はてなキーワード: おざなりとは
PSPの競合相手は実はNDSではなく iPod Touch なのかもしれない。最近 iPod nano を壊してしまい、代わりのMP3プレーヤーとしてPSPを持ち歩いてみて、そう思った。
どちらも写真、動画が見れてウェブブラウズが出来て音楽も聴ける。PSPはそれに加えてゲームができ、ネットラジオが聞けて、最新型ならワンセグを見て録画する事だって出来る。これだけみればPSPの方が iPod Touch よりもよほど高性能だ。
しかしPSPの惜しむべきところは、あくまで自身はゲーム機というところにコンセプトを置きすぎてしまい、本来なら魅力的であるはずのこれらメディアプレーヤーとしての機能を煮詰める事がおざなりになっている点だ。最近になってようやく Sony からパソコンとPSPをデータシンクさせるソフトが出たという怠慢ぶりからしても、この点がよく分かるだろう。
もう一つ惜しむべき点は、もしPSPがNDSとの競争を考えず最初からポータブルメディアプレーヤーという点に的を絞って展開していたなら、 iPod Touch が出てくる前にそれなりの地位を確立できていたであろう事だ。しかし時は遅い。もう iPod Touch は市場に放たれてしまった。
PSPと iPod Touch とのポータブルメディアプレーヤーとしての戦いは、まず間違いなく iPod Touch が勝つだろう。PSPはメディアプレーヤーとしては致命的な容量不足という問題を抱えている。 iPod Touch の容量も十分と言えるものではないが、かたや最大2GBのPSPとエントリーモデルであっても8GBの iPod Touch 。それに加えて、 iPod Touch にはAppleの開発者達が考え抜いたコンセプトに基づいたインターフェイスがある。どちらに分があるかは火を見るより明らかだ。
最後が上手く纏まらないが、頑張ってくれ、PSP。
まずはご結婚、おめでとうございます。
ずっとラブラブでいてくださいね(^^)
そして気持ちわかりますよー。
私は人から色々言われるのが嫌だったんで、恋人がいるとか言って無くて結婚退職するとき、嫌味言われたりひがまれたりして大変でした。
別にただひがんでくれるだけならいいんだけど、私が言ってもいない悪口を言いふらされたり、被害妄想で「あの人は私を嫌ってる」とか言われたりしましたもん。
そういうのも嫌だったんで、結婚することは直前まで伏せておいてくださいって言ったけど、結局退職を5ヶ月ぐらいのばされてバレバレになって、その間に人間関係はめちゃくちゃ。
こっちももうどーでもええわいって思って、おざなりにしていたところもあるけど、女は人の幸せを喜べない人もいますよ。
こういうときに一番しちゃ駄目なのは、周りの言動にいちいち振り回されることですね。数ヶ月は無口な人になったほうがいいと思います。
私はいちいち振り回されて、自虐ネタなら妬まれないかとかやってたら、火に油で「謙虚なところがあなたのいいところだったのに、変わっちゃった」とか言われたし。
あなたはあなたらしくいてください。
それとは別に思ったけど、夫の弟さんが高校生の時から付き合ってて結婚してるんですが、「すごいですよねー。ずっと好きだってことですもんね」って本当に感嘆の意味で言ったのに、嫌な顔をされた気がするのは、嫌味だと思われたんですね(^^;)気を付けます。
・親/親戚一同が誰も喜ばない(年配の人に理解できない)
・社会的立場が向上しない(いわゆる立派な仕事ではない/伝統的ではない)
・儲かるイメージが無い(会社員として稼げない/稼げる人は入社しない)
・優秀な学生がそのまま優秀でいられる可能性が低い(学問が生かせない)
・三流大学や三流学科の卒業生が行く業種(対応する学部や学科が少ない)
・とにかく業界のハバが狭い(建築業なら構造、意匠、建築士から職人まで様々)
・オシャレじゃない、カワイクない、わかんなーい(女性に人気無けりゃ、男も)
・業界を調べてもネガティブイメージ情報しかない(OBすら誘わない)
・モテそうも無い、得する要素も無い、見栄もはれない、自慢もできない
同人誌に関心をある方なら10月中旬以降にこの話を聞かなかった人は少ないでしょう。要約しますと、「なんらかの理由」により都の会場運営側が特定の成人向け同人誌即売会の内容について問題を感じて、それ以降会場を提供するのを取り止めました。しかしその後、事の顛末が新聞で「都施設」「ポルノ漫画即売会」「過去6回開催」などという見出しで公表されてしまい、問題は一気に悪化。それまでは特定の同人誌即売会を廻る問題だったのですが、「ポルノ」等と言った表現が振りまわれた結果「不謹慎な都の公共設備の運用は不適当」というような考え方を匂わせるような基準で各種の成人向けイベントへの風当たりが一気に悪くなり、いくつかのイベントは即売会主催者側の判断の元でサークル側に自粛を促がすかの如くの語調やイベント自体の形態を変化させたり、はたまた開催を取り止める例まで発生してしまいました。
基本的にはどのイベントも「法令に準じた出版物以外を禁止」や「未成年者に対する配慮を気をつけて下さい」と予めに注意事項に書き記していましたが、「ポルノ」とかの単語が軽はずみに振り回せれた結果、特定のイベントに対して非常に厳しい眼差しが内外から向けられ、これが多大な影響を起こしたと言えるのではないでしょうか。
法令に準じているかどうこうではなく、同人誌の中に社会悪と結び付けられる「ポルノ」があるというのが一人歩きしたが為にさらに状況は悪化したといえるのでしょう。事実その後に都の会場運営側も「成人向けの作品の販売自体を禁止するわけではないが、主催者側に法令順守の徹底を求めていく」と談話を新聞に載せているわけですから、同人誌の内容がどうこうというより「世論を意識した反射神経的行動」が色々目立った事の顛末という印象がぬぐいきれません。
主催者側も会場運営側もより多くの話し合いを進め、相互理解を深めることで必要以上に状況を悪化させないようにする必要があると思います。信頼関係がしっかりしていれば、外因性の迷惑や干渉が発生しても適時に冷静にそれに対応できるのではないでしょうか。一夜にしてこれが成り立つとは思っていませんし、このようなノウハウは簡単に取得できるものではないのも充分わかりますが、今回の事件の悲劇を繰り返させない為にも念頭に入れないと駄目ではないかと思います。
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自分は20年近く同人誌を見てきているのですが、とにかく悲しかったのが、こういった隙間的イベントに作品の発表と交流の場を依存していたサークル活動へのひどい逆風となってしまったことです。
大きな同人誌即売会でも様々な活動は可能ですし、ネットでの交流も現在のところ可能です。しかし隙間的イベントにはそれ自体に大きな魅力もあるのです。大きなイベントではやりとりが難しくなりますし、なによりもまったりとした交流はほぼ不可能です。物理的同じ場所にいることで成り立つ対話や新たな作品との偶発的な出会いはネットでの交流とは異なります。どちらが良いという話ではなく、オンライン・オフライン、両方の交流が大事なのです。
そもそもこう言った隙間的イベントにおける創作活動はその他の表現の発表の場ではどうにも目立ちにくく、埋もれがちになりやすい側面があります。同人誌委託販売書店において先鋭的な作品は取扱にくいこともある現状がありますから、小規模オンリーイベントには他では日の目を見ない作品の為に発表の場を提供すると言うはっきりとした意義があります。
「少女に対する性行為や猟奇的な描写などを売り物にしたコミック」が販売されていると新聞で書き叩かれた件のイベントでも女性サークルさんも結構の数が参加していて、やおいとかショタとかの区分けとは別の個性的な女性らしい作品が見れる数少ない場所の一つでした。「過激すぎたから叩かれたのだ」と言うのは簡単ですが、その乱暴な思考の元で様々な貴重な芽が潰されていくのも事実だと私は信じて止みません。
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しかし今回の一件を振り返って思うことの一つは現在の同人誌に携わっている方々はどこまで「ニッチ(少数派・特殊趣向)である事の覚悟」の必要性を自覚しているのだろうかという事です。
今回は美少女系男性向け創作が槍玉に挙げられましたが、実際には「パロディ」も「やおい」も「同人誌と言う概念」自体もまだまだ世間一般では広く認知されているわけではなく、非寛容な意見の元で吊るし上げが行なわれないという可能性は否定できません。『電車男』やアキバ系という単語がマスコミの間でもてはやされる最中において、なかなか気付きにくいかもしれません。しかしマスコミを通して焦点を当てられている「萌え」の概念とその取扱については日本国内の中でかなりの隔たりがあるということです。要は明日は我が身にも、と言う可能性があると言う事です。
しかし同時にもし自分たちの趣向が特殊でありことを認識し、それをより確実に守る姿勢を打ち出せれば、今回の事態もこれほど悪化しなかったのではないかと頭を傾げます。内容がどうこうではなく、その内容はどうすればより拒絶反応を避けられるような形態で守るのかを可能にする姿勢です。
そもそも16年前、1991年2月25日の新聞の見出しに「大手含む書店摘発:わいせつ漫画の販売容疑」や「正規のルートに乗っていない本」と書き立てられ、日本の成年向け同人誌は非常に苛烈な冬の時代を味わった過去があります。その時にもはっきりした事は、規模が大きくなるにつれ少数の間で楽しんでいた物事がより厳密に公然と精査されるようになり、異なる基準が衝突する時、重大トラブルが発生しやすいという事ではないでしょうか。
あの時の教訓や同人誌の立ち位置を廻る議論が現在おざなりになっているのではないか、と感じて禁じ得ません。
古来同人誌は私的領域の延長線上にあり、同じ趣向の人間同士でやりとりするのが基礎でした。だから「同人誌」だったのです。しかし同人誌書店の台頭とインターネットの登場によって私的領域と公的領域の交叉が激しくなり、棲み分けが以前のように機能しなくなったのではないでしょうか。そもそも現在において同人誌と商業誌の棲み分けの概念を意識の議論が希薄になっているのではないかと危惧します。これはこの両者間の問題だけではなく、同人誌創作者やそれに携わる方々の「覚悟」に影響することと思います。
なぜその作品を同人誌で送り出すのか。何のために同人誌活動を続けるのか。これらはそれぞれ自分で答えを見つけなければいけないと思います。一番怖いことは周りの流れに身を任せるままに居るといつのまにか自分では対処できない状況になりかねないと言う事を意識する必要があると思います。
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最後に自分にとってもっとも大事なことは、規制の対象だからといってそれを「悪」とは限らない事です。創作物を「害悪」と決め付けるのは人間です。人間の主観によって成り立つ価値判断であり、絶対ではないのです。これから先、何があろうともそれだけは忘れずにいたいものです。
本物が本物であるためには本物であるという証明をしなければならない。そうでなければ、例え本物であっても本物だと判断することができない。偽物は自らが偽物であることを自覚しているゆえに、本物であるという証明に力を入れる。本物はおざなりになる。ゆえに偽物の方が本物より本物らしく見えるようになり、偽物に騙されやすくなる。また、精巧な偽物は騙されたことにすら気付かせないのかもしれない。
本物は自身が本物であることを悟られずとも内に秘めた価値を失わぬから、自らを本物であると標榜する必要がない。自身の存在がそのまま価値となる。目の前の包丁は自らの肩書きに関わらずネギを切ることができる。だからこそ、その包丁には価値がある。私の台所ではネギの切れぬ包丁に価値は無い。だから包丁ブランドの証明書など、私には必要ない。使ってみれば分かる。
偽物は本物とは違うが本物を名乗る。そこに隠された意図とは、粗悪品をさばくための口実に過ぎない。偽物が本物よりも高品質である場合があるかもしれない。その場合においてさえ、偽物はあくまでも偽物であり、本物にはなれない。豚肉のハンバーグがどれだけ美味しくても、牛肉のハンバーグにはなれない。
本物は一種の宗教であり、自身の本質ではない。本質の価値が低ければ本物の価値も低い。どのような名工が打ち出した包丁であろうとも、ネギが満足に切れないのであれば私の台所では価値が無い。
ほっとけばいい。若しくはおざなりに止めて、相手が悪いといえばいい。
場合2:別に本当に仕事をやめたいわけではない
本気で止めればいい。上司の名前でも何でも使えばいいじゃねーか。
ま、頑張ってくれ。
ふと思ったんだが、
毎日ブドウパンとかカップラーメンとかそこまで偏ってると、栄養も偏ってくるよな。
なんていうか…エネルギーは基本的に食物から摂取してるわけじゃん。
それがおざなりになっちゃったら、ある一定の栄養だけ全然数年とってないとか、脳に必要な糖分も足りてないとか、そういう事になると、もうそれは細胞レベルで、頭が働かなくなったり、体力が低下しちゃったり、するわけじゃん。
だから食事偏ってる人が、仕事が出来たりするっていうとなんかすげえ不思議な気持ちになるんだよね。そんなの有り得るの?みたいな。うまく言い表しづらいんだけど。
http://anond.hatelabo.jp/20070829100649の続き。
何だかえらい数のブックマークが付いていて驚いた。色々なコメントを頂いたが、どれも面白かった。それを読みながら考えたことがあるので、蛇足だろうけど少し書いてみる。
もし仮に、私が高校生のときに自分自身の文章を読んだとして、今の自分よりも賢い人生を送れる自信は無い。むしろ、軽く聞き流して忘れてしまう可能性のほうが高いように思う。自分がハーバード?MIT?寝言にしたって恥ずかしいくらい現実味の無い話だ。別世間の苦労話を聞かされたところで、せいぜい世の中広いのねと思うくらいのものだろう。
実のところ、似たような話をしたのはこれが初めてではない。大学生に話したことも何度かある。留学を既に考えている学生には大いにウケたが、そうでない学生からの反応は薄かった。特に複数の学生に同時に話した時には大概うまくいかなかった。誰かが「すごいけど俺には無理っすよ」と言うと、あっという間にその空気がグループ全体に伝播していく。「俺たちには無理ですよ」という言葉を使った奴すらいた。恐らく、仲間からの賛同の言葉を待っている。多分無意識のうちに。それは仲間関係の確認であると同時に、自分のいる階級の自己修復でもある。それが社会に縛られると言うことでもある。このセリフが出たらもう手遅れだ。彼らはもう意識のなかでこちらの話を「あり得べき現実として想像すべくも無い別世界のエピソード」として切り離してしまっている。何を話しても、それはエンターテインメント以上にはならない。それでも情報が頭の片隅に残る分だけ、まだマシだろうと思ってしゃべるのだが。
前のエントリーで、先生の言葉で普通科から国立大に進んだ話にTBを送った。これは半ば確信を持って言うのだが、この先生は他にも何人もの生徒に大学進学を勧め、そしてその大半からあっさりと断られていると思う。「大学に行ってもしょうがない」「息子をそんなところに行かせても遊びほうけるだけだから」「別に俺も大学でやりたいことなんてねーし」。上では友人の間で行われた「階級の再確認」が、ここでは親子の間で行われていく。大学に行くと言うことを想像できないのだからしょうがない。後はその「大学に行くなんてあり得ない」という気分を補強する言い訳を見つけてくるだけだ。この世の中、大学に行くメリットもデメリットも、情報は腐るほど供給されているが、もうデメリットの部分にしか目が行かなくなる。私が本屋で留学ガイドをあっさりとスルーしたのと何も変わらない。そういえば私も「留学なんて、暇と金があっておつむの弱い女子大生が語学留学に行ってるだけでしょ」とか思っていた。
結局、私が何がしかの想像力を身につけられたのは、就職して「留学なんて当たり前」と言う空気に触れてからだった。留学経験がある上司も後輩も、それが特に話題にならないほどたくさんいた。そして彼らはもちろんみな優秀だったが、目がふたつ、鼻の穴もふたつある普通の人間だったし、能力的にも絶望的な差があるとまでは感じなかった。私が留学の可能性というちっぽけな「想像力」を手に入れるためには、そんなイニシエーションが必要だった。(もちろん、そこまでのイニシエーションを必要としない人もたくさんいるのだろうが。そういう人は素直に尊敬する。)
世の中には社会が無数にあって、その中で人々は想像力を縛りあっている。仲の良い友達、子供思いの親、そんな全てが想像力を縛る。私にはそれこそ想像も付かないが、親が両方ノーベル賞を取っていたり、親が両方プロのアスリートだったりすれば、また別の方向に想像力は縛られていくだろう(それが幸せなことかどうかは知らない)。プロのピアニストとか、そういう縛りがないと辿り着けない世界だってある。その想像力の縛りが格差となって現れることは前回書いた(というか、この人が書いた)。だから、世の中には格差が無数に存在する。それに、この格差が上流から下流まできれいに並んでいるわけじゃない。ピアニストを親に持ち、4歳から英才教育を受けた子供に、もし天賦の才能が欠けていたとしたら、その子供は必ずしも幸せとはいえない。普通に受験していたら高給取りになれたかもしれないのに(その頃には、本人自身そういう生き方に興味を持たない育ち方をしているだろうが)。
そうして生まれる格差のほとんどは「社会問題」としては認知されない。イェールの学生がハーバードに対して感じた格差は救済の対象にはならないし、私の知った格差を救済してほしいなどと考えたことも無い。ブックマークのコメントにもあったが、救済の対象になる格差は低所得者との間に存在する格差だけだ。つまり、最近盛り上がっている議論は「格差」についての議論じゃない。皆が議論しているのは「貧困」だ(貧困を相対的なものと捉えるならば、これは「低所得者と中産階級間に存在する所得格差」と同義となるが)。ブックマークのコメントで「今の議論とは関係ない気がする」というコメントがいくつかあったが、これは私が「格差」という言葉を一般的な定義で使ったのに対し、多くの議論では貧困の同義語(より狭義の格差)として使っているからだ。
「それなら関係ない話にTBするな」と言われそうだが、それでも前のエントリーを書いたのは、想像力の縛りが格差を生む、というメカニズム自体は貧困の話にもそのまま使えると思ったからだ(貧困は格差の一種と考えるなら、当然そうなる。ただし、所得格差の一部は想像力とは関係なく発生するが)。貧乏人は合理的じゃないかもしれない、という記事をこの文脈で考えてみてもいい。それなら、貧困ではないけれど格差に直面して得た経験と自分なりの結論は、ある程度の普遍性を持っているかもしれない。そう考えたからあのエントリーを書いた。もちろん、救済の対象にはならない様々な格差(特に、留学に関する格差)に直面している人たちにも届けたかった。役に立つかどうかは分からない。それは個々の読み手に判断してもらいたい。
====================以下、想像力とは関係ない話============================
ブックマークに付いたコメントはどれも面白かったし、納得できるものも多かった。ただ、『個々人の人生のサバイバル術と社会問題をまぜるな』というコメントに賛同が多かったのは気になった。私は個々人の生き方は周りの社会の在り様にどうしても左右されてしまうと信じている。それは個々人のレベルではどうしようもない。だからその中でベストを尽くすしかないと書いた。だからそれを持って「混ぜている」と言われているのなら、そうですか、としか言えない(何が悪いのか分からない)。
どうもよく分からないので、同じ人の書いたエントリーを読むと、大上段の議論をしていない(否定しているかのように見える?)のが問題視されているようにも見える。だが、むしろ、議論の視点として『個々人の人生のサバイバル術と社会問題をまぜるな』というのは、私が他のいくつかのエントリーを見たときに感じたことでもある。
個々の例からは個々の含意しか得られない。私が先週下痢で苦しんでいたのは、私と診てもらったお医者さんにとっては問題だが、社会問題じゃない。でも、もし市内の住民の3割が同時に下痢になったら、それは社会問題だ。市役所が税金を使って防疫したり、隔離したり、予防措置をとったりすることになる。このふたつは全く次元が違う。私個人の下痢についての経験から「あの果物は日本人には合わないから止めておけ」とは言える。けど、市役所のワクチン投与プログラムの策定について私の下痢は何も語らない。だから、私個人の経験談によって成り立つ話は、「問題のある社会に住む個人の生き方」以外の結論にはたどり着かない。大上段の話には繋がりようが無い。
むしろ私は、個々の「不幸な話」を持ってきて、そこから「格差社会」を語ってしまうケースが多いことの方が気になる。もし社会を語るのであれば、少なくとも特定の「不幸な話」がその社会である程度の普遍性を持っていることを示すべきだ。それから、救済の対象が特定の個人なのか社会なのかもはっきりとさせた方がいい。格差社会を解消しようとする試みが、冒頭の特定の不幸な人の救済につながるとは限らないからだ。前の例でいけば、もし住民の3割が罹患したのがたちの悪い伝染病なら、市役所がすべきことは患者を一箇所に隔離してそれ以上の伝染を抑えることだ。その結果、隔離された患者は孤独のうちに死んでいくかもしれない。患者を救うことと社会を救うことは違う。
両方を同時に救うことが可能だと言う前提に立つのなら、個々の議論と社会の議論を混ぜてもかまわない。ただ、そう主張するなら、それなりに丁寧で具体的な説明が求められると思う。そうでないのなら、大上段の議論の根幹に経験談を持ってくるのは余りお勧めできない(あくまでも一例に過ぎないことを明示しないと議論がずれやすい。統計とかを使ったほうが議論としては分かりやすくなると思う)。
その辺りのフレームワークをおざなりにしたまま議論をしようとしても、「世の中にはかわいそうな人たちがいる」「この社会が間違ってる」と悲憤慷慨する以上には議論が進展しない気がする。
全体的な趣旨には同意。僕も悪くはない大学に行っていたころ同じような印象を持ったことがある。酒の席で空気を読まずに小難しい話をするとかだったらそれはただの馬鹿だと思うけど、大筋では間違っていないと思う。
しかし、
「教科の勉強で身に付かないものを持っているやつだっているのだから、学歴で人を差別してほしくない。個性豊かなやつはどこにだっている」とよく言われるが、そもそも教科の勉強すらできない、物事を考える上での基礎的な知識すらあやふやな人間のどこに個性やオリジナリティが存在するのだろうか?それとも飲み会で下らないアルファベット列を考えるのが「個性」なのだろうか?学歴は人の精神性をも示してしまうのではないか、と強く感じるのであった。
「教科の勉強で身に付かないものを持っているやつ」というのは、割合としてはかなり少ない。つまり極端な例外だ。例外に対して「教科の勉強すらできない、物事を考える上での基礎的な知識すらあやふや」という一般的な認識を持ち出すのはどう考えてもおかしい。たとえば絵を描くのが好きで学校の勉強がおざなりになって、気付いたらかなり若いうちにコミュニケーション能力も低下してしまって、学校というシステムそのものに馴染めなくなってしまった絵描きさんは、いい大学、下手すると学校そのものに行かないまま「教科の勉強で身に付かないものを持っている」可能性が高いけれど、こういった例外に対して何故「教科の勉強」を持ち出すの? それともそういった例外的な絵描きさんは普通の学校に行っていた方が「教科の勉強で身につかない」「個性やオリジナリティ」に繋がる「物事を考える上で基礎的な知識」を獲得することができたの? もちろん美大に進むなりして専門性の高い能力を獲得する方がいい場合も多いけれど、例外の話をしてる時にそんな一般的な話をすることには何の意味もないよね。ましてそこから「飲み会で下らないアルファベット列を考える」ような一般的な知的脱落者の話を持ち出す理由もわからない。繰り返し言うけど君はこの段落の最初に例外の話題を持ち出してるんだよ。
それと、僕はプログラマーで、僕のいる会社には情報処理推進機構という独立行政法人から「天才プログラマー」として認定されている人もいるんだけど、そういった人たちは「能力を獲得するためには、学校の勉強のうち必要なものは当たり前にやっておく必要があるけど、それは独学でも当たり前に学んでおかなければならないようなことだから別に学校で勉強する必要はない。そんなものは誰に教わらなくても自分でできないといけない」と言う。僕は彼らほど凄くないけどこの意見には同意だよ。もちろん持つ能力の平均値が高い人になる場合ではなくて、「今日の勉強で身につかないものを持っている」ような「個性やオリジナリティ」のある例外的な人になる場合の話だけど。
これが理解できていない時点で、君は恐らく独自の能力を身につけるに至っていない段階なんじゃないかな。「守破離」という概念があるんだ。物事を成す最初の段階では人から教わることを「守」ってきちんと基礎を固め、それを「破」って自分に合った形を探し、独自の道へと「離」れていく。たとえばプログラマーの場合、東工大や東大の学部程度で教えている情報処理技術のうち大半のことを修得してしまっている高校生優れた教育を行う大学で情報処理を学んでいる学部生と比べ、情報処理に関してそれほど遜色の無い理解を持っている高校生が極々稀に存在するんだけど、そういった例外が大学に行く必要性はどこにあるのかな。メリットはあるけど、絶対に行った方がいいというわけではないよね。これがわかってないから、君は学校に行かないまま例外的に固有の能力を獲得した人の存在を想像することができていない。
追記。「たとえばプログラマーの場合、東工大や東大の学部程度で教えている情報処理技術のうち大半のことを修得してしまっている高校生」と書きましたが、これは意味も無く馬鹿みたいに大袈裟に書いてしまっており、指摘も受けてしまいました。すみません。「優れた教育を行う大学で情報処理を学んでいる学部生と比べ、情報処理に関してそれほど遜色の無い理解を持っている高校生」と置き換えておきました。
元増田は賛意しか求めていない、と言い切ってるけど、同意的であれば問題ないと思う。というか普通に考えて、「あ、そうなんですか?知りませんでした。すごいですね」ばっかり言ってる人間はバカっぽく見えて損だし(会社では)、「お前これ前も言ったよ」ということもままある。相手を侮ってることは自分が思う以上に表に表れるし、そもそも「すごいですね」という言葉を嫌味にならぬよう、おざなりにならぬよう、さぞ真意がこもっているように発せられるのであれば、その人はその仕事をやめて俳優にでもなった方がいい(極論)。
先輩との会話では相手の主張を否定さえしなければ、基本的にはOKだと私は思う。あとは相手との関係によって変わってくるけど、同意を示す、同じような経験をしていることが分る、共感、というのは仲良くなるひとつのきっかけに成り得る。そもそも安いお世辞ばかり言われる会話は言われる方からしてもいたたまれないし、「そうなんですかー」しか言わない後輩には自然に話しかけなくなる。ファービーのがもう少し語彙がある。
ちなみに「わかんないでーす」という女性は、物凄く上手くやると同性からも異性からも可愛がられるが、まあそれなりにうまくだと一部の異性と一部の同性から好かれてあとは蛇蝎の如く忌み嫌われ、失敗すると全員から死ねとただひたすら願われる羽目になる。自分にあまり自信のない人にはオススメしない。
「わたしは究極のところ、ただ一つの境界線しか認めません。すなわち、よい芸術か悪い芸術かということです。ところが、当人の政治的態度になんら非難すべきところがない場合でも、ユダヤ人と非ユダヤ人の間に、理論的に仮借なき厳格さで境界線が引かれているのに対し、われわれの音楽活動にとって長い目で見れば極めて重要な、いや、決定的と言ってもいいもう一つの境界線、つまりよい芸術か悪い芸術か、があまりにもおざなりにされているのです」、それは「文化活動の利益になりません」。
「あなたが自己を芸術家として感じ、ものごとを徹頭徹尾、芸術家の見地からごらんになるのはあなたの勝手です。しかしだからといって、今ドイツで起こっている全体の進展に、あなたが非政治的態度で臨んでよいということにはなりません。政治もまた芸術であり、おそらく最高の、もっと包括的な芸術であります。芸術と芸術家の使命とは、ただ単に結びあわせるだけでなく、さらにそれを越えて形成し、形を与え、病んだものを取り除き、健康なものに道を拓いてやることなのです。したがってわたしはドイツの芸術家として、あなたが認めようとなさる境界線…つまりよい芸術か悪い芸術か……だけを承認するというわけにはまいりません。芸術はよくなくてはならないばかりか、民族に適しているという条件をみたしていなければならないのです」。
読書中毒なのかも知れない。
本を読みたくて会話おざなりになったり、約束すっぽかしたりしまくってる。
昔もヤバかったけど……何とか本から逃げられたと思ったのに、また戻って来ちゃった。
読むから悲しくなるのに、読むからやるせない想いを抱くのに……読みたくて読みたくて、ページをめくる手を止められない。そして、辛いのに、その辛い想いごと忘れてしまうのが恐くて、いつか幸せな結末が訪れるんじゃないかという気がして、何度も読み直して読み直して、変わらない結末に、もっともっと悲しくなる。
そう悲劇。悲劇を求めてる、渇望してる。なのにもう辛い思いは抱きたくないよ。大団円を見たいのに。
あ、そうじゃなかった。こんなのはどうでもいいんだ。
本は魔物、いちどハマってしまうと、たとえ一時的にやめられたとしても、ふとした拍子に再びはまり込んでしまう。創造を想像する快楽に。そして本にはまればはまる程、その物語に心動かされる程、現実は色褪せて、心はあちら側に引きずり込まれていってしまう。どうしよう、そこにあるのは抜け殻。
「日本で最も大きな都市のうちのひとつ」。日本語として、まったく矛盾した文章である。「最も」とは、"一"番程度が上であることを言うのに、複数ありそうな訳になってしまう。「『ベスト10』というのと同じようなものだからいいのだ」と説明を受けたが、腑に落ちなかった。
二葉亭四迷は「I LOVE YOU」を「あなたとなら死んでもいい。」と訳した。という文章を読んで奥歯がガタガタ言うくらいのショックを受けた。と同時に胸が苦しくなってドキドキがしばらく止まらなくなった。http://crash-log.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_c727.html
"I love you."は、逐語訳すれば、言うまでもなく「私はあなたを愛している」となる。しかしそれを、かの二葉亭四迷は「あなたとなら死んでもいい」と訳したという。つまり、日本人はそのような文脈では「私はあなたを愛している」などとは言わないということ。
自分も昔からそういうことは考えていて、例えば、"Take it easy!"は、日本人の感覚では、このような励ますシーンでは、「気楽にな!」というよりも「がんばれ!」の方がしっくり来る気がする。しかし、四迷のすごいのは、「愛を伝える表現」からは想像もつかない、「死んでもいい」という、日本人の情緒にしっくりくるような表現を見つけ、当てはめたところにある。自分じゃあ「大好き!」くらいが限界である。訳すということは、このように、文化的なバックグラウンドを含めて行うべきであって、四迷のセンスには敬意を表する。高校時代の英語教師も言っていた、「英語を勉強するということは日本語を勉強することだ」、逐語訳ではなく、逐語訳の意味から本当に言いたいことを日本語の文脈で紡ぎ出しなさい、と。
日本の英語教育は、中学校から始まる。その主眼はコミュニケーションに置いているようだ(http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301c/990301i.htm)。高校でも同様だ。しかしながら、全入時代の到来した大学入試で問われる英語は、コミュニケーションとは掛け離れた、読解能力や文法の記憶を試すものである。いきおい、受験対策としてはコミュニケーションはおざなりになる。
だが、そんな対立軸ではなく、どうせどちらも両立することなぞ不可能なのであるから、日本語の文脈として捉えることの重要性を、もっと認識すべきだ。「日本で最も大きな都市のうちのひとつ」ではなく、「日本でも指折りの規模の都市」と訳せる能力を身に付けさせるべきだ。そうすれば、日本語の、という意味での「コミュニケーション力」(文章力)が高まるのではないだろうか。