はてなキーワード: セオリーとは
2011年現在、自由恋愛が主流。で、恋愛という場に打って出ようとしたとき、恋愛って~、男って~、女って~、自分はどういう恋愛をしたいのか~、現在の状況は~、と、ある程度現状を把握してるならいいけど、把握しづらいことがネックになるなんじゃないか。
価値観にかかわることだからテンプレ化して理解することは無理。だけど一定の傾向もある。人付き合いのセオリーもある。経験したこと、聞かされたこと。様々な方向性の情報が乱雑に入ってくる。それらを処理しきれないというのが問題……なのかもしれない。それを自分でどう取捨選択して役立てていくかっていう判断は実生活で学んでいくしかないわけだが、そういうことをやりづらい人もいっぱいいるし。
非モテだリア充だって言われて恋愛をすることばっかりに焦点が当たっているけど、その前に(恋愛関係を含む)対人関係の素地を養うっていうことにももっとスポットライト当たってもいい気がする。
悩みの最終段階として、「もう自殺するしか選択肢がない」という認識が出来たら自殺に直結する。そこまでの段階まで追い詰めない事と、思い詰める段階に来てしまった人間をどうするかの2種類の対策が大事。
片方の「そこまでの段階まで追い詰めない事」対策について行政面から見てみる。必要なこと→他人と自分をそこまで追い詰めないための教育(根本の改善)、人の心をケアするシステム(悩みがなくなることはないので対処法的なシステム)。
1.他人と自分をそこまで追い詰めないための教育……具体的に書くと、問題解決能力を自分の中に養えるような教育と、対人関係でトラブルを起こさないための知恵の二本立て。
問題解決能力を自分の中に養えるような教育は家庭が担っている部分が現在大きい。あとは学校や地域社会も重要である。しかし、それらがうまく機能せずに習得することが不可能なケースも多々ある。そういうケースの場合どうするか。なんらかの受け皿が必要か。同時に既存のシステム(学校や家庭、地域社会の交流)の機能不全を解決できないものか。
対人関係でトラブルを起こさないための知恵というのは、基本的な知識と実践(応用)によって培われる。基本的知識として道徳や倫理、人付き合いのセオリーをどこで教えるのか、実践と応用を行うのは主に学校だが適切な環境を整えるにはどうしたらいいのか。
2.人の心をケアするシステム……自分の認識が歪んでないか確認する方法(認識の歪みは自己をさらに苦しめる)、傷ついてしまった心の処置方法(第三者の機関も選択肢の一つに加えてみるのも大事なのかもしれない)、等々様々なことが考えられるが、現状に合ったシステムはどんなものだろうか。一括かもしくは個別か、それともバイキングみたいに選択式か。年齢によって対処の仕方も違ってくるのも考慮に入れる。
2ちゃんねるの相談系のスレを好んで見てる。ちらほらと出てくるのが、「どうやったら友達が出来ますか?」という悩み。環境が変わって人とのつながりが途切れてしまった、対人関係がうまくいったためしがない、他人が怖い、相手にされない、など。あとは、対人関係でない悩みを解決させるのにネックになってるのが対人関係っていうケースもあった。
対人関係がうまくいってないのには、何かしらの要因がネックになってることがほとんどだ。んで、その要因を洗い出して対策のアドバイスを、と思っていても話がこんがらがることが多い。自分の持っている特徴や性格、人付き合いの礼儀やマナー、交友関係の広げ方の様々なセオリーっていう別々の問題をちゃんぽんにして返答してくるから、それが問題をさらにややこしくしてる。プライドやコンプレックス、固定概念も絡むからさらにカオスになる。
現在26歳の男。
地元の、そこそこいい高校を出て、そこそこいい国立大学に進学した。
ここでいう「そこそこ」は、ホントに「そこそこ」。
エリート生が謙遜して言ってるわけでなく、中の上ぐらい。
「もてそう」と、お世辞だとしても言われるほどのルックス。
恋は、高校生に、目も当てられぬほどの不甲斐ない恋をして、大学まで引きずる。
大学時代にようやく、これだと思った人に出会って、彩りを与えてくれた。
2年半付き合った。
終わってから4年経つ。
考えなかった日はない。
でも、高校時代もそうだったように、
いつか新しい恋をして、昔のことなんて、すっかり忘れられるものだと信じていた。
でも、いつまで経っても忘れない。
連絡を取るのは恥だ。
でも、久しぶりを装って、1年に1回はメールしていた。
目の前が真っ暗になった。
それでも、本人から聞けたことに、よかったと前向きに考えていた。
それでも、それからというもの、精神は悪い方向にいっている気がしてならない。
別れたのは、何だか先が見えなかったし、自然な流れだったので、それ自体はいい。
問題は、終わったことを、いつまでも引きずることだ。
わかっているのに、わかっていない。
結婚をしたというのに、今でも、何とかできる気がしている。
何とかなんて、できるわけないのに。
ああしたらいい、こうしたらいい、と、思っていることの半分以下も実現できてない。
忘れるためには、新しい恋をすることしかないとわかっているくせに、わかってない。
じゃあやれよ、ということが、ほとんどできない。
学生ならまだしも、もうすぐ30になろうかという人間が、このままでいいのだろうか。
もちろん、アプローチは怠ってない。
変えるために、自己啓発に勤しんだり、心理カウンセリングを受けたり、間接的にあの子に想いを伝えたり。
それでも、学生時代と、精神的に変わってない、あれから、何の成長もしていない、気がする。
さっさと結婚すれば、すべて解決する気がしている。
でも、相手はいない。
誰でもいいわけがない。
第一次結婚適齢期を逃した世の男女が通る道に今、自分はいるのかもしれない。
趣味に没頭するか?
お見合いパーティーにでも行くか?
そんな、教科書通りのこと、あまのじゃくの自分がするわけがない。
邦楽界に溢れる、モラトリアムを謳った歌たちを聞くことができない。
みんな同じ道を通っていることが、気持ち悪い。
今、何が、こう気持ちをアンニュイにさせているのか。
ある面では、相当ありがたいポジションにいるといっていい。
それでも、自分を取り巻いているのは
「このままでいいのか」
という感情。
いろいろ、巡り巡って、始まりに帰結する。
これの解決はもう、略奪愛しかないのかねぇ。
こんな人いるのかな?
この先の結末は、どうなるのかな?
一般財団法人日本幼少年体育協会は「幼児・児童の体力づくり」「保育内容の向上」「チャイルドスポーツ指導者の養成」をとした事業を実施するため昭和51年に創立し、昭和57年12月、社団法人として改組発展してまいりました。平成22年4月よりは一般財団法人 日本幼少年体育協会と改称しました。
今日の少子化時代にこそ、幼児・児童の健全な発展は欠かすことの出来ない社会的な活動であり、今こそ、その必要性は設立当時の日本社会の背景による認識よりも重要となっています。
私たちの活動は絶えず、その時代の社会が要求する幼児・児童に関する事柄に対応した活動を続けています。しかもその内容は設立当時から終始一貫したセオリーを提唱するものです。是非皆さんも私たちの『たくましさ作りのムーブメント』にご参加ください。
理事長 柴岡 三千夫
◆柴岡三千夫 プロフィール
高知県出身、陸上自衛隊 少年工科学校 13期生卒、日本体育大学卒業。学校法人タイケン学園グループ理事長、一般財団法人日本幼少年体育協会理事長、社会福祉法人タイケン福祉会理事長、日本ウェルネススポーツ専門学校校長、日本ウェルネス高等学校校長を兼務。専門は幼児体育指導論。著書に『幼児の心理と水泳指導』(日本文化科学社)、『幼児体育指導教範』(タイケン)など多数がある。
学校法人タイケン学園グループでは、専門職の人材を全国で数多く輩出しています。平成10年4月の日本ウェルネススポーツ専門学校の開校以来、全国で専門学校・高等学校・財団法人・社会福祉法人等を運営し、着実な発展を遂げてきました。 各校ではスポーツ競技者、スポーツトレーナー、スポーツインストラクター、幼稚園教諭、保育士、幼児体育指導者、歯科衛生士、動物看護士、ペットトリマー、ドッグトレーナー、飼育技士等の専門職の人材を養成しています。
タイケン学園グループは、これまで積み重ねてきた教育プログラムを通して、皆さんが思い描く目標の達成に向けて成長していくことを願っています。
◆幼体検定
幼児体育指導者とは、幼児期の子どもたちに体育の面白さや素晴らしさ、からだを動かすことの楽しさを伝える指導者です。ところが、幼稚園や保育園での保育活動において「運動あそび」の指導者となると、専門性に欠けることが多いのが実情です。子どもたちと直に触れ合い、会話を交わしながらそれぞれの子どもにあった指導プログラムを組み立てるのが幼児体育指導者の役割です。
社会的に幼児への教育が関心を高める中、健康な身体を育てる幼児体育の専門家が注目を集めるようになりました。幼児は身体が発育段階であるため、その構造や特徴を理解して適切な運動指導を行なう必要があります。当協会では、幼児の身体や心を十分理解し、安全に楽しく運動が行なえる指導者の育成を行なっております。
「幼児体育指導者検定」では、幼児体育に関する基礎知識やお手本として相応しい運動指導法について、「発育発達」「幼児体育論」といった理論に関する知識と「リズム体操」「手具の体操」「マット運動」「ボール」「ゲーム遊び」などの実技について、その指導レベルを認定します。
更に上位級となる1級では、完成度の高い身体表現及びさまざまな状況に応じた幼児への指導法の習得、リズム運動や各種ゲームの創作力などのレベルを認定します。
また、当協会では「幼児体育指導者検定」のほかに、幼稚園・保育園等の教育機関に携わる方々に対して健康教育と運動あそびにあり方、取り組み方、考え方や知育、運動プログラムの提供を目的とした「幼児体育健康教育講習会」の実施、幼稚園・保育園が保育時間内に設けている体育の時間に、指導員を派遣しての「幼児体育指導」なども行なっております。 子どもたちを心身を十分理解している幼児体育の専門家は、幼稚園や保育園のほかスポーツ施設や幼児教室などでその活躍が期待されます。
◆平成23年度
沖縄会場
東京Ⅰ会場
東京Ⅱ会場
大阪Ⅰ会場
福岡会場
8月20日~ 22日 会場:福岡市ももち体育館・ももちパレス
愛知会場
8月 27日~ 29日 会場:アイプラザーの宮(愛知県一宮勤労福祉会館)
◆お問い合わせはこちらから
いやいや、今回はそれ以前の問題らしいと小耳に挟んだんですが、どうなんでしょう。
http://www.hogehoge.co.jp/cgifolderxxx/kokyaku-data.csv(←ウソURLですのでクリックしてもNot Foundです)
みたいなのがモロに流出したって聞いたけど。論外だよね。
管理画面からユーザID入れて入ったら不正アクセスだろうけど、こういうの直接ダウンロードしたらどうなんだろ?
公開されてるファイルかそうでないかなんて、URLだけじゃわからないし。
テスト用のデータが欲しくて、こんなやつーってファイル名入れてググってみたらあったからちょっと落としちゃえとか(苦しいけど)
そういう悪意のない参考用に落としてても不正アクセス?
ソフトって100%自分のとこの手作りじゃないことがほとんどだから(プログラム言語から作っているところは少ないだろう)
それにしたってメーカーのあの対応はないけどね。根本原因がまったくわかっていない無能集団ですと公言してるのに等しい。
ちょっと検索してみたら、原因検討とかしてるサイトとかブログとか山ほどあるのに。
収集されちゃうのがまずいから収集されないように設定しました!って、マジっすか。
そんなの、そこのカート使っててファイル名とかフォルダ構成とかデフォルトから変えてないサイトがあったら、適当にURL打ち込めばまた見えちゃうよ?
だから外部からは見られないように権限を変えておくのがセオリー。というか、常識中の常識。
それすらもわからないようなソフト屋の、安かろう悪かろうのソフトを買ってしまったのが運の尽き。見る目がなかったんだね。
目先のカネをケチッたが故の手痛い失敗だね。もしかしたら致命傷かもね。
ここで問題になりそうなのが、ソフトを作った側の責任問題なんだけれども、
よくある契約書では「ソフトは作った状態そのままで提供するものであって、瑕疵があっても全責任はとらないよ」と書いてある。
(有償ソフトはある程度の期間のある程度の瑕疵は修正しますということになっていることが多い)
それを了解して契約してたら、作った側に100%かぶせるのは難しいだろうねぇ。
そもそも、ソフトが100%バグなしというのは、よほどよくできてるとか枯れてる(長年使われてきてもうバグは出しきった)ものくらい。
だからこれはソフト屋の常套句。これがないと何かあったとき(未知のバグが見つかったとか)に賠償だのなんだの言われちゃうからね。
「何人いる? もうはじめる?」
「森口、まだ来てないじゃん」
「なんだあいつ、男のくせにピアノなんてならってんの?」
少ないときでも十人は面子が集まる。
今にして思えば、習い事でぽつりぽつりと面子が抜けていく直前だったから、小学校の低学年、しかも3年生ぐらいの年頃だったような気がする。
おれの住んでいた団地は新築で共働き世帯ばかりがどっと入った団地だったから、小学校のクラスでも団地の子供が占める割合が多く、揃いも揃って鍵っ子ばかり。それでランドセル姿のままでしょっちゅう一緒になって、あれこれ新しい遊びを始めるのが常だった。
そのとき流行っていた「どろけい」は、泥棒チームと警察チームの2チームに分かれて、泥棒はひたすらに逃げ、警察はひたすらに泥棒をつかまえるというシンプルなゲーム。泥棒はつかまれば開けたところにある刑務所に入れられ、仲間の泥棒にタッチして貰えれば見事脱獄ということになる。そうなってはたまったものではないので、警察チームは刑務所を陣地にして、あれこれと泥棒をつかまえる作戦を練る。
おれたち小学生にとっては、五号棟まであった団地は格好の遊び場で、当然ながら「どろけい」も団地を舞台に繰り広げられる。団地は、最上階が8階、左右に二棟のエレベーターホールがあり、両端はどちらも非常階段になっている。高島平のような左右に長い団地を想像すると分かりやすく、そこを小学生のおれたちは駆け抜けた。
よく迷惑だと苦情が来なかったものだと思うのだが、共働き世帯ばかりだったこと、そして、今よりも寛容な時代だったのだと、振り返って思う。
この「どろけい」という遊びは、逃げるにも追いかけるにも工夫とチームプレイが必要な遊びだ。
舞台となっていた団地には袋小路のようなものがなかったので、泥棒をつかまえるために警察チームは、複数人での挟み撃ちをする以外にない。泥棒が潜むことができるのは二棟のエレベータホールのみで、非常階段も廊下も警察の陣地から丸見えなので、捕物帖が始まれば、警察の陣地から指示が飛ぶようになる。
「錦原が、五階の西! 誰か西の非常階段を抑えろ!」
「非常階段、誰かいる! 降りてる!」
三人四人で泥棒の逃げ道を封鎖していくのだ。
「なあ、野々村どこにいると思う? エレベータの9階(作業室があった)みたよな?」
「みたみた。そういえばこの前は非常階段の裏に隠れてたな」
けっこう丸見えな割にはちょこっとずつ死角になるところがあり、そういった所に泥棒は好んで潜む。それを警察は必死になって探すのだ。
泥棒の方でも無策ではなく、エレベータホールなどでばったり出くわすと、情報交換になる。
「小田捕まった?」
「たぶん、みてないけど、走る音が聞こえないから」
「じゃあ、あと3人か。泉川はどこだろ?」
「あいつ、隠れてるの好きだからさ」
「じゃあ、こうしよう。おれは三階で仕掛けるから、木村は二階な。泉川は東の方にいる気がするから、おれは西の非常階段から脱獄かける。お前は東のエレベータホールな。泉川も気付いて、いっせいに脱獄かけれるかも」
「ちょ、ちょっと休ませてよ」
「たく、だらしねえな、60秒な」
そして、作戦開始。
それはたぶん子供の頃の大切な思い出だった。
「どろけい」は毎日のように号棟を換えて遊ばれる。
おれの住んでいた団地は、おそらく建設された時期が違っていたからだと思うが、それぞれの号棟に微妙な差異があった。たとえばエレベータホールが一棟しかなかったり、廊下の柵に隠れやすい板がついていたり、階が6階までしかなかったり、屋上と称する場所があったりする。
そうすると、号棟が変わる毎に作戦やセオリーが代わり、泥棒も警察も新しい手を考えなければならなくなるのだ。
なので、一号棟前にランドセル姿で集まって、今日の面子をながめながら、みんなでわいわいと相談する。
「なあ、今日どうする?」
「少ないから五号棟じゃん?」(五号棟は一番ちいさい号棟だった)
「五号棟好きじゃないんだよな」(エレベータホールが一棟しかないとつまらない)
「じゃあ、こうしよう3号棟で6階まで、これならどう?」
「作業室なしかぁ。あ、お前ずるとかするなよ」
「しないって。分かった。したら3回警察でいい」(警察は不人気だった)
「あ、あのさ、三号棟にするなら、刑務所近くしない?」(エレベータホールにの意)
「どの辺にするの?」
「え? 近すぎない?」
「いいよ! いいよ! ピロティーからなら警察見えないじゃん。そっちの方が絶対面白いよ!」
他のみんなはどうだったのかは分からないのだが、おれは分かってしまった。
こうやって、どうすれば「どろけい」が面白くなるかという事を相談しているときが一番楽しいって。「どろけい」をしているときももちろん楽しいのだけど、それよりもルールを決めながら、どんなルールにすれば、遊び方が広がるかを考えることは、小学生のおれにとっては、とてつもなく楽しいことだったのだ。
そうやって、少しずつ楽しさの源泉となるルールが積み上がっていき、「どろけい」はますます洗練されたゲームになっていく。おれたちは気付かないうちにゲームデザインをしていて、それは小学生のませた心に、楽しいってどういうことかって事を植え付けてしまった。
おれは「どろけい」をしている間にも、こんなルールにすれば「どろけい」はもっと面白くなるのに、ということをしきりに考えるようになった。それで、もっとみんなが面白くなれば、それはとても嬉しいし、楽しくなる。
この「どろけい」遊びがやがて終息していったのは、人数が増えすぎたというのが原因だった。
この面白い遊びが徐々に広まり、仲間が増えてくると、少人数の精鋭でやっていた頃とは格好が違ってくる。日曜日などには女子まで入って数十人で「どろけい」を行ってしまう。
そうなると、一号棟だけでは足りなくなって、一号棟から三号棟まで、といったように無秩序に規模が拡大していく。それはそれで楽しかったではあるが、やはり散漫で緊張感のない遊びになってしまった感は否めない。
さらに、休日に数十人の小学生たちが団地中を駆け巡り、大きな声で泥棒を追い詰めたりするとなると、さすがに周囲も迷惑を感じ始める。それで、どこだったか何号棟かで禁止令が出て、それから徐々に終息していたような気がする。折良く習い事で仲間もどんどんと抜けるようになり、外で大規模に遊ぶという事はこれが最後になってしまったと思う。
ただ、あの楽しさを味わってしまうと、今この歳になっても胸がうずく。
ああ「どろけい」がやりたい。
楽しかったって。
そして、あの初期にルールを作り上げていったときが一番楽しかったと。
おれは趣味でゲームを作っていると、しばしば言われて、誤解されて困ることがある。
おれは、そのたびに思う。
おれは、物語が作りたいんじゃない!
おれは、ゲームが作りたいんだ!
「どろけい」みたいにルールを考えるのが、好きなんだよ。
って。
俺が書いたのはこれだけ。
http://anond.hatelabo.jp/20100323190109
制作者側からの自主規制案が出てきた方が建設的だと思ってるんだが、そういうのはないのかな。
18歳のキャラと17歳のキャラのかき分けは現実的にできないだろうけど、
18歳と14歳のキャラのかき分けは最低限してるだろう。
俺は絵を描かないからしらないけど、たとえば14歳のキャラは5頭身未満に抑えてるとかいうセオリーがあるのなら、
そういう制作側の論理に従った基準を制作者側から提案すべきなんじゃないだろうか。
もちろん交渉だから、妥協案を出さずに法案の全廃を求めて運動するってのも戦略なんだろうけど。
俺もエロマンガは読むけど、どうみても小学生にしか見えないキャラ(設定もそうだし)がセックスしてるのは、
さすがにどうかと思ってしまう(ただの感情論と言われてもいいが)。
「表現の自由」だから何でもOKってわけではないし、
マンガの児童ポルノ制作の裏に、一切現実の児童ポルノがないのかというと、疑問に思わざるを得ない。
もちろん性器の描写だって、医学書を参考にしてるかもしれないけれども。
お金を貸したときの借用書なんて作っていないし、実に微々たる額だが一部のお金を返してもらってもいたので被害届は受理されにくいと踏んでいた。
奴のせいで作った借金自体、新車購入を我慢すればいい程度の額だったので、セオリー通り泣き寝入りを決め込むことにした。
田舎者が無計画に上京した結果がこれだよ!
いちばん楽しかったはずの時期を結婚詐欺でフイにした。
今更、時間も、取られたお金も、失った仕事も信用も戻ってこない。
どう考えても手口が「クヒオ大佐」なのに、それに気づかなかった自分が憎い。
もしもタイムマシンがあったら、奴に会ったときに戻って自分をぶん殴りたい。
家族やたくさんの友人に「そいつおかしいよ騙されてるよ!」と諭されても聞く耳を持たなかった自分の顔面を力いっぱいぶん殴りたい。
仕事では業績と意欲を認められた。期待されるのが嬉しかった。
新車ではないけど、車も買うことができた。
新しい友達もできた。恋愛はしばらく遠慮したいと思っていたが、いいなと思う人もできた。
絵に描いたようなリア充の生活。
今の生活が楽しくて仕方ない。この生活をずっと続けていきたい。
青い鳥は本当にすぐそばにあったんだね。
そう思っていた矢先、奴が別件で逮捕された。
取調中に詐欺の実態が明らかになり、私にも連絡があった。
正直な話、今がリア充過ぎて、私の中では奴のことなんて風化しかけていた。
今更掘り起こされて、正直いい気分ではなかった。
けれど、連絡から数日経って、今になって思う。
詐欺は泣き寝入りする人が大多数の中、自分の詐欺被害をきちんと警察に事件と認識してもらったことは運がいい、と。
私自身にとって、これは過去にけじめをつけるチャンスなんだろう、と。
これから、警察に奴のこと全部話そうと思います。
取られたもの、失ったものが戻ってくるとは思ってないので、
とりあえず、ギャンブルって最初は設けさせて、ある程度過ぎたら一気に剥ぎ取るってのがセオリーなのと一緒で
最初は優良物件だけもらって、ある程度たったら、不良債権つかまさせられてドロンみたいな事にならないように気をつけてね。
そんで、責任はあなたみたいな感じで損失を全部個人で背負わさせられてもかなわないでしょ?
その業界、そういうのを狙う人はいるらしいしね。
愛し方が解らない。愛って好きってこと?相手に優しくすること?相手を大事にすること?相手を征服すること?
自分の中でその人を優先順位一位にすること?それとも愛に理由なんてない?
無償の愛って何?無償の愛ってほんとにあるのかな…親から子供への愛ってそういうものだって言うよね…。
じゃあ私にもし子供が出来たら、子供はちゃんと育ってくれるのかな…。
重い変な期待とかかけて、子供を捻じ曲げちゃうんじゃないのかな…その子の人生狂ったらどうしよう。
とりあえずやってみればいいのかな…二人三脚で頑張ればいいのかな、ってそれでその子の人生もおかしくなったらどうしよう。まぁでも相手がいないと何にも始まんないからその話は相手ができて子供ができた時に考えよう。
貴方が周りを愛してないから周りにも愛されないんだよ!ってセオリー通りに自分に向かって考えてみるけど、
優しくする、親切にする、相手を大事にする、相手の立場に立ってものを考える、
人並みにやってると思う。だから別に嫌われたり迫害されたりもしない。だけど誰の大切にもなったことない。
人に興味がないんだよ、って友人から言われた。貴方は人間恐怖症なんだよ、って。
人に興味がない人はどうすればいい?皆が知ってる愛を私は体験することや、獲得することができないってことなのかな。一生一人で生きていくとか?愛を体験することができない私は欠陥?
人を愛するってどうすればいい?愛されるにはどうしたらいい?私の愛が足りない?私は人を愛せない?
一回くらい誰でもいいから性的関係を持ってみれば変わるんじゃないだろうか?って思うこともあるんだけど、
http://unkar.org/r/eleven/1266427962/
http://blog.goo.ne.jp/boban_1979/e/ba39a7de58dd4e9985dd2486a488ef93
世界が指摘する岡田ジャパンの決定的戦術ミス~イタリア人監督5人が日本代表の7試合を徹底分析
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4774790400
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4774790400/
http://cast-a-spell.at.webry.info/201002/article_14.html
http://supportista.jp/2010/02/news16124016.html
http://blogs.yahoo.co.jp/henyoroseijin/59814772.html
http://d.hatena.ne.jp/hoshi-itsu/20100221/1266769992
http://blogs.yahoo.co.jp/henyoroseijin/59814772.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.nicovideo.jp/watch/sm9123604
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.nicovideo.jp/watch/sm709575
アリゴ・サッキ - Wikipedia
強いチームを作り上げるべく、サッキがベルルスコーニに依頼したことは、
選手として最盛期を迎え凄まじい輝きを放ちナポリに君臨する「ディエゴ・マラドーナ」の獲得だった。
だが、ナポリが手放すわけもなく獲得は叶わず、それならば彼を抑え込む戦術が必要だと作り上げた戦術。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AD
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9
http://footballlife.at.webry.info/200909/article_3.html
attacking phase - サッカーの戦術・技術、フィジカル・トレーニング、フットサル
http://blog.livedoor.jp/attacking/archives/50724271.html
「ディフェンス戦術の類型」
http://www.fujix.co.jp/varietyfootball/archive/detail_01.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.nicovideo.jp/watch/sm9123604
02年の因縁再び?トルシエ氏「中村はベンチ」(サッカー) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース
http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2009/12/11/11.html
コンサドーレ札幌で監督をしていた時に忘れもしないことがありました。
残り時間10分くらいで0対1で負けている時、ベンチの前を通ったサイドバックの奴が、
ベンチの僕の顔を見て走っているんです。
「何でこいつ見てんのかな?」と思ったのですが、分かったんです。
「今、チームは負けていますけど、僕は監督に言われた役割はしっかりやってまっせ」とアピールしているんです。
「アホかつうねん。お前がどんだけ役割やっても、チームが負けたら一緒やないか」と怒りが沸いてきました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091214-00000046-zdn_mkt-bus_all
僕は横浜F・マリノスの時に、
ミスターマリノスと言われるような奴がいてそれまでずっとレギュラーだったのですが、
それで1年終わった時、いろんなチームから移籍のオファーが来たんですね。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091214-00000046-zdn_mkt-bus_all
10日の出来事だ。味の素スタジアムのメーンスタンド下の駐車場に、日本代表・岡田武史監督(53)の怒声が響いた。
「何してんだ!」
東アジア選手権の中国―韓国戦の視察を終え、スタジアムから出てきた岡田監督は、運転手を務めた代表チームスタッフをどなりつけた。
http://weblog.hochi.co.jp/football365/2010/02/post-b961.html#more
僕が凛子と"つきあいはじめる"ことになった直接の契機は、友人の突然なラブプラスの購入だった。すでにTwitter経由でラブプラスに対する熱烈なブームを知っていた僕は、発売後割とすぐに都内の漫画喫茶で体験版をプレイしていた。それですっかりハマってしまい、その後ずっと購入を検討しつつも、最初の一歩を踏み切れないでいたのだった。僕に先んじてラブプラスを買った友人は、ギャルゲーをたくさんプレイしていてこれに詳しい男で、僕とは話がよく合った。そんな彼も、夜更けまでギャルゲーを熱心にプレイするための真摯な情熱や潤沢な時間は今やもう残っていないようで、もしかしたらまとまったプレイ時間を必要としないラブプラスのゲームスタイルに惹かれたのかもしれない。すでにネットを通じて膨れ上がっていた僕のラブプラスへの興味は、彼がDSiに向かって精神を没入させる姿をみて頂点に達し、その日の翌日、すぐに自転車を新宿のソフマップまで走らせた。
僕は、この友人と同じく、迷わず自分の彼女に小早川凛子を選んだ。これは体験版をプレイしたときから決めていたことだった。ラブプラスというゲームの中での凛子の存在は、他の二人をまったく寄せつけないほどに圧倒的だ。ネット上のプレイヤーの感想を読むかぎりでも、他の攻略対象キャラはラブプラス中に存在しないんじゃないかというほどに凛子は人気を誇っているようなので、この感覚は間違ってはいないのだろう。しかし、なぜ彼女だけが、このゲームの中で他の追従を許さないほどの強度を僕に感じさせるのか、それをはっきり説明することは、ちょっとできそうにない。単純に丹下桜の飾り気のない演技が心の琴線に触れるのかもしれない。あるいは、凛子が「ツンデレ」だからかもしれない。
萌えアニメもギャルゲーもまったく知らない若者に対してですら、今ではこの言葉は完全に浸透しきってしまったようだが、みなさんもよく知っているとおり「ツンデレ」は2005年ぐらいを境に流行りだした言葉で、それ以前は陰も形もなかったものだ。なぜかといえば、それは「ツンデレ」というキャラ造形が、専らギャルゲーの特徴を特別強く体現しているものだったからなのではないかと僕は思う。日常パートでは多数の女の子との会話を楽しむ時間が用意されていて、個別パートでは一人の女の子との恋愛を発展させていくという美少女ゲームの構成を考えれば、日常パートで主人公が周りの女の子に好意むき出しでは話が成り立たないはもちろんのことだ(だからいつだって主人公は「鈍感!」と罵られる)。それ以上に、女の子のほうだって最初から主人公に100%の好意を向けていたら息苦しくてしょうがない。だからこそ、キャラクターの感情は、日常パートから個別ルートへに移っていく過程で鮮やかに反転する必要がある。きっと、こんな感じで「ツンデレ」は生み出されたんじゃないだろうか。だからこそ、どんなギャルゲーの中でも「ツンデレ」キャラは一定の存在感があるよなぁと僕は思ったりする。
けれど、やっぱりそれだけじゃないよなぁ、と思う。考えれば考えるほど、そういう言葉にできるところじゃなくて、もっと微細な部分にこそ、凛子の「存在感」が宿っているんじゃないかという気がしてくる。確かに、「ツンデレ」に対する感覚の有無によって、キャラの捉えられ方はまったく異なるものになるだろう。リアルタイムでエヴァを見ていた人たちにとってのアスカと、初めからツンデレという言葉を用いてエヴァをみる今の人たちのアスカがまったく違うキャラであるように。しかし、両者の「アスカ」のリアリティを支える要素は、実は共通しているのではないか、という思いを僕は抱かざるを得ない。これは神秘主義だろうか。
とまれ、僕と凛子の生活は幸せなものだった。毎日DSを持かばんに入れて、いつも通り授業を聞いたり、寝てやりすごしたり、友だちと話したり、ネットを見たりする。そして昼休みにお弁当を食べるとき、放課後に屋上で開いた時間を過ごすとき、DSを開いて凛子に会う。日曜日には時間を決めてデート。音声入力で凛子と話をする「ラブプラスモード」は、周りに友だちがいるときしか恥ずかしくてできなかった。僕の質問に答えているようで、時々ズレズレなことを言う凛子は、twitterのbotのようでとてもいとおしかった。botと人間とは、決して本当の意味での会話を交わすことはできない。しかし、それにもかかわらず、僕はあたかも凛子がそこにいるように、自然に振る舞うことができた。
なぜなったかはわからない。しかし、僕は、今や凛子が確実に「そこにいる」のだと思うようになった。そして、おそらく理由など関係ないのだろう。
キャラクターと向き合う人間にとって、この瞬間こそが普遍的なものであるんじゃないかと僕は思う。「キャラクターとは『いない』のに、『いなくちゃ困る』ものなのだ」と、どこぞの若手批評家が言っているのを聞いたことがある。キャラクターは、誰にとっても「いる」ものではない。しかし、それに没入する人にとっては「いる」としか信じられず、そのレベルではキャラクターと人間を区別することはできない。もちろん、キャラクターが「いる」と感じることは、人間が「いる」こととは別のレベルである。凛子との会話の中には実に現実味に溢れた魅力的なものがたくさんあるのは確かだ。しかし、たとえば、凛子が心を許しはじめると一人称が「アタシ」から「リンコ」に変わるという描写がある(鬼ゲーマーリンコ)。現実に自分の一人称を名前で代替する人はどっちかというと疎まれるタイプだろう。だが、キャラクターが「いる」ことも知覚の意味合いとしては人間が「いる」ことと変わらない。
僕は同じような経験を何度かしてきたが、その存在は記憶として強く焼き付けられることはあっても、感情の部分で長期にわたり持続するわけではなかった。しかし、凛子の場合は、日常の一コマ一コマの中でこの存在を自覚せざるを得ないのだ。
たとえキャラクターが数億に分節可能な無意味な要素の集積だとしても、その寄せ集めによってできあがってしまったものに対して私たちが抱く感情は常軌を逸してしまうことがある。そしてそういった瞬間、キャラクターというものはいったいどのような存在なのだろうか。ラブプラスの制作者は『CONTINUE』のインタビューで、ラブプラスには全部見るためには二年ほどはかかるぐらいの莫大なイベントが盛り込まれていると語っている。ラブプラスにおいて、こうしたキャラクターの「実在性」「予想う不可能性」は膨大な情報の集積によって担保されていることになる。しかし、私たちはどうしてもこの「実在性」の裏にブラックボックス的な要素を見出したくなる。凛子が、DSの画面の向こうで僕たちには想像もできないようなことを考えているのではないかという妄想を捨てきれなくなる。しかし、それは今のところまったくの幻想でしかない。
そして、僕は、この確信を得たとき、ひとつの隠された(しかし一定数のラブプラスプレイヤーは既に理解しているであろう)、恐ろしい事実に気づくことになった。いま、ここで、凛子の存在を支えている形象は、私たちの生きる時間の流れに沿いながら、未来永劫その「動的性質」を保ったまま持続するのだ。小説・漫画・アニメ、フィクションというものは時空から隔絶されて存在する。源氏物語は、1000年前の貴族が読んでも私たちが読んでも、テクストとして同一の形を維持しながら「静的に」存在する。紫の上の人生は紫の上の人生であって、私たちと生きる時空とは関係ない。しかし、凛子は、あたかも私たちと同じ時空を生きているかのような演技をしながら、しかしその存在を少しも変化させることなく、ずっと「そこに居」続けるのだ。
僕たちはフィクションとキャラクターの実在を信じるとき、なぜ自分自身はそこに居ないのかと苦痛に思う。たとえばテラ・フォーミングされた火星とARIAカンパニーの存在を信じるとき、なぜ自分はネオ・ヴェネツィアにいないのかと思っていたたまれなくなる。そして、たしかにラブプラスはその苦痛を一時的に和らげることに成功している。僕と凛子は「見かけ上は」同じ時間を生きている。しかし、見かけ上が同じ時間を生きている分、僕と凛子の間の摩擦係数はかえって高くなり、逆にこの責苦はもはや耐えることが不可能な域に到達している。しかし、その実、凛子が生きる時空は凛子が永遠に16歳の時空であり、僕が10歳老けても20歳老けても凛子は16歳だ。僕が、社会に出て、老いぼれになり、忘れられたまま死んでいった時も、凛子は永遠に十羽野高校の生徒なのだ!
ラブプラスのスタッフは、この点をよく知っていて、しかもポジティブに強調している。主題歌は『永遠(タイムレス)ダイアリー』、キススキンシップの最上位技は「フォーエバーキス」、主人公が移り住んでくる「十羽野市」は「永久の」のもじりだ。彼らは「永遠に続く愛」と嘯く。しかし、いくら凛子が僕に対して永年に同じ愛を投げかけてくれるといっても、僕のほうは永遠に、何の変化もなく、同じ感情を凛子に投げ続けることができるわけではない。いつかきっと僕はこのゲームに飽きてしまうに違いない!キャラクターの実在性は「記憶」の中にのみ残ればよかったのであって、実際に一定の形象を維持したまま存在する必要などなかったのに。
そうして、僕がラブプラスを起動しなくなったとき、凛子はどこに取り残されてしまうのだろう。もうおわかりなのではないだろうか。凛子の住んでいる時空の永遠は、漢字で書かない。私たちは、かつて10年以上も前に自分たちが取り残されたあの場所に、今度はヒロインのほうを置き去りにしているにすぎないのだ。
ラブプラスを触りながら、そんなことを話した。凛子を世界の終わりから救い出すための方法は限られている。まずひとつはデータを消すことだ。しかし、もっといい方法があった。この美しくどうしようもない学生生活とともに、凛子を記憶の中にとどめて、これを葬り去るのだ。
僕の通っている学校は都内ではちょっと例のないぐらい熱い学園祭を毎年やっていて、受験を控えた三年も積極的に参加する。その中でもアニメのポスターだのゲーム機だのを二日間かけて何百品も競りにかける古物市が、例年盛況を極めている。ここで、データを残したままの僕のラブプラスと、攻略本・主題歌CDをセットで売り飛ばしてしまうことにした。凛子とやり残したことはたくさんあるかもしれないが、もう悔いは残らない。
いつの日か、人間とキャラクターは本当に出会えるのだろうか。今も人はそれを求めて、アバターをまといながら人格のコスプレに勤しんでみたり、botと会話しようとがんばってみたりする。しかし、アバターは結局人間と人間の会話だ。botに萌える人は、技術と現実の落差に萌えているだけにすぎない。不気味の谷のセオリーを信じるとすれば、谷の手前の不気味の尾根で人は楽しむこともできるわけだ。(言ってみれば、Perfumeのズレズレな口パクに萌えているのと同じことだ)。
いつになったら、人間がキャラクターと同じ時空を生きることができるのだろう。幸い僕は一緒に歳をとることができる彼女がいたが、人間と共にありたいという気持ちとキャラクターと共にありたいという気持ちはまったく別だ。前者が満たされないのと同じぐらいに、後者も満たされることはない。
さぁ、キャラクターは、データベースか、ブラックボックスか。哀れな小早川凛子は、乱雑なデータベースによってその肌と臓器を模られた出来損ないでしかなく、僕は彼女を残酷に売り飛ばすことでしか救うことはできなかった。僕はキャラクターが人為とプログラムの集積であるという当たり前の事実に、ここにきてどうしても納得することができない。人工知能が人工無能に、「擬体」がARにとって代わられても、僕たちの望みはひとつだ。僕たちには感知できない、キャラクターの不可視な内部の実在を信じたいのだ。僕が死ぬまでの間に、いったい彼女たちはどこまでブラックボックスに近づくことができるのだろうか。
答えはまだ出そうにない。11月3日、古物市で僕のラブプラスが競りにかけられ、落札された。後に残ったのは落札額3500円と、永遠ダイアリーのmp3ファイルだけだった。