はてなキーワード: コーチングとは
http://anond.hatelabo.jp/20111209095945
ライフハックとか自己啓発とかの記事の中には、単に昔から上司が部下に教えてきた「普通の仕事の常識」のポイントをまとめたものにすぎないものも多くって、それって、どこが啓発でどこがハックなんだよ、単なる新入社員教育じゃん、みたいなところがある。
fromdusktildawnさんのこれは名言やなぁと思う。
というわけで、ライフハック好きの人たちのために「色々漁るよりまず基礎固めしろ」ということで新入社員をターゲットとした自己啓発書をおすすめする。
良書に特徴的なのは「上司の単なる言いなりのロボットではなく、会社から必要とされる人間になるためには何が必要か?」という問からスタートしていること。
それに対して、「まず会社という環境で自分の居場所を確保せよ」「まず存在を認められる何者かになれ」ということを目標に掲げ、そこから応用していく仕組みになっていく。
この2つについて、読んで満足して終わり、のスローガンではなく、実際にステップを踏んで実践方法を書いてある。
新入社員だけでなく、未だに会社で居場所がない、何者にもなれない、と感じる人間は大勢いて、そういう人はライフハックを求めているのだと思う。
難しいやつは読んでも実践できないだろうから、まず「ライフハック入門編」「ライフハックを実践できる自分の確立」を目指してこういうところから読んで行かれると良いと思う。
自己啓発目的なので、考え方やコミュニケーションを中心にして、「マーケティング」や「会計意識」などについてはあえて削除してます。
http://www.amazon.co.jp/dp/4480878181/
新人にとって最初にぶつかるであろう社内コミュニケーションに関する話が中心の本。
自分の立場をしっかりと確保するための戦略について述べられています。
http://www.amazon.co.jp/dp/4478015422/
酒井譲さんの「リーダーシップでいちばんたいせつなこと」とどっちかで迷ったけどこちらをチョイス。
ちょっと要求レベル高いです。自己裁量で動き、成果を挙げるところまでについてのアドバイス。
http://www.amazon.co.jp/dp/4479300554/
この本でなくても良いです。なんでもいいので、最低1冊はコーチングの本を読みましょう。
書いてる内容が直接役に立つことは少ないでしょうが、
自分の心に問いかけ、気持を開示することによって、自分の意識を変えうることは知識として持っておきたいところ。
自分だけでUnlearningが出来るかどうかは人によりますが、他人やツールの力を借りればだれにでも可能です。
行き詰まったときなどに、このことを知っていると必ず力になります。
「自分がやるべきこと」と「自分のやりたいこと」の区別、すりあわせなどもコーチングの得意分野です。
http://www.amazon.co.jp/dp/4422100513/
定番ですが、本当に本書に書かれていることを実践すれば効果があるのだから仕方が無い。
これは新入社員の時にこそ読んでほしい。力がないからこそ真剣に読めるはず。
Wikipediaとかで項目だけ読むのはNG。ちゃんと本に挙げられている実例とともに読もう。
「人を動かす三原則」「人に好かれる六原則」「人を説得する十二原則」「人を変える九原則」とありますが、新入社員にとって重要なのは前の2つ。
まず「人を動かす三原則」だけを10回くらい繰り返し読むべし。これが身につくまで先に進まないほうが吉。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4766416244/
あえて「学問のすすめ」ではなくてこちらを。実際こっちを先に読むべきだと私は思う。
新入社員である自らを、「列強国に囲まれた日本」「他国と対等に語る手段や言葉を持たぬ日本」といったイメージにあてはめて読むと心にグッときます。
危機感が足りないと思ったらこの本読んで喝入れましょう。
http://www.amazon.co.jp/dp/4569571182/
新入社員にとっての最終関門。
一言で言えば社内で「会社人生におけるメンター」を獲得するための戦略について書かれている。
この本の要求をクリアできれば会社で成功するのはほぼ約束されると思う。
ただ少し古い本なのでアレンジも必要。今は社内にこだわらずWeb上に目標となる人やメンターを見つけるのもよいと思う。
http://www.amazon.co.jp//dp/4561233857/
この本じゃなくてもいいですが、セルフアセスメント(自己評価)のためのツールは何か持ってるといいと思います。
3年ほど前に「さあ、自分に目覚めよう」のストレングス・ファインダーがブームになりましたが、コミュニケーションのきっかけとしても便利なのでお勧めです。
定期的に「客観的な基準で」(社内の基準ではなく)自分の棚卸をする習慣がないと、会社の中で腐る危険があります。
http://www.amazon.co.jp/dp/4904336275/
セルフアセスメントとのバランスとして、組織のアセスメント手法も学んでおくとなおグッドです。
ジョブズを絶賛しているような人はアップル社は客観的に評価するとどういう会社なのか、などがわかって楽しいでしょう。
ただちょっと値が張るので、組織文化の分類にどんなものがあるのか、とチェックシートだけを立ち読みするくらいでいいと思います。
一方、読むべきでない本
タイトルからはわかりにくいですが採用活動に関するアドバイスの本です。
悪いことは言わないから読むのやめておこう。確実に胸糞悪くなります。
この人も中小企業のオーナーであり、また採用活動のアドバイザーです。つまりきれいごと理想が高いです。
自らの採用スキルの高さを強調し、自社のブランド価値を高めたいのはわかるけど、基準に満たない学生の扱いがひどいことになってます。
ただ、一般に上の人は新入社員をこういうふうに見ているということは嫌というほどわかるでしょう。
自然な出会いだと、生育環境が極端に違う人は近くにやってこない法則があるから、再婚願望があるならそういうの飛び越えられる状況に身を置くのが大事じゃないかね。
増田の場合は年上すぎるくらいも視野にいれた方がいいかもしれんよ、余裕があって。
あと、話すときの言葉遣いと立ち居振る舞いに気をつけると、虫除けになるよ。
言葉遣いひとつ、食べたあとの食器の状態だけで、別世界の人間だなーと思う事があるっていうのは、未婚の同級生談。
努力家、料理も出来て、力になりたいなーと思わせる文章力もあって、貯金の才能もあるようだし、話聞く限りでは男運だけ悪いみたいだけど‥。
それってつまり、教え手が「十分に適切なコーチング能力を持った理想的な教師」でない限りは自分の独学のほうが効率的に違いない、ってことだよね?
恐れ入ったぜ
いや、間違ってる云々と言いたいわけじゃなくて、その尋常ならざる独学への自負は何に裏打ちされてるのだろうと思っただけだよ
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110901/1314876472
この記事に関する違和感をようやく理解。
この人と私では同じ現象を見ても、根本的にみる軸も方向性も違うのだ。
「自己嫌悪につぶされるくらいなら自分に優しく」というだけのことを言うために
こんだけ人をボコスカに貶めなければいけない人というのは、戦国時代ならともかく現代では生きづらそうで気の毒だ。
気の毒なだけならともかく、そのボコスカ部分をを敷衍しようとかしてるなら母親以上に有害な存在になりかねない
(文章中から判断するに今のところそこまでは考えてないっぽいが、今後も周囲から理解されてないと感じ続けたなら原理主義者に化ける素質は十分ある)
いわゆるこの手のタイプ > http://homepage1.nifty.com/eggs/iryou/gihou/projectiv_id.html
私は彼女が上げている事例を見て、
「自分が嫌われないために気を使う人」なんてどこにいるんだ?と思った。
彼女が敵意を持って恣意的に解釈しているだけで、彼女の母親の行為は彼女の解釈では説明できないと思った。
なぜなら、「自分が嫌われないために気を使う」ことと「身内をぞんざいに扱うこと」はイコールではないからだ。
前者にエネルギーを使いすぎて後者は手抜きしてしまうってもっともらしい説明が書かれていたが、説明として不十分。
さて、この「なぜ?」という問は、どういう目的で問いかけるかによって全く効果が違う。
解決不可能な「性格」を持って結論とする上の記事は、相手を絶対悪に貶めるという意味で非常に気分の良いものでしょう。
そして、その影響により自分の性格も歪んでしまったので、もうそのまま生きて行くしかないという開き直りも自分にだけは心地良いものでしょう。
そういう目的でなされた「なぜ?」は非常にキレイな答えを出してくれます。なんせ変数が相手だけだからね。
でも、その「なぜ?」は常に後ろ向きなアイデアを生み出します。そしてクソの役にもタチません。ただの精神的麻薬にしかならない。
あとこの記事に幾重にも塗りこめられた無自覚な悪意が、ゲロ吐きそうなくらい気持ち悪い。
その後徐々にポロポロと自覚的に悪意を顕にしていってるけど、最初の文章だけでこの人の「普通の人」に対する悪意は駄々漏れ。
どうせ母親が悪い→母親をこんなにした世の中が悪い(そしてその中に自分は含まれてない。私はただの被害者)的な妄想があるんだろう。
基本的に「暗い人間」の書く文章は、よほど洗練されない限り表に出すもんじゃねーな、と。嵐が丘を読み直したくなったわ。
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20110906/1315341364
「教えてもらってない」人が人材を教育した場合、教えてもらってない人に怒られた人が受け取ることは「自己嫌悪」と「萎縮」です。
そして、そうしたことを学んだ人がそうした萎縮や自己嫌悪から来る態度を自然に外に出した時、また人材教育者が怒るという悪循環を繰り返します。
その結果、そうした教えを受けた、本来真っ白であった人はドス黒い魂を受け継いで同じことを他の誰かに受け継がせるのです。
(中略)
それは「気付き」と「考える」ことの不在から来る連鎖でもあったわけです。そうした水を飲ませない体育の授業の構図は今も続いています。
ぶっちゃけ上の記事を読んだ時に「どこの彼氏彼女の事情」だよと思ったし、その他10くらいのマンガやラノベがすぐに頭に浮かびました。
いっちゃなんだが、どこにでもある話である。
もちろん当事者にとってはありきたりのパターンでも大変なことだったことは理解できるが、
そのくせ、これみよがしになされた分析においては、自分の当事者性が欠片も考慮されていない。
母親と自分の関係として捉えるのではなく、母親の異常性だけにクローズアップする少女漫画的な安易な発想。
一見前向きだけれど、レミングスの行進を促しているようにしか見えない記事の結論。
(「私は私のままでいいんだ」ってのは一見救いのヒントのようだけど、そういう考えをこそ母親は心配してたんじゃないの?
それが許されるのは天才だけで、凡才がその道を進むには一度諦観を乗り越えて、報われぬ人生を覚悟の上で選びとる必要があるってわかってんのだろうか
普通の自分に誇りを持って生きるって、そう並大抵のコトじゃないぞ? だから私は「普通」の父親母親を尊敬するが、あなたのことはガキだと思う。)
ガキくさい上に、これが結論と言わんばかりのがんこぶり。
いろんな意味で「若さ」がダメな方向に結晶した記事だと思った。
最後に。
何でも暴力あつかい、何でもハラスメント扱い、何でも差別扱いと、自分と違うものを悪として自分から切り離すと、生きて行けないよ。
この人の文章にはとにかく「自分」が存在しない。「私は私のままでいいんだ」はどこいった
高校卒業前に、こういう「キレイなままでいたい症候群」にかかって自殺まで発展する奴いるけど、さすがに社会人になってこの幼さはちょっと痛々しい。
この記事を読んでもやもやを晴らしておきたかったので書いただけで、もっとも、ただの好き嫌いの問題かつ、年齢の違いに拠るものだと思う。
「私はこの記事が嫌いだ。私は後者の記事を支持する」は、「この記事が絶対的に間違っている」というものではない。
私がこの記事をキライで、著者を軽蔑しているからと言って、他の人にとってこの記事の存在価値がないとは思わないし、著者の人生が間違っていることにはなるまい。
コーチのお客さん(クライアント)にはプロのスポーツ選手や社長さんもいるそうだよね。
目標設定も観察も相手にゆだねるのがコーチング。目標設定や観察をこちらがやってあげるのがティーチング。コーチングでは、クライアントのことを一番知っているのはクライアント自身だし、どうしたらいいかについても、クライアント自身が答えを出せるというスタンスで接する。徹頭徹尾。
クライアントをどこかに向かおうとしてるマラソン選手に喩えるなら、コーチは飽くまで支援のための伴走者で、実際に走るのはクライアント。どこに行きたいのか、どうすれば行けるのか、今どこまで進んだのか、どうすれば障害を乗り越えられるのか、こういったことについて考えるきっかけとなる質問をすることで、クライアントのモチベーションを上げつつ、クライアントが自分のことを自分で考えて自走できるように支援していくのがコーチの役目。
例えば目標を設定するフェーズでは、「今まで一番ワクワクした経験は何ですか」とか「今までで最高の瞬間はどんな時でしたか」とか「今一番したいことはなんですか」とか「1年後に死んでしまうとしたらこれから何をしてみたいですか」とか質問して、クライアントのビジョンが膨らむようにお手伝いする。
描いたビジョンにたどり着けるのか、どうすればたどり着くのかを考えるフェーズや進捗をチェックするフェーズでも、例えば、「どうしたらたどりつけると思いますか」「どんな段取りを組めば良さそうですか」「その計画が頓挫するリスクはありますか」「そのリスクはどんな理由で生じますか」「予防策や発生時の対策はどんなものが考えられますか」「何が障害になっていますか」「誰に相談したら解決しそうですか」「手がかりはどこにありそうですか」なんて質問をして、相手に考えてもらう。
これらの質問に対する答えをこちらからクライアントに提示するのはティーチングやコンサルティングになる。ティーチングも悪いことではなくて、コーチングとの使い分けが大事。あと、自分について自分で考える精神状態じゃない人を助けるのは、コーチングじゃなくてカウンセラーや精神科医の仕事になってくる。
http://anond.hatelabo.jp/20110719114224
怒りが有頂天だったけど、
逆に俺が求めてたものが明確化された。
そこの部分にいくまでの文章が長いから、
最後のほうで
感謝してることをあらかじめ書いておく。
で、
コーチングの話とかは知らないしどうでも良いよ。
そこなんだよ。
あんたはさ、
俺があのエピソードで、
みたいに書いたのだって、
と切り捨ててるんだよ。
あのエピソードが成立した条件について、考えて欲しいんだ。
「たまたま」じゃなくて。
「たまたま」って言われたり、
「そんなの無理」って言われたら終わりじゃんかよ。
まず、俺もレクチャーしてくれた友人も同じ授業を受けた。
俺はよく理解できなかった。
そしたらテスト問題が簡単に見えた。
テスト問題が何を問いたいのかがわかった。
もしだよ?
俺が雑談したのが、
同じ授業を受けていない数学の出来る友人だったら?
数学は出来るが、面倒見のよくない友人だったら?
どうなってたと思う?
どっちともたぶん駄目だったと思うよ。
あるいはブクマで指摘されていたけど、
ここから考えれば、
教える内容を12回に割り振るのと、
どちらが効果的だろうか?
TAは毎回1人を付けたほうが良いのか?
6人を中間と最後の2回の授業に動員したほうが良いかも知れない。
こういうことなんだよ。
俺があんたに食いついたのは、
それなのに、
それなのにだ。
以下の問いが、どんだけ何も考えずにその場しのぎで作ったか、
俺の怒りが有頂天だよ。
例えば、小学一年生に「なんで足し算とか勉強するんですか?」って聞かれたら、どう答えます?(こういう事聞いてくるのは、逆に賢い子だと思うけど)
学部生の「なんで?」が、
同じものだと思ってるの?
だから答えは、
「足し算は基本だ」とか
「足し算ができないと将来大変だよ?」とかじゃないんだよ。
そんなこと小学生でも知ってるんだよ、
小学生なめんなよ。
共感してやれよ。
「テレビみたいの?じゃあ、あと5問やったらいいよ」
とかでいいんだよ。
で、約束通り5問できたら褒めてやればいいんだよ。
学部生の「なんで?」は、
「この概念をどう使ったらいいの?」なんだよ。
目の前の試験を乗り越えたいんだよ。
もちろん「やりたくない」って意味で使ってるのもいるが、
それは置いておく。
で、ここで最初に書いたことが出てくる。
講義を通して、
何を学ばせたいのか?
試験でどういうことを問いたいのか?
それがわかんなかったんだよ。
俺自身がそこを明確に認識していなかった。
あんたが、
そこが明確になった。
「先生はここを重点的に説明してるな」とか、
「この人は、こういうことを教えたいんだ」ってことが、
きっと、わかってたんだよ。
俺自身にも、そのエッセンスを理解するだけの準備が出来ていて、
あんたは、こうも書いた。
俺は別に「あんたが悪い」と攻撃してるわけじゃなくて、線形代数を教える人に「どうしてこれをやるか?」って聞くのは無茶だって言ってんの。「例えば何に使うんですか?」なら、まぁ良いけども。そういうつもりで書いたんだけどな。
わかってない人間ていうのは、何がわかってないかさえわかってないんだよ。
だからちゃんと方向付けてあげないといけないんだ。
「君の質問に答えることは、一応できるけど、
君が本当に知りたいのは、
と聞き返せば、質問に来た学生はきっと目を輝かせるんじゃないかな?
どうなるかと思ったけど、
思わぬ会話になったな。
***
追記なんだけど、
一応、もう一つ、エピソードを紹介したい。
スポーツで、
「足腰を鍛えるのは基本だから、とにかく走って鍛えろ」
と、そういう教え方をする人がいる。
この場合の「足腰」には「心肺能力」という意味も込められていることは、
そこに、例えば、
「1500mを4分台で走れるようになるのが最低条件」
というふうに、何か加えるだけでだいぶ違う。
さらに、根拠をつけるなら、
「歴代のレギュラー選手の90%は、1500mを4分台で走れた」
となれば、さらに「走って鍛えろ」の意味が増す。
俺は、野球をやってた。
今では気晴らしにバッティングセンターにいく程度だが、
行くと、ほぼ必ず見かけるものがある。
ちびっ子がお父さんに叱られながら、
バッティングしてる姿だ。
曰く「脇をしめろ」
曰く「最短距離で打て」
この金科玉条は、
そういう親に教わっている子は、
かわいそうだなと思う。
あまりこれを否定すると、
補足すると、
「脇をしめる(ようなイメージで)」
「最短距離で打つ(ようなイメージで)」
が正しい。
本当にに脇をしめたら、
最短距離で打ちたければ、
この3つでしかない。(配球の話は置いておく)
極論、この3つがうまく出来るなら、
どんな打ち方だって構わない。
上手な人の打ち方は似通ってくる。
似通ってくるが、
素人が見てもわかるように、
それぞれに個性的だ。
高校生の頃、
最も相関性の高い筋力は「握力」だと聞いた。
大学生になって、
全身の筋肉量と最も相関するのが握力だと知った。
全身の筋肉量との擬似相関じゃねーかよ、と。
そんな切ない、エピソードさ。
追追記
ってか、バイオメカニクス的な部分まで踏み込まない。
「プロ選手を調べたら握力が強いほどスイングスピードが速かったんだって」
と聞いて、「相関関係は因果関係とは違う」という箴言を無視して、
と思って、頑張った。
普通に考えれば、全身を鍛えるだろうが、
でも、握力を鍛えるリストカールやハンドグリップはお手軽だった。
だから飛びついた。
で、大学になって、何かが違うことに気付いた。
で、余談だけど、握力が全身の筋力量に相関するのは、
最終的な力の伝達部分が、握力の影響を強く受けるからじゃないのかな?と思う。
数学得意な人は体育の分野にくればいいのにー。
「どうしてこれをやるか?」
「どういうことを知っておくべきなのか?」
そこの部分は「暗記」といっていいのかわからないけど、
記憶してないといけないと思うんだよね。
いやだから、線形代数にこれを求められても仕方ないって話だよ。コーチングの話とかは知らないしどうでも良いよ。
でももし自分が教師の立場でこういう事質問されたら、「例えばこれこれ~」みたいな話はできても、でもそれは教師の趣味以上のことは話せないから。
繰り返すけど四元数の話がテストに出たのはたまたまでしか無いし、線形代数を使ったトピックなんかいくらでもあるから、全然別の話題から試験問題作られてたらどっちみち解けなかったでしょう。
俺は別に「あんたが悪い」と攻撃してるわけじゃなくて、線形代数を教える人に「どうしてこれをやるか?」って聞くのは無茶だって言ってんの。「例えば何に使うんですか?」なら、まぁ良いけども。そういうつもりで書いたんだけどな。
例えば、小学一年生に「なんで足し算とか勉強するんですか?」って聞かれたら、どう答えます?(こういう事聞いてくるのは、逆に賢い子だと思うけど)
http://anond.hatelabo.jp/20110718194705
愚痴続けるわw
最初に絡んだきた奴もさ、
なんか悪口っぽくなってしまうのだけれど。学部生,だと18歳以上とかか,にもなってそのあたりを自分でできないやつがいることが教官には想定外だと思うぞ。
と、書いてきたけど、
この人は、
きっと「コーチング」とか「インストラクショナルデザイン」とか知らないし、
知らないくせに、そのまんまスルーして、
「え、そんなこともできないの?」って書いてきたんだよ。
「お前が悪い」と個人攻撃をする
それが教育上なんの効果を生むの?
一番最初のほうにこう書いてある。
やる気や適性のせいにして、
問題解決のためのアクションをとらないことが多い。
これを個人攻撃の罠という。
「コーチング」とか「インストラクショナルデザイン」を知ってたら、
ああいうことは言ってこない。
知っててああいう文章を書いたとしたら、
俺を貶めたいという悪意があるってこと。
ハンロンの剃刀的に、悪意よりも、
単純に知らなかったという方が事実だろうけど。
まあ、匿名ダイアリーだし、優越感ゲームも多分に含まれてるか。
つい本音出たのかもな。
で、いいかい?
あんた部下を持つ立場にいる人間かどうかも知らんけど、
最初の奴みたいに、
「厳しいこと言うけど、なんでこれぐらいもできないの?」
と部下に言ってみたとして、
その部下が何か改善するの?
「厳しいこと言うけど」と前置きして、
「気を遣って言ってやってんのに!」とか思っちゃうタイプ?
脱線した。もとに戻そう。
元増田はさ、
あまりにも教師が「数学、かくあるべし」に固執した教え方しかしないから、
モチベーションも低下して、
一度ドロップアウトしたんだよ。
どうにかこうにか次の段階に進んだんだよ。
で、俺の場合は、足りてなかったのは、
俺はそこがわかんなかったの。
だから、目の前にある問題がとにかく難しく思えた。
それって論理的思考でどうにかなる問題じゃなくて、
もっと先のレベルのことだったり、
全体のこと知ってないとわかんない事なんじゃないの?
そこの部分ちゃんと読んでるの?
そういえばブコメで、
て書かれてて、そうだ、その通りだと思ったんだよ。
「なぜこのエピソードが成立しえたか」
を一番端的に言ってると思う。
アハ!体験させていただきました。
http://anond.hatelabo.jp/20110717152546
元増田の話で、思い出したんだけど、
「射影」の意味とか、使いどころとか、(検索してて思い出した「準同型定理」)
果ては「ブルバキ原論」の話とかしだして、
なんかさ、テスト問題がすげー簡単に見えたの。
「この問題、さっき話に出てたハミルトンの四元数じゃん」とか。
あったんじゃないかと思う。
わかりにくかった。
ただ、俺にレクチャーしてくれたやつは
数学得意な奴にはかなり良い授業だったんだろう。
つまりさ、
理解度が全く違うと思うんだよね。
「どうしてこれをやるか?」
「どういうことを知っておくべきなのか?」
そこの部分は「暗記」といっていいのかわからないけど、
記憶してないといけないと思うんだよね。
数学なんかはさ、
っていう教え方する人いるよね。
まあこれは
「解法を暗記するようなやり方は本来的じゃないぞ」
って言いたいんだと思うけど、
さすがに元増田が書いたように
いやいや、ちゃんと知ってもらうべきところ、
暗記してもらうべきところってあるんじゃない?
と思うのよね。
そのあと、大人になってから、コーチングの理論とか知ったけど、
「どうしてこれをやるか?」
「どういうことを知っておくべきなのか?」
を知るというのも
実際に問題が解けるかどうかと
とか思っちゃう。
当時の天才たちが、千年かけて考え抜いたことを
凡人もやらなきゃいけないの?って思う。
そうじゃないでしょ?と。
つーか、その先生、
たぶん、聞いたこともないんだろうね。
そんなこんなで、愚痴になってきたので、ここでやめるわw。
世にはコミュ力を高めると銘打った書籍が多いが大半は善良な市民向けのものである。しかし社会で役立つのは往々にして狡猾な世渡りコミュ術であったりする。例えば人を意のままに操るというと道義に反するので真面目なライターは書きたがらないが、そういう本のほうが実践的だと私は思う。ファシリテーションやコーチングやリーダーシップも人を操るものだと言えなくも無いが、これらは通常は相手の人間性を尊重するものである。対して、催眠術や洗脳術は人間性を必ずしも尊重しない。術者の配慮がなければそれは非人道的なものになりうる。そして実用性を求めれば求めるほど、術者の配慮にかかわらず倫理的にギリギリのラインを行くことになる。もちろん破壊的カルトが用いるような洗脳は明らかに倫理に反するが、もっと狡猾な洗脳はグレーでいて決してブラックにはならないギリギリのラインを行く。例えば、極めて有効な洗脳方法に相手に考えさせて答えを出させるというテクニックがある。こちらが思考材料を提供し相手の思考の方向を誘導した上で相手に質問を投げかけるか疑問を起こさせるような発言をして考えさせる。すると相手はこちらの望んでいた判断や決断を下してくれるという算段だ。この方法は思考力の無い人間をコントロールするにはあまりにも有効であるため、良心的な人間は心が痛むかもしれない。この手法はファシリテーションやコーチングやリーダーシップの手法にも部分的に含まれるものだが、それをラジカルに行っていくと詐欺まがいの商法やマインドコントロールまがいの人心掌握術に繋がってしまう。術者の配慮が行き届いていないとたちまち恨みを買うか、酷い場合には犯罪者になってしまう恐れのある危険な技法だ。そんな強力な手法が何故世間に広まっていないかというと使いこなすのが難しいからだ。セールス勧誘や統計トリックのような限られた状況においては広く知られた思考誘導の技法が存在するが、より一般の場合にも誘導を行えるような共有されたテクニックはたぶん存在しない。伝えるのが難しいからだ。結果として、セールス勧誘や統計トリック等に騙されないための知識を身につけた人達は大半の誘導を防ぐことができている。しかし、少数の狡猾な人間は任意の状況において高度な誘導を行える。この種の誘導に対しては、残念ながら自己防衛を行う有効な方法が存在しない。文脈に依存しないため、こういう危ない手口がありますよという知識は一切役に立たないからだ。文脈によらない誘導はコミュニケーションに長けた人間なら誰でも使えるレベルのものから、高度な知能を持っていないと使いこなせないものまである。前者については文脈依存性をまだ残しているため対策のしようがあるが、後者に至るともう手の打ちようが無い。中身は限りなくブラックに近いグレーであっても、透明度が高いためホワイトにさえ見えてしまうのだ。
僕はネットではリアルよりはるかにスペックの高い人に見られがちだ。ネットの知り合いからは頼りにされたり、「~君は何やってもできるなーすごいなー」という反応をよくされる。
けど、リアルでの僕はコミュニケーションが不自由で、障害もあり、第一印象で能力の低い人間に見られる。実際に能力が低い以外に、現実には偏見というものが蔓延しているせいもあるのだが、それを差し引いてもネット上での自分の評価が高すぎて辛くなる。
意識的にネット上でできる自分を演出したり、嘘をついているわけではない。
たまたま、自分の得意分野がネットではわかりやすいものだっただけだ。デザインやプログラミング、言語力、コーチングスキルといったものは、ネットではできる人というイメージに繋がりやすい。逆に、自分の欠点や障害はネットではわからないところに集中している。わざわざ言い出さなければ相手は気付かないのだ。
時折、強烈な罪悪感に苛まれる。
5年程前まで、あるコミュニティに属していた。僕はそこで、色々な人に色々な事を教えた。それを仕事にした人もいる。皆僕以上に成長した。僕への評価は、ほとんど買いかぶりだ、と自分では思っている。元々、皆がやる気があって、僕がほんの少し教えるのが上手かっただけだ。
それでも皆が成長していくのを後押しすることで得られたのは、今まで知ることのなかった充実感だった。幼少時には虐待され、学校では面倒だからといない子として扱われ、信用できる友人は3人もいない、そんな僕にはリアルではありえない経験だった。人に頼りにされ自分の居場所がそこにある、初めての経験だった。
それゆえに、罪悪感もなく、できることを必死にやっていた。自分が楽しかったからだ。結局それが、僕に対する過大評価を作る事になってしまった。誰かが僕を責めたわけでもない。ただ自分で勝手に罪悪感に苛まれて、そこにいるのがとてもつもなく辛くなり、僕は逃げ出した。
彼らとの連絡も断った。数年経った今でも時折、「戻ってこないのかな?」とメッセージが来る。今更戻れるわけもない。見せ掛けの自分とはいえ、彼らに喜ばれ感謝され、そのとき感じた想いは充実感は、僕の中に生まれた体験は本物だったんだ。彼らには本当に感謝している、だからこそ今更戻れるわけはないんだ。彼らは、本当の僕の醜さを知らない。リアルでの僕がコンプレックスの塊で、普通の人が当たり前にできる事もろくに出来ない奴だってことを彼らは知らない。
もう、ネットで人と深く関わるのはよそう。僕はそう考えた。見せ掛けの自分を演じるのをやめられるほど、僕は強くなれなかった。本当の醜さをさらけ出してなお、皆から変わらぬように見られると信用できるほど、僕は人に対する警戒心を捨てられなかった。結局、ずっと人が怖かった。リアルでもネットでもそれだけは、変わらなかった。人への恐怖を捨てることは出来なかった。
それ以来、ネットで知り合った相手にはできるだけ無理せず素のまま不器用に接して、過大な評価をされないようにゆるゆるとした付き合いを続けていた。
Twitterはそんな付き合い方に最適なツールだった。過去の経験から、SNSやネトゲでギルドに入ることを避けていた僕も、Twitterにはすんなりとはまった。過度に個性的になることはせず、できることだけをするようにしていた。でも、自分ができると思えばやってしまっていた。誰かが、何かの作り方に困っていたら教え、こういうツールがあればいいなとアイデアを貰えば作り、どれも自分が楽しいからやっていた。いつのまにか、僕のやっていることは昔いたあのコミュニティと大差なくなっていた。
そして言われた。「~君ってパーフェクトだよね。なんでもできるよね。」と。
また同じ失敗をやっていたことに僕は今更気付いた。
リアルの僕はこんなにも醜いのに。どうしてだ。どうしてこうなるんだ。どうすればいいんだ。
「そうなんだー」でいいんじゃない?
んで興味があればどんな会社かとかあんたそこで何やってんのとか聞けばいいし、興味なかったら私の会社だとこんなもの作ってるんだー、とかに行ってもいいだろうし。その辺はまあ適当にだと思うんだけど。
すごいのすごくないのみたいな評価を挟まないでも盛り上がっちゃうことはあるんじゃないかと増田は思うんだ。
あと類義語としてどうでもいい知識を聞かされたときの「なるほどー」、それがやりすぎかなというときちょいテンション下げて「なるほどね」などもある。
追記
これ言った人と言われた人の意図の行き違いがあると思うんだ。
言った人の意図としては単に面白い情報でしょ(「考えてみればこういう製品でもどっかで誰かが作ってるんだよねー」とか「けっこう身近にそういう会社があるんもんでしょ?」)くらいの意味で言ってるのが、受け取る人にしてみたら「この人すごいって言われたいのかな?だからそんな情報言ってくるのかな?」くらいに受け取られてるんじゃないかな?
世の中色んな人がいるんで情報自体におもしろさを感じちゃう人っていて、他人もそうかなと思って(ここがダメなんだけど)情報ばっかり言っちゃう、言われた方は別に情報自体におもしろさをそんなに感じるタイプでもなくて、それよりは人間関係の駆け引きとかそっちの方がおもしろかったりして、だから相手もそういう意味で言ってきてるんじゃないかな、的なさ。
日常にそういう食い違いってあるのかなーと思った。
コーチングの講習受けたとき、エニアグラムとやらで人間は8種類に分かれるので、とりあえず自分が何かを把握して、相手が何かも把握して、相手なりにやり方を変えなさい、みたいな事を言われたんだけど、相手が自分と同じようなものだと思うと行き違いがあるのかもね。
なんでもかんでもすごいすごい言われると、わざと言ってる感ありありで引く、、、。
「ああこの商品俺の勤めてる会社で作ってるやつだよ」「えー、すごーーーーーい」
的な(正直このパターン良くある)。その会社での俺はすんごく下のダメなやつかも知れんというのに、、。
で、ちょと話しずれるけど、カウンセラーの人(コーチングの研修を受けさせられたときの講師)に人の話を聞くコツを聞いたんだけど、「相手の話を受け入れる」のがポイントで、この「受け入れる」には話の内容に対する評価を含んではいけないらしい。肯定的な評価なら多少はいいけど、否定的な評価とか絶対ダメなんだって。
じゃあどうやって評価せずに聞くかというと「その話自体にすごく興味がある状態」に自分を持っていくといいらしい。人間は話の結論を評価したがるけど、その前には必ず「その話がいったいどういう話なのか、内容を知りたがる状態」ってのがあって、その状態に従って相手の話を聞いたあと、普通は「いい話」とか「くだらなかったー」とか「それは違ってるんじゃないか」とか評価の方に流れるんだけど、そこで評価の方に流れずに、話への興味が持続している状態を維持するのがポイントなんだってさ。
俺もそれができるかっていったら難しいけど、受け入れ態勢が整っていない全国の老若男女の増田たちに向けて書いてみた。
誰かを叱る時に過剰に怒ってしまうという、人が冒しやすい過ちがある。
叱っている時というのは、たいていの人の場合、機嫌が悪い。
この時点で既に少し間違っている。
育児書やコーチングの本などにも、怒らずに叱ることの重要性が書かれている。
叱るときに機嫌が悪いのは間違いだと何となく分かるだろう。
間違いなのだけど、まあ人間だし機嫌が悪くもなる。そこは目をつぶるとしよう。
本当に致命的なのは、そこではないからだ。
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ではどこが致命的かというと、機嫌の悪さに任せて、不必要なことに対しても怒ってしまうことだ。
例えば、相手の態度が悪いとか、質問に対して質問で返すだとか。
挙げ句の果てには、昔のことを蒸し返して叱ったり、日頃の細かいことにも小言を言ったり。
そんなことはハッキリ言って些末なことである。
相手が過ちを理解し、次は気をつけようと思うだけで良いのであって、
反省の態度が無いとかそういうことは二の次なのだ。
ましてや、日頃の態度に対する小言とか、昔のことの蒸し返しなんてもってのほか。
だのに、そういう叱り方をしている人が実に多い。
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そういう叱り方がなぜ問題かというと、第1に今回なぜ怒られているのかという焦点がボヤけてしまうから。
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これも大きな問題なのだが、もっと根深い第2の問題をも発生させてしまうのである。
それは、叱られたら過剰に自己否定するという適応を相手が習得してしまう恐れである。
あなたの周りにもいないだろうか?
ふだん平気な顔でイケないことをしてるくせに、叱られる段になったら、「本当に悪かったです。反省してます」とすぐに調子の良いことを言う人が。
また、「私という人間の不徳の致すところであります」「まったくもって私はダメ社員です。根本的に変わらないといけませんね」などと大袈裟に謝る人もいないだろうか?
彼らに共通するのは、過剰な自己否定によって、実は自己防衛しているという事実だ。
一見素直に反省しているように見えるが、実は、今回なぜ怒られているのかという点に真っ正面から向き合っていない。
「とりあえず謝っとけ」という発想は、彼らなりの適応である。
そういう適応を身につけた彼らを狡賢いと考えてはならない。
なぜなら、そういう行動パターンを身につけた背景には、過剰に叱る上司の存在があるからだ。
過剰に叱る上司の前では、今回の過ちに対する自覚を示し、心をこめて謝るだけでは、効果がないことが多い。
今回の過ちだけでなく、反省の態度とか、日頃の行いとか、そういったことを全て謝り、上司の怒りを鎮める必要があるからだ。
だから、そういう上司の部下というのは、みんな過剰な謝罪を行うという悪癖を身につけてしまうのだ。
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横からだが、あなたの言ってることは本当に正しいと思う!!!!
これは教育の問題。とか風呂敷を大きくすると怪訝な顔をされるかもしれないが、本当に教育の問題だと思う。
だって、学校では先生の言う事に従順に従うように教育される。学校や先生を「疑う」という事もできない。学校や先生を疑えば、場合によって同級生からも「いかにも反抗」ってレッテルをはられる可能性さえあり、生徒も先生も含めた学校という杓子定規な環境そのものが、ものすごい害悪で、本来すごく大切な「疑う」ことすらネガティブに教育される現状。
それどころか、なまじ先生にも問題がなく、先生はとりあえず命令をする、生徒はとりあえず命令をこなす、というなぁなぁな関係が続いて、そこに大きなトラブルもなければ「疑う」という発想すら起こってこないわけだ。
そうなれば、教科書的な「頑張ればきっと努力は報われる」とか「本音をキチンと伝え、心を開けば、きっと人はわかってくれる」って事を気持ちとして、心の奥底で信じるようになる。もちろん、それが全てじゃない、汚い社会もあるけど、誠心誠意生きていれば、その正しさはまわりまわって、いつか自分の評価に返ってくるんだ、という価値観を、みんな心のどこかで信じてるんじゃないかと思う。
これは、まったく間違った事だ!!!
予想するに、過去の学校は今よりもっともっと環境が悪かったし先生の質も悪かっただろう。だから、その理不尽さにまみれたなかで子どもたちは「大人に対して都合のいいウソをついて適当にやりすごす」という事が正しいことだ、という事を学ぶわけ。
でも今の学校では、それが学べない。本当に学校の意図している通りの子どもがスクスクと大体育つわけ。例外もあるけど、大体はみんな心の中で「国は信頼できるもの」だと思ってるし「警察は泥棒をやっつけてくれる」と思ってる。それを信じきって疑おうとしない。(真偽の問題じゃなくて、疑い自分で考えようとするかしないかの問題)
それで一番の問題が、そういう現状と教育の乖離を論理的に理解したところで、心に埋め込まれた感情が言う事を聞かない!という事だ。
例えばうつ病とかの神経症になる基本の心理状態って「~したい」と思うけど「~ねばならない」の葛藤から生まれると言われてる。
「就職したい」「就職せねばならない」と思うわけだ。ここでの就職する意志に葛藤はない。(ただしニートは除く)
でも就職するためには、あらゆる偽りのある、今まで教育で教わってきた信念を根底から覆す、180度違う理屈・現状が待ってるわけ。ここで葛藤が生まれる。
教育によって、正直に素直に生きていれば、自然と評価はつくだろうと心の奥底でそういう価値を信じてる状態で、でも実際は正直であったり素直でいられない。そんな感情を重視してたら就職できなくなるからだ。ここで戸惑いと葛藤、そして虚無感が生まれる。
「とりあえず就職できたけど、こんなウソだらけの”とりあえず”の就職で本当に大丈夫なんか?」って心の奥底でしっくりこない。形式だけ就職してるけど、「だから?」みたいな感じになる。
本来働くことはもっと自分で意思を持って行動を決めるべき・・・とか、そういう軌道修正の理論はいくつもあるけど、今はそれは問題じゃなくて
一番の問題は、こうやって教育と現場があまりにも乖離していって、人に悪影響をあたえてる事実があるということ。そして、それは今後ますます増えていって社会問題になるとおもう。
本音と建前の使い分けを、昔は両方学べた。だけど今は親も含めて建前しか学べず育つ子どもがとても多い。それはすごい害悪なんだ。
社会は汚いところもあると思いながら、それでも社会は信じられるものだと考える事はすごくよくない。社会は綺麗であるべき、と思いながら、それでも社会を信じられないからこそ自発性が促される。今の教育は建前を教え続ける事で必要なことと全く逆なことばかりを教えてる状態になってる。それが一番問題でよくない。
そういう人たちが、自分や他人の協力をへて、いかに社会を信じてはいけないか、自分で物事を考えなくてはいけないか、って事を学べる機会が今はすごくない。
そういう「なんでも自分で考える」って事を支えて、自己表現を育てないといけないのに。そういうのができない現状が、すごい辛いと思う。というか事実オレは辛い。
余談だが、TPIEっていうコーチングの教育プログラムがこういう葛藤の打破に使えるんじゃないかな・・と思ってる。興味ある人はぐぐるといい
http://anond.hatelabo.jp/20100208175244
メンタルクリニック行ってきた。
トラバくれた人ありがとう。
会社に行けていなかったのは、
・仕事に集中できない
・気分が落ち込みがち
・何をするのも億劫
・仕事以外の遊びや飲み会も億劫。彼氏以外と連絡とりたくない。
・やたら胃が調子悪い。むかむか。きりきり。吐き気。特に出勤前。着替えて化粧しても会社行きたくない。
という、登校拒否児のようなお恥ずかしい状況で、行けてなかった。
正直、甘えてるんだとも思う。仕事は超激務なわけではなく、いじわるな人がいるわけでもなく、むしろ、職場環境は良いし優秀でいい人が多い。ただ2年近くやってきた今の仕事内容がどうしても好きになれず、空虚で、意味を見出せない。周りの優秀な人は自分の強みを生かして働いたり、社内での自分の道を見つけたりしているが、自分は特に強みもないため期待(売り上げ数字)に応えるだけのような気がしている。売り上げ目標は達成してるし、その点では期待に応えて問題なくうまくやれている。しかし、自分は、コマだ。虚無感と劣等感にさいなまれている。もちろん、好きになれない仕事ながらに、自分も周囲の役に立つよう、貢献できるよう、努力はしているが、空回り気味というか、、、、自分がやっててうまくいきかけていることを他の人が専任業務としてやるようになり、手放さざるを得なかったりとか。
そんなこんなでどんどん仕事が億劫になり、さらに、働くということと自分を結びつけるのが難しくなった。自分は本当はやればできるはずなのに、なんか弱っちくてそれが嫌だし、自分は何がしたいのか、とか、働くってなんだ、とか、そういう根本的なことばかり考え込むようになった。
頑張れば仕事行けるけど、自分いなくても仕事回るし・・・とか、胃の辺りがすっげー気持ち悪いし・・・とかで、会社休みがちになってしまった。
で、今日(つーか昨日か。月曜)、思い切ってメンタルクリニック行った。(ちょっとした勇気が必要だったが。)
行くと、おじいちゃん先生だった。色々思い悩んでいることが仕事に関することだったから、ちょっと涙ぐみながら、就職からこれまでの話と何が辛いのかをかいつまんで話した。すると、「うーん。どうしたもんかね。うちじゃあね・・・」と、お困りのご様子。確かに、若干の食欲低下があるものの摂食障害なわけでもないし、睡眠障害があるわけでもない。どうやらメンタルクリニックでは門前払い?のようだ。ちょっと、あっけにとられてしまった。正直、カウンセリングに行くべきかメンタルクリニックに行くべきか悩んで、とりあえずカウンセリングは高いからメンタルクリニックに来たのだが、こんなに突き放されるとは思ってなかった。
そこでとりあえず、誘導尋問ぽく、「こちらのようなクリニックとカウンセリングはどう違うのですか」的なことを聞いた。すると、「病院では症状を見ながら薬などを使って目の前のことをとりあえず良くしていく。カウンセリングでは過去からさかのぼって、何故そうなったのかを話す。」と言われた。「では、コーチングは」と聞くと、「あぢゃーー。コーチングってのはねえ・・・・。あなた、トレーニングだよ。こうなるっていう目的があってそれに対して訓練する。ジョブコーチみたいな」という答えが返ってきた。で、アンケート(学歴、経歴だとか親の職業だとか家族構成だとか色々書かされた)を見ながら、「うち(の医院)でもカウンセリングオフィス作ってるから、こっち行って」「あなたの場合は優秀だし洞察力もあるから。カウンセリングは洞察力もあるような人にこそ有効だから」みたいなことを言われた。最後に「ってことでー、薬も出さないよ」と言われたので、「吐き気止め的なものください」と頼んだ。これで終了。
なんか、弱ってるからって、安直にメンタルクリニック行ったのが間違いだったみたい。
カウンセリングってたけーよ。1回1時間1万とかするじゃん。それを定期的に受けなきゃ効果がないわけでしょ。金銭面の負担がでかすぎる。普通に働いてても、かなり厳しいんだから、もしもっと鬱っぽくなって働けなくなってしまったらカウンセリングなんか通えるわけがないじゃないか。
ってことで、結論は、「自力でなんとかしろ」ってことでした。
ひとまず、仕事に立ち向かいつつ、考えを整理せねばならない。でも、仕事辛い・・・。
有給使ってまとまった休暇をとろうかなあ・・・。
企業は個人の自己実現をサポートするためにあると言う考えが広まった。
部や課は「チーム」になり、上司はマネージャーになった。マネージャーは上司ではなく、あくまで従業員の自己実現をサポートするコーチで、偉くない。単にそのチームの役割の一種であるっていう。
たまたま個人の自己実現と企業の目的が重なってる部分があるから一緒にやるだけって考えだ。
http://www.amazon.co.jp/%E9%83%A8%E4%B8%8B%E3%82%92%E4%BC%B8%E3%81%B0%E3%81%99%E6%8A%80%E8%A1%93-%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0-%E5%AE%8D%E6%88%B8-%E7%94%B1%E5%B8%8C%E5%AD%90/dp/4901032372/ref=sr_1_25?ie=UTF8&s=books&qid=1262131699&sr=8-25
↑この本なんかに詳しく書いてある。企業の根本的なあり方の変化が図で書いてある。
「○○をやれ」と言うやり方はせず、「質問」によって気付かせる。自分でハッと気付いた方が、その人の能力になりやすいんだ。こういうのは心理療法とかのやり方を踏襲してるわけだけど。心理学から生まれたのがコーチングだからね。そしてそれが企業の形態を根本から変えつつある。
ところが、日本の会社ってこの「マネージャー」とか「チーム」という名前だけを輸入して、実態はまったく変わってないんだ。実質的には従来の「課長」「係」そして「会社のために」。
例えばサッカーがうまくなりたい人があるチームに入った。
その人の最終目的は自分のサッカー能力の向上なんだが、そのためにはこのチームのために尽くすことが役に立つ。だからチームのためにやるって感じだ。そしてコーチはそれ(この選手がどんな自己実現をしたがっているのか)を良く理解して、サポートする。
世界はそういう風に変わりつつある。
ならアメリカ行けって? 行くまでもない。俺自営業だからな。今は一人だけど人を雇うときは従来の日本の会社システムなんか踏襲するもんか。
だから、あなたが書いてるの見てて思うのは、「育てる」の意味を「会社の役に立つ人材」としか考えられてないところが旧来の意識なんだよなあってこと。
昔の日本企業は育てていた→今は育てていない、って俺の意見を勘違いしたのかも知れんが、昔の企業も「個人の自己実現」という意味では全く育ててなんかいなかったんだよ。