はてなキーワード: カタツムリとは
俺の答はこれ以外にありえない。
もし本当にある日異性が消えたら、私はまず「自分が眠っている可能性を考える」だろう。
ひとまずインターネットを立ち上げてみて、文字が読めればそこは現実だ。
そしてインターネットに並ぶ無数の異性消失情報を目にし、次に考えるのは「ドッキリの標的にされた可能性」だ。
ひとまずは悩んでますよというポーズをしながら目を瞑って作戦会議だ。
あとあと馬鹿にされないような形に気をつけて道化を演じつつ、ドッキリのコストに負荷をかけようとして、いつも行かないような駅にでも行こうと家を出る、直前で足を止める。
もしも本当に全ての異性が消失していたら、世界人口の半分が消えるという大パニックだ。
というか、インフラ施設の当直員や夜行バスの運転手が消えたとしたらどうなるのかを考え、引きこもることを決めるだろう。
もしかしたら我が家の周りも既にクリスタルナハトが始まっているかも知れない。
窓やドアの施錠を確認し、板をうちつけるまではいかずとも目張りぐらいはしておく。
家中の武器になりそうなものを足元に集めた状態でインターネットに再び潜る。
24時間ちょうど異性が消滅していたことが世界中で話題になるだろう。
偶然か、神の奇跡か、裁きの時か、きっと大きな混乱が巻き起こるはずだ。
その中にいるはずなのだ。
「世界が仮想現実であり、if sex=0 deleat time=1dのようなコードが入力されたに違いない」という仮説を元に検証を始める集団が。
私はそこに合流する。
何故なら神の存在を信じるよりも、その可能性を追求したほうが現実的に感じられるからだ。
確証バイアスによって集団幻覚で終わらせる者達、パニックのままに暴れ続ける暴徒、ここぞとばかりに勧誘を始める宗教家、様々な連中が出てくるだろうが無視する。
世界が仮想空間であり、リバースエンジニアリングによって我々人類にも神に等しいチートを手にする機会があるかも知れない。そのチャンスに私は合流するからだ。
答は出るのだろうか?
表題のとおりだ。この度、思うところがあって増田に投稿してみる。
カッコウというのは結果論であって、それ以前に俺は、恋人や結婚してる女性が好きだ。そういう人にしか興味が持てない。昔から。小学生の頃から、例えばAちゃんとBくんが仲がいい時に、Aちゃんと仲良くなりまくって、Bくんに見せつけるのが趣味だった。
そういう気質なのだ。職場の飲み会でも、地域の集まりでも、趣味の社交の場でも、相手が結婚してると特にそういう気持ちが湧いてくる。
結婚してなくても、アツアツのカップルでもいい。でも不思議かな、「彼氏がいる」って情報だけだと燃えてこない。たぶん、いろんな濃さの恋愛があるからだろう。消滅寸前のカップルなんて、恋人いないのも同然じゃないか。「婚約中」みたいな情報だったら燃えてくる。
相手が結婚していると、その人が気になってきて、付き合いたくなってきて、少しずつ仲良くなって、食事に行くようになって、俺の責任でホテルに入るか、家にこっそりと呼ぶ。もしくは相手の家に行く。
3人だけ抜き出して語ってみる。これまでダントツに好きだった三人になる。今でも、ごくまれに会うことがある。
予防線だけど、俺は文章のプロでもなんでもない。読みにくいなー、と思ったらこっちが文章ミスをやらかしてる。読み飛ばしてほしい。年末で大忙しの中で書いてるから、推敲はザザッと一回だけだ。
1人目は、アヤカとしよう。この子は、今の会社に中途で入った時の同期だ。新卒だった。
見た目はタイプだった。背丈は平均的で、体型は細身で、すっきりとした顔立ちだった。浅黒だったかな。
いま見た目のことを言ったけど、何より性格がいい子だった。朗らかな雰囲気で話すし、子どもに優しいし、誰も見てないところでゴミを拾うし、委託で社内清掃に来ているシルバー人材センターのおばさんにも丁寧にあいさつをする。マジでいい子だった。
当時は、東プレ㈱というパソコンのキーボードとか作ってる電子機器メーカーに勤めてたんだが、その子は経理事務だった。自分は当時、売上部門にいたので接点はそこまでなく、年に数回の飲み会で一緒になるくらいだった。でも、和風の店でも洋風の店でも、いつも近くに座るアヤカを見て、恋愛的な興味が……ちょっとしか湧かなかった。かわいいな、とは思っていたのだが。
ある時だった、年に一度ある同期の飲み会の場で話をすることがあった。俺から話しかけた。
「いないよ」
「えー、おらんやあ」
みたいな会話があって、その時に「あ、そうか。そうなんだね……」と平坦な感情に襲われたのを覚えている。何度見ても、笑顔が素敵な子だった。実際に性格もいい子だった。
転機があったのは、それから数年後のことだ。アヤカが結婚するという。同期のライングループでそういうお知らせが回ってきた。社内では旧姓を使うらしい。
「アタックしとけばよかったな」という月並みな感情が湧いてきたが、すぐに忘れてしまった。その後、アヤカが産休に入って会社にこなくなったのもある。
さらに一年後だった。グループトークで、アヤカが生んだ赤ん坊の写真がアップされていた。ほかの同期社員は、可愛い可愛いってトークに参加していた。俺も一言「鼻の感じが似てるね」ってコメントした記憶がある。
それで、あの日がやってきた。初冬だったかな。出社のためにカードをかざして社屋に入ろうとしたところ、アヤカがいたのだ。育休から復帰していた。初出勤のようだ。
「あー、増田くん」と、朗らかな笑顔でこっちを見てるアヤカを見た途端にスイッチが入った。そっちの方に歩いて行って、トークを始めた。
赤ん坊は誰に預けてるとか、産休から復帰したばかりで職場の人はどういう反応をしてるとか、仕事はどんなのが割り振られてるとか、いろいろ話したかな。
以前はそこまで喋らなかった。新入社員研修の時に、みんなでランチをした時に馬鹿話をして大笑いしたことはある。あとは、やっぱり飲み会でちょっと話すくらいか。
それからは、社内でばったり会う度に話をした。ほんと、どうしてそんな話題が出るんだろうってくらい話をした。
アヤカが復帰してすぐだった。退勤後、一緒のタイミングで社屋を出て、駐車場まで歩いている道中に「来週飲みにいかない?」と誘った。アヤカは迷った様子だったが、「アヤカと行きたい」と言ったらOKしてくれた。
一回目の食事は、誰にも見られないように市外を選んだ。大衆的なお値段の寿司屋に入って、握り寿司を食べた。80代のお爺さんがやってるんだが、若い人が来るとサービスをしてくれる。俺にもアヤカにも、うにの軍艦巻きとか、カンパチとか、かっぱ巻き×3とかをサービスしてくれた。一人1,400円ほどだった。アヤカはわさびが苦手なようで、箸でシャリとネタを分離してわさびを剥がしていた。
二回目はデートと言ってよかった。夕方以降の時間帯に、さっきと同じく誰にも見られないエリアを選んで、ひっそりとたたずむ喫茶店でカレーとナンを食べて、店を出たところで手を繋いだ。
なしくずし的な感じで手を引くと、トコトコと後ろをついてきた。そのままホテルに入ろうとしたところで、アヤカの足が止まった。
「やめといたら。後でしらんよ」
「アヤカの優しいところがいい」
みたいな話をした後、手を繋いでラブホテルに入った。「ここでいい?」と部屋を聞いて、あとは流れだった。
性行為は、お互いに高校生みたいな感じだった。とにかく様子見だ。言い方は悪いが、カタツムリが二匹、雨の路上で交尾をしてるのを見たことがあるだろうか。あんな具合だった。気持ち悪くてごめん。
なぜかはわからないが、パートナーがいる相手と性行為をすると気持ちがいい。そうでない相手とのセックスの気持ちよさを100とすると、パートナーがいる相手だと170ほどになる。インスタントラーメンで例えると、前者がエースコックのスーパーカップとすれば、後者は明星の中華三昧シリーズといったところか。
それから、月に一度はアヤカと会った。お互いに、会いたい気持ちを我慢しないといけないことは相当あった。なにしろ、会いたくても会えないのだから。ゴムはしたりしなかったりだった。その日の流れによる。
社内でばったり会った時は、すれ違いざまにアヤカが俺の腕をコツンと触っていく。俺も触り返す。それがサインのひとつだ。
そんなこんなで、さらに一年が経過した。アヤカとは、やっぱり月に一度は会っていた。そんな折、同期社員のライングループでアヤカが投稿した。概ね以下の感じだった。
それに対して、同期の女子は「綾香ちゃんが気にするのおかしいよ。大事なことなんだから」で論調は一致していた。
子どもが二人目……おめでたいなと感じた。当時の俺は、30代に入った頃だった。こうした経験は三度目だった。最初は大学生の時で、二度目は……新卒で会社の新人時代だったっけ。
約一年度、アヤカが生んだ子をラインのトークルームで見ることになった。可愛い女の子になりそう、というのが感想だった。やはり鼻がアヤカに似ている。俺には似てないと感じた。
年月が経って今、その赤ん坊は4才になる年だ。その頃には東プレを退職して、その近所にある別業種の会社で営業の仕事をしていた。
今年、所用で府中にある公園の花見スポットの写真を撮影している時に偶然みかけた。アヤカと、旦那さんと、男女の子ども二人が花見に来ていた。桜の下で弁当食べるんじゃなくて、ただの散歩のようだった。
その頃にはもう、アヤカと会ってなかった。それが花見会場でばったり会って、「あー、増田くん。久しぶり」という具合に、昔と変わらない様子で話しかけてきた。お互いに年を取ったものだ。「お疲れ様です」と言って俺は、その4才くらいの女の子を見た。
ルックスの感じは、なんかこう、俺にはたぶん似ていない。そういうことにしておいてくれ。俺は、旦那さんに会釈をすると、彼もちょっと会釈をした。「こんにちは」とあいさつをしたら、向こうも暖かい笑みを返してくれた。
「僕はもう違う会社ですけどね。優秀でしたよ。よく助けられてました」
「へえ、意外でしたね! 家ではおっちょこちょいなんです笑」
こういう人は、大抵いい人だ。俺にとっていい人であるのはもちろん、みんなにとっていい人である。
それから彼は、別の方に歩いて行った。アヤカを見ると、男の子を連れてカモがたくさんいる池の方にいた。
女の子が置き去り気味だった。俺は、女の子に「お母さん優しい?」と聞くと、「やさしい、です」と返ってきた。
2人目は……とその前に、当日記をお読みの方は、俺が若い子が大好きといった印象をもたれたかもしれない。実際そんなことはない。どちらかというと若い子が好きだが、40代以降の人だって、この人いいなと思ったらアタックする。※2人目と3人目は東プレ時代の同じ会社の人
二人目は、同じ会社の隣の部署にいた女性だ。ミキさんとする。この人は、いわゆる臨時雇いの人で、パートさんだった。以前はアヤカのいる部署で働いていて、そこから当時の俺がいた部署と同じ階に異動になった。弊社はフリーアドレス制ではないが、仕事を普通にこなしていて、ほかの部署の社員が見えることが普通にある。密室感がなくて、開かれてる感じがする。
ミキさんは、実際まじめな人だった。電話応対は超丁寧だし、連絡や報告は密にするし、ちょっとドジなところがあるけど、そこも愛嬌だ。なんか、みんなのマスコットキャラだった。
で、ミキさんがたまに、高校進学を控えて受験勉強してる娘さんの話をすることがあったんだけど、その家族の話がまた、その、あったかい感じがしてさ。俺が機能不全な家庭で育っている(父が家庭に不在、母が精神病質、妹が身体障害者)から、羨ましい感じがして聞き入ることがあった。
ある飲み会の時だった。都内で飲み会があったんだが、和風居酒屋での一次会が終わって外に出ると、ミキさんが一人でポツンといたんだよ。で、声をかけると色々話が盛り上がって、二人でどこかに飲みに行くことになった。
終電まで余裕があった。今度は二人で洋食ができるお店に行って、内容に満足して(ペペロンチーノ風やきそばが美味しかった)、駅までの微妙な幅員の車道兼歩道みたいな通り道で、ちょっと手を繋いでみたんだ。
ミキさんは黙って握り返してくれた。それで、こんな感情が頭に浮かんだ。
『この人は旦那さんと娘さんが二人いて、それで円満な家庭で、そんな人と繋がることができる自分は……光栄の極みだ』
当然、そんなことを口にはしなかったけど、そういう視線を自分よりも一回りは背が小さい、今まさに隣を歩いているミキさんに向けていたのを思い出した。
ここまで鮮明に思い出せたのは、その時の街並みをスマホで記念撮影していたからだ。
ミキさんは、すごく甘えん坊だった。一応増田はR18のはずなのでザックリ言うと、ベッドの中ではとにかく抱きついてくる。挿れてる時も、そうでない時も、ダッコちゃん人形みたいにくっついてくる。それで、くりくりとした丸い大きい目で俺を見つめるのだ。
モテる女性ってすごいよな。40代半ばになっても可愛いんだから。ほんとにすごいよな。その日の性行為は、やはりお互いに初めてだったので、手練れの忍者がつばぜり合いの接戦を繰り広げる時みたいに緊張感のあるセックスだった。
最初のセックスから飛ばすやつは愚かだと思う。個人的な考えに過ぎないが。やはり最初は、慎重にいくのがいいと思っている。
ミキさんとは、それから二回だけセックスをした。いずれも職場単位での飲み会の後だ。その後、ミキさんが元の部署に再異動になってからは、たまに社内ですれ違うくらいで、外では一度も会ってない。一度だけ、ゴムなしでしたけど、そういうことにはならないだろう。年上の人だと安心できる。
3人目は、よし子とする。名前に美という字が入っていて、それが示すとおり心がきれいな子だった。
見た目はすぐに飽きる。人柄のいい子が一番いい。美人な子とセックスできても、「愛してる」って感じがしないと、やっぱりだめだ。心がつながってる感じがセックスの醍醐味のひとつだろ(上から挿れながら手を繋ぐのが好き)。
よし子は当時、総務部門の新入社員(中途採用で30過ぎ。旦那あり、子どもがひとり)だった。ある時、会社の展示イベントで一緒になった。同じブースの担当になって、来場者の案内をしたり、チラシを配ったり、舞台に出る人の順番を指示するなどしてた。
最初から、いい子だっていうのはすぐにわかった。根拠はない。ただ、笑顔を見て、こいついい奴だなって、そう思ったのだ。左手の薬指には銀色のニーシンクっぽい指輪をしていた。
イベントが終わって、すっかり暗くなっていた。だが、テントや長机や椅子を片付ける必要がある。時間的に厳しかった。
ブースの片付けがようやく終わって、トイレに行って、ほかのイベントブースを手伝おうとして俺は、防犯灯がポツポツと灯っている都市公園の中を歩いていた。それで、中央ステージの前まで来たところで、すぐ前をよし子が歩いてたんだ。
俺が追い越そうとすると、「うわっ」て感じでよし子が驚いた。変質者を警戒してたんだろうか。橋本環奈みたいな雰囲気の子だったから、そういう被害に遭ったことがあるのかもしれない。
「あ、増田さんだったんですね」
「そうだよ。変態じゃなくてよかったな」
「うん、本当よかったよ! 増田さんで」
「……」
やり取りを交わした時に、この子とずっと一緒にいたいなぁ、と心の中で思ったのだ。その直後、「忘れ物した!!」と、よし子が真後ろに向かって駆けていったのを覚えている。
それから、たまに仕事でやり取りをするようになった。国の補助金をもらってる仕事の関係で、当時新商品だったMac専用キーボードのCAD図面を提供したりだとか、こっちの部署で予算の算段がつかない時に相談に乗ってもらったりとか、いろいろあったな。
今頃みたいに寒い時期だった。会社を出ようとすると、めっちゃ寒くて、自動車までの遠い道のりを歩き出そうとしていたところ、後ろから「お疲れ様です」と、よし子に呼び止められた。
二人並んで歩いていて、「よし子さんの仕事は忙しいですか」とか「増田さんはいつも土曜日にいますよね~」とか、いろいろ話をした。よし子はよし子で、小学生の子育てが難しい状況らしい。旦那さんともうまくいっていないとか。口喧嘩になったら罵られることがあるという。暴力もあるって……マジかよ。
結局その日、よし子とご飯に行く約束をした。人に見られたくないから、夜にしようかという算段をした。ラインではなく、ショートメッセージでのやり取りを提案された。
それからは早かった。人類最速の不倫だったかもしれない。その二日後の土曜日には、府中駅のペデストリアンデッキを降りて、近くにある寂れた人目のない通りにある昔風の食堂でご飯を食べて、仕事や家庭の愚痴を言い合って、店を出た後は、お互いにわかっているかのようにシティホテルの方に歩いていた。
よし子は人懐っこかった。性行為をしている最中も子どもみたいな笑顔で、唇をいろんなところに当ててくる。こっちも負けじとやり返すと、「くすぐったい」と笑うのだ。
よし子とは、月に二度は会っていた。幸い、旦那さんにも会社にもバレることはなかった。俺とよし子は同じ区内に住んでたんだが、その界隈では絶対に会わなかったし、ラインでのやり取りもしなかった。
年度明けのGWが終わった頃、よし子が妊娠した。同じ職場の人に惜しまれつつも産休に入った。普通は愚痴を叩かれるものだが、よし子にそんなことはなかった。
やはり、人間は人柄だと思う。人柄がよければ人生は大抵どうにかなる。よし子からは、そういうことを何度も教わった。
今回、俺自身の考えや記憶を整理してみようと思った。いろいろと語ってきたが、増田民の暇つぶしになることができただろうか。
やっぱり、俺が好きになるのは人の嫁ばかりだ。恋人同士でもいいんだろうけど、心がいまいち燃え上がらないし、そもそも出くわす機会がない。
自分に子どもは何人いるんだろう、と思い巡らすこともある。考えないようにはしているのだが。コロナが流行り始めてからは、セックスなしの、心がつながってる感じの恋愛に燃えることもあった。
性行為がなくても、普段の話をしてるだけで、「あ、この人俺のこと好きなんかな。俺も好きだな」って時が稀にある。そういう時に、生きていてよかったと思う。
とりあえずクリアしたということを目指すためだけにやった
キャラ、ストーリー、戦闘、移動、イベント、アイテムクリエイションすべてが・・・
スターオーシャンシリーズってよりはディスガイアに近いやりこみ要素、ゲームバランス
爽快感の無いバトル
魅力のない主人公
犯人はヤス並みにオチ有名だけどオチ以外のストーリーもつまんない
アイテムクリエイションでぶっこわれとかを気軽にできるのがいいのに決まった場所でしかできないっていうふうに良さを自分から殺してる不自由さクソ
いざアイテムクリエイションやろうとしても金かかりすぎでクソ 時間もかかりすぎるのクソ
徒歩移動オンリーでファストトラベルとかルーラ的なやつ、飛空艇みたいなのがない不自由さクソ
マッピング要素で歩けるエリアじゃないとこ埋めないと100%にならないガバガバなマッピング判定クソ
デスティニー2のSPみてーなガッツシステムで好きに攻撃できない不自由さストレスクソ
イベントで会話飛ばしてもマネキンの変なモーションとか間を全部見るまでイベント進まないのクソ
バトルで必殺技出す方法が長押しなのクソ すぐ技出せねえし思ったように出せずに暴発しがちなのがめっちゃストレス
ぼーっとたっとかないとガードできないとかアホか
敵はスパアマでまったくひるまずにスキルしかけてくるのに、味方のスキルは敵の攻撃で簡単に発動妨害されるの不公平すぎるだろ
ノーモーションから出してくるザコ大杉だし こっちの技はなんかクソみてえな間があって、ただでさえ長押しで技でるまで押せえのにひっと するまでもマジで遅い
敵移動してたりしてスカったりするし
クリアしてからが本番とか試練の洞窟とか隠しダンジョンとかあるみたいだけどとてもやる気にならんわ
装備をかなり強くする必要あるけどそのためにはめっちゃカネと時間がかかるからディスガイア並みに効率極めてプレイしないといけなくなるけどディスガイアほどお手軽に爽快感とか強くなった感あじわえなくていつまでもストレスしか感じないからこれ以上はやらん
あからさまなプレイ時間水増しのおつかいと同じダンジョンとか町を行ったり来たりでほんま最悪だったわ
ダンジョンの一番奥でイベント起きたら普通自動で町とかに戻るけど常に歩いて戻る必要あるし
さーあと456の3つかー
4はしらんけど5がクソゲーってのは知ってる
🍅(トマト)から🍝(スパゲッティ)への流れは、料理や食べ物の関連性を示しているかもしれません。トマトはスパゲッティソースの主要な材料として使われることがありますので、これは料理の進行を表しているかもしれません。
🍝(スパゲッティ)から👻(幽霊)への流れは、予期せぬ展開や幻想的な要素への移行を示唆しているかもしれません。スパゲッティを食べている最中に突如現れる幽霊というイメージが浮かびます。
👻(幽霊)から😭(泣き顔)への流れは、驚きや恐怖から悲しみへの感情の変化を表しているかもしれません。幽霊の存在によって人が驚きや恐怖を感じ、それが悲しみや絶望につながっていると解釈できます。
😭(泣き顔)から🌪(竜巻)への流れは、感情の激しさや混乱を表しているかもしれません。泣き顔から竜巻への移行は、感情の嵐のようなイメージを思い浮かべさせます。
🌪(竜巻)から🙌(手を上げる人)への流れは、苦境からの脱出や希望の象徴として解釈できます。竜巻に巻き込まれていた人が無事に脱出し、手を上げて喜びや安堵を表現しているイメージが浮かびます。
🙌(手を上げる人)から🐌(カタツムリ)への流れは、速さやエネルギーからのゆったりとした移行を表しているかもしれません。手を上げて喜ぶ人からカタツムリのゆっくりとした動きへの変化があります。
🐌(カタツムリ)から🍅(トマト)への流れは、もとの状態や循環を示唆しています。カタツムリがゆっくりと移動し、最終的には最初の要素であるトマトに戻るというイメージです。
書き直し。
ダラダラと、曲への思いを書きました。谷川俊太郎の詩による合唱曲ふたつ…曲:三善晃「生きる」と曲:木下牧子「ネロ」についてのとても個人的な感慨。最初の方、書けなくて意図的に主語を拔いてるので読みにくくてすみません。ていうか、無駄に長いので読まなくていいですごめんなさい。
全部谷川俊太郎って演奏会を明日やるんだけど、中の2曲が自分の経験に強く結びついててちょっとだけ抱えるのがしんどい。
去年の夏、子供の誕生日にお祝いを頂いたのでお礼の電話をした。子供からもお礼を言って、その時に「また遊びに行くね、今家族で音取りしてる曲があるんだ、遊びに行ったらみんなで歌うから聴いてね」なんて言っていた。
数日後、会社で仕事をしていたら人事から電話があった。なんだろうと出てみたら配偶者から代表電話にかかったのを取り次いでくれたのだった。
数日前に電話したばかりなのに、亡くなったのだと聞かされた。家事支援のヘルパーさんが発見してくれたということだった。電話を切ってから自分の携帯を見ると配偶者からたくさん着信があったとわかった。
会社は早退して駆けつけた。
病院ではなく自宅でだったので、そのあと警察署で手続きやら葬儀社の互助会の書類探しやらで、気がついたらその日にあった合唱団の練習は無断欠席していた。
「生きる」だった。
ちゃんと予習してなかったのでぶっつけでの参加だったけど、タイトルからして親しい身内を亡くしたばかりの自分には重そうだなあ、そんなことを思いながら歌い始めた。
うちの団はパート練習はなくて、音取りは自力でできるのが前提なのだけど、実は私にはそこまでの力はない。♯や♭が多くなりリズムが複雑になるとキーボードを叩くのもたどたどしく実用性がない。その代わり楽譜を見ながらの耳コピは割と速いので、既に歌えている周囲を聴きながら声を出していった。
曲は「生きる」。まあ、三善晃だし、ソプラノはそんな難しくはない(難しいけど)。
……谷川俊太郎の詩によって、「生きているということ」がどんなことか、語られていく。
それはのどがかわくということ
木もれ日がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
孤独を感じる曲に影響されてか、詩の内容が全部亡くなった人を思い出させる。のどの渇きも、木漏れ日の眩しさと、くしゃみが出そうなムズムも、亡くなってしまった人は感じないことだ。だけどほんの少し前には感じていたのだ。あの人も。
くしゃみをすること、手をつなぐこと
と続く。
「くしゃみをすること」までは生きていること一般の話だったのが、急に、自分の手と存命中のあの人の手をつなぐイメージにおそわれて、───しかし私は一度も手をつないだことはなかった、これからも、もう決して手をつなぐことはないのだ……。
これから介護があるのだろうとぼんやり思っていた。長生きの家系だから、私の今後15年程は、あの家で、あの人と身体をふれあわせて暮らすのだろうと思っていた。
そうはならなかった。
寂しがりなところがある人だったから、一緒に住みたいとおそらく願っていたと思う。
そうはならなかった。
私が選ばなかったからだ。選ばないまま、亡くなってしまったからだ。
私は亡くなった人と手をつないだことがない。
曲はまた、「生きるということ」のいろいろな姿を歌っていく。自然や科学や芸術や…歌詩に出てくるミニスカートは何かな、生命力?若々しさ?を歌う。
あの人はもう、新しく美しいものに出会うことはできない。最後の電話で話した、子供たちの歌にも出会ってもらえないままになってしまった。
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこが揺れている、揺れているということ
いま、いまが過ぎてゆくこと
不穏な曲調で産声や兵士の傷が突きつけられ、それをぶらんこの往復運動が包み込み、ただ時間が過ぎる静けさに着地する。
生も死も同じ時間の中にある。
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
生き物の、自然の、あるがままの姿を歌った流れで「人は愛する」なんて、谷川俊太郎ずるいよね。あぁそうなんだと思わされる。
もちろん、愛さない人もいる。羽ばたかない鳥も轟かない海も這わないカタツムリも存在する。けれどできてない個体のことは今は措く。
それができている個体はなんと尊いことか。生きるということの意味を、「人は愛するということ」ととらえられる、かもしれない。もし私が愛さない人間でも、愛する可能性がある希望。
そして曲はまた、
あなたの手の
あなたの手のぬくみ
生きるという生きるということ
「あなたの手」に戻ってきて、命とはなにか、生きるとはなにか問いかけるように終わる。
私が繋がなかった手のぬくみ。
一人暮らしだった家は空き家になった。夏のことで、風を通したり、植木鉢やあとから頂いた供養の花に水やりをしなければならず数日おきに通った。
空き家にはピアノがあり、風通ししている間の時間で音取りをした。難しい音階を苦労して弾いた。
子供が小さい頃みんなで遊びに行くと、いつも初見でなんでも伴奏を弾いてくれたあの人がいたときのままの部屋で。ピアノには練習していたらしい楽譜が開きっぱなしだ。胸が苦しい。
亡くなった直後のショックや悲しみは今は薄れている。
でも練習で歌うたびに、空き家に風通しに行くたびに、拙く練習したのが思い出される。
去年の夏の、古い家特有の湿り気のある空気やあまりワット数の高くない蛍光灯の薄暗さ。
今日はリハーサルで明日が本番だから、終わったらしばらく歌うことはなくなる。
もう去年の夏を思い出すこともなくなるのか、いや曲を聴くたび一生思い出すのか…。
これはまた、ストレートな死の歌で、主人公の「ぼく」が子犬の「ネロ」を亡くした経験を歌っている。
しかも
もうじきまた夏がやってくる
(中略)
おまえはたった2回ほど夏を知っただけだった
と、「夏に親しい者を亡くす」という、私の経験ととてもリンクするシチュエーションなのだ。
主人公は「もう十八回の夏をしっている」とあるから、若者だ。それは私とは違うけれど、私の子供たちとはとても近い。
何でもかんでも自分と関係があるように捉えるのは無理筋ではあるけれど、私にはこの曲はうちの子たちが別れをどう受け止めたのか、の追体験のif…みたいに感じられる。
今、6月だ。もうすぐ本格的な夏が来る。
もうじき又夏がやってくる
しかしそれはお前のいた夏ではない
又別の夏
全く別の夏なのだ
去年の演奏会には来てくれた人が、今年はもういない。
お盆あたりには親戚が集まっていたあの家で、今年は新盆をどうしようか、コロナもまだ猛威をふるっているから集まるのは無理だろうか。
去年の夏、せっせと通って水やりをした植木鉢も、一年草はみんな枯れて、鉢から抜いてゴミに出して、鉢も片付けてしまった。
曲は、しかし喪失を嘆くものではない。疾走感とともに「新しい夏」の到来、「新しいいろいろのことを知ってゆく」ことを歌う。
たびたび出てくる「知る」という営為。
そして僕は質問する
いったい何だろう
いったい何故だろう
いったいどうするべきなのだろうと
主人公は何を知りたいのだろう?
なぜネロは死んだのかを?
私にはそんな凡庸な問いしか想像できないが、案外それも全くの的外れでもない気もしている。
詩のなかで飛び飛びに3連に渡って繰り返しネロを思い起こし、
それは死せるネロとともにあるようだけれど、決して停滞ではない。ネロを胸に抱いたまま、
もうじき又夏がやってくる
新しい無限に広い夏がやってくる
そして僕はやっぱり歩いてゆくだろう
新しい夏を迎え 秋を迎え 冬を迎え
春を迎え 更に新しい夏を期待して
そこには若さがある。喪失を抱えていても新しいものを貪欲に取り込む力強さ。
(願わくはうちの子たちもそうあれかしと思うけれどそれは親のエゴというもの、彼らには彼らの受け止めかた、歩みかたがあろう…)
私自身は、「全く別の夏」というところからまだ身動きできないでいる。
冬場からこちら空き家に通う頻度も減ったが、また雑草の伸びる季節になって、草を引くたびに「この家を高齢でよく維持していたものだ」と感慨にふける。
家の中はまだ手つかずで存命の頃と何も変わらない。カレンダーの書き込みもそのまま。去年、子供の誕生日のお祝いを送るためのメモ書きも、電話の横のメモ帳にそのままある。ただ留守を預かっているだけ、という感覚から動けない。
それなのに全く別の夏が来てしまう。記憶が上書きされてしまうのが切ない。感傷だ。感傷だが、血縁ではない私とあの人は、客観的に見ればけっこう長い年月、長い時間を一緒に過ごしていたわけだ。
まだもやもやと引きずってはいくけれど、そういうものなんだろう(ああ、しょうもないまとめになってしまった)。
(「あの人」と書いているのは配偶者の母ですが、普通に表記するとちょっと生々しくて書けなかったので…表記で距離を置かないと吐き出しにくい)
といった書き込みで溢れていた。
ちなみにこのガトリング砲というのは、戦隊ヒーローの合体ロボの補助パーツになるチビロボットのことだ。
キングオージャーは5つの国の代表選手がそれぞれ変身して巨大ロボに乗り込んで合体して敵をぶっ殺すという特撮だ。
その合体ロボの本体ではなく補助的な武器としてガトリング砲を背負ったカタツムリが登場したのである。
ガトリング砲が自走しているという絵面に突っ込むのは分かる。
たとえそれが巨大レーザーメスだろうが巨大ヒアルロン酸注射器だろうが町中を自走していたらヤバイ絵面なのは事実だ。
だがそれらと「美と医療の国」という部分の繋がりに疑問を持つことはなかっただろう。
ガトリング砲はアメリカの発明家リチャード・ジョーダン・ガトリングによって1862年に発明された。
ガトリングは元々発明家であったが1850年に自身が天然痘にかかったことを契機に医学について学ぶことになる。
だがガトリングの興味は医学博士を取得する頃には発明へと再び移り、医師として活動することはなかった。
1861年から始まった南北戦争において多くの兵士が死亡しているの見た時、彼の中にあった医療への情熱が再び燃え上がり「1人の兵士が100人分の働きをすれば、戦争の犠牲者はそれだけ減らせるだろう」という着眼点からの発明が始まった。
かくして作り出されたのが1人の兵士が100人分の銃弾をばらまく兵器たるガトリング砲である。
ガトリング砲とは、自身が病に苦しんだ経験から医療を学んだ発明家が、同じく病の苦しみの中に消えていった(初期の戦争における戦死は銃創によ即死よりもそこからの化膿などによる死が多かった)者達を減らすために作り出した兵器なのである。
と書き込んでしまう。
恐ろしいことだ。
こうした知識継承の失敗はゆくゆくはマナーや反省といったことにおいても起きているのだろう。
オタクの歴史には多くの過ちがあるが、それらを乗り越えてきた歴史さえも失われてしまうのだろうか……。
オタクよ……後世のオタクを育てるために何をすればいいか考えるときがお前たちにも来ているぞ。
失われゆく技術をテーマに刀鍛冶なんかを主役にした物語は数多く描かれているが、それが自分たちのオタクとしての教養にも当てはまるという自覚がオタクたちには無いのではないか?
大丈夫か?
「着るビーズクッションが欲しい!!」
と声高らかに叫んだ夜のことであった。
眠りの中、私はビーズクッションの夢を見ていた。家具が一切無い広々とした部屋。私は緑色の着るビーズクッションを着て、すべすべなフローリングの床に寝転がり、文字通りゴロゴロしていた。
私はふと、もしや手足をシュポッと内側に引っ込めたら完全無欠の防御になるのではないか、と思いついた。たとえ高いところから落ちてもクッションが衝撃を緩和するのだ。すばらしい。ずんぐりした深緑の塊。そのシルエットはまるでアボカドのようだ。完全無欠のアボカド。これは凄いよ!と心の中で拍手をした。
そして私は備え付けのトランポリンの上に乗り、勢いよくジャンプした。身体は宙を舞い、フローリングに向かって落下、ここだ!私は、自分の腕と足と首をクッションの中にシュポッ!と引っ込め、シュポ…あ、あれ?首ってどうやって引っ込めるんだっけ? え、ウソ、ヤバイ、落ちる、落ちる。激突。
全身に鈍い痛みが走る。首が回らない。指一本動かせない。これってもしかして、死……。私、死ぬのか。こんな姿で。そうだ、せめて首を引っ込めよう。そうだ。完全無欠の、アボカドになって私は死ぬんだ。ゆっくりと、カタツムリが這うようなスピードでゆっくりと、首を格納する。
意識が遠ざかっていく―――
目覚めたらアボカドになっていた。