はてなキーワード: ドーナツとは
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120213/1329141809
非常に興味深い記事。
まぁ「洗脳」とか「ウェット」とか「気持ち悪い」ってコメントがたくさんつくだろうなーと思ったら
というわけで、この人はコメント欄も含めて記事作りにこだわりがあるんだなーと好感をもった。
きっと非表示のコメントがたくさんあることだろう。
もちろんブログはコメント欄まで含めて作者のものなので、このこだわりを否定するつもりはない。
こうした話を聞いて宗教的、と感じた人は多いと思う。それは間違いではない。
http://hexagon.inri.client.jp/floorA4F_ha/a4fhc200.html
「ユダヤ商法」や「ビートルズのビジネス戦略」といった本で語られている話によると、
彼らは宗教と商売を区別しない。むしろ積極的に宗教的な知恵をマネジメントにも接客にも活用する。
創業者の著書「スターバックス成功物語」にはあまり宗教の影響は語られていないが、
そこで提起されている「サード・プレイス」という考え方は、
自身の幼少時における体験が大いに影響しているのではないかと考えられる。
ユダヤ商法については、ダンキン・ドーナツや、シェル石油の逸話はアメリカでは非常にポピュラーらしいが、今回の記事のように、従業員も、客すらも、共同体や家族の一員としてみなして大事に扱うことに特徴がある。
年功序列のような儒教チックな要素は全くなく、能力や成果を重視する。
同期で入ったものをペアとして、二人三脚で協力し、競い合わせることで成長を促す。
その上で下のものの成績が振るわないときは、部下ではなく目上の者の責任となる。
だから、上の人間は必死で下の人間を教育する。部下の悩みや行き詰まりを把握して助けるのは当然。
・・・などなど、そういう教えがタルムードにあるらしいが詳しくは知らない。
ウェットで、人のつながりを重視するマネジメントスタイルになりがちであるそうだ。
とはいっても、神の教えやら、空想的な権威に服従を求めたりはしない、らしい。
私はユダヤ商法を否定しない。むしろ、積極的に日本人も見習うべき点があると思う。
ただ、もちろん、日本人には日本人のやり方があるだろうから、うまく変化させて取り入れるべきだろう。
特に今の若い人はウェットな関係を嫌う傾向があるように感じる。おそらく、親や教師などの駄目な大人を見過ぎたせいだろう。無神経で、年上というだけで偉そうにして、それでいて能力的にも人格的にもクソみたいなやつから、一方的に介入を受け続けて、ウェットな関係に嫌気が指しているのだと思う。
気持はすごくよく分かるのだが、だからといって、無条件で目上の人間との関わりや、共同体的な関係を否定し、個人主義に走るのもよくない。うまくいくやり方、自分にあったやり方を考えて、いろいろと工夫してみる必要があると思う。
(無難な締めくくりになるが、自分でも結論が出てないのでこのくらいで勘弁を)
「作る側」「管理する側」に寄り過ぎた思想であり、
「消費者側」「従業員側」の目線がかけすぎている。時代の変化に対応できず、機能不全になりつつある日本教を無理に維持しようとするものである。
こういうのは、積極的に拒否していけばいい。
違うところはないだろうか。自分たちの仕事に生かせる要素はないだろうか、
そんな風に少し考えてみると、面白いかもしれない。
ほかに気になるのがあったら、追加していただきたく思います。
高地での仕事が終わって、温泉街の駅前で電車乗り継ぎの為にバスを降りる
既に夕暮れ深くなった駅前のケンタッキーとミスタードーナツの前の通路に果物や漬物をたくさん台車に乗せたおじいさんが
寒さに耐えながら売れるのを待っていた
バナナはかなり黒くなっていて、大きなみかんは皮が柔らかくなってるのが見て取れて、すぐに食べるなら食べごろだけど
「持ち帰るにはちょっとな・・・」という感じだった。案の定ぜんぜん売れてなさそう
おじいさんをスルーしてドーナツ屋のキャンペーン見てたけど冬だからみかんが食べたくなって振り返ったら
おじいさんは売るのを諦めて台車がやっと通れるような駅高架下の狭いアーケード街に向けて帰っていこうとしてた
「おじいさん、待って」と声をかけてみかんを一ネット200円で買った
他にもバナナとか漬物薦められたけど、給料日前だったのでみかんだけ
スーパーのみかんと違って、大きくて大雑把な形の甘味の蜜柑は甘味が凝縮されてなく甘味が適度にさっぱりしてる
どうしても道連れがいないといけないわけでもないと思うんですよね
ミスタードーナツさんが時折ドーナツ全品100円にしてくれているときがあるじゃないですか
ちょっといきたいなって思ってるんです
道連れにしようにも、やっぱり、わたしの道連れになってくれるからには、そうですね、わたしのこと気に入ってもらわないと、道連れなんて役柄ははまらないなー、なんて思ったりもするのね
道連れするなかで、仲違いとか、諍いとか、そういうのは、極力さけたいじゃない
つかれるし、いやな思いするし
そういうのを避けるためには良好な関係を築いている他人が必要だと思うの
だからそうね、まず道連れを行うには良好な関係を築いている人間が必要なのね
良好とひとくちにいっても抽象的かしら
一緒にお話をしていて気に障らないひと、とか
連絡をとったりして楽しい時間を共有したりしたいと思ったりするひと、とか
そんなところかしら
道連れって、何かの道連れという、具体的に何かの付き添いを頼むというわけではないの
しいていえば、すべての付き添いを頼むということだと思うの
付き添いといっても四六時中一緒に居るということではないのよ
道連れを探しているのよ
好んでわたしの道連れになってくれるひとがいてわたしもそのひとに是非とも道連れをお願いしたいわ、というひとに道連れをお願いできたら、きっとうれしいことだと思うわ
ずっと「トカイ」にいかなければと思っていた。育った町は関東に位置している田舎だった。電車に乗れば東京までたかだか一時間半か二時間程度の場所だったが、それでも十分田舎だった。電車を目の前で逃すと一時間は待たなければならなかった。隣駅は無人駅で、最寄駅は7時にならないと自動券売機で切符が買えなかった。バスに至っては二時間来ないこともざらだ。終電や終バスも早くて、夕方が差し迫ってくるともう乗り継いで行った先の終電のことを考えなければならない。東京は近くて、でも遠い街だった。
電車に乗ってあの町が近づいてくると、見渡す限りの田んぼとその中をうねうねと伸びる農道が見える。街燈がぽつぽつとしかない道を闇におびえながら全力疾走で駆け抜ける夜も、夏になると井戸からくみ上げて田んぼに水を注ぎ込む小川も、稲穂の上を渡る金色に光る風も、その中を喜んで走る犬も、道端で干からびている車にひかれたイタチも、うっそうと道上に生い茂り時々大きな枝を落としている木々も、なにもかもが呪わしかった。どこへ行くにも遠く、こじゃれた店は大規模なショッピングモールの中にしかなくて、中高生はいつもそこに特に理由もなくたむろしていた。みんな都会に行きたかったのだ。すぐにつぶれてしまう店も、郊外型の広い駐車場も、市街地から外れればとたんに何もなくなって農耕地だけになるニュータウンもみな忌み嫌っていた。
私たちはたまに触れるなにか新しいものを含んだ風にあこがれ、騒がしい日常を羨み、便利さに憧憬を抱いた。都会に行かなければいけない、という思いはまさに呪縛だった。こんな田舎にいてはいけない、田舎はつまらなく、古びていて、垢抜けない。だから都会に行かなくてはいけない。
高校を卒業するとともに私を含めほとんどの友人は都会へと向かった。何人かは都会に住みかを確保し、住処を確保できなかった人たちはどこかに拠点を確保して、毎日何時間もかけて都会へと通った。
私は住処を確保できた幸運な一人だった。山の手の静かな住宅地の中の、学生用の古い汚い部屋でも、私にとってそこは「トカイ」だった。駅に着くまで田畑はなく、家々は軒を並べ、駅では10分も待たずに電車が来る。どの駅でもかなりの人々が乗り降りし、夜が更けても街燈は一定の間隔で並んで闇を追い払ってくれる。都会には月明かりに気付く余裕をもって往来を歩けるほどの安心があった。そのくせ、私が慣れ親しんできた大きな木々や古い河の跡や、四季はきちんとそこにいて、祭りがあり、正月があり、盆があり、そうやって人々は暮らしていた。盆正月は店が閉まってしまうということを知ったのも都会に出てからだった。
都内にありながら広大な面積を有する大学の中には山があり、谷があり、そして池があった。そこにいると、田舎のように蚊に襲われたし、アブラゼミかミンミンゼミくらいしかいないとはいえ、蝉の声を聴くことができた。近くに大きな道路が走っているはずなのに、喧騒はそこまでやってこず、昼休みが過ぎると静寂が支配していた。水辺で昼食をとるのが私は好きで、蚊に食われたといいながらよくベンチに座って、亀と一緒に日を浴びながらパンを食べた。
田舎でそうしていたようにどこへ行くにも自転車で行き、アメ横からつながる電気街や、そこから古書街、東京駅、サラリーマンの街あるいはおしゃれな店が並ぶ一帯までどこへでも行った。都会は平坦につながっているのに、どこかに必ず境目があって、境界付近で二つの街の色が混ざり合い、ある臨界点を超えると途端に色彩の異なる街になってしまうのが面白かった。その合間にもところどころ自然は存在していて、いつからそこに植わっているのか知らない大きな木々が腕を広げて日陰を作り、その下にベンチが置いてある。くたびれた老人がその下に座り、コミュニティが形成される。それが私の見た「都会」だった。
山の手の内側で育ち、閑静な住宅街で育った人たちは、ここは「イナカ」だから、東京じゃないという。私はそれを聞くたびに笑いをこらえきれなくなる。あなたたちは田舎を知らない。電車が10分来ないとか、駅まで10分くらい歩かなければならないとか、店がないとか、繁華街が近くにないとか、それだけで田舎だと言っているけれど、田舎はそうじゃない。
コンビニには車で出かけなければならないことも、コンビニは農協のようなものだということも、、新製品は何か月もしないとおかないような、そのくせいつからあるのかわからないような商品が段ボールで積み重ねてあるということも、あなたたちは知らない。発売と同時に新商品を手に取ることができる喜びにあなたたちは気づかない。駅と駅の間が近くて、自転車で行き来でき、一つの場所に店が集まっていないせいであちこち足を運ばなければいけない不便性は田舎のそれとは違う。
大きな木が育っていてもそれを管理せずに朽ちていくばかりにする田舎、邪魔になればすぐに切ってしまうから、町の中に大木は残らない、それが田舎だ。古いものは捨て、新しいもので一帯を覆い尽くすのが、田舎だ。昔からあるものを残しながら新しいものをつぎはぎしていく都会の風景とは全く違う。人工の整然とした景観があり、そことはっきりと境界線を分けて田畑が広がる区域が広がる。その光景をあなたたちは知らない。人工の景観の嘘くささと、そこから切り離された空間の美しさをあなたたちは知らない。新しく人が住む場所を作るために農地や野原を切り開いて、道路を通し、雨になれば水が溜まる土壌を改良し、夏になればバスを待つ人々の日陰となっていた木々を切り倒し、そうして人工物とそれ以外のものを切り離していくやり方でしか町を広げていくことのできない田舎を、あなたたちは知らない。人々は木漏れ日の下に憩いを求めたりしないし、暑さや寒さに関してただ通りすがった人と話をすることもない。車で目的地から目的地へ点と点をつなぐような移動しかしないのが田舎だ。あなたたちはそれを知らない。
盆や正月に田舎に戻ると結局ショッピングモールに集まる。友人とだったり、家族だったり、行くところはそこしかないから、みなそこへ行く。しばらく帰らない間に、高校時代によく暇をつぶしたショッピングモールは規模を拡大し、店舗数も増えていた。私が「トカイ」で足を使って回らなければならなかったような店が、都会よりずっと広い売り場面積で所狭しと並ぶ。それがショッピングモールだ。上野も秋葉原も新宿も池袋も渋谷も原宿も東京も丸の内もすべて同じところに詰め込んで、みんなそこは東京と同じだと思って集まる。田舎は嫌だ、都会に行きたいと言いながらそこに集まる。
ABABというティーン向けの店でたむろする中高生を見ながら、私は思う。下町を中心としたチェーンのスーパーである赤札堂が展開しているティーン向けの安い服飾品を、田舎の人は都会より二割か三割高い値段で喜んで買う。これは都会のものだから、垢抜けている、そう信じて買うのだ。確かにその服はお金のない中高生が、自分のできる範囲内で流行りを取り入れて、流行りが過ぎればさっさと捨てるために、そういう目的に合致するように流通している服飾品だ。だから安い代わりに物持ちが良くないし、縫製もよくない。二、三割その値段が高くなれば、東京に住む若者はその服は買わない。同じ値段を出せばもう少し良いものが変えることを知っているからだ。田舎に暮らす私たちにとってのしまむらがそうであるように、都会に住む彼らにとって最低限の衣服を知恵と時間をかけてそれなりに見えるように選ぶのがABABだ。そのことを彼らは知らない。
ABABのメインの事業である赤札堂は、夕方のサービスタイムには人でごった返し、正月が近づけばクリスマスよりもずっと入念にかまぼこやら黒豆やらおせちの材料を何十種類も所せましとならべ、思いついたようにチキンを売る。あの店はどちらかというと揚げ物やしょうゆのにおいがする。店の前には行商のおばさんが店を広げ、都会の人たちはそれを喜んで買う。若いこどもはそれを見てここは「イナカ」だという、そういう光景を彼らは知らない。
そうして私は「トカイ」という呪縛から逃れていることに気付くのだ。私はABABでいいものがあれば買うし、同じようにしまむらで掘り出し物があれば買う。田舎よりも安くで手に入れることのできるものは都会で買い、田舎で安く買うことのできるものは田舎で買う。どちらもよいところはあり、悪いところはある。便利なところはあり、不便なところもある。都会の人も「トカイ」にあこがれ、ここは田舎だというけれど、「トカイ」というのは結局幻想でしかないということを、私は長い都会生活の中で理解したのだ。便利なものを人は「トカイ」という。何か自分とは違うと感じるものをひとは「トカイ」のものだという。それは憧れであり、決して得られないものだと気づくまで、その呪縛からは逃れられないのだろう。
「イナカ」はその影だ。「トカイ」が決して得られない憧れであるなら、「イナカ」は生活の中に存在する不便さや不快さや、許し難い理不尽やを表しただけで、「トカイ」と表裏一体をなしている。「イナカ」も「トカイ」も幻想でしかない。幻想でしかないのに、私たちはそれを忌み嫌ったり、あこがれ、求めてやまなかったりする。だから田舎はいやなんだというときのイナカも、都会に行けばきっとと願うときのトカイも私の心の中にしか存在しない、存在しえない虚構なのだ。
私はオフィス街の中で聞こえるアブラゼミの声が嫌いではない。でも時々その声が聞こえると、田畑を渡る優しく澄んだ夕暮れ時の風を思い出す。竹の葉をすかす光とともに降り注ぐ、あの鈴の音を振るようなヒグラシの音が耳に聞こえるような気がする。
記憶の片隅に、一面に広がる田んぼと、稲穂の上で停止するオニヤンマの姿が残っている。
父方の田舎は、人口の一番少ない県の市街地から車で一時間半かかるところにあった。周りは山と田畑しかなく、戦前から10軒もない家々で構成される集落だ。隣の家は伯父の家だったはずだが、確か車で15分くらいかかったと思う。幼いころにしかいなかったので記憶はもうほとんど残っていない。免許証の本籍地を指でなぞるときにふと頭の中によぎる程度だ。父はあの田舎が嫌いで、転職と転勤を繰り返して、関東に居を構えた。あの村で生まれて、育ち、その中から出ることもなく死んでゆく人がほとんど、という中で父の都会へ行きたいという欲求と幸運は桁はずれだったのだろう。時代が移り変わって、従兄弟たちはその集落から分校に通い、中学卒業とともに市街地へ職や進学先を求めて移り住んでしまった。今はもう老人しか残っていない。日本によくある限界集落の一つだ。
引越をした日のことは今も覚えている。きれいな街だと思った。計画的に開発され、整然と並んだ町並み。ニュータウンの中には区画ごとにショッピングセンターという名の商店街があり、医療地区があり、分校ではない学校があった。電柱は木ではなくコンクリートだったし、バスも来ていた。主要駅まではバスで40分。駅前にはマクドナルドも本屋もミスタードーナツもある。旧市街地は門前町として栄えていたところだったから、観光向けの店は多くあったし、交通も車があればどうとでもなった。商店に売られているジュースは何種類もあったし、本屋に行けば選ぶだけの本があった。子供の声がして、緑道があり公園があり、交通事故に気をつけろと学校では注意される。
バブルにしたがって外側へと広がり続けたドーナツの外側の淵にそのニュータウンは位置している新しい家を見に来たとき、祖父母はすごい都会だねぇと感嘆混じりに行った。
父は喜んでいた。田舎には戻りたくない、と父はよく言った。都会に出られてよかったと何度も言った。ニュータウンにはそういう大人がたくさんいた。でも、都心で働く人々にとってニュータウンは決して便利の良い町ではなかった。大きな書店はあっても、ほしいものを手に入れようとすると取り寄せるか、自分で都心に探しに行くしかない。服屋はあるけれど、高いブランド物か流行遅れのものしかない。流行はいつも少し遅れて入ってきていた。都心に日々通う人たちはそのギャップを痛いほど実感していたに違いないと思う。教育をするにしても、予備校や塾は少なく、レベルの高い高校も私立中学もない。食料品だけは安くて質のいいものが手に入るが、都会からやってくる品は輸送費の分、価格が上乗せされるので少し高かった。都会からじりじりと後退してニュータウンに落ち着いた人々にとって、言葉にしがたい都会との微妙な時間的距離は苦痛だったのだろう。
子供にはなおさらその意識が色濃く反映された。簡単に目にすることができるからこそ、もう少しでつかめそうだからこそ、都会は余計に眩しいものに思えた。引力は影響を及ぼしあうものの距離が近いほど強くなるように、都会が近ければ近いほどそこへあこがれる気持ちも強くなるのだ。限界集落にいたころには市街地ですら都会だと思っていたのに、ずっと便利になって都会に近づいた生活の方がなぜか我慢ならない。
そして子供たちは大きくなると街を出て行き、後には老人だけが残った。さながらあの限界集落のように、ニュータウンもまた死にゆこうとしている。幸運なことに再び再開発が始まっているようだが、同じことを繰り返すだけだろう。
祖父母にとって東京は得体のしれないところだった。彼らは東京駅で人込みの歩き方がわからなくて、父が迎えに来るまでじっと立ちつくしていた。若いころだってそうしなかっただろうに、手をつないで寄り添い、息子が現れるまで待つことしかできなかった。そういう祖父母にとってはあのニュータウンですら、生きていくには騒がしすぎたのだ。あれから二度と都会へ出てくることはなく二人とも、風と、田畑と、山しかないあの小さな村で安らかに一生を終えた。
たまに東京に出てくる父と母は、あのとき祖父母が言っていたようにここは騒がしすぎて疲れる、という。どこへ行くにもたくさん歩かなければならないから不便だと言う。車で動きにくいから困ると言う。智恵子よろしく母は、東京にイオンがない、と真顔で言う。私が笑って、近くにイオン系列のショッピングモールができたし、豊洲まで出ればららぽーともある、といっても納得しない。田畑がない、緑が少ない、明るすぎるし、どこへ行っても人が多い。すべてがせせこましくてあわただしくて、坂が多くてしんどい。それに、とことさら真面目な顔になって言う。犬の散歩をする場所がない。犬が自由に走り回れる場所がない。穴を掘れる場所もない。彼らはそう言う。
あんなに都会に出たいと願ってやまなかった若いころの父と母は、あのニュータウンの生活に満足し、さらに都会へ出ていくことはできなくなったのだ。それが老いというものかもしれないし、身の丈というものなのかもしれない。生きてゆくべき場所を定めた人は幸せだ。幻想に右往左往せず、としっかりと土地に根を張って生きてゆくことができる。
私の住む東京と千葉の境目も、不満に思う若者は多いだろう。都内とはいっても下町だからここは都会ではない、と彼らは言うかもしれない。都下に住む人々が都会に住んでいない、と称するように自分たちの住む街を田舎だと表現し、もっともっとと願うのかもしれない。引力は近づけば近づくほど強さを増すから逃げられなくなるのだ。でも、もしかすると、都会の不便さを嫌って、彼らは田舎を志向するかもしれない。一つのところへ行きさえすれば事足りる、点と点をつなぐだけの便利な生活。地をはいずりまわって丹念に生きる必要がある都会と違って、郊外は行く場所が決まっているし、ネットがあればなんとかできる。彼らには、私たちが引力だと思ったものが反発力として働くかもしれない。未来は分からない。
それでもきっといつかは、みんな、どこかに愛着を抱くか、よんどろこのない事情で立ち止まるしかなくなるのだろう。祖父母がそうであったように、父と母がそうであるように、どこかに満足して、ここ以外はどこにも行きたくない、と主張する。それまではきっと都会と田舎という幻想の間を行き来し続けるのだ。
東南口(Flags前)を出て、甲州街道沿いにてくてく歩く。右側の高い位置に道路、左側に汚い飲み屋が続き、それが過ぎると家具屋とかギター屋がある。ギター屋の横には下着屋もある。明治通りとの交差点に出て、渡って新宿高校側へ。新宿四丁目のビジネスホテル街の昭和の雰囲気もいい。一泊2000円で泊まれる。そこから新宿高校前を通るとすぐ新宿御苑の横の道へ。歩いていくと四谷三丁目まで比較的すぐ。
東口を出て、騒がしい交番の前を通り、アルタ前の左側の混んでいる道を抜けて靖国通りへ。フルーツ屋の角からの道は、あやしいお店とか楽器屋とか、布とか売ってて、真ん中にはホームレスが拾った漫画雑誌を売ってるごちゃごちゃした雰囲気で楽しい。歌舞伎町一番街の門を越えると焼肉屋とか飲み屋が続き、コマ劇があった広場へ。うろうろしてると客引きに声をかけられるけれど、比較的まだ安全なゾーン。となりのさくら通りとか区役所通りのほうが危ない人たちが闊歩してるイメージ。むかし高校のときにさくら通りの飲み放題の店でややぼったくられた。歌舞伎町を見たら戻って区役所の横からゴールデン街へ。ごちゃごちゃした小さなお店が並ぶ。時が止まったかのような人たちが毎日飲んでいる。ゴールデン街を抜けてすこし行くと花園神社。危ないという話もあるけれどお祭りやってるときは楽しい。
南口を出て信号を渡り、動く歩道がある高島屋への道を歩く。2階からは向かいにあるハンバーガー屋とかジーンズ屋とかが見える。高島屋をつっきり、ハンズの横の道から外に出て、紀伊國屋のところまで行って代々木方面を見ると代々木まで300mと書いてある看板があり、近いなあと思える。ちなみに代々木駅の階段はかなり急だ。橋を渡りサザンテラスに行くと、並ぶドーナツ屋が見える。francfrancなどのお店もあるので駅に戻る方向に歩く。駅に近いところに地方物産館みたいなのがあり、その逆側はカップルが座る植木になっている。
西口を出て、地上に出ると右側に小田急ハルクにはいったビックカメラが見えるのでそこにいく。ビックカメラは比較的最近できたけれど、いいお店。夜遅くなると誘導されて出ることになる。2階あたりには耳栓売ってるスポーツ用品店とかがある。そこを出ててくてく南に歩いていくとヨドバシカメラ。その昔、新宿には淀橋浄水場というのがあった。ヨドバシ、というのはここの地名のこと。ビックカメラなどができて見劣りするけれど、それでも新宿西口と言えばこれ。そこから歩いてひたすら行くと都庁の後ろに新宿中央公園がある。都庁できれいな夜景をみた後は、公衆便所の上で飲みましょう。
西口を出たら、旧さくらやの横の東口との連絡路方面へ。そこで立ち止まるとあやしいビデオを売る店、ペットを売る店、謎のスーツ屋、などの間に入るところがあり、そこが思い出横丁。10席も座るところがないようなお店が焼き鳥とかうどんとか売ってる。道が狭くて素敵な店が並ぶ。便所は共同。思い出横丁を出て青梅街道沿いに東へ行って南側を見ると高層ビルが並ぶ。だいたいの高層ビルは屋上だけ開放しているので、展望台にいって夜景を見よう。それぞれのビルの高さが見える。その高層ビル群から少し北の道へ入るとこちらも時代に取り残されたような民家が並び、その歴史を感じる。大阪の阿倍野と飛田の間を思い起こさせる。
疑問なんだが、どうして科目別消費税がそんなに簡単に導入できると思ってるんだ?
欧州各国は当時まだ負の所得税を導入するには(納税者番号の一元管理など)技術的な問題があって、当時の技術ではまだ導入コストが低かったVATをやってるわけだが、VATがどれだけ複雑で大変な制度か分かってるか?贅沢品とそれ以外で簡単に線引けるとか思ってんの?
例えば具体例を挙げると、国によってはハンバーガー持ち帰るのと食って帰るのでは税金が変わる、国によってはドーナツを5個買うのと6個買うので税金が変わる。そういう世界よ。
仕組みが複雑になるとその「境界」付近は膨大な「抜け道」が出来る。抜け道ってのは不正の温床になるってことだ。不正の温床になるってことは見張るコストが掛かるってことだ。