はてなキーワード: トキワ荘とは
漫画家志望者には「バクマン」でもなく「G戦場ヘヴンズドア」でもなく、「まんが道」を読んで欲しい。
言わずと知れた名著ではあるけれども、文庫版でしか手に入らなくなったこの不幸(後電子書籍版があったか?)。
現代の漫画と単純な比較を行えば、一見「地味」に見えてしまうのはいたし方が無い。
しかし、そこにこめられた「熱さ」を、静かな「熱さ」を読者ははっきりと感じることが出来る。
二人で親戚の叔父さんの二畳の部屋に下宿してうだる暑さの中原稿を書く日々。
四畳半のトキワ荘へと「出世」した時は自分のことのように嬉しかった。
勿論、この作品の持つ「熱さ」が、戦後の日本が復興していく中で不可避的に身に着けざるを得ない「熱さ」
であることは銘記しておくべきではあるが。
それでもなお、安い「業界事情の暴露」や、安直に「才能」だの「創作に不可避な狂気」などを語ってよしとするもの
よりもよほど得るものは多いと思う。ここで語られているのは、どちらかと言えば「徒然草」序段の、
「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」
に通じる静かな狂気(熱さ)であるし、それこそが今、漫画に限らず、「モノヅクリ」に携わる全ての人に求められているのではないか?
「アーティスト」や「クリエイター」や「オリジナリティ」といった言葉と戯れること無く、ただただまんがを描き続ける彼らは永遠にまぶしい。
右手をかばいながら転ぶことが出来る漫画家志望です。漫画は恋人。Gペンとベロチューとかしてます(単につばをつけて拭き取って油を取ろうとしてるだけなんだけど)
賞は取ったことがありませんがあと1、2歩らしいです。そろそろ上京しようと思ってるのですがお金がないので1年間フリーターをしようと思ってます。
だけど
祖母は言います「女の子なんだから彼氏の一人でも見つけて早く結婚しなさい親孝行しなさい」
祖父は言います「死ぬ前に花嫁姿を見たい」
母は言います「夢を追いたい気持ちは分かるけど就職しなさい。漫画家も不安定な職業でしょう」
父は言います「高大と私立に行かせてやってんのにフリーターとかふざけんなよブラックでいいから就職しろ」
妹は言います「私は東京にいるから、お姉ちゃんは地元で就職した方がいいよ。いつか介護とか必要になるし。私は東京で彼氏と同棲するから無理。大卒で就職しないとかお姉ちゃん何の為に生きてるの?」
弟は言います「昔の絵見ても分かるけど才能ないからニートにでもなればwwwwww」
金があれば今すぐにでも出て行きたいんですが、金がない。そしてフリーターしようとするとこんな冷たい反応。
田舎で創作活動してる人の家族ってだいたいこうなんですかね?稼げば文句言わなくなるのかな。
それともうちの家族がやたらクリエーター系に否定的なだけなんでしょうか。
こんなご時世だからこそ何かトキワ荘的な物があると助かるんじゃないかなと思ったりしてます。
まあそれは別のお話。
ああ、もう何か創りはじめてるんだ。それなら結構。パッションとアウトプットがある限り、一生おもしろい人に不自由することは無いと思うよ。
もう走り始めてる人に特に言う必要もないんだけど、ずっと昔に大学時代を過ごしたものとしてつい口を挟ませてもらうと、どんなに学生時代に「すごいサークル」を作れたとしても、それは助走なんだということを心の片隅に止めておいてほしい。あなたが過ごすことになるであろう仲間との濃い時間は、そこで完結するものじゃない。その時得られる刺激や充実感は、それ自体あなたの生活に充分な活力をもたらしてくれるだろうけれども、それはほんの味見に過ぎないんだ。
おそらく大学時代の仲間は、いずれあちこちに散って行くだろう。職種的にも、地理的にも。そして10年、20年と経った時、かつての仲間がそれぞれの分野で素晴らしい仕事をしていることを、ニュースで知ることになるかもしれない。あるいは自分のアウトプットを見てくれた仲間が、地球の裏側から連絡を寄越してくれるかもしれない。運が良ければ、またコラボレートすることができるかもしれない。今度はお互いプロフェッショナルとして。その時わかるんだ。大学時代のあの時間は、種蒔きにすぎなかったということが。本当の実は、そこから数十年の時間をかけて育ってゆくものだということが。
言い換えれば、あなたの「すごいサークル」が本当にすごいサークルになれるかどうかは、その仲間が散り散りになった後であなたがその種をどう育てるかにかかっているんだ。トキワ荘が、今私たちが知る「あの」トキワ荘である理由は、ただその時そこに若い漫画家の才能が集まっていたというだけじゃない。その後何十年もかけてかれらが成し得たことが、事後的に「あの」トキワ荘を作ったんだ。
だから、一時の高揚感や充実感に満足して手を緩めたり、他人の評判に浮かれたりしないように気をつけて欲しい。どんな体験も、しっかり植えておけば遠い将来に実を結ぶ。妥協せず、自分のアウトプットを冷静に見つめて、より良いアウトプットを目指すということを、とことんやるのがいい。増田で遊ぶのも程々にな。ぐっどらっく。
個人サイトについて前から自分が思っていたことについて書こうと思う。
http://d.hatena.ne.jp/takhino/20081006/1223258393
一ヶ月ほど前の記事。
イラストを発表する個人サイトは減っていき、pixivのような巨大投稿サイトで発表するのが主流になっていくんじゃないだろうか、という帰結をしている。
これは合っていると思う。というか、既にそうなっている。
イラストだけじゃない。
それは目に見える繋がりをどんどん強化していったからだ。
昔、表現をしたい人間が発表の場としてインターネットを選び、次々と個人サイトができていった。
「ホームページ」とも言うように、みんなが個人の家を持ち、その家の中で作品を発表した。
みんながみんな、点々と家を持ち発表をしていた。
しかし、同じジャンルを志すもの同士、繋がりたいものである。
それを助けていたのが「リンク集」や「登録型サーチエンジン」。
同好の士、お互いの家は離れていたけど、どこに位置するかを示す地図があり、みんなそれを頼りに足を運んだ。仲間に入るためにみんな自分の家を地図に載せてもらった。でも、みんなどこかバラバラだった。
数年前だけどかなり昔の話。もう戻ってこない遥かなる過去。
今はもう誰も地図を取らないし、家に足を運ばなくなっている。
地図を自分で取ってくるのは面倒だし、歩いて場所を探すのはかったるい。
それ以上にもっともっと、繋がっていたい、一緒にいたいという願望が強くなっていった。
そして、生まれたのが巨大な投稿サイトである。
同じジャンルの表現者は皆、一つの大きな投稿サイトに集まりそこで発表するようになり、閲覧も投稿もコミュニケーションも何もかも一つのサイトで済ませるようになった。
皆で同じ大きな家に住むようになった。同行の士が同じ場所に寝泊りし、作品を発表し、コミュニケーションをし、お互い刺激しあって切磋琢磨していく。
家と家を移動する必要はなくなり、繋がりは濃密になる。何せ常に同じ場所にいるのだ。
イラストならばpixiv。音楽ならmyspace。写真ならflickr動画ならyoutube。文章にだってテキスポがあるし、ゲームはちょっと思いつかないけどこれからできるか、或いは海外にあるでしょう。
これはどんな状態か?