はてなキーワード: オスマントルコとは
パレスチナはもともとオスマントルコ帝国の領域で、多宗教混住の地
ハシーム家の次男アブドッラー(シリア王国のファイサルの兄)がイギリスに建国を認めてもらって建国したヨルダン王国(当時はトランスヨルダン)が、第一次中東戦争でヨルダン川西岸(パレスチナ国家予定地)に侵攻・占領したのが問題の発端
ユダヤ人のパレスチナ帰還が始まったのはオスマントルコ統治の時代
オスマントルコは宗教に寛大で、税金さえ払えば信教の自由はあった
レバノンのあたりはキリスト教徒も多い(カルロスゴーンはその子孫)
パレスチナにもイスラム教徒、ユダヤ教徒が混住し、新規にやってきたユダヤ人は土地をイスラム教徒から買い取って住み着いた
決して暴力で奪い取ったわけではないし、そんな武力は持っていなかった
第一次大戦に負けたオスマントルコが解体されて、パレスチナはイギリスの信託統治領になった(ユダヤ教徒とイスラム教徒は混住)
第二次大戦後にイスラエル建国に伴い、イスラエルとパレスチナの領域が国連により分割された
これに不服をもってイスラエルを消滅させるべく攻め込んで、返り討ちにあったのが第一次中東戦争
自国の存在を抹殺しようとして攻撃してくる連中に反撃して勝ち得た占領地を、無償で返すだなんてお花畑は九条信者の日本人くらい
めちゃくちゃ広くて、資源も人口も港もあって、欧州なんかよりはるかに早く発展した。
中華はだてじゃねーのよ。
それが19世紀ぐらいから弱かったのは、まず産業革命が起きたのが欧州だった。
これは思想が弱かったのと同義。欧州というよりプロテスタントが強い。
で、そのあと近代化に失敗した。
これで弱くなったのはオスマントルコと同じ。
更にその後は、戦争に負けた。
特にアヘン戦争がでかすぎて、イギリスにめちゃくちゃ搾取された。余波で日本にすら負けた。
その後は更にソ連共産主義にも搾取されて、思想の弱さを再び得てしまった。
で、それらが無くなったのでいま中国は強い。
中国の弱さってだいたい戦争とか国際競争の弱さに起因してるんで、現代みたいに戦争起こすこと自体なくなると、そりゃ独り勝ちになるんじゃないか。
昔、オスマントルコ帝国はブルガリア人やアルメニア人を虐殺したうえ、諸国の反乱を粛清していた
ロシアは東欧地域を支援してオスマントルコと戦い、ルーマニアを含む東欧地域が独立した
WWIIのあとトルコは文字表記をアルファベットに変え、1952年に英欧外から初めてNATOに加盟
冷戦とソ連崩壊後、NATOはトルコ系民族もいる東欧諸国も取り込み、一方で日本の金融会社もトルコに資金投入
トルコはウクライナ紛争で露米交渉を仲介したが、交渉は決裂し、結果的に平和的解決手段を封じられた
ただおそらくロシアもトルコを警戒していないことはなかった(既にクリミアを占領していたのだ)
現在のウクライナ紛争は、表向きは仲の良い露土の13回目の露土戦争で、トルコ側にNATOとウクライナがいるものとも言える
→西遊記 大唐西域記を中断していたのを思い出したのでほんとありがとうございます
→乙嫁語り 気になっていたのですが買わずじまいだったのでチェックします!
→将国のアルタイル ちょっと調べたらオスマントルコ系統で良さそうです ありがとうございます!
魔法名 | 効果 |
---|---|
マンコ | マンコ属性大ダメージ |
オマンコ | マンコ属性特大ダメージ |
オスマントルコ | ???? |
チンコ属性と対をなす魔法であり当然チンコ属性に効果がある。チンコ属性の魔法はチンコ・オチンコ・チンポ・チンポコ・オチンチン等の様々な上級魔法・派生魔法があるのに対し、マンコ属性は基礎魔法のマンコと上級魔法のオマンコのみである。これはマンコ属性が多くの国家や教会で禁呪指定をされており、研究が進んでいないからである。魔法を唱えることは当然禁止されており、その名前を口にすることさえも忌み嫌われている。それだけに威力は絶大で、基礎魔法のマンコですら全てのチンコ属性の魔法を超える破壊力があり、オマンコは一つの都市を壊滅させる力を秘めているという。オスマントルコはその名称からマンコ属性の最上級魔法とされているが、名称以外の伝承が途絶えているのでその効果は不明。ソープ属性の魔法が生まれる前にトルコ属性と呼ばれる魔法があり、オスマントルコはその最上級魔法ではないか、という説を唱える魔法使いもいる。
457 名無しさん@13周年 2014/03/04(火) 01:11:16.25 ID:mzRG3Mif0 BE:281994473-BRZ(11112) 東京「大関東連邦つくろうぜ。東京区・神奈川区・埼玉区・千葉区・群馬区・栃木区・茨城区な」 ↓ 東京「町田は神奈川区に近いから。神奈川区に編入な」 神奈川「おk」 町田「いやいや、俺もともと東京なんだけど」 東京「同じ大関東連邦なんだから、細かいことはいいだろ」 ↓ 東京「やっぱ連邦ダメだわ、解散」 神奈川「町田もこっち来いよな」 町田「いや俺東京」 ↓ 東京「町田返せよ」 神奈川「は?こっちにいるのが自然だろ」 町田「だから俺東京だって」 ↓ 東京「軍隊送るわ」 町田「さすが東京様!頼りになる」 神奈川「町田は誰にも渡さない」 東京:ロシア 神奈川:ウクライナ 町田:クリミア 574 名無しさん@13周年[sage] 2014/03/04(火) 01:15:26.18 ID:lm0AHMIl0 >>457 ああわかりやすいw 606 名無しさん@13周年[sage] 2014/03/04(火) 01:17:03.34 ID:p/acHK3s0 >>457 お前天才だな 754 名無しさん@13周年[sage] 2014/03/04(火) 01:22:47.42 ID:4gmisUGG0 >>457 いかん町田かわいい http://mousouteki.blog53.fc2.com/blog-entry-21146.html ウクライナ情勢を簡単に説明するとこうなる 続・妄想的日常
ウクライナの話をする前に、まず、まとめブログ以降の2ちゃんねるについてお話します。ご覧のとおりクソです。このレベルの意味不明な喩え話(?)が持ち上げられる程度には知的程度が下がっています。いま2ちゃんねるを見ているのは、多分こういった判断能力やリテラシーを著しく欠いているもののその自覚が皆無の人間ばかりです。まあ、いちいち突っ込みだすとキリがないので割愛しますが、敢えていうなら、上で述べられるような地理的な要因だけでは現状みたいなことにはなっていないということです。地政学的であったり、民族的であったり、あと経済的であったり、様々な要因が複雑に絡み合っていますが、どれも捨象していいものではありません。まあ、Wikipediaでクリミア半島の歴史とか読めば、上の喩え話が何も喩えられていないのはすぐにわかる話です((更なる余談ですが、喩え話は、うまくハマるとかなり効果的です。でも実際には上で引用したみたいなクソ喩え話は世の中には山ほどあり、それでわかった気になっている不自由な人々が沢山いるので憂うべき状況でもあります。僕が知っている2ちゃんねるっていうのは、もうちょい頭のマシな人々がある意味真摯に物事を考えている場でした。いまそういう人がどこにいったかというと、多分Twitterで異常な感じのアカウントを運営しています。))。
まずクリミア半島ですが、昔から色んな人たちがここを奪ったり奪われたり殺したり殺されたりしているホットスポットです。バルカン半島もそうですし、朝鮮半島もおそらくそうでしょう。半島というのは何かと地政学的に荒れるポイントです。で、そのクリミア半島がロシアのものになったのは、1774年に集結する露土戦争においてです。これでオスマントルコからロシアにクリミア・ハン国が渡りました。で、後にクリミアがウクライナに譲られるまでの間に、クリミアへのロシア人の流入が進んだと思われます。
で、じゃあそのクリミア半島がウクライナの物になったのはいつかっていうと、1955年、ソ連がウクライナにあげるっつってあげてからです。これが世界史の謎とやらなんですが、ソ連の黒海艦隊の基地を擁するクリミア半島をなんで簡単にウクライナにあげちゃったのか、ちょっと調べたのですけどよくわかりません。一応、第二次世界大戦勝利10周年を記念してとか、西側世界と接するウクライナの機嫌をおもねるためとか、フルシチョフがウクライナ出身でウクライナ大好きだったからとか、色々ありますけど、たったそれだけの理由で手放すにはあまりに重要なポイントです。一説によると、フルシチョフが馬鹿だったそうです。
それから、1991年、ソ連が崩壊したときに、クリミア半島は「クリミア自治共和国」を名乗り独立宣言をしますが、その際にクリミア半島を取り戻したいソ連/ロシアとしてはこの独立を一旦は支持することにしたところからも、やっぱり簡単にウクライナにクリミア半島を譲ったことを後悔しているようです(まあ、それは現状を見ても明らかなんですが)((というのも、クリミアには近代ロシアの栄光の歴史みたいなのが詰まっているのです。露土戦争で勝ち取ったクリミアには、ロシア随一の保養地とされるヤルタがあり(ヤルタ会談のヤルタです)、クリミア戦争ではイギリス・フランス・オスマン帝国を、第二次世界大戦ではドイツ・イタリアをやっつけたセバストポリもあります。))。ただ、ロシアは一方でクリミア自治共和国の独立を支持しておきながら、他方で同時に独立の機運が高まっていたチェチェン共和国については徹底的に弾圧したので、そのダブスタっぷりを非難されます。結局、ロシアはチェチェンの独立を抑えこむほうを取りました。で、梯子を外されたクリミア自治共和国は、じゃあしゃあねえかっつってウクライナに合流することになったわけです。
ウクライナの近代史とはほぼロシアとの戦いです。親露派を除いて、ウクライナ人はかなりロシアを嫌っているようです。ウクライナは、二月革命の頃には独立戦争を仕掛けていますが失敗、ソ連の崩壊と共にようやく独立を果たしました。なお、ソ連時代にはホロドモール((食べるものがあんまり無いので人間の死体を食べていたとかいう話もあります))と呼ばれる農業政策失敗による人工的大飢饉やチェルノブイリ原発事故なんかも起こっています。そうやってアンチ・ロシア・イデオロギーとでも言うべきものが温められていく間に、反露=親欧のウクライナ人の中に極右としか形容できない人々が大量に発生してきていたのでした。彼らはネオナチなんかともつるんでるぐらい容赦無い感じの人々で、ウクライナにいるロシア人は全員殺すぞみたいな勢いまであるわけです。で、今回の親露派ヤヌコーヴィチ追放なんかもこの右翼たちの働きが大きい((このヤヌコーヴィチ関連もまたややこしい。彼は元から親露派だったわけではなく、最初はEUに寄って行きました。ただ、国内の汚職や不正をまずどうにかしろとEUに突き放されて、親露派になったという経緯もあります))。そうなってくると、クリミアを含むウクライナ全土にいるロシア系ウクライナ人やロシア人としてはたいへん怖いんですね。こういった人々を保護する名目でロシアはいま軍を送りこんでいるわけですが、その出兵というのはあながち荒唐無稽な話でもないわけです。
というとそういうわけでもありません。特に、クリミア・ハン国の時代から住んでいるクリミア・タタール人という人々は嫌がっています。彼らはクリミア自治共和国と呼ばれる域内に25万人いるとされています。露土戦争でのクリミア併合以来、相対的に少数民族に押しやられたクリミア・タタール人は、そのあとスターリンによって赤軍に駆り出されたり、他方では二次大戦中の対独協力の嫌疑で中央アジアに追放されたり、またそれから逃れるために山の中に移り住んだりと、とにかくハチャメチャな感じの扱いを受けてきたので、ロシアに良い感情を持ちづらいのも当然だと思います。
なんか欧米がウクライナを一旦見捨てたからこうなったんだみたいな話もちらほら聞きますけど、普通に考えてネオナチが閣僚にいる国となんかとはつるみたくない((一応いっとくと、欧米、特にヨーロッパとしては、二次大戦までの反ユダヤ主義っていうのはドイツだけの問題じゃなくて、ヨーロッパ全体の問題として共有されています。))。しかもヨーロッパにはロシアにエネルギー依存してる国も多いこともありますし、敢えてウクライナを助けてやる理由をこうなってしまう以前には見つけられなかったのは、割と致し方ないと思います。アメリカではオバマがロシアを非難してるけど、ユダヤ系の多いアメリカ本国ではネオナチの国を支持するつもりなのか、みたいなバッシングがあるという話も聞きます。
「民族主義者 VS ロシア人」というとにかく黒海が真紅に染まるほど血が流れまくりそうな対立軸があそこにはあるわけです。間違っても東京・町田・神奈川とかいう喩えで捉えられるレベルの話じゃありません。みなさんは喩え話なんかなくても状況を自ら整理できるようになりましょう。
http://himasoku.com/archives/51769232.html
この記事に寄せてちょっと書いてみる。
知り合いに対するインプレッションがかなり入っているので、あえて増田で。
親日国と言われるが、日本人というだけで親切にされるというのは流石に嘘らしい。
トルコ人的には、ヨーロッパの仲間入りをしているつもりで、「イスラム」や「アラブ」という言葉でくくると嫌な顔をする。
「政教分離してるし、そもそもアラブって「アラビア人の」って意味だからトルコと関係ないし!」
と。
自分の国だけが近代化=西欧化に成功して、他国は現代でもなお宗教に縛られてる全時代的な国家、と思ってる節がある。
トルコ国民という意識は強いが、トルコ民族という意識は弱い感じがする。
その悪魔合体が、オスマン人もトルコ人も何人もかに人も、みんなトルコの旗の下に団結したんだからっていう理屈。
「単一民族単一国家なんか古いよ。トルコ国民として団結しよーぜ。クルド人、いい加減にしろ。」
反米国家として有名だが、国民感情として一人ひとりがアメリカを嫌ってるというわけでもないらしい。
そもそも親米すぎることに宗教学者と軍部が先導してクーデターが起こして反米国家になったという経緯なので、好きと嫌いが入り混じった不思議な感じ。
公の場での宗教的な締め付けを厳しくしたゆえに、お楽しみはホームパーティーでっていうアメリカ的な文化。
国費留学生で日本にくるような人たちは敬虔なムスリムで、国費以外でくる人たちはその真逆の、ほぼアメリカ人て感じの「コカ・コーラとピザが大好きさ。ホームパテーティしてれば酒は当たり前だし」って感じの人。
なんで麻薬の売人として捕まるのはイラン人ばっかりなんだよ!って聞きたいけど、流石に面と向かっては聞けない。
イスラム以前のオリエント文化圏というのは、ほとんどペルシャ、つまり全部自分たちの功績!くらいに思ってる。
古代ギリシャすら、ペルシャの猿真似で、ヨーロッパもアジアも、期限はペルシャ、くらいに思ってる。
(たしかに世界史の教科書はギリシャをヨーロッパの文化的なオリジン扱いしすぎてると思う)
一緒にしないでくれ。」
「コーランって聖書とかと違って現地語に翻訳してなくて、当時のままなんだよね。1000年以上前の本で、しかも外国語だもん。寺の和尚さんだってサンスクリット語すらすら読めるわけじゃねーだろ。あんなもん一般人が読めてたまるか」
単に幕末維新の歴史の知識だけなら、百科事典講釈師のような物知りも沢山いるが、この対談は人物評が現代的で、政治家として官僚としての力量を問う通信簿的な作業でもあり、ことごとくがリアリスティックなのである。
しかも幕末維新を、本筋を外さないで不思議な逸話で溢れさせ、しかし歴史観の骨髄をしっかり守っている。
経済の視野から薩長と会津を比較してみると、京都守護職を越前の松平春嶽から押しつけられた会津の松平容保は、財政的艱難辛苦に耐えなければならず、藩士1000名の京と駐留経費の捻出は並大抵ではなかった。京都は島原の遊郭で遊ぶカネがなく、だから会津武士は京都人から嫌われ、薩長はすかれた。
なぜか。長州は竹島経由で、薩摩は沖縄を梃子に「密輸」をやっていて資金が潤沢、最新鋭の軍艦も鉄砲も買えた。中村彰彦によれば加賀前田藩も日本海の北と密貿易を展開した銭屋五兵衛を黙認した形跡があるという。
密輸で設けた諸藩の志士らは、経費をちょろまかして島原で遊興もできた。
本書で両人からコテンパンな酷評を受ける一つは御三家のなかでもイデオロギーの強い水戸藩、天下の副将軍と勝手に僭称した水戸光圀は、伝説では「名君」だが、じつはとんでもない御仁だった。
水戸学が、やがて水戸藩を分裂させ、悲惨な内訌が天狗党の悲劇を生んだが、じつはその後も明治三年まで復讐劇が続き、難を逃れて群馬や栃木あたりに逃げ、その末裔が現在もいるという後日談も、なんだか、西南戦争に負けた西郷軍のうちの1500名ほどが台湾へ逃れ、現地民に同化したという歴史の裏面の話に通じる。
本書は、薩摩が長州と歴史意識も政治構造も科学・天文学への心構え、軍事思想など似ているようで全く異なることを、これまた目から鱗のように別の視点からえぐり出している。
たとえば坂本龍馬が斡旋した薩長同盟の基軸の発想は公武合体の実現だった。
山内教授は「オーストリア・ハンガリー二重帝国」の例があるように、天皇を頂き、徳川と薩長が二分するアイディアの存在を告げる。
イギリスのオールコックなどの歴史観や世界の情勢から、倒幕に踏み切っていくプロセスで西郷、大久保は坂本が邪魔になったという闇の部分にも光を当てる。これは中村がまだ直木賞受賞前にかいた『龍馬伝説を追う』(世界文化社)にも詳しい。
また榎本武陽の「蝦夷共和国」構想も、じつはハプスブルグ家の「オーストリア・ハンガリー二重帝国」が発想にあった、と示唆する。
脱線ながら、評者(宮崎)が鹿児島は指宿の「伝承館」でみたパリ万博の記録展示の或る部分に驚いた。パリ万博は薩摩と徳川幕府が出展した。薩摩焼など、パリジャンの度肝を抜いた。ともにそれぞれの勲章をつくった。
薩摩は「薩摩・琉球国」として勲章をだした。つまり独立国として、国際社会にアピールしていたわけである。
もう一人、こっぴどく批判されているのは福沢諭吉だ。
福沢が欧米派遣のおりに経費を誤魔化して図書を買いあげたが、それは小学生程度の英語の本が多く、小栗上野介は「あの男の選択眼は節穴、語学能力はその程度だ」と評した逸話は有名だろう。
福沢は本来なら切腹ものだが、ばれて詮議にかかろうとしたとき徳川幕府が瓦解した。
他方では講釈やら近年の小説の裁き方や世評はともかくも、食えなくなった旧幕臣らの面倒をよくみた勝海舟と榎本武陽への評価が高い。
さて表題も示唆する「黒船来航以後」の話であるが、アメリカとロシアが日本にとって最初の接触だったのは、幕末の混乱期における日本にとって僥倖であり、もし英仏のような『ならず者国家』が日本に先に乗り込んできたらどうなっていたか。
シナにしかけたアヘン戦争のような略奪と、国内分裂は防げなかったのではないか。幕府はフランスに薩摩は英国に頼ったが、本気で内戦にのめり込んでいったら、日本は良いように利用されたあげくに英仏の植民地化されていた恐れがあった。
しかし幕末に徳川幕府をさしおいて薩長が最新鋭の武器を大量に買えたのも、その先見性や薩英戦争、馬関戦争敗北の体験から軍事知識と実践があり、おりしも南北戦争が終わって大量の武器をもてあましたアメリカから大量に買い付ける。
市場開拓を狙うドイツ人の武器商人だったスネル兄弟は河井継之助の長岡藩にガットリング銃を売りつけたが、会津に強力にテコ入れし、最後は榎本軍に従って函館戦争をともに戦った。
ドイツはむろん、英仏米露の隙間を狙って日本での武器外交が主眼だった。
しかし幕府敗戦により、スネルは代金を回収できず、兄はやがて会津武士団の食い詰め組を率いてカリフォルニアに移住したり、弟は御維新後、浅草で落語を聞いていたとか。脱線する逸話もまた本質に付随した、人間の描写なのである。
それにしても幕末維新を縦横に語る中村彰彦は歴史作家だから回天の内幕に詳しいのは当然にしても、なぜイスラム中世の専門家である山内昌之が、ときに中村を唸らせるほど幕末日本に精通しているのだろう。
もう一つ不思議に思ってきたことがある。山内昌之教授は、『世界』と『諸君』の両方に論文を書く器用な論客でもあり、保守なのか旧左翼なのか、いまもよく分からないところがある。
山内がいみじくも「後書き」に書いている。
国際会議で、オスマントルコ帝国の解体過程やイスラム政治の歴史と、日本の近世・近代との比較をよく問われる。国際的要請でもある。まして日本史を知らずして世界史を語れる筈があろうか、と。
最後節あたりの日露戦争から大東亜戦争に至る山内の歴史講釈には、ちょっと首肯できない史観部分があるが、山内教授の主観だから、その部分は聞かないことにする。