はてなキーワード: チェスとは
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
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大筋で同意ではあるが、一部の主張にちょっと追加
とあるが、タッチパネルのほうがゲーム専用機の専用コントローラに、操作性で優越するジャンルが存在するという点は指摘しておきたい。
もう少し整理すれば絞り込めるとは思うけど、この5点を満たすものは、タッチパネルによる操作性は
例を出すと、カードゲームやテーブルゲーム(麻雀、将棋、チェスなど)が分かりやすいと思う。
特に「多数の中からひとつを選ぶ」、かつ「その場面ではそれしか求められない」場合は、「タッチパネルで選択する」ことは
コントローラであれこれやるよりもよほど分かりやすく操作性も高いだろう。
といいながら、例外的に上記の項目に当てはまらないゲームでありながら、タッチパネル操作のほうが
ひょっとしたらコントローラ操作よりも分かりやすいゲームがあることはある。
一時期、PUNKにはまってたことがある。HR/HMを聴くことに疲れたときに、PUNKを聴くと元気が出た。毎月CD屋に行っては、視聴コーナーに陣取って、聞いたこともないバンドのCDを買っていた。
そんなときに買ったものの一つに、"Welcome To The Looserville / Son Of Dork"がある。日本発売は2006/02/22。ライナーノーツを見ると何か書いてあるんだけど、まあ詳しい経緯は置いておいて、このアルバムにも収録されている"Ticket Outta Loserville"(ほぼアルバムタイトルですね)は、en/Wikipediaにもある通りUKで初登場三位になったらしい。実際に聴くと、ポップで明るくて単純にいい曲なんだけどね。オマージュ云々はこの界隈の標準だし。しかし、このバンドは全く日本では流行らなかった。当時まだ、BURRNとか毎月読んでたころだと思うけど、特集記事を読んだ記憶もない。
そんなこともまあどうでもいい。所詮UK三位くらいじゃニュースバリューも小さいのかもね。でも、その"Ticket Outta Loserville"の歌詞は実は結構Nerdっぽかった。概ね、"17歳のときにフットボールチームに入れなくてチェス・クラブの会報を作っていたような人間だけど王様ゲームで周りに爆笑されながらデートに誘ったら上手くいって夢みたいで信じられないけどマジっぽいからもうSTAR TREKのコレクションはいらないからしまっちゃったんだけどマジになったらフラれちゃって夜になっても叫んで目を覚ます状態なのにスコッティは助言もしてくれないしまたSTAR TREKのコレクションを出してそろそろ諦めないとね"、という感じ。これは賛否両論いろんな意味で日本のサブカル界隈でも盛り上がるのでは、と思ったこともあったんだが、実際はそこでもまったく盛り上がらず。そのころは、"ハレ晴れユカイ"のオリコンランキング入りで忙しかったらしいね、その界隈は。
そのときにいわゆるオタクに対して思ったんだけど、「こいつら偉そうにいろんなこと言ってるけど、本当のところは自分の周りのチャンネル以外は全然見ていないし、かなりアンテナ低いんじゃねーの」って言われても仕方ないのでは。だって一応UK三位だぜ。それに比べて(文庫は名作と言えるかもしれないが)ハルヒのアニメの主題歌(EDか)ごときがなんだってのさ。
#なんだかんだでニコ動にはあるみたいだけど、あること自体が著作権侵害的にどうだかっていう感じだしそもそもアップロード自体が日本発売からも遅いし盛り上がってもいないしなんなんだって感じ。
スポーツも競技になるものはレギュレーションってのがあってね・・・
子供の遊びのゴムとびだって勝ち負けのルールやこれをやったらダメってのを決めるよね。
古いモデルの焼畑式チョンゲーMMOや殆どのソーシャルゲームは例えるなら、レギュレーション違反の道具を買えたり、勝負で八百長したり、自分だけ外人選手入れたり、勝ちをお金で買えたりするくらいのチート感があったんだよ。そもそもお金払わないと遊ぶ場所を確保できないとかね。
人が複数集まる以上、それは競技としての性質を帯びる。大多数が楽しいと思うためにはバランスを崩さないことが必要。アイテムなどよりも、プレイヤーの腕や経験や人脈やらが勝敗に関与する割合を増やす。そうしないと、交流したり競争したり協力することが楽しいと思えないし、ゲーム自体が短命になる。
その方向性を究極まで突き詰めて、プレイヤーの腕だけが差になるのが FPS。これらは eスポーツといって、スポーツの一種という扱われ方もされてる。プレイヤースキルやチームワークが大事というのは、たかがゲームでもその楽しさの根源はスポーツやチェスなどと何らかわらない。
そこまで削ぎ落としたモデルにしなくても、ネットゲーム全般にだってその要素はあるし、「交流したり競争したり協力することが楽しくて、自分で工夫したり努力することが結果に繋がる」という根本を崩さないようにしながら、アイテム課金も両立するというのはもう常識になってきてる。まぁ、大量生産ハンコ型クリゲーは初期動員さえ稼げればいいのでレギュレーションもクソッタレもない焼畑式が多いけど、そうじゃなくてまともな MMORPG は随分前から変わってきてる。
まあ、MMO もユーザーはずっと前からこのことに気付いていて「こうしてくれたら気持ちよくお金を払うのに」と 10年位思っていたけど、製作側が頭が固すぎたつーのがあって。ソーシャルゲームも同じ歴史を繰り替えすのだろうなと思う。
「最初はフランチェス子さんという方にちょっと同情しましたが、ここまで続いてると何か微妙な気持ちになりました。2人のアイコンの印象もそんな微妙な気持ちを増幅させます。失礼ながら良くも悪くもここまで戦えるのは暇な主婦だからなんだろうなとも思ってしまいました。」ってちょおま
これ書いてる人がどんだけ偉い人なんかと思ったらゲーセンの店員だった。何を言ってるのかわからないと思うがとりあえずお前がアイコンのことを言える立場かと。
ゲーセンとかパチンコの店員って俺の認識の中では実際は忙しかったとしてもどうせ暇なんだろ、とか遊んでばっかなんやろ、とか言われる職業ちゃうんかな。だからこういう言い方されるとどういう気持になるのかわかってるのかと思ってたわ。そうでもないんやね。やっぱアホやからかな。
時間の使いかたにおいては最も非生産的な職業だろゲーセンの店員って。社会最下層にいる人間が、普通の人に偉そうに時間の使い方を説くってどうも納得行かなかねー。
ここから下は4月29日13時18分に書いた。
おまけ。釣りというか、この問題に憤ってる人が問題を理解してるかどうか試してみたかったんだが、あいも変わらずみんなこういうのに反応するのな。そりゃ非モテタイムズみたいなのがなくならないわけだよ。ネットでは、こういう感じの腐った記事を書いた奴は、それによって得た収益を全額没収&名誉毀損で訴えられて破産、くらいのペナルティがない限り、絶対誰かまた同じことするだろう。悲しいね。
何のことかというと、以前揉めたフランチェス子さんが自衛論について何かヒートアップしていたことがあったじゃないですか。自衛について説くことは、実際に自衛が成功する益より、被害者の心痛を刺激する害が勝るって。
あれで純粋に疑問を持ったのが、警察や格闘技ジムって自衛のためにと称して市民に格闘技を教えるじゃないですか。あれって無駄なんでしょうか。
無駄だったら上の論は成り立つけど、効果があるのなら上の論は成り立たない。格闘技はぜひ教えるべきだということになるし、そういった自衛論は害より益が勝ることになる。
フランチェス子さんが想定しているのはそういう自衛論ではなく被害者の努力不足を攻撃する自衛論なんだろうけど、結果的に自衛論なら何でもダメと言っているようにとても見える。
また、暗数があるから云々というけど、格闘技による自衛の効果があるかないかというのは、警察や格闘技ジムが責任を持って立証しなければならない。だって無駄なことを教えていると言われたときにすごく困るから。
こういう親切面しながら好奇心丸出しで絡んできて被害者を疲労させるだけの人たちに文句をいうと味方にまでそんな態度を取るなんてふじこふじこ言い出すが自称味方が一番迷惑な存在です
黙ってれば勝手に謝罪文あげられるし、抗議してる姿が見えると途端に余計な横やりが入る。「あれは言うな」「これは言うな」しまいには「黙れ」「休め」。何やったって被害者いじりたくてたまらない迷惑な自称親切。
自称「冷静で客観的」な忠告者が、こちらが思い通りの反応を返さないと逆ギレし、酷い時には掌を返して口汚く罵倒してくることは何度もあった。
フランチェス子と津田大介、ついでに言うとid:inumashも加えて、揉め事になってしまったみたいだけど、「被害者にお節介なアドバイスを入れるな」っていうのは、まさしくその通りだと思う。
原則として、被害者に対しては全面支持・全面支援をするか、それができないなら、迷惑をかけないように沈黙するべきだ。津田みたいに好奇心から余計なことを言って、被害者のやり方を批判してみたり、求められてもいないのにアドバイスを押しつけたりすると、それが相手を傷つけることにもなり得る。
フランチェス子の主張も、たしかに一部はワケが分からないけど、今回津田がやったことは良くなかったと思う。おそらく「被害者を守ってあげたい」という正義感はあったんだろうが、偉そうに説教するばっかりで彼女を傷つけ、何の支援にもなっていないのは明白である。
また、上記ブクマでも言及されているとおり、傍観者が勝手な好奇心であれこれと口出しして、「理想の被害者」像を押しつけているっていう問題も、私がざっとヲチしただけで少なからず見受けられる。
ただ、そういうふうに津田(とinumash)に批判的な人たちに尋ねたいのは、被害者に味方したいけれど助言・諫言をしたくなった第三者は、そのときどうすればいいかっていうことだ。
今回のケースとは違ってくるけど、いつかこのさき、私がだれかを傷つけないために、《被害者との接し方》をちゃんと知っておきたい。
「存在自体が有害無益な男」や「卑屈で薄気味悪い」などと平然と言えるフランチェス子さん
そんな罵倒のスペシャリストとも形容できるほどの攻撃力を持ちながら
「おばさん」と言われたら酷く消耗して傷つくナイーブなフランチェス子さん
ほんの少しでも批判する人がいたら顔を真っ赤にして反論しちゃうフランチェス子さん
ネットコミュニティは全て自分の味方じゃないと気が済まないフランチェス子さん
一度被害者のポジションについたら一生被害者で居られ続けると思っているフランチェス子さん
自分を批判するブクマコメントにスターを付けただけの人にも顔真っ赤にして怒りだすフランチェス子さん
人間だもの、間違いはある
人間だもの、矛盾はある
法律の問題について言及するなら、法律の知識があったほうが良い。
法律の知識がなくとも「膠着状態に陥るのはそれなりの理由がある」と考えるのがあたりまえだ。
「自分の考えている都合のいい展開がどおりに物事が進んでいないなら自分の知らない何かがある」と考えるのが大事だ。
現状見るに、例えば下記のような事情が推測される。
1:ソラノート側は、そらのが想定以上にアタマが悪く全く学習しないため
そのためなんとかこのままの形でソラノートを続けたい。(しばらくしたらポイ捨ての予定)
2:そらノート側は、自分たちが訴えられる側として法廷に立つなら高い確率で勝てる。
負けたとしても法的に敗北しただけで自主的に責任を認めたという形にはならない。
「営業停止」などが求められているのであれば話は別だが、損害賠償請求なのであれば訴訟を受ける事自体のデメリットは小さい。
しかし露骨に挑発をして争いの場を裁判に誘導し、法的なテクニックで勝っても社会的に死ぬ。
3:また和解となると、幾らかの歩み寄りは求められる。
特に、そらのに自分がやったことを理解させ、謝罪させる必要があるが、
それができるくらいそらのが頭がよかったなら最初から問題になってない。
そらのがボトルネックとなっており、再開可能な形で和解をすることは難しい。
4:つまり、そらノート側は守り的には有利だが、攻めや和解といった手が使えない。
よって実情はともかく外観としては
「相手が和解を放棄したので私たちはあくまでも仕方なく裁判に応じた」という形に持ち込みたい。
故に相手が焦れるまでひたすら待ちの姿勢をとっている。
5:フランチェス子さん側はフランチェスコさん側で、守りでは有利だが、攻めに関しては絶対のアドバンテージはない。
ネットにおける正義(笑)と法的な有利は全く別ものである。 訴訟を起こしても確実に勝てるとは限らない。
訴訟が長引き、相応の訴訟費用を負担した挙句認められなかった場合、最悪両者の訴訟費用を負担するハメになる。非常にリスクが高い。
訴訟費用の負担がなくても、慣れない訴訟の手続きで非常に消耗させられることは確実。
おそらく代理人あるいは相談している弁護士からそのような忠告を受けているはず。
故に最大の目的である謝罪(そらノートに非があったということを認める旨)を引き出すことさえ出来ればその他は交渉可能。
消耗具合から考えても、何がなんでも金が取りたいなどというイメージは大きな間違いで、
むしろ可能であれば早期に決着をつけて落ち着きたいと考えているだろう。
この点から考えてもフランチェスコさんが望外に高い和解金申し入れをしているとは推測できない。
6:まとめると
今現状は両者にとって硬直状態。ここから先は体力勝負であり、私が観る限り圧倒的にソラノート側有利であると思う。
「勝ち戦なのに何をgdgdしてるんだ。さっさと裁判してしまえ」と言ってる奴は心底馬鹿だと思う。
勝訴時に幾許かのリターンを得ることを条件でもいいから、訴訟費用をを負担してやれ。
勝利確信してるんだから、負けたら当然その分も負担するという契約で。
そのほうが、訳知り顔でアドバイスをするよりはそのほうがずっと役に立つ。
これはフランチェス子さんに共感のコメントをおくっている側も同じ。
野次馬たちよりはましだが、特段なんの助けにもなってないと思われる。
繰り返すが、これは確認された事実ではない。あくまで現状から推測したことだ。
正確なところは切込隊長あたりが理解してるだろう。そのうち解説が出てくると期待している。
だが、こういう可能性を考えれば「裁判すれば解決するのにgdgdしやがって馬鹿なの?」とかいう煽りを入れるのは
本当に正しいのかどうか、と疑うことくらいは出来るだろう。無責任に発言は出来ないはず。
「早く裁判すればいいのに」ってコメントしてる人を見ていると、本気でそれが正しいと思ってるようで怖い。
やじうまは無知である。やじうまに事の正否は判断できない。そのくらい自己卑下してちょうどいい。やじうまはもっと謙虚であるべき。
公の場での言説において、内容に関する議論なしに単に「ノー」と言うだけでそれが止められる方がよっぽど恐ろしい.”ノーと言うのに「議論」は必要ない”って、要するに「声が大きい奴が勝つ世界」じゃん。嫌だよそんなの
↓
なんか件の人と揉めたら「やっぱああいうタイプの人は~」とか「粘着だから~」とか挙句「クレーマーに絡まれたソラノートは~」みたいなDMが何通か来た。そんなDM送ってきて俺がそれに同意すると思うんだろうか。舐められてるなぁ、俺。繰り返し言っとくけど当初の揉め事に関しては彼女に理があることは明らかだし、それに対する適切な謝罪と補償をソラノートと非モテタイムズ(めがね王)はするべきだよ。それははっきりしてる。いくら揉めたからってその意見を変えたりしないよ。
誰かと揉めた途端に、その人と敵対してる人がわらわらと近づいてくるという経験をした今なら、エンジェル・ハイロゥ戦でフラニーを笑いながらぶっ殺したカテジナさんの気持ちが分かる.
「とち狂ってお友達にでもなりに来たのかい?アハッ。」「甘いよねぇ、坊や。」
久々に「ああやっぱりネットってゴミ屑がいっぱいいるなぁ」という経験をし、その対処をどうするか今検討している。取りあえずバカとゲスがセットになった人間に擦り寄られるのは心底不快
あのinumashさんをしてこんなコメントを言わせるとはtwitter恐るべし。
フランチェス子さんもこれに似た状態であることが想像されるので、twitterの暗黒面が今後も第二第三のカテジナを創りだしていくのかもしれない。胸が熱くなるな。
ところで私は前に「なぜ炎上した人が必ず「twitterは議論に向かない」っていうのかわかった」って記事を書いた
http://anond.hatelabo.jp/20110310003321
言われてみれば、あの時私もカテジナ状態になりかけてたかもしれん。
私が前の記事書いたとき「そんなこと言われる前にわからないなんて・・・」みたいな賢しらなコメント残してるやついたけど
私だって理論では予期してたさ。でも実際のプレッシャーというかストレスは想像を絶するよ。
私の時みたいに2日で騒ぎが収まってもすごい消耗したので、まして2ヶ月以上バトってる人とかもう並の状態ではないと推測できる。
前記事の繰り返しになるけど、twitterはさ、おそろしく認知リソースを消費しまくるんだよ。
責任とか意識せず、対話を強制されない状態で気軽に使うのでなければとてももたない。
対話する場合は、自分がやりたい時に友達とか信頼できる人とかの会話のように、穏やかな精神状態で使ってようやくなりたつくらいのシロモノだと思う。
自分の意思に反して議論を強制され、しかも次から次から見知らぬ多数の他人から横槍入って、
しかもそれが悪意からくるものだったり、国語能力がおかしい場合、恐ろしく不快な状態になる。
しかもそれが制御できない。いつ収まるのか予測できない。 よほど慣れてないと、マジで頭おかしくなるよ。
で、敵対的な意思を持つ人間に囲まれることに慣れた状態って
それはもうバトルマニアだったりバーサーカーだったりそうでなければ他人はすべてゴミのように見える状態なんじゃないかと思うんだよね。
フォロワー数多い人はとにかくマイペースというか人の話を聞かないで自分の意見だけべらべら語る人が多い印象だけれど、そうでもないとやってられないんじゃないかなぁ。
RTして後は知らんぷりってなこともよくあるけど「どうでも良い意見は俺のフォロワータチに処分させてやる」位の意識だと思う。
まだカテジナさんみたいに直接手をくだしてくれるうちはマシだが、夜神月ばりのアルファブロッカー状態(例:某経済学教授)とかムスカ様ばりの大量虐殺(例:某ジャーナリスト)状態になってる人にはもう何を言っても手遅れだと思う。同じ人として見られてないから多分言葉も通じない
♥ついき♥
私の時みたいに2日で騒ぎが収まってもすごい消耗したので、まして2ヶ月以上バトってる人とかもう並の状態ではないと推測できる。
と書いたな。すまん、ありゃウソだった。
本当は1ヶ月ちょっとだ。地震前もそうとうごちゃごちゃやってる気がしたので確認せず2ヶ月って書いちゃった。でもまぁ、2ヶ月くらいかかりそうだなと思う。
少額訴訟は60万円以下の金銭の支払いを求める訴えに。
http://www009.upp.so-net.ne.jp/law/
フランチェス子に対するアドバイスとしては、300万円のお金に固執するよりも、事実と謝罪を求めるなら少額訴訟で手打ちが妥当だと思われる。
こんなこじれた問題はさっさと終わらせた方がストレスないぜ。
少額訴訟は60万円以下の金銭の支払いを求める訴えに。
http://www009.upp.so-net.ne.jp/law/
フランチェス子に対するアドバイスとしては、300万円のお金に固執するよりも、事実と謝罪を求めるなら少額訴訟で手打ちが妥当だと思われる。
こんなこじれた問題はさっさと終わらせた方がストレスないぜ。
「ツイート垂れ流す前にとっとと法律相談センター行って来い」と思ったんだが、
フランチェス子の狙いが金銭や法律的な救済じゃなければ、そもそも法廷闘争は無意味だな。
ソラノートを完膚なきまでに叩きのめして、二度と日の当たる場所に出られなくしてやる、
というのが狙いなら、そりゃ法廷に持ち込みたくないはだろう。
本当にフランチェスコを助けたいというという気持ちで… 胸がいっぱいなら…!
そらの陣営に対して直接文句をいうこともできるはず…!
たとえそれが… カウンター訴訟リスクのある弁護士相手であってもっ………!
今の心の支えは、自分が問題に対するコントロールを握っているという責任感みたいなものにあると思う。
こんだけ周りからあーだこーだいわれてもまだ操縦桿から手を離さずにいるのは、
この問題について、自分以外の被害者でないように、しっかり落とし前つけさせなければいけないという思いがあるのだろう。
それなのにこの仕打はねーわ。
「潜在的な味方を〜」の人なんて好奇心丸出しで自分の聞きたいことをリプライしたり、親切面でアドバイスする一方
東芝クレーマー事件を持ち出してみたり「これでお金要求していることがわかったら流れかわりますよ」とかニラニラしてたし、せいぜい10万程度とか額を見積もったりしてた。
頼んでもないのにアドバイスをして、分け前(金銭じゃなくて名声的な物)をよこせというのは質が悪すぎるだろう。
そらのが悪いと思うなら、個人としてそらの側に言えばいい。
実際、そらのに集ってるやついるが、レベルが低い人間ばっかりなのでむこうはかたつむり状態になってしまってる。
フランチェス子側にたいしてではなくそらの側に直接言うとかしてそらの側の窓口を整理するなり開くなりすればいいじゃん。
なんでフランチェス子側を選んだのか。 落ちる犬を叩くような真似をするとダサいと思ったからか。楽だからか。
フランチェス子側にたってモノを言うのは楽でいいよな。弾は全部彼女が受けてくれて、自分たちはその後ろから適当に石投げてれば勝ち戦に参加できるからな。
でも、このケースの場合、相手が遠くで籠城しとるから、石投げても無意味だし、むしろフランチェス子にあたっとるし。それはやめろ。
それよか、本当に助けになりたいなら閉じこもってるソラノート側引きずりだしてきてちゃんと会話に参加させろ。
・・・以上が一般論。
個人的にフランチェス子のような性格は大嫌いなので同情はしない。邪魔はしないがこの人を応援するつもりもさらさらない。これ以上は深入りしたくない。
他の人にも言っとくが、この件では一般論よりさきに踏み込むな。むやみに関わろうとするとこの女の性格とか態度のせいで本来の問題を見誤る。