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「世間」だ。
世間教の考えはこうだ。
・「世論の流れ」に従う事が求められる
・「世論の流れ」に従うものは救われる
・「世間」に逆らうものは、フルボッコ
→生きていけなくなるほどズタボロにされる
世間とは多数派の思想である。
なので、日本人の行動は、時代によってまるで大きく変わる。
そして、宗教には逆らえず、失敗しないとそれに気がつかない。
そして、2100年には、おばあちゃんが孫に向かって、
こんな絵本を読んでいる。
「おばあちゃんが小さいころはね、極東に小さい島国があったのよ。
核爆弾を2発も落とされたのに、凄い団結力で、
ニホンジンはね、方向性が正しい時はどの国も対抗できないような、
どんどん、どんどんあらぬ方向へ走りだして行ったの。
そうなったらね、舵を戻すことは誰にもできないの。
1年のうちに来てしまったの。
その後にモンジュが爆発し、国に人が住めなくなった。
起こらなくても、もう変わらなかったかもしれない。
数々の放射能施設が国中にばら撒かれ、その島は「無くなった」の。
ちょうどこの時期になると思い出すわ。
「サクラ」という木がニホン中に咲いて、それはそれはもう
そして、儚かったの。」
今では痩せているが、子供の頃は太っていた。
高校受験には失敗。滑り止めへ。
周りを見返そうと大学受験に挑むも、現役の時はこれまた失敗
一年間の浪人を経て、第一志望だった大学に入れたものの、現役で入った奴とか見ると「自分て・・・」とか考える。
地元の飲み会なんかではスゲー、スゲー、言われるんだけれど、自分としては全く喜べない。
つまり、何が言いたいかというと、
この慢性的な不満足感や劣等感を解消する方法はあるのだろうか。
例えば、コレから難関資格をとったとしても、それは帳尻合わせにすぎず、過去の失敗が消えるわけじゃないと思うんだ。
結局、人と比べるなってこと?分相応な目標を立てて生きるってこと?
正直なところ知的障害者施設はほかのものよりやっかいかもしれない。
たとえば、(注意:引用内はすべて本増田の想像であり、実在の物とは関係ありません)
だと微妙だけど、(今はそうでもゆくゆくは知的能力の低い人が入る可能性は否めないので)
と思ってしまいそう。
実際は
だったら、騙された!と思う。
ひとつ騙されたら他のことだって信用できない。誰だって、信用できない隣人は極力避けたいでしょう。
この町内会を叩く人は、隣にそういう施設があるところに引っ越したと想像してみるといい。
昼夜を問わず雄叫びが聞こえるかもしれない。
突然殴られたり抱きつかれたり付きまとわれたり性器を見せられたりイタズラされたりするかもしれない。
(自分は男だから大丈夫という人、奥さんや子供(特に女の子)はどうですか?)
ものを壊されるかもしれない。留守中に窓を割られて家に入り込まれるかもしれない。
それでも相手は罪にならないかもよ。それでもいいの?
住居が自宅ならば親の顔が見える。付き合いがてら注意もできる。施設じゃできないよ。
ちなみに自分は「差別で結構、自分のほうが大切。自分を守れるならそれでいい」。
そういう施設の入居者にいろいろ迷惑をかけられたので。「多少知恵のついた分だけ余計にやっかいな動物」だと思ってる。
“好き”を作る2つの法則とは?――好悪の感情を科学する
「ディクシー・チックス」-「ナタリー・メインズ」=「コート・ヤード・ハウンズ」
要素は多い方が好きが強固になる。
ところがひかれあっていても、ささいな“イヤなこと”で、好きの構造がひっくり返ることがある。実例を挙げよう。リエさん(仮名)がカレとデートに初めて出かけた時のことだ。
「お昼、どうする?」、リエがカレに聞いた。
「何にしようか」とカレ。
「●●ビルに、うどんのお店と韓国料理のお店があるの。どっちにする?」
「う~ん(しばし考えて)、うどんにしようか」
リエはその日カレを振った。なぜか。ワケはこの短い会話に凝縮されている。
まず、初デートなのにランチの場所さえアテがない。これは“無思考・無計画なオトコ”というシグナルを送った。次に彼女の提示した選択肢で、うどんを選ぶという愚かさを露呈した。うどんは悪くないし、うどんを責めるわけじゃない。だが初デートでうどんかコリアなら、コリアしかない。これは普遍的な鉄則である。キミ、空気を読めよ。
そこで彼女は「カレは人のことを考えないオトコ」という結論に達した。蛇足だが、そのうどんが割り勘だったことがダメ押しになった。
(;´Д`) え、鉄則だったの郷好文(この記事を書いた人)さん?
最初に相手から言質(げんち)を取る。つまり「お前、◯◯っていったよな?」と相手が確かに「◯◯」と言ったことを認めさせとく。そうしないとすぐに相手は「◯◯なんて言ってない」と反論してくるので、まず発言を認めさせる。
言質を取って、自分の発言を認めさせたら、次はその発言にゆさぶりをかける。「お前、本当に◯◯だと思ってんのか?」「◯◯っていったいなんだ?」問いの形はなんだっていい。とにかく、相手の意見に疑問をぶつけ、自分の発言を疑わせる。
相手の発言にゆさぶりをかけたら、いよいよこっちの意見をブチかます。相手の発言を基に自分独自の考えを示す。
自分の意見をかましたら、間髪入れず「動かぬ証拠」を相手に突きつける。「なぜ相手が間違っているのか」「なぜ自分の意見が正しいのか」の二点に絞って証拠を挙げる。
動かぬ証拠ってのは「客観的事実」のこと。誰もが認める客観的事実を突きつけたら相手はもう何も言えない。
自分の意見の正しさを証明するには、与えられた他者の意見の間違いを指摘するという方法がある。つまり、相手の意見の持つ問題点を指摘することによって、結果として自分の意見が正しいと主張する方法。
自分の意見の正しさを証明するためのもう一つの方法は、自分の意見を支える有力な根拠を挙げて、相手の意見よりも自分の意見の方が正しいと主張する方法。
上記2つの方法で自分の意見の正当性は証明される。また、「根拠」として一番説得力があるのは「具体的な社会的事実」。
口喧嘩もそろそろ佳境。あとは今後の人間関係を考えて、相手を完膚なきまでにたたきのめすか、新たな改善策を一緒に考えるか。
最後に自分の考えをもう一度繰り返し、相手の意見の問題を指摘した後の代替案を提案するかを決める。
なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?
しかし、例えば僕などは日記をみてもらえれば判るようにキリキリ監督に尋常ではないレベルの妬み・嫉み・恨みを抱いているが、それとこれとは別で、「CASSHERN」という映画じたいは素晴らしく面白い!と手放しで絶賛してるし、一発目でいきなりこんな凄い映画を作れてしまう紀里谷監督はリアルに天才なのでこれからも凄い映画を作り続けてほしいです!と応援してしまうのである。
つまり嫉妬の要素というのは、この際、さほど重要ではない。
CASSHERNは、人間の感情の、何かこうクリティカルな部分を直撃する映画なのだ。それゆえに、そのクリティカル・ヒットを受容できる人はハマるし、受容できない人は切れるのだろう。(受容はできるけど、もうこの手の話は飽きた、という人もいるだろう。しかしそのような人は、呆れ果てることはあっても、切れたりはしない)
CASSHERNのクリティカルさというのは、そう、ブライのセリフに集約されている。
「つまり、憎しみとは、人間也!」
さらに、キャシャーンはキャシャーンで、「人間が生きていることじたいが、人を傷つけることになる」という意味のモノローグを語っている。
・人間は、生きていることそれじたいが罪悪だ(原罪論)
これはキリスト教的な「罪」の論理であり、無神論が主流の日本では受け入れられる余地の少ないテーマといえる。性善説がベースとなっている日本でいきなり「お前の存在じたいが罪だ」といわれれば、切れる人が多いのも当然だろう。しかもこれ、漫画映画である。「敦煌」とか「砂の器」じゃないのである。アニメだよ、キャシャーンだよ。なんで漫画映画で、そんな説教されんといかんねん!という人もたくさんいるはずだ。
しかも、紀里谷は、これらの作品のテーマを、役者にセリフとして語らせてしまうのである。これがまた、この類のテーマを受容したくない人にとっては、許しがたい行為なのである。セリフで語りさえしなければ、スルーできたはずだからだ。人間は、自分の見たいものしか認識しない。従って、通常、映画を観ていても自我を脅かすようなテーマが提出されても、その部分を認識せずにフィルターをかけて消してしまうことができる。しかし、「言葉」で投げつけられてしまうと、そうはいかない。紀里谷は確信犯的にこの映画を観た全ての人間に
「憎しみとは、人間也!」
というテーマを強制的に植えつけることによって、この映画のテーマを曲解される可能性をふさいでいるわけだ。
このテーマを容認できない人にとっては、監督の独善、ということになるのだろう。
伊勢谷友介が演じる東鉄也は、一度死ぬが、LCLのようでもあり命のワインのようでもある赤いプールに肉体を沈められることにより、再び復活する。この赤いプールの中で行われる復活劇は、あたかもパプテスマのヨハネによる洗礼の儀式のようでもある。この復活により、鉄也は自らを救世主キャシャーンと名乗ることになる。もちろん、上月博士や三橋達也演じる老医師、鉄也の母みどりの幻影などが、復活した鉄也に「君の復活には、何か意味があるはずだ」「この街を守れるのか」「人々の争いを止めるのです」と、鉄也を救世主の道へと導こうとアシストするわけである。
しかし、鉄也は救世主キャシャーンとなっても、奇跡を起こすことはできず、人々はみな挫折して死ぬ。そして鉄也自身も傷つき、血まみれとなっていく。鋼鉄の扉の隙間からバラシンに刀で心臓あたりを抉られるシーンは、あたかも十字架にかけられたイエスのごとくだ。
しかもキャシャーンは抽象的に人類の業を贖罪するという存在ではない。鉄也自身が生前、殺人という罪悪を犯しているのだ。「反戦映画」ともうけとられがちなこの映画は、実は、戦争だけに反対している映画ではない。「人間存在そのものが罪だ」というテーマをもっとも端的に表現できる場こそが戦争という極限状態なので、戦場における戦闘の結果としての殺人という光景が何度も繰り返されるのだ。
が、この映画の恐ろしいというか念入りなところは、懺悔したはずの鉄也がさらにダメ押しともいうべき父殺しという罪を背負うことである。母親を寝取り、父を殺すというのは、いうまでもなくエディプス・コンプレックスなのだが、鉄也は最終的に父殺しを達成することによって、人類の原罪をことごとく背負って自殺することになる。
では、鉄也の懺悔は無駄だったのか? そう、無駄だったのだ。この映画のテーマは「憎しみとは、人間也!」なのだから。従って、鉄也は、キリストの如く原罪を背負って血に塗れ、死んでいくしかないのだ。キリストと違う点は、人類の原罪を肩代わりしたのではなく、自ら原罪を犯して死んでいくという点だけだろう。もちろん鉄也は単なる殺人犯というわけではなく、「戦争」や「愛する人を殺した殺人犯への復讐」といったどうしようもない事情がある。決して、悪意で殺人を犯したわけではない。人間存在そのものが悪なのだから、生きる限り、どうにもならない、どうしようもないのだ…したがって、救世主になるべくして復活させられた鉄也の地獄巡りは、ドアーズの「The End」の如く、母を寝取り、父を殺して完結する。「地獄の黙示録」を参照するまでもなく、フロイトの絶対的な影響下にある現代のキリストは、エディプス・コンプレックスの持ち主でなければならない。フロイトによれば、エディプス・コンプレックスこそが、人類の原罪意識の大本にあるのだから。
さらに、鉄也の父親・東博士が下層階級の出身であったことも最後に明らかになる。東博士は下層階級出身でありながら、政府側について少数民族を抑圧する側にまわり、最終的には鉄也の最大の敵となる。このあたりも、なにやらイエス・キリストの物語を髣髴とさせる。
だから、キリスト教圏では、この映画は日本からやってきた現代の救世主譚として評価されるかもしれない。
過去に、日本のアニメ映画では似たようなテーマが何度も描かれている。いうまでもなく「イデオン」と「エヴァ」がそれだが、エヴァでは、主人公のシンジが救世主となるべく人類の原罪を背負う……という流れの物語だったはずが、最後にシンジは人類の原罪を背負わずに話が途切れてしまった。「エヴァ」は、「人間の性は、悪だ」という自らのテーマに向き合うことができなかったのである。キャシャーンは、エヴァと非常に似た構造の映画であるが、主人公の手を父親の血に染めさせることによって、エヴァが途中で放棄したテーマを完結させた作品であるといえる。
もう一つ、近作で似たような映画がある。それは「マトリックス」だ。この作品は3部作だが、それぞれ救世主ネオの誕生・生・そして死を描いている。ネオもまたキリストの如く、一度死んで復活する。だが、最後には人類の原罪を背負って死ぬ道を選ぶのだ。終盤、ネオは目を焼かれて失明し、エディプス王の如く盲目となる。機械の触手に支えられて死んでゆくシーンは、やはり十字架にかけられたイエスを髣髴とさせる。
ただ、マトリックスは「何も語らない」「観客に考えさせる」というスタイルを貫いたのに対して、キャシャーンは「全てをセリフで語りつくす」「観客に議論の余地を与えない」というまったく逆のスタイルで作られている。このスタイルこそが、一種の押し付けがましさ・説教臭さ・青臭さ・傲慢さと受け取られ、反発される一因になっているのだろうと思う。だが、この説教臭さ、愚直なまでの必死さこそが、かつての邦画のひとつの魅力だったのではないだろうか。邦画の黄金時代には、説教映画が多数製作されていた。「新幹線大爆破」の宇津井健のウェットな説教や、「ノストラダムスの大予言」や「人間革命」で丹波哲郎が繰り出す強引極まりないオレ流説教。かつて、日本人はこれらの説教映画で感動して泣いていたはずである。みんな、かつては馬鹿だったのだ。
80年代以後、邦画から泥臭さが消えていくとともに、邦画の魅力は失われていった。特に、角川春樹の逮捕とホイチョイ・プロダクション的なテレビ局誘導の企画映画のブーム化以後は、有能な監督には集客力が無く、大作はどれも質を伴わない、という状況が長らく続いていた。例えば、世界レベルで評価されている黒澤清や三池崇史が、「デビルマン」を監督させてもらえないのである。宇多田ヒカルの夫であるということ以外、ほとんど映画界では実績が無く、世間にもあまり知られていなかったPV監督が従来の邦画のシステムとはまったく無関係なところで突然作り出した「CASSHERN」は、そういう硬直した邦画をとりまく閉塞構造をいきなり破壊した作品といえるのだ。
無論、システムの面だけではなく、愚直なまでに真剣かつ本気というその姿勢もまた、古くて新しいスタイルではないかと思われる。むしろこちら(熱さ)のほうが重要で、80年代から長らく続いていたシラケ世代は2001年あたりを境に終息しつつあり、70年代を最後に滅んでいたはずの愚直な熱さが求められる時代が復活しているのだ。アントニオ猪木が「馬鹿になれ」というフレーズでカリスマ化したのも単にジャイアント馬場がいなくなったからというだけではない(主にプロレスと関係ない人たちに猪木が評価されているのだから。むしろ保守的なプロレスファンは旧来のプロレスのシステムを破壊する存在である猪木を嫌っている。このあたり、CASSHERNの評価とも重なってみえる)。「馬鹿になれ」という熱くて愚かで泥臭い姿勢こそが、閉塞しつつあった日本の気分にマッチしていたのではないか。
従来なら「大人げのない幼稚な愚直さ」と嘲笑のネタにされるような熱いキャラクターがカリスマ化していく作品としては、「最強伝説・黒沢」というコミックもある。この漫画の主人公の黒沢は、中学生と本気で決闘するようなどうしようもない中年なのだが、その必死さ、熱さが、周囲の人間(主に、シラケきった若者世代)の心をわしづかみにしていく、というストーリーのようだ。
すでに我々には、冷笑や嘲笑で生きていけるほどの余裕が無いのだろう。すべてから距離を置き、自我を脅かすものすべてを嘲笑して生きていくライフスタイルは、「勝ち組」「負け組」が明確化されてしまった現代日本ではもう限界なのだ。そうなれば、道は二つ。「感動など、無い」「自分には何の値打ちもない」という悲惨な現状に気づいて、馬鹿になり、泥にまみれて足掻く道。もう一つは、「自分がこうなったのは、すべて、外部に責任がある」と犯人探しの旅に出る道だ。
僕がCASSHERNを支持するのは、紀里谷監督の製作姿勢そのものが、前者の道を示しているからだ。紀里谷の才能を持ってすれば、もっとソツなく、映像美とアクションに徹した娯楽映画を作ることだって可能だったはずだ。だが、あえてこんな熱くて泥臭くて人に嫌がられる映画を作ってしまった。というより、作らざるを得なかったのだろう。その過剰ともいえる熱さが、CASSHERNが賛否両論喧々諤々と騒がれる原動力となっていることは疑いない。こんな熱い邦画は、しばらく見なかった。いったい、いつ以来なのだろうか。
そしてこの映画のテーマもまた、後者の道…「犯人探しの旅に出る道」を遮断するべくして設定されている。そして紀里谷は、それでも「犯人探しの旅に出る道」への抜け道を探そうとする人間に、抜け道すら与えない。テーマをそのままセリフとして喋らせることによって。つまり紀里谷にとっては、作品の映画としての完成度よりも、テーマを訴えることのほうが重要だったわけで、紀里谷はここでも熱い。
このCASSHERNがどうしようもなく発散させている愚直さ、熱さこそが、実は人々に求めらていたのではないか、と思われるのだ。この映画は、冷笑させることを観た人間に許さない出鱈目な熱さを持っている。いやまあ突っ込みどころはあまりにも満載なんですが…あちこち破綻しまくってるし。だが、それだけでは絶対に済まされない映画なのだ。だからこそ、嘲笑で片付けられる人間よりもマジ切れする人間のほうが圧倒的に多いわけなのだ。僕は紀里谷監督に、もっともっと熱い映画を作り倒してもらいたい。僕自身は、熱さは持っていても、作品を作る社会的な能力が皆無なので……。
(04/5/1 本田)
裏社会。
単純に目に見える表側ではないその反対という意味で、犯罪社会という意味ではないです。
地元の寄り合いで、いわゆる地域の権力者と市会議員から国会議員まで集まった。
自民党の議員は「党大会から駆けつけてきましたー!」とか、民主党の議員は「このあと
まだ3つあるんですよ~」と急がしそうにしていた。ほとんどが50代60代のうるさが
各議員が、昨年の成果報告と今後の見通しを発表したあと、参加者に一言づつ挨拶に回っ
ていたのだが、自分をその場に引き込んだ人のところでは、みんなが一言ではなく10分
以上は話し込んでいった。
10分といえば短いようだが、議員とその人は非常に密度の濃い具体的な話をしていた。
政治、政策というのは、こういう場で具体的になって行くのだと感じた。正直、選挙の結
果で誰が当選したっていうのはそれほど重要ではないんだと思った。
一方、少なくともそういうオフレコレベルでは、市だろうが国だろうが議員も普通の人で
あり、党だの派閥だのに属している以上はサラリーマンと似たような境遇だということが
わかった。
最後に「彼、将来有望なうちの若手なので、よろしく。」と紹介されて、名刺をもらった。
「困ったことがあれば相談してください。」
「そう、困ったことがあれば相談すると良いよ。」
と自分に笑いかけるその人がいた。
「うちの若手」といっても、その人の親戚でもなければ社員でもない、極端に言えばただの
知り合いでしかない。しかしその瞬間から、自分はもう何か見えない"うちの組織"の一員に
なってしまったのだと感じた。
以前、公共事業削減を謳って当選した議員が、後援会に挨拶に行った所、挨拶もそこそこに
後援会役員連中が「お前はいくら(工事を)引っ張ってこれるの? というか、引っ張って
こいよ。ああん?」と、迫って来て噴飯したことがあるが、ここでいう「困ったことがあれ
ば相談する」というのは、そういうのとはちょっと違う。自分もその人も、公共工事とは直
接関係が無いから。
だからこそ、「相談」という言葉になにか末恐ろしいものを感じた。
議員が去ったあと、向こうで「がっはっは!」と大声で笑っているおっさんの一人を目配せし
て、その人は耳打ちした「あの人は外れてもらう。」
その人は少しばかり個人的なことにここの権力を使いすぎてしまったらしい。
要するに調子に乗りすぎた、ということだ。
帰りがけ、その人は、「お疲れ。次は○○だから。くるよね?」
「はい。」
これから書くことは、あまりにもシンプルで、誰かがもうすでに書いてるんじゃないかと思う。
けど、今朝こんなの(※1)がホッテントリ入りしてるのを見て、なんでこんな誰も使えないようなくだらないテクニックがもてはやされるんだろうと疑問に思ったことだし、一つ書いてみることにした。
これ一つだけだ。
あらゆる文章について、この「繰り返しを避ける」という言説を当てはめて、文章をより良いものにすることが出来る。それは何も難しい事じゃないし、誰でも、今からすぐにできることだと思う。
ひとつの文の中で同じ言葉を何度も使わないことはもちろんだが、もう少しこの法則について吟味してみよう。
まず、へたくそな文章を書く人の大半は、
なのである。よく見かける、「~だ。~だ。」の一本調子では、読んでいる方が疲れる。もちろん、新聞のように厳しく字数制限がある場合は節約の必要もあるだろうが、特に字数を気にしない場合、「~だ。」をアレンジし、「~であった」「~なのだ」などといろいろ使い分けることで、簡単に同じ言葉の反復を抜け出すことができる。もちろん、慣れてきたら、体言止めや時制などにも気を遣ってアレンジしていくと良い(※2)。
次に、へたくそな文章の特徴として、
ということも挙げられよう。
森博嗣大先生なんかこれがひどくて、いま手元にあった「カクレカラクリ」をひもといてみると、
「○○○○」○○は言った。
「○○○○」○○は言った。
「○○」
「○○○○」○○は叫んだ。
とこんな表現がいくらでも出てくる。いくら量産が必要な人気作家でも、これはひどすぎやしないだろうか? 異常ですらあると思う。いくらストーリーが良くてもこれでは興ざめだ。だから、短い文はできるだけ目立たないように、それでいて、自分の主張を特に強めたいときだけに使うとよい。基本的に短い文は強い印象を与え、なおかつ文中でよく目立ち、一方で長い文はその内容の印象を薄める効果があるからだ。それゆえ、長い文を書いた上で、短い文でダメ押しすると強い。Yes, we can.
あとそれから、
のが吉だ。とくに故事成語はヤバイ。こういう言葉は、日本人なら何度も何度も小さい頃から聞かされているから、たとえその文章全体の中で初めて使われたとしても、一気になんか古くさい、繰り返しがまた来たという印象を与えてしまう。これも「繰り返しを避ける」原則の発展としてとらえることができるだろう。
まあ考察は面倒だしそれくらいにしておいて、あとはTips的なものとか、個人的好みの話とか。
ことも大事だよ、ってことを忘れないで欲しい。読点はダテについているものじゃないのだ。本田勝一が「日本語の作文技術」で読点の付け方について、章を一個割いてクドクド説いているのも、当たり前のことだが、理由がなくてやっているわけではない。へたくそな人は、読点をどこに入れるかを全く意識しないから、結果として文章は読みづらく、陳腐に見えてしまう。
ってのもやっぱり大事だ。頭の中で良い。実際に読むスピードで、自分の書いた文章をもう一度読み直すこと。向田邦子は自分の小説だか台本だかを執筆しながら朗読して、それをテープに残していたらしい。そこまでする必要はないと思うけれど、そういう姿勢が大事なのは確かだ。音読してひっかかるような文章を書いているのはよろしくない。
さらに主張しておきたいのは、
ということだ。よく「自分の言葉で書きましょう」なんて事をいけしゃあしゃあと抜かすヤツがいるが、自分の言葉なんて、そんなもの元からありはしない。どんな大作家だって、誰かに影響されて、それが少なからず現れながら文章を書いている。「作文は借文」、この原理原則を忘れずに、出来るだけ素直に、努めてわかりやすく、相手に「自分の心のイメージを、相手のわかる形で伝える」こと。オリジナリティなんて言葉にだまされて変な表現を使ったら一気に興が冷めてしまう。ましてや自分が「これは名文が書けたぜウッシッシ」と考えたりしたことがあるなら、猛省して欲しい。もちろんこれは自戒も込めて。オナニーした後の紙は、ゴミ箱へ捨てるのが常道だ。こびりついた精液を他人様に見せてはいけない。何も、肩を張らなくてもいいのだ。あなたが語った時点で、その言葉は「あなたのもの」なのだから。
最終的に、
ということも忘れないでおくと、相手に自分の心が伝わる、良い文章が書けることだろう。いつでも文章は「書き飛ばせる」ようなものではなくて、努力と苦悩の果てに成り立っている。良い文章が書けなくて苦しんでいるのはあなただけではないし、苦しまなくなったときが、まさに文章を書く人間としての終わりなのだ。どうやったら自分のイメージを、誤解なく、ありのまま伝えることが出来るだろうか? そのひたすらの煩悶が、文章を成長させてくれる。だから、へたくそでも、伝えようという意志を必死で込めることで、相手にその熱意は伝わることだろう(もちろんその熱意を期待してはいけない! 文章を書くことは常に「伝わらない」恐怖との戦いだ)。
(そういえば、読点が多いという指摘があったが、全くその通りだと思う。どうも自分は読点が好きすぎる)
※1:http://www.lifehacker.jp/2009/10/091005writingtips5.html
※2:ただし、よくちまたで言われているように、体言止めはなるべく避けた方がよいのは確かで、その理由は、強く言い切る形になり、語調に与える影響が大きいからだ。従って、原則として使わないという指針は間違ってはいない。間違ってはいないが、体言止めという手法がなぜ存在しているかと言うことも考えると、どうしても必要と信念が訴えるならば使うことになるだろう。もちろんそうやって、みんな失敗するのだ。
昔高専に通っていた頃、試験前になると有志で勉強会をやっていた。出席率は日(教科)によって変動はあるものの概ね30-40%くらいはあったかと思う。つまり、15人弱くらい。
他の高専はどうかは分からないが、うちの高専は大体試験というと、2ないし3教科×5日、くらいの日程だった。教官も一応考慮してくれているのか、暗記系科目(とにかく覚えていないと話にならない教科)+計算系科目(理解していないと話にならない教科)、という組み合わせになっていることが多かった。3教科の日はこの二つに、教養科目(わりとどうでもよい教科)か過去問依存教科(過去問さえやっていればOKな教科)あるいは今更足掻いても不可能な難問教科、が加わる。
基本的に暗記科目は前日資料を作って覚えて……というわけにはいかない。従って、まじめな人間は一週間くらい前には試験範囲をまとめた資料を作るし、不真面目な人間はそれを入手する(作る過程で覚える事項の方が多いのでかなりダメダメなのだが)。そして暇を見ては眺めることで大体の試験勉強は終了する。あとは試験直前のダメ押しくらいだ。
故に、前日の試験勉強は計算系科目に絞られる。しかし公式を覚えていれば何とかなる教科(これはどちらかというと、暗記系教科に分類されがちだが)はともかく、ほとんどの計算系科目(つまり力学系)は公式を覚えるだけでは太刀打ちできない。公式暗記ではちょっとした(あるいはかなり意地悪な)ひねりに対応できないのだ。しかし授業を聞いても理解できなかった諸々が、突然試験前に一人で勉強したからといってどうにかなるわけがない。
前置きが非常に長くなったが、ここで勉強会の登場である。
大体クラスが40人もいれば、何人かはものすごく飛びぬけてできる人間がいるし、10人も集まれば一人くらいはその教科が好きで好きで堪らない人間がいる。よって持ち回りで講義するのだ。教える人間は教えることで自分の理解を深めることができるし、教えられる人間は教官よりも「分かり易い言葉」で理解を得られる。大昔に理解した人間よりも、最近理解した、まだまだ理解したときのフレッシュさが残っている人間の方が、やっぱり説明はうまいのだ。経験論なのだけど。
なので試験の前日(というか試験期間中)はずっと、放課後の教室で持ち回り講義大会をやっていた。メールで「今日、○○が線形代数の講義するよー」とか、「材力の演習3-1が分からないんだけど分かる人いる?」「分かるから今日の放課後教室でやろか?」「あ、講義するならいく」みたいなやり取りがよく流れていたし、どうしても分からないことがあったりすると誰かが教官の研究室に突撃する→放課後講義大会でクラス全員に教える、というようなルートが確立したりもしていた。あるいは電気系の教科だったりすると、電気科の知り合いにゲスト出演願ったり(これまた機械科が死にそうな目にあってるものだって、電気の人間にすれば「常識常識へのかっぱ」だったりするのだ)。
中学時代なんかは試験勉強というと孤独な戦いだったり、試験勉強会と称したお茶会だったりしたものだけど、高専でようやく、"効率的な勉強"みたいなものを知ったなーと思う。
私はわりと材料力学が好きだったので材料力学担当的な位置にいたのだけど、誰かに教えるとなるとかなり深く理解していないといけないし、何より「教えなければ」と思うと、「責任を持って今回の材力の試験範囲は完璧にしておく!」みたいな心持になったりもする。
結局二年生頃に始まったこの習慣は、五年生で卒業するまで継続した。五年生時は各自の研究室でさまざまに講義大会が開催されて、結構な活発ぶりだった。いい感じであの勉強会は続けられたなあ、と今でも思う。勉強が楽しかった記憶というと、まず最初にこの時代が思い浮かぶくらいだ。
教官方には、「常日頃からそれをやってくれれば……」などと嘆かれることもあったけれど、でも試験勉強、というイベント的なものだからあそこまで勉強にのめり込んだり熱心になったりできたんだろうな、と思う。
ふとした思い出話。
全レスと謳いつついくつか除外してます。
はてなブックマーク - MORI LOG ACADEMY: 本当に考えたの?
2007年12月19日 pho life 「思いどおりに書けなかった小説を見せて下さい。何作くらいあるんですか?」口先だけで、何もできてないよ。今日何をするか。今何をするか。
森博嗣は「考えましたが、ちょっと良い案を思いつかなくて」「どうしても、思いどおりに小説が書けません。どうしたら、良いでしょうか?」などと言ってないし、考えた成果は小説として世間にアップロードされています。
「口先だけで何もできてないよ」が独白なら失礼。
反語じゃなくてダメ押しかと思われます。
2007年12月19日 Erlkonig 森博嗣, 自戒 ほぼ好意的なコメントばかりで意外。「いくら必死で考えようとしても同じところをぐるぐる回るだけで何の新しい具体案も出てこない者のことも考えろ!」ってあの辺りの人が言いそう。
そこまで考えてないんでしょう。
中間どころか初手すら実行していないのに言い訳しようとするところが取り沙汰されているのです。言い訳を剥いでみれば案の定。
誤読は自由ですが、ダジャレを乱発してもセンスは磨かれないでしょう。
2007年12月19日 kanimaster hoge 「まとまらないものを見せて下さい」はあまりにも無粋。考えるのと出力するのは別の行為でしょう。(文章としては面白いけど。
もちろん別の行為です。
「まとまらないものを〜」は文章化の途上で簡略になっただけで、実際は同じ趣旨で違う表現だったと思われます。何にしろ些事かと。
2007年12月19日 shinpei0213 途中のものを見せると、すごい勢いで叩いてくる上司に悩まされています。ダメなのはわかってる。だから相談してるんじゃん!一気にモチベが下がります。
途中のものを見せなければいいんじゃないでしょうか。見せる相手を選ぶ知恵は欲しいものです。
ついでに指摘しておくと、あなたは反例を示したつもりなのかもしれませんが、それはただの愚痴です。
軽率なあなたとは相性が良さそうです。
2007年12月19日 Ayas 考え方 一理ある。この場合、非現実的な案や、「何か関係有るかな?」と思ったキーワードの羅列を示す。メモ魔万歳。
2007年12月19日 Quadrifogrio 読み物, ビジネス 評価軸の問題じゃないのかな。過程を重視するか結果を重視するか、見せる状況と相手によって変わる
その文脈でいえば過程も結果の一部です。
2007年12月19日 yuu013 たぶん、案はでるけど、ダメだって思ったら、そこで消しちゃうのがだめなんかな。とりあえず、ダメダメを並べてみて、そっからダメじゃないのを考えるのが考えるってことだということかな?
早すぎる見切りは何も産みませんが、ゴミを抱え込んでも身動きが取れなくなります。
あるいはダメだと思う理由を分析するのも一興かと。
ダメなものを見せてみないとわからないと思います。
相手や状況によりますから、一意に定まる事項ではありません。
そろそろ何か得られましたか?
言い訳しているという自覚の欠如の話かと。
2007年12月19日 shigeeru life, think 200も300も考えていられる暇人がうらやましい。最適化しないの?
3ヶ月で300、30日で100、1日で3ですからそんなもんじゃないでしょうか。タイトルであることを考えると、数は少ないとすら思います。
またプログラミングの格言でいうように、早すぎる最適化は悪だとする一派も存在します。
2007年12月19日 hemo-hemoge つまらんものでも最後まで書き上げて数をこなしていけば何か見えてくる。失敗作を晒すのは心が折れるがプライド捨てれば無問題。
数さえ稼げばいいというようなものではないという認識が重要です。何のフィードバックない失敗作は真の意味で失敗です。
2007年12月19日 agx 考察, 言葉, lifehacks, idea アウトプットする途中でだめだと思って嫌になってしまうことがよくある、今は嫌でもとにかく形にしてから修正するように心がけてる
嫌だと感じた理由が直感か気分かを解明できれば克服できそうに思われます。がんばってください。
考えてないからではないでしょうか。思考と、脳への単純な負荷は別物です。
社交的にはそれが最適解だと思われます。
妄想というのも深いものからまどろみのようなものまで様々ですが、自由思考の重要性は理解できます。
2007年12月19日 namikawamisaki 「書いてから悩めば良いではないか。」「採用されなかった案が、その人の将来の持ち駒になるからだ。」ああ、死ぬほど書いたり創作活動やってもいいんだ。きっと。
そもそも良い悪いの決定は本人以外になしえません。
2007年12月19日 natu3kan ネタ 読み手に喜んで小説を読ませる手腕なんて、まさに??したつもりに相手をさせることだったりするじゃないですか。
興味深い指摘です。それを肴に少し考えてみます。
形にすればいいわけではありませんが、形にしようとする意志は重要です。中抜きはいけません。
後で穴埋めする方法を考えてみる、全部捨ててやりなおす、見てみぬ振りをしてやりすごすなどでしょうか。
なぜプロトタイピングで漏れたのか分析し次回に生かすのも重要です。
2007年12月19日 usj12262 philosophy 本当に頑張ったの?本当に時間がないの?本当に無理なの?/どんなにがんばって力を加えても、成果がなければ仕事量は0
自問であれば良いのですが、他人に向けられた言葉ならやや辛辣さを感じます。
力が加わったのなら観測できないだけで0.0000001くらいの仕事量はあるようにも思えます。
2007年12月19日 willnet なるほど 考えるとは、具体例をいくつも出すということ。アウトプットが何もない「考えた」は「考えようとした」にすぎない
違います。本当に考えたのなら蓄積があるはずですから、求められればそれを見せればいいだけのことです。
対偶を取ると「具体例がなければ何も考えていない」になります。ワイルズは何年も考えた末にフェルマーの最終定理を証明しましたが、その間は常にアウトプットしていたのではなく常にインプットしていたのです。証明の執筆というアウトプットは思考の文書化に過ぎません。
2007年12月19日 shibusashi 考え方, 言葉 『多くの人が言う「考えた」というのは、「考えようとした」のことらしい。』森博嗣節全開です。 とにかく、考えがまとまらないなりにどんどん思考の断片を書いていくのは結構有効。
記録的性質の強いノートではなく、テンポラリな作業領域としてのメモという意味でなら同意します。散らかった頭では考えがまとまりません。
2007年12月19日 shunsuk life, work 「多くの人が言う「考えた」というのは、「考えようとした」のことらしい。同様に「悩んだ」も「悩もうとした」である。」 読もうとした。
相似性を期するなら「後で読む」→「後で読もうとしている」でしょうか。
2007年12月19日 sirnight 人生, 生活, 言葉, 創作 「考えましたが??」はやるのを忘れてしまった時の良いわけだろ常考。
まったくです。「本当に考えたかどうか外部からはわからないだろう」という前提が通用するはずありません。
エピグラムもそうですね。
それから何を頑張りましたか?
2007年12月19日 tkugimi life, idea 「考えてもいい案が思いつかなかった」という人に考えたものを見せてといっても見せてもらえない。ほんの一瞬考えようとした、というだけで「考えた」と言うな。何十時間も考えて、案を出すことが大事
「何十時間」という単位が適切かはわかりませんが、極端な短時間があてにならないのは同意します。
2007年12月19日 ext3 「多くの人が言う「考えた」というのは、「考えようとした」のこと」/それが出来るか出来ないかが重要なんだよなぁ/実際書こうとしても何も思いつかない。その内めんどくさくなって書こうとするのをやめる
それくらい何かを考えるのは難しいということだと思います。興味のないことを考えるのは苦痛です。
2007年12月20日 hirayama46 思考しても言語化するのってすごく難しいと思うのだけど……。いいわけとしての「考えた」が嫌いなのはわかるけど。それでも「考え」や「悩み」を否定されてしまうのは、辛い。/うう、なんだか的外れな気が……。
思考そのものと思考を言語や図に符号化するのは別だと思いますが、結論さえ持っていれば案外たやすいのも事実です。
結論途上のものを符号化する能力は思考能力とは別個と捉えないとたしかに問題ですね。
2007年12月20日 marser 創造 これもいい文章。悩むのは、脳味噌絞りきってから。どんどこどんどこアウトプットを繋げて行くべきなんだな。死ぬまで。
夢野久作にとってドグラマグラ以外の作品はすべてドグラマグラへ至るまでの習作だったという話をどこかで読みましたが、習作がすべてガラクタだったわけではありません。
2007年12月20日 Okky 考察, lifehacks アウトプットがなければすべてただの言い訳と判断されても仕方がないよ、という話
飛躍が過ぎます。
2007年12月20日 proust etc 問題の性質によって、案というものがどんどん出てくるものもそうでないものもある気がする
その場合は深化より選別に思考リソースを割くべきです。案がたくさんあっても採用できるのは1つか2つでしょうから。
2007年12月20日 schtark idea >殻に閉じこもって内側にイメージをずーっと溜めている、それが普通の人/http://gitanez.seesaa.net/article/73206541.html
コレクターといわれる人種は、本人以外にとってはただのゴミでも愛着を持って保管します。さて、イメージもコレクションの対象になりうるのでしょうか?
2007年12月20日 gitanez idea, lifehacks ブクマのコメントのやる気レスな感じはいったい何? グダグダ言ってるヒマあったらやったほうが早いってこのエントリは言ってるだけの気がするんですけど。アイデアなんてはじめは手クセです。手を動かせばいいだけ
はてなブックマークにやる気が横溢してたら人は集まらなかったでしょう。
やったほうが早いのは真ですが、エネルギー消費量は比較になりません。
2007年12月20日 platrer think ダメな例を幾つか思いついてたとしても、相談相手(もしくはリーダー)の性格によっては見せたくないのも事実。「まとまらないものを見せて下さい」は相手と自分の間にある程度の信頼関係がないと無理かも。
そもそもが「良い案が思いつかなくて」に対する揚げ足取りなのであまり深く考えるとドツボにはまります。
2007年12月20日 temtan 生活 俺にはレベルの低い人を理解しない文章に見える。本当に本人が考えたかは本人にしか判らない。「考えた」かどうかあくまで主観でしかない。その人の「考えた」がアウトプットで見たらレベルが低いだけ。バカの壁。
本当に本人が考えたかは本人にしかわからないという前提を用いて「考えたんですけど」という言い訳が誕生&定着。本当に考えたのかどうか確認するための問いとその答えの観察。ただの社交的なパワーゲームに思える。
2007年12月20日 t-murachi !はらぺこ, 創作, 開発, 信念, 仕事, 教育 これ、最近のオープンソース界隈で言われていることにも通じるね。中途半端でもいいからまず公開しよう。話はそれから。つか、自身に響かないアイデアはすぐ忘れちゃうのよね。考えるときにはメモを取るといいと思う
コードが一番「何を考えたか」「何をやろうとしてるのか」がわかる符号化方式だからかと思います。コードに比べたら自然言語なんてノイズが酷すぎる。
2007年12月20日 gabari 人生 考えさせられる,と書こうとしてやめた.確かに自分もそうかも.考える段階に入る前に考えようとしていることに飽きてしまうことが多い.>「「考えた」というのは、「考えようとした」のことらしい。」
実践できているのは見るのはいつでも感動的です。これからもがんばってください。
誰がかはわかりかねますが、あなたが典型的な人であることは窺い知れました。
2007年12月20日 penkun ブログ, 教育 「考えようとした」という行為はすでにその人の中で色々な思考が働いているはず・・。それは「考えた」の一つだと思う・・。迷ってはいるが・・。
せいぜい1分2分の結果じゃ大したことないという証左にも思えます。
2007年12月20日 bolivia 読んで落ち込む気持ちも解るが、ここはポジティブに考えよう。「考えました」と言われたときにこう責めれば良いと学んだし、自分が「考えました」という立場のときにどうごまかせば良いかも学んだじゃないか。
その通りだと思いますが本筋とはあまり関係ありませんね。転んでもただでは起きないというか。
反省しようとしたのに気づいたんですね。気づくだけじゃまだ足りません。
ボロが出ないようにするにはどうすればいいか考えてみるのも面白いかもしれません。
特に考えなくとも脳は様々な機能を司っていますよ。
具体的に自分の何が悪かったと思って謝罪しましたか?
そういうことです。
2007年12月20日 s-feng work, lifehack, column, education 汚くてもまとまってなくても、考えてアウトプットを出してから、どこがまとまっていなかったのかを検証するということかな。>> 多くの人が言う「考えた」というのは、「考えようとした」のことらし
アウトプットを出す必要はありませんが、出すことによってまとまることもあります。
2007年12月20日 guri_2 考察 たぶん、瞬間瞬間でいろいろ考えているんだろうけど、すぐに忘れて「考えたような気」だけが残るんだと思う。そういうのも掘り起こすクセをつけたい。
瞬間的な思考は持続的な思考とは別物です。前者は主に勘とか思いつきとか言われます。
2007年12月20日 Borom *lifehack, 文章論, 考え方 耳が痛すぎる指摘。駄文も書かなければ駄文にすらなり得ない。書く癖をつけなきゃ。
「駄文も書かなければ駄文にすらなり得ない」というのはなかなか名言だと思います。同時に、書けば駄文だが秘めていれば名文という側面もあります。
2007年12月20日 obacan フレーズ いいアイデアが浮かばないと言われたら「じゃあいままで浮かんだ悪いアイデアを言って」。われ巧遅より拙速を重んず。最初の段階、まずこれからだ。指導するとき使おう。
拙速より巧遅を採るべき場面もあると思います。小説のタイトルなんかは拙速で決めると後悔の種になりそうです。
2007年12月20日 stealthinu lifehack, 仕事 『沢山の具体案を考えることは、無駄なようでけっして無駄ではない。採用されなかった案が、その人の将来の持ち駒になるからだ。』考えた、とは具体案を複数考えて、やっとそう言える、と。
多角的に対象を見るということかと思います。具体化する必要がなければ抽象のまま扱えばいいだけです。
2007年12月20日 asiamoth 森博嗣, writing, thinking いつものように騙されて(遊ばれて)いる人が多いけど、森博嗣さんがタイトルを考える時間、長くても数日くらいだよ(『ミステリィ工作室』を読もう)。大体、一冊書くのに数ヶ月かけてないし。
あ、たしかにそうだ。騙されてた。考えるべきことを発見するのも大切だと学びました。
2007年12月20日 ihmaiwtd あとで読む, (・∀・)イイ!! 考えることが好きだったはずなんだけど、最近は反射的に逃げている自分がいる。
考えるには体力が要りますから、加齢とともに思考能力も衰えるのでしょうか。その分を蓄積した経験や知見でサポートしているのだとしたら寂しいものです。
街中で暴れる小型ティラノサウルスみたいな恐竜どもを、人型メカの頭部に剥き出しの状態で乗り込んで狩りまくる奴らの夢を見た。我ながらガキくさいというか、アレな夢だなとは思うんだけど、夢の中での俺の視点は傍観者で、ハンター視点ではないのね。んで奴らがとにかく残虐なの。普段なら一発で恐竜を撃ち殺せる弾丸があるんだけど今回は切らしてるらしくて、それをいいことに毒ガス弾とか(当然街にも被害が出る)、必要以上に痛めつけて殺したりとか、必要以上に大人数で襲い掛かったりするんだ。恐竜に。この辺は良く覚えてないんだけど、特別な弾丸が無くても戦力差は圧倒的で、街中に恐竜の無残な死骸が転がり、人型メカの被害は0って感じで。まあこの時点でも、夢分析というのにかければ俺の暗い願望が浮き出てくるんだろうけど、起きる前に一つダメ押しがあった。メカが集団で恐竜を押さえつけて、恐竜は叫びながら仰向けにされるのね。んで、ハンターの首領みたいな奴がメカの手で恐竜の腹をコジ開けて、そこにメカ用拳銃みたいなのを無理やり埋め込むんだ。肉に直接。当然恐竜は痛みで叫びまくる。んでメカどもがその後何したかっていうと、拳銃埋め込んだだけで恐竜を解放して去っていったのね。そして時間差で恐竜の腹ん中で拳銃のトリガーが作動して、パン。そこで俺目が覚める…。いやあ、夢判断とかはほんのさわり程度しか知らないんだけど、これだけ露骨だと判断する必要も無く見た本人にもバッチリわかるね。何なんだろうなホント。つうか何で俺自身は一市民の傍観者なんだよ。どうせならもっとストレートな夢を見ろよ俺。