はてなキーワード: びっことは
いいこと思いついた。今度文句言われたら、お前こうしろ。
乗客「シルバーシートにはお年寄りが座るので席を譲りましょう」
お前「わかりました」
手すりにつかまりながら片足をかばうように席を立つお前。
衆人環視の中、びっこをひきながらひょこひょこと出口付近まで進み、「おります」ボタンを押す。
そしてバスが止まる。お前は乗客の同情の視線を一身に集め、片足をかばうようにゆっくり慎重にバスを降りる。
出発するバスを尻目にひょこひょこと歩き出すお前。
しかし不思議なことに歩を進めるごとにお前の足取りはしっかりと力強いものになり始め、最後には鍛え抜かれた軍人のような正確な足取りになる。
お前が歩く先にはぴかぴかのオープンカーと仲間が待っている。
オープンカーに華麗に乗り込むお前。
カイザーソゼはお前だった。
振り返ってみると、私の父と母はあまり折り合いが良くなかった。だいたい顔を合わせると罵り合っていたように思う。共産党の専従だった父は実に「野党精神」旺盛な人で、家庭のことで何か気に食わないことがあると(家庭を顧みない自分を差し置いて)いつも母を詰った。共産党員らしい几帳面さで問題点を洗い出して問い詰める父に、血の滲むような努力で仕事と家事を両立し、暮らしを支えてきた母は激昂し、時には皿が飛び交うような諍いを繰り返した。それに自分がどう反応していたのかはよく思い出せない。子供なりの頓珍漢なやり方で、父や母に何か気を使っていたような気がする。(帰ってくると笑顔でお帰りを言いに行く、積極的に肩揉みをする等)ともあれ、そういう諍いに巻き込まれるのは恐ろしいことで、彼らのご機嫌をとることが生活の指針になっていたことは覚えている。概ね幼少の頃は良い子であろうとした(客観的にはともかく、主観的には)。
父はおよそ仕事に熱中する人であったが、家庭内のことに無関心というわけではなく、むしろほんの些細な出来事にまで拘り、様々な形で命令を発し、物事を支配しようとした。家庭は彼の王国だったと言ってよい(いや、人民共和国と言うべきなのか)。彼の築いてきた学歴と自信に比して、彼の党内での立場というのは実に弱々しいものであったようで、それを埋め合わせようという願望もあったのかもしれない。家庭内のどんなものにも彼は権力を振るいたがったし、自由にさせていることであっても、不満が感じられたときにはいくらでも介入し、彼の満足行くように改めさせた。彼はまさしく闘士だった。向かう方向はまるで見当違いだったが。それでも、彼が母や子供に暴力を振るうことが(記憶にある限り)さしてなかったことは、彼の美徳と言っても良いかなとは思う。しかし、彼が子供と自分の自我を分離できなかったことは、子供の成長に大きな悪影響を与えたと私は確信している。子供が何をやりたいか、ではなく、父が何をやらせたいか、子供が何に不満を感じているか、ではなく、父が何に不満を感じているか、それだけが問題になった。そこから子供が外れようとすれば、恐ろしい査問が始まることになる。今でも、そうやって査問を受けたときに感じた恐怖と屈辱の念は忘れられない(ただ、彼がそのように振舞わざるを得なかった背景について整理して考えると、彼を非難する気持ちはどんどんしぼんでいってしまう。結局、彼もまともな家庭で育っていないのだ)。私よりも数段優秀だった上の兄弟が某国立大学の受験に失敗して、それでも某有名大学に入ったときの騒ぎなど、見ているこちらまで頭がどうかしてしまうぐらいだった。優秀であっても、努力をしても、結果は真っ黒に塗り潰されている――彼との生活から、私はそういうメッセージを受け取った。
一方、母は「みんな我慢している。楽な生活なんてない」と子供たちを叱った(今でもたまに口にする)。私は恐ろしかった。超人的努力で家庭を支え、苦しみに堪え、そして報われずに生きる母の姿には、まるで生きる希望も喜びも見出せなかったからだ。正直、その言葉は、子供を教え導くためというより、家庭内で一番我慢を強いられてきた彼女の自我を守るためのものだったように思う。(「私はあなたのようには生きられない」と訴えたときの母の怒りたるや、凄まじいものだった。状況に押し潰されて、意味を考える暇もなく「我慢」の結婚生活を強いられてきた彼女には、「我慢したくない」「我慢に何の意味があるのか」という主張は自分の人生の否定にしか映らなかったのだろう。)そういう潜在意識の透けて見える姿で、子供たちに「我慢」をさせようとする母は、とてもとても恐ろしかった。今でも、我慢するしかない、という言葉を聞くと、自分の中で、明日への希望が全く消え失せていくのが分かる。「明けない夜はない」でなく「明けない夜を生きていけ」という教えには、人から長期的展望を奪い、刹那的な生き方へと誘導する力があるのではないかと思う。私は何か希望が欲しかった。結局縋る先は間違えた訳だけれども。
奇行が目立つ子供だった私は友達も少なく、専ら空想の世界に親しんで暮らした。願望を実現するために計画を立てて行動する、という発想もなく、誰かがいつか自分を拾い上げて夢の国に連れて行ってくれることを待ち望んでいた(当然、そんなものは実現しない)。現実に対して何か求めても無駄、何かやってみようとするだけ無駄、という無力感と、両親の叱責に対する強い恐怖感に私の思考も行動も拘束されきっていたのだと思う(流行の玩具を持っていない私を不憫がって、友人が「余りをあげる」と申し出てくれたときも「両親が怒るかもしれないから」と断ってしまうぐらいには)。もちろんそのような抑圧の下にあっても、子供らしく欲しい物を求めることはあったし、客観的に見れば我侭としか言いようのない要求もしてきたと思う。だが、そうした要求を口に出すことにハードルがあったし、また、そうした要求が聞き入れられることにもまた、高いハードルがあったし、要求が聞き入れられても、「聞き入れてやったこと」の恩に応えるよう求められ続ける、というさらに高いハードルがあった。無論、共働きにも関わらず決して豊かとは言えなかった我が家の台所事情を考えれば、何でも子供の求めたものを買う、なんてことはできっこなかった。だから、ことあるごとにカネ・カネ・カネと言われたのも止むを得ないところはある。ただ、父や母の不和と、それが生み出す強い緊張感、暗黙の強い要求と支配は、子供が自分自身の財産(小遣いやらお年玉やら)をどう使うか、という計画性や、正常な欲求の発達までも妨げたと思っている。どんなものに、どんな風にお金を使うのか。どう資産を運用するか。どう節約するか。何に使うか。そのことについて子供の頃に落ち着いて考え、学ぶことができた人のことを、私は羨望している。もちろん、必要を感じたなら今からでもやるしかないことではある。ただ、願望や欲求の正常な発達なしに、必要性だけでそれを手に入れようとすることはとても難しい。
私は小学校から中学校に至るまで、勉強だけはよく出来た。きちんとした学習の習慣があったわけではなく、単純にそういう方面に適性があったのだろう。テストの点数以外のあらゆる要素において、私はほとんど完全な劣等生と言ってよかった(宿題は全くやらない。ノートも全くとらない。授業中に騒ぎ出す、他の生徒と流血沙汰を起こす、等々)。行動・努力することに対する無力感と、テストの高い点数が自分自身の可能性を証明しているかのような小児的全能感とのせめぎあいが、私を同級生達と比べて圧倒的に情緒不安定で幼い人間としていた。私には何の目的も方向性もなかった。自分がどんなことをやりたいと思うか、そのためにどう努力するべきか、そういう意識は全くなく、ただ目の前にある面白いことに飛びついていただけだった。中学・高校以降はさらに反抗精神が加わり、叱責されたことに対する敵意と憎悪と、命令に対するボイコットがそれに加わる。私は自分の意思が奪われることに強い憎しみを持ち、それに抵抗した。実際に論理立てて主張をするなどの一部の行動は、それなりにまともな態度だったと評価することもできるが、「私の現在と未来は、彼らが自由にできる物ではない」と訴えるために、私自身の現在と未来の可能性を自ら破壊したことは、実に実りのない行為だったとしか言いようがない。結果は当然惨憺たるものに終わった(せめて前者の比較的穏健な訴えが当時もう少し受け入れられていれば、と思うときもあるが、それはこういう結果を招いた私自身の責任を軽くしようという、下種な欲望の表れなのだろう。私がそのような道を選んだことの責任は免れ得ない)。
本当は、両親に何かを期待するのではなく、正確に現状を認識し、自分自身の能力でそういう状況を切り拓き、逃れ、先へ進むための方策を考えるべきだったのだと思う。しかし、私には出来なかった。自分の願望を達成するために、自らの意志で計画を練り、主体的に行動していくこと、そこからフィードバックを得て、自分自身を変革し、成長していくこと、こうしたやり方から遠く離れた生き方を選んでしまった。そのことが、今も自分の人生に大きな影を落としている。そうできる可能性がなかったわけじゃない。高校時代にはそれを達成することが出来たかもしれない出来事や、出会いがあった。多分、妄想や空想でない希望があった。しかし私はそれを生かすことが出来なかった、それどころか、気付いてすらいなかった。そして、その失敗を乗り越えることなく無駄な人生を続けてきた。今更そう理解することで、私は過去から復讐を受けているような気持ちに苛まれる。今からでもあの希望に立ち返って、取り戻すことが出来たなら。それがもうとっくに手遅れで、今や子供の頃に散々お世話になった妄想とほとんど変わらないしろものだと分かっていても、そういう蜃気楼みたいな希望に縋らなければ、今は前に進む気力すら保つことが困難なのだ。
だが、そうやって、取り戻せない過去に縋りつく自分の姿はあまりにも亡霊じみていて、客観的に自分を省みる度に、鋭い痛みが走る。幻を支えにする自分の耳元で、お前はもっと建設的に、現実的に生きなければならない、と理性が囁く。多分それは正しい判断なのだけれども、私には、その囁きがおぞましいものにしか聞こえない。その声が、かつて両親が私を縛り付けた言葉を思い起こさせるからだ。親が私を支配し、縛るために使った言葉と、私自身が自分自身の意思と判断で下すその言葉は同じ手段を示していようと、同じものではない、理屈ではそう分かっていても、どうしようもない無力感に、呑みこまれそうになる。私は、どこにも逃れることができず、多分このまま檻の中で一生を終えるのだという確信。
もちろん、わざわざ自己憐憫めいた口を利くまでもなく、こんなことは世間にありふれているということはよく知っている。私はその中の、ごくつまらない例の一つにすぎない。もっと建設的に、もっと現実的に、もっと合理的に生きなければならない。さもなければ、明確な意思と主張をもって戦い抜くか、死ぬか。私には後者をやるほどの強さがない。よりよく生きなければならない。嗚咽はどこかに押し込めて。古傷はどこかに包み隠して。自己憐憫はどこかに放り捨てて。そして如何にも楽しげに。人生を満喫しているような素振りで。きっとうまく騙せるはず。
不具合を抱えながら、私は私を騙し騙し動かしている。オーバーホールできる場所まで走り続けられるのか。途中でエンコしてのたれ死ぬことになるのか。死ぬまで騙し騙し動かし続けることになるのか。恐らくは三つ目を選ぶことになろう。多分、世間に一番多いのもそれだ。そういう人生にも、そういう人生を送る人物にも、私は価値を見出すことが出来ないが、そういう人生も、そういう人生を送る人物も、痛ましいなとは思う。恐らく、もっと苦しい状況を生き延び、自己実現を果たした人々にとっては鼻で笑うような話だろう。いや、是非鼻で笑っていただきたい。勝利はあなたたちのものだ。心から、それを祝福したい。私はその隣を、びっこを引きながらとぼとぼ歩く。時折、同じ道を歩く者同士が石を投げ合うのを見る。「不幸な自分をそんなに哀れんでもらいたいか、乞食め」と。何もかもがひどく虚しいが、そう思うことさえも、ごくありふれた、つまらなく、くだらなく、何の意味もないことだと感じる。勝者の説諭も敗者の同族嫌悪も首をすくめてやり過ごし、びっこを隠してとぼとぼ歩こう。何も無い道を歩きながら願いを呟く。私と同じ道を歩む者が今後少なくありますように。同じ道を歩む者たちにささやかでも幸せがありますように。いつか全ての人々の夜が明けますように。
どうも、「障害者」という括りに入れられるのを嫌がっているように感じるナァ。
いち障害者から…と書きながら、その括りには実は僕は入らないんだよと言いたげな感じが…
ちょっと意地悪く書いてしまったが、その気持ちは自然なものだと思う。
誰だって、出来れば余計な障害など持たず、普通の側に立ちたい。
僕だって、そうだ。
ただ、この辺は見た目に分かるか分からないかで、その気持ちの出し方が微妙に変わるのかなと感じた。
僕は、右上下肢に障害があり、右手の握力は普通の人の半分以下で、歩くときはいわゆるびっこを引く感じになる。
障害の字を、障碍などに変えてほしいと思ったこともない。
多分、見た目にはっきり分かる障害なので、他の人に説明しなくても一目同然であり、どう呼ばれるかは殆ど関係ないからだと思っている。
むしろ、障害とどう付き合っていくか(社会との関係も含めて)の方が、よっぽど大事だ。
字面をどうのという議論をする余裕があるなら、いろんな人がそれぞれに気持ちよく暮らしていける社会を作る為の議論を深めてほしいものだ。
言葉をどういじくったところで、障害が消えるわけではないのだから。
まぁ、これは個人的な意見ですが。
障害があるということは社会生活上のハンディキャップがあると言うことなので、カテゴライズは必要だと思う。
逆に言えば、社会生活上のハンディキャップがなければ、それは障害ではない。
個性である。
実は、障害は個性でもある(まぁ、本気でこう思えるようになるには、ずいぶんかかったが…)
http://birthofblues.livedoor.biz/archives/50847397.html
『普通学校へ進学させた親を怨みます。脳性まひの男性』を読んだ。
我ながらすごく平坦でつまらない意見だけど、いろいろあると思う。
一概にどちらがいいとは言えないし、障害の状況や周りの条件でもくるくる変わる。
障害の軽重だけで決められるものでも無い。
親に感謝している。
見た目はともかく、実生活には(少なくとも本人が思うには)支障は無い。
右手でちょきが出せない、いわゆる“びっこ”を引いている、そんな程度だ。
右手でちょきが出せなくても左手でちょきを出せるので、じゃんけんに困ったことは無い。
但し、小学校では友達も少なかったし、毎日図書館に入り浸っていた。
それは障害による直接的な影響というよりも、気持ちの問題が大きかったような気がする。
やっぱり、学校に上げるときは親は悩んだようだ。
障害児の親なら、誰でも通る道だ。
子供のころ、学校とは別に障害児を支援する公的なセンターのようなものにも入っていた。
そこではよくバスで遊びに連れてもらったり、夏にはCAMPなんかもした。
こちらは学校と違い、かなりたくさんの友達ができた。
夏の夜、テントの中でいつ果てるともない話を延々と続けるのは楽しいものだ。
友達たちの大きなテーマのひとつに、これからの進路があった。
小学校から中学校にあがるとき、中学から高校にあがるとき、このまま養護学校に進むのか、普通学校に行くのか…
概ね、気持ちは行きたいが新しい世界でやっていけるかどうか不安だナァというものだった。
もちろん、学校側が受け入れてくれるかどうかも現実問題としてあった。
外に出て行きたい理由はもうあまりはっきりとは覚えていないが、どうしても世界が狭くなる、甘えてしまう(あるいは、
甘えてしまう学友を、周りにたくさん見てしまう)という理由だったように思う。
僕はこの話題になると、あまりしゃべることがなかった。
僕にとって、養護学校は遠い存在だった。
高校時代に知り合い、とても影響を受けた(今も)人がいる。
腕っ節がすごく太い。
その人は、高校まで養護学校に行き、そこから地元の私立大学に進み、家庭を持った。
障害が重く、子供のころは医者からは車椅子の生活になると言われていたそうだ。
彼は養護学校時代、毎日、授業が終わった後に1~2時間鉄棒などで腕を鍛え続けた。
そうして腕だけで体を支えられるようになり、松葉杖で今もどこへでも出かけていく。
子供心に、今何をすべきか考えたのだと思う。
彼はとてもIQが高く、重い障害に通学を渋っていた地元の小学校の校長が「是非来てください」と言うほどだった。
親は、結局、養護学校に進ませる道を選んだ。
同じ条件にある子供が皆こうするわけではないだろう(というより、殆どしないだろう)。
でも車椅子の生活者になったかもしれない。
もちろん、どちらがいいという話ではない。
子供を育てるのに正解は無い。
それは、障害児だって同じことだと思う。
なんだか当たり前の結論になってしまって、(ここまで読んだ方には)申し訳ない。
ちんぽを噛み切る無邪気さで恐ろしいものを恐ろしいがゆえに愛するときの要領で「あなたを食べてもいいですか」という台詞とともに少し汗ばんで塩臭い手を舐めて「まずいねぇ」としたところで薄くぼんやりとしており何の反応も示さないような男子(女子)は好きか嫌いかはわからないけれども、夜半の疲れが膿み出ている後ろ姿や笑顔を今にも返してくれそうな、通りで追いすれ違う誰かさんというよりは比喩的な意味でどこかでびっこ引いて歩いてるんじゃないかと思わせる誰かさんのほうが好きだったりする私はあんまし誰かを信用しないままでいることが好きなんだが(ああこれが説教なのでした)……こちらの事情はともかく増田が伝えたいとしている所の対象はほとんど今も目の前に「つぶやいても意外と糾弾されるのね」の中で「つぶやきを糾弾に掛け続けることを辞さない誰か」として現れ続けてきたのであってその「(辞さない/辞さなかった/辞するつもりのない)誰か」に届いていない状況は悲しんでよいことと思うので増田は悲劇のヒロインではなく、あるヒロインの悲劇として受け取っていいはずなので増田がよさげなイケメンに拘束具をはめて命令をし続ける妄想をしてみたもののこれでは何のことにもならずさらにはそれすらも増田にとっては手軽なことに思えて仕方ない気がするのだった。じゃんけんを50回くらいやってもどちらも苛々してこなければにこやかなりとか言ってしまってセクロスに突入するまでもなく眠りたい。そして寝起きでセクロスしたい。そして事後には「私の体が目的だったんでしょう」「俺の体が目的だったんでしょう」と低い声でつぶやきあってその後体を洗い適度に呆けたまま朝食を取りたいのでした。ふんがー。
めくら、つんぼ、かたわ、おし、びっこ、ちしょう、しんしょう、ちょん、くろんぼ、しな、ろんぱりetc
ああ、差別用語はホント良いなぁ。