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2012-01-24

初心者おすすめ元気が出るアニメ

161 ほとんどコピペ :2011/02/24(木) 03:29:45.26 ID:q32K6zHQ

初心者おすすめ元気が出るアニメ


BRIGADOONまりんとメラン:主人公のマリンとその周りの人達が送る心温まるストーリー!!

serial experiments lain:内気な少女ネットで暴れまわる!!時代を先取りした爽快SF作品!!

びんちょうタン備長炭萌え擬人化したほのぼの感動作!!

今、そこにいる僕剣道少年がいきなり戦場!?痛快アクション!!

地球へ…地球を目指す超能力者達の能天気コメディ!!

エルフェンリート:変な力を持った猫耳少女が巻き起こすはちゃめちゃ大騒動!!

無限のリヴァイアス:陽気な宇宙戦艦クルー達が送るドタバタSF漂流記!!

なるたる:ある日主人公が星型の宇宙人出会メルヘンストーリー!!

蒼穹のファフナー:島に住む子ども達の生活を描いた超感動作!!

ぼくらの臨海学校出会った子どもたちがロボットの操縦士に!?大騒動コメディ!!

TEXHNOLYZE:己の拳で成り上がれ!!スラム街舞台の熱血ボクシングアニメ!!

ねこぢる劇場ねこぢる草:キュートな猫の姉弟が大活躍!!ほのぼの日常アニメ!!

秒速5センチメートル:忘れられない初恋の子を追いかけるハートフル恋愛アニメ!!

ひぐらしのなく頃に昭和58年舞台田舎少年少女が繰り広げる部活動ドタバタストーリー!!

魔法少女まどか☆マギカ:大切な願いを守るため奮闘する少女たちの王道魔法少女ストーリー!!

2012-01-13

[]著作権に関する本

デジタル時代著作権 (ちくま新書) - 野口 祐子

図解 わかる著作権 クリエイティブ×ビジネスの基礎知識 - コンピュータソフトウェア著作権協会;

なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代ぼくらの著作権入門 - 岡田 斗司夫

著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」 (集英社新書 527A) - 福井 健策

日本著作権はなぜこんなに厳しいのか - 山田 奨治

著作権の考え方 (岩波新書) - 岡本

「どこまでOK?」迷ったときネット著作権ハンドブック - 中村 俊介

ビジネスパーソンのための契約教科書 (文春新書 834) - 福井 健策

インターネット時代著作権―実例がわかるQ&A付 (丸善ライブラリー) - 半田 正夫

コンテンツビジネスによく効く著作権のツボ - 八代 英輝;

インターネット時代著作権―この一冊ですべてがわかる - 富樫 康明

パクリ学入門―ウェブ時代創造力を鍛える36冊のブックガイド 黒川 芳朱

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書) - 渋沢 栄一


ヒット商品を最初に買う人たち [ソフトバンク新書] - 森 行生

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い - ジョナサンサフラン・フォア

逆に読者と紹介するもののギャップを埋めようとする意識がなかったり、フィクションからといって無理のありすぎる展開を書いてるのは嫌い。小説としても二流。ビジネス書としても中途半端。そういう本は読者を舐めているとしか思えない。私は嫌いだ。

ディ○ニー本ってよく売れるしまとめとかでもホッテントリよく取ってるけど、だいたい「イイハナシダナー」で終わってしまうよね。ディ○ニーとか○ッツ○ールトン本はどうせ実践しないからといって過剰な賛美と徹底的な理想化がうざくて敬遠してしまう。そういうのはテレビでやれ。


もしドラ」も顧客を観客にして、野球部アイドルにするって方向性はすごく面白かった。あのまま突っ走ってくれたほうが面白かった。「弱小野球部がアイドルをやる。1年で甲子園にも出る。両方やらなきゃいけない所がマネジメントの辛いところだな」などという非現実的な目標設定をしたのはおかしいし、無理な目標設定と現実を「なぜか」でごまかした展開は物語としても心底興ざめだった。

それでも、部活っていう内向きなものを、自分とか部活メンバーのためだけじゃなく、もっと広い目で見て何するか考えようよ、ぼくらの可能性はもっといっぱいあるよ、って最初提言を見たときは感動したんだよね。

2012-01-12

[] うーむ

ユーザ中心ウェブサイト戦略 仮説検証アプローチによるユーザビリティサイエンス実践 - 株式会社ビービッ

なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代ぼくらの著作権入門 - 岡田 斗司夫



競争作法 いかに働き、投資するか (ちくま新書) - 齊藤

リンジャー・バンド入門 ― 相対性原理が取り明かすマーケットの仕組み (ウィザード・ブックシリーズ) - ジョン・A・ボリンジャー

いかにして問題をとくか - G. ポリア

新版 小予算で優良顧客をつかむ方法 - 神田 昌典

実戦ボトムアップマーケティング戦略 - ジャックトラウト

ビジネスパーソンのための契約教科書 (文春新書 834) - 福井 健策

人生法則 「欲求の4タイプ」で分かるあなたと他人 - 岡田斗司夫

教養としてのパソコン入門 コンピュータきもち - 山形 浩生

2011-12-24

虐殺器官 リマインダー

一度虐殺器官を読んだ人(=自分)が内容を思い出すためのもの

第一部

 

 死者の国の夢と、そこに現れる死んだ母さん。

 僕は「濡れ仕事屋(ウェットワークス)」として、二〇一〇年代後半に頻発する内戦をおさめるため、「レイヤーワン」を殺してきた。レイヤーワン――罪の多寡とは無関係に、それを殺すことでもっと効率的に争いを終結させられる標的。

 仕事で殺してきた数多くの(時に罪のない)標的のことは少しも心に留まらないのに、プライベートでの、母に対する医療行為打ち切り決断したことで、僕は気を病んでいる。


 仕事で、二人の標的AとBを殺すように命じられ、異国に入る。標的Bについての情報は、上司から与えられているはずなのだが、それが上司意図により隠されている。

 標的Aはその国で虐殺行為を率いていた為に、ぼくの手により暗殺される。

 ぼくは標的Aに、なぜそのようなことをしたのかをきくが、彼はしきりに「わからない」と繰り返す。

 標的Bはすでにそこにはいなかった。

第二部

 仲間のアレックス自殺する。

 彼はしばしば「地獄は頭の中にある」と言っていた。

 ぼくの父も、かつて自殺したのだった。

 家の天井に散った父の血を拭き取ったのは誰なのだろう?

 標的B――ジョン・ポールを追って、僕らは殺しを繰り返してきた。彼は内戦から内戦渡り歩いているようだった。

 だが、ぼくらが暮らすアメリカは、「ドミノ・ピザやペイムービーリピート平和」か支配し、戦火とは無縁だったのだ。

 ペンタゴンに召集される。

 そこで「ジョン・ポールは軍とは無縁の文人学者でいる」、「しかし、彼が関わった国は決まって内戦が起こる」と聞かされる。

 彼は今度、ヨーロッパに入ったらしい。

 ぼくの新たな任務は、チェコで彼を追跡すること。

 死者の国の夢――「死体物質にすぎない、生きた人間も」と母さん。

 幼少時、僕は家の中で母さんの視線を感じ続けて育った。その視線から逃れるために、「濡れ仕事屋」を始めたのだった。

 視線と、認証との類似性。

 ジョン・ポールと関係を持つらしい女、ルツィアと接触する。チェコ語講師をしている彼女の生徒として。

 ルツィアに、「言語進化によって獲得された『器官』である」という話を聞かされる。

 チェコプラハ行方くらませた人間(ジョン・ポールもそうかもしれない)のIDの追跡可能性はゼロらしい。

 9・11のテロとの戦い以後、認証を繰り返さなければ買い物も交通機関を利用することもでしないのに。

 ルツィア曰く、「ジョン・ポールはもともとMIT学者だったが、いつからDARPA研究(ぼくが使う武装、SOPMODを作ったのもDARPA)をするようになった」

 それは上司からは当たられていない情報だ。

 ルツィアの部屋からの帰り、若者におそわれるが返り討ちにする。おそらくは、ジョン・ポールの協力者。

 彼は、指紋と虹彩とで、認証されるIDが異なる。

 サラエボの核クレーター

 IDトレースによれば、かつてジョン・ポールとルツィアが密会していたとき、彼の妻子はサラエボで核に吹き飛ばされた。

 ――彼が関わった国で虐殺が起こるようになったのはそれから

第三部

 死者の国の夢――夢の中のプラハでは、例の虐殺が発生していた。

 その夢でも、母さんが現れる。

「母さんは意識はなかったけど、内蔵は動いていた。そして、ぼくが医療行為の中断を認証した。

 ……母さんが死んだのは、ぼくが認証イエスと言ったときだったんだろうか?」

あなたは、任務での殺しでは「それは政策が決めたことだ、自分が決めたことじゃない」と、責任の重みから逃れられた。

 でも、医療の中断の責任からは逃れられない。あなた自身の決断から

 ……そう思っている。もしくは、中断をする前から私は死んでいたと信じたがっている。

 けれど、本当は、私だけじゃなく、あなたがころしてきたすべての人々が、あなた決断によって死んだ。

 私を殺した罪を背負い込めば、あらゆることが帳消しになると思っているの?」

 夢の虐殺後の静けさとは裏腹に、プラハのあるクラブには、生き生きとした騒々しさが満ちている。

 そのクラブでは、ID認証せずに支払いできる紙幣(みなくなって久しい!)を使うことができる。

 クラブオーナールーシャス曰く、

「プライヴァシー(認証されない)自由と、テロの自由からの恐怖はトレードオフ。自由の選択の問題」

 クラブでの、ルツィアの告白

 

 ジョン・ポールの妻子がサラエボで核の熱で蒸発したとき彼女はジョン・ポール不倫し、セックスを楽しんでいたという罪の告白

 罪悪感の対象が死んでしまうということは、いつか償うことができるという希望を剥奪されること。

 死者は誰も許すことはできない。

 ぼくの告白――もちろん、仕事の部分はルツィアに隠しながら。

「濡れ仕事」で数々の骸を見、中央アジアからワシントンに帰ってくると、母さんは事故で死んでいた。が、彼女心臓は再び動き出した。――危険軍隊へ行ってしまったぼくへの復讐として、ぼくに生き死にを決断させたかたから?

 決断材料を探す為に、母さんのいえ――ぼくの生家でもある――に行く。

 かつてそこでも母さんの視線を絶え間なく感じながら、ぼくは育った。

 見つめられることの安堵は、(認証され続けることの安堵は、)息苦しさの表面にすぎない。

 結局、母さんの残したログは見ずに(ロックがかかっていて、他人が見ることはそもそもできなかった)、ぼくは母さんの「死」を決断する。

 ――母さんの視線の「気圧」から逃れたくて、ぼくは母さんを「殺した」んじゃないのか。

 僕の告白に対してルツィアは、

人間生得的に善ね利他行動を行える。あなたの、お母さんを「殺した」決断も、本能による利他の行動。だからあなたは許されるべき」

 ルツィアとの帰り道、気を失う。

 ジョン・ポールによる電撃を食らって。


 とらえられた僕は、ジョン・ポールと会話をする機会を得る。

 ジョン本人により、虐殺言語の詳細が語られる。

 虐殺言語は、僕の装備を作ったDARPAが協力した研究により生まれ、僕の殺す対象を選ぶのと同じシステムを利用してる。

 ジョンの協力者によってつれていかれた先は、ルーシャスの店。

 ルーシャスは、〈計数されざる者〉という、ポールの協力者集団の一人だったのだ。

 〈計数されざる者〉は認証を嫌う。プライバシー平和トレードオフの関係にあるはずなのに、実際は、認証をすればするほどテロが増加している。

 それは、世界の人々が、自分のことにしか興味がないから。ドミノ・ピザビデオクリップ平和に浸っているから。すぐに手にできるはずの現実に手を伸ばそうとしない奴らばかりだから

 ジョンとルツィアは去る。

 僕はルーシャスに殺されかかる。その寸前のところで、ウィリアムズに助けられる。

四部

 旧印パ国境地区。そこにいるらしいジョンをとらえるように命じられる。

 痛いと「感じる」ことはなくても、痛いと「知覚する」ことはできる。人をためらうことなく殺せても、その殺意自分のことのようには感じない――僕は「濡れ仕事」をこなせるように、DARPAによって、そのように調整されている。

 ――「殺される」前の母さんと同じ、希薄意識だ。僕が「濡れ仕事」をするために必要な、意識希薄さ。

 この殺意は、本当に僕のものなのか、僕が「殺す」前、母さんが本当に「死んで」いたのか、僕にはわからない。


 仲間のウィリアムズとリーランドとともに、インドに入る。

 ジョンを文化顧問として雇った、ヒンドゥー原理主義国、ヒンドゥーインディア。

 その少年少女の兵を、「他人の殺意」で殺しながら、ジョンのもとにたどり着き、彼をとらえる。

 ジョンを輸送する列車

 ジョンは、

「私が行っている「虐殺言語」と、きみが施されている「「他人の殺意」による殺人」は同じだ。どちらも、良心抑制する」と。

 ぼくは、

「あんたには内通者がいるな。政府部内に。僕らの面子か、もっと上のほうだ」

 ぼくらアメリカと同等の技術を持った敵によって、列車が襲われる。ジョンは僕たちによる拘束から逃れる。

 僕たちも敵も、痛みを「知覚」するが、感じない。体の部分が吹き飛ばされても、戦闘は続く。お互い、「ハンバーガーになるまで弾と火薬をたたき込むしかない」。

 リーランドミンチになりながら、死の間際まで、冷静で希薄意識で戦い続けた。


第五部

 インドミンチになったリーランドは、商品と違ってメタヒストリーを持たないから、つなぎ併せて一つにして、棺に納めるだけでも一苦労だった。

 それでも、ミンチにさえならなければ、認証によるメタヒストリーを僕らは持つ。母さんもそうだった。

 母さんのメタヒストリープロテクトされていなければ、僕は母さんを「殺す」か否かの決断を、認証の蓄積によるライフログを手がかりに探すことができた。

 リーランドミンチになった戦いがきっかけで、ジョンとの内通者が発覚する。

 発覚した情報を手がかりに、ヴィクトリア湖へとジョンを追う。そこは、誰も追おうとしない人工筋肉メタヒストリーの行き着く先。

 〈ヴィクトリア湖沿岸産業同盟〉は、人工筋肉利権を得るために、独立しようとしている。

 ジョンはそこの文化顧問だ。

 ジョンがいるはずのゲストハウスにルツィアを見つける。

 ルツィアを探してゲストハウスに入ると、ジョンが待ちかまえていた。


4(物語のコア)

 ジョンは、

虐殺利他も、進化によって得たモジュールという点で同じ。むしろ両立すらできる。生存のための大量虐殺というのもありうる。たとえば、食料を多部族から奪って自部族の仲間を生きながらえさせるためだったり」

 ルツィアは、

あなたは、サラエボの奥さんや子供を失って絶望しているか虐殺言語をばらまいているのね?」

 ジョンは、

「いや、愛する人々を守るためだ」

 ――そうだ。ジョンがいたどの国も虐殺に見回れていたはずなのに、彼の過ごしたアメリカチェコでは、それが起きていない!

5(物語のコア)

ジョンは、

「人々はみたいものしか見ない。だから、いくら認証しても、テロはなくならない。

 ならば、テロで爆発するはずの憎しみがこちら、アメリカチェコといった先進国に向く前に、彼ら同士で憎しみあってもらおう。――そのために、虐殺言語をふりまいた」

 ジョンは、ぼくらの世界へのテロを未然に防ぐため、虐殺の旅を重ねた。

 ルツィアは僕に、ジョンを殺さずに逮捕するように言う。僕らの世界平和は、ジョンによる無数の死者の上に成り立っているのだと、みんなが知るべきだと。

 と、ルツィアがヘッドショットを決められて死ぬ。

 ウィリアムズによって。

「なぜ殺した」と僕。

「妻と子のためだ。彼女らは、この世界虐殺の上に成り立っていることを知らなくていい。

 ドミノ・ピザ認証で受け取る世界くそったれの平和世界を、俺は彼女らのために守る」

 ウィリアムズはジョンを殺したがっているが、僕はルツィアの最後の言葉の通りに、ジョンを生きてアメリカにつれていき、証言の場に立たせたい。

 ジョンとともに、逃げる。

オリジナル

「おまえを逃がせばまた、虐殺言語を振りまくのだろう?」と僕。

「いや、死んだルツィアの望んだ通り、世界真実を知らせよう」

 タンザニア兵と合流しようとするが、それはタンザニア兵になりすました、僕の「濡れ仕事」の仲間だった。

 彼がジョンを射殺し、僕の任務は(アメリカからすれば)成功裡に終わる。

エピローグ

 僕のもとに、母さんのライフログ権利譲渡される。

 ……僕は、プロテクトがあるためにライフログを見られなかったのではない。ただ、漠然とした恐怖があって、ライフログの閲覧を申請しなかっただけだ。

 僕は幼いころ、常に母さんに監視ID)されているような気でいたが、母さんのログを読んでみると、必要最低限にしか、僕の存在記述されていない。

 母さんの記録の中に生きていたのは、圧倒的に父、自殺したはずの父だった。

 僕は、ジョンからもらった手帳を元に、虐殺言語を語る。虐殺言語でもって、ルツィアの願い通り、真実を世に知らせるのだ。

 そして、世界にとって危険な、アメリカという火種を、虐殺に突き落とす。

 僕はこの決断を背負う。ジョンがアメリカ以外の命を背負おうと決めたように。

☆改変版

「お前はまた、虐殺言語をばらまくのか?」

 ジョンは、

「いや、私は米国内の後ろ盾を失った。深層構造原理を知られれば、たか言葉だ。応用されるのも時間の問題だろう。マスコミ政府公報で、いくらでも虐殺言語を打ち消せるさ。

 だが、私は〈計数されざる者〉という新たなバックアップを得られた。認証に対して憎悪を抱く、世界的な組織だ。この力を使えば、私たちのすむ「こちら側」を静寂に保つことができる」

「なにをするつもりだ?」

 僕の「濡れ仕事」の仲間が、僕がジョンの答えを聞く前にジョンを射殺し、僕の任務は(アメリカからすれば)成功裡に終わる。


エピローグ

 僕はジョンに、「真実」が書かれたテキストファイルを渡されていた。

 それを世界に知らしめ、僕たちが虐殺の上にたっていることをみんなが理解することがルツィアの願いなら、僕はそうするべきなのだろう。


 公聴会で、ぼくはジョンの件で見聞きしたものを語る機会を得る。

 ジョンから渡された「真実」オルタナに浮かべて話そうとする。

 すると、僕が見ずにいた、母さんのライフログオルタナに突きつけられる。――これが、〈計数されざる者〉、ジョンが最後に得た力か。

 幼少の僕は、母さんに監視ID)され続けていたと思っていた。しかし、母さんのライフログには、あまりにも父ばかりがいる。彼の死語ですら。

 それを皮切りに、次々に、アメリカの全議員、いや、オルタナをつけているすべての人々の視界に突きつけられる、真実ログ世界からアメリカ憎悪の数々が向けられているという真実。〈計数されざる者〉のルーシャスは言っていた。プライバシー提供と、テロとのトレードオフの不均衡は、みたいものばかりを見ることによって起こると。認証の中に閉じこもり、ドミノ・ピザビデオクリップ平和の外を知ろうとしないことで起こると。

 ふと、アメリカはもう死んでいるのだと思った。母さんに視線を返せない、父さんのように。憎悪を浴び続け、しかしそれを無視しているアメリカは、死んだ父さんと同じだ。

 ……だが、アメリカ憎悪を向ける小国とて、自分の窮状をしらしめようと騒ぐばかりで、他の小国を知ろうとすらしていないのだ。僕が母さんのログを見ようとしなかったように。

 ジョンが行った、〈計数されざる者〉の力の改変。それは、小国の内部で争いを起こす虐殺言語よりも規模が大きなものだった。互いに無視しあっていたずの、小国小国視線をぶつけ合わせる。そして、小国同士で戦争を起こすことで、「こちら側」の平和を保とうとするものだった。

 ジョンの考えと僕の考えは違う。

 母さんが僕を見ないのは、父さんというすでに存在しない項があるからだ。アメリカから存在しない視線小国が期待するように。

 存在しないものを、存在しないと意識させること。僕にはそれができる。ジョンから得た「真実」の欠片、虐殺言語と、僕のマザータンアメリカで語られる英語によった。

2011-10-20

アゴタクリストフ『悪童日記』の各章の章題(タイトル)まとめがなかったから作った

おばあちゃんの家に到着する

おばあちゃんの家

おばあちゃん

労働

森と川

不潔さ

体を鍛える

従卒

精神を鍛える

学校

紙と鉛筆ノートを買う

ぼくらの学習

ぼくらの隣人とその娘

乞食の練習

兎っ子

盲と聾の練習

脱走兵

断食の練習

おじいちゃんのお墓

残酷なことの練習

ほかの子供たち

郵便配達夫

靴屋さん

万引き

恐喝

非難

司祭館の女中

入浴

司祭

女中と従卒

外国人将校

外国語

将校の友人

ぼくらの初舞台

ぼくらの見世物スペクタクル)の発展

芝居

警報

"牽かれていく"人間たちの群れ

おばあちゃんの林檎

刑事

訊問

監獄で

紳士

ぼくらの従姉

宝石

ぼくらの従妹とその恋人

祝福

逃走

死体置場

おかあさん

ぼくらの従妹の出発

新しい外国軍の到着

火事

終戦

学校再開

おばあちゃん、葡萄畑を売る

おばあちゃんの病気

おばあちゃんの宝物

おとうさん

おとうさんの再訪

別離

2011-09-04

yuhka-unoさんの文章に見る自己矛盾

http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110901/1314876472

まず全体の内容についての感想

タイトルが結論があるかのようにミスリードしているが、書き手本人自身が未決着の感情について(本人がコメント欄でそう書いている)書かれたものである

今はこう思ってるけど将来どうなるかわからん、程度の話なんだと思って読めばどうってことはない。



ただこの人の文章の書き方は少し気になる。

例えば「困った母親」、「親切な方々」などいろんなレッテルを張って、自分側とそうでない側を誇張的に二分していること。

特にこの人の母親に対する描写は、相手を理解しようという姿勢意図的に排除されている。

まさか分からない人はいないと思うけれど、書き手が言ってる「母親の気持ち」は

あくまで書き手が自分経験から推測というか決めつけを行っているものである

実際の気持ちがどうであったかはこの文章からは判断することができないのだ。

から、「この人はちゃんと母親の気持ちを考えている」とは言えない。

この人は終始自分の側から観た自分のことを語っているだけにすぎない。

この人が語る母親像は、この人にとっての真実にすぎない。




書き手の人が決めた設定を強調するものに限られている。

構造」や「レッテル」を重視して、相手の内面をあまり重視していないように思える。

おそらく説明のための具体例を挙げるという趣旨の為だろうが、この記事だけ読むと、書き手の人にかなり冷たい印象を持つと思う。

まり、これによって母親自分の気持ちを理解してくれなかったと書いている割に、

この書き手も、自分から一方的に分析をしている(というか、自分の正しいと思うことに従って物事を整理している)だけで、

母親の気持ちを理解しようとしていないではないか、という指摘ができそうに思えてくる。





もちろん私はこの記事だけ読んでこの書き手の方が、他人の気持ちを思いやれない人だと決め付けるつもりはない。

ただ、この文章の中だけで、コメント欄のような「あなたは、あなたが求めるように母親の気持ちを考えてるんですか?」という反応が出るのは

極めて自然なことであると思う。

そのあたりを全く自覚しないで「しんせつな方」などといやみを言う辺り、

書き手の人とその母親は、相手の意見聞く耳を持たないという意味で似たもの同士であると「この文章からは」感じた。





色々書いたけど私が言いたいことは以下の引用

きわめて単純なルールがある。作文の内容は真実でなくてはならない、というルールだ。ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。

たとえば、「おばあちゃんは魔女に似ている」と書くことは禁じられている。しかし、「人々はおばあちゃんを<魔女>と呼ぶ」と書くことは許されている。

「<小さい町>は美しい」と書くことは禁じられている。なぜなら、<小さい町>は、ぼくらの目には美しく映り、それでいて他の誰かの目には醜く映るのかもしれないから。同じように、もしぼくらが「従卒は親切だ」と書けば、それは一個の真実ではない。というのは、もしかすると従卒に、ぼくらの知らない意地悪な面があるのかもしれないからだ。だから、ぼくらは単に、「従卒はぼくらに毛布をくれる」と書く。

ぼくらは、「ぼくらはクルミの実をたくさん食べる」とは書くだろうが、「ぼくらはクルミの実が好きだ」とは書くまい。「好き」という語は精確さと客観性に欠けていて、確かな語ではないからだ。「クルミの実が好きだ」という場合と、「おかあさんが好きだ」という場合では、好きの意味が異なる。前者の句では、口の中に広がる美味しさを、「好き」と言っているのに対し、後者の句では、「好き」は一つの感情を指している。

感情定義する言葉は非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間自分自身の描写、つまり事物の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。

本人の良し悪しは分からない。でも文章には問題がある。そこのところは多少自覚してもらいたい。

2011-08-20

【追記】「人生を楽に生きる8つの方法」は半分ウソだと思う。

人生を楽に生きる8つの方法

http://chaos2ch.com/archives/2982681.html

これを読んでいたらもやもやしてきたので書く。





4つだけは本当だということじゃない。

8つすべては「真実」に近いと思う。

実践できれば楽に生きれると思う。

それがいいとか悪いとかいう問題じゃない。

ただ、この理論だけでは結果的に不十分だとおもう。





いったいなにを欺いているのか?

この方法には2つのウソが隠されていると思う。

リンク先で語られている内容よりも

語られなかった内容に注意してほしい。






上のリンククリックした人は、それだけでかなり頭がいい。

つの方法を抜き出してみよう。




1、今に生きる

過去を悔やんでたらればを繰り返したり、起きてないことをあれこれ憂いたりするのは時間と労力の無駄遣いで非生産的

今の自分の状況や気持ちに行動原理をおく。




2、人や社会に期待をしない

求めたり「こうあるべき」とイメージを持ったりすれば、現実との差異にがっかりすることになる

基本は人生自己責任




3、他人は自己投影

自分が見ている他人は、他人という物質に反射して映った自分だと考える。

それが心地よくないものなら自分が変われば良い話




4、事象を引き寄せている(選んでいる)のは自分

その出来事を通して味わいたい思いや学びたいことがあるからそれを引き付ける。

災難ととるのではなく自分の選んだものと思って構える




5、自分がいなくても世界は回る

自分が思うより他人や社会自分を見ていない。

こうしなきゃ、こうでなきゃ、というのは自己満足であって、大抵の場合は不必要




6、ワクワクするものごとを選ぶ

自分の選択で他人が困っても、それは他人が対処すべき問題。

選択の連続人生で、自分の心がワクワクする方を正直に選ぶのが一番スムーズ。これができないと葛藤ジレンマに苦しむ




7、自分の行いは必ず帰ってくる

自分の行動は、空へ向けてボールを投げるのと同じ。

きちんと受け止めないでぶつかった時に、痛いと言って責任転嫁しようとしても事は進まない。

自分が受けたい言動をとればそのまま返ってくる。




8、物事は全て中立

「悪い出来事」「縁起の良い場所」なんてのは本当はなくて、全て中立な物事に自分意味付けをしてるだけ。

たとえば同じ場に居合わせ災害にあったとしても、ある人はたまたま見舞われたと感じるし、ある人は自分宗教の教えを遵守しなかったからと捉えるかもしれない。

自分の見方で世界が変わる。





方法自体はほとんど正しいとおもう。

ぐうの音もでない。

いろんな本を読んだり、テレビを見たり、人と話したりすれば

わりと納得できる考え方だなーと。

(というかこれがわからないとしんどい)






しかし、正しいということとそれが妥当であるということはまた別の問題だと思う。






でも、とりあえず

この方法実践することで人生が楽になる

ということはほぼ間違いないと思う。




世界じゅうの人がみんな

この方法を身につければ

きっと生きやすい世界が目の前に広がると思う。








ちょっと想像してみよう。





  • 過去のことは水に流してくれるし未来絶望しなくてもいいし(今に生きるから
  • あーしろこーしろとうるさく言われないし(人や社会に期待をしないから)
  • 相手を責める前に、まず自分の非を疑うようになるし(他人は自己投影から 以下略
  • 現状を肯定できるようになるし
  • 構ってもらえなくても大丈夫だと思えるし
  • 楽しいことを選ぶことを肯定できるし(仕事は厳しくあるべきなんてことも言わない)
  • 相手のことを慮ることが、自分をいたわることだと気付けるし
  • いいとか悪いとかい価値観に縛られなくなるし





現在あなた人生をおびやかす何者か

(親、兄弟、親戚、同級生、上司、同僚、社会のしくみ、政府日本テロリスト、なんでも)が

もし、これらの特性を身につけたならと考えてみよう。

こりゃパラダイスだ!

ぼくたちはお互いがお互いを認められるような

真に寛容な社会を実現できる!

誰と遊んでいようが楽しい

よーし!あの丘の上まで競争だ!






少なくとも2011年の今現在

これらの方法に従うことで楽に生きられると思う。







でもそれは「従うことができれば」の話。







つの方法としてまとめられた人生訓は

実際、どこの場でも目にする。

人生論」でも、「大往生」でも、「論語」でも、「エセー」でも、「徒然草」でもなんでもいい

長く広く読まれている「人生の教え」的な本を読んでると

最後にはだいたい前の8つくらいに収まる

(代わりにどっかの社長の話を聞いてもいいし、テレビ美輪明宏さんの話を聞いてもいい)。

昔の人は偉いなあと思う。






そういう感じの本はいろいろ読んだ気がする。

もちろん、まだまだ読み足りない。

なにせぼくはまだ今年から活字に触れはじめたばっかりだ。

きっと死ぬまで読んでも読み足りないのだけど

個人的には、ぼくの考えを

そういう本が「間違っている」と指摘してくれることを期待して

かばうんざりしながらもそういう本を読んでいた。






今のところ、ぼくの考えを「否定してくれる」本は見つからない。

いや、正確に言うと、否定してくれはするけども

それが納得できないのだ。

ぼくの読解能力がないだけならそれでいいんだけど

もしヒマならちょっとぼくの考えを聞いてほしい。








まず1つめのウソ

ぼくが言いたいのは

すべての人間がこれらの方法を実行するのは不可能だということだ。








古今東西のえらい人がみんな同じ結論にたどりつくなら

さっさとそれを実行すればいいのに

なんで同じ内容の本ばっかり書かれていくんだろう。

なんで大昔の本が現在ぼくらの胸に響くのかと聞かれたら

それが人間全体に広くみられる普遍的な問題だからじゃないかなあと思うけど

じゃあ、なんでその普遍的な問題が

大昔から今まで解決されないままなんだろう。






般若心経の新訳を読んだ。

あれもやっぱり8つの方法の言い換えみたいなもんだ。

聖書だってそんなに変わらないかもしれない。

ぼくらはなんで2000年も前の真理がいまだに実行できないの?








そりゃあれじゃないの?

本などの論理的なものほとんど触れないような

感覚で生きている人がすごく多いからじゃないの?








父ちゃんは「男はつらいよシリーズ」が好きで

こないだシリーズDVDツタヤで片っ端から借りてきて

大笑いしながら観ていた。





その中の一作で寅さんの「おいちゃん」が

実は若い頃は文学をやりたいと思っていたと話すシーンがある。





おいちゃんは父親にこう言われたらしい。







「団子屋に文学なんか必要ない」







男はつらいよシリーズフィクションだけれど、

しかに団子屋に文学はべつに必須ではないとおもう。

団子屋は文字より数字数字より団子が読めればいい。

団子屋が文字を読む必要がないなら、

本なんてまったく読まない人がいてもおかしくないんじゃないだろうか。







これは団子屋だけの問題か?







勉強するくらいなら技術を磨けと教えられた人は

かなり多く存在してるんじゃないのか?

それでなんの不自由もなく生きていけたなら

感覚だけで生きていくことを恥じることもない。

それどころか、論理的なことをバカにさえするかもしれない。






ぼくのお父ちゃん電気会社に勤めている。

難しいことはわからない。

バック・トゥ・ザ・フューチャーを何十回も観てるのに

なにがどうなっているのかいまだに理解できてない。

過去に戻ったり未来に行ったりすると

物語の内容がつかめなくなる。





でもそれがどうした?

父ちゃん電気会社に勤めている。

たんまり儲けている。家族を養っている。

バック・トゥ・ザ・フューチャー理屈がわからなくてもなんの不自由もない。






熱心な仏教徒

敬虔キリスト教徒のうちで

その「教え」に追随する人はいったい何人いるの?





わかりにくいな…。

例えば新興宗教信仰者なんかだと

ただ一つの「救われた経験」を足がかりにして

熱心に信仰する場合があるみたいだけど

その最初の救いを信じていたら

つのまにか犯罪者の仲間入りをしていたことだってあるみたいだ

オウム真理教の元信者のそういうエピソードを読んだことがある)。






大昔の日本の百姓のいったいどれだけが

仏教意図を理解していたんだろう。

念仏を唱えれば救われる」って

そそのかされただけじゃないのか?






文学がわからない団子屋。

バック・トゥ・ザ・フューチャーがわからないお父ちゃん

教えがわからない「熱心な」信仰者。

念仏を唱えるだけの百姓。

そういう人たちがいるかもしれないと思ったことは?






まり、ぼくが言いたいのは

人生を楽に生きる(たった)8つの方法でさえ

読めない人がいるかもしれないということだ。

読んだ人に待ち受けているのは

やるかやらないかの差でしかない。

でも、読んでない人はどうすりゃいい?

つの方法論理的にほとんど正しい気がする。

で、その論理を理解できなかったら?ほったらかし?





ぼくは8つの方法を否定したいわけじゃない。

くり返し言うけど、これらを全ての人間が理解して実践できたら

そりゃあもう素晴らしいことになるとおもう。





でも、現実はそうじゃない。

つの方法をはじめとする人生訓が何を語っているか、よりも

何を語っていないかをもっとよく考えたほうがいい。

この人生訓がなぜいいのかということを

絶望的なまでに理解できない人がいる。

そういう人たちは人生訓が提示されるたびに足場が少なくなっていく。

要するに勉強ができない、感覚で生きている人たちをないがしろにしているのだ。

このたぐいの人生訓すべてが。

掛け算までしかからない子どもに、方程式の素晴らしさを説いているようなもんだ。

上から目線で「こうしたらいいのに」と言ってしまってることになる。

いつまでも掛け算のところでつまづいて

文句ばっかり言ってる子どもはほったらかして先に授業を進めるべきなの?

掛け算のところに戻って教えなおしたほうがいいんじゃないの?






やっと言いたいことの一つが終わった。

冗長になりそうだけど

もうひとつ言いたいことがある。

更に絶望的な想定だ。








理論としては正しいのに極少数の勝ち組しかトクにならない?







さて、こんな文句をどこかで見たことがあるだろうか。



  • 時間は戻ってこない。目の前のことに集中しよう。(今に生きる 以下ry
  • 現実は甘くない。
  • 人のせいにしない。自分の態度を改めよう。
  • 自分ごまかさない。自分うそをつかない。
  • あなたがいなくても代わりはいます
  • 他人の選択で自分が困っても泣かない。
  • 責任を取りなさい。
  • 運、不運のせいにしない。





つの方法をもうちょい過激に言い換えてみた

(まちがってたら言ってください)。

なんかさぁ…

内容自体はそんなに変わらないのに

急にうっとうしくなった気がしない?





どこかで見たことあるなあ…

これどこで見たんやろう…

ああ、そうか








就活の時の企業パンフレットに載ってたわ。







「これ、うちの経営理念やわ」っていう人いる?

こういうことを上司先生や親に言われて

「だから頑張れ」で締めくくられて説教されたことある

その時どんな気分がした?

殺したくなった?

泣きたくなった?





人生を楽に生きる8つの方法

その2つめのウソにして、絶望的な想定はこれである

正義づらした誰かに強制されるのだ。

それが「楽に生きる」とは真逆の事態を連れてくる。

底辺を鼓舞搾取)するための大義名分になってしまう。

ぼくみたいなゴミクズ人間はそのことがよくわかる

(このたぐいの説教は何回も何回も聞かされているから)。

から近づきたくないのだ、こういう人生訓には。

うんざりするのだ。自己嫌悪するのだ。





この想定のたちの悪いところは

その大義名分が「間違ってない」というところだ。

誤解なら間違ってると指摘することはできるけど

これは単に曲解しかない。

各々の解釈の違いでしかない。





冒頭に述べたとおり、8つの方法

ほぼ正しいと思う。楽に生きるためならね。

え?

間違ってないなら実行できない人が無能怠惰なんだから仕方ないって?





wikipediaによると2009年の時点で日本ニート総数63万人

しかだんだん増えている。

彼らがみんな死んでしまえばいいと思うの?

賢くて強い人だけ生き残ればいいと思ってるの?

ニートだけじゃない。実際働いている人でも

これらの大義名分に苦しめられている人はいると思う

(実際これだけの説教レパートリーがあれば人格破壊するには充分すぎるとおもう)。




1つめのウソで挙げた、感覚で生きている人を合わせると

この方法に従えない人はかなり多いんじゃないかと思う

統計を出すつもりはないけど)。






1つめのウソで言及しているような

感覚で生きていて、なおかつこういう人生訓に苦しめられている代表選手

DQNとか低学歴低賃金職人とか派遣社員とかだ。




2つめのウソで言及しているような

搾取され支配され無能呼ばわりされている代表選手

ニートとかひきこもりとか普通会社員とかだ。





こういう人たちはまとめて死ぬべきなのか?

損する人のほうが多くないか





そう考えたら、「人生を楽に生きる8つの方法」が最後の答えだと思えない。

この考え方を否定してもらいたくてそういう本を読んでいた。

でも納得できない。

これでは救いにならない。

でもいつまでも状況に進展がない。

だれか否定してくれよ。

「おまえ間違ってるよ!」って。






1つめのウソについては別の解決策が見当たらないし探そうともしてないけど

(ぼくは感覚で生きる人間ではないからあまり真剣になれない)

2つめのウソはぼくにとっては生死に関わるまさに死活問題だ。

そして、その解決策をこの場で披露することを許していただきたい。






働きたくない働きたくない働きたくない

枠組みを作ろうと思う。

ぼくみたいなクズ人間ものほほんと生きていける枠組みだ。

ほとんど働かなくてもいいような枠組み。

楽観的な言い方をすると、これは収益を生み出せるかもしれない。

そうして、口やかましい人たちを黙らせる

(ぼくはこれが実現できないとリアルに死ぬしかなくなる)。

http://auauai.tumblr.com/post/9080858048

幸せものさしの種類がもっとあってもいいと言うのなら

生き方の種類だってもっとたくさんあってもいいはずだ。






これはブログでも書いてるけど

やりたいことはphaさんのギークハウス構想に似てると思う。





クズ人間を数人集めて家を借りよう。

クズ人間がお互いのクズ性を認めあう場所だ。

クズであることを糾弾されないリアル空間だ。

リア充は入っちゃいけない。怖いから。

ネットのような優しい空間であることを目指す。

優しくて閉鎖的な空間だ。

個人的にはなるべく一人でいたいんだけどそのためのコストが高い。

でも家の外にはクズ人間の敵がわんさかいる。

そういう人と連帯を組むことはしたくない。

じゃあ、ぼくが怖がらずに近づけるのは

同じ穴のムジナであるしかいない。

落伍者うつ病患者社会不適合者、怠け者…

そういう人たちととりあえずお互いを認め合う。

自信を少しずつ取り戻す。

まずはそこからだ。

だって生きていていいんだという相互理解をつくることだ。






心底、世の中に絶望していた。

人生訓の本にはそうあるべき人の生き方が載ってたけど

どれも納得できなかった。







太宰治とかの救われない小説

共感をもたらしてはくれたけど

やっぱり現実はしんどいままだった。







鴨長明吉田兼好良寛みたいに

山の中に草庵でも建てて住もうと本気で思っていた

(いまでもその選択肢を考えてる)。







いくら本を読んでも

現在の恐怖と、わずか数年後の不安を解決してくれるものすらなかった。








でも最近考え方が変わった。

それもやはり本を読んで変わった

(次に挙げるだめ連の本とはまた違う本だ)。








だめ連の本によると

一人の時に負うコストリスク労働量も精神的負荷も、

連帯すると分散される(当たり前か)。

家賃10万円の家を10人で借りたら一人1万円だ。そういうことだ。

だめ連はけっこうハチャメチャなことをやってたみたいだし

近隣の人の援助もあったらしい。

それはちょっとできるかどうかわからない。

でもぼくらにはインターネットというツールがある。

それもだめ連の時よりも更に強力に整備、普及されたものだ。





ニコニコ動画の「歌ってみた」からプロデビューする人がいたり

レゴ作って2chスレ立てるだけでプロビルダーになる人がいたり

自分の顔を毎日撮って繋げただけの動画Youtubeで何万再生もされたり

「ありがとごじゃいます」って歌って動画として公開するだけでテレビに出演できたり





要するに「好き」とか「やってみた」とかの

草の根レベルのちょっとしたアイディアを発表するだけで

負け犬から注目される人になる可能性がぐんと高くなっている。

ということは

そういうしょーもないアイディア収益化する可能性があるのだ。





リスクコストのかからなくて

ちょっとでもおもしろそうなことはなんでもやってみりゃいいのだ。

社会不適合者が集まっているということだけでもちょっとおもしろいかもしれない。





誰が許さなくても本当は関係ないんだよね。

自分が感じる心苦しさより欲求が勝てば、そっちの選択のほうがワクワクするものなはず



冒頭のまとめスレにはこんなレスもある。

心苦しさを飛び越えるほどの、欲求があればぼくらは動ける。

外にある楽しいことに手を出すのは怖いしめんどくさいけど

ネトゲくらいならちょっとやってみようかなーなんて思える。





とりあえずヒマならその家に集まってみて

生きるのに向いてない人がリラックスできる場をつくる。

なんかちょっとやる気出たり、アイディアわいてきたら

そういう人たちの「好き」とか「アイディア」を片手間でネットに発信してみる

(ぼくもいくつかアイディアがある)








奇しくもこの考え方は

人生を楽に生きる8つの方法の6つめに従ったやり方だ。

楽しいことだけを追い求めて生きていくことが可能かどうか確かめたいのだ。





収益化ができてしまえばあとはどうとでもなる。

しかし、生きるのに向いてない人がラクになれる場所

SNSでの付き合いで世界のツラさを「ごまかす」だけじゃない場所だ)

これができるだけでも意味はあると思う。





もうだから早く家借りよう。

とりあえず、ツイッターmixiメールかなんでもいいから連絡をください。

http://twitter.com/yukkun1986/

http://mixi.jp/show_profile.pl?id=25533767&from=navi

breed0902@gmail.com

ぼくは幸運なことに個人情報晒すことはあまり怖くない

(悪いことをまったくやってないってことじゃないけど)。

これが実現できないと絶望するしかない。

ぼくにとっては個人情報なんか出し惜しみしてる場合じゃない。





ぼくらクズ人間同士でつながろう。

もうイヤやねん。働きたくないねん。怖すぎるねんこの世界

たすけてくれよ。「私も怖かった」って言ってくれよ。

怖いよねー(*´・ω・`)(´・ω・`*)ネーって慰め合おうよ。

別に住まんでもいいのよ家には

慰めとか遊びとかアイディアの拠点にするねん。

もう疲れた。

もう待てない。

もう泣きたくない。

誰かが泣くのも見たくない。

ぼくが許せないのは自分と誰かが死ぬことそれだけだ。

きみは死ぬな。

どんなに腐ったような人間でもかまわんから生きてよ。

ぼくだって生きててもなんの価値もない。

それでも生きれるようにしたいのよ。

ぼくもきみも。

これがぼくらの「楽に生きるための一つの方法」じゃないかと思うんだ。






追記

コメントに返事を書く!




なげーよ。

ごめんなさい。短くしようともしてませんでした。

短く的確に書ければいいなと思います

書いていくだけでその練習になればいいななどと虫のいいことを思ってます




誰も強制してないし、できない奴を馬鹿にしてもいない。自意識過剰自分以下を眺めて満足したいだけでは?/「5. 自分がいなくても世界は回る」の「自分」は語り手を選ばないからこそ「楽」につながる

途中で途切れてしまうのでトラックバックとして書きます

2011-08-16

http://anond.hatelabo.jp/20110816003454

問題認識は分った。でも、じゃあどうすればいいの?

とっても良いことを言っているのに、

「その良いことを実現するのはぼくらの役目だ!」で終わってたら、なんか残念ってか無意味ってか。

何か建設的な感じがする分、実際の具体性の乏しさが目立つ気がする。

ガス抜きをするのであれば、むしろこれは愚痴ですとか泣き言ですって言ってくれたほうがすっきりするし、

そういう苦しさの吐露っていうのもとても大切なことだと思う。



だけれど、このエントリの気にかかるところは、どうすればいいのかという点がすごく薄いってことなんだよね。

日々の心がけを変えるだけでも、何もしないよりはマシだっていうのはあるのかとは思うけれど。



うん、はっきりぶっちゃけちゃえば、なんかこの人、実際に行動するような雰囲気が見当たらないの。

評論家みたいで、現場感がないっていうか。

むしろ、思いっき現場にいるくせに、自分が何か変えてやろうという気持ちを持とうとしてない。

どこか、俺には無理だって思っている節さえ見当たる。

問題意識は、これ以上ないってくらい持っているみたいだけれど。

しかしたらあれかな、俺の屍を超えていけ、とか思ってるのかな。



閉塞感にヤられちゃっているのは十分わかるけれど、

少なくとももう少し、自分にできることを少しでも試みてみようとかしないのかな。

上司に少し人事のことについて相談してみるとか、同僚と改善策を話しあってみるとか。



…問題意識は持っているけど何もしてくれない人ってものすごい苦しみを他人に与えるよ。

善意を持っている分、余計に。

それが自分の親とかだったら、子どもの心をどれほど深刻な葛藤を植えつけるか、考えた方がいいと思う。

将来の自分子どものことを考えるのだったら、特に

2011-08-15

誰も死なせないために、ネガコメ論争について考えることをやめない。

ネガティブなことは言ってはいけないのか」論争に終止符を打ちたい

http://anond.hatelabo.jp/20110813021554を書いたものです




たくさんのコメントブックマークありがとうございます

もうちょっと書きたいことがあるので書きます




コメントトラックバックの様子を見ていた。

ぼくらはけっこう慎重なもんで、

「○○についてどう思う?」という問いかけを目にすると

「ああい場合もあるし、こういう場合もあるんじゃないか

という考え方に持っていこうとする。




じっさいそれは素晴らしいことだとおもう。

なにか大きな疑問があって、それに対して必ず正解があると考えることのほうが危険なのかもしれない。

もっと優しく、賢く、謙虚になろうと思ったら、自分勝手に結論をゴリ押ししないで

あまねく人と可能な限りとことん話し合うほうがいいのかもしれない。

そういうのをなんて言う?構造主義的?

現在属している共同体文化価値観に従って決定することを避けられないから、

ぼくたちはとんでもない誤りを犯している可能性が常にある。

慎重に慎重を重ねても、結論を出すのに「慎重になりすぎる」ということはないのかもしれない。




しかし、ぼくはもう待てない。

そうこうしてるあいだに誰かが死んでいるかもしれないから。




間違った部分を一つ一つ改善することなしに(長期的な)幸せなどあるものか。

というコメントを頂いた。


ぼくは長期的な幸せを望む。


間違った部分とは何か、という疑問についてはもっと考える余地があるかもしれないが、

ぼくたちはおそらくみんながみんな、

なるべく誤魔化しや、

その場しのぎでない、

恒久的、

永続的な幸せを望んでいると思う。




しかしたら、前回の増田で例に挙げた、世界の多様性を示す例(ニューギニアアフリカの話)は

「間違った部分」なのかもしれない。根絶すべき人間の悪性なのかもしれない。




よく考えてみてほしい。




ナチスユダヤ人大量虐殺は「世界の多様性」と言ってしまっていいのだろうか?

9.11の同時多発テロは他人が介入すべきでない文化なのだろうか?




こういう例は枚挙にいとまがない。

うーん。そういうことにYESと言える人はあまりいないような気がする。

基本的人権というシールが、いつからか(先進国の人が考える)全ての人にへばりつくようになった。

このシール大事にする人は、生きていい人と死んでいい人という区別があるのは認められないと言って、

テロジェノサイドを非難するような気がする。




慎重に慎重を重ねてものを言うなら、

「人を殺してはいけない」という価値観ですら狭い考え方でしかいかもしれないし、

それにもし、第二次世界大戦連合国側が負けていたなら、

「人を殺してもいいじゃん」という価値観が(先進国で)普通になっていたかもしれない。

そうじゃなくなったのは、人間の理性が悪を打ち破ったからではなくて、たまたまだという気がする。




奇しくも今日終戦記念日であるらしい。

ぼくは戦争のことなんてなにも知らないけど(体験してないのに知っていると言ってしまうのはウソである気がしてる)

戦争はいけない」という価値観を受容して(強制されて)生きている。

そんなぼくが「戦争してもいい」という価値観を持つ人のことを理解できるわけがない。

理解できると言ってしまうのはウソな気がする。




からぼくはいまの環境価値観に則って問題を考えてみよう。

戦争のことを知らないぼくが、戦争はいいとか悪いとか言っても説得力がないが、

少なくともぼくらは、大量虐殺はいけないと言ってもいい。テロはいけないと言ってもいい。

そう考えることしかできないと思う。




さて、間違った部分とはなにか?

ネガティブな発言を減らしていくということは、

間違った部分を正していく行為なのかもしれない。

それが長期的な幸せを作っていくのかもしれない。




ぼくが言いたいのは、

ネガティブな発言をしてはいけない」という社会的合意が先鋭化されて、

ネガティブな発言をやめられない人は生きていてはいけない」という主張に変わり、

実際に人が死んでいるかもしれないということだ。




もう一度言うが、ぼくは長期的な幸せを望む。

ネガティブな発言をみんながやめられるということが

少なくともぼくらの共同体では正しいことならば、そうする方が望ましい。

ハッタリの幸せはいらない。

しかし、短期的にはその考え方のせいで人が死んでいるかもしれないということならば

話は別だ。




ぼくらは結局わかりにくいやり方で人を殺しているとおもう。

いちばん救われるべきだった弱いあの人を、ぼくらみんなが団結して殺した。

死因は自殺で、直接手を下したのはその人自身だったとしてもだ。




それはちょっと考え方が突飛すぎるだろうか?

考え過ぎだろうか?自意識過剰だろうか?

そうであるならばそれが一番いい。

ぼくひとりが間違っているのなら、それでいい。

殺されている人はいないのだから




自己責任が重視される社会

がんばらなければいけない社会

他人を傷つけるくらいなら自分を責める人がいて

自分が傷つくくらいなら他人を責める人もいる。

かなりの人が閉塞感を覚えているのだけど、その社会を選んだ(選ばされた)のはぼくらである

民主主義によって、多数決でこの社会が選ばれた。少数派を殺そうという選択だ。




最近はもう少数派と呼べるほど無視できる数ではなくなっている。

弱い人が、

虐げられた人が、

ネガティブな発言をやめられない人がどんどんどんどん増えている。

その問題を優しくて、賢くて、謙虚な人たちがどうすればいいかとうんうん考え込んでいる。

はてな民」たちはそういう人たちだと思っている。ありがたい。




しかし、あーでもないこーでもないと選択を先延ばしにしている間にも

世界は止まることがない。



つねに何かが選択されて、何かが切り捨てられていく。

切り捨てられていく中に弱い人達が含まれている。



もう待てない。

ぼくは、こんなふうに話し合っていくことが、

いつか世の中全体を変えるだろうと思っていた。

弱者を救済するための装置として、ベーシック・インカムに期待していた。



もう待てない。




長期的な幸せもいいが、まずは人を殺さないでほしい。

がんばって死ぬくらいなら、がんばらないで生きてほしい。

地面をはいつくばって生きるしかない人にとどめを刺さないでほしい。

ぼくらは死ぬために生まれたとでもいうのか?




蛇足かもしれないけど、

資本主義社会というのは、言ってみれば個人の自由を最大限尊重する社会だ。(その代わり平等ではない)

逆に人の自由を最大限奪ってしまものは「死」だ。

なにしろ死体になってしまうと、自分ではなにもできなくなるからね。

まあ、だから個人の自由を認める気があるなら、

資本主義を持続させようとするなら、一番避けるべきは誰かを殺すことじゃないかと思う。




それで、ぼくは「ネガティブな発言をやめろ」という言い方は誰かを殺すかもしれないと思うし、

解決するためには慎重に考えて、こうやって話し合っていくことが長期的な幸せにつながるのかもしれないけど、

考えれば考えるほどその間に人が死んでいってるかもしれないと思っているのだ。




まず「殺さない」ということだけでも、先になんとか決定できないだろうか。

ぼくは非道い人間である

ネガティブ発言を許せない誰かが狂ってでも、殺すことはやめようと言っているのだから

その人はもしかしたら有能で、社会をより良くしてくれる救世主かもしれないが、

それでも誰かが死ぬことよりはマシだと思っているのだ。



理由は単純で、ネガティブ発言を許せない人よりも、

ネガティブ発言をやめられない人のほうがすぐ死んでしまいそうな「気がする」から

(どちらの側であっても心に余裕がないのかもしれないけど)。

ぼくは常に一番「死」に近そうな人の味方でありたい。

強い人は強い人で楽しんでくれたらいい。




ていうか、ぼくが殺されたくないからこんなこと書くんやけどね。

クズ人間であっても、最低限生きていることくらいは許してほしい。

すいません。言い方を変えます

ぼくを殺さないでください。




上から目線で「あーしろこーしろ」と言いたくない。

ほんとは殺さないことが人のあるべき姿かどうかなんて、ぼくにもよくわからない。

このままのペースで世界の人が増え続ければ、間違いなくエネルギーや食糧が枯渇するから

あんまり人は増えないほうがいいという説を読んだことがある。

死んでいく人が増えることはいいことなのかもしれない?

でもぼくは死にたくない。これ以上誰かが死ぬのも見たくない。




一番死に近い人にとって、生きながらえるための最後命綱が、

ネガティブ発言」に込められているかもしれないと思ったのだ。それを奪わないでほしい。

もっと前向きな解決法があったらいいなーと思うけど、



「こんなふうにしてみようよ☆(ゝω・)v」


と言われて、

自然に従えるほどぼくは素直じゃない。リア充怖い。

ぼくに必要なのは、一緒に泣いてくれる誰かだ。

後ろ向きなままでは前向きな方法は毒にさえなる。

まずは、死にそうな人を心穏やかにすることが先じゃないのかな。それも死ぬ前に。




ダメだ…支離滅裂ですいません。

これはちょっとさすがに自分でも意味がわからない。書けば書くほど冗長なだけになる。

http://d.hatena.ne.jp/yukkun1986/20110811/1313037111

ぼくのブログですが、よかったら補足程度に読んでください。

2011-07-25

それだけはハッキリしている。

何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。

いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである

それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。

「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。

で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。

さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社社長か直接の上司新聞コラムテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかドヤ顔で)聞かされるし、それがあなた人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。

ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。

さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。

でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。

ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるもの自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。

まりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。

じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているかあなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。

ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああい仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。

何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分ごまかしてきたんだ?あれはドラキュラ映画小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分ごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。

そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか

自分自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメ性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいかうつ病アスペルガー症候群統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。

メンヘラまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないか自殺の理由はあんまりからないことになっている。「死にたい」という言葉冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか

そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分ごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実世界にはとっくの昔に絶望していて、ネット世界しか居場所がない人もいる。

こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?

有名人とかある会社社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。

ぼくらだってあいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)

にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまです過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去イジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。

ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。

それだけはハッキリしている。

何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。

いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである

それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。

「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。

で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。

さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社社長か直接の上司新聞コラムテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかドヤ顔で)聞かされるし、それがあなた人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。

ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。

さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。

でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。

ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるもの自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。

まりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。

じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているかあなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。

ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああい仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。

何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分ごまかしてきたんだ?あれはドラキュラ映画小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分ごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。

そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか

自分自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメ性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいかうつ病アスペルガー症候群統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。

メンヘラまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないか自殺の理由はあんまりからないことになっている。「死にたい」という言葉冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか

そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分ごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実世界にはとっくの昔に絶望していて、ネット世界しか居場所がない人もいる。

こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?

有名人とかある会社社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。

ぼくらだってあいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)

にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまです過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去イジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。

ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。

2011-07-05

作者と(ネタバレ)評者の戦い

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20110702/p1

スロウハイツの神様は本当にいい物語だとは思うので、この記事を読む前に読んでほしい。

この記事を読むと、この記事を読まずに読んだ時とおそらく得られる体験がおおきく変わってしまう。

逆に言うと、この記事を読むならば、もう原作の方は読まなくていいんじゃないかと思う。

どっちか片方を選択しないといけない。

作者は他のプロ作家と戦いながら、こういうネタバレ評者とも戦わなければいけない時代。大変だな。













というのはうそです

映画好きな人ならわかると思うけど、別にあらすじを知っていても

一部のトリック的な部分はともかくとして、

核の部分はやっぱり読まないとわからないし、ネタバレ読んでても感動できるものは感動できる。

そういうもんです

からどうぞ気にせずブログ記事を読んだ上で本も読むといいよ。





ちなみにこの部分の記述を読んで

すべて物語というものには差別構造がある。ある人物を「主人公」としてクローズアップし、特権化し、その人物の悲劇人類最大の悲劇であるかのように描くというどうしようもない欺瞞の構造

 その構造そのものを鬼頭は批判する。それはリアルではない、物語のなかで端役としてどうでもいいように死んでいくだれそれにも、実は何十年かの人生があり、かれが死ねば泣き叫ぶ家族があるのだと、そう告発する。もっと想像力を働かせろ、物語が切り取っている部分が世界のすべてではないのだと、そう思い知れ、と。

 あまりにも「正しい」告発である。わたしはうなずくことしかできない。その通りだからだ。しかし、同時に、人間は「愛という名の差別から自由になることはできないこともまた事実なのだ。

 わたしたちは物語を通してその登場人物に愛着を感じ、その人物を「特別」にしてしまう。ほかのどうでもいい脇役、端役に比べ格段に重要いのちだと錯覚してしまう。決してそうではないはずなのだと、理屈ではそうしりながら。

 物語にひそむ、この「愛」、この「差別」は、本質的にどうしようもないものだ。どれほど批判されても、わたしたちはこの構造から抜け出すことはできない。これは人間の「愛」の限界でもある。わたしたちは、物語的に理解できない百万人の死より、物語として理解できるひとりの死のほうを哀しむ生きものだ。わたしたちは物語を通してしか世界を把握できない。

 そして――『スロウハイツの神様』は、『ぼくらの』とは対照的に、物語を称揚する。物語の魅力、その迫力、ひとを天上にまで導くその圧倒的な力の賛歌をうたい上げる。物語は素晴らしい。それはひとの人生をも変える力をもっている、ほんとうに素晴らしくまたうつくしいものなのだ、と語りあげる。

 そして辻村はそれをひとつ物語のかたちで表そうとする。この物語最終章のもつ怒涛の迫力はどうだろう。わたしは思う。あまりにも不自然だ、こんなことがあるはずはない、と。しかし、その一方で、わたしはまた思う。これこそ世界だ。このようにありえないことがじっさいに起こる場所、それが世界なのだ、と。

 そうだ、ご都合主義かもしれない。やりすぎかもしれない。何かが過剰で、しかもべつの何かが過少であるのかもしれない。しかし――しかしそれでもなお、この物語は、わたしの心を打つ。ここで語られているものは、ある人間が生み出した物語が、ほかの人間の心を捉え、その人生を変えてしまうことはありえる、奇跡は起こる、という信仰だ。

 その奇跡の瞬間、灰いろの生は輝きを取り戻し、彩りを増し、信じられないようなうつくしさでわたしたちを圧倒する。それをまえにして、わたしたちは思うのだ。ああ、生きていて良かった。生まれてきて良かった。

 この世界は暗黒かもしれない。人間宿命絶望かもしれない。それでも、ここに一冊の本がある。一篇の物語がある。それははるか遠く、わたしをしらず、しろうとも思わないだれかが、それでもわたしに向けて放擲したメッセージボトルだ。それは長い長い旅の末、ついにわたしに届き、そしてわたしの生を変えた。

 ああ、それはなんて素晴らしいことなのだろう。その「エウレカ!」の瞬間、わたしの世界は黄金の光に包まれる。エウレカ! わたしは見つけた。わたしはついに見付け出したのだ。生きる理由を。それは一作の、ただおもしろいだけの物語だ。しかし、その物語があるだけで、この世界地獄のすべては許せる。

 愛しているよ、とわたしは思う。この世界を愛しているよ。どうして愛さずにいられるだろう。このような物語を生み出したその母なる世界を。この物語が生まれえたというだけで、すべての悲惨、すべての苦しみは許される。それほどに、わたしはこの物語を愛している。

kaienさんには「ワールド・イズ・マイン」の感想を書いて欲しいと思った。

どちらかというと「ぼくらの」寄りの作品だと思うんだけれども、しかし「スロウハイツ」的な部分も感じる。

物語とか世界というより、人間そのものが大好きな人が書いた作品だと思う。

なので、こういう作品をkaienさんがどう評価するのか読んでみたい。

ラノベとは何か、あるいはなぜ神様のメモ帳はつまらないのか

ある種のポエムは、書き手が何かを隠蔽したいと考えている時に立ち現れる。書きにくいことを書かねばならない時や、書くべきことを書かずに済ませようとする時、散文は、詩の似姿をとることで、その場をしのぎにかかるのだ。卑近な例では、グラビアキャプションがそうだ。アイドル水着写真には、必ず編集部オヤジが書いた似非ポエムが添えられる。「ク・ミ・コ。声に出して言ってみる。ボクの心の日記帳はキミの名前でいっぱいなのさ」こんな詩は単独ではもちろん成立しない。が、グラビアポエム抜きで成立しないこともまた事実で、結局、グラビアを見ている少年の恥ずかしさは、添えられたキャプションのこっ恥ずかしさで中和しないと解毒できない。そういことなのだ。

格闘技イベントでも、リングアナウンサーの語りはいしかポエムになる。「孤独な求道者の鉄の意志とぉー、血に飢えたプレデターの魂がぁー いまぁーリングに連なる獣道でひとつになったぁーーー。宿命と呼ぶにはあまりにもうつくしいー、バーリトゥードの旋律がぁ、いまぁー幕を切って落とされたぁああああ」こういう時、「旋律に幕なんてあるか?」 と突っ込む者はいない。ポエムは、殺伐とした空気を撹拌するための風だ。意味なんか要らない。むしろ、意味有害リングサイドの男たちは、あまりにも興奮していて、ポエム以外の日本語が理解できない。それだけのことなのだ。

ラノベってこういう所あるなーと思ってしまった。




神様のメモ帳とかまさにそんな感じ。読んでてイライラするのだな。

「ぼくが手にした真実は 神様のメモ帳を盗み読みしたしろものだ。さらに多く血と汗を流して事実にしない限り

 地上に生きている人間にとっては価値がない」

「・・・助手さん、翻訳して?」

「証拠が足りないから分からないってことだよ」

ぼくらの仕事はメオを守り草壁昌也を見つけることだ

 だから 前の時のように墓を暴いてまで自体を追求する義務はない。

 事態がそれを求めれば 真実事実も歪める覚悟を持ちたまえ」

「・・・証拠が見つからなかったら、適当に決めつけろってこと?」

「きみはどうしようもなく散文的な男だな」

終始こんな感じ。めんどくさい。アメリカドラマ好きな人が見たら発狂するレベル




ポエミィや電波ヒロインと、どこまでも散文的な主人公。奇想天外ヒロインの行動を主人公がちくいち解釈する。

あるいはその反対の中二病の主人公と、現実的な幼なじみ。突飛な主人公の行動をちくいちたたきつぶすヒロインを見せる。

こういった組み合わせによって

人生経験感性も乏しい読者に対して彼らにでもわかるような卑近な物事を、

なにやらキラキラしたもののように見せかけて提供する。

これがラノベスタートラインなのかもしれないな。

電波ヒロインドラッカーにかえたら200万部オーバーの作品ができることもあるわけでこういうものに対するニーズは根強くあるんだろうな。



もちろんそれ「だけ」と言いたいわけじゃない。ラノベ大好きだし。当てはまらない例のほうが多い。

だが、「神様のメモ帳アニメ第一話を観たときに、強烈につまんねーと思ってしまったのは確かで

この作品が支持を得るのはなんでじゃろ、とちょっと考えてしまったというお話

2011-06-13

「二代目ロストジェネレーションが失ったもの。望み。そして、僕らは何からはじめるべきか」に対して

どうも。こないだまで就職王って名乗ってましたが、今は無職です

で、前回書いたコレhttp://anond.hatelabo.jp/20110429004257

なんかすごい真面目なトラックバックが来てたので、なんか書かなきゃなーと思いました。

今日結構真面目に書くので文体は素で。ネタ無し。


二代目ロストジェネレーションが失ったもの。望み。そして、僕らは何からはじめるべきか

http://d.hatena.ne.jp/thinking-terra/20110529/1306640590


で、これ読んで思ったんだけれども。

ぼくが思うに、現代日本若者における問題ってのは最早「価値観」の問題ではないと思うのね。

いうなら、それは生存の問題だし、もっと明確に言えばいかにクサレ年寄りから椅子をムシリ獲るかってことなんだと思うんだ。

既存価値観に乗ることは出来ない」とテラケイさんは仰る。でも、ぼくはそれは違うと思う。

むしろ、現時点に於いても生存戦略としては「既存価値観にドップリ漬かる」は限りなくベストに近い。

「世代」のことを考える前に、「自分」のことを考えて、グダグダ言わずに東大を出るべきなんだ。

もちろん、東京大学というのはかなり極端な例だけれども。

ミクロで考えるなら、まだ現代日本は個人の力で「なんとかなる」社会だとぼくは思う。

ぼくの「就職王」コラムは個人化戦略の極地のようなものだけど、実際あの程度でなんとかなってしまう。



でも、もちろんマクロで考えるとこれは明確に間違っている。

だって椅子の数が限られているなら誰かは必ず負けるんだから社会には一定水準の競争が必要である、という

命題を真であるとした上でも、社会を構成する一定層はそれなりの職を得て暮らしていけなきゃまずい。

それに、ぼくのような口先だけで逃げ切るやつが評価される企業の土壌というのも、あんまりよくない気がする。

やっぱり、社会は少しずつでも変えていかなきゃならない。ぼくらの世代が楽しく生きるために。



社会を変える」って言いにくい世代だよね、ぼくらは。上の世代が派手にコケたから。

どうせ社会なんて変わらない、馬鹿どもの轍を踏んでたまるか。そういうところがある。

デモやる?って言われても「それ頭の悪い年寄り大分前に失敗した」としか思えない。

カウンターアクションは必要だけれど、それはやはり時代に即したものでなければいけない、と思う。

少なくとも「就職クソッタレ」って言って変わるものがあるなんて考えられない。そうじゃないか



ウザイ自分語りで申し訳ないけれど。ぼくが就職したのは「箔をつけるため」だった。

今、起業をするために色々じたばたしてるんだけれど、やっぱりカネを出して貰うにはそれなりのものが必要になる。

少なくとも、「真っ当に勤めていれば生涯年収4億近かったですよ」くらいのことは言えないと、

与えられたカネの代わりに差し出すものとしては、とても足りない。実はこれでも全然足りないんだけれど、

それでも何某かのバックボーンにはなる。使えるモノは、使わなきゃ損だ。就職して数年踏ん張るだけで得られる

ステータスって、実は結構お買い得な気がする。ある意味大学名前以上に。

この日本社会は実にクソだと思うけれど、使えるものを使わずに戦うのはいかにも勿体無い。

価値観を変える」なんてのは、ヒッピーになるのと同じだ。ヨガをやってもマリファナやってもロックフェスをやっても、

実はどーにもならない。それは、かつてアホな連中がもうやった。ぼくらがそれをやる必要はない。




ぼくは巷で見る就職活動批判にすごく違和感を感じていて、つまるところそれはどこまで言っても

負け犬の遠吠え」としか認識されないんじゃないか、ってこと。

かつての頭の悪い年寄りには「世界同時革命」みたいな強烈なイデオロギーがあったから、「就活バカヤロー」よりは

スケール感もまとまりもあったけれど、ぼくらの世代にはそれもない。あるべき社会モデルすらない状態で、

価値観を変えろ」って言われても、それは「解脱しろ」とか言われるのと一緒だ。シャクティーパッドとかポアとか

そういう語感にしかならない。そんなことにはほとんど何の意味もない。



まりところ、それがミクロの問題であれマクロの問題であれ、既存社会からの断絶というのは不可能なんじゃないかと思う。

テラケイさんは価値基準を語るときに「外部」と「内部」という言葉を使っているけれど、ぼくには価値観に於いて明確な

「外部」ってのがあるとは思えない。テクストに外部はない、みたいな学問を専攻してたせいもあるんだけど

それを差し引いても、既存価値観を排除して生きていけるなんてとても思えない。そんな強くないからね。

ロストジェネレーション世代にニーチェじみたものを押し付けても、それは「レッツ自殺!」って結果しかもたらなさないのではなかろーか。

我々が目指すべきものは、この社会から乖離したものではなく地続きにものでなければいけない、と思う。



じゃあ、どうすべきかってことなんだけど。

とりあえず、まずは団結すべきだと思うんだ。勝ってる奴も負けてる奴も。

世の中はクソで、なんとかしなきゃ楽しい人生は送れそうもない、って意識を共有することだと思う。

ぼくはかつて、ものすごく貧乏大学の学費にもメシ代にも汲々としてた時期があったんだけど、

その時、やっぱり同じような奴らと相互扶助的に生きていて、それは例えば部屋を分け合ったりとか

僅かなカネを分け合ったりとか、電気釜を共有したりとかそういう話だったんだけど、そういうところからだと思う。

例えば、イタリアの話。イタリアは、失業率がアホほど高いけど、自殺率は低い。これは何故かっていうと、一説には

一族主義が強く根付いているからだ、と言われている。縁のある誰かが食えてなければ、誰かが食わす。そーいうところがあるらしい。

じゃあ、我々悲惨な現状にいる連中も、そーしとけばいいんでないかな、と思ってる。



とりあえず、屋根とトモダチがいれば死ぬことはない。ぼくはそー思う。

こうすることで何が得られるかといえば、リスクを取るのが非常に容易になる。

「1人が1のリスクをとる」ことと「10人がそれぞれ1のリスクを取り、リターンを分配する」ことは大分違う。

もちろん、10人全員が敗れ去るパターンもありえるけれど、かなりのヘッジが出来ることになる。

そして、何よりだけど精神的にとても楽だ。ぼくは「起業」の道を選んだけれど、他にもロースクールに行ったりとか

そういう道を選ぶことにもやはりリスクはつきまとう。金銭的なリスクもそうだけれど、孤独化してしまうことが何よりヤバイ。

官僚から政治家目指すぜ、みたいな道にしてもやはり同じだ。そういうとき価値観を共有出来るつながりがあることは

何より強いとぼくは思う。いや、今んとこカネを得て起業に漕ぎ出したところだから、この先なんかわかんないけどね。

仲間にも全部見捨てられて、一人ひっそり首を括るって可能性も全然あるわけだし。



それで、社会批判の話に戻るんだけれど。ぼくが「就職王」でやりたかったことは

就職活動批判」のちょっとスマートな形を提示するってことなんだ。

確かに、マクロ的に考えると我々は既存価値観に乗っかることは出来ないかもしれない。

しかし新しいマクロ価値観ライフスタイル創造することも、おそらく出来ないだろうってこと。

その行き詰まりの中でクリティカルなクリティークを社会にカマすとしたら、

既存価値観に乗っかって踊り狂いながら、同時にそれ自体を批判として成立させるしかないんじゃないかと思う。。

ダンスパーティー台無しにしたいなら、まず誰より上手く踊らなきゃいけない。そうでなければ、誰も話を聞いてくれない。

やはり、我々はこのクソみたいな社会で戦っていくしかないし、クソみたいな社会を否定したところで

クソじゃない社会青写真を描けるわけじゃない。それは、大分昔に失敗した。

から、このクソだめみたいな社会の集団的蛆虫として既存価値観と地続きの世界をサバイブしていく以外に多分道はない。

そして、九人がダメでも、一人が生き残れればそいつが他を引き上げればいい。もちろん、現実的にこんなことが上手く行くか?

ってところはあるけれど、独力で社会と隔絶された「価値観」を作り出すよりは、十人で価値観を「共有」するほうがまだ成功率は高い。

悟りを得た」人はそんなに多くないけど、「宗教にハマって死んだ」人は腐るほどいる。

その程度の価値観共有なら多分できるんでないか、そういう風にして戦っていくしかないんじゃないか、と思ってる。

人間、上手いこと価値観を刷り込まれれば飛行機ビルに突っ込めるんだから、それくらいできるんじゃね?と。



まー、なんというか。

これはぼくの戦略っぽく見せかけた誇大妄想から、なんのあてにもならないけれど。

とりあえず、若い人間はもーちょい戦略的に生きるべきだと思うし、また同時に団結すべきだと思う。

個人の内面ナイーヴな話に閉じてしまうのは、なんかどーなんだろーな、とぼくは思うんだよね。

これから具体的にどーするか、どのようにして生き残ってリスクを取っていくかを論じるべきじゃないだろうか。

まだまだやれることあると思うんだよね、実際。



ところで、死ぬほどどーでもいいけど、「ロストジェネレーション」って若い頃第一次世界大戦に遭遇して、何か価値観クラッシュしちゃったよーな世代の作家達を指す言葉で、「二代目」っていうとちょっとおかしいことになるよね。ロスジェネの「二代目」世代ったら、ビートの時代でケルアックとかギンズバーグとかを指すと思う。

不況なんかにぶつかった「貧乏くじ世代」を指す意味で「ロストジェネレーション」って語を使うと、今の世代は何代目になるのか、すごくめんどくさい議論が要るね。個人的に、「ロストジェネレーション」を現代の「失われた世代」に当てはめるのは色々ムリがある気が。字面はいいけど、原義から考えるとスゲービミョーな感じ。ロスジェネ論争とか言われると、今更ヘミングウェイとか論じてんの?って思っちゃうのはぼくだけじゃないと思う。

エクストリーム世代」とかなんかそんな感じの新語を誰か考えるべき。

2011-05-11

野比のび太名言

今の時代が気にいらないとこぼしてるだけじゃなんにもならない。

ぼくらのすんでるこの時代を少しでもよくするためがんばらなくちゃ。

2011-04-08

これからブルマの話をする

ブルマというのはオナニー業界において一大ジャンルを形成してます

でも、平成生まれからいって、その未来が明るいとはとても思えません。思えないんです



はっきりいうと、ゆとり世代とか現在若者であるところの人々は、ブルマに対してそこまでの魅力を感じていないと思う。

皆さんご存知で、多くのブルマニアが憤慨しているように、いま三次元学校におけるブルマーとゆうのは絶滅危惧種というかもはや天然記念物レベルです

いまだに採用しているのは某さくらんぼ小学校くらいでしょう。

ぼくが小学校に入ったとき、たしかうちの姉とか上級生の一部はブルマはいていたような気がするんですが、まあぼくにとってのブルマ記憶なんて言うのはその程度です

つまるところ、ぼくらの世代には生のブルマという経験がありません。

ブルマと聞いて思い浮かべられるのが姉のはいてる風景だなんて、こんなに夢のないことはありません。



生でブルマを見た知った経験ほとんどないということがどのようなことを意味するかというと、それはすなわち「実感のなさ」、あるいは「背景のなさ」につながります

たとえば、すく水のことを考えてみてほしいですけど、すく水っていうとどうですか。

やっぱりまずイメージするものとしては、カルキの匂いとか、女の子教室の隅っこでこそこそ着替えてる姿だとか、頬を赤らめてトイレに行く女の子だとか、まあこれはぼくがおしっこ大好きだからなんですけど、そんなところじゃないですか。

二次元ですく水という時も、これらの甘酸っぱいイメージを念頭に置いて女の子を見ることになります

たとえばイラストですく水といっしょにタップタオルが描かれていたとする。

それを見たぼくたちは、下地、背景として(あるいは無意識のうちに)女の子がいっしょうけんめいお着替えしてるとことかをイメージするわけです。すごいドキドキしますよね。

もちろんすく水の魅力がそういう背景に留まらず、紺色からはみ出たまっしろなお尻であるとか太股にもあることは百も承知です

だけど、そういうものをエロいと感じる根底には、先ほどあげたようなイメージ下地として深くかかわっていると思います。

そうじゃなきゃラップタオルなんてただ中国タオルと大差ないわけです



逆の例を挙げるなら、チャイナ服があるでしょう。

あれも太股が強調されて大変えっちなんですけど、一般的に言ってお世辞にも絶大な人気があるとは言えないですよね。

せいぜいコスプレ要素として一瞬出てきてふーんそうかーと思うくらいです。

で、なんで人気ないかというと、チャイナ服には下地というものが無くて、完全にセックスのための服でしかいからじゃないでしょうか。

もちろんチャイナ服が登場するようなリアルもあると思うんですけど、横浜中華街に住んでいるのでもない限りたいていのひとはそういうリアルを持ってないわけで、というかそもそも横浜中華街でもああいう服が使われているのか分からないんですけど、まあやっぱり「ハレ」の服であることには違いないと思います。

ちなみに、バニーガールにもそういうきらいがある。

あれもうさぎさんぴょんぴょんしてて大変えっちなんですけど、そこからぼくらがイメージするものというとせいぜいドラクエカジノくらいであって、ふつうはこれが出てきた瞬間「セックス! セックスアッピール!」みたいムードになりますよね。

まあうさぎさんというのはヒトと同じく哺乳類の中では珍しく「発情期」というものを持たず、常に生殖可能であるそうで、それを考えると、ハルヒに代表されるように恥ずかしがり屋さんに着せちゃうのもまた一興だなーと思います。

関係ない話をしましたが、ぼくらの世代、少なくともぼくにとってはブルマーチャイナ服と同じレベルに非日常のものです

小学生くらいのころにブルセラブームに遭遇したため、その印象が強いというのもあるかもしれません。



で、こういう言い方をすると、リアルでの経験なんていらないぜ二次元ブルマーは全く別物だぜ!と主張したい人が出てくると思う。

そういう人は、ロリコンの赤以外のランドセルバッシングのことを考えてみてほしい

あの今はやりの24ランドセルだか何だかいうのは、いまや防犯ベルとならんで現代小学生の必須アイテムだとおもうんですけど、ぼくが小学校高学年くらいのころがちょうど出はじめでしたクラスに一人二人持ってる人がいて、それがその人のチャームポイントになりうる、というような。

たぶん今ロリコンやってるような世代には、本当に縁のないアイテムだと思います。

ロリコンカラフルランドセルバッシングも、こういうところに起因するのではないでしょうか。

まあぼくもカラフルランドセルは幼さを不必要なまでに強調しているような感じがして嫌いなんですけど、たぶんぼくより下の世代になると、あれに興奮する人も出てくるんじゃないかな。

ブルマの代用品として登場したハーパンってわりと評判悪いですけど、ぼくはそこそこエロいと思います。



そんなわけで何が言いたいかというと、下地を失ったブルマは今後ゆとり世代(あるいはそれより下の世代)のオナニー業界参入によって市場を大幅に縮めていくだろうということです

ブルマ大好きの人は早いとこブルマ関連商品を一生分集めた方が良いと思います。たぶん。



あと、こんなことを言ってますが、ぼくはブルマがそこまで嫌いというわけではないです。そこまで好きでもないですが。

ぼくの時代のブルマというと下履き的な要素が大きいわけなんですけど、そのためか下履きのブルマというテーマには大きな魅力を感じます邪道だったらごめんなさい。

下履きブルマってけっこう未開拓ジャンルだと思うんですけどどうですか。だれかやりませんか。

最後に、ブルマゲーでおすすめあったら教えてください。今調べた感じ「マーブルブルマ」って抜けそうな感じするんですけど、どうですか?

2011-01-15

あなた伊達直人を殺したがる理由。

寄付流行ってるね!

 増田寄付は大好きだよ! 施すほうじゃなくて、受け取る方としてならね!

 なんだか一億総ポトラッチ化が進んできました昨今、増田が由緒正しきネトウヨであったら「ゲヒヒ、次は国を隣国に寄付ですか?」と揶揄の一つも売ってやるところだけどはてサは恐いし増田はそもそも右翼じゃない。ただの逆張りが好きな女子中学生だ。そう考えて読むと気分いいよ?

 

寄付disりが流行ってるね!

 流行ものをとりあえずdisとくのはウェブに生きる天邪鬼としてのたしなみだよ! みんなも若いうちは、無闇やたらに反発するといいんじゃないかな? 

 でも実際twitterとかでこの手の逆張りやってんのは三十代のピザデブハゲ女子中学生たちなので、きみたちの健康精神に大ダメージを与えるよ! 貧弱な想像力は時にみずからの命を助けるね!

 ところでなんでぼくらはタイガーマスクきどりどもが嫌いなのかな?

 不思議? ふしぎだよね!? だって寄付ってすごいいいことなんだよ? ただの偽善じゃない。誰も傷ついてない。与えるほうも貰うほうも、みんな得してる。死んだビジネス用語でいうところのwin-winってやつだね。そうそう、未だに会議win-winなんていう単語出してくる上司をみかけたら、さっさとその会社の四階から飛び降りたほうがいい。

 

まあ、とにもかくにもぼくらは寄付ブームが嫌いだ。

 なぜか。

 まあそんなことは上でさんざん申し述べてきたように、ぼくらが「どうしようもない天邪鬼だから」で済むんだけど、世間はそれじゃあ納得しない。反対するなら説明すべし。感情論は排してな。

 と、ぶっちゃけバカに理論的な説明求めるなんてバカなんじゃねえのと思うむねがあるかもしれない。けれど、ココは天下の往来はてな匿名ダイアリー。またの名を皆殺しの増田

 説明責任逃れは問屋がおろさない。せめて嫌悪感の根源くらいはつきとめないといけない。

 とはいうものの、「なぜ私は寄付ブームが嫌いなのか」を論理的に説明するのは、おそらくアジを三枚におろすより難しい

 この手の喧嘩でよく使われる殺法は「だって寄付者が迷惑がってるじゃないかやめてあげなよ白豚野郎」と「親切の押し売り、大きなお世話」を強調するやりかただ。

 ここでぼくら天邪鬼は施す物-施される物、という図式を瞬時にして加害者-被害者という関係に塗り替えることでスペクタクルカタルシスをおぼえるんだけど、それで非難される無辜の大学生ボランティアとかはいい迷惑だよね! いい気味ですね! 

 そう、善意の悪人は悪意を自覚している悪人よりも罪が重い。なんだかよくわからないけど、ぼくらはそう信じちゃってる。漫画か何かの影響ですよね。あるいはお母さんについて、何かトラウマがあるのか。

 まあ、ともかくしかし、タイガーマスクについてはなかなか「迷惑してる」という話は聞かない。少なくともビル・ゲイツより広くておーつねさんより狭い増田の観測範囲では、見当たらない。被害者存在しない。まあ「あの手の寄附行為ばっかり報道されて恒常的に寄付を行なっている人たちが無視されてる」って声もあるけど、そんなもん、もともと無視されてたわ。

 「みんなが得した」ここが、今回の件でやっかいなところだ。火のない所に煙は立たないし、煙が高いところにのぼらなければバカもまた踊れない。

 さて、実はここに今回のぼくらが抱えるフラストレーションの一端が隠されている。

 つまり、「いつもとおなじように偽善者を叩けると思ったら、おあずけくらってしまった」ってわけ。これってとってもストレスフルな状況じゃない? 犬みたい? 哺乳類と比べられるだけマシさ。

偽善者という言葉が出てきたけれど

偽善くささが嫌い」。

 よくタイガーマスクを批判する時に聞かれる言葉だ。

 偽善ってなんだろうね? 寄附行為に限定して考えてみよう。広辞苑定義を持ってくるのは、頭の悪い学生にやらせておけばいい。ぼくらには集合知の究極体、wikipediaさんがいるのだから

寄付(きふ、本来の用字は寄附。寄付は代用字)とは、金銭や財産などを公共事業公益・福祉・宗教施設などへ無償で提供すること」

 フリーミアム! 

 「無償」とはつまり、見返りをもとめないということだ。税金控除される時点で見返りもクソもないだって? まあ、それはここでは関係ないから頭から弾いてくれ。

 さて、タイガーマスクたちは偽善的な寄付であるか。

 この議論は彼らが「見返りを得ているか」の一点に集約される。

 もちろん、違うよね? 物質的な恩恵はもちろん、名誉すら得られない。だって匿名だもの。キャラクターだもの。「タイガーマスクはえらいですね」っていくら古舘さんがつばはいコメントしても、それは神奈川県在住の庭師・津田大介さん(48)を褒めたことにはならない。まあ、2chでアンカもらえたときたいに「存在すること」の承認を貰える快感はあるかもしれないけど、自己承認欲求そのものが満たされることはない。ランドセルは一個9000円。六つで54000円。あなた2chでアンカもらうためだけにこれだけの金額を払おうと思う?

 善意証明するのは極端に赤字な収支なんですね。

自分がいいことをやった」という自己満足キモイ

 でも、実際金髪……津田さん(仮名)は「いいこと」やったじゃん。子どもたちの反応はともかく、施設は受け入れてるじゃん。全然ひとりよがり自己満足ちゃうやん。


はいーみんなちゅーもーく、いまさっき高田くんがいいこといいました

自己満足キモイ

 はい、これ超重要

 自己満足っていうのは充足してるってことです。いわゆるリア充

 はいみんな思い出してー。

増田は他人の幸せがなにより大嫌いです。リア充っぽいのが大嫌いです。

 っていうか、今回に限らず「ボランティアフォビア」だの「NGO死ね」だの「人権団体とか環境団体とかバカヤロウ」だのを表層だけで叩いてるとか、

 っていうか、ぼくらが何者かを叩くときの原動力は、たぶんだいたい、コレ。

 だって妬ましいじゃないですか。嫉ましいじゃないですか? 死ねばいいじゃないですか?

 自分が善人だって自覚するのはなにより強烈なうぬぼれですよ? ましてや、ヒーロー自分をかさねて? 「悪ふざけだもん」ってみんなにバレバレな形で照れ隠ししてたりして?

 ハンッ!

 そんな綺麗事、罪じゃないわけないじゃないですか

 彼らはまごう事無き「善人」であるからこそ、叩かれるに値するのです

 だって、妬み深いクズですもの、ぼくらって。

 まあ、結局は、感情論ですね。天邪鬼の。


さて、クズであるところの増田さんたちはこれからどうあるべきか。

 死ねいいんじゃない

 それがイヤならアラを探すんだ。マスクどものアラを。徹底的にひとりひとりの素性を洗いだして、瑕疵を探しだせ。これだけいるんだ、ひとりふたり後ろめたいのやら奇抜なのやらは混じってるだろう?

 特殊な例を普遍化しろ。延焼させろ。大火がみたい。燃やし尽くせ。

 それがぼくらの帰納術。

 でも今回はそれが通じるかしら? しょせんは匿名が個人を葬るための技術

 匿名匿名を殺す、新しい時代戦争に対して、ぼくらはあまりに無知ありすぎる。

 

 

 

2010-10-11

僕らの宇宙ってどうして突然消えたりしないんだろうね

僕はそれが怖くて怖くて



だって、ぼくらの宇宙はたしかに膨張してるだけだけど、

その宇宙の外には僕らが観測できない有象無象があるかもしれないじゃん

観測の外側だからどんなパルプンテが起きるかわかったものじゃない




僕らの宇宙コーヒーの中の砂糖1粒かもしれないし

そのコーヒーがいつ巨大な宇宙に飲み込まれてめちゃくちゃになるか、わかったもんじゃないんじゃないの

2010-09-21

公務員人件費って増やしたほうがよくね?

子供手当てとか法人税減税とかより

失業者公務員として雇ったほうが景気対策になると思うのだが・・・。

公務員人件費削減しても全然ぼくらの金には化けないと言う事実

むしろその金で土建屋とか意味不明公益法人とか出入りの業者が儲かってるだけじゃね?

もちろん既存の公務員は下げてもいいと思うけど。

2010-08-15

いま、宇多田ヒカルが求めているのは「毛」だよ

まずは読んでみてください。

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とんねるずの、もじもじくんっていうのが

ありますよね。

あの、スケート黒岩選手みたいな(旧いね、どうも)

つるんとした服着てるじゃないですか。

みんなが、あの服なんですよ。

なんか、未来社会みたいなんですよ。

だけど、よく見ると、同じじゃないんですよね。

服のカタチは同じなんだけど、素材がちがうんですよ。

アルミっていうかクロームメッキっていうか、

銀色のやつと、

あと、毛のやつと、二種類あるんですよ。

YとIさんと、あとAは、銀なんですよ。

そいで、ASさんとか、Oさんとか、イトイさんとかは、

毛なんですよ』

なに言ってるか、わかりますよね。

早い話が、夢の中の未来人は、おんなじように

もじもじくんみたいな服を着てるけれど、

銀のやつと、毛のやつがいる、と。

だいたい、テクノ音楽系のものが好きなやつは、銀。

ドクターペッパーが好きだったり、

ゲームがすごく好きだったりする人が多いわけ。

一方、毛のやつは、8ビート系というか、

言葉づかい乱暴だったり、飲み物でもコーヒーとかお茶

けっこう、この「トダの夢」ってやつは、

ぼくらの周辺ではうけていましてね。

銀と毛、という対比は、

けっこういろんなシチュエーションで、活用できるんです。

映画にも、絵画にも、音楽にも、人間にも、

銀と毛のちがいはあるわけですよ。

椎名林檎は、銀を飾りにつけた毛、でしょう。

宇多田ヒカルは、毛がついた銀かなぁ。

北島三郎は毛ですね。

藤あや子は、うすい毛。

パンチョ伊東さんは、これはなんと毛なんですねぇ。

野球選手でいうと、全体に毛だけれど、

イチローはけっこう銀系ですね。

サッカー中田選手はかなり銀でしょう。

飲み物でも、ビールは毛だけれど、

ライトビールは銀ですよね。

ごはんはもちろん毛だけれど、パンもけっこう毛。

スナック菓子は、銀です。

この銀と毛の分類というのは、

なんとなく誰でも理解できるような気がするのがおかしい。

なんで、こんなにわかるんだろう。

なにか法則でもあるのだろうか。

もともと、なにか別のスカッとした分類があったのを、

ただ、銀と毛に置き換えただけなのだろうか。

エンゲル係数が、毛係数なのかなぁと思ってもみたが、

どうやら、それもちがう。

そういうと身も蓋ももないが、

毛というのはある種、野生度と言えるのではないか。

毛だから、毛そのもの、として考えるのだ。

すね毛を生やしていたら、毛度は高い。

すね毛を剃っていたら、毛度は低い。

すね毛とは何か?毛とは何か?

それは、「毛もの=獣」度のバロメーターである。

ほぼ日から抜粋)

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ひっきーへ。

もしホンモノの毛を手に入れた日には、

アメリカでも成功できるかもしれないね。

何が成功か私はしらんけども。

(私は何様だろうね)

毛ふさふさのひっきーの歌、

こりゃあ、聞いてみたいわいな。

ところで、毛を生やすには何をしたらいいんだろうね。

中田みたいに毛を求めて世界をさまようってのも

おもいきし誤解されるもんなあ。

なんせ、馬鹿な世間様は見た目からしか判断できないもので・・・。

もし旅にでられるなら、

そう言う意味で、ひっきーの言うとおりつぶやきながらするのもいいかもよん。

生えるといいねえ。

じゃのん♪

???より。

2010-08-10

明かりの消える日本

日本中で明かりが消えていっている――文字どおりに.『信濃朝日新聞』の一面には,街灯の3分の1を消して節約にはげむ試みが紹介された.青森から鹿児島まで,日本中で同じことが行われたり検討されている.

一方で,青函トンネルから首都高まで,かつて先見の明ある輸送機関への投資世界を驚嘆させたこの国は,いまでは道路をつぶしているありさまだ:多くの県で,地方政府は維持できなくなった舗装道路を砂利道に戻していってる.

そして,かつて教育を重んじた国が、いまや教育を切り詰めている.教師たちは解雇され,各種施策は取り消されていっている.沖縄では,学年度そのものが劇的に短縮されつつある.しかも,あらゆる徴候は今後のさらなる削減を示している.

「他にどうしようもないんだ」と聞かされる.基本的な政府機能――過去何世代にもわたって提供されてきた基礎サービス――の費用はもうまかなえないんだ,とね.たしかに,景気後退で傷手を受けた県・地方政府金欠なのは事実だ.でも,政治家が少なくともいくばくかの増税検討する気にさえなれば,そう大した金欠ってわけでもない.

それに,インフレから守られた長期国債をほんの1.04%の低利で売れる日本政府は,ちっとも金欠なんかじゃない.日本政府地方政府に援助を提供してぼくらの子どもたちとインフラ未来を守ることができるし,そうすべきだ.

ところが東京はほんの申し訳程度の助けしか出してない.それも,しぶしぶにだ.赤字削減を優先しなくちゃならん,と自民党員や「中道民主党員は言う.ところがその二の句を継いで言い放つ言葉ときたら「富裕層減税は維持すべし」だ.この先10年間にわたって60兆円の予算コストでね.

実質的に,われらが政治階級の大多数は,優先順位をはっきりさせてるわけだ:日本の上位2%ほどの富裕層バブル時代の好況時に支払っていた税率にもどすのを頼むか,それとも国の基盤が崩壊するにまかせるか(道路なら文字どおりの「崩壊」だし教育なら比喩的な意味ので「崩壊」ですな),この2択をつきつけられた彼らは後者を選んでいる.

これは,短期でも長期でも破滅的な選択だ.

短期では,県・地方での削減は経済の脚を大いに引っ張り,とてつもない高失業率永続化してしまう.

菅総理のもとで浪費的なまでに政府支出がなされてるとかわめく声を聞くときには,県・地方政府のことに留意しなきゃいけない.そりゃまあ,みんなが思うほどでないにせよ,日本政府はたしかに支出を増やしてる.でも,県・地方政府支出を削減しているんだよ.両方を足し合わせると,実は大規模な支出増加は失業手当みたいなセーフティネット施策でなされているだけ.これは不況が深刻なせいでコストが急増したから増えてるんだ.

つまり,刺激策は失敗したとさんざん吹聴されてるけど,政府支出全体をみてみれば,刺激策なんてほとんど打たれてないのがわかるんだよ.県・地方政府の削減がつづく一方で日本政府支出が尻すぼみになっているいま,支出増加から反転しつつある.

でも,富裕層減税をつづけるのだって財政刺激の一種にはちがいないんでしょー? いや,それはないって.教員の職を守れば,まちがいなく雇用援助になる.そうじゃなく億万長者にもっとお金をあげたってそのお金の大半は死に金になるのがオチだ.

じゃあ,経済未来はどうなんだろう? 経済成長に関するあらゆる知識は,教育水準の高い人口と高品質インフラが決定的に重要だと告げている.いま台頭しつつある国々は,道路港湾,そして学校の改良に猛烈に力を注いでいる.ところが日本ではその逆をやってる.

どうしてこうなった反政府レトリックを30年間もつづけた論理的帰結ってもんだね.なにかっていうと,課税で集まったお金はかならず無駄金で公共部門はなにもちゃんとできないと多くの有権者に信じさせてきたレトリックのことだ.

反政府キャンペーンはいつも決まって無駄遣いと詐欺への反対という体裁をとってきた.キャデラックを転がす「福祉の女王」宛ての小切手だの,むだに書類ばかりつくってる役人の群れだの,そういうのに反対するかたちをとってきた.でも,もちろんこういうのは神話だ.右派が主張するほどの無駄詐欺なんて控えめにみてもなかった.キャンペーンが功を奏したいまになって,ほんとうは何が攻撃対象だったのかぼくらは目にしている:すごい富裕層以外の誰もにとって必要なサービス,公衆全体のための街灯やほどほどの学校教育みたいな政府提供しなきゃ誰もやらないサービスが攻撃対象だったんだ.

この長年にわたる反政府キャンペーンでもたらされた結果,それはぼくらが破滅的なまでに道を間違えたってことだ.いまや日本は明かりのない暗い砂利道で立ち往生している.



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元ネタ: http://econdays.net/?p=489


単純に日本地名人名に置き換えただけのネタ。内容に関しては全くのデタラメなので真に受けないように。

2010-08-04

ネグレクト死」、ぼくらのできること

母親放置され、2人が死んだ。

以下のような反応が多かったように思えた。引用部は適当に作った例。

1.母親のせいにする

「この母親は○○。特殊。よって、この件に関しては母親が悪い。」

2.社会のせいにする

「こんなことになったのは社会が悪い。○○という政策を実行するべき。」

3.個人個人のせいにする

社会が悪いというが、それはつまり悪いのは我々だ。我々が悪いのだ」

特徴として、「問題を消す手段」を考えてる、って思った。

1.の場合は、母親が悪いとすることで、問題自体を消す。

2.の場合は、我々の問題だといったん捉える。しかし、「政策の問題」ということにして、「民意が反映されない」という問題に統合してしまう。

3.の場合は、我々の問題だと捉え、その責任を引き受けようとする。だが、責任を引き受けるということが、「具体的にどういうことか」わかってない。その先がない。「とりあえず自白をする」ことによって、とりあえず事態を収拾しようとしているようにも見える。考えようによっては一番ひどい。

彼らは、「自分が一番罪悪感を感じない形」に現実を加工し、自分の中から「問題」を消そうとしているように見える。もうそれについて考えなくて済む状態にしようとしているように見える。

2010-06-26

中西里菜AVデビュー吉野を思い出した

吉野は左の強いボクサーだった。ウェルター級日本王座を10回以上防衛して、ボクシングファンなら知らない者はいない存在だった。だけど、一般の人は誰も吉野のことは知らなかった。

吉野は当時、とても人気のあるボクサーだった。後楽園ホールは常に満員。ディフェンスもフットワークも並の選手だったが、左だけが強く、その左をぶんぶんと振り回してバタバタと相手を倒した。その強引で豪気な左に、ぼくたちは酔った。

ディフェンスのよくない吉野は、よく顔を打たれて鼻の骨を折った。鼻の骨を試合中に折ると呼吸が苦しくなるため、吉野はあるとき、鼻の骨を外すことにした。折れるくらいなら、ないほうがいい。そんな、ちょっと考えられない発想で、吉野は手術で鼻の骨を外して、耳の後ろに埋めた。以来、ふにゃふにゃになった吉野の鼻は折れることはなくなった。そんなボクサーとしての実力や評価とはまったく関係のないエピソードでも、吉野はぼくたちを魅了してやまなかった。

そんな吉野が、どんなきっかけだか忘れたが、ボクシングリングを降りてK-1に出場したことがあった。K-1リングボクシングリング格闘技ファンでない人にとっては、ほとんど同じことだろう。ボクサーK-1に出場することなんて別に珍しくもないと、ほとんどの人が思っていたに違いない。

だけどぼくらボクシングファンにとっては、ボクシングは特別であり、吉野はとりわけ特別な選手だった。だから吉野K-1に出ることは、非常にショックなできごとだった。

K-1リングの上で、吉野は脚を蹴られた。

「おい! おまえふざけんな! なに吉野の脚を蹴ってるんだ!?」

吉野の脚は蹴られるためにあるわけじゃない。爆発的な左の威力を生み出すためにリングを踏みしめたその脚を、吉野は何度も何度も蹴られて、顔を歪めて耐えた。

悲しい風景だった。吉野が、ボクシングが、ぼくたちの、ボクシングが、冒涜されている。汚されている。

好きだったアイドルAVに出るってのは、きっとこんな気分なんだろうな。そう感じた。ボクサーについてそんな気分を感じたのは、吉野のこのときと、竹原が『ガチンコ』に出ていたときと、それだけだ。

ぼくは中西里菜をぜんぜん知らない。AKBなんて顔がわかるのは前田敦子だけだ。はっきり言って中西なんて、ぜんぜん有名じゃないし、AVに出ようが出まいが、ぼくには関係ないし、気が向けば見るかもしれないし、抜くかもしれない。その程度だ。

だけど、ぼくには中西のファンの気持ちがわかる。吉野の脚が蹴られるためにあるわけじゃないように、中西の体はきっと、男優に舐めまわされるためにあるんじゃないんだろう。歌や踊りを披露するためにあるものなんだろう。ぼくには、その気持ちはわかる。

吉野はその試合で、キックボクシング試合なのに相手を蹴ることもせず、ローキックカットすることもせず、いつものように左の拳だけを振り回し、その左を相手の顔面に幾度も打ち込んで倒した。K-1リングでも、吉野吉野だった。ぼくはそのノックアウトシーンを見ながら、泣いて、笑った。

その後、吉野ボクシングリングに帰ってきて、再び日本王座に返り咲いたと記憶している。結局世界には届かなかったし、一般的にはまったく無名の選手のまま引退したけれど、吉野はたしかにぼくらの記憶に残っている。たぶん、一生忘れない選手だ。

中西ヌードを披露した「FRIDAY」を見た。中西乳首は、琴乃に似ていた。

2010-06-03

http://anond.hatelabo.jp/20100603160907

お前の推理が正しいとすれば、

彼が一生かかっても決して許さないようなメニューとは、

http://nakasoku.blog18.fc2.com/blog-entry-1558.html

ここに紹介されている

「生BL」(=生ビール

「や●い汁」(=野菜ジュース

ぼくらのソーセージ

のようなものだったのではないか?

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