はてなキーワード: お嬢さんとは
http://anond.hatelabo.jp/20111230232131
私は女性だけど、父親から「誰が稼いだ金で生活してると思ってるんだ?」と毎日言われたから、とっとと就職して独立したかったよ。親がやってくれたことと同じことを子供にしようとは思わない。
夫婦で稼げる精一杯のことをする。そして、子供に「生まれてきてくれてありがとう。私の宝だ」と言いながら育てる。
貧しくても穏やかで、誰も怒鳴らない穏やかな家庭を作る。
子供が「親に迷惑かけてごめんなさい」と思わなくてもいいような家庭であれば、お金なんて生き延びられる程度にあればいい。進学したかったら、奨学金とアルバイトで大学まで行ける。
ブクマを見ていて思ったが
言い分の一部が看護士に似ている
同じく真っ先に看護師を思い出した。
看護師と言うのも(風俗嬢ほどではないが)蔑視される職業だから同じなんだろ、と言う反論がありそうだが
(看護師は蔑視なんてされてないだろ、と言うのも出てきそうなので解説しておくけど、
「他人のシモの世話する汚い仕事」「いい家のお嬢さんは決して就かない、貧乏女・訳あり女が就く仕事」とされていた時代もあったのだ。
今はそういう風潮はほぼ無くなったが、年寄りの中では今でもこういう感覚で看護師を蔑視する人は多い)
と言う事もあるからなあ。
福祉の中でも介護は蔑視される事もあるけど、教育は昔から蔑視される事はなかった。
むしろ教師つったら昔は「女でも就ける数少ない知的エリート職」の一つだった。
でも蔑視か神格化か、と言う扱いは同じ。
なら少数派の特殊職業の女だから色眼鏡で見られるのか、多数派の女なら何も言われないのか、と言うと
もその通りだし、「普通のOL」であっても「お茶汲みしか脳が無い腰掛」扱いもされれば
「職場の花」扱いや「働く女性は輝いている」扱いもされるよなあ。
身体や精神病んでるけどそれ以外に道が無いから血反吐吐きながらやっている人もいる、と言うのも同じこと。
小学生の時聞かされた。
変だよね、こんなの。
遊郭としてたと言っても、すぐ前の世代ではなく、その前にやめて地主になって、それをある宗教に寄付して、無一文の状態になって・・・と色々あったらしい
その色々が続いてない事も無いから、こんな事を言ってくるのかもしれないが ( 精神的にいろいろあるからかもしれないが、別に親は生活やお金には困っていない。全然余裕なのに・・・ )
それにしても・・・・
昔から私に関する事だけ、洞察力が欠落したような事を平気で行う人だった
実の母親から、お前の幸せを願ってません と宣言されるようなものだし
普通の健全な家庭の特に専業主婦の人が聞いたら嫌がるようなことを好んで言う傾向もあった
(別にエロい事と言う訳じゃないです。エロい人ではないと思います)
言わなくて良い事実とか、厭世的になるような事とか
例えば、森村誠一氏の小説を読んで、なぜそんなものを読むのか聞いたら、「私は本当の事が知りたいもん」と言ったりされたりとか
森村氏は優れた小説家だと思うけど、年若い人が見ると、厭世的になったり人間不信になる可能性もあると思う。私に勧めてきたわけではないけど、こういう事も踏まえた上での答えとしては適当ではないと思う。
本当の事と言っても、小説はフィクションなので、本当の事が知りたいなら、ノンフィクションのドキュメントかルポを読むべきだと思うし。
言うとしたら、氏は、厭世観を持つような事実を扱いながらも、それだけではない深い何かがあるとか、それを超えたものもあるとか、何とか言えないものなのだろうか、と思う。
世の中にあるものを無批判に肯定的に受け止めるのではなく、時には皮肉や風刺も、クリティカルな思考をするために必要なように、社会の暗黒面を描くのもより良い情況を目指すためには、有効だとか、視点としては、そういう目も必要だから、とか何とでも良い言い方は色々できると思う。
しかし、彼女の場合はそんな事をわかって読んでいたのではないような気がする。
これは離れて暮らしている今もそうだが
どういう人間だったかと言うのが、チグハグすぎて思い描けないし、人に説明もできない。
これは父にも言える事だが。
それで、トラバはしてないけど、さっき書いた恋愛に夢が描けない話
これに繋がらない事もないわけだが
人様のお嬢さんを金にものを言わせて攫ってきて、性的搾取をしてきた先祖・・・と考えると、他人にそんな事をした人間の子孫は、恋愛なんてできない、と思いつめてしまった部分は、小学生だったので、少なからずあると思う。
小学生ごころにはきつすぎる。
ある程度、自己防衛的な思考や論理的な判断力が、育った状態でしかも安定した身分の状態の大学生くらいになってから、先祖の歴史として話すのなら、わからないでもないと思うが・・・
遊郭というのは、気になるから、何かの折に目に触れたものを読んだり、本を立ち読みしたりして、調べた範囲でも、摩訶不思議な構造になっている
江戸時代とそれ以降での違いというのもあるし、江戸時代でも、遊郭というのとその他のものでは、だいぶ違ったようだった
病気で亡くなった江戸を描く漫画家の杉浦日向子さんは、このあたりちゃんと書いていた。(ただ地名を正確に書いてたというだけだけど)
明治以降国家神道として神道を流行らせたりする時に、その町のイメージが悪くなってはいけないという配慮からなのか何かはよくわからないけど、映画でも何かの作品でもその町を舞台にしたものは、江戸時代は心中モノが描かれたりしてたけど、今は全然ない。他の町も吉原以外は似たようなもので、特にタブーだかたというわけではなく、吉原が通俗的にそのような場所として有名だからわかりやすいからかもしれないが。( 江戸時代の吉原と今のとではだいぶ趣が違うけど )
有名な江戸時代の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目で、伊達の殿様に切り殺されてしまう太夫の話がある。実話かどうかは定かではないらしいが、その太夫の死体が流れ着いた淵や、亡骸が祀られたとされている寺か神社もあるらしい。この話は、武士より武士みたいな形で亡くなってしまった遊女というところが皮肉なのだと思う。 創作だとしたら、こういう人身売買に誑かされて鼻の下を伸ばしている武士に対する皮肉もあったのではないかと思う。
遊女の腹から生まれた大名 で検索すると 23人もいたと記したページも出る
http://kkubota.cool.ne.jp/saihouji.htm
皮肉だ
江戸時代でも人身売買は悪いとわかる倫理観はあったと思う。わからないわけがないと思う。
それなのに、簡単に誑かされてしまう。
http://anond.hatelabo.jp/20111007030803
説明不足だったね。
彼女は「デート代は全額男が負担すべき」(私はチケット代を多く負担している、不満だ)
元増田は「同等の金額稼いでるんだから、同じ負担でいいだろう」(同じ収入の彼女に奢るのは負担だ)
と、そう元増田は説明しているんだよね? じゃあ、彼女の家が貧乏で彼女の給料の半分は実家の生活費として消えているとしても同じ負担を要求できるの? ならば、元増田の意見は首尾一貫しているので私は文句ない。
私が言いたいのは、彼女の実家が裕福か貧乏かで、デート代の割り方が違うのは、第三者によって、2人の付き合い方が左右されるということで変でしょということ。
ちなみに、「男が奢る」と彼女が考えているのは、必ずしも、父親が稼いでいて、母親が専業主婦だから、って理由じゃないかも。伊達という地方では「男は女に奢るもの」という根強い風習があって、学生であっても免除されないから、女性を誘って出掛けるときは、借金してでも男性が払うのだそうだよ。さすが「伊達男」の地だよな。
私は実家の資産が10億以上あって、しかも稼いだ手段が株取引で、「仕事をするということは、9時から16時まで昼食もとらずに電話をかけまくっていることで、16時以降は自由時間、土日祭日は完全に休日」と思い込んでいる令嬢を知ってる。彼女の夫は朝6時に出掛けていって、夜は22時近くまで働いて、土日祭日に出勤や出張もあって、年収3千万円稼いでいる。令嬢に言わせると1つ百万円する家具を自由に買わせてくれないから、うちは貧乏、あんなに長時間仕事していて、その程度しか稼げない、ハズレの夫だそうだ。正直、普通に就職(社会経験を積ませるためにコネ入社ってのはあるかな)するお嬢さんが「裕福な家の子」とは、私には思えないんだけど、それはともかく。
元増田の稼ぎで満足して、普通に割り勘にしてくれる女性を探したほうがよくない? 実家が裕福でも、贅沢は敵だと思ってる子もいるよ。成り上がりだと、お金に人がペコペコするのが楽しくて豪快に使っちゃうんだけど、代々のお金持ちだと「無駄遣いすれば、あっと言う間に身代が傾くと知ってる」から、普段はけっこう質素だよ。「ズボンに穴が空いているのは恥ずかしくないけど、繕っていないのは恥ずかしい」ってな教育で育つ。
http://anond.hatelabo.jp/20111003003512
彼女のお父さんの収入がいくらあろうと、成人したら関係ないでしょ。お父さんの収入をあてにしているかのような感覚が変。
最近は友達母娘ってカンジで、孫まで連れての3世代で買い物をして、払うのはおばあちゃんである母親って光景もよく見るけどさ。彼氏が「実家が裕福」ってのを計算に入れるのは、なんつーか、こすい。
彼女が行きたかったコンサートなんだから、元増田が行かなくても行ったんでしょ? 元増田の趣味に付き合ったのならともかく、自分が行きたいコンサートに一緒に行っただけなのに、チケット代負担しろなんて何様?
こういう感覚は育ちじゃないのよ。貧乏育ちでも「自分が払うべきお金」をきっちりわかってる人は多いよ。逆に、このお嬢さんみたいに、親が裕福なのにわからない人もいる。私の印象としては、裕福な育ちだと自分を保護している誰かが払うのが当たり前って感覚になる人が多いカンジはするけど、成長して自分が保護する立場になったら、1日中働いて惜しげも無く、子供なんかに貢ぐのも、やっぱり、そういう育ちの人なんで、いちがいに、貧乏育ちだから、裕福育ちだから、とも言えない。
とりあえず、今の付き合いの時点で、「お父さんが裕福だから」「男が払うのが当たり前だから」と、2人でデートを楽しんでいるのに、まったく関係ない第3者を持ち出して、自分の負担が重い、とか言うのは、感覚が変。大人になれよ。
題から見て分かるとおり、http://anond.hatelabo.jp/20110929232831のパクリです(書き終えてみれば、パクったのは題名だけですが)。
栄養学科版です。それほどメジャーな学科ではないと思う。管理栄養士になりたい人が行くところと捉えて頂ければ十分です。
そもそも、栄養士という職(資格)を知っていても、具体的にどんなことをするのか分からない方も多くいらっしゃると思います。
悲しいけれど、「給食のオバちゃんのボス」という言葉がしっくり来る現状です。
仕事は多岐に渡るのだけど、後にさらりと触れるので、ここでは省きます。
筆者は栄養学科に行きはしたが、結局は別の道を選んだ脱落者です。
これから書く内容は、現状には即していないかもしれませんが、恐らくそう外れたことでもないでしょう。
筆者がなぜ栄養士として働かなかったのか、ということについても後程述べます。
栄養士を夢見る女学生の方や、栄養系の学科ってどんなことやるの?と思う方、その他お暇な方向けです。
長い序文となりました。本文も長くなりますが、お付き合い頂ければ幸いです。
他の学部学科ならば、大学生活は割りと時間に余裕があるのではないでしょうか。人生の夏休みとも言われるほどですし。
空きコマがあるのは当たり前、丸々休みの日もある、というのが私のイメージです(他の学科について正直よく分かりませんが)。
栄養学科の場合、たまに空きコマがあっても、休みの日なんてありません。時間割がみっちり詰まっています。月曜日の朝から金曜日の夕方まで何かしらあります。
取りたい資格が少なければ、少しは余裕が生まれますが、逆にひとつでも多く資格を取りたい!となると遊ぶ時間が消えます。
衛生の資格に加え、栄養教諭の資格も取得した友人は、1年生から4年生の間まで、ずっと忙しそうでした。死にそうな顔していました。
また、実験や実習も多くあるので、それらがある日は時間割通りに行かないことも少なくはなく。
管理栄養士になるために必要な科目が必修科目になり、その量が膨大……とまでは行かなくとも(膨大なんて言ったら医師や看護師に失礼だわな)、
かなり多い部類には入るので、他の学科のように単位選択に困るわー、取得に困るわー、なんてことはありません。ここは利点かな……?
1,2年生まではみっちり勉強そして実習、3年生になると時間割の上では余裕が出来ますが、臨地実習に行かなくてはなりません。
給食施設実習(ここでの給食施設とは、保育所、学校、及び老人福祉施設などを指す)、臨床栄養実習(病院)、公衆栄養実習(保健所)の3箇所全て。
準備、臨地実習本番、報告書作成、報告会準備などに追われ、ひとつ終わったと思ったら次の実習が始まるので、3年生は結構忙しい。夏休みは半分くらい潰れました。
4年生になれば、授業ほっとんどねーや解放されたぜイヤッホゥゥ!!だが世の中そんなに甘くない。就職活動と卒業論文(実験)が待っている。
授業もそこそこそれなりにあって、臨地実習もある3年生が恐らく一番忙しい学年です。そんなだからまともな就職活動が出来るのは2月くらいからかな。
ちなみに栄養教諭を目指す人は、そのための実習があるので、さらに遅れます。
(管理)栄養士になりたくない、って人は実習等も適当に乗り切って、時間が出来る12月くらいから始めます。それでも遅いんだろうけどさ。
さて、栄養学科は文系に属するのでしょうか、理系なのでしょうか。
理系の知識がなければまずやっていけませんが(化学と生物、特に化学については高校でしっかり学んでおく必要がある)、
まるっきり理系というわけでもなく、文系のような?こともやります。
管理栄養士は、食事を作ることだけが仕事ではなく、人の相談に乗ったり(カウンセリング)、教育したりなどもします。そのための技術も必要です。
保育所や学校の栄養士の場合、最近は児童生徒等に対し、食の知識について教えることが多くなりました(いわゆる食育、何度か出てきている栄養教諭は食育専門の教諭)。
自治体の栄養士になれば、管轄地域の住民全体の健康について考えなければなりません。収集したデータをどのように統計し、解釈し、どんな計画を立てるか。
また、給食を作ると言ったって、タダで出来るわけじゃないから、経営についての知識も必要となる。あとは福祉についても少しだけやったかなあ。
前述のとおり、実験や実習も多くあります。実験は理系の学科であれば大抵やっていると思うので省きます。
食品や栄養について学ぶ学科なので、調理実習はたくさんあります。1年次はただ指定されたものを作るだけ(それはそれで楽しいしラク)ですが、
2年次から自分で献立を考えて作らなくてはならなかったり(たとえば、腎臓病の方向けの食事の場合、低蛋白高カロリーの献立を実際に考えて作らなくてはならない)、
実際の給食施設のように大量調理し、客(に見立てた学生)に配膳、アンケートを取る実習があったり、一筋縄では行かないものばかりです。
調理ではない実習もあります。たとえば低学年の児童を対象にした栄養教育を計画書から作って(児童に見立てた学生に)実演してみたりとか、カウンセリングの実習であるとか。
リーフレット作ったり、商品開発の実習をしたり、パソコンの実習もありました。
前の項と合わせて、必修の課目が多いし、分野も広い。期末はレポートの山に囲まれ、レポート作成と並行してテスト対策もしなければならないので、大混乱です。
レポートの期日が重なるなんて当たり前。テストは持ち込み不可のことが多い。劣等生は追試の山……。
ちなみに、実習の際はグループ行動が多く、グループ分けも大概教授が指示するので、ひとりぼっちになることはありません。
そういう機会に知り合いや友人が出来るので、他県から一人だけで入学したという場合も、孤立することはまずないかと。
栄養士になった人がキツくなるのか、それともキツい人が栄養士になるのかは分かりませんが、授業中にキツいことを言われることもしばしば。厳しい方が多い。
「あなたたちは即戦力となるために~」なんてのは耳にタコが出来るほど言われます。
実際、管理栄養士として就職したならば、初めての社会人経験であっても管理職として扱われます。
その時にまったく戦力にならないのでは困る、ということ。
調理員のオバちゃんをこらしめる方法を教わったときはどうしようかと思いました。
献立でダメ出しくらうの当たり前、授業中の雑談が思いの外キツいことだったりすることも当たり前(患者さんが亡くなってしまった話とか、派閥の話とか)。
むしろ、こういうことを耳にして、覚悟完了できるかできないかが、栄養士として働くか働かないかの分かれ目である。
筆者は覚悟完了出来ませんでした。これから下記に書く実情もあり。
ここまで栄養学科の話を書いてきましたが、どのように感じたでしょうか。
大学生にしてはずいぶん忙しそうだな、とか、こんなヌルい内容でキツいだなんて笑わせてくれるなど、様々な意見があるかと思います。
私も当時の思い出を振り返りながら書いているので、昔の自分であればキツいと感じたことも、今であれば当たり前と感じるのかもしれません。
それはそれで置いておいて、管理栄養士が実際に管理栄養士として働くと、
他の医療系資格よろしく(管理栄養士をコメディカルと見ない人もいるが)、常に求人はあり、その意味では困らず、食っていくに困りません。
だけど、食っていくことしか出来ません。自分の時間が取れない。食べて寝て仕事して寝て食べての繰り返し、というのが管理栄養士として就職した友人の生活。
ただ、管理栄養士はやりがいがあります。そして責任があります。誰かがやらなければならない、いのちの基本、食事に関わる職業です。
そのことにやりがいを感じ、そのために生きていける人ならば、きっとやっていけるでしょう。
それか、何でも要領よくこなせる人とか、切り替えが早い人とか。
私はそのいずれにも該当しなかったし、あとは早い段階で(ただ入学した後の話でしたが)2ch等を見て、栄養士は基本的にブラックな職業だと判断し、事務職に就きました。
何が言いたかったかというと、栄養士を夢見るお嬢さん(高校生以下)、理想と現実はかなり違うから、考え直すならば今のうちだぜ、ということです。
それから、栄養士の労働環境を知ってほしかった。他の方も様々な場所で腐るほど語っています。
テレビに出る栄養士なんて雲上の人、1000人に1人いるかいないかの超好待遇の人なので、管理栄養士が全員そうだとは間違っても思わないでくださいませ。
それではここまで読んでくださってありがとうございました。
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2011/0709/424703.htm
県大会に出るには速い球に慣れる必要があるので、
息子は「怪我をさせるかもしれんし、いやじゃ。
と言ったらしいのですが、どうしても、と頼まれて仕方なく
相手をしたそうです。
「こんなん練習にならん」と言われ「たいしたこと無いの」
でも、息子は頼まれてイヤイヤ引き受けた訳ですし、
事前に聞いたところ、息子いわく「だから、いやじゃと言ったのに、しつこいけん、そんなことになるんじゃ。それに、あんなん、普通は避けられる。ちゃんと練習しとらんせいじゃ」ということなので、
先方の両親(治療費を払えと息巻いています)には、学校側のソフト部に対する管理不行き届きなので、謝るつもりもないし、治療費は学校が負担すべき、と突っぱねたところ、先方は激高して、そんな態度なら、シニアのチームに言いつけて、チームを首にしてもらうし、学校にお願いして内申に響くようにしてやる、と言います。
夫は絶対に謝る必要ない、放っておけ、と言うのですが、
息子がチームを首になった可哀想です。ここは謝るべきでしょうか。
その後の展開はさておき、
この情報だけの時点で「謝るべき」ってレスが多数派なことにびっくりした
おれ、野球を見ることもすることもほとんどないからわからんのだけど…
「ごめんね、くらい言っといた方が人間関係円滑だよ」程度ならわかるけど
早くに父が亡くなったけど母親や他の親族がまともな人で経済的にも愛情的にも問題なく立派に育ったお嬢さんでも緩和不可なんだろうか。
だから
そういう個別の例外を言い募るなら
「バツイチだけど夫が病気で急死しただけ、最後まで夫婦仲は睦まじく健気に看病し死を見取った情深い女性」とか
「趣味はギャンブルで自己破産経験もあるけど基本的に節度を守って博打をうつ女性、破産の原因はたった一度のFX操作ミス」とか
「風俗・水商売・AV・援助交際・不倫・浮気・中絶経験ありだけど全て貧しさゆえの気の迷い、今は反省している女性」とか
いくらでも設定は作れるし、
広く世の中を見渡せばそういう人はきっとどこかに実在するけど
ワードロー「ブ」な
ちなみに、お嬢さん方のワードローブは頻繁に新陳代謝するので、積み上げで充実したりはしないよ(センスは積み上がってるだろうが)
前略
これまで仕事が1年以上続かず、ここしばらくは実家に帰省しているだけの最底辺な女なのですが
半年以上、洋服を買いに行けていない
一枚買ったけれどそれはディスカウントの古着屋で400円だった
働いていたときだって収入は少なかったから、買うのは某量産洋服小売店で
枚数も多くないからローテションが早いそれらはすぐに褪せる、ほつれる
ちなみに下着も同じ有様
多少買ってくれることもあったけど、携帯代などを払ってもらっているので毎月は頼めない
綺麗にするつもりなのに洗濯機内で服はどんどん綻びてゆく
人の好意に最大限甘え続けて、周りをカラカラの西瓜みたいにしたころ(当然わたしカブトムシ)
成り行きで就職できることとなりました
とりあえず当分は月収が14万円
ひくーい
「アンツ」の蟻さんたちより視界がひくーい
久しぶりに社会の一組織に属するものですから、手取りなどが分からないのですが
その内、携帯代などの必要経費、周りへの借金の返済などに充てれば
ネイルサロンに通って、
髪の毛を巻いて、
履き心地のよく、それでいて見栄えのする靴を履くのでしょう?
これから収入が増えても、わたしのワードロープは彼女たちより充実することはない
彼女たちのこれまで集めてきた、積み上げてきた洋服や靴や鞄があるのだから
本当に、これまで一所懸命に働いてこなくて、申し訳ございませんでした
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1105/24/news078.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.itmedia.co.jp/news/articles/1105/24/news078.html
きっとスマートフォンのすの字も知らない人が、化粧品や炭酸飲料のマーケティングと同じような手法でアンケート結果を解析したんだろうな。ネットアンケートの割にサンプル数がたった824なので、そもそも統計調査としても役に立っていない。ちゃんとやるなら最低でも2000は取らなきゃ。予想通りはてブでも馬鹿にされている。
#成熟期も追記してみた
このころスマートフォン的なものを使いたかった人は、京ぽんかPDA+PHSという選択肢しかなかった。Wi-MAXどころか、公衆無線LANもあまり普及しておらず、3Gネットワークもまだガラケーのためのものだった。2002年にZaurus OS搭載のSH2101Vなんてのもあったけど、10万を越える高価格であまり売れなかった。
この時代にこの手のものを使っていた人は、ほんとうの新しもの好きというか、人柱になることもいとわない本格的なギークで、多分シリコンオーディオもデジタル一眼もHDDレコーダも、比較的早い段階に手に入れていたような人だろう。デジタル版タモリというかスタパ斎藤のような人たち。多分この世代の人は本当に「ファッションも外見も気にしない」
3G+Wi-Fi(W-ZERO3はPHSだけど)、タッチパネル、サードパーティアプリケーションをインストールできるなど、所謂現代的なスマートフォンが本格的に日本で発売され始めた年。2004年にガラケーではDoCoMoが900iシリーズを発売し「パケ・ホーダイ」サービス開始。FeliCaやワンセグ、高画素デジカメを搭載し、ある意味でガラケーの集大成と言えるようなものだった。
この時期公衆無線LAN各社がサービスを開始し始め、都心部の駅や喫茶店、ファストフードなんかで使えるようになる。
はてブにたくさんいる「W-ZERO世代」が日本における事実上のスマートフォン第一世代。プレ世代と似たような感じがしそうだけど、一方でビジネス用途でこれらを使い始めたような人も結構いるだろう。あと本当にギークな人は海外製のSIMフリー端末を輸入していただろう。この世代以前の人は、大抵のことはググッて調べる。あまり「情弱」的な人は見かけない。
iOSとAndroidが登場し、OSシェアが塗変わった時期。ビジネスでは業務車両や配送車両の運行管理や、営業や販売の現場などでの利用など、より本格的に利用されるようになる。
この時期にケータイショップにいた人は非常に苦労しただろう。ケータイショップの販売員は「ヘルパー」と呼ばれるキャリアからの派遣が多いのだが、ガラケーの機能や契約、料金制度については詳しくても、スマートフォン?な人が多く、自分でもよく分からないものを売らなければいけないということもあったはずだ。新しもの好きだけどハイテクに弱そうなおっちゃんと、やっぱりハイテクに弱そうな売り子のお嬢さんがケータイ売り場でもめている光景が、この時期にはよく見られた。
この頃、台湾メーカーによる「ネットブックブーム」もあり、2007年後半から2009年頃まで続く。半端な性能とサイズということもあり、性能が上がったスマートフォン/タブレットと低価格化したノートPCに挟撃され普及は鈍化する。
この時期スマートフォンを使い始めた人は、新しもの好きではあるけど決してマニアックな人ではない。特にiPhone 3Gなんかは「ケータイとiPodが合体した物」という感覚で使い始めた人が結構いただろう。実はこの世代が一番ミーハーな人が多そうだ。
あと社用携帯として持たされたなんていう人も、結構いるのではないだろうか。
すっかり出遅れたKDDIがシェアを取り戻すべく参入したはいいが、IS01(通称メガネケース)なんて末期には8円施策で配った誰得端末を作る。
どうしてもおサイフケータイとかワンセグとか赤外線とか、ガラケー機能から離れられない人がいて、そういう人向けの端末も揃ってきた。ここから本格的な移行が始まるだろうが、一方で「ケータイなんて電話とメールだけでいい」という人も相当数いるので、ガラケーも残るだろう。ただ「フィーチャーフォン」といわれる、無駄に高機能で割高なガラケーは今後先細りするだろう。
あとはPCなしで完全に独立して使えるスマートフォンが登場すれば普及が進むだろう。一応国産メーカーのAndroid端末はスタンドアローンで使うこと前提に設計されているらしいけど、そもそも自宅にPCもWi-Fiもない人がスマートフォンってどうなのよ?って話。WiMAXやLTEなどの4Gエリアが全国レベルになり、料金もそれなりになれば完全にPCの代わりになるかもしれない。どの時点でゴールとするかの定義もあるけど、FOMAがサービス開始から契約数比率で50%超えるのに5年、エリア全国カバーまで6年ほどかかっているので、4Gが日本中で使えるようになるにもだいたい5〜6年ということになるだろう。
前記のとおり2009〜2010年にサービス開始した4G通信が全国レベルで使えるようになるのが大体このぐらいと予測。この頃にはPCは仕事で使うとかプログラマとかデザイナとか動画編集とか、そういう需要の人以外は使わなくなるかもしれない。
業務の前に書店に寄ることが、半ば習慣化していた。
人の声の重なりのような、妙なざわつきを感じる。
地面が揺れていることに気づいたのは、その後だった。
一昨日の余震だろうか?それならばすぐに収まるだろう。
生まれて初めて体験する激震が、我が身を、そして店全体を揺らしたのは、そんな甘い考えが脳裏をよぎった瞬間のことだった。
本を買うより、身の安全の確保が第一だ。
店を出る瞬間に、視界の片隅だけに見えていたものだけど、その光景は良く覚えている。
激しく揺れ動く地面と同様に、あまりにも落ち着きのない思考が私を動かしていた。
だけど私は運が良かった。ガラスが割れる軽やかな音に気づけたから。
目の前で、ガラス造りの街灯が落ちて地面に砕け散った。
あと数秒、私の走りが早かったら、危なかったかもしれない。
まずは身の安全の確保だ。最優先事項にやっと気づいた私は、元々いた書店の入り口近くにある金属の柱にしがみつく。
建物の近くにいては倒壊に巻き込まれるのではないか、という考えもあったが、倒れそうには見えない外見のビルであったし、何よりも、屋根があった。
何かが落ちてきても、屋根があれば最悪の事態を免れることが出来るだろう。
一息ついて油断した、その瞬間を見逃さずに追撃するかのように、それはやってきた。
もっとも、どんな覚悟も、あれの前には無意味だったと思う。
視界に入るもの全てが揺れ動いていた。地面が左右に揺れる、というのを視認したのは初めてだったと思う。
地鳴りと悲鳴が重なる。震度表には「立っていられないほどの揺れ」という表現があるが、まさにそれであった。
銀色の柱にしがみつき、身体を支えること以外、何も出来なかった。
勇気ある人は、危険な位置にいた女の子たちを比較的安全な場所へと誘導していた。
その後、ガラスの街灯がまたひとつ落ちた。ガラスの破片が散らばったけれど、気にしている余裕はない。
私は死ぬのか、この世は終わるのか。本当にそう思った。
長い、長い、私の体感では3分ほど、実際はもっと短いだろう(これを書いている時点では正確なデータがないのです)、
だけど長い地震が終わって、私の思考はまた落ち着きのないものへ切り替わっていた。
そうだ、職場に行かなければならない。
揺れが収まり、身動きが取れることを確認すると、私は職場のビルへと向かった。
エレベーターは動かない。12階立建てのビルの3階に職場はある。
階段の壁は一部が崩れ、破片がそこらに落ちていた。非常灯がなかったので、昼と言えど薄暗かった。
それは階段だけではく、各階でも同様のようであった。日の光が差し込むだけ、階段よりは明るかった。
ドアを押しあけ、オフィスへ入るとほぼ同時に、余震が襲いかかった。あの本震の直後の余震である。実際にどれほどの震度の余震だったのか、これも現時点ではわからないけれど、本震と同じくらい強いものに感じた。
「危ないから入ってきちゃ駄目!」と悲鳴に近い声が私に掛けられたけれど、入ってきてしまったものは仕方ない。
オフィスの中にいた他の方々とともに、私は机の下に身を隠した。
自ら飛び込んできた私はともかく、朝から働いていたオフィス内の人々は、突然の、しかも未曾有の大きさの地震を受け、憔悴しているようだった。
それから、階段を降ってビルを出て、一度は近くの小学校へ避難した。しかし、地域の方々の避難が最優先であるため、解散の命令が出るまで、私たちは歩道で待機していた。
その間も余震はまるで容赦しない。地面が揺れる、街灯や電線が揺れる。大きな看板が地震で壊れていて、たくさんの人が携帯電話で写真を撮っていた。
本震の最大震度が7と聞き、やっぱりね、とか、宮城県沖地震かな、などという話題が上がった。少量ながら雪が降り始めて、とても寒かった。
地震保険の話があった。我が家には適用されるのだろうか。いや、それよりも我が家は無事か。
携帯電話を操作して、自宅に電話をかけるも、繋がらない。当たり前のことだった。
それからしばらくして、今日のところは解散、ということが上司から伝えられた。私は家まで歩いて帰ろうとしていたけれど、同じ方向に住まいがある同僚がいたので、家の近くまで送っていただくことになった。
車道は当然のように渋滞していた。加えて、一部を除いて、信号も動いていない。
仙台市中心部から郊外へ移動しようというのだから、渋滞に巻き込まれるのは致し方ないことだ。30分で100メートル移動出来たかどうか、ということもあった。
正直に言えば、自宅まで徒歩で戻った方が、早く家についたかもしれない。しかし、車で送って頂いて本当に良かったと思う。
そう思う理由はいくつかある。ひとつは、複数の人とともに移動することによって、不安や恐怖と言ったものを少しは紛らわせたということ。また、車にはラジオが搭載されているから、最新情報を確認することが出来たのも大きい。外気を遮断し、暖をとりつつ移動出来たというのもある。被災直後から、仙台市内には断続的に雪が降り、吹雪くことさえあったから。
最終的なマグニチュードが8.8であるという報道を聞き、私たちは笑うしかなかった。この地震で亡くなった方が出るかもしれない、という話題にもなった。これを書いている今現在、確認されている死者は1000人以上であると聞いている。ここまで多くの方が亡くなってしまうとは、あの時、思いもしなかった。
移動中、私は家族が心配でならなかった。特に、自宅にいるであろう、母。我が家は築25年の木造住宅である。自宅が倒壊してしまったのではなかろうか、それに母が巻き込まれてしまったのではないか、心配で心配で溜まらなかった。
同乗している同僚は、2歳のお嬢さんを心配していた。夫の実家に預けているのだが、連絡が取れないのだという。
私も母との連絡は取れない。「頼りがないのは良い証拠」であるという、この場にはまるでふさわしくない故事を信じるしかなかった。
被災直後であるから、携帯電話は全く役に立たない。それはとうに承知していても、家族の安否を確かめたいというのは当然のことだ。電話はとても繋がりにくかったが、幸い兄との連絡はついた。それから、機械に疎い家族が見るかどうか分からないが、災害伝言板に書き込みをしておいた。
車に乗っていても、余震は我が身に伝わる。窓から見える外では、多くの人が歩いていた。結婚式の最中だったのか、よそ行きの格好のまま避難する人、スーパーのビニール袋を被る人、クリーム色のカーテンを纏う人、様々いた。
1、2時間も経つと、日が傾き、徐々に日の光が失われていった。明かりがあるのは車ばかりで、どの店、どのビル、どの建物も真っ暗なままだった。唯一、警察署だけは明るかったけれど、自家発電装置はいつまで持つのだろうか。
これだけの巨大な地震であるにも関わらず、高層ビルの倒壊がなかった、このことはすごいことだと思う。
しかし、それは外見の話だ。どこも大なり小なりの被害を受けていて、壁が崩れたり、窓ガラスが割れたりするのは当たり前、水道管が壊れて、水が溢れだしている家もあった。
3時間半ほどの時間を掛けて、自宅の近くまで送って頂いた。ここからは、歩いて帰ることになる。
外はやはり寒かった。実際の気温だけではない。街のどこにも光がない。駅の近くにある大きな交差点、そこの信号は機能していたけれど、他の信号は依然光を失ったまま。これまで車で通り過ぎてきた光景と同じく、街のどこにも灯りはなかった。
この夜の空は、山中で見るもののようだった。星座が確認出来るくらい、綺麗な星空。あまたの星がいつもと同じように、黒のキャンパスの上で煌めき、瞬く。暗い街並みといつにも増して美しい夜空を、私は生涯、忘れないと思う。
さて、この地震では、かなり多くの方が避難所での生活を余儀なくされている。
我が家はかなりましな状況であるということを、ここで記しておく(こうやって被災最中に手記らしきものを書いている時点でお察しの方も多いだろう)。
何せ、不自由なことは多いものの、自宅で生活が出来ているのだ。現在、これを書いている3日目の朝も、白いご飯を食べ、暖かな野菜のスープを飲み、ゆで卵まで頂くことが出来ているのだから。
4時間かけて自宅まで戻ってきたが、電気はついているはずもない。もしかしたらみんな、避難所にいるのかもしれない。あるいは……。
最悪の事態を思い浮かべながら、玄関を開ける。ただいまと誰もいないかもしれない家に声をかける。返事はすぐに戻ってきた。
家族は全員、茶の間にいた。みんな、無事だった。そのことに安堵の息を漏らしつつ、私は茶の間に入った。
意外なことに、茶の間は暖かだった。捨てるつもりでいた石油ストーブを物置から持ってきて動かしていたのだ。停電していても暖が取れるのはありがたかった。さらに、ストーブの上にやかんを置けば、時間はかがるがお湯が湧く。パンを置けばカリカリに焼ける。外は氷点下にまで冷え込む中、石油ストーブで外から身体を暖め、お茶で内からも暖める。とても幸せなことだった。これを呼んでいらっしゃる皆様には、是非一家に一台、石油ストーブの購入をお勧めする。
家の中には、父、母、兄、それに近くに住む親戚の小母さんがいた。小母さんは、この地震で誰とも連絡が取れず、また誰も帰ってこないという。家の中は地震で家具が散乱しており、中にはとても入れない。一人でいるのも不安である。そのため我が家に来たのだという。
自宅へ帰って来た頃、時刻はもうすぐで8時を迎えようとしているところだった。こたつの上には大きな蝋燭が立てられていて、その脇にラジオが置かれていた。懐中電灯もあるにはあるが、あまり明るくないので、部屋全体は照らせない。そのため、トイレに行く時等、移動する際に使われていた。
そういえば、自室に小さなライトがあるのを私は思いだした。いつだかに、ゲームセンターのUFOキャッチャーで取ったものだ。おもちゃに近いが、電球ではなくLEDなので、大きさの割には強い光を出す。
本棚が倒れたため、本で埋め尽くされ、足の踏み場がない部屋へ行く(自室の荒れ方がまた素晴らしかったので、出来ればお見せしたいところであるが、この時既に携帯電話の電池が切れていた。残念である)。机の引き出しの中にライトはあった。スイッチを入れると、白い光が散乱した部屋を照らした。
また、その時の私は、黒いタイツにストッキングと随分冷える格好をしていた。荒れ果てた部屋からジーンズを引っ張りだして着替えた。ついでに、タオルケットと毛布を茶の間へ持ち出した。
茶の間に戻り、ライトで辺りを照らしてみせると、蝋燭や懐中電灯よりも広い範囲をより明るく照らせたので、当座はこのライトで部屋を照らすことになった。裸火がなくなり、火事の可能性が低くなったのでひとまず安心した。
余震は断続的に続いていた。これを書いている今もそうだが、大小の関係なしに、何度も何度も地震に遭っていると、いつも地面が揺れているような感覚に襲われる。恐怖が完全に拭われることはなく、むしろ大きい余震があるたびに増大していった。
母は、少し昼寝をしようとしていた時に地震に見舞われたそうだ。これほど大きな地震であれば、逃げることをまず第一に考えそうなものだが、母は42型の液晶テレビが倒れないか心配だったらしい。テレビを支えつつ、近くの柱にしがみついて、本震を耐えきったそうだ。
兄は仕事をしていた。オフィスの中にあったパソコンは全て倒れて使えなくなったそうで、しばらくは仕事にならないだろう、それどころか解雇されるのではないか、と心配していた。
父もまた、仕事をしていた。スーパーでカゴ集めのパートをしている父は、地震の瞬間に店内にいた。これは危ない、と思い、しかし出口からは遠い場所にいた父は、普段は閉じられたままのガラス張りのドアをこじ開けて外に出たという。後から聞いた話によると、父の勤務地のスーパーは、天井が落ちてしまったそうだ。
ラジオから聞こえてくる男性の声が、この地震による被害の状況を伝える。泉区で家がひとつ倒壊した、壁に挟まれて死んだ人がいる、火災が発生した、津波で何もかも飲み込まれた……。いつもの夜のラジオなら、軽やかな音楽や楽しげに話すDJの声が漏れてくるのに、今宵は厳しい現実と、それを乗り越える手段が、無機質に流れ出ているだけだった。
私が自宅に帰宅して、1時間ほどして、親戚の小母さんの娘さんが帰ってきた。
この時、電話はまともに使えなかったが、メールやインターネットならば使用可能な状態にあった。
機械音痴らしい小母さんは、メールを打てない。私が代わって、娘さんに「小母さんは我が家にいる」との内容を打ち、送信したところ、娘さんはすぐに我が家に駆けつけた。それまでは近くの避難所を当たっていたらしい。
娘さんの勤め先は、長町にある。我が家は仙台市泉区に位置しており、長町とはかなりの距離がある。娘さんは同僚の方から自転車を借り、ここまで帰ってきたのだった。それまでに1時間半の時間を要したそうだ。
午後の10時頃に、小母さんの旦那さん、つまり小父さんが帰ってきた。小父さんは地震発生直後に車に乗ったのだけど、ひどい渋滞に巻き込まれて、この時間に帰ってきたのだという。実に7時間もの時間をかけての帰宅だった。
先にも述べたが、被災はしたものの、我が家はかなりましな方だった。屋根瓦が吹っ飛んだり、壁に多少のひびがはいったりはしたけれど、とりあえず住める状態にはあったのだから。停電していて茶の間以外は真っ暗だし、ガスも当然止まってはいるけれど、この時点で水道は使用できた。トイレも流せる。これだけで、精神に随分と余裕ができた。とは言っても、時間が経つにつれて水圧は低下していき、2日目の昼には断水になってしまうのだけど。
しかし、断水前に風呂に水を貯めておけたのは良かったと思う。おかげで、今のところ、トイレの水には困っていない。流石に大しか流せないので、そこらへんの節約は必要だ。
とにかく、電気とガスが使えないのが痛い。そうは言っても、ライフラインが回復するまでは今ある環境で耐えるしかない。母に菓子パンを食べるように勧められたが、遠慮して、お茶だけ飲んでいた。……皮下脂肪が厚いので、少しの間飲まず食わずでも耐えられる。
夜の11時を迎えたところで、両親に就寝するように言われた。どうせ、余震が続いて眠れないので、次の日の夜明け、6時50分頃まで起きているつもりだったが、せめて横になるように、と言われたので、茶の間の畳の上に体を横たえた。今夜は座布団が枕の代わりだ。寝転がり、目をつぶるだけで、少しは休むことができる。
形だけの就寝をし始めて1時間。日付が変わった後、ふと母の携帯電話を見てみると、2、3時間前まであった電波がなくなっていた。メールやネットならば使えたのに、それすら出来ない。ラジオ以外の情報獲得手段がない。ニコニコ動画やユーストリームでNHKの放送をしている、とラジオは伝えていたけれど、そんなもの役に立たない、と思った(もちろん、まだ電池のある携帯電話等を持っている人には重要なのだと思うけど)。ちなみに、家に帰ってきた時点で、私の電話の電池は切れてしまった。
日の出まであと6時間。ラジオは伝える。どうか日の出まで、希望を持ってと。ラジオは伝える。現実を。荒浜に、200から300の遺体が流れ着いたとの報を聞き、涙が頬を伝った。
3時か4時になった頃、NHKのラジオが音楽を流した。2曲流れて、1曲は確か「カノン」だったと思う。そのおかげがどうかは分からないが、私は少し、眠ることが出来た。余震がある度に起こされはしたものの……。
長い、長い夜を過ごしているうち、私はひとつ思いついた。
被災している最中から、忘れないうちに、体験談を記しておこうと。
携帯電話は使えない。iPadは不向きだ。だから今、pomeraを使って書いている。我が家にて、単4電池を使う懐中電灯等もなかったから、こうやって書いている。
これは被災してから2日目に書き始めた。現在荒削りながら、被災当日のことを書き終えて、5日目である。出来れば電気が繋がった3日目のことまで書いて、増田に上げられれば、と思う。私なんか、とてもとてもましな方だったけれど、千年に一度とも言われる天災の体験談は書いておかなければならないと思った。……エゴイストで申し訳ない。
また、普段は趣味で小説のようなものを書いているので、そのような表現があり、読みにくい箇所も多々あったかと思う。このことについてもここでお詫びする。
私が住んでいる仙台市泉区のとあるところでは、3日目で電気が繋がり、4日目で携帯電話の通話及びメールが使用可能に、そして現在、5日目の朝にネットが復旧した。
http://anond.hatelabo.jp/20100209065146
任期が終わろうとしていた昨年の末位から、あの大陸の北のほうは急にうねりを見せ始めた。
http://anond.hatelabo.jp/20100210201337
の方が書いていたように、インターネット・SNSが遂に大きな力になって、そして、ある側面では、それを見せ付けたかのようだった。
ジャスミン革命前のチュニスは、本当に短期だけなのだが、滞在したことがある。
エジプトは、10日間くらい、ナイル沿いを北から南に移動しながら滞在したことがある。
実にエキサイティングだったし、そんなに贅沢をしたつもりも無かったけど、快適な滞在だった。
そういえば、ギザのスフィンクスの前で、外国人旅行者から盗みを働いたやつがTurist Policeにボコボコに殴られているところに出くわした。
快適に過ごせたのは、やはり自分が外国人だったからかもしれない。
帰ってくる途中、イスタンブールに数日滞在していた。
可愛らしいお子さんを4人もつれた、リビア人のご家族と一緒に、ボスポラス海峡の船上でつかの間の楽しい時間を過ごしたんだ。あの頃は、まさか一気にこんな事態になるとは露にも思わなかった。
「まだ、リビアには行ったことがないんだ」
というと、誇らしげに、
「どうして来ないんだい?こないだまで君がいた国よりずっといい国だよ!」
と言ってくれた、お父さん。
元気にしているだろうか。
一年少し前、最初に「アフリカ大陸滞在中」のエントリで書いたように、僕が住んでいた場所は、確かに少々暮らしにくいところではあった。
ジャスミン革命に触発されたデモがあるや、ないや、という話を聞かないでもない。でも、酷い流血の惨事にはとりあえず今のところ繋がっていないようだ。
やっぱり、色々ある。
同じ大陸だけど、全然違うよな。リビアの件で、「アフリカ人傭兵」っていう表現をいろんなメディアで見るけど、あれほど違和感を覚える言葉は他にない。
エジプトの人を十把ひとからげに「エジプト人」と呼ぶ事だってある種乱暴なのに、それってどうよ、と思う。
それはともかく。
帰国にあたって、一緒に仕事をした現地人スタッフが、寄せ書きをして送り出してくれた。
結構、厳しいことを言ったりもしたので、まさかこんな事をしてくれるとは思わなかったが、とても嬉しかった。
「挨拶を」と言われたけど、感動のあまり何を言ってよいかわからなくなった。
「もう、僕は居なくなる。でもプロジェクトはまだ続く。君たちには全部伝えたつもりでいるし、君たち自身でもう全部できる。
このプロジェクトは君たちの助けをまだまだ必要としている。だから、今まで同様、今まで以上に、協力しあってやって欲しい」
みたいな事を言ったような気がする。
チュニジアやエジプトでは、「何もくれない奴等」をウマい事追い出したようだ。
でも、その後はどうなんだろうか?
あの「革命」、と言われる一連の動きが、「何かをくれる新しい別の人」を求めてのものだったとしたら、その「新しい人」はもしかしたら、ただの「新しい独裁者」に変わるだけかもしれない。
追い出したらから、「自動的に新しいものをくれる人が現れる」と思っているのだったら、そんな事はありえないよ。
追い出して、壊した所で安心していたら、多分何も変わらない。もしかすると、前よりずっと悪くなるかもしれない。
これからが、一番大変だ。言ってみれば、何も無いところから、自分たちの力で色々積み上げていかなきゃいけなくなるんだから。
急に色々頭に思い浮かんだので、何かを主張したいわけでもなく、以上、ちょっと雑駁に書いてみた。
こんなことが頭に浮かぶのは、もしかしたら、ちょっとホームシックなのか?などと言う考えが浮かんでしまい、慌てて頭をぐるぐる振ってみる。
「故郷は、遠くにありて思うもの」
とは言うけど、一ヶ月ちょっと再び日本で生活してみて、やっぱり色々この国は過ごしやすいよ。
http://anond.hatelabo.jp/20101219174222
クリスマスカラーの単行本が世にあふれたころ、たしかわたしは理系の女子大生で、
世はバブルで前髪がとびでた眉毛の太い、肩パット入りスーツきたお姉さんをよそ目に
(実験が毎日深夜に及ぶため家族をまたせたくなくて3万円弱のをようやく借りた)を
往復するしかなくて、
かなりネームバリューのある大学生だからできるわりのいい家庭教師アルバイトさえ
土日のあいた時間しかできなくて、ある意味なんだかサラリーマン生活の前借だった。
その私がノルウェイの森を読んで思ったことは、そうちょくちょく人に親切を施しては
セックスなりふれあいで回収できるほどヒマで金余りな大学生が世にいるんだなという呆れみたいなことでした。
私にも統合失調やっちゃった親友がいたけれど、見舞いにさえいけず、
手紙や電話で連絡しようとしたらその子の親にもう出してくれるなといわれた(病状のためにも、だったかも)。
たぶんそれを押して学業ほっぽりだしてたら?
電車代にも困っていたのに無理だとおもうけれど、もし借金する知恵でもあったら、
今度は自分の親にその子が悪役にされ、それはたしかにそのとおりだったろう。
それにわたしには上野ちづこさんふうにいうと1本あれば便利なチンコはついてなかったからそれを利用した慰め方も(壊し方も)できなかった。
で、私はその後めでたく結婚して生まれた娘も2歳のころから活字中毒で3-4歳からひらがなは完全黙読
(お友達いわく「**ちゃんさいしょは本いっぱい読んでくれたけど最近声ださなくてつまらない」)、
小学校に入る前に薬局の「薬」をみて「たのし!」と読んでいた。
その子が五年生の担任と日記で愛読書を告白しあうにいたる。子供は文庫本の「しゃばけ」シリーズを挙げた。
こともあろうに担任はノルウェイの森をあげた。(この人アメリカ文学かぶれのイケメン50歳なんである)
実家にももちろん文庫版のそれがころがっていて、子供は青い鳥文庫といっしょに夏休みにもらってきた。
母こと私が気づいてすぐとりあげて139ページあたり読むともうこりゃダメだと。
短くはあるけれど直子と何したかそこまで正確?に描かなくてよろしいと絶望。
娘11歳の手に取るやいなやの読書は110ページあたりまでだったらしくてぎりぎりセーフ。
とりあげたついでに最後までよんだけれど、ことさらセックスだけが悪いんじゃない。
とにかくそのあともずっと周囲の人/間が自/殺しまくる話だと理解。
指折り数えていたがキヅキもナオコも遊び/人の先輩もその美/人の彼女も「自/殺した」。まるでよほど喪失をかかえたイケ/メン遊び/人主人公かまたはキヅキがそれほどうらやましいみたいじゃないか、そんな主人公も今頃は、無駄な団/塊ジ/ュニアは給料もらいすぎ、キャ/ンプいってダッ/チオー/ブンでも焦がしておけ、俺たちは車も買えないんだっていわれてるころじゃないか。なにがうらやましかろう。
なんというか、主人公は本質的によい人間なんだろうし、価値観は理解できるけど
今も昔も別にすすんで理解してあげたくない。
自分が完全に無駄な食い扶持であるという立場にきずつかない同世代の男は私をいらいらさせる。
まあ当時他にそういう小説がなかったというならそれはそのまま存在すればいいけれど。
私の旧友は紆余曲折あって結婚してネット書店をはじめていてくれた
(文芸部のワープロうちもできなくて私にまかせていた子だし、今もネットは勉強中だといっていたが)。
生きていてくれてありがとう。
追記 クソhatenaキーワードのせいで白字ネタバレ回避が利かなかった。
読んじゃった人ごめん
「一度家に帰ったら出たくないみたい」
しかもその娘、”炊き立てのご飯しか食べない”んだそうで、冷ごはんをチーンなんて考えられないらしいんだとか。だから、毎食ご飯を炊くそう。そのおばさんがパートから帰ってから炊くんだそうな。
この娘の行動はお母さんに目一杯甘えたいというサインだと思うよ。
母親に自分のご飯を炊いてもらう事、ご飯を用意してもらう事が母親と自分を繋ぐ唯一の拠り所と感じてるんじゃないの。
充分に愛情を感じられる事を母親にしてもらわないと、自分からご飯を炊こうとはしない気がするよ。
まずはぎゅっと抱きしめる事から始めないといけないレベル。
それくらい愛情不足。可哀想だなあ。
かといって増田が「お嬢さんは母親からの愛情が足りてないんじゃないですか?」なんて言えるわけないし、いかんともしがたいよねえ。
爺ちゃんは、15年前に65歳で死んだ。その時ばあちゃんは怒っていた。爺ちゃんは大酒飲みでばあちゃんに迷惑をかけてばかりだったけれど、退職してからその悪い癖はだいぶ落ち着いて、しかも人より多く年金がもらえる仕事だったし、退職金も多かったから、やっとこれから夫婦水入らずの穏やかな余生を送れると、婆ちゃんがほっとした矢先だったのだ。爺ちゃんとばあちゃんは喧嘩はよくするけれど、浪花節的にとても仲の良い夫婦で、風呂も毎日一緒に入って背中を流し合っていたそうだ。なのにばあちゃんはイキナリ一人ぼっちになってしまった。ばあちゃんの娘、つまりわたしの母さんはそのときすでに死んでいたし、息子は東京へ行ったまま結婚し、恐ろしい鬼嫁の元、連絡もよこさなかった。そこからばあちゃんは狂い始めた。昔から信心深かったばあちゃんは、毎朝ながながとお念仏をとなえるようになった。お嬢さん育ちのばあちゃんは人を疑うことを知らなかったから、変な健康食品や水晶や絵を買わされた。数年後には立派な家が建つほどあったお金は全部なくなっていた。それからばあちゃんはたくさんの動物を飼い始めた。犬、猫、小鳥、亀。猫は一時期、30匹ほどになっていて、ばあちゃんは毎朝4時に起きてエサやりと掃除をしていた。餌は缶詰と鰹節とご飯をごちゃまぜにしたものだった。ときどきばあちゃん家に遊びに行っても、エサやりが忙しいから帰ってと言われることもあった。わたしの父に金の無心すること数知れず、サラ金にもたくさん借りていて、何度も自己破産をすすめたけれど強情っ張りで言うことを聞かず、それも父がたてかえた。そんなダメすぎるばあちゃんだけれど、なぜか憎めない人の良さがあって、友達はたくさんいて、ばあちゃんに金をあげたり、ご飯を作って持っていってあげたりしてくれていた。というそんなギリギリの生活が15年も続いている。
そして、ペットも大分へって、ばあちゃんも昔ほどの元気がなくなり、もちろん金は年金以外にないという状態の今日このごろ、ばあちゃんが新興宗教にはまった。ばあちゃんの部屋にその宗教の戒律のようなものが書かれた紙が貼られているのを見たときは、少し心配して、その戒律がびっしりと繰り返し書かれたノートを発見したときは凄く心配した。でも、その宗教にはまってから、ばあちゃんはすごく元気になって、目が輝きだしたのだ。いきいきとして楽しそうだ。3人くらいのオバサンが勧誘してきたそうだが、暇なときはあの汚いばあちゃん家に上がって、お茶をのんで愛の話や世界の話をしているそうだ。その宗教をネットで検索してもあまりヒットしないところを見ると、かなり小規模な団体らしい。よくよく考えれば、新興宗教にはまると悪い理由っていうのは、全部ばあちゃんに当てはまらないような気がする。まず、ばあちゃんには毟り取られるような金はもうない。ブラックリスト入りだからどの金貸しも金を貸してくれない。家は持ち家だけど、わたしも父もその家をもらうつもりは毛頭ない。だから資産を毟り取られる心配はない。新興宗教にはまって潰れてしまうと困るような素晴らしい将来も、ばあちゃんにはもうない。あとは死ぬまで年金でほそぼそと数年生きるだけだ。勧誘おばさんたちも、金なし、亭主なし、未来なしらしく、皆やさしくて、ばあちゃんにたかるようなこともなく、たいていは茶菓子をもってきてくれたり、ファミレスや蕎麦屋で奢ってくれたりするらしい。寂しくて、救われたくて、そんな仲間がそっと集まって語り合うのだ。
孫の顔も息子の顔もほとんど見られない、亭主も死んだ金のない独りぼっちの独居老人が、一つの宗教に希望を見出して、誰にも迷惑をかけず、社会の最底辺にある仲間とささやかな茶会をして、生き返ったように目を輝かせている。来世は救われると信じて、毎日一所懸命、戒律を守って、お祈りしている。ばあちゃんに、宗教の原始的姿を見たような気がした。
良いことだと胸を張っては言えないけれど、なんか、それでいいんじゃないかと思う。死ぬまでそっと見守りたい。