はてなキーワード: トリップとは
なんか鏡に向かって『お前は誰だ?』って言い続けると気が狂うって都市伝説を想像してると思うけどそれとは違うんで心配しないでいいw
瞑想とかヨガっていうのは自分の体験だとか自己同一性を変容させることだから、もちろん絶対に危険性がないとか、安全とは言えない。
世の中には様々な瞑想法があって例えば激しい呼吸法とか精神の裏側を覗き込むことを目的にするとかマリファナやりながら音楽聞いて瞑想とかはそのリスクが高いと思う。
ここではないどこかへを求めてたヒッピーと瞑想との親和性を考えるとわかりやすい。トリップにはバッドトリップが付き物。
でも、この瞑想法はそういう激しいやり方じゃなく、メジャーな瞑想法でいわゆる宗教的じゃなくて科学的で安全でそれでいて効果があると実体験として思う。
瞑想にはパーリ語でサマタ(高い次元での集中)とヴィパッサナー(洞察、観察)っていう二つのやり方があるけど、
一人でやると危ないのは前者。もちろん、前者にもちゃんとしたやり方はあるんだけど、後者は「あっち側」に行くのを目的にしていない。
というより、その対極で、妄想に気づけってやり方だから、安全だと99.99%言える。
何か認知療法に近いものがあるのではないかなと個人的に思ったら、こういうのがあった。http://www.wikihouse.com/cognitive/index.php?%C7%A7%C3%CE%CE%C5%CB%A1Tips%204
「瞑想」っていう言葉はほとんどの日本人は知っているけど、禅の影響で空だとか「心を無にする」だとかいう漠然とした理解で
ザ・インタビューズというサービスが流行ってますが、今後起こりそうなことを考えてみた。すでに起こっていることもあると思う。
これはまあアカウント制のサービスなら基本。ネタなら後述する「なりきり」になるが、ガチで本人になりすますケースが出てくるでしょう。
単に目立ちたいから、ネット住民を騒がせたいから、くらいの理由でやるならかわいいもんですが、なりすます対象に悪意をもって行うケースというのも出てくると思われる。
運営側の対策としては、TwitterやFacebookなどの既存SNSアカウントとの連携機能をつけるのが効果的なんじゃないかと。
現在はIDのみ設定可能ですがこれは片方向なので、OAuth認証で双方向の連携を。
少なくともTwitterなどで本人であることが確認されていれば、紐づいたアカウントも本人のものであることが明らかになる。
なりすましとは違って、本人ではないことを明記した上で名前を使う場合、あるいは物語の登場人物など実在しない人物の名前を使う場合、なりきりアカウントになる。
Twitterでも結構みかけるので、流行る土壌はあるように思える。
加えてFacebookやGoogle+では規約上不可能なので、規約の緩いザ・インタビューズに流れる可能性がある。ていうか規約ってあるの?
元ネタが実在人物の場合はその人物に怒られる可能性は高いです。非実在でも版権元に怒られる可能性はありますね。
参考:コナミが「ラブプラス」2次創作規制へ?Twitter「姉ヶ崎寧々」のなりきりに削除依頼 - ゴールデンタイムズ
ザ・インタビューズでは回答に画像を貼れるので、ここに著作権上問題になる絵を貼って、それが問題を大きくしそう。
これは、あるのか?
すでにネットでの活動が顕著な有名人がアカウントを取る事例は見受けられるので、ないとはいえない。
答えたくない質問はスルーできるので、ブログの承認制コメント欄くらいのノリで使われるかも。
いろんな意味で緩い系の企業や自治体とかは使うかもね。あと某与党の若手議員とか。
まあこれはなさそうだけど一応。
リークといえば昔は2ch(「○○だけど何か質問ある?」的な)がほとんどだったけど、今は2chが使われることが減ってる気がする。
理由は色々あるだろうけど単に衰退してオワコンだからってのが一番の理由だと思う。
あとアカウント制じゃないのでどれが本人か分かりづらいってのもあるでしょう。IDとかトリップとかは限界あるし。
変な規制が増えたせいで一人が同じスレにたくさん書き込めなくなったってのも大きい。
その点ザ・インタビューズは回答者と質問者がはっきり分かれてるし、たぶんまともに回答ができなくなるような制限もない。
ブログ、Youtube、ニコ動なんかと違って双方向コミュニケーションを容易に取れるので、リークも捗るかもしれません。
ただまあ、ザ・インタビューズの運営がどこまで信用されるかにもよるかと。国内のサービスだからね…
今まで挙げたようなアカウントは特に、当然炎上の危険性を大きくはらみます。
ただ2chやTwitterとかと違って、回答者が答える質問を選べるし、選ばれなかった質問が表に出ることもないので、炎上はある程度コントロールできます。
が、ついかっとなって答えなくてもいい質問に余計な回答を入れて炎上というのはありそう。
なんせ質問者は匿名なのでどんだけ回答者を煽るようなことを書いても批判を直接受けることはないし完全に安全。ここは2chと同じ。
そしてユーザーは大抵Twitterもやってるので、炎上はよりダイレクトに意思疎通ができるそちらに波及するでしょうね。
燃え上がると言えばこっちも発生するでしょう。
既出、あるいは同じような質問、心をえぐる質問、やたらと長文を要求する質問、モラルのない質問、質問爆撃(同じ人が同じ人に嫌がらせを目的として無難で陳腐な質問を大量投下。これシステム上防がれてるのかな?)、バトン(これ今は多分ないけどそのうち出てくると思う。mixiで流行ったアレね)、馴れ合い、等々でだんだん疲れてくるでしょう。
そのうちに質問者ひいては自分の周囲の人物への疑心暗鬼なども生まれることでしょう。
おそらく多くのアクティブユーザー、特に質問がたくさんつく有名人のアカウントは1年以内に放置、休眠状態になると思います。
これは燃え尽き症候群の逆。要するに誰も質問してくれなくてつまらないからやめちゃうというパターン。
このサービスは確かに、誰もが誰もに質問できるサービスではあるけれども、きっと何者にもなれない誰かに質問して楽しいか、という話です。
有名人や友達がたくさんいる人、ぶっちゃければTwitterのフォロワー数が多い人以外はあんまり質問つかないんではないでしょうか。
もちろん面白い回答をつけまくってファンを増やすのはありでしょう。でもそんなことができる人物は大抵すでに他のコミュニティで人気者なんですよ…
といって、システム上自分自身に質問はつけられないので自作自演はできない。複垢とってまで自演してもむなしいだけ。
まあバトンみたいな質問量産体制ができたら質問数は増えるかもだけど、mixiと違うのは質問者が誰か分からない点。
誰だかわからない人物の汎用質問なんて答えて楽しくないんじゃないかね。たぶん3つのデフォ質問に回答するのと同じ気分になると思うよ。
ザ・インタビューズは3か月~半年くらいは他のSNSがたどった道をたどることで盛り上がるけど、やはり同じようにその後は徐々にさびれるんじゃないでしょうか。
何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。
いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである。
それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。
「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。
で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり、過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。
さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社の社長か直接の上司か新聞のコラムかテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかもドヤ顔で)聞かされるし、それがあなたを人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入を保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。
ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。
さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。
ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるものが自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。
つまりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。
じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているか?あなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。
ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈で自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああいう仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。
何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分をごまかしてきたんだ?あれはドラキュラの映画か小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分をごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。
そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生を渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか?
自分で自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメな性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいからうつ病やアスペルガー症候群や統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。
メンヘラどまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないから自殺の理由はあんまりわからないことになっている。「死にたい」という言葉は冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか?
そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分をごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実の世界にはとっくの昔に絶望していて、ネットの世界にしか居場所がない人もいる。
こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?
有名人とかある会社の社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在の成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。
ぼくらだってああいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)
にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまですら過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去をイジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。
ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。
何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。
いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである。
それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。
「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。
で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり、過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。
さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社の社長か直接の上司か新聞のコラムかテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかもドヤ顔で)聞かされるし、それがあなたを人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入を保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。
ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。
さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。
ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるものが自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。
つまりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。
じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているか?あなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。
ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈で自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああいう仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。
何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分をごまかしてきたんだ?あれはドラキュラの映画か小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分をごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。
そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生を渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか?
自分で自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメな性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいからうつ病やアスペルガー症候群や統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。
メンヘラどまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないから自殺の理由はあんまりわからないことになっている。「死にたい」という言葉は冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか?
そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分をごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実の世界にはとっくの昔に絶望していて、ネットの世界にしか居場所がない人もいる。
こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?
有名人とかある会社の社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在の成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。
ぼくらだってああいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)
にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまですら過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去をイジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。
ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。
Winnyのトリップ機能やShareのID機能はぶっちゃけ失敗だったと思う。
あれのおかげで「このファイルを流したのは俺様だぜ!」って自己主張が可能になっちゃって、流す人とそれを落とす人が明確に線引き可能になってしまった。
大勢が少しずつファイルを持ち寄っていくのが本来のP2Pファイル共有だったのに、前述の日本製P2Pファイル共有ソフトは、ごく僅かな一次放流者が効率的にファイルをばらまく手段に変質してしまった。
そして「わたし落とす人、あなた上げる人」が定着してしまい、「上げる人」がファイルを上げるのを漫然と待つだけの人が増えすぎた。そんな彼らが「よし、じゃあ俺も何かアップロードしよう」などと考える事は、多分無い。
彼らにとってP2Pファイル共有ソフトとは、「ファイルをダウンロードするためのソフト」でしかない。ソフトの仕様上ダウンロードしたファイルは自動的に共有はされるが、元を辿れば所詮は他人がアップロードしたファイルである。自分がファイルをアップロードするという発想など起こりようもない。
そうなると、その僅かな一次放流者が逮捕されたり飽きたりしたら、途端にファイルの新規共有が止まってしまう。そして実際、いくつかのジャンルはそうなりつつある。
違法行為が衰退する事自体は歓迎したい。けれども、国産のP2Pファイル共有ソフトが、ただ違法行為によって諸業界にダメージだけ与えて何も残す事なくこの世から消え去るのは少々残念な気がする。
後悔にまみれたその記憶を自分の手で書き表すことで、私は二度とこうしたものに手を出さないことを自分自身で確認しようと思う。
独身の頃からそういうものに興味はあり、海外で日本では禁じられている薬物に手を出したこともあった。
ただ、同行者はそれを吸ってとても楽しそうにしていたが、私には一向に効き目がなく、その体験はただ、
私に「あちらの世界」への憧れをかきたてるだけのものだった。
それには依存性はほとんどなく、何年もの間、それを欲しいと思ったこともなかったし、
一生必要ないと思っていた。ただ、「あちらの世界」への好奇心だけは私の心に根深く残ったままだった。
私はたまたま合法ハーブという語をインターネットで見つけ、好奇心からそれを調べた。
現在に日本では禁じられていない成分のみを用い、幻覚作用や覚醒作用をもたらすものということだった。
建前としてはお香としての使用を前提にしており、その煙を吸引することは推奨していない。
もちろん、それはただの建前であり、それらのサイトや関連Wikiにはその吸引体験が
多く綴られていた。
私は甘く見ていたのだ。
過去にそれに類するものを服用してまったく効果があらわれなかったこと。
そして、アルコール程度の影響で終わるのではという根拠のない自信。
夜22時30分。私は近くの街にあるその店の門を開いた。
暗い照明。ガラスケースに収まり怪しい光をはなつ「合法ドラッグ」のパッケージ。
「なんにしますか」カウンターの奥にいたのは、Tシャツにキャップをかぶった
私は「あまり強くないものを」と頼み、Wikiである程度名前が知られていて評判のよいものを
選び、それを買った。喫煙具と合わせて5700円。高いけれど、もちろん無理な価格ではない。
店の奥にはソファとテーブルがあり、その場で吸えるようにもなっている。
どうしてその場で吸おうと思ったかは分からない。家よりも安全だと思ったのだろう。
大きな間違いだった。
慣れない手つきで買ったばかりのふわふわした葉(かすみ草の花のようなものもふくまれていた)を
紙に巻き、火をつけた。要領は海外でやったときに知っていた。深く煙を吸い込み、
30秒ほど息を止めてゆっくりと吐き出す。
もう一度同じように吸った。何度も、何度も。ジョイント一本分、草が燃え尽きるまで全て吸った。
好奇心がわき、それからの身体的な変化を記録しようと思い、iPhoneを取り出した。
文字をフリックで打つが、まず指にしびれを感じだし、すぐに視覚がおかしくなってきた。
指を動かすが、目に映る像がワンテンポ遅れている。徐々に体中にジーンという
しびれが広がり、耳に聞こえる音が暴力的なまでに大きくなってきた。
10:35
電気がくるかんじ。
パルスが短くなっていく。
ビーン
という音
目がよわくなっていく。
あ
電気のビーンという音が
してると思ったら。
ここの照明の響く音でした。
耳が良くなるって本当だったんだね。
音がすごい立体感を帯びてきた。
十分すぎる時間はあったが、私は怖くなった。
このままでは帰れなくなるほどに、自分の状態は
悪くなるのではないだろうか。
後悔。後悔。
私は光のあふれかえる街に飛び出した。
うるさい音を発しながら私の横を通り過ぎていく。
見知った道はまるで違う道のようで、私は駅に行くために
駅へと急いだ。
足が思うように動かず、気づくと外界からシャットアウトされるほどの
思考の大波が私を襲う。今ものをなくしても分からないぞ、やばいな、と
私は頭の片隅で思った。
今の私を外から見ると、とてもまともには見えないだろう。
妻にだってわかるに違いない。
電車に乗った。
電車の中は混んでいて、においがとてもひどかった。
ドアの脇に立っていたが、どうにも足がふらついてカクカクする。
そして、すぐに思考の大波。
乗り過ごしたら万が一にも帰ることはできないだろう。
自分の体が電気の粒に分解されて、寄りかかっている壁に吸い込まれるような感覚。
心細い、あまりにも心細い。何も支えるものがない。
もう涙があふれ出そうだった。
なんてことをしたんだろう。愚かだ。あまりにも愚かだ。
警察に保護されるようなことになったら妻はなんて顔をするだろう。
ずっとずっと妻のことだけを考え、かろうじて残った正常な感覚を
かきあつめるようにして、私は電車に揺られていた。
時間の感覚が遅い。ずっとずっと考え事をしていたように思ったが、
着かない。着かない。私は焦った。
鞄の中に吐いた。周囲の目が突き刺さるのを感じたが、
その時扉が開き、私は転げるように電車を出た。
帰らなければ。妻と子どものいる家に帰らなくては。
あと10分、私の足よ動いてくれ。私の脳よ導いてくれ。
引き出し、ゴミ箱に捨てた。こんなもの、二度とやるものか。
一歩、一歩、改札を出るのもやっとこさ、私は家への道を
ふらふらしながら歩いた。
家の手前でまた嘔吐感に襲われ、また吐いた。
そして。
妻は私を出迎えてくれた。ほっとした顔を覚えている。
私は謝った。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
妻の顔が凍りついた。
妻は驚き、悲しみ、倒れている僕の横でワンワン泣いた。
「そんなに私と別れたかったのか」そういって泣いた。
なにも妻は悪くなかった。日常に不満もなかった。
ただ、好奇心だけでわたしはしてはいけないことをしてしまったのだ。
感じた。涙が出た。止まらなかった。
そのまま気を失うように眠った。
翌朝、私の思考は元に戻っていた。
少し頭が重いが、普通の状態だ。
寝室では妻と子どもが眠っていた。
私はこっそりと二人の横に身を横たえ、もう一度眠った。
それから、妻は長らく口をきかず、私はただただ、謝りつづけた。
もう二度とこのような愚かなことをしないこと、何度も何度も謝った。
妻は言った。「しかしこのことを許したわけではありません。絶対に許しません」
妻はつづけた。
「違法か、合法か、そんなことは関係ないの。こういうものは、あなたの何もかも、今まで積みあげてきたいろんなことを、
あなたが善良な人であったことさえも、一度に奪ってしまうかもしれないの。」
子どもが起き、私たちは三人で外に出た。
子どもがその日、はじめて私のことを「パパ」と口に出して呼んでくれた。
また涙が出そうになった。
妻はずっと泣きつづけ、泣きつづけて、
その間私は彼女がしなければと言っていた
家事をやった。戻ってきた私に妻はひとこと
「ありがとう」と言った。
私たちは寝息を立てている息子の横に、
いつもしているように枕を並べて寝そべった。
妻に許可を取り、そっと体を抱き寄せて眠った。
薬物が体を駆け巡り、蝕みだしてからずっと、私は自分が手にした幸せを全て手放してしまうことを恐れた。
そして事実、それは極めてリアリティのある話になってしまった。
実際のところは分からない。しかし私は絶対にもう手を出さない。
妻と子どもと暮らすこと。今の仕事。そして数十年後の、妻とのささやかな夢が、
何よりも大切なのだ。それが、一瞬にして水泡に帰す。そんなものには
二度と手を出さない。私は強く心に決めた。
これまでよりも、よい夫で、よい父でありたい。
私の誇れることだった。
戒めのために、わたしはこの記録を残す。
電車の中で吐き気と、思考の洪水に飲まれながら私が打ったEvernoteへの記録を結びに。
毒
だ。これは
毒だ。
捨てる。
捨てる。駅についたら。
現在の法に照らし合わせて問題はないはずだし、自分が快適に生きられる範囲でやればいいと思います。
私が不慣れで、しかもこういうことをやるのに適した環境にない、それだけのことです。
いくつかご意見をいただきました。セッティング、環境を作れてないのがよろしくない、と。
思えばそうした状況から一時的に逃避したかったのかもしれません。
だから外にしました。もちろん、それがド素人の甘い選択であったことはいうまでもありません。
トんでいる状態で徒歩計20分、電車に乗って10分という帰宅への道のりを辿らなければならない、
その焦り、帰れないのでは・ばれるのでは・様子がおかしくなって警察を呼ばれるのでは、という
ネガティブな思考が悪い方向に私をもっていたことは十分にありえることです。
そもそもバッドトリップだったのかもわかりません。ただ、私は自分の身体の変化がおそろしくなった。
やってくるものに抗い、平静を保とうとした。それが嘔吐感をもたらしたのかもしれません。
それに身を任せていたら楽しかったのかもしれませんね。
妻がそういう考えで、その妻を大切にしたい私にはできないものなのだ。
そういう気持ちでいます。
構内で火災が発生したが外部には公表されなかった。しかし田原総一朗に宛てた内部告発により事故の発生が明らかになり、告発の一ヶ月後東京電力は事故の発生を認めた。
日本初の臨界事故とされる。この事故が公表されたのは事故発生から29年後の2007年3月22日になってからであった。
主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果、原子炉圧力が上昇して「中性子束高」の信号により自動停止した。INESレベル2。
定期検査中、137本の制御棒のうちの34本が50分間、全体の25分の1(1ノッチ約15cm)抜けた。
1989年1月、3号機の原子炉再循環ポンプ内部のインペラー(回転翼)の溶接部が壊れ、炉心に多量の金属片等が流出、長期にわたって発電所を停止に追い込んだ事故が発生した。
2008年1月、3・4号廃棄物処理建屋(RW/B)の海水ポンプA(以後RWSWポンプ)の吸い込み側配管及び電動機と羽根車をつなぐシャフトが折損するトラブルが発生。これを受け3号RWSWポンプBを緊急点検、東京電力、東電環境、東電工業等が注目する事となった。
2008年2月、サイドバンカーにて2号の使用済み核燃料を積載したキャスクをクレーンで吊り上げ作業中にクレーンがトリップするという事象が起きた。
規制派の方は仲間うちでヒートアップするんじゃなく裁判官の前で同じことを言ってみるといい。
http://alfalfalfa.com/archives/1401298.html
仲間内だけで議論していると、こういうことはよくある。
こまかいところをすっ飛ばしてノリで議論を進めてしまう。
相手側の指摘は全部スルーしてしまうこともありがち。この時点でもう議論じゃないけどな。
その結果、虚構の上にできた主張が、さらに虚構を生んで、いつのまにやら
それってもう完全に、集団幻覚とかトリップの世界。インデックスさんいつのまに。
彼女たちはもう耳つぶすとかしないと助からないかもしれない。
話それたけれど、
そういう場でいくら議論しても、議論の土台となる事実認定がおろそかになるから。
そういう内輪議論をしたいなら別に留はしない。
でも、そういうのは他の人の目に見えないところでやるべきだと思う。
他の人にその理屈は通用しない。強弁するならばこれは偽証罪になるかもしれない。
これはオタ側も一緒。
どんなエロだろうが変態だろうが、内々で消費してる分には構わない。
ただ、なんつーか、もうちょっと気を使えよ。
はっきり言ってまわりから見たらキモイってのは確かなんだ。
あなたキモイですよって言ってるのに開き直ろうとするやつらってめっちゃ不気味だぞ。
キモイなら見なければいいじゃん、というためには、
一応相手の心情には気を使ってますよ、害意は、いや脅威はないですよってのは示すべきだろう。
その面ではオタの対応はちょっと不十分だと思うぜ。
限度わきまえず突っ込んでくるイノシシ豚みたいなのは相手にしなくてもいいけど
社会人としての配慮はあってしかるべきだよ。エチケット的な意味で。
おしゃれしろとは言わんから、あんまり公の場でオタオタするな。
どんどんどんどん追い込まれていくような、義務感に駆られてしまって、結果的に嫌いになってしまうような、そんな疲労感がすごい。
ゲームとか小説とか、買ったまま積んじゃって、終わる前に新しい面白そうな作品が出て、やりたいって思って買うのに積んじゃって。
時間がないって嘆きながらパソコンに向かい、ネットに繋ぎ、2ちゃんをし、ニコ動を見て、増田に書き込んでる。
すごく不毛だ。馬鹿げてるし、情けないようなやるせないような、もどかしい思いを抱いてしまう。
やりたいとか読みたいって飛来した強烈な衝動は本物だったはずなのに、いつの間にかその思いが、大きな重石となってのしかかってきている。
ゲームをしてたり小説を読んでいるととても面白いことは知っている。実際その最中は充実した気持ちでいられる。
楽しい、面白い、次へ進みたい。思いは指先に伝わって、どんどん時間を貪っていく。
でも、最近はそううまくいかない。ある種のトリップ状態にまで持ち込める回数が極端に減ってしまっている。
そもそも、最低限、本当の本当に最低限踏まなければならないステップである、「始めること」が億劫で仕方がないのだ。
もう、始めることが「しなくてはならない」ことになっている。
残念だけれど、事実としてそうなってしまっている。
それが口惜しいし、悔しいし、腹立たしく思える。
時間泥棒が憎たらしくて堪らない。
たとえば寝ている最中とか、動画を見ている最中だとか、キーボードを叩いている最中にこっそりやってきては時間を奪っていく。
欲望に負けてしまう。
たくさんしたいことがあると、楽に楽しむことが難しくなるのかもしれない。
それとも、楽に楽しむっていう考え事態甘いことなのかもしれない。
したいことはどんどん増えていくばかりで、しなければならない重圧はますます大きくなっていく。
磯野波平の酒ぐせ
久しぶりに、サザエさんを見ていて思ったのですが、磯野波平をはじめ、男性キャラクターの登場人物の酒ぐせがひどいように感じます。
・アル中のように、いつも酒ばかり飲んでいる
・適量でやめられず、フネさんに酒を持ってこさせる
・べろんべろんに酔って帰宅する
成人男性であっても、お酒を飲まなかったり、家では晩酌をしない人もいます。いい年した社会的地位のある人が、べろんべろんになるまで飲まないし、フネさんに迷惑をかけるのも問題がある飲み方のような気がします。
確かに酒癖悪いですよね。
記憶にあるのは、宿題があるからといって逃げようとするカツオを、
『まぁ、いいじゃないの、カツオ君』といって無理やり引き止めて、
酒の相手(飲ませてはいないけど)をさせるべろべろな場面。
『お父さんは昼と夜では言うことが違う。』と言われると、
『何時、わしの言うことが違った!』と怒る。
情報送信でスパイウェア警告、ドングル導入検討、2chで訴訟をほのめかす
体験版の30分制限
どうしてこうなった・・・
正式版のダウンロードを購入者のみに制限、体験版での登録ができなくなる
不正使用対策のため、シリアルキーが新しく変更される(要再登録)
新しいシリアルキーに、ダウンロード時に登録したメアドが含まれるようになる
Ver.9の購入者がVer.8を使えないことに苦情が寄せられる
エディタの起動時に情報を送信していることが確認される(スパイウェア疑惑)
キージェネとクラック情報の存在が確認され、緊急バージョンアップが行われる
「ドングル導入を検討していた」という噂が流れる(作者本人は否定)
ベクターで新規購入するとユーザー情報が「ベクターのお客様」になることが判明
不正使用対策で自己改変チェックが行われるようになり、起動がもっさりになる
法人限定でシリアルの内容がメアドから会社名に変更可能になる(要申請)
苦情を受けて、新規ユーザーにもVer.8のシリアルを発行開始(要申請)
自分のスパイウェア疑惑を棚に上げ、クラックやキージェネの危険性を警告
Ver.9.07で自己改変チェック機能が外される
ライセンスとセキュリティポリシーの問題で公式サイトがまた荒れる
後付けの規約変更連発で事態の収拾を図ろうとする
作者の意に沿わない発言をする者に対し、公式フォーラムからの退会を勧告
作者から一方的に議論打ち切り宣言が出される(掲示板の一部がロックされる)
作者が2ちゃんねるに降臨。「テンプレを削除しないと訴えるぞ」と恫喝
公式サイトとトリップが一致し、本人の書き込みであることが確認される
しかし、まったく効果がなく、わずか1日で2ちゃんねるから撤退
Ver.9(の続き)
Ver.9.09で登録情報の送信回数が減らされ、同時にキージェネ対策が行われる
返金を申し入れたユーザーのメールがスパムフォルダに振り分けられていたことが発覚
公式サイトのリニューアルで、ロックされていた掲示板が削除される
Norton Anti VirusがVer.9.11をスパイウェアの可能性があると警告
公式で報告された不具合をユーザーの環境のせいにして済まそうとする
このスレの指摘で上記の問題がソフト本体のバグであったことが確認される
確認ダイアログの表示前に、通信をしている可能性が指摘される(9.14で修正?)
Ver.10で再度シリアルキーが変更される
体験版の使用制限が強化され、30分ごとにソフトが強制終了するようになる
体験版の制限が30分ごとの強制終了から30分ごとの警告ポップアップに変更
「印刷時のフォント計算バグは次のメジャーアップデートまで直しません」発言
Ver.11 有料アップグレード(予定)
増田です。
でもそれも、おだやかな付き合い方を心がけたら安定してきた(彼氏談)らしいです。
28歳♀さんの彼氏さんは、とても素敵な人だと思います。
私は大切な人に「彼氏から愛されている」と満足すらさせてあげられませんでした。
貴男はまず、どうしたいんですか?
考えられるのは2つの選択です。
●2、彼女に出て行って貰いたいのか
やり直したいというのがもっとも理想的ですが、そんな可能性は0%なのは
分かっています。この気持ち、時間が助けてくれるのを待つのみです。
本当に出て行って欲しいのであれば、手段を選んではいけません。彼女の実家に連絡して引き取って貰うなり、乖離性同一障害が本当だと思おうなら実際に彼女を引きずってでもいいから精神科の受診をさせるべきです。彼女から何を言われようが、彼女の実家家族から何を言われようが気にしちゃいけません。
彼女は親から勘当されており、6月に実家に荷物をいったときには家が
なくなっていました。どこに引っ越したかもわかりませんし、彼女の親の
連絡先もわからなくなりました。警察にDV被害をだしたときも、警察に
親の住所公権力で調べてあげようかと言われたらしいですが、彼女自身
家族には会いたくないと思っているので、彼女自身が拒否したそうです。
もう私自身がでていき、家賃は払ってあげるしか方法がないです。
貴男はひとりの男としてひとりの女性を、貴男の考える方法で愛し、守ってきたんです。
それ以外になにか言葉はありますか?
仰る通りです。
私の愛し方が間違っていて、彼女に辛い思いをさせてきたこと、別れる結果になったことは悔やんでも悔やみきれません。
ありがとうございます。似た状況の方からのお話、とても救われました。
28歳♀さんに感謝いたします。
「長すぎてゴメン」の28歳♀です。
追記:感想
連投ゴメンナサイ。
私の乖離性同一障害に自分で気がついたのは中学生の頃、それまでの物心ついたころからは、「何かおかしいかな?」「いつも夢に同じ人が出てる」とか、そういうくらいの感じ方でした。
私自身は、学生時代に知り合った1つ年上の同級生に一目惚れしました。
その3年後くらいに頭がタイムトリップしたことに気づいたとき、その男性と付き合い始めた状態だったらしいです。
それが現彼氏です(私が一目惚れした当時は、私は告白しないまま彼に「興味ない」と振られたので付き合ってはいなかったみたいです)。
ちょうどその3年の間、「それ何てエロゲ?」な期間があったらしく、それはけっこうなものだったとか聞きます。
なにやらな後遺症とか、感染症とか、思いつく限りの検査を行ったのは今でもイイ思い出です。結果的に何もなかったので。
しかし、肌を合わせたときには強烈にスイッチが入ったらしく、彼氏の首を絞めたりだとかのど笛を握り潰そうとしたとか、目の焦点定まらない異常な状態でへりくだる(→「奴隷志願」したらしいです)とか、抜け殻みたいになって音にも光にも反応しなくなるとか、突然の命がけの様な抵抗等あって、最初の頃はものすごく心配したそうです。
でもそれも、おだやかな付き合い方を心がけたら安定してきた(彼氏談)らしいです。
私もそう感じます。少なくとも、最近はあまり危険な行動はとってないようです。
タイムトリップした頃から気がつくと、すでに4年が過ぎて、もう5年目です。。
やっと、半年くらい前から同棲を始めて彼氏のパソコンを借りるようになって初めて分かったのですが、ものすごく「乖離性同一障害」の事を調べていたようです。ありがたいです。
今回、Hatelaboでこの記事を見つけた時には、えも言われぬものを感じました。
でも、その日記の内容を見ていると、妙な事だらけでした。
私的には・・残念ながら「演技なんじゃないか」と。
理由については前述で書いたとおりです。
日記主さんは大変困っていると思いますが・・。
男性としてだらしなさを感じる文章がありました。
日記主さんに幸せになって貰いたいから、思ったことをはっきりと書かせてください。
『これからの事を話しかけても「うざい、キモイ、そばに寄るな」そればかりで、話をしないため、ちょっと怒ってしまった僕は、「ちゃんと話聞けよ」と腕をつかんで怒った。腕を引っかかれて思い切り噛み付かれ足で思い切りお腹を蹴られた。うんざりした僕は、頭を無理やり引き離した。そしたら彼女は警察に行きDVされたと被害をだし、警察に事情聴取をされ、「もう一緒に暮らすな」と言われた。』
貴男はまず、どうしたいんですか?
考えられるのは2つの選択です。
●2、彼女に出て行って貰いたいのか
1については、もうほぼ無理です。
2について、『今は実家から引越していて、一緒に同棲している。話かけると罵倒される毎日で、出ていって欲しいといったら「お金がないから貯まるまで無理」と11月までここにいると言っている。「今の男に頼ればいいでしょ」と言ったら「彼のことは本当に好きだから嫌われたくないから迷惑かけたくない」と。』惚れた弱みもあるのでしょうけど、男として、なんと情けない・・と感じてしまいました。
本当に出て行って欲しいのであれば、手段を選んではいけません。彼女の実家に連絡して引き取って貰うなり、乖離性同一障害が本当だと思おうなら実際に彼女を引きずってでもいいから精神科の受診をさせるべきです。彼女から何を言われようが、彼女の実家家族から何を言われようが気にしちゃいけません。
どうせろくな事は言わないと思います。
あんまりにも威圧的な行動を取ってくるようなら、証拠を用意して警察に持っていくことを勧めます。
『こんな女性でも、やっぱり好きだった気持ちが強く、僕の前で平気でラブラブ電話をしていたり、家に帰ってこなく、ホテルに泊まってセックスしまくってるだろうと想像するといろいろと辛い。』
それが未練というものです。貴男に暴力まで振るって、警察に狂言まで行う女というのは何もかも計算尽くのはずです。
ほっておくべきです。今頃は貴男の後釜をその気にさせている最中じゃないかと、そんな気がします。
彼女のいないときに鍵を付け替えちゃうとか、追い出すのが普通です。
『僕はもうすぐ32歳。この3年6ヶ月はいったいなんだったんだろう。。』
お答えします。
貴男はひとりの男としてひとりの女性を、貴男の考える方法で愛し、守ってきたんです。
それ以外になにか言葉はありますか?
他のことは考える必要はありません。考えたらキリがないので。
恋愛には結果はどうあれ終わりがきます。
今回の貴男の恋愛の結末がすでに来たのだと思います。
もうすぐ32歳。
これからが脂ののったイイ時期じゃないですか?
それと、日記主さんにはとても心にささる辛辣な言葉で批判してすみません。
でも、私の彼氏のように彼女の異常な状態を心配して守って愛してきた貴男に、男として幸せになって貰いたいと思いました。
もう投稿は控えます。
教義を丸呑みしなくてもいいですよ、時代ってものがありますからね、っていってくれることが多いのがその2つ。
いっぺんお説教を聞きにいって、信じることは出来ないのですけれど、どうしたもんでしょうということを伝えてみればなにか琴線に触れるお話が聞けるかもしれませんよ。お経の抑揚のトリップ感というのもなかなか素敵なものがあります。
キリスト教は、肌に合いさえすれば信徒さんの結びつきは強いのでそれも悪くないかもしれませんね。自分は、聖書の内容を信じていて当然の態度がどうにも性に合わず、クリスチャンコミュニティの方々とは上手くお付き合いが出来ませんでしたが、皆さん良い人ですよ。
実家の隣の家に、出戻ってからずっと“半引きこもり”状態の高齢なご婦人がいたりするので、
■高齢ひきこもり問題 http://anond.hatelabo.jp/20091124223559
こういう問題は人事ではナイ。
ただね?
思いっきり乱暴なぶっちゃけ方をすると、引きこもりってのは「心理的に不健全なコミュニティーが掛けて来る同調圧力の毒気に当てられて不適応を起こしている」だけの話だから。
自己イメージを改善する事で、精神毒への耐性を獲得してしまえば、大して心配することではなかったりする。
「素人がなに抜かす?!」
みたいなことを言われそうだけれど、
以前に“空気?読めないけどなにか?”↓
http://anond.hatelabo.jp/20090402142657
を書いたid:cambrianなんだがどうかしたか?
因みに、1コ上のトラバ“目には見えなくても、すぐそこにある危機 ”
http://d.hatena.ne.jp/cambrian/20091126/1259164213
↑これ書いたのもオイラね。トリップつけられないから本人証明なんか出来ないけどさ?
「役立たずだ無能だ不要だお前に何かできるはずはないいなくなれば良いのにどっかへ行っちゃえ消えてくれていいよetcetc」
みたいな無言のメッセージを、垂れ流しで浴びせかけられ続けたらおかしくもなろうって物さ。
実際問題として、元増田の「こころからののぞみ」ってのは、人間と言う生物の、至極真っ当な欲求だ。
何がしか理由をつけてそれを制限しようと思うのなら、自分だって身に覚えのない因縁付けられてドツキ廻されても構わないと言ってるのと一緒なんだが、ちゃんと分かってるか?>ALL
まぁ、そうは言ってもコミュニティーなんていうものは、しょせん他人の集合体でしかないから、他人が態度を改めてくれることなんか期待してみても、報われる事はまずありえない。だから、自分自身のメンタルを改善強化して、耐性をつけたほうが早くて確実だ。
5月の末に自己イメージのリライトに成功してから、長年悩まされ続けたメンタル&フィジカルのトラブルは欠片も出なくなったしな>オイラ。
誰も言わないなら、おいらが言ってあげよう。
誰に遠慮をする必要があるものか。
今は自信を持てなくても心配する必要は無い。
少しずつ自分の事を慈しめるようになっていければ、そう遠くない将来には、自分の能力と可能性を最大限に生かして、人生を楽しめるようになっていることだろう。
OK?