はてなキーワード: ショートショートとは
よくある話の言い換えだけど、持論。
100.1にしようと思ってる。
複利計算で、1年やり続けると、えらいことになってる。
単純計算は誰かがやってくれるとして、ま、いうても
でも0.1を得ようとして頑張ったら突然確変で1とか10とか
得られちゃう時もある。
そんな風にやって5年はたったかな。
たぶん、5年前時点での100から考えれば
軽く1000はいってる気がする。
ーーーーーーーーーーーーーーー
私から見ると、私が直接関わってる人たち、テレビでみる人たちは現状維持が大好きだ。
既得権益の確保だの、今で満足だの考えでそうしているんだろう。
みんな、変化は好きじゃないんだろうか?
改革は好きじゃないんだろうか?
「結局、数年経ってふりかえると郵政は何も変わっていない」と。
「すごい幸運を手に入れる何かを行ったのに、なにも起きなかった。
本来だったらものすごい不幸が起きてることが起きてないことが
改革して、変化してなかったら現状にない悪化をしていた未来があったかもしれない。
変化したからこその現状維持かもしれない。って考えたい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
現状維持の人たちは、変化を受け入れた結果の最悪の状況、
招くこともあるだろう。
批判し否定し、本件とは関係ない過去の失敗などを持ちだしたり、
重箱の隅をつついてご破算を狙う。
現状維持派は、よく言って今日0.0になるように頑張っている。
それは宝くじに期待するという0.00001がんばっているといえるが。
そんなにがんばらなくていい。
昨日より安定して0.1だけ頑張る。
言い換えると現状維持を認めない気持ち。
ってやってたら、数年後振り返ってみたら
あれれれれ。って思える。
今思ってるから。
前から、ここに書きこみたいって思ってた。
初めて日記書いた。それで+0.1。
bygones kaztc
秀逸なプロットだったので星新一・筒井康隆っぽくショートショートにしてみた。元スレ見てからでも後から見てもおっけー。(一部設定変更)
「笑顔が素敵ね」
子どもの頃からよく言われていた。私がとびきり明るい性格だったわけではない。両親ががよく笑う人だった。両親の笑顔を見ると、私も幸せな気分だった。その幸せな気分に釣られて、私もよく笑っていたのかもしれない。
小学校から大学まで、学生時代は友人関係で悩むことはなかった。特別モテたわけでもないが、一応彼女と呼べる人もいた。就職活動も、社会情勢的には厳しい時期だったが、そこそこの企業に就職できた。
就職して、大学時代から付き合っていた智子と結婚した。就職して5年が経った頃、母親が亡くなった。乳がんだった。その半年後、父親も後を追うように旅立った。普段は亭主関白だったくせに、寂しがり屋だったのだろうか。私は悲しんだ。とても悲しんだ。そんな時も、いつもそばにいて優しく微笑みかけてくれたのは、智子だった。
しかし悪いことは重なるもので、ちょうど両親を亡くした頃、会社の業績が悪くなっていた。喪に服す暇もなく、仕事に忙殺される毎日。楽しいとか哀しいとか、そんな感情すら忘れてしまった。
もう日付も変わろうかという時間に晩ご飯を共に食べていた智子が心配そうに私に言う。
「最近忙しいみたいだけど、ちょっと休んだら?ここのところずっと、厳しい顔してるわよ。」
営業先に出向く前に、自分の財布が空っぽなのに気付いた。適当に車を走らせ、最初に見つけた銀行に入った。ATMを操作して出金しようとするも、全く動作しない。自分の口座が対応してない銀行なのかと思い銀行名を確認した。「笑顔銀行」と書いてあった。
とにかくATMが使えないでは話にならないので、行員を呼びつけた。
「お客様、当行のご利用は初めてでしょうか?当行はお金ではなく、笑顔の貯蓄を承っております。」
そういうと行員は、私に通帳とカードを渡してきた。中を開くと幾許かの残額があった。仕事のしすぎでついに狂ってしまったかと思ったが、毒を食らわば皿まで、とりあえずその口座から少しだけ下ろしてみた。
「ただいまー。」
「お帰りなさい、あなた。…あら、どうしたの?何か良いことでもあった?」
「え?別にそんなことないけど…。」
「ほんとに?ならどうしてそんなに嬉しそうな顔してるの?」
俺は智子に笑顔を向けることができた。
どうやら笑顔銀行は本物らしい。今までどう頑張っても笑えなかったのに、笑顔銀行で笑顔をおろしたら智子に笑顔を向けられた。
私は智子を愛していた。智子は私がどんなに硬い表情であっても、常に優しい笑顔だった。私は心苦しかった。そんな智子に微笑み返すことができない自分が、情けなくて悔しかった。
だから、笑顔銀行を見つけた日から毎日、少額ずつ笑顔銀行から笑顔をおろした。相変わらず仕事は楽になりそうもなかったが、帰宅が遅くなっても必ず待っている智子のために、せめて笑顔くらいはお土産にしたかった。
しかし、ついに笑顔銀行の残高が0になる日がきた。もう、笑顔を浮かべることはできなくなってしまった。
「智子…。本当にすまない…。いつまでもこんな生活で…。でもお前は、これまでずっと俺のために遅くまで起きて、飯作って、家事もしてくれて…。本当に感謝してる。ありがとう。」
私は泣いていた。本当は笑顔で伝えたかった。けど、今の自分に笑顔の残高はない。微笑むことができない。だからこれが、自分の精一杯だった。
「そんなこと気にしないで!あなたが頑張ってるの、私よーく知ってるわ。」
笑顔で返す智子も、ほんのりと涙を流していた。
長い間の努力も実ってか、会社もようやく持ち直してきた。ほとんど休みなく働いていた私は、有給を取って智子とデートをした。
「あ、プリクラだー。ねえねえ、久々に撮りましょうよー。」
「えー、嫌だよ学生じゃあるまいし…。」
私の言葉が耳に入らなかったのか、いつの間にか撮影ボックスの中にいた。もう何年ぶりかにプリクラを撮り終え、印刷された写真を見て気付いた。
「俺、笑ってる…。」
智子を待たせて、走って銀行へ向かった。残高が0になって以来、笑顔銀行には来ていなかった。久しぶりに記帳して驚いた。残高がかなりの高額になっていたのだ。
「す、すいません。なんでこんなにたくさん入ってるんですか?確かに前は0だったのに…。」
行員はにっこりと微笑み、
と問いかけてくる。智子の顔が浮かんだ。
「当行では、お客様が笑顔を向けた分だけ残高は減り、笑顔を向けられた分だけ増額いたします。きっと、奥様が貯蓄なさったのですね。」
そこから府中で降りて、行先がわからずに歩いていると、道路越しに、
「●●さん家へ行くのー!?」と、女性が叫んできました。
私「そうですー!」
女性「それならねー、ここをまっすぐ行ってねー、左に曲がって道なりにあるからー!頑張ってねー!!!」
まさかの応援をいただいて、私は目的地を目指しました。
道なりにあるのにも関わらずまた迷ってしまったので、水を飲んで休憩していると、前からサラリーマンの方が歩いてきました。
男性「●●さん家へ行くの?」
私「はい!」
男性「じゃあここをまっすぐ行って、神社を右に行ったらあるから」
さっきの人もですが、なぜこの人は聞いてもいないのに私の行きたい場所がわかるのだろうと不思議に思ったのですが、その通り進んで到着しました。
伏線になって、最後に答えがあると思いきや書かれてなかった。
これは単純な体験談ではなくて、体験談的なミステリーやホラーのショートショートだと思う。何らかのトリックが引っかかった文章になっているはず。
親戚に会いに、府中駅で降りる、とかで府中刑務所に務めてる受刑者に会いに行く話をぼかしてるのかな、とも思ったけど、道順あわないから違うか。
お袋は既に別居して実家に戻っており、先週木曜にそのような話をしてきたそうだ。自分は親父と同居している。今年で27になる。そろそろおっさんだ。結婚も考えてる。
家は、借金の担保に入っており、売ることになるそうだ。不渡りは今のところ出さなくてもいいそうなので、倒産というよりは、廃業という形になる。
話を聞いたときは、来るべき時が来たかと思った。正直、そこまで動揺はなかった。
しかし、自分という人間は頭が悪い。しかも鈍い。だから、いつもこういう「ショック」な出来事は、聞いた瞬間はうまく感情の処理が出来ないらしい。あとからじわじわ沸いて出てきて、長期間にわたり体調を崩す、そんなことはもうごめんなので、はてな匿名ダイアリー、通称増田に自分の感情を書き綴って、整理をしようかと考えた。
そんなことはチラシの裏にでもかけよ、というのもごもっともだ。ただ、一つの人生のサンプルとして、もしかしたら誰かの役に立つかも知れないとも考えるので、増田に書いておきたい。一石二鳥が好きなんだ。せっかく書くんだから、ってことで。不愉快に思った人は、ここらへんでブラウザなり、タブなりを閉じることをおすすめする。
今回の倒産は二度目になる
最初に親父の会社が倒産したのは中学一年、1995年だった。文化祭を謳歌していた僕は、親から倒産の報を受け取った。しばらく家を離れているようにとのことだった。
家に帰り、荷物をとり、母、妹、僕の三人で成田空港まわりの安いホテルに泊まった。平日だったので、安く泊まれた。
その時僕は、ひたすら星新一のショートショートを読んでいた。あの短く、そしてあのライトな皮肉のこもった文章ですら、どうにも心がざわついて、読んでるうちに気持ち悪くなったことを覚えている。
一方、親父は、会社更生法の適用に走り回っていた。混乱の無いよう、このときの会社をA、今日廃業が決まった会社をBとする。しばらくAの話をする。
そもそも、「親父の会社」と書いたが、父が社長になったのは倒産する一年前の事だった。その前は、母の父、僕の祖父が社長を務めていた。
親父が僕の母親と結婚した際、母の両親が「是非うちの会社に来てくれ」と何度も頭を下げて頼みに来たそうだ。今でも「あのとき断っていたら、今頃どうなっていたろうな」と親父は振り返る。
そして、親父が会社Aに就職して十数年が経ち、製造業だった会社Aは円高の影響を受けて苦しい状況になる。その中で、アメリカにも会社を作ることとなる。その時点で、会社は東北と関東に分社化しており、関東社長を祖父、東北社長を叔父(母の弟)が勤めていた。アメリカにも会社を作ると言うことで、その社長に叔父が就任することとなった。空位となった東北の社長に祖父が就任、そして空位となった関東の社長を誰にしよう、という話になった。親戚類で、社長になれるのは親父しか残っていなかった。代表者として、自宅を、会社借金の抵当にいれることになった。
その一年後、会社Aは倒産する。実質代表は、関東社長である親父になっていた。数社来たテレビや新聞のカメラの前で、親父は深々と頭を下げた。
その後親父は、会社更生法の申請、アメリカ会社の存続(他の会社に買収して貰った)、会社整理などに駆けずり回った。あの頃、親父は「家から出るのが嫌で嫌でしょうがなかった」と言っていた。債権者からは怒鳴られ、従業員からは責められていたそうだ。家は、競売に売られた。資産があった祖母に競売で買い取って貰ったが、その後祖母には家賃を納める事になった。
祖父と叔父も代表権を持っていたため、家を売ることになった。叔父はアメリカに既に家があった為、日本の家を売っても問題はなかった。祖父は、祖母が名目上の役員として給与を数十年貰っていた貯金があり、家を買い戻すことが出来た。祖父は既に年金を受け取っており、叔父はアメリカの会社が存続できたため社長として仕事を続ける事が出来た。倒産の際、一番苦労をしたはずの親父には職が残らなかった。持ち家も無くなった。結果として割を食ったのは我が家だけとなってしまった。
初めての会社設立
問題は、親父が無職になった事だった。他の会社から「うちで勤めませんか」というお話をいくつか頂いた。が、我が家は差し押さえの対象となっていた。20万円の給料を貰った時点で、それ以上は差し押さえられてしまう状態だった。
説明すると、家は競売に出されたが、他の家具なども差し押さえるかどうかという話になった。が、持ち出す費用、売る費用考えると、ということで家具は差し押さえられずに済んだ。しかし、親父の給料は、20万以上の給与を貰った時点で差し押さえられる、という事になった。
よって、給料を貰えば、一家の収入は20万しかない。うち10万は祖母に家賃として納めなければならないため、一家四人で10万で暮らすのは、学費含めてやや不可能に近い状態だった。
そこで親父は、起業をすることとなる。それが会社Bだ。会計上、母を名目上の社長に据えて、母親が給料を受け取る仕組みにした。これならば、差し押さえられることもない。
そこで、家を担保に入れて借金しながら、どうにかこうにか年収700万前後の収入を15年間その後親父は稼ぎ続けることになる。それは、来月で終わるわけだが。
そして、この家も、借金の担保に消えて、売らなくてはいけなくなったわけだが。
一方の家庭事情
端的に言って、親父とお袋の性格相性は最悪だった。たびたび皿が飛び、怒号が鳴り、もうどうしようもなかった。
まず、横浜の社長令嬢だった母親と、大阪でどん底の貧乏から這い上がってきた親父とでは、そもそも金銭感覚も生活感覚もずれていた。二人は、ハワイで知り合い、その後親父が大阪から横浜へ熱烈なプロポーズをしにいき、それをお袋が受け入れる形で結婚した。お互いの性格をちゃんと確かめなかったのも、こういった状況の一端だったろう。
自分はそれこそ5歳ぐらいのころから、両親の喧嘩の仲裁をしてきたことを思い出す。自分は両親が好きだった。両親の言い分はどちらも理解出来た。そして、なぜ、人によって見える世界がこれほど食い違うのかと繰り返し繰り返し思った。端的に言えば「絶望」といった形なのだろうが、そんな言葉を理解出来ないころから、お互いの言葉を通訳して相手に伝える、というようなことをしていた。そのころは、まだ二人が仲良くやっていけるものと、どうにかいい方法があるはずであると、信じていた。
自分にとって、お袋は怒りっぽくて片付けができないけど、優しくて感情豊かで料理のうまい母親だった。
自分にとって、親父はクールでデリカシーのない人間だけど、いざという時には頼りになる、一家の大黒柱だった。
その二人が、互いの事をひどく罵り合うのを聞き続けた。今でも一番聞きたくない言葉達だ。それでも、二人はその文句を理解してくれる人間が僕しかいないということで、ずっとそれを僕に言い続けた。今でも、言い続けている。
両親の仲は「当然」1995年の会社A倒産以後さらに悪化する。親父はどこかで「あのとき会社Aに入らなければ」「倒産の時の一番の被害者は俺だ」と思ってるし、お袋はお袋で「起業するのはいいけどなぜ母親(僕の祖母)の持ち物である家を抵当にいれるの?」と思っていた。悪化しないほうが無理というものだった。
それでも、お袋は「自分に出来ないことはない」とどこかで思っている節があり、関係修復しようと親父に話しかけた。しかし、やはりその話し方は非常にぎこちなく、結果として高圧的で、それこそ親父の状況を見ずに話しだすようなやりかただった。そして、そのやり方は親父が一番嫌う物だった。親父は押しつけが嫌いであり、お袋は押しつけあうことこそがコミュニケーションだと考えていた。
親父とお袋の仲を修復しようとする「不可能」に対して母親は挑み続けた。結果、余計にストレスをため込むようになった。また、会社Bで借金をする度に祖母に僕の自宅を抵当に入れてくれと頼みに行く(会社A倒産後、僕の自宅を競売で競り落としたのは祖母なので)時も、「あなたの勝手に私の母親を巻き込まないでよ!」と、たびたびヒステリーを起こすようになっていった。さらに2008年以後会社Bの経営が悪化すると、母自身が無職であることによる生活への不安感で、よりストレスをためるようになる。父が休日家にいると「テレビ見てる暇があったら営業に行ったらどうなの!」と怒号を発し、それが喧嘩の発端になることも度々だった。
そんな中、極度のストレスの結果か、母は大動脈瘤を患うこととなった。2009年、冬の事だ。
いつ動脈瘤が破裂するか分からない、しかし妹は既に嫁に行き、父と僕は勤めにでていて平日は母の様子をみられない。なので、母は実家に帰ることとなった。その後、母は快方に向かう。母は、父と顔を合わせているだけで、体調が悪化するという状態になってしまっていたのだった。
父が先週の木曜、母の実家に顔を出して、話をした。そこで、標題の話になった。
母はそのまま実家に居るだろう。父は神戸にいる父方の祖母、および父の姉の面倒を見るため神戸に帰ることも検討しているらしい。妹は嫁に行っている。僕も一人暮らしをして、その後結婚を考えている。実質上の、一家離散となるだろう。
今こうして、キーボードを打っている家には、20年近く住んだことになる。僕の後ろには、まだ妹が寝ていた二段ベットが残っている。この家も、来月には売りに出さなければならない。
色んな事があった。色んな事があった。たぶん、誰にも悪気は無かったように思う。全てが食い違っていった。何が悪かったんだろう?
* 祖父が父を会社Aに誘ったことが悪かったんだろうか?
* いやいやそもそもハワイで出会っただけの二人が結婚しようとしたのが間違ってたんだろうか?
* 祖父が父に社長を押しつけなければよかったんだろうか?
* 僕がもうちょっとうまくやれば、両親はもしかしたら、うまくやれる日が来たかもしれなかったんだろうか?
* 会社Aが倒産した後、親父が20万しか稼げなくても、俺が中学を辞めるなりして勤め始めれば良かったんだろうか?
* 会社Bが出来た後、俺も今の会社じゃなくて親父の会社の手伝いをすれば良かったんだろうか?
どこで間違えたかはよくわからない。ただ、親父は起業後、毎朝5時半に起き、一日も休まず会社に行き続けたし、母親は毎日美味しい料理を作り続け、たとえば僕や妹の愚痴なんかも受け止めたりして、祖父もその後起業して親父に仕事を回したりして、祖母もそもそもこの家を買い取ってくれたりもして。
色んな人が、色んな事をやって、それでもダメだったときは、いったいどうすれば良かったんだろうか。
ようやく、泣きそうになってきた。どうすれば良かったんだろう。ほんとうに。
そんなことを振り返る。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。
お袋は既に別居して実家に戻っており、先週木曜にそのような話をしてきたそうだ。自分は親父と同居している。今年で27になる。そろそろおっさんだ。結婚も考えてる。
家は、借金の担保に入っており、売ることになるそうだ。不渡りは今のところ出さなくてもいいそうなので、倒産というよりは、廃業という形になる。
話を聞いたときは、来るべき時が来たかと思った。正直、そこまで動揺はなかった。
しかし、自分という人間は頭が悪い。しかも鈍い。だから、いつもこういう「ショック」な出来事は、聞いた瞬間はうまく感情の処理が出来ないらしい。あとからじわじわ沸いて出てきて、長期間にわたり体調を崩す、そんなことはもうごめんなので、はてな匿名ダイアリー、通称増田に自分の感情を書き綴って、整理をしようかと考えた。
そんなことはチラシの裏にでもかけよ、というのもごもっともだ。ただ、一つの人生のサンプルとして、もしかしたら誰かの役に立つかも知れないとも考えるので、増田に書いておきたい。一石二鳥が好きなんだ。せっかく書くんだから、ってことで。そのくせ、感情の整理の為に、一つ一つを思い返して書いていくからそれなりの長文になると思う。しかも、たぶん結論なんてない。不愉快に思った人は、ここらへんでブラウザなり、タブなりを閉じることをおすすめする。
最初に親父の会社が倒産したのは中学一年、1995年だった。文化祭を謳歌していた僕は、親から倒産の報を受け取った。しばらく家を離れているようにとのことだった。
家に帰り、荷物をとり、母、妹、僕の三人で成田空港まわりの安いホテルに泊まった。平日だったので、安く泊まれた。
その時僕は、ひたすら星新一のショートショートを読んでいた。あの短く、そしてあのライトな皮肉のこもった文章ですら、どうにも心がざわついて、読んでるうちに気持ち悪くなったことを覚えている。
一方、親父は、会社更生法認可後の後処理に走り回っていた。混乱の無いよう、このときの会社をA、今日廃業が決まった会社をBとする。しばらくAの話をする。
そもそも、「親父の会社」と書いたが、父が社長になったのは倒産する一年前の事だった。その前は、母の父、僕の祖父が社長を務めていた。
親父が僕の母親と結婚した際、母の父である祖父が「是非うちの会社に来てくれ」と何度も頭を下げて頼みに来たそうだ。今でも「あのとき断っていたら、今頃どうなっていたろうな」と親父は振り返る。
そして、親父が会社Aに就職して十年が経ち、製造業だった会社Aは円高の影響を受けて苦しい状況になる。その中で、アメリカにも会社を作ることとなる。その時点で、会社は東北と関東に分社化しており、関東社長を祖父、東北社長を叔父(母の弟)が勤めていた。アメリカにも会社を作ると言うことで、その社長に叔父が就任することとなった。空位となった東北の社長に祖父が就任、そして空位となった関東の社長を誰にしよう、という話になった。親戚類で、社長になれるのは親父しか残っていなかった。代表者として、自宅を、会社借金の抵当にいれることになった。
その一年後、会社Aは倒産する。名目代表は、関東社長である親父になっていた。数社来たテレビや新聞のカメラの前で、親父は深々と頭を下げた。
その後親父は、会社更生法の申請、アメリカ会社の存続(他の会社に買収して貰った)、会社整理などに駆けずり回った。あの頃、親父は「家から出るのが嫌で嫌でしょうがなかった」と言っていた。債権者からは怒鳴られ、従業員からは責められていたそうだ。家は、競売に掛けられた。資産があった祖母に競売で買い取って貰ったが、その後祖母には家賃を納める事になった。
祖父と叔父も代表権を持っていたため、家を売ることになった。叔父はアメリカに既に家があった為、日本の家を売っても問題はなかった。祖父は、祖母が会社Aの出資者として役員をやっていたため給与を数十年貰っていた貯金があり、家を買い戻すことが出来た。祖父は既に年金を受け取っており、叔父はアメリカの会社が存続できたため社長として仕事を続ける事が出来た。倒産の際、一番苦労をしたはずの親父には職が残らなかった。持ち家も無くなった。結果として割を食ったのは我が家だけとなってしまった。
問題は、親父が無職になった事だった。他の会社から「うちで勤めませんか」というお話をいくつか頂いた。が、我が家は差し押さえの対象となっていた。20万円の給料を貰った時点で、それ以上は差し押さえられてしまう状態だった。
説明すると、家は競売に出されたが、他の家具なども差し押さえるかどうかという話になった。が、持ち出す費用、売る費用考えると、ということで家具は差し押さえられずに済んだ。しかし、親父の給料は、20万以上の給与を貰った時点で差し押さえられる、という事になった。
よって、給料を貰えば、一家の収入は20万しかない。うち10万は祖母に家賃として納めなければならないため、一家四人で10万で暮らすのは、学費含めてやや不可能に近い状態だった。やや、と書いたのは、不可能ではなかったからだ。しかし、社長令嬢でもあり金の少ない暮らしには耐えられない母親が、10万円での暮らしに耐えられたかどうかは、正直厳しいところだったと思う。思えば、これが最大の問題点だったのかも知れない。
そこで親父は、起業をすることとなる。それが会社Bだ。会計上、母を名目上の社長に据えて、母親が給料を受け取る仕組みにした。これならば、差し押さえられることもない。
そこで、家を担保に入れて借金しながら、どうにかこうにか年収600万前後の収入を15年間その後親父は稼ぎ続けることになる。それは、来月で終わるわけだが。
そして、この家も、借金の担保に消えて、売らなくてはいけなくなったわけだが。
端的に言って、親父とお袋の性格相性は最悪だった。たびたび皿が飛び、怒号が鳴り、もうどうしようもなかった。
まず、横浜の社長令嬢だった母親と、大阪でどん底の貧乏から這い上がってきた親父とでは、そもそも金銭感覚も生活感覚もずれていた。二人は、ハワイで知り合い、その後親父が大阪から横浜へ熱烈なプロポーズをしにいき、それをお袋が受け入れる形で結婚した。お互いの性格をちゃんと確かめなかったのも、こういった状況の一端だったろう。
自分はそれこそ5歳ぐらいのころから、両親の喧嘩の仲裁をしてきたことを思い出す。自分は両親が好きだった。両親の言い分はどちらも理解出来た。そして、なぜ、人によって見える世界がこれほど食い違うのかと繰り返し繰り返し思った。端的に言えば「絶望」といった形なのだろうが、そんな言葉を理解出来ないころから、お互いの言葉を通訳して相手に伝える、というようなことをしていた。そのころは、まだ二人が仲良くやっていけるものと、どうにかいい方法があるはずであると、信じていた。
自分にとって、お袋は怒りっぽくて片付けができないけど、優しくて感情豊かで料理のうまい母親だった。
自分にとって、親父はクールでデリカシーのない人間だけど、いざという時には頼りになる、一家の大黒柱だった。
その二人が、互いの事をひどく罵り合うのを聞き続けた。今でも一番聞きたくない言葉達だ。それでも、二人はその文句を理解してくれる人間が僕しかいないということで、ずっとそれを僕に言い続けた。今でも、言い続けている。
両親の仲は「当然」1995年の会社A倒産以後さらに悪化する。親父はどこかで「あのとき会社Aに入らなければ」「倒産の時の一番の被害者は俺だ」と思ってるし、お袋はお袋で「起業するのはいいけどなぜ母親(僕の祖母)の持ち物である家を抵当にいれるの?」と思っていた。悪化しないほうが無理というものだった。
それでも、お袋は「自分に出来ないことはない」とどこかで思っている節があり、関係修復しようと親父に話しかけた。しかし、やはりその話し方は非常にぎこちなく、結果として高圧的で、それこそ親父の状況を見ずに話しだすようなやりかただった。そして、そのやり方は親父が一番嫌う物だった。親父は押しつけが嫌いであり、お袋は押しつけあうことこそがコミュニケーションだと考えていた。
親父とお袋の仲を修復しようとする「不可能」に対して母親は挑み続けた。結果、余計にストレスをため込むようになった。また、会社Bで借金をする度に祖母に僕の自宅を抵当に入れてくれと頼みに行く(会社A倒産後、僕の自宅を競売で競り落としたのは祖母なので)時も、「あなたの勝手に私の母親を巻き込まないでよ!」と、たびたびヒステリーを起こすようになっていった。さらに2008年以後会社Bの経営が悪化すると、母自身が無職であることによる生活への不安感で、よりストレスをためるようになる。父が休日家にいると「テレビ見てる暇があったら営業に行ったらどうなの!」と怒号を発し、それが喧嘩の発端になることも度々だった。
そんな中、極度のストレスの結果か、母は大動脈瘤を患うこととなった。2009年、冬の事だ。
いつ動脈瘤が破裂するか分からない、しかし妹は既に嫁に行き、父と僕は勤めにでていて平日は母の様子をみられない。なので、母は実家に帰ることとなった。その後、母は快方に向かう。母は、父と顔を合わせているだけで、体調が悪化するという状態になってしまっていたのだった。
父が先週の木曜、母の実家に顔を出して、話をした。そこで、標題の話になった。
母はそのまま実家に居るだろう。父は神戸にいる父方の祖母、および父の姉の面倒を見るため神戸に帰ることも検討しているらしい。妹は嫁に行っている。僕も一人暮らしをして、その後結婚を考えている。実質上の、一家離散となるだろう。
今こうして、キーボードを打っている家には、20年近く住んだことになる。僕の後ろには、妹が寝ていた二段ベットが残っている。この家も、来月には売りに出さなければならない。
色んな事があった。ここには書けないようなことも。たぶん、誰にも悪気は無かったように思う。全てが食い違っていった。何が悪かったんだろう?
どこで間違えたかはよくわからない。ただ、親父は起業後、毎朝5時に起き、一日も休まず会社に行き続けたし、母親は毎日美味しい料理を作り続け、たとえば僕や妹の愚痴なんかも受け止めたりして、祖父もその後起業して親父に仕事を回したりして、祖母もそもそもこの家を買い取ってくれたりもして。
色んな人が、色んな事をやって、それでもダメだったときは、いったいどうすれば良かったんだろうか。
ようやく、泣きそうになってきた。どうすれば良かったんだろう。ほんとうに。
そんなことを振り返る。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。
結構前に、2chでSFもののショートショートを書いた事がある。内容的には、「イノベーションが起こる速度が人間の理解速度を超えたらどうなるか?」という思考実験的なもの。昨日と今日は別世界、のような状態になるというか、それ以上にイノベーションが加速していく様なイメージ。(とりあえず、便宜上、イノベーションの自動化というか、発明する機械(コンピュータ)が勝手にイノベーションを起こして、世界が勝手に加速しながら改善されていく感じにしてみたが)
もちろん、エヴァのスーパーコンピュータとして進化する使徒を思い出された方もおられると思うが、あれのオチは「進化の促進による自滅」だったが、俺的にはもうちょっと希望の持てるハッピーなオチにしたかった。某犯人もその影響を受けたという話もあったし。でも、オチがなかなか思いつかなくてちょっと悩んだ。仕方がないので、むりやり、機械がイノベーションの速度を人間が快適と感じる速度に合わせるイノベーションを行った的なものを漂わせる残念感の漂うオチにした。意味不明だという感想をいただけた。自分でももっともな話だと思った訳だが。
それで、Tumblrで下のような記事を見つけた。
19 :名無しさん@十周年:2009/10/16(金) 17:55:02 ID:MVkpniAp0
専業主婦が一般的だったのは高度経済成長期の数十年、たった1世代でしかないという事実
よくあることなんだけど、今現在の社会的な慣習を永続的なものだとみんな勘違いしちゃうんだよ。
みんなでクルマを持つようになってまだたった1世代。
腕時計をするようになって1世代だが、携帯のせいで売り上げが3分の1に激減
社会人のたしなみと誰も疑ってなかったはずのものが、1世代であっけなく終了。
タバコと酒の消費量は戦後で1人あたり5倍くらいになってて、今みたいにパカパカ摂取するようになって1世代。
(だから健康被害とか出てくるんですよ。当たり前やがな)
バカみたいな飲み会とかやってたのは実は団塊だけ。タバコは今のペースならあと0.5世代で滅ぶ。
自由恋愛も1~2世代ですよね。だいたい告白という風習が少女漫画から広まったものじゃなかったっけ。1世代。
日本女性がブラジャーをつけるようになって1.5世代くらいか。
ほかにも「実はたった1世代」ってモノや慣習は無数にある。ちょっとこの事実にお前ら恐怖したほうがいいです。
だからまあ、なんも考えず親世代の真似をしようとするのはやめろ。無理だから。
親の言うことも聞くな。だいたい親もこの辺のこと分かってねえから。愚者は経験に学ぶ。しかもたった1世代の。
終身雇用なんてギャグだし、ローンで家建てる前に経済誌でも購読するべきだし。
ブルーカラーやホワイトカラーどころか、最近はゴールドカラーって新しい職種が出てきてるなんて言われている。
せっかくなのでこれも
ttp://d.hatena.ne.jp/nishiohirokazu/20090401/1238588872
> * ラジオ 38年 * テレビ 13年 * インターネット 4年 * iPod 3年 * Facebook 2年
変化に対応できないと、ものすごい勢いで取り残されてしまうよ。簡単に墓場まで逃げ切れると思うな。
そして、今さらながら、上記記事で引用された記事の別の部分の引用。
2010年に需要のある仕事上位10位は2004年にはまだ存在していませんでした。
まだ知らない問題を解く仕事に備えて。
なんというか、人並み程度の自分が妄想していたものと違った形で現実世界の実感として感じられると、ぞくぞくするものがあるというか、気分は孫悟空だなと思った。
うまいオチを付けてくれる人がいれば良いんだが、と思ったが、希望はあるかも。(と明るいオチにしてみた)
もしあなたが中国で「100万人に1人の逸材」なら…
あなたみたいな人が国内に1300人います。
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名探偵登場
招かれざる客
ブレックファスト・クラブ
ザ・インターネット2
イッツ・ブラック・エンターテインメント!
ジミ・ヘンドリックス 〔スペシャル・エディション〕
腰抜け二挺拳銃
レポマン
荒野のストレンジャー
疑惑の影
エドtv DELUXE EDITION
宇宙戦争〔2005年〕
遊星からの物体X
ミステリー・メン
ブルース・ブラザース2000
光る眼
さまよう魂たち
ヘルハウス
オペラ座の怪人〔2004年〕
夢
悪魔を憐れむ歌
HANA―BI
明日に向って撃て! 特別編
ザ・ガーデン
シザーハンズ 特別編
ロッキー・ホラー・ショー 特別編
書を捨てよ町へ出よう
ワイルド・ワイルド・ウエスト 特別版
2300年未来への旅
裸のランチ 特別版
痩せゆく男
ワイルドバンチ 特別版
虚栄のかがり火
カサブランカ 特別版
理由なき反抗 特別版
A2
ユーリ・ノルシュテイン作品集
イジィ・トルンカ作品集 vol.1
狂気のクロニクル
蟲師 其ノ1
リトルロボット/インベーダーがやってきた
スペース・レンジャー バズ・ライトイヤー/帝王ザーグを倒せ!
あらいぐまラスカル vol.1
ウォーリー
病気/笑いの不条理劇
ゲゲゲのげ/逢魔が時に揺れるブランコ
かつて、この街には何もなかった。何も決まりのような物はなかった。
強いていえば、元来この街は他の街のルールでは暮らせない、暮らせなかった流れ者たちの街だった。
だからお互いに今ここに居ると言う事情を察し、そこにはけして深入りしないのがルールだった。
だからそこには緩やかな連帯があり、独特の自由と住み心地があった。
しかし、その住み心地を聞きつけて、いささかこの街に流れ人が増えすぎてしまった。
そうすると変な連中もやって来た。ここで上手く商売を始めれば金になると踏んだ連中だった。
彼らはこの街の真ん中に塔を立てた。大きな塔で、そこで毎日音楽を流した。音楽のほかにも色んな物を流した。
この街の新しい音楽。新しい挨拶。新しい踊り。新しい人気者。新しい話題。そういった、新しい文化が絶え間なく流れた。
当初、この街の旧い偏屈な流れ者たちは、これを取るに足らないものだと相手にせず、楽観視していた。
そういったものを受け容れたくない者達の街でそんな物が流行るわけが無い、素晴らしい徒労に終わるだろうと。
しかし現実は違った。この街は新しい文化を喜んで受け容れる人達で溢れた。
この街だけの新しい挨拶が溢れ、新しい音楽に合わせて新しい踊りを覚えようと練習する人達で街はいっぱいになった。
どうしてこうなった。旧い者達はなんともいえない居心地の悪さと戸惑いを覚えた。
しかし、その時には自分たちは既にこの街の中でも、「また乗り遅れた、落ち零れた」少数派になっていることに気付くにはもう遅すぎた。
今度こそ乗り遅れなかった、落ち零れなかった物達は今度こそこの街で受け容れられた喜び、新しい街を作っていく喜びで満ち溢れていた。
だから、出て行くなら落ち零れたもの達の方なのだろう。
サンドイッチに野菜を挟む仕事と言えば、自殺した犬丸りんのショートショートはもっと評価されるべきだと思うな。
バイトでサンドイッチ屋さんで働く女の子。きちんとハンバーガーみたいにしっかりと具を挟むんだけど、オーナーは
「それじゃもったいない。<記号のように、お客に見える側にだけ挟め」って要求。
貧乏ったらしいので従わず、やりあってる。
でもお互い言いたいこと言い合っていて仲良くなり、ケコーンまでいってしまう。
主人公(語り手)が「その後、どうなったの?具」と聞くと、
「自分の店だと思うと、ねぇ(微笑み)」で終わり。
寝坊した私は焦った。
私はすっかり慌てふためきマッハの速度で、30秒のうちにマンションを後にした。
化粧は、
これはやりたくなかったが
起きぬけに急に動いたせいで吐き気がしたが
そんな事にかまってはられない。
駅を通り過ぎた向こう側に、
それからというもの、駅周辺は賑やかになった。
まだ駅手前でないからマシなものの、駅構内は混雑を極めるのだ。
マンモス急がなきゃ。
カツカツと鳴るヒールに私はとめどなく付いてゆく。
憧れの先輩目指して長年くじけていたダイエットに成功してからだ。
それと同じように私は目標を持って、目の前の人を追い越す作業に没頭した。
高いヒールのせいで足首がぐんにゃり曲がったが気にする所の騒ぎではない。
ふと、気が付くと私の数メートル前をバーコード男がそれに似合わぬ速さで闊歩していた。
(このおっさん、同士だな。)
そう思った私はバーコードを追い抜く事に決めた。
だが、向こうもかなり急いでると見えてなかなか追い付けない。
私は小走りになった。
カツカツと響く足音
振り向く人達
するとどうだ
私の足音に急かされるように
バーコードも小走りになったのだ。
(負けてたまるか)
男まさりの私の逃走心に火が付いた。
私は徐々に速度を早めた。
気付かれないように足音を小さくする配慮もした。
気分はチータだ。
バーコードを狩るチータは確実にしかし慎重に
ひたひたとバーコードを捉え、追い越した。
すると次の瞬間、
全速力で私を追い越すバーコード。
負けるものかと私。
バーコードと私
私とバーコード
部屋とYシャツと私
追いつ追われつの
追われーの追いーつの
(死んでも追い抜いてやる。)
手段が目的にすり替わるのもいとわず
私は鬼のようにダッシュ!
バーコードを追い越す瞬間、チラリと振り向いてみる。
すると彼の目は炎と燃え、私の目玉をくり抜かんばかりの気迫を見せていた。
が、もう私には追い付けまい。
してやったり。
よっしゃとガッツポーズを取って
もう一度、敵を振り返る
なんという事だ。
敵は大きなビルに吸い込まれていき
私の遅刻は確定した。
じゃあこういうのはどう?
星新一のショートショートであったんだけど、宇宙飛行士を目指す2人の少年がいて、一人は運動も勉強も得意、もう一人は勉強だけ得意。両方得意な子はさらに努力に努力を重ねて、大学卒業時には宇宙飛行士候補として事業団へ就職が決まった。卒業式で自分の血のにじむような努力を思い出しながら、勉強しかできなかったあいつを思い出す。あいつも宇宙への情熱はおれに負けてなかったんだけど、運動がダメだったのが残念だったよな、、。あいつは今何をしてるんだろう? おや、今壇上で卒業生代表として卒論を読み上げてるのはあいつじゃないか! どれどれ、最後の部分だけでも聞いてみるか。
ジン「というわけで、そろそろ信じてもらえたかな」
アルファ「あんたが宇宙人で、退屈なのでひまつぶしにこっちにきて、出会った人間の願いを聞いているということをか?」
アルファは自分の手の中のランプをもてあそびながら答えた。先端はワームホールというものでできているらしい。
アルファ「信じないわけにはいかないだろう。」
ジン「そうかそうか、じゃあ早く願い事を考えてくれ。」
アルファ「とは言ってもなぁ、特に欲しいものもないしな。やりたいことはすべてやりつくして、退屈なので遺跡を発掘していたらこのランプ……まぁ、あえて例えるならランプかな、というへんな代物だが……が出てきたわけなんだ。」
ジン「まぁまぁ、俺はお前らより科学力があるということを忘れているだろ。お前らが自力でできないことでもできるかもしれないぜ。」
アルファ「うーむ、宇宙旅行とかしてみたいけどなぁ。宇宙に出るのは怖いんだよなぁ。地球にいるままで銀河の別のところに移動できたらいいんだが。」
ジン「それならやったことあるぜ。自分の星からの景色を見飽きたんで、別の太陽系に星ごと運んだんだ。連星の惑星になるとかどうだい。結構見物だぜ。適当な位置に下ろせば平均気温は変わらないしな。試してみて嫌だったら戻してやるし。」
アルファ「そうか、それは面白いかもしれない。じゃあそれでお願いするよ。」
それがアルファの最後だった。
ジンは知らなかったのだ。ケーキの入った箱は振り回してはいけないということを。
唐突に思いついたので書いてみました。ショートショートを書くのは始めてです。
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個人ののblogやmixi、2chですら書くのが憚られるので増田に投稿。
どんなの?と言う人は自己責任で検索してみて下さい。
簡単に説明すると同人やネット、ニコニコ動画で有名な「ゆっくりしていってね!!!」の
キャラクターをひたすら虐待する作品群。漫画、動画、イラストからSS(ショートショート)まで。
「あぁ、なんか流行っているなぁー」くらいだったのだが、この虐待作品群のおかげで元キャラまで把握出来る様なってしまった。
私は猟奇モノやレイプ系の作品、その他人や動物を虐待する設定が好きではない(ほぼ大多数の人間がそうだろう)。
あまりの気持ち悪さに暫く「うぇぇ」と唸ってしまい、思わず眉を顰めたくなるようなモノだった。
何故私も含めて多くの人が(海外の掲示板でも1ジャンルとして存在する)ハマるのか色々と考えてみたけれど、
下記のような設定が次々と登場する点があると思う。
先ず設定が面白い。
と言うような設定がされている。
このような免罪符がある事で、「家に勝手に入ってきたゆっくりを懲らしめる」と言う図式が簡単に出来上がっている。
虐待派が出て来たのがゆっくりAAが流行った後なので、偶然なのだろうが非常に良く出来ているなぁと感心してしまう。
多くの人は「人間の形」をしたモノを虐待するのは精神的に無理だろう。
ところが、ゆっくりは生首のような体であり、体の中は餡子である。
そうは言っても「こんな酷い事をするなんて!」とお怒りになる方々も多いだろう。
けれど、そうした方々も現実では牛・豚・鳥・魚・野菜を食べているはずだ。
ゆっくりもたまたまた人語を話すだけで(この点が虐待精神を刺激するんだろうけど)基本食物である。
しかも空想でしか存在しない。
もし、牛・豚・鳥・魚・野菜が人語を理解し話していたら人間は発狂するだろうな、と思った。
牛が解体工場で頭からボルト?ようなモノで貫かれて解体されていく動画をyoutubeか何かで見たときは衝撃だった。
だが、牛は人語理解しないので、解体してスーパーにパック詰めで売られて食卓に上っても「いただきます」と言われて終わりだ。
良くある話かもしれないけれど、人間よりも数倍大きい生物(恐竜でなく人語を理解する異性物)が居たとしたら
今まさにゆっくり虐待を楽しんでいる自分も同じ立場になるんだろうなぁ、と思いうすら寒くなる。
ゆっくり虐待SSをほぼ全部読み、海外での漫画やイラストを探しながら日々の食卓に感謝をしなければならないなぁと思った。
うまくまとめようとしてゆっくりした結果がこれだよ!!!
私はお義母を許しません。
お義母さんは私を産んでくれました。
でも私のことを少しも分かってないので本当の母親ではありません。
お義母さんはよく私のことをけなします。
「もっと勉強しなさい。あんたは人の倍やってようやく人並みの成績なんだから」
お父さんからあなたの高校時代の成績を聞きました。
私は自分に出来ないことを他人に強いる人間は大嫌いです。
「どうして嘘つくの!?本当にろくでも子ね!」
本当のことを言いたくないだけ。言ってもわからないから。
「産むんじゃなかった。あんたなんか。」
あなたから生まれたわりには上出来だと思うけど。
でもそのことで私は別に怒ってない。自分がけなされるのはなれてるから。
学校に行けばもっとひどいことを平気で言う人がいくらでもいるし。
私が許せない理由は他にある。
あなたが日常なにげなくあの一言
どんなに私の心を乱しているかわかりますか。
何もかも忘れて1つのものに夢中なったことなんてあなたはないんでしょうね。
今日私は自分におまじないをかけました
もう一度お義母さんがあの言葉を口にしたら私はあなたを殺します。
おまじないって不思議ですね。今はとても気持ちが楽です。
あんなに聞きたくなかったあの言葉。
あなたが口にするたびに怒りと悲しみで全身がバラバラになりそうほどのあの言葉。
それが今ではいつあなたが言ってくれるだろうとワクワクしながら待ってます。
新しいナイフを買いました。なるべく苦しまないように殺しますね。
明日は新刊の発売日です。
だから明日はきっと言ってくれるでしょう。
「そんなくだらないもの読むのはやめなさい。」って。
ps今日ミザリーという映画を観ましたがどこがこわいのか私にはわかりませんでした。
できの悪い娘より 最低の母親へ
何かある?ってバイト先の社員に聞かれた。いあ、特にありません。としか答えられなかった。
漫画読むのも本読むのもゲームするのもホームページ更新も日記書くのも音楽聴くのも
小説書くのも映画見るのも旅行行くのもぜーんぶ時間潰し。料理してみたり絵描いてみたり
スポーツしてみたりギャンブルに手出してみたりお洒落なバーで飲んでみたり岩盤浴
行ってみたりスウィーツバイキング行ってみたりピアノ弾いたり買い物してみたり公園で
ぼーっとしてみたりライブいったり資格の勉強したりどれか一つでも気が向くかなって思っ
たけどそんな熱中するものって特になかった。
唯一この中でホームページ作成なんかは中学の時に熱中してタグ覚えてできるように
なったことだけど、もう今となっては過去の知識で、FLASH作ってみようとか
小説も書くのは好きだけど、ショートショート的なものしか書けない。
夢中にならないから書けないのかな。
「夢中になってやったのに叶わない、届かない、認められない」って状態が怖いんだろうか。
あーあ、何にもない。
でも何か自分にもやりたいことや興味のあることがあるはずって思ってもう大学4年。
就活も途中でやめてしまった。秋採用に応募するかはまだ決めてない。
でも明日死ぬって言われたら何で今まで何にもしてこなかったんだろうって思うなぁ
何か見つけなきゃ、何かしなきゃ、って思う。
就職だってしなきゃいけない。だって生きてくためにお金は必要だもん。
自分探しってのは居場所を探すことなんだよって知り合いのお姉さんが言ってたけど
私も探してるのは好きなことじゃなくて自分のいられる場所なのかな。
手塚治虫といえば読み始めたころはもう大御所だったし、人格者、ヒューマニスト、というイメージがあったのだけど、ラジオでインタビューをされていて、NHKの朝の連ドラを「くだらない、くだらないw」とけなしてたのね。それはもう嬉しそうに、まさに見下しているという態度以外の何物でもなかった。
「で、僕、なんであんなくだらんものを毎朝見てるかといえば、あの引きを見てるのね。」と言ってた。つまりショートショートの結末、みたいなものの参考にしてるんだ、と。それ以外の価値はないよと。
この人は人の悪口をいわない人だと思っていたし、穏やかな人格者だと思っていたのでかなりびっくりした思い出がある。何もわざわざ人の作品の悪口を自分のインタビューで言わなくたっていいじゃないかと。他の事を話せばいいのに、と。
でも今はそういうものなのかもしれないなあと。手塚が変な人だという意味ではなく(いや変な人なんだろうけど)、何となくそれでいいんじゃないかと思う。
手塚のいくつかの作品はあれってところも多いし、「海のトリトン」なんてもう人間の悪意丸出しで、うわぁきもちわるい、というくらい暗いんだけど、そういう暗さが手塚の本質の一部である気がしてるし、その反面もあるし、だから描き続けられたんじゃないかと思う。ブラックジャックは、今は認められない描写があちこちにあるけど、思春期に読んだときは感動したし。
まあうまくは言えないのだけどそういうもんだよなと。