はてなキーワード: オマージュとは
・西洋医学に対して~と、頑なに現代医療のことを「西洋医学」と蔑称する。
・●●の語源はギリシア語で云々、と名称にさも権威があるかのように自称する。イメージ戦略からか何故かギリシア語が多い。
・トータルで、全身の調和、身体全体を見て、と個別部位に集中しない治療であることを強調する(頭痛に対して足などかけ離れた部位に刺激を与える治療などに根拠を与えるためと思われる)
・その一方、癌やアトピー、更年期障害など現代医療で劇的に改善ができない特定病因に効果があることを匂わせる。癌が含まれる確率は非常に高い。
・自然治癒力を高め、という一節が入る場合が多いが、その医療行為が具体的に自然治癒力の向上にどう効果があったのかを示すデータがあがったためしはない。
・自然、ナチュラル、ロハス、といった耳触りのいい言葉が多用されるが、それらの単語を厳密に自己定義することは無い。大体がその医療行為にとって都合のよい状態をもって"自然"と称することが多い。
・どこかのオマージュなのか「近年見直されている」という接頭語がつく。
・現代医療(西洋医療と記述される)と併用されることは薦められないが、同種の代替医療との親和性は高く、単独の代替医療行為だけで医院が開業されていることは稀である。
「もしドラ」読んだ。順番逆だけど「小説の読み方」も参考にできたので面白く読めた。
感想を一言で言うと「第一章は素晴らしい」かな。まだ読んでない人も第一章だけは読むといいと思う。
追記:
いろいろ書いたけど、結論としては「ヒカルの碁のオマージュ」でいいような気がしてきた。
1章で主人公の人格を描き、2~7章でマネジメントを描き、最後に対決の場を用意する。
こういう時は、どちらを優先させるべきか、という主従関係を考えさせる。
「マネジメント」をドラッカーやQBのような人格的存在ではなく、主人公が一方的にアクセスする存在にしたのは
あくまで最後まで「マネジメント」が常に上位で、主人公はそこから学ぶ存在であるとするためだろう、と。
1章以外があんまり面白くなかったのは、主人公がまったく動いてないからだと思う。
ヒット作の基礎としてもっと研究されてもいいかもしれないなー。
このマンガは、戦争という、誰が描いたのかしれない、とてつもなく大きく理不尽な物語に巻き込まれた人物の、「あれは一体なんだったのか」という理不尽を徹底して問うているものだと思います。 そのために、膨大な書籍を読破し、引用し、言葉の限りをつくして、主人公はその理不尽さに対峙するのです。これは作者の大西が戦中言いたかったことのすべてを、「これは一体何であるのか」という世間への問いを、主人公に代弁させているのではと思います。
しかしそれは、どんなに言葉を尽くしても語り尽くせるものではなく、それがいったい「何」であるかなど、断定することはできません。多くの死者と悲劇を産み出したものが「何」であるかを説明などできないのです。しかしその「説明することのできなさ」、そして「何」であるのかを誰も知らぬままにただ抑圧されてきた者たちの鬱屈、そういったものが描かれているのではないでしょうか。
私が戦争体験がないのと同様、漫画化したのぶえのぶひさにも、戦争体験はありません。それでいて、軍生活の細部までもを絵で表現するという「無謀」に挑戦するのは、抑圧された者の語り得ぬ言葉の鬱屈さを彼も抱えていて、語りたい、言葉が欲しいという、ただ一つの情熱ではないかと思います。 戦争はたくさんの人から言葉を奪いました。そして今も、たくさんの人が自分のリアリティについて、語る術を持たず、沈黙を強いられています。そういった人々が何かを語らんとしたとき、それはダムの決壊のような勢いを持って、言葉の放流となって私たちの前に現れます。 私たちはそれにとまどい、それが「何」であるのかを理解できません。言葉はあまりに複雑で、あまりに多すぎるからです。そして、その言葉の放流を前にしたとき、私たちは「閉口」するのです。主人公の東堂に論破される人々のように。
そして、語っている本人ですら、もはやそれが「何」であるのかなど、分かってはいないのかもしれません。ただ、その語り得ぬ「何」かを、その「説明することのできなさ」を、他者に言葉を尽くして「説明している」のだと思います。オマエはこれを知っているのか、知っているなら語ってみよ、説明してみよ、と迫るのです。そして誰も説明できずに、言葉を飲み込むしかないのです。 これだけの言葉を尽くしても、決して説明しえない理不尽があり、これだけの言葉を用いて25年かけても昇華されない痛みと悲しみと怒りがある。極力まで押さえた表現からにじみ出てくるもののすごさに、私はただただ、言葉を失って、圧倒されたのでした。
これは大西巨人の「神聖喜劇」という作品のコミック版に対する感想。
作者が最も描きたかったのは回心的な体験の部分であろう。主人公が立ち上がる部分。
つまり冒頭に当たる一章の部分。ここの描写は良いと思う。
(2)・宗教的な救い、
・自分の居場所、方向性
おそらく、作者自身がそれを体験し、誰かに伝えたいという強い思いから、この作品は書かれたのだと思う。
その意味で、彼が「もしドラ」の後に「小説の読み方」の本を書いたのも、彼の中ではつながっていると思われる。
というより、「もしドラ」と「小説の読み方」では全く同じことを言っている。「***との出会いは人生をすくう」ということだ。
彼が今後別の話を書くとしても、おそらくこういう「師匠との出会い」「良い本の出会い」がテーマになるのではないか?
そこから解放されること(抗うこと)をを欲してやまない、それでいてその望みを自覚できないほど自らを抑圧している主人公が、
ある言葉との出会いをきっかけを手に入れ、人生が救われる、という過程、いや瞬間。それを描ければきっかけはなんでも良いのである。
実際、ラノベでも中二病小説でも、似たようなテーマは手を変え品を変え書かれている。
ただ、この作品は他のものと少し違うところがある。
「生まれ変わりたい」という主人公の思いとその実現がまっすぐ、なんのひねりもなく寄り道もなくそのまんまベタに書かれているということだ。
そこに一切の照れもなければ、言い訳もない。ラノベにありがちなごちゃごちゃした設定も全くない。
高校野球の部活というありきたりの舞台で、今時一般的には口にだすのも恥ずかしいとされるようなまっすぐな思いだけを描いてる。
読んでるこちらが気恥ずかしくなるほどのストレートど真ん中な感じは、なんだかすこし懐かしささえ覚える。
話の筋書きや細かい描写などはツッコミどころ満載だが、むしろその不器用さが「青少年の主張かくあるべし」という感じで好ましい。
この正直小説と読んでいいのか迷うくらい本当に「まっすぐ」な部分は珍しいと思うので、食わず嫌いせずにぜひ読んで欲しいと思う。
なぜ人が宗教を求めるのか、知識を求めるのか、物語を求めるのか。
そういう根本的な部分についての彼の思いを語ろうとしている点ですごくよかった。本編があとがき、みたいな何かを感じた。
この作品で重要な存在としてとりあげられるのは「マネジメント」についてだが、
別にこの作品は主人公が読む本が「マネジメント」でなくても代替が可能である。
実際には、普通の日本の高校生にとって、マネジメントの代替物になりそうなものは現実的には少ないと思うが、
この作品の主人公にとってほんとうに重要なのは、作中で多数引用されている中の、ある一節の文章だけである。
その一節が、主人公の中にある価値体系を肯定し、主人公の人生の希望となる・・・この部分の描写が全てである。
故に、この作品はマネジメントが中心にはない。マネジメントのなんたるかを描こうとした作品ではない。
ただ、このあたり、一章で提示された最重要な部分と、マネジメントの説明の混線が2章以降に見られるような気がする。
正直に言わせてもらうと、最終章以外は読まなくても良いと思う。
一章とまるでテンションが違う。
必要がないとまでは言わないが、もうちょっと何とかならなかったのだろうか。
なぜすばらしい一章から、こんなふうに続いてしまうんだろうか、よく理解出来ない。
下手なエロマンガとかだと、最初の出会い部分とエンディング以外は
登場ん人物の人格とか細かいことはいいからエロだけやってりゃいい、みたいな展開になることがよくあることなんだが割とそれに似ている。
一時期、PUNKにはまってたことがある。HR/HMを聴くことに疲れたときに、PUNKを聴くと元気が出た。毎月CD屋に行っては、視聴コーナーに陣取って、聞いたこともないバンドのCDを買っていた。
そんなときに買ったものの一つに、"Welcome To The Looserville / Son Of Dork"がある。日本発売は2006/02/22。ライナーノーツを見ると何か書いてあるんだけど、まあ詳しい経緯は置いておいて、このアルバムにも収録されている"Ticket Outta Loserville"(ほぼアルバムタイトルですね)は、en/Wikipediaにもある通りUKで初登場三位になったらしい。実際に聴くと、ポップで明るくて単純にいい曲なんだけどね。オマージュ云々はこの界隈の標準だし。しかし、このバンドは全く日本では流行らなかった。当時まだ、BURRNとか毎月読んでたころだと思うけど、特集記事を読んだ記憶もない。
そんなこともまあどうでもいい。所詮UK三位くらいじゃニュースバリューも小さいのかもね。でも、その"Ticket Outta Loserville"の歌詞は実は結構Nerdっぽかった。概ね、"17歳のときにフットボールチームに入れなくてチェス・クラブの会報を作っていたような人間だけど王様ゲームで周りに爆笑されながらデートに誘ったら上手くいって夢みたいで信じられないけどマジっぽいからもうSTAR TREKのコレクションはいらないからしまっちゃったんだけどマジになったらフラれちゃって夜になっても叫んで目を覚ます状態なのにスコッティは助言もしてくれないしまたSTAR TREKのコレクションを出してそろそろ諦めないとね"、という感じ。これは賛否両論いろんな意味で日本のサブカル界隈でも盛り上がるのでは、と思ったこともあったんだが、実際はそこでもまったく盛り上がらず。そのころは、"ハレ晴れユカイ"のオリコンランキング入りで忙しかったらしいね、その界隈は。
そのときにいわゆるオタクに対して思ったんだけど、「こいつら偉そうにいろんなこと言ってるけど、本当のところは自分の周りのチャンネル以外は全然見ていないし、かなりアンテナ低いんじゃねーの」って言われても仕方ないのでは。だって一応UK三位だぜ。それに比べて(文庫は名作と言えるかもしれないが)ハルヒのアニメの主題歌(EDか)ごときがなんだってのさ。
#なんだかんだでニコ動にはあるみたいだけど、あること自体が著作権侵害的にどうだかっていう感じだしそもそもアップロード自体が日本発売からも遅いし盛り上がってもいないしなんなんだって感じ。
カミナ死亡時点で
ちゃんと「うわあ、大将がやられたー、もうダメだー」という感じ、しましたか?
私はしませんでした。
カミナはそこまで頼りになる奴でもかっこいい奴でもなかったからです。
どうにも短慮でうるさく、たまにシモンに説教のそぶりをするけれど
全体には薄っぺらいオマージュとしての「熱血の所作」を繰り返す、
ひどい言い方をすればただのコスプレオタクのようだったからです。最期まで島本和彦にしか見えない。
いつも大声を出して周囲に喝を入れる、
常に敵を侮るような威勢のいい主戦論を喚く、
そんなのはせいぜいナンバー3以下のやることであって、大将の器にはそれでは足りません。
平時に意外な仁愛や理非分別を示すだとか、
危しと見れば全軍を取りまとめて手際よく引き揚げるような判断力を見せるだとか、
そのような描写を少しずつ積み重ねてあれば
カミナに将としての深みが出たでしょう。
「うわあ、もうだめだあ~」となれます。
要するにカミナは「大将」ではなく「ちょっと強い鉄砲玉」にすぎませんでした。
もっとリットナーの歩兵達を労わったり連携して生かすような描写があれば将の器でしたでしょうが
シモンの面倒を見ながらエース機体で勝手に突っ込んでいくだけなので、ただのエース、つまり1兵卒です。
もともと脇役機体や歩兵達はカミナを見ているだけでカミナに生かされてはいませんでしたから。
そりゃあ鉄砲玉が死ねば「次からどうしよう」と困惑はしますが、それだけです。
「うるさい熱血キャラ」としてのお約束の諸所欠点はまあいいとして、
極論すれば、カミナが実はシモンに助けられている、と視聴者にわかってしまうような描写は
カミナが死ぬまでは一切出すべきではありませんでした。
OPとかパッケージでも嘘をついて
カミナを堂々唯一の主人公であるように描き
シモンはロシウみたいな脇役野郎だとミスリードするぐらいでもよかったのではないでしょうか。
『ベルセルク』でもそうでしたが
グリフィスが転落(ガッツに去られたせいで)する前にはグリフィスの隠れた弱さの描写なんか要らないのです。
馳星周が「自分ならこんなとこでグリフィスの心理描写は入れない」と言っていましたが全くです。
カミナの生前からシモンがパイロットとして活躍する必要は、あったでしょうか?
単なる乗り合いメカニックだとか
もっと言えば後衛でオペレーターやってるというのでも良かったはずです。
「元から一緒に乗り込んでいるエースの片割れ」であれば
カミナ亡き後にカミナの代わりを求めらるのは自然な惰性にすぎず、あまりドラマチックな転回がありません。
家族の危機から徐々にマフィアらしく豹変して後継者となっていくところです。
戦ってこなかった不肖の弟が
兄の遺志を受け継ぐために豹変して突如グレンラガンに乗り込めばあの名乗りはより劇的だったでしょう。
普通の飛行機ならば未訓練の人間が乗り込むのはリアリティが無さ過ぎますが
「乗り手に根性やテンションさえあれば強くなる」設定の機体ならばおあつらえむきです。
カミナの生前からシモンが一緒に戦っていて、何かいいことがあったでしょうか。
中途半端なシモンの見せ場描写の為にカミナの見せ場が減っただけです。
チェスコ問題でも斉藤和義問題でもそうだけどさ。あとまどかマギカもそうか。
気に入らないのはチェスコ本人じゃなくてその周りで正義の味方ぶってさえずってるバカどもだ。
斉藤和義にしたってオマージュで歌ってみただけ。そして、個人的なものだからすぐ消している。
虚淵にいたっては、作品書いただけで、pixivでランキング占拠したのは別に虚淵じゃないだろ。
あくまで火種を大きくしてるのはその周りのバカどもだ。
ところが明確に批判を受け止められる個人としての顔を持ってるのってチェスコと斉藤和義とか虚淵なんだよな。
そうすると、拳の振り下ろし先を求めてるこれまたバカな奴らが
バカどものやったことをチェスコがやったこととして批判したり、
バカどもの責任も影響力がある人間だからといって虚淵の責任だということにしたり
なぜかバカどもの精神構造と和義の精神構造を一体化して和義を幼稚な大人だと言ってみたり。
それは、違うだろ、と。
和義批判してる人さ。本当に和美自信が気に入らないというなら、和美への批判として書けばいいよ。
でも和義の取り巻きのアホさ加減が気に入らないなら、ちゃんと和義の取り巻きが気に入らないと書けよ。
やってもいなこととか、責任がないことまで全部その特定の個人に負わせてどうすんだよ。
発信した時点で罪、可能性だけで罪。影響力がある時点で罪。そんなんやりにくくてしょうがないだろ。
お前らみたいに批判するしか能がないやつらはそれでもいいかもしれんけど、
この脚本凄いよね。どっから出てきた話なのかすごく興味がある。
たぶん、物語を作る過程に映画バタフライエフェクトは確実に影響しているよね。
1話で出てきた魔女に確か蝶々の奴がいたけど、あれは個人的にはバタフライエフェクトへの
とにかく良くできた物語にある、見る側に与えるコマ切れ情報の提示の仕方の練り込みが半端ない。
多分、最初は意地の悪い大きなお友達向けのエグい魔法少女モノやろうって言う風に見せたかったか、
そのつもりだったのかもしれないけど、そこに『時間逆行』というキーワードが絡んだことで
ものすごく面白い脚本のコアができて、さらに、物語全体の因果関係のルールである
ソウルジェム、グリーフシードっていう、食物連鎖の様な無間地獄状態を徐々に見せる、
最後に1話で隠して隠しておいた『時間』というキーワードで一気に物語に深みを見せ、
そこにすら無間地獄があることを見せる(予想)
今となっては如何にうまく幕を引くかに凄く興味が出てきた。
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
この記事のブクマ(http://b.hatena.ne.jp/entry/umiurimasu.exblog.jp/12210453/)が300を超えたので、逆張りというか、疑問に思った2点、『アメリカ人は本当にタコが嫌いなのか?』『「怖い」という感情に「一神教」と「多神教」は関係あるのか?』ということについて、考えてみる。
ブログ主のumiurimasuさんに対する反論というよりかは、ブックマークコメントの傾向に対する反論である。
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>>ちなみに、魚介類を食べるのがあたりまえな島国文化圏の人からすると、アメリカ人のタコ嫌いというのは、それこそ冒涜的なまでに理解を絶する感覚ですね。
イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、韓国……などの国々は島国ではなく半島国だが、タコを食べる。中国でも食べる。
また、アメリカには昔からイタリア系、スペイン系、ギリシャ系、中国系の移民は多かったし、ポルトガル系や韓国系も少なからずいた。彼らはアメリカでも昔からタコを食べる。
しかも、いまでは寿司や日本料理、イタリア料理やスペイン料理、ギリシャ料理や中国料理はすっかりアメリカ全土に定着した。だから、イギリス系やアフリカ系のアメリカ人でもタコを食べる人は多い。
なので、これは「アメリカ人のタコ嫌い」ではなく「ラヴクラフトのタコ嫌い」にするべきではないか。
「昔のWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のタコ嫌い」にしてもいいような気もするが、やはり、「食べない」からって「嫌い」には直結しない。
タコが全面的に禁忌(「食べてはいけない」)とされているのはユダヤ教であり、キリスト教では一部の宗派のみ。
そもそも、「アメリカ人(あるいは、欧米人)はタコを悪魔の使いとして忌み嫌っている(忌み嫌ってきた)」という説は日本に広く流布されているが、本当なのだろうか。
この説の傍証は、タコは英語で「devil fish」と言われること、および、「クトゥルフ神話」や「宇宙戦争」などでタコが人間に敵対する悪役として描かれているから、ということである。
まず、「devil fish」であるが、現代のアメリカでタコを示す言葉のうち、一般的に使用されるものは「octopus」である。
「devil fish」でgoogleの画像検索をすると、真っ先に表示されるのはエイの画像で、タコが出てくるのは10番目以降である。
さらに、「devil fish」だからといって「タコ=悪魔」だと思っているとは限らない。
すくなくとも、エンゼルフィッシュを天使だと思っている人はいないだろう。
クトゥルーにタコが出てくるのはラヴクラフトが(個人的に)タコが嫌いだったから。
「宇宙戦争」の火星人がタコなのは、原作者のウェルズがタコを怖がっているからではなく、「火星は重力が少ないから頭が大きくなって手足が退化して、タコになる!」という疑似科学的な理論のため。
「インデペンデンス・デイ」などの宇宙人映画でも宇宙人はタコとして描かれていることがあるが、それは「宇宙戦争」(と、もしかしたら「クトゥルー神話」)へのオマージュのためではないか。
というわけで、「アメリカ人のタコ嫌い」という言葉は、「伝統的なアメリカ人」と「最近のアメリカ人」、「主流派(WASP)のアメリカ人」と「少数派のアメリカ人」のタコに対する態度の違いなどを考えたうえで使うべきであると思う。
アメリカ人が日本人に対して間違ったイメージ(「忍者、ゲイシャ」「エコノミックアニマル」「イエローモンキー」)を抱いていることが多いが、それと同様に、日本人がアメリカ人に対して抱いているイメージも、その多くは間違っている可能性がある。
さらに、「アメリカ人」という言葉が文化論において使われるときは、WASPを指すことが多く、黒人や黄色人種、アフリカ系アメリカ人や先住アメリカ人、カソリックのヨーロッパ系アメリカ人などを無視する場合が多い。
たしかに、一面では、アメリカの主流文化はWASPの文化であるが、マイノリティの文化の一部が主流になることも多いし、WASPの文化とマイノリティの文化が影響しあってできた新しい文化が主流になることもある。
だから、「アメリカ人」という言葉をつかうときは、その言葉はいったい何を指し示しているのか、自覚的になるべきである。
このような問題(主流文化とは何なのか?「〜人」は何なのか?)は、移民国家である「アメリカ」を論ずるときには特に注意されるべきだと思うが、日本やイタリア、中国やブラジルや南アフリカ共和国など、どこの国を論ずるときでも、注意したほうがいいことである。
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ブログの記事内では、『ともあれ、そうした文化的理由でクトゥルー神話を本来あるべきように怖く感じられないのだとしたら、やはりちょっと残念です。アメリカ人はほんとうに、日本人よりも怖さを感じているのだろうか。それとも「いや別に、全然怖くねーよ」という感覚なのか。アメリカ人に直接聞いてみないことにはどうにも。』や『こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。』と書かれていて、慎重な姿勢が保たれている。
しかし、ブックマークコメントでは、「キリスト教文化圏では、何を考えるにも常にキリスト教の神を超越者・絶対的存在としていちばん上に置くというものの見方が根底にある」や「日本人の場合、神も仏も混ぜこぜに、かつあいまいに信じていて、絶対的な何かを世界観のよりどころにしていないからでしょうか」という文章ばかり注目されている。
そもそも、欧米の文化や芸術作品・物語が紹介されるときには、「キリスト教的」「一神教世界観」などのマジックワードを持ち出し、日本の「多神教的世界観」と対比させて論ずることが多い(そして、往々にして、「多神教的世界観」の方が寛容で複雑で高度なもの、と優劣をつける場合が多い)。
しかし、例えば日本の文化や芸術作品・物語についても、「神道的」「仏教的」「多神教的世界観」だけでは論ずることはできないだろう。
文化や芸術作品の成立には、もちろん宗教や世界観も大きく関わるが、それだけではなく、自然環境・経済的環境・歴史・政治・偶然など、様々な要素が関わっているはずである。
また、フィクションに対して「怖がる」という反応は、宗教よりも時代と個人的な経験に左右されるものである。
ホラー小説の「人を怖がらせる」技術は年月を重ねるにつれて蓄積されるものであり、現代のホラー小説は過去のホラー小説より「怖い」、ということは一般論として言える。
スティーヴン・キングの作品は、ラヴクラフトの作品と同じくアメリカ人の作家によって書かれた、キリスト教的世界観の影響の強い作品であるが、日本の読者でもスティーヴン・キングの作品を「怖い」と思う人は多い。
「雨月物語」は過去の日本人作家によって書かれた作品であるが、そこに収録されている「吉備津の釜」は江戸時代の日本人が読んでも「怖い」と感じたであろうし、現代の日本人が読んでも「怖い」と感じる人は多い。
しかし、現代の日本人である鈴木光司によって書かれた「リング」は、おそらく「雨月物語」よりも多くの日本人読者を怖がらせると思う。
だが、スティーヴン・キングの「シャイニング」や「クジョー」と鈴木光司の「リング」のどれが一番「怖い」か、ということは、現代の日本人でも読者によってそれぞれ違う。
さらに、「リング」はアメリカ人が読んでも「怖い」という評価を得ている。
ここにラヴクラフトを代入すれば、ラヴクラフトが「雨月物語」よりも怖いと思う日本人もいれば、「リング」がラヴクラフトよりも怖いと思うアメリカ人もいるだろう。
彼らの「怖い」という感情には、多少は「一神教的世界観」「多神教的世界観」が関与しているかもしれないが、それよりも個人的な趣味や感性(「ホラーに慣れているかどうか、じわじわとくる恐怖に弱いかびっくりさせるような恐怖に弱いか」「日常的な恐怖に弱いか、非日常的な恐怖に弱いか」などなど)の方が強く関与しているだろう。
つまり、ホラー小説の話題で、「キリスト教の世界観」「多神教の世界観」にばかり注目するのは、適切ではない。
また、ホラー小説の話題に限らず、欧米の文化や芸術作品・物語について考えるときに、「キリスト教」「一神教的世界観」に還元させるのは適切ではない。キリスト教の影響はあるかもしれないないかもしれない。あったとしても、強いかもしれないし、弱いかもしれない。
「一神教的世界観」というマジックワードで説明されることで、安易に「理解した」と思いこむのではなく、宗教や世界観以外の、他の側面からも考えることが必要である。
普段はあまりアニメを見ない人間なのだが、勧められて友達の録画を貸してもらって観た。8話まで観た段階の感想。
俺のスペック
・アニメはあんまり観ない。漫画も、数冊をコミックで定期的に買う程度
・友人にはSE等多し
登場人物の名前は一応Wikipediaで調べたのであってると思うけど、間違ってたらすいません。
結局、メッセージとしては「努力」「まじめ」が必ずしも報われないって事。人生楽しもうよってこと。
人生の優先順位は何なのか。仕事ってのは人生の手段であって目的では無い。ってことかな。
人間の精神が壊れるって事と、会社で働くって事が描かれている。
人間が働きすぎておかしくなっていく様子と周囲の人間の対応が描かれている(実際に、俺は自分の周囲で何人か見てる)
もちろん、物語風の脚色はされているし、他のオマージュ等もあるだろうけど。
以下、それなりの考察
・さやかについて
会社に入り、自分の夢、守るべき人、など諸々のために身を粉にして必死に働く。まじめに文句を言わず働く。
しかし、まじめさや一途さが過ぎるのか、自分の事を後回しにするあまりに結局自分自身が壊れてしまって
元も子もなくなる。適度に力を抜くということができない。いつも必死。俗に言う「社畜」。
何が一番重要なのか、本末転倒で人生の優先順位が間違っている。
「たまには力を抜いて休息を取ることが最終的にはプラスの結果になる」ってことを冷静に理屈で
理解できない。まじめさが報われると信じている。ただ単にまじめであることが価値だと思っている。
・まどかについて
そういった、まじめすぎたり働きすぎたりして壊れてしまう人の周囲にいる、トラブルメーカー。ぶっちゃけ、こいつが問題を大きくする。
偏見かもしれないが、たいてい女。まさに「まどか」のように、要領の得ない話をグダグダと言うしゃべり方をする。
現実世界では、壊れてしまう男の彼女か母親ってパターンが多い。彼や息子が壊れてしまうって
ことを理解できず、精神科にも行かせない。現実を受け入れられずに「ちょっと疲れてるだけだから」
とか言う。
冷静に解決策を考えることができずに、目先のことにあたふたして、変な信念で行動したりして余計に問題をややこしくする。
「まどか」本人は、必死で「さやか」のために尽くしているつもりだから余計に質が悪い。
それを言うと「私はこんなに彼のために尽くしてるのに!」みたいに切れるパターン多し。
でも、彼のことを考えているとかいいつつ、実際は自分のメンツ等の方が大事だったりする。
で、被害者ぶっていたり、「まどか」自身も引きずられて精神を壊したりして、
余計に被害が拡大する。アルコール依存の場合は「イネイブラー」に相当するかも。
・ほむらについて
正論を言う人。だいたい、第三者か、それほど親しくは無い(利害関係はあまりない)男の友人ってケース。
「病院に行くのが根本的な解決でしょ?それをせずにグダグダ悩んでも意味ないでしょ」
等を言う。俺個人としては「ほむら」に非常に共感するところ多し。
パターンとしては2つあって、介入して必死に頑張るケース(アニメで描かれるのと一致)と、
深入りすると自分も引きずり込まれるってわかってるから適度な距離を取りつつ冷静にアドバイスできることだけはするケース。
いわゆる一つの理想像。「さやか」との対比として登場し、正論を言う。
いや、「正論が通すことが常にベストでは無い」「必死にがんばることだけが人生では無い」という教訓。
適度に頑張りつつ、適度に力が抜けていて、良いキャラクターだと思う。まさに、理想の働き方かもね。
http://anond.hatelabo.jp/20110225150532
http://anond.hatelabo.jp/20110225150733
http://anond.hatelabo.jp/20110225143641
うんうん、そういう話は読んだし、OPにも黒猫がでているし、わからなくはないよ。
でも、他の作品にかぶせるのはオマージュっていって、深く読み解くには有用なんだけど、それを知らずにいきなり「まどかが昔猫飼ってました」とか、
唐突に「ねこ拾いました」とか展開されても、ストーリーテイリングとしては未熟な気がするんだよね。
だから、ここまで出ていない猫が重要な位置づけにくるっていうのは、現時点では少し微妙だなって思ってるんだよ。
もちろん、今後に、唐突ではないうまい出し方で猫が登場すればそれはそれでいいと思うけどね。
例えば、きゅうべえの本体がいい猫で、悪いのに寄生されてた、とかね。
元増田ですが、文章下手でゴメンだけど、元増田でもそういうことも言いたかったんだ。
伝わらなくてゴメンご。
で、
当事者的にはハッピーエンドなんだけど、客観的に見ると歪なバッドエンド、になると予想してます
「鏡の世界」がヒントになってそうだけど
なるほどねー。
確かにそれもありだなー。
シンジくんが一回補完されたあとの溶け合った世界での葛藤みたいなんがあって、そのあとアスカと復元する、みたいなイメージでいいのかな?
でもなんだか、まどかにとったら、契約しないっていうのが一番難しい道で、自分を確立しない限り契約しないって選択はできないと思うんだ。
一見無責任に思うかもしれないけど、契約しないですべて忘れる、っていうのも、ひとつの幸せになる道なんじゃないかなって気もしてるんだよねー。
ああ、ほんとにどうなるんだろうねえ?
完結していない作品を批評するのって、批評家としたらやっぱりナンセンスなんですかね?
まあ、ファンがうだうだ言ってるってことで許してください。
>「本家があって自分の作品があります」みたいな態度やリスペクト精神が感じられる。
やっぱこれが一番かなあ
「公表したんだから引用されるのは当然だろ?合意の上でセックスしたんだろ?」
みたいな態度だと
「・・・」なかんじで後味悪いよね
何かこの頃そういうの多くてやなかんじ
>作品中のオリジナル部分に引用元作者が思わずニヤリとしたり、感心するようなネタを仕込んでいる。(引用元作者と趣味が合っている。「お前とは美味い酒が飲めそうだ」と言わしめるような感じ)
これは難しいかな・・・
作品に対する愛とかはわかるんだけど、ちょっと賛同できないノリで書いてるとかさ・・・
控えめでいてイヤミがないってのは、難しいよね
>確かに他人の借り物の部分はあるが、作者オリジナル部分と借り物の部分が合わさって絶妙な味わいを出し、とても良い作品に仕上がっている。
これが一番難しい
多くの場合原作に引きずられて、原作が好きでオマージュしたいのに原作をパクってるだけってのになったりするよね
多分小説系を想定してるんだろうけど、学術系論考系だと「それってオレが調べ上げたんだけどなあ・・・」みたいに
他人の調査をそのままおいしくいただきました、て感じになって不快度数上昇しちゃうんだよね
好意があっても嫌がられてしまうって感じかなあ
ヌケる、ヌケ無い以前に、ブランド付いてなきゃ売れないだろ。
村上隆のブランドを付けないでワンフェスに持って行ったら売れないだろってフィギアを、
芸術だ何だって、あたかも日本のオタクのアイコン的な扱いされてるのが気に食わんのだと思うよ。
例えば、ヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展のわたおにフィギアは、叩かれるどころか、オマージュされたりしてたし。
現在のオタクのニーズに即していれば、アイコン的な扱いされても何も問題は無い。
あの人が表現しているのは、1980年代のオタク界隈を表したものであって、あの頃のサブカルの仄暗いエネルギーでしょ。
人間は神になれる。なぜなら神とは人間がつくった概念に過ぎないから。そんなものをつくったのは自らの能力に限界があり、その限界を突破することを本能が妨げていたからだ。
科学は人を解き放つ。自然という巨大な存在の前にひざまずくのではなく、人類が自然を管理する。
そもそも人類は好奇心を持ち、世界を探求したいという欲求に駆られてここまでやってきた。
その先にあるのは、大いなる母たる自然との対立に他ならない。母たる自然は人類が赤子のままでいることなど望んでいない。そうでなければ、人類に「知恵」と「好奇心」など与えなかったはず。
現在のところ母たる自然は何も言わない。だが、自然は人類を滅ぼしたいわけでもない。私が思うに、自然は人類がゆりかごから飛び出し、新しい世界へ旅立っていくことを願っているのだと思う。
いずれ何億年か後、この地球は太陽に飲み込まれる。その時、地球という小さな星の「記憶」を持ちだせるのは、知恵あるヒト、人類だけである。
人類は太陽系を越え、外銀河、外宇宙へと地球の種を運ぶために母たる自然が用意した「手段」の一つなんだと思う。
文明はすべて自然の上に成り立っているし、文化は自然のオマージュでしかない。つまりいくら自然から離れようとも本質的に人類は自然と共にある。
しかし、自然そのものは成長しすぎた人類がおさまるには小さすぎるゆりかごだ。小学校に上がった子供が、赤ん坊用のベッドで眠れるわけはない。
だから人類は新しい世界、すなわち人類にとっての理想の楽園をつくらなければならない。
現在研究が進むVR空間もその一つ。環境を破壊し地球の寿命をも縮めるまで大きくなった人類は、もはや自然と共に生きられない。だったら自然をシミュレートしてしまえばいい。人類がつくった自慢の息子、コンピュータの力を使うのである。
VR空間では様々な制御が可能だ。この空間はスーパーコンピュータによって実現できる。VR空間においては、何ら制限されることなく人類の欲望を叶えられる。森の中を舗装された道路で走るという楽しみは、現実空間では自然破壊に繋がり今後は禁止されていくだろうが、VR空間ならそのようなことを考えずにいくらでも出来る。
高さ1000mのビルを建てることも容易に出来、必要ならもっと高くすることも可能だ。現実空間で問題となっている資源の枯渇は、VRの自由な空間には関係がない。
現実とは人類がもっともらしいと感じる度合いが強い世界を指す。ならば、スーパーコンピュータの演算速度と五感のような世界を感じるためのインターフェースさえそろえば、VR空間だって現実空間となりうる。いや、人類が地球環境を本当に保護したいと思うなら、人類にとっての現実空間はVR空間に移行しなければならない。それが人類のためでもあるし、地球のためでもある。
今回の件についてよくある質問を想定して自分なりに返答を出してみた
トレス・模写ってNGなの?
なら何も悪いことしてないじゃん!いじめかっこわるい!
トレスの元となる素材(写真・イラスト)が自作でないことが著作権的に問題
今回は「加工厳禁の有料素材」を「無断」で「サンプル画像から加工」かつ「商業上で使用」のトリプルコンボで超ヤバイ
自分も適当にググって拾った写真をトレスしたことあるんだけど、有料じゃないし別にいいよね?
ダメです
有料かどうかに関わらず、写真というのは基本的に撮影者に著作権があります
「ググって拾える=著作権が放棄されている」わけではありません
元がわかんなくなるまで加工しちゃえばおkじゃね?
ってか小物ぐらい別にいいじゃん…
ダメです
内容が人物だろうと小物だろうと著作権に抵触していることには変わりありません
あなたの描いているものが「作品」であるのと同様に、写真家にとっても写真は「作品」です、あなたの素材ではありません
だからって自分で全部素材集めろだなんて無茶だよ!
※規約はきちんと読みましょう、出典元を明記していない場合は規約違反となることも
素材集ったって限界あるよね…
その気持ちはよく分かります
ブコメでも話題に出ていますが、ものすごく巨大な素材データベースがあればいいな、と…
トレスだぁ?言いがかり乙
例えば「脚を組んで座る人」って誰が描いてもだいたい同じ形になるじゃん?
いちいちトレスだなんだって突っかかられたらもう何も描けねーよ
もちろん誰が描いてもだいたい同じ形になりますが
僅かな描線のゆらぎ、特に手のひらやつま先の形状までもが重ねたときに完全に一致するというのは、相当高度な技術でもない限りめったに有り得ない事です
※ちなみに、どう見てもパクリに見えないようなイラストをトレス発見厨はどうやって黒認定しているのかというと、だいたい手先足先を手がかりにしていることが多い
繰り返しますが、トレスが問題なのではなく著作権の侵害が問題なのです
イラストってさ、構図とか雰囲気とか塗りとか絵柄とかいろんな要素があるよね
こういうのって偶然かぶっちゃうことあるしさ、いちいち著作権なんて言ってらんないでしょ?
部分的に取り入れただけで何が悪いの?芸術は模倣の積み重ねだよ?
こればっかりは何とも言えません
オレンジレンジの曲を盗作という人もいればそうでない人もいるように、何事も受け手次第です
受け手がオリジナルだと思えばオリジナルだし、パクリといえばパクリになる、それが創作だと私は考えています
ただやはり既存の要素を露骨に取り入れるというのはそれなりにリスクのあることであり、
そのへんを上手く取り入れた作品は「パロディ」「オマージュ」「リスペクト」として好意的に見なされるのではないかと
じゃあ取り入れること自体は悪くないんだね!
もちろんおk
ただし、パロディとは「元ネタが何なのかを受け手があらかじめ知っている」という前提があって初めて成り立つものです
元ネタの分からないパロディなんて、何も知らない人にとっては一次創作と何ら区別がつかないでしょう?
だからこそ、元ネタが有名でないものを、元が何なのかを示さないまま露骨に取り入れると「拾ってきた」「パクってきた」と言いがかりをつけられる危険性があるのです
それを回避するには元ネタを示すか、取り入れる分量を減らすかなどの対策を取らないと難しいです
そもそも何でトレパクって叩かれやすいの?
トレスもパクリもおkってさっき言ったよね?
イラストには、論文と違って「引用や注釈をつける」というフォーマットがありません
基本的には「この枠の中にあるものは全て作者が白紙の状態から描いている」と見なされます
作品中に他から引用された素材が含まれていると、素材の権利状態はどうあれ、「全部この人が描いた」という受け手の前提との食い違いが生じてしまいます
あらぬ疑惑を引き起こさないためにも、たとえ明記の義務が無くとも素材元を一言書いておくのが描き手のマナーかな、と個人的には思います
これだけの素材を見繕って構成してイラストに昇華できるって逆にすごくね?才能じゃね?
本当そうですよね
悲しいけどこれ違法なのよね
で?仮に素材元が勝訴したところでトレス発見厨にとっては何の利益にもならないよね?
何であいつら他人の粗探ししてんの?暇なの?基地外なの?
みんな違ってみんなクズ
「今回の件」とか「あいつら」って言われても何のことかさっぱり…筆者は何と戦ってるの?
言わせんな恥ずかしい
作品を販売して得たお金のみで生活してる人をいうんじゃないの?
違うの?
でも本当のオリジナルって何?
自分でもおかしいと思わないか?
収入の%で認定するのはありだろ。
それとも知名度で決まるのか?
なけなしの金を叩いて個展して手の届く範囲の知り合いしか来なくて
一つまみの人間だけが実家に寄生したり、主婦として夫に養ってもらいながら
だから兼業してるやつは今すぐ辞めろ。
さもなくば創作活動をやめろ。
才能なんか、10代でなければ一生無い。
コネはコミュニケーション能力ないと無理。
女だったらそれなりに股開かなきゃ無理。
引きこもって作品だけ作ってりゃいいわけない。
それすら知らなかったヤツは可能性はひとかけらも無い。
死後、作品が有名になったやつは正直負け組。
生きてなきゃ意味ないだろ。
生きて、作品を評価されなきゃ活動している意味なんてない。
あまりにも無知蒙昧が多いので驚き呆れかえっているところだ。
はっきり言おう。あなたたちには文章を読む素質がない。これっぽっちの才能も持ち合わせていない。
なぜなら文面でこうもはっきりと言い切っている主張を、あなたたちは読み取れていないからだ。
おそらくは気に入らない単語だけに脊髄反射で反発しているのだろう。
私がいつパロディを否定した。前田久くん、キミはライターだそうじゃないか。今すぐ廃業したらどうだ? 同業者としてキミの仕事は全部引き継ぐよ。それが日本文化のためになる。
私の先の文章はパロディやオマージュを一括りにしてゴミ箱に投げ込むようなことではない。
私が言っているのは「作品のクオリティに何の関与もしない、仲間意識で囲い込むためだけの引用」である。
パロディは引用それこそが作品のクオリティに関わるのでこの範囲には入らない。
わかりやすいように極端な例を出そう。例えば、『エウレカセブン』だ。このアニメは名称やサブタイトルのそこかしこに、ニューウェーブ系バンドのバンド名や関連する名称を散りばめている。
そして、それは作品内に何の関連も生みださない。ただ名称としてそこに置いてあるだけだ。
これは宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』の中に出てくるロボット兵のデザインが、フライシャー兄弟の『スーパーマン』に出てくるロボットからインスパイアを受けたのとは180度意味合いが違う。
「模倣からオリジナルは生まれる」だって? 当たり前じゃないか。しかし、好きなバンド名をただ引用するだけの行為は、何のオリジナルも生んではいない。
「それを好きな人」を「あなたは仲間である」と囲い込む効果しかない。本当に厭らしい演出だ。
具体的な例を出しているのに、なぜ読み取れないのか、本当に不思議だ。
こうやって相手が好きな言葉や作品を散りばめ、サプリメントのように慰撫するだけの作品群。
実は私のこの考えには『ボーイズオンザラン』も、『ソラニン』も射程の中に入っている。
前者はダメ人間がダメ人間を肯定するためだけにダメ人間に向けて描かれている。後者はナイーブ人間がナイーブ人間を肯定するためだけにナイーブ人間に向けて描かれている。結局は同じだ。
そうやって仲間意識を強化するためだけの作品が、世界を小さくしているんだ。中世においてプロテスタントは芸術を抑圧したが、今は消費者がそれを行っている。「自分の文化圏が正しい」という正義でもって。
なんという体たらくだ。文化はここまで堕落してしまった。私の耳にはマンガを文化にした手塚治虫の嘆きが、今も遠くで聞こえているよ。
ほんの些細な愚痴だ。
私の投稿する絵の多くは、総合点が3ケタで、一番評価がいいものでもなんとか総合点4ケタといった具合だ。
けれど私は今まで総合点やブクマの数などの、評価の比較基準になる『数』をさほど気にしたことはなかった。「一人でちまちまやってるくらいなら不特定多数の人と自分の描く『好き』を共有できたらいいな」程度の気持ちで投稿し始めていたから、たまに観覧数が多い作品があると「同士がこんなに!!!」と、モニタの前で一人こっそりほくそ笑む程度だった。
でも、今日ほど自分の作品に対する評価を悔しいと思ったことはない。
盗作、なんてのは言い過ぎなのかもしれない。
ただの私の自意識過剰で、ありふれた構図を二人して描いていただけなのかもしれない。
そもそも二次創作の時点で盗作なんざ主張できる立場じゃないのも解っている。
でもサムネを見たときに思わず自分の絵かと思うほど似ている絵を、私は盗作だと思わずにはいられなかった。
見るんじゃなかったと思った。
悔しかったのだ。
その絵がデイリーランキングの上位にあったことに対してではなく、「この程度の絵をパクったところで大丈夫だろう。バレないだろう。」とその絵師の中でGOサインが出た事に対してだ。
だって、そのジャンルが好きな人なら誰もが知っているような有名な絵師の絵を、誰が盗作するだろう。
バレることが解っているのにわざわざ盗作する人なんていない。
もっと自分の絵が上手だったら。
たくさんの人に評価されていたら。
もしもそうなら、そもそも盗作の対象になんてならなかったんだろうな、と思う。
それが悔しくて悲しくてたまらない。自分はこの程度か、と思い知らされた気分だ。
「一人でちまちまやってるくらいなら不特定多数の人と自分の描く『好き』を共有できたらいいな」と思っていたのは確か。
実際、私の絵を好きだと言ってマイピク申請してくれた人と交流を持つようにもなったから、当初の目的は達成できている。
でも、今はそれだけじゃないと自分で気が付いた。
もっと、もっと、と、どこかで火が付いているのが解る。
悔しい。
悔しい。悔しい。悔しい。
今は被害妄想に凝り固まってしまっているから、もうこうとしか思えない。
もう少し経って冷静になれたら、この闘争心だけ掬いあげて創作に向かいたいと思います。
きっと上手くなってやる。
まず、著作権を無視していいか、と言われたら否。これは前提にして議論して良いんだよね?
その上で元増田は
「著作権無視の行動は止められない」
「オマージュされることによって作家にも『強いメディアによって宣伝できる』利益がある」
ので
「中途半端な文筆家やライターはウェブをもっと使いこなすべきだ」(元増田より引用)
と主張しているって理解で良いのかな?
理由の上二つには賛成なのだが、作家がこれを止める行動を否定する材料は三つ目の理由だよね?誰が面白かろうが、作家には止める権利もあるし。
となると意見としては「オマージュによる宣伝は利益となり売るか?」だな。
文章をオマージュしている人は元の文を読んでいるだろうが、オマージュを読んだ人は果たして原典を読むだろうか?原典の作者に興味を持つだろうか?サイトの来訪者が増えて作者に利益が生まれるだろうか?ネットで確固たる地位を築くことが何の利益になるのだろうか?
元増田はどう思う?
吉本ばななと居酒屋の話に似た、なんとも言えぬ嫌悪感をおぼえた。
ことの発端はこの記事のようだ。
それをサッカーバージョンとして紹介しているよくできた記事だ。
(ブログ主のajikuta氏はオマージュだと言っているが、これはインスパイア記事だろう)
nomuch
私の「オマージュ」はうれしいけど、ほとんど改変文なんだから
とコメントした。
なるほど、この記事はそんなにパクりなのかと思って調べてみた。
インスパイアしたと思われるのはこのページ(たぶん)
3500字程度中700字程度は似通った表現があったが、
そのほとんど(というかこの場合、サッカーにあてはめた部分)は
別にパクりではないということがわかった。
(イラストを転用している部分はまあ問題かもしれないが、ネットの世界では普通のことだ。ブログ主は謝罪し修正しているが)
能町さんご本人から画像の転用についてご指摘頂きましたのでイラスト画像を削除しました。
文言については「ほとんど改変文」とのことでしたが、改変していたのは一部なので
その部分100文字程度を修正または削除しています。ご迷惑をお掛け致しましたことを深くお詫び申し上げます。
完全なパクりでもないのに目くじら立てて
私は悪いが彼女の本も買ったことがあるし、たまにブログも覗いている。
それなりに好きだった。私もモテない系だし。しかし、今回のブコメやツイッターを見て反吐がでた。
# 私が非寛容なのか?いやそんなことはないよね。
私がすっごい著名人だとか私の文が人口に膾炙してるならともかく、
あの感じじゃいくら私の名前が書いてあっても著者のオリジナルの文に見えるよ。
もやもやするのはこっちだ。
口コミやバズといったネット世界のCGMの威力を全く理解していない。
ちょっとそれ私の著作よ!ふざけないで!なにしてるのよ!となるのだ。
それがインスパイアされて新しい記事が生まれるなんてのはごくごく当たり前の話だ。
それがまた話題になり、コメントされ、紹介され、さらに広がっていく。
元記事だってインスパイアされることでより価値が高まったり、来訪が増えたりする。
能町みね子はまずその辺のことがわかってない。
だから私のイラストや文章をパクりやがって!という被害妄想になる。
こういうインスパイア記事はなにより自分に跳ね返ってくるのに、
そんなことすらわからず批判するのだ。なんと器の小さいことか。
それともう一つ能町みね子がわかってないのは、ネットにおける己の存在感についてだ。
少々本を出したところでネットの世界で発言力を持つかというとそう単純でもない。
一部の女性に知られているだけだろう。
能町みね子がどの程度ネットの世界で存在感があるか調べてみた。
プロフィール/http://www.hatena.ne.jp/nomuch/
ブログ/http://d.hatena.ne.jp/nomuch/
ツイッター/http://twitter.com/nmcmnc
フォロワー56人
そういったことを認識せず、ツイッターでグチをこぼし続ける様は、
一切を発言せずブログ上での謝罪にとどまったブログ主と比べるべくもない。
もしブログ主がツイッターで1600人近くの人に対してこの件についてつぶやいていたらどうなっていただろうか?
今回のこのやりとりを見ていて、自分なりにいろいろと整理して書いてきたためすごく長文になってしまった。すまない。そろそろまとめよう。
こう言ってはあれだが、能町みね子をはじめとした
中途半端な文筆家やライターはウェブをもっと使いこなすべきだと思うのだ。
ちまちま個人ブログに対して著作権を訴えるようなことをしていないで、
いかにして自分をネットの世界で大きな存在にして、発言力を持っていくかを考えようよと。
多少は名前を知られている訳だから、ただの素人がブログを始めるのよりもよほどハードルが低い。
だからこそ、自分の中に眠るコンテンツを惜しみなくウェブで展開して確固たる地位を築くべきだ。
多くのアルファブロガーがそうであるように。
雑誌や書籍の世界にいて、ネットの世界を見下しているようではダメだ。
おいて行かれるだけ。もっと出し惜しみせずにいろんなことをネットに出していかないと。
無料で良質なものを出すなんて…とか言ってる時点でダメなんだよ。
今集まっていないのはまだ出し惜しみしているだけだからだよ。
大したことない権利を守ろうとしてないで、
もっとネットの世界に来て勝負してみなよ。結構勝算あると思うよ。
追記:
話にならない。>でも<でも=でもない。しかも世間の話というより書籍や雑誌の世界とネットの世界の話をしている。もう一度読んでみて。それぞれの世界でうまく立ち振る舞うべきと言っているんだよ。わかるかな?
画像転載がアウトとか言ってる人は、著作権ひっかかるようなサービスやブログ等一切見てないんだよね?ねえ?ネットの楽しさってそういうのほとんど関係無しでやってるところだよ?もうねこれはYahoo!がやってたらそりゃ責任とわれるだろうけどさ、個人レベルのブログとかにそんなのを求めるのは無理。CGMにおいては著作権とかあきらめるしかないんだよ。あきらめてCGMをうまく活用することを考えるべき。そっちの方がよっぽど生産的だと思わない?
転載っていう意味だと微妙だけど、たとえば芸能人の画像とか2ちゃんねるコピペブログとかではまったく著作権とか無視で使ってるよね?でも一番人を集めているよね?どうしてかな?たたかれることもあるだろうけど、それだけおもしろいとか評価されてるよね。Yahoo!ブログとかでしょうもない日記書いているようなブログでも普通にネットに落ちてるジャニーズやディズニーの画像挿入しちゃったりしてるよね、でそれを見た人が「かわいいですよね」とかコメントしちゃってる。それを止められると思う?無理だと思うよ私は。
いや、ネットの楽しさや特性云々以前の話で、オマージュされた本人が、され方に疑問を持ち、それを伝え、オマージュした方が修正をした。ってだけでしょ?
そのことをベースに、こういうことを考えた、という増田ですよ。ネット上の、特に個人ブログレベルでの著作権うんぬんにつっかかり、お先真っ暗な紙媒体上の既得権益を守ろうする人たちに対して苦言をていしているのですよ。ネットの世界をまったくわかっていない、とね。
どんなにネットが素晴らしかろうと、それを構成しているのは個々人でしょうに。
だからこそ、個々人がやるブログレベルに著作権うんぬん、転用うんぬん言うのはナンセンスだと思いませんか? あなたは能町さんと同じような考え方のようですね。ネットを知らなすぎます。なぜネットがここまで流行ったか、おもしろいと思われているのか、そこを考えたことがありますか? 著作権だなんだを個人レベルのブログにまで求めていたら、ネットはここまで流行っていないですよ。
このブログ主を止めただけであって、ネットの中の個人ブログとかどこまで追えるのって話。無理でしょうそんなの?ん?できるの?できるんだったら教えてほしいな。
あのさー、この元になった記事とか読んだ? 丸々ぱくってるっていう話じゃないし。著作権違反した方が集められるというのはブログ主側の意見としてはあると思うけど、著作者はそんなネットの中の著作権うんぬんを言い出したらキリがないよ、と言ってるのよ。インスパイアされて書かれるような個人ブログの記事についていちゃもんをつけるのはおかしいでしょ?と言ってるの。まずあなたはそこがわかってないね。上にも書いている通り、インスパイアされたりすることで自分にもプラスになる部分あるよって言ってるんだけどさ。もう一回最初から読んでみてよ。
あと、「著作権法」というものが何故あるのかも考えた方がいいと思うよ!
浅いなあ。そんなことは重々承知。で、今のネット界がどうなってる?YouTubeがどうなってる?なぜあるかなんてもうみんなとっくに考えてるよ。でも止められなくなってる。その現実について考えた方がいいと思うよ! 偽善でそんなこと言っててもしょうがないんだよ。これからこの状況をどうするのかを考えた方が建設的だと思わない?
これも浅いなあ。これまでのメソッドでしか考えられないのかな? それだとそういう結論になっちゃうよね。あなたは何かを生み出せるタイプじゃないね。そういう固定観念で話をしていないんだ。ついでに言っておくと、あなたは出版の世界のことも学んだ方がいいと思うよ。