はてなキーワード: アンサイクロペディアとは
なでしこジャパンのめざましい活躍から、まとめブログのコメントに度々この言葉が見られるようになった。
格好いい、とか、勇ましい、などの意味を含んだ賞賛コメントなのだろうけれど、そのことを聞いた姉は少し違和感を覚えたみたいだった。
曰く、兄貴じゃなくて姉貴じゃないの、と感じるのだという。澤選手は女性なのだから兄貴じゃおかしいでしょ、と。つまりはそういう事なのだそうだ。
言い分はわかる。尤もだし、確かに澤兄貴と称えることはおかしいのかもしれない。
けれど、個人的なことを言わせてもらうと、姉貴よりも兄貴という表現のほうがぴったりくる。
今回見られた澤選手の活躍は、澤姉貴ではなく、また澤の姉御でもなく、澤兄貴と言うのが一番相応しいように思ってしまうのである。
これはなにも澤選手にだけに留まらない。アメリカのワンバクについても兄貴というに相応しいし、テニスで言えばクルム伊達公子選手も兄貴たるに相応しいと思う。
兄貴という誉れは、性差を超えた漢の発露であり、より根源的な人間性の美しさを讃えているのだと思う。少なくとも僕はそう思って使っていた。
だけれども、そうであるためにややこしくなってしまった。ジェンダーの問題について思いを巡らしてしまったのだ。
姉から、姉貴じゃないのと言われたとき、僕は意図しない女性蔑視を指摘されたようで、バツが悪くなった。そんなつもりはなかったのだけれど、はっとさせられたのは事実だった。
姉と僕と、普段からどちらがより性別というものを意識しているかはわからない。ただその一瞬だけは、二人は別々の方向を、正反対の方角を向いていたのは確かだった。
賞賛であったはずの言葉が違和感を伴って受け止められたとき、そんなつもりはなかったのにかなり戸惑ってしまう。
姉もそれほど強く意識していたわけではないだろうけれど、そういう捉え方もあるのだなあと気付かされてしまった。
同時に、難しいなとも思う。その場は姉貴と訂正して濁すことができたけれど、濁すことができない場面も、そもそも違和感を与えたかどうか気がつけない場面もきっとあるからだ。
アンサイクロペディアにも記事があるけれど、これだって受け入れられない人がいると思う。
分かってもらわなくてもいいことなんだろうけど、分かってもらいたい。分かってもらいたいけど、分かってもらえにくい。
難しいなあ。
虚構新聞は読者を意図的に騙し、釣ろうとしている。これは明らかだ。
タイトルに「虚構新聞」を入れていないし、「これは嘘ニュースです」を背景色にしつつ小さくしている。
釣られた人によってページビューを稼いでいる。
虚構新聞を知らない人や、リンクでタイトルを見た人を意識的に釣ろうとしている。
ゲンダイと何が違うんだ?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
7月13日朝に追記
申し訳ない。言葉不足だったようなので書き足す。
いまのところ、この記事についた批判として正しいのは id:kana-kana_ceo の「インターネット上でデマだとか、釣ったとか、騙されたとか言っても、実社会にはたいして影響が無いので、どうでもいいんじゃないか、と思ってます。」とか、「いいえ、あれは情報リテラシーの教育サイトです。」くらいだ。
例えば、ガキの使いのコントをコントだとわからない人たちがいる。だが、あの番組はそういったわからない人たちを釣ろうとしていない。そんな人たちは元から番組のターゲットではない。
自分もアンサイクロペディアに記事を書いたことがある。他愛もない記事だが、もしそれを本当だと誤解した人がいたなら謝りたい。
虚構新聞はそこを一歩踏み越えている。誤解を狙っているし、誤解を解消しようともしていない。だからデマサイトもしくは釣りサイトと呼ぶべきだ。この記事で自分が伝えたかったのはそこだ。
あと、こんなことを書くと変な反応をされるので書きたくなかったが、自分もおっさんなので滅多なことがない限り釣られないし、Twitterも使っていない。
アンサイクロペディアに釣られる奴だったら2chにもいるだろう。
ついったーなら、アンサイクロペディアに釣られた人がいたくらいだから、フォロられ数が多い人が貼ったらすぐ釣れるよ。
先日私はシュトゥーカの機銃士になりました。私は急降下爆撃機はよくわからないので
ルーデル閣下に急降下爆撃機を教えてもらったのですが、その時の機動があまりにも変態だったので驚きました。
彼は爆撃機一機で一個師団クラスを壊滅させた、俗に言う「アンサイクロペディアに嘘を言わせなかった男」でした。
着任前から気になっていたのですが、彼の急降下爆撃を体験して正直「人間じゃないんじゃないか?」と思いました。
彼は悪い人ではないのですが、撃墜されて治療を受けているのに「休んでいる暇はないぞ、出撃だ!!」といって再出撃させられたのには驚きました。
出撃中に「足が無くなってしまった」と言っていましたが、そんな事より左翼が燃えてるほうが気になりました。
彼は出撃さえしなければいい人なんですが、私は転任願いを出すべきでしょうか?
寄付バナー反対派 │ ├─ バナーがうざい派 │ | │ ├─ いいからお前はそのドヤ顔やめろ派 │ | │ └─ さすがにサイズが大きすぎる派 │ ├─ 寄付で運営するのはおかしいよ派 │ | │ ├─ 金が要るならいっそ広告出してくれ派 │ | │ └─ 大金かけて維持するほどのものじゃないよ派 │ └─ そもそもウィキペディアはゴミ溜めだよ派 | ├─ 日本語版はコンテンツが嘘だらけ派 | └─ 日本語版は住民が腐ってる派 寄付バナー許容派 │ ├─ まあ払いたい奴は払えばいいんじゃね派 │ | │ └─ 俺が寄付しなくても十分集まってるよね派【↗】 │ ├─ ジミーがイケメンだから許す派 │ | │ └─ 男ですが好きです突き合ってください派 │ ├─ 心の中で応援するよ派 │ | │ ├─ 寄付する金がない派 │ | │ └─ 寄付するクレカがない派 │ └─ 寄付したよ派 | ├─ しつこいから折れて寄付したよ派 | └─ 広告ない方がいいから寄付したよ派 どちらでもない派 │ ├─ バナーなんてないよ派 │ | │ ├─ AdBlock余裕でした派 │ | │ ├─ 右上の×ボタンで消せるよ派 │ | │ └─ 広告っぽいバナーは脳内消去してるよ派 │ ├─ だんだん気持ちよくなってきたよ派 │ | │ ├─ Google Chromeならいつでもジミーに会えるよ派【↗】 │ | │ └─ Firefoxでもいつでもジミーに会えるよ派【↗】 │ └─ むしろアンサイクロペディアだろ派 | ├─ オスカー・ワイルドに寄付する派【↗】 | ├─ ひよこ陛下にこの身を捧げる派 | └─ ウィキペディアのことなんて何とも思ってないんだからね派
Twitterに書くよりはこちらに。
この数年でなくなってたのにでた。gkbr。
なんで何も食べてないこの部屋で出るんだよ。本当ふざけんなよ。
キッチンからの風が全部この部屋通って外に出る(ダクトがあるけどほぼ働いていない)から匂いがついてるみたい。
更にうち5階なんだけど、すぐ横の地上がゴミ捨て場。同じ建物に入ってる飲食店の店舗が毎日のようにゴミを発生させるけど
回収は週2回。毎日消毒してるらしいけど、殺虫もしてくれ。
数年前いきなりよく部屋で見るようになったから恐怖と不思議だったんだけど、
ある日気づいたら冷房の通風孔の留め具が穴あいてるの。
どうやら外観工事の時に業者がうっかり開けて行った模様。見た目では気づかないけど、gkbr一匹通るのには十分すぎる広さ。
お前。ふざけんな。
一応丁寧にふさいだけど、どっから入ってきたこの1!!!
かっちゃんたんだよなこの家。
ああ。もう。
死骸拾わんと。
って打ってたら目の前のPCの向こう側ヤツが出てきた!ヨロヨロヨロってお前!それでも陰に隠れようとするのかだからコンセントの下に隠れるんじゃねえ2!!v
部屋の対角線の反対側でヤったんだけど。何この生命力。5m歩きすぎ。あほか。
とりあえずそこで静かになったからティッシュでくるんでやりました。
不法侵入罪の処刑完了。
もう泣きそう。軽くホラー。
なにこれ
アンサイクロペディアで面白おかしく昨日読んでたから?
部屋に干してあった服、全部選択しなおさないと。。。
衣替えで大量に服。出してたんだよね。そのうえで殺虫剤まきまくってた。
寝れるかな。
ウィキペディアの「Wikimedia Conference Japan 2009」の記事まわりがちょっと面白くなってきたのでまとめておく。
エクストリーム・スポーツを愛するアンサイクロペディアの精神だけは持ち続けたい。
ウィキペディアに載せられたエイプリルフールの嘘記事の紹介をしてみる。
ウィキペディアのエイプリルフール記事には、削除・整理されやすいのもあって、
あまり日の目をみられてないのがかわいそうだと思う。
少しでも読者が増えればと思って、気に入ったのをここに書き留めておく。
エイプリルフールにつかれる嘘にはさまざまな種類があるが、その中でも「宇宙人が襲来した」、あるいは「宇宙人を発見した」「宇宙人との交信に成功した」「宇宙人に拉致された」「エルヴィスは宇宙人だった」「気がついたら首相が宇宙人だった」といった、宇宙人が登場するものが一つの類型となっている。
→ もっと読む
これはウィキペディアらしい、(嘘の部分ももほんとの部分も)本文と出典のしっかりした力作。
このように編集に明確な根拠がある場合は、その旨を明記しておきましょう。
(前略)
また、蟲彁学において、イルプエフリールは、変化に富むバシツカガとして1890年にチェコのアフューグ・イネーシによって発見された[一次 1][二次 1][二次 2][二次 3]。これらのバシツカガには、2つの型が存在すると推定されていた。例えば、イギリスのA・デイムは、顕微鏡下で見られる後図有無系を根拠に、A型とB型の2種類のタイプが存在すると主張した[一次 2][二次 4][二次 5][二次 6][修辞 1]。この推定は、おおむね正しいものと信じられていたが、その証明は日本人蟲彁学者、阿乱済志の1912年における補螺不軌理論まで待たなくてはならなかった[一次 3][二次 7][二次 8][二次 9][修辞 1]。
(後略)
→ もっと読む
アンサイクロペディアのあの記事と対をなすような記事。
妻の即売とは、かつてのイギリスにおいて、相互の合意に基づいて結婚を終わらせる手段のひとつだった。17世紀後半当時のイギリスでは離婚は一部の上流階級にしか許されていなかったことから、この手段が用いられるようになった。妻の即売において、夫は妻の首や手に縄を掛け、オークションを開いて最高値の買い手に妻を売り渡す。
これは嘘記事じゃないみたいだけど、英語版のトップに出ていて、嘘記事かと思った。
ウィキペディア日本語版の管理者をえらぶ選挙のルールを少し変えて、
ややゆるい基準で与えられる仮免のようなものを導入しよう、というもの。
その内容はともかくとして、提案の手続きがまずい、ということでかなり難航している。
具体的にまずいとされたのは、インパクトの大きい提案なわりに告知が不十分で、
ベテラン参加者の中に気づかなかったひとがけっこういたということ、
議論に出てきた一部の疑問点を黙殺するような形で、提案者が議論終結・導入を宣言してしまったこと。
この手のメリット・デメリットがいろいろあって、しかも変化が大きい提案は、
ウィキペディア日本語版では非常に通りにくい。
たいていは、
ちょっとずついろんなところにケチが付く
→対応しているうちに議論がどんどん広がる
→まとめる気力がある人がいなくなる
みたいな流れになる。
たとえば、ちょっとまえの管理者任期制の提案 * (ここでも触れた)も、けっきょく途中で頓挫しているみたいだ。
ただ、規模は小さいけれど選挙制度の改革だと思えば、難航するのもしょうがないという気はする。
アンサイクロペディアでは以前から似たようなシステム(のびた君制度 *)が運用されているんだけど、
こちらはそれなりにちゃんと動いているみたい。
管理系の議論ではアンサイクロペディアの人の方が、あきらかに抑制の効いた議論をしている。
たとえばここの「ノー削除デー」という、ちょっと危険性のある提案についての議論でも、
最終的にはうまく着地しているようにみえる。
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091127#p1
ひとつ前の記事を非常に多くの方に読んでいただいたようです。まったく予想していなかったことなので、驚いております。とてもありがたいことです。
この記事にたくさんの方がブックマークをしてくださり、またコメントを書いてくださりました。記事の内容についての様々なコメントもいただいたのですが、私が漢字をほとんど使わずに文章を書いていることについてのコメントもたくさんありました。
前回の記事からはだいぶ間が空いてしまったのですが、今日はそうしたかな書きについてのコメントを読んで考えたことを書いてみたいと思います。
●ブックマーク・ページのブックマーク・ページのそのまたブックマーク・ページ
以上の4つのリンク先からブックマーク・コメントを引用させてもらいます。
id:naoya_0708 [ネタ] そんな小さいこと気にせず堂々と遅刻して「へぇ、すんません」って言えばいい。そんなことよりこの人がなぜ平仮名なのか、のほうが気になるわ。
私がブログでかな書きを実践している理由については、これまで5つの記事で述べてきました。
1. 漢字について
4. 国語廃止論序説
5.の記事だけは、「漢字・かな混じり文」という日本語の《書き表し方》の問題にはほとんど触れておらず、主に《言語》の問題を論じています。日本で話されている様々な言語*1の中で日本語だけを「国語」として特権的に扱うことをやめましょうという提案を行っています。
ただ、この《言語》の問題と漢字・かな混じりの《表記》の問題の二つを、私は基本的に同じ論理で考えておりますので、興味のある方は、5.も併せて読んでいただけると幸いです。
上に挙げた5つの記事は、どれも長い文章なので、ここで簡単に私が漢字をなるべく使わないでブログを書いている理由を述べておきます。
それはできるだけ多くの人が文章を読んだり書いたりできたほうが望ましいと考えるからです。私は一方では読み書きができなくても何の不都合もなく生活できる社会が理想的だと思っています。しかし、日本語の読み書きができないと様々な面で不利益を被ってしまうという日本社会の現状では、そうした人たちが読み書きを身に付けやすい環境を作っていくということも同時に行っていく必要が大きいでしょう。
また、私自身、文字で書かれた物を読み、また書くことによって、様々な良きものを今まで他人から受け取ってきたと思います。もちろん、私が本を読むことができるゆえに、かえって見落としたり見えなくなったりしていることはあるでしょう。だから、一方では、単純に「読み書きによって世界が広がり、見方が広がる」といって良いのか、ためらいも覚えます。少なくとも、「読み書きのできる人がそれをできない/しない人よりも広い世界と深い物の見方を持っている」などとは断じて言えないことははっきりしています。
とはいえ、私自身読み書きのできる者の一人である以上、読み書きのできない人に対して「読み書きなどできなくても良い」と言うわけにはいかないし、「読み書きしたいけれどできない」という人がいる状況を正してゆく責任を負っていると考えます。
そのためには二つの方法が考えられます。一つは、読み書きの教育を充実させること。もう一つは、読み書きを身に付けるためのハードルを低くすることです。
もちろん、一つ目の課題も大事ですが、とくに日本語の場合、二つ目の 「ハードルを低くする」ことの必要性は極めて大きいといわざるを得ません。私自信何度か書いてきたことでもあるのですが、ブックマーク・コメントでの次の Cunliffe さんの指摘は重要です。
id:Cunliffe 「読みにくい」とか「読めない」とか難癖つけてる人みると、どうしても幻の鯖の器にケチつけた海原雄山を思い出す。漢字かな混じり文を読みやすいと感じるのは、正規の国語教育受けた大人だけなんですねー。
日本語について一通りの読み書きができる人は、その習得に非常な時間と労力がかかるということを知らないわけではないでしょう。また、そうしてかけられた時間と労力の大部分が漢字の学習に費やされていることも。
日本の学校教育を6年なり、9年なり受けた人でないと、おびただしい数の漢字と熟語を覚えるのは極めて困難なはずです。
いうまでもないことだと思いますが、日本社会の住民のうち、日本の学校教育を受けた、あるいは受けられる人はその一部に過ぎません。一般的に学校に通う年頃を外国で過ごした人もいれば、学校に通えなかった/通わなかった人、その中には年を取ってから読み書きを学ぼうとする人もいます。また、日本の学校に通っても、漢字や熟語が十分に身に付かなかった人も大勢いるでしょう。
あべ・やすしさんの次の文章も併せて読んでください。
漢字は、文字表記として複雑すぎるために、様々な文字弱者を排除し、抑圧している。
もちろん、漢字をなくせば文字弱者がいなくなるわけではもちろんない。だが、大きく改善することがたくさんある。
私が「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者、中途失聴者、読字障害を持つ人、知的障害者、日本語学習者です。
そうした人たちが文字情報にアクセスする権利を奪っているのが、いまある日本語表記に他なりません。漢字が障害となる度合いは、それぞれ異なっています。けれども、何らかの形で、漢字は障害として働いているのです。
こうして漢字が作り出している「文字弱者」の存在を指摘しますと、こう言われることがあります。すなわち、このブログを読みにくる人たちの中にそうした文字弱者が存在するのか、と。今までに何人の人からそういう意味ことは言われました。「わざわざ大多数の読者にとって読みにくいかな書きで書く必要が本当にあるのか?」と。
こういう考え方は、たとえば次のような発想と本質的に違わないと思います。
「この街では車椅子で歩いている人を見かけない。だから、わざわざ駅にエレベータを つけたり、スロープをつけたりする必要はないだろう。」
これは一見してひどい言い分だと分かるのではないでしょうか? 必要なエレベータや スロープがないからこそ、車椅子で移動する人が街に出てこれないのかもしれない。「排除されている他者の存在が、私たちによる排除の結果として見えなくなっているのではないか?」という可能性を考えなければなりません。
同じことは読み書きについてもいえます。ひらがなでも書き表せることを漢字で書く ことで、漢字を知らない人を排除してしまっているのだろうし、その結果排除されている人の存在が見えなくなってしまっていることはあるでしょう*2。
だから、「今この場所にいる人」だけでなく、「今この場所にいない人」にも向けて、この場所をできるだけ開かれたものにしていく試みは重要だと思うのです。
さて、先日の記事でいただいたコメントで多かったのが、かな書きの文章が「読みにくい」「読む気がしない」といったものでした。この記事に限らず、私はこのブログでかな書きを始めてから記事を書くたびに同じことを何度も言われてきたのですが、こうした反応はとても興味深いものだと思ってきました。
「読まない」という選択肢もあるのに、なぜわざわざ読んだ上で「読みにくい」と書き込まずにはいられないのだろうか? また、「読みにくいので途中で読むのをやめた」というようなことをわざわざブックマーク・コメントで報告してくださる方もたくさんいます。私の記事のようなかな書きの文章ではなくても、途中まで読んでやめることなどしばしばあるだろうに、どうして私の記事にだけ、わざわざそれをお知らせしてくださるのだろうか?
前回の記事に関して付けられた200を超えるブックマークのうち、「読みにくい」「読む気がしない」といったコメントをざっと拾ってみたら、これだけありました(他にも別の表現で「読みにくい」ということを言っているコメントがたくさんありましたが、それはまたあとで触れます)。
id:baumkuchen555 みんなよく読めるな
id:ezil [考え方][教育][society][education] よ み づ ら す ぎ る \こめんと を かならず みること
id:yosuken [あとで][大学][教育][社会] やっぱ読みにくいな
id:zoumurasan [あとで読む] ひらがな ばかりは つかれる
id:Harnoncourt http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%8F%E3%81%84%E6%96%87%E7%AB%A0 アンサイクロペディアの「読みにくい文章」。私この人の文章大嫌い。目が滑りまくり。
id:makiyamakoji とても よみに くいね
id:feita さすがによむきがおきないね。
id:suzuchu せっかくすごくいい事をいっているのに、読みにくい。漢字を使わない理由のほうも読ませていただいたけど、そっちはただの屁理屈に思えた。
id:kubodee ひらがなおおくてよめない。 それと たてよみ どこ?
id:kasuga-k [これはひどい] 興味のある題材だが読む気にならない…
id:change-of-pace [社会] たいとるにはきょうみをひかれたがぜんぶひらがなでよむきになれない
id:yatt 読み物 半分読んで止めた。読む気がくじけた。
id:puyop [これはひどい][ネタ][社会] 遅刻の常連者を更生できない教師とご学友というレッテルが張られることかな?/それにしても、ひらがなでちょうぶんはよみにくいぞ
id:rs6000moe [カリカリモフモフ][キタコレ][あらあらうふふ] 読みにくいものは読みにくい。わざわざ読みにくく書く人間の不誠実さには頭が下がる。/↑お、恥の文化
id:feita ボクは読みにくいものは読みにくいので素直に言っただけですよ。それ以上の意味もそれ以下の意味も悪意も善意もない。ごめん悪意は多少ある。
お疲れ様でございます。
みなさん、自信たっぷりに私の文章が「読みにくい」ということをご指摘くださって います。
「読みにくいものは読みにくい」のだ、と。それはそうですよね。読みにくいものは 読みにくい、読みやすいものは読みやすい、美味しいものは美味しい、美しいものは美しい、ですよね。
「不誠実」とまで言われました。自分にとって読みにくい文章を書く書き手は「不誠実」ですか? さぞかし良いご身分なのでしょう。
上のようなコメントはいつも頂いているので、もう慣れっこなのですが、今回目を引いたのは fromdusktildawnさんのコメントです。
id:fromdusktildawn この文章を少し読んだだけですごい疲労が襲ってきたんだけど、ブコメをみたら、ちゃんと読んでる人が沢山いておどろき。この程度のストレスに耐えられないとは、オレの脳も老いたか。
この人のコメントは、私が今まで頂いたたくさんの 「読みにくい」というコメントの 中でも、例外的なものです。それは「オレ」というご本人個人にとって「読みにくい」とおっしゃっている点でです。
なお、かな書きの文章が読みにくいはたぶん fromdusktildawn さんの脳味噌が老いたからではないと思います。ちょっとした慣れの問題ですよ(これはあとで説明します)。少なくともとりわけ年を取ってから漢字を学習する手間と苦労を考えたら、すでに漢字・かな混じり文の読み書きを習得した人がかな書きの文章に慣れるのは簡単なものです。漢字を使って文章を書き表さなければならない何か合理的な理由があるならまだしも、そんなものは、あとで述べるように、漢字を学んだ人にとってのちょっとした「慣れ」以外にないのは明らかです。
ともかく、私のかな書きの記事に「読みにくい」とコメントする人たちの中で、「自分にとっては読みにくい」という言い方をする人はほとんどいません。つまり、読みにくさの原因が読み手である自分自身にではなく、一方的に書かれた文章の側にあるのだという確信があるのでしょう。だからこそ「私にとってはあなたの文章は読みにくい」ではなく、単に「読みにくい」という言い方ができる。まさに「読みにくいものは読みにくいのだ」というわけです。
そして、「読みにくさ」の原因が読み手自身にではなく、書かれた文章の側にあるという確信を支えている条件とは、「この文章は私以外の多くの人にとっても読みにくいものであるはずだ」という思い込みに他なりません*3。「みんなも読みにくく感じるはずだ」と思うからこそ(多くの人が「読みにくい」と感じているのは事実でしょうけど)、遠慮はばかりなく、自信を持って、ただ「読みにくい」と言える。
つまり、「私にとって」と言わずに、ただ「読みにくい」とだけ言えるのは、多数者によりかかるという姿勢を取る限りにおいてです。かな書きの文章に対し、ただ「かな書きである」という理由で「読みにくい」という評価を下せるのは、それが「一般的に」――というのはとりも直さず「多数者にとって」ということですが――「読みやすい」と信じられている書き方から外れているからに過ぎません。
こうした自らが多数者であることに寄りかかった、いわば権威を笠に着た発想は、次のような表現をとって現れることもしばしばです。
「日本語酷すぎて読めない」だそうです。だいたい私にとっては、自分が書いたりしゃべったりする言葉が結果的に「日本語」に分類されるかどうかなど知ったこっちゃないのですが、この人はご親切にも(余計なお世話ですが) 私の文章を「日本語」とみなした上で、その「日本語」の名の下に「酷い」と断じるわけです。この、「自分は『日本語』の名の下に他人の言葉を評価できる/しても良い」といわんばかりの思い上がりご立派もんだと思います。
書き言葉であるか話し言葉であるかに関わらず、他人の表現を「日本語としておかしい(間違っている)」とか、反対に「日本語お上手ですね」とか評価を下すことに無頓着な人はよく見かけますけど、こういう人たちは一体何様のつもりなのでしょうか?
なるほど、あなたは他人の言葉を「日本語」とみなすかみなさないかについて権限をお持ちだ、と。そして、あなたがそれを「日本語」とみなすとき、あなたはそれを一方的に評価できる特権をお持ちだ、と。すなわち、相手があなたたちの「標準」と考える「日本語」に一方的に合わせるのが当然だ、と。そう考えているのでしょう。本当に結構なご身分ですわね。
すでに述べたように、私は自分の言葉が栄えある「日本語」という位置付けを与えていただこうがそうでなかろうが構いやしないのですが、光栄なことに「日本語」という分類に含めてくださるのだとしても、その「日本語」には様々な書き表し方が考えられますし、実際行われています。書き手がどういう読み手を想定するかに よって、「日本語」は、漢字かな混じり文で書かれることもあれば、かな書きで書かれることもあるでしょう。あるいは、ローマ字で書かれることもあれば、ハングルで表記されることもあるでしょう。点字で書かれることもあります。私は先に述べたような、またリンクした記事で述べてきた理由から、かな書きを選んでおります*4。
たとえば、ひらがなや漢字を知らないけれどもアルファベットには馴染んだ日本語話者同士が、アルファベット表記の日本語でやりとりする場合があります。おそらく、そういった場合には、第三者が横から口を挟んで「君たちの日本語は読みにくい」などとは言わないでしょう。では、なぜ私のかな書きの文章が一部の人を苛立たせ、「読みにくい」「読む気がおきない」といったコメントを誘ってしまうのか?
その理由の一つには、私が漢字かな混じり表記でも書けるのに、あえてかな書き文章を書いていることがあるでしょう。つまり、「わざわざ意図的に読みにくい(と漢字かな混じり文に馴染んだ人には感じられる) かな書きで書いてやがる」という反発があるのではないかと思います。
しかし、そこには 「日本語で書かれた文章である以上、自分たち大多数の読み手にとって読みやすい漢字かな混じり表記で書かれるのが当然だ」という前提が――屈託なしに「読みにくい」というコメントを書き込む人はあんまり自覚していないのでしょうが――あるのではないでしょうか? 普段日本語の読み書きにさほど不自由を感じずに済んでいる人は、「日本語で書かれた文章である以上、自分にとって読みやすいのは当たり前だ」と思ってしまいがちなのでしょう。だから、「日本語」で書かれているにも関わらず、「日本語」の「普通」の読み手である自分たちにとって「読みやすさ」の点で配慮されていないと感じられる文章には苛立たずにはいられない。
繰り返しになりますが、そうして苛ついたときに、屈託なくただ「読みにくい」とはばかりなく言ってのけることができるのは、多数者としての権威を笠に着ることによってです。そのことに私が気付くことができたのは、はてなブックマーカーの皆様方から「読みにくい」というコメントを度々もらったおかげです。私自身別の場面では、同じように多数者の権威と権力を笠に着た物言いを無自覚なまましているのかもしれません。
次に引用するのは、コーリィー・フォードという人が1949年に書いたコラムです*5。あえて、かな書きに直して引用します。
このごろ建物の階段は、昔より勾配がきつくなったように思う。蹴込みが高くなったのか、段数が多いのか、何かそんなことに違いない。
たぶん、一階から二階までの距離が年々伸びているせいだろう。そういえば、階段を二段ずつ上るのもめっきり難しくなった。いまでは一段 ずつ上るのが精一杯だ。
もうひとつ気になるのは、近頃の活字の細かさである。両手で新聞を広げると、新聞がぐんぐん遠くへ離れていくので、目をすがめて読まねばならない。
つい先日、公衆電話の料金箱の上に書いてある番号を読もうと後ずさりしているうちに、気がついたら、ボックスから体が半分外にはみ出していた。この歳でメガネなんて考えるだけで馬鹿馬鹿しいが、とにかく新聞のニュースを知りたくても、誰かに読んで聞かせてもらうしかなくて、それではどうも物足りない。最近の傾向なのか、みんながひどく小声でしゃべるので、よく聞き取れないのだ。
何もかもが昔より遠くなった。私の家から駅までの距離も倍ぐらいに増えたし、これまでになかった丘が中間にできたようだ。……
見ての通り、この文章はは、耳が遠くなり、また足が弱くなった年寄りの、いわば「自己中心的な」視点から書かれたジョークです。これが滑稽に感じられ、ジョークとして受け取られるのは、普通年寄りが自己中心的な視点から物を言うことが許されていないからです。
文字を読むのに苦労するのは「活字が細かすぎるから」ではなく、彼・彼女が「年を取って老眼になったから」とされる。また、話し声を聞き取るのに苦労するのは「みんながひどく小声でしゃべるから」ではなく、本人が「年を取って耳が遠くなったから」と される。
だから、普通年寄りは遠慮がちに「私にとっては新聞の文字は細かすぎて読めない」と言わざるを得ない。
同じことは文章の表記についてもいえるはずです。漢字かな混じり文に慣れた多数者は、自分たちが多数者であるからこそ、自信たっぷりに大声で「この文章は読みにくい」と言える。しかし、その一方で漢字かな混じりの文が読めない、あるいは読みにくい人が、大声ではばかりなくただ「読みにくい」と言うのは難しいでしょう。彼ら・彼女らは遠慮がちに「私は読めない/読みにくい」という言い方をするか、あるいは遠慮して「読めない/読みにくい」ということを言わないか、どちらか でしょう。
そうやって彼ら・彼女らに遠慮を強いているのは誰か? それは漢字かな混じり文だけが「まとも」な「日本語」だという常識を作り上げてきた私たち多数者でしょう。
石川准さんの言葉を借りると、多数者は、自分が「配慮されている」ことを都合良く忘れる一方で、少数者への配慮を「特別な配慮」とみなしがちです。石川さんの文章を、今度はかな書きでは読みにくいという一部の人たちに「特別に配慮」して、元の文章のまま引用します。
もっとわかりやすく言い直すために「配慮の平等」について説明する。
多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。
たとえば、駅の階段とエレベーターを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベーターは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベーターを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる*6。
あえてかな書きで文章を書くことが漢字の読めない人への「特別な配慮」だとするなら、漢字かな混じりで文章を書くことも、そのほうが「読みやすい」という人への 「特別な配慮」といわなければなりません。反対に、漢字かな混じりで文章を書くことが読み手にとっての「当たり前の配慮」だと考えるならば、漢字の読み書きに困難を抱える人に配慮するのも「当たり前の配慮」です。
要するに私が言いたいのは、漢字の読み書きができるからといって偉そうにするんじゃないよ、ということです。
その上で、この文章を読まれている方に、かな書きで書くことをおすすめしたいと思います。
私は前の記事で次のように書きました。
さて、明らかに不合理でくだらないということが分かりきったルールを守るということは、権力に屈服するということです。権力に屈服するということは、おそらく多くの人にとってみじめなものでしょう。そうしたみじめさを感じずに生きて行きたいものですね。そして、権力と戦わずにみじめさから逃れるためには、自分が権力に屈服しているという事実、不合理なルールに従っているという事実を忘れなければなりません。つまり、実際は不合理なルールに従っているにも関わらず、そのルールが「合理的な理由がある」ものだと思い込めば良いわけです。
これは別の文脈で述べたことですが、実は書いているときに漢字の問題なども念頭に置いていました。
漢字の読み書きにあまり不自由しなくなった人は、そのためにおびただしい時間と手間をかけてきたはずです。また、「あまり不自由しなくなった」とはいっても、それでも実際のところ結構不自由しているでしょ?手書きで文字を書くときに漢字の書き方を思い出せなかったり、パソコンで書くときだって同音異義語があるときにどの文字に変換すべきか分からなかったり。難しい漢字や熟語が使われている文章は、読むのだって大変だし。こうして漢字のせいで余計に辞書を引く手間がかかる。漢字を知らないと恥ずかしいと思わせられたりもする。
そうやってこれまで苦労してきたし、今も日々苦労しているから、その自分の苦労を否定したくないという気持ちになるのは、ある意味自然なことではあります。自分の苦労に「意味がある」と思うために、漢字を使うことに「合理的な理由がある」思い込もうとする気持ちもわからないではありません。
id:chakimar 漢字って素晴らしい。それに気づかせてくれたすばらしい日記。
id:te2u こういう発想はなかったな。守って当然と思っていた。/このエントリをみて、漢字が出来てよかったしみじみ思う。
ところが残念なことに、というか幸いなことに、漢字を使わなければならないという合理的な理由はたぶん存在しません。
たとえば、「日本語は同音異義語がたくさんあるから、かな書きでは意味が通らない文章になる」ということを言う人がいます。
しかし、これは物事の順序を取り違えた議論で、「漢字を使うから、同音異義語がたくさんできてしまうのだ」というべきだし、同音異義語を避ける工夫をすれば良いことでしょう。そもそも、同音異義語はどんな言語でもあるのだし、多少それがあっても、文脈で判断できるように書き方を工夫することは簡単です。
実際、話し言葉では、そうやって文脈から判断できる範囲で同音異義語を使ったり、また文脈から分かりずらい同音異義語の使用を避けたりといった工夫はなされているわけです。もちろん、話し言葉では、イントネーションを始めとしてかな書きでは書き表せない情報を含んでいるので、単純には比較できないのですけれども。しかし、わかりにくい同音異義語が多すぎるのが問題だというのなら、新しい言葉を少しずつ作っていけば良いだけの話です。
他によくある誤解はは、漢字は表意文字なのでビジュアル的に把握しやすいというものです。たとえば、次のようなコメントもそうした誤解に基づいているのでしょう。
id:koisuru_otouto 漢字って絵文字と同じだから "かな"だけの文章を読み解き辛いのは自分もだしわかるんだけど
ちょっと考えればわかることですが、漢字がかなやアルファベットと比べて特別にわかりやすいということはありません。「漢字は一目でその意味を把握しやすい」と言う人は多いですが、そういう人はアルファベットだったらどうなのかということを少し考えてみると良いでしょう。アルファベットだって同じなのです。
英語を読むのに慣れた人は、たとえば "guitar"という文字の連なりを見たときに、一目でその意味を把握しているでしょう。一方、"kltjautr"といった文字の連なり――これは いま私がでたらめにキーボードを打って作った文字列です――を見ても、ひとまとまりの物と認識することはできないはずです。
つまり、漢字を読むのに慣れた人が、たとえば「雪」という漢字や「弦楽器」といった熟語の意味を一目で把握できるのも、それとまったく同じことであって、単に「見慣れているから」に過ぎません。アルファベットであれ、ひらがなであれ、文字を読むのに適応しやすい体をもった人にとっては、見慣れた単語や連語を、文字単位ではなく、ひとまとまりの語句として認識することは簡単なはずです。
要はちょっとした「慣れ」の問題であって、「漢字そのものの特徴ゆえに、漢字で書かれた文章は読みやすい」という俗説は全くの誤りです。「漢字で書かれた文章は読みやすい」と感じるとしたら、それは単にあなたがそれに「慣れているから」に過ぎません。
(続き)
はてブユーザだし、暇な時とかには人気エントリー眺めてるけど、こんなのがあるなんてしらなかった。
つーことで、知らない=はてなユーザではない ってことはないと思う。
私の場合、ネットでネタにされてるからこのサイト(http://gekkyoku-teiso.info/)見た時点一発でネタだってわかるけども、もし一切ネット見てなかったとすると、違和感がある程度でネタサイトだってのは気付かないんじゃないかなと思う…
って一瞬思ってたけど違うわ、元増田に上げられてる追加資料見れば(アンサイクロペディアをウィキペディアと勘違いしたとしても)冗談だってすぐわかるはず。
こんだけ資料を上げられた上で、気付かないって事は本当の馬鹿なのか、というかそんな社会人が本当に存在するのかすら疑わしい。
MLに上げられてたっつても大半の人がああこのネタねワロスワロス程度で流したってことで、信じてたのは自称超有名インターネットIT企業勤務の馬鹿一人ってことじゃないかな。
# にしてもアンサイクロペディアって面白いなー。
# こういう記事書ける人って尊敬する。
何人かにURL紹介してみたんだけど、本気で信じる人や
ただの企業ページじゃん、って反応する人が半分ぐらいだった。
月極め駐車場はげっきょくグループの独占事業である!なんてネタ自体が
そんな普遍的なものじゃないのかもしれないのかもしれない。
アンサイクロペディアにある安全第一ホールディングスぐらいになると初見でもわかるのかな。
こないだはてブで「月極定礎ホールディングス」がホッテントリになった時、大笑いしたので、
日本人なら誰でも知ってる超有名インターネットIT企業にいるらしいネトゲ仲間に、冗談でこれの話をしたんだ。
「聞いたことがない」というので、同僚なら知ってるかもよと言ってみた。
超有名IT企業なんだから、その日のはてブのホッテントリくらい当人は知らなくても誰か知ってるだろう、と思って。
また、サイトの内容だって、読めばネタサイトだと言うことくらいわかるだろう、と。
とはいえ、必要以上に本気にされても困るので、それに続けて、
http://www.google.co.jp/search?q=%8C%8E%8B%C9%92%93%8E%D4%8F%EA
こんなふうに検索したらそこら中にヒットするくらい、駐車場業界では独占企業だったんだ
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E6%9C%88%E6%A5%B5%E9%A7%90%E8%BB%8A%E5%A0%B4
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%AE%9A%E7%A4%8E
ほら、これと、これね
関連項目もおもしろいよ。
という感じで、アンサイクロペディアの記事を出したりしてネタバラしをしたつもりだった。
ここまで書けば、さすがにネタだとわかるだろう。
で、そんなことも忘れた数日後、あちらから、
「こないだ聞いた会社、四季報にも帝国DBにも載ってないんだけど」
載ってるわけ無いじゃないか、ネタ会社なんだから、と返すと、あちらさん、大激怒。
「騙すなんて最低だ」
「知り合いにも触れ回ってしまった、どうしてくれる。」
「今更嘘でしたでは信用に関わる」
「Wikipediaの記事まで出して信用させるなんて!」(いや、それはアンサイクロペディア…。)
「もう信用できない」
「金輪際、つきあいは断らせてもらう」
などなど。
さらには「教えた人全員に送るから謝罪文を書け」などと。
どうやら社内MLにも流したらしい。
まさかアレを真に受ける社会人がいるとは思わなかったんだけど、騙した形になったのは事実だから、「ごめんなさい。申し訳ありません。時と場合と相手を選ぶべきでした」などと書いて送った。
これもそのままMLに流した模様。
MLでどういう書き方をしたのかは知らないが、
同僚などからも誰も「ああしってる。はてブとかでちょっと話題になってるネタサイトでしょ?」みたいな反応は一切無かったということになるのかな。
ホッテントリに入っても、インターネットコンテンツをビジネスにする大企業の社員の一部署全員が知らないってことはあるということを今回の件で思い知った。
あとは、30歳代のネットに詳しいはずの社会人が、あのサイトを見てネタ企業と判断できない場合もあり得る、ということ。
あと、ネタ会話は、その会話の中でちゃんとネタ晴らしをするべきだったんだ。
トラバやはてブありがとうございます。まさか100突破するとは思わなかった。いろいろと興味深い意見を見れてありがたいです。
ただただ純粋に、先方さんの職場にもはてブユーザーが一人くらいはいるだろうと思ったんだけどなぁ(いればもっと小規模で済んだのになぁ)、という程度です。
厳格すぎてネタ成分がないのはまずいというのは分かる。
しかしだな、あれは単なる宣伝に近いものじゃないか。
キーワードがアクセス稼ぎの自己アピールの場になるというのも、ろくでもない選択肢だと思うぞ。
一人称的な文章で自己紹介的なことを書くのは、べつにはてなじゃなくても、アンサイクロペディアでもニコニコ大百科でもアウトじゃねえの。
あれはもともと、そんな個人サイトキーワードとして登録するのってどーよ、ということで議論になった。
で、それについては、はてなの裁定でありになった。だから、キーワードになってるのは、別にいい。
しかし、だからって、ああいう説明文はどーよ、という話だよ。