノタウロスの皿という藤子・F・不二雄先生の名作は、増田もご存知かと思うが
あれと全く同じ気持ちなんだよね
ミノアがニコニコで生贄に捧げられてるのを、待って待って!!!とひとり静止に走る主人公が頭に浮かぶ
幸せな家庭を築いてくれ
おめでとうな、連絡ありがとうな
今日は妻が友達と旅行に行ったので1人での夜だったのだけど本当にやる事がない
ちょっとゲームしたけどすぐ飽きて、ダラダラいじって見もしないテレビつけてスマホみて床についた
そんで布団でこれ書いてる
妻がいないとやる事がない
ゲームしたり、惣菜作り溜めしたり、ネットショッピングしたり、家事したりなんかもうそういういつも楽しい事が全部1人だとつまらなく感じる
ネットで友達つくろうにもひねてるからそういう積極的なことも出来ないし、旧友にあそぼって言うのも夜すぎて変だしなんかもうダメだわ
試しにディスボードで某大規模ゲーム鯖入ったら誰も通話してないし募集の最新書き込み昨日ってさあ
てかすると思う
1人だと全てのことが退屈過ぎてしんどいわ
1月末日をもって、北海道帯広市にあった百貨店「藤丸」が閉店した。
創業は明治33年で、122年間経営したことになる。このあたりではよくあるパターンで、開拓地で呉服商で立身し昭和初期にデパートへと展開してきた地元の百貨店だった。
例えば釧路市の丸三鶴屋や野付牛(北見)の丸い伊藤と系列は異なれど同じような環境で、開拓地の百貨店として成長してきた。
諸賢ご存知の通り、百貨店などという業態は今日び全く下火となっている。
北海道の田舎においては高度経済成長期以降、郊外に新興市街地が伸長し、多くの人が自動車で移動する時代になった。
そして平成10年の大規模小売店舗法の廃止、大規模小売店舗立地法の制定が運命を定めた。
この20年、みんな車で郊外の大規模店舗に行く。「中心市街地」の意義は消えた。
1月に入ってから藤丸は連日客でごった返し、最終日には閉店後まで人々が店に集っていた。
藤丸に入っている店の常連だったり日常的に地下食品街で買い物をする人ならわかる。
あるいは藤丸に実際に働き、藤丸と共に生涯を送った人も惜別の念を抱くだろう。
藤丸は文化催事も多かったから、藤丸で展示や展覧会をした人々も特別な思いがあるだろう。
藤丸を外部から支える市民団体もある。そうした主体的に取り組んできた人たちはさぞや残念だろう。
けれども、そうじゃない人が大半なのではないだろうか。
なぜなら、如上のような日常的に中心市街地に赴き消費や活動をしている人が本当に十分に多ければ、
そして当然閉店などとならなかったはずだ。
閉店間際に賑わいを演出した人々は、普段は自動車で郊外の広い駐車場のあるヨーカドーやイオンに行っている。
そんな人たちがマスコミの取材に答えて「残念です」とか「寂しいです」とかは、決して言ってはならないセリフなのではないかと思う。
言葉と態度が噛み合っていない。私はここに大変な違和感を覚える。
出てくる思い出は子供の頃の昭和や平成初期のキラキラした思い出ばかりで、例えば110周年120周年の話題はほぼない。
これは、この人たちが長じてから藤丸で思い出を残してこなかったからに他ならない。
よく子供の頃の思い出だけをいけしゃあしゃあと言えたもんだ、と思う。そしてそれをありがたがるマスコミの脆弱な報道イメージもおかしい。
近頃の思い出がないというのが問題の本質であると思うし、そもそも昔のことしか話さない人は藤丸の傷口に塩を塗っているように思える。
なぜ、この20年くらい、平成の後半まるまんま藤丸はそこに間違いなくあったのに、そこで思い出を残さなかったことに無自覚なのか。
そしてその無自覚さでなぜ「藤丸がなくなって残念です」と言えるのか。
地元出身のフリーアナウンサー安住紳一郎が以下のように述べている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/433f558335f529f99b35f767731703687434e508
「ネットショッピングや郊外のお店が便利でお客さんがそちらに流れていることはよくわかります。私たちも便利とか安い以上に自分の残したいお店は、ちゃんと不便でも高くても買いに行く消費行動がこれからきっと自分たちの理想とする社会の実現に関わってくるんじゃないかなと思います」
なぜ他の百貨店と比べて十分な時間的猶予があったのに、地元の人間は藤丸を存続させるような消費行動をしてこなかったのか。
そして、なぞそうであるのに(直接携わってきた人は別にして)、「残念です」「ありがとう」などと安直に言えるのか。
この点を、本当に「残念」と感ずるならば20年くらい考え続けてこなければならなかったはずで、「残念」と言語で言える人は、少しでもそのような事柄に携わってきた人だけなのではないだろうか。
普段イオンで買い物してるくせに「残念」はおかしいのではないか。
だから私は、この期に及んで藤丸がなくなってしまって残念とは思えないし寂しいとも思う資格がない。
なぜなら私はイオンで買い物しているからだ。身体が残念がっていないのだ。
中心市街地をどうするかは各地域で本当に難しい課題で、実際のところ商工会や経済界の人々が何年も策を講じながらも充分な成果を挙げられていない。
こんな難しい課題を、藤丸がなくなっただけのこのタイミングでどうにも論評などできないのだ。
だから浅薄な「昭和の思い出」や「従業員の裏話」的なものばかりが踊る。
実はマスコミも20年間、中心市街地の活性化の話題を見ているようで見てこなかったのではないか。
結局は自分には関係がないから、人々がどこでどう買い物しようがそれを報道すればいいだけの話だから、充分なコミットをしてこなかったのではないか。
藤丸がなくなったのは1月31日だが、問題は20年間継続しており、以降も続いていく。
藤丸がなくなっただけのタイミングで急に問題を一夜漬け的に取り上げても、いずれも浮ついた論にしかならないのだろう、と諸報道をみて思う。