はてなキーワード: あずまんが大王とは
先駆けとして名前の挙がってる『あずまんが大王』は読んだことあるけど、あれはなんというか、「現実的日常を装ったファンタジー」だったな
最初に言っておくが、私は『けいおん!』が好きではない。だって、ほら、目が怖いじゃん?なんか変じゃん。特に2期の後半OPが怖い。5人が並んでこっちに手を振ってるシーン。あれやばいよ。死んだ魚のような目ってレベルじゃねぇよ。ボケーっと見てたら気が付かないけど、目だけに集中してみ。ほらね、怖い。ありゃホラーだよ。
という話を信者(笑)に話したら「デフォルメ可愛いだろうがっ!」と見事な模範解答を頂きました。もうね、アホかと。馬鹿かと。いや、あんた、デフォルメ絵ってのは何でも可愛いんだよ。『ひだまりスケッチ』のへちょ絵とか、『しゃくがんのシャナたん』とか。
そんなホラーアニメの話はさておき、先日放送が始まった『日常』だけど、これまた京アニ作品。こいつがやばい。何がやばいのかっていうと、目がやばい。
どこかで見たことあるような目。そう、『あずまんが大王』とか『苺ましまろ』の目だ。両者に共通する点は売れたってこと。そりゃそうさ、目が生き生きしてるからな。これらの作品に比べて『けいおん!』の目は・・・なんだ?二次元を馬鹿にしてるのか?
だから宣言しておくわ。『日常』は売れる。そもそもギャグアニメってのは概して人気が出やすいもんなんだよ。100人いたら70人はギャグアニメを評価するんだよ。
こんなに目の重要性を語っても、けいおんの豚共は「あずにゃんペロペロ〜」と叫び、暴れ出し、聞く耳持たずだ。まあお前らド素人は、山内重保の目でも観てなさいってこった。
2010年も終わりに近づいてきている。誰もやってないようなので、過去10年のアニメシーンの歴史を総括的にまとめてみた。
まずは、「日常系」「萌え系」の定着・発展が00年代においては欠かせない潮流だった。それは90年代にもないことはなかったが、2002年の「あずまんが大王」のヒットでその流れが決定的となった。
それと共鳴するかのように進行したのがアニメにおける男の排除だった。「マリア様がみてる」(2004年)、「けいおん!」(2009年)など。「学園モノ」、「日常生活」ときたら、登場人物は「女だけ」というのが一つの定番になったのが00年代だった。
一方で、宇宙とか、巨大メカといったSF的要素は衰退した。これは俺が以前にも書いた(例えば、http://anond.hatelabo.jp/20100923234530、http://anond.hatelabo.jp/20100925223605)。90年代末期に限っても「無限のリヴァイアス」(1999年)とか、「カウボーイビバップ」(1998年)とか、このジャンルで話題になった新作アニメは多かった。しかし00年代はこのジャンルでの新作アニメのヒットは数少なく、「ガンダム」とか「マクロス」の続編とか、ほとんど定番モノの続編ばかり出るJRPG業界のような状況になっている。
だから「未来人も、宇宙人も、超能力者もいない、あるのは淡々と続く日常だけ」(本当はいるのだが)という世界を描いた、「涼宮ハルヒの憂鬱」(2006年)の爆発的ヒットは象徴的というか、ほとんど時代の要請だったと言えるかもしれない。
90年代後半から2000年代初頭にかけて定着したのが「深夜時間帯のアニメ」だった。深夜時間帯ということと、ターゲットがマニア向けに特定されているということでこ、これまではありあえなかったジャンルからもテレビアニメ化がされるようになった。それが、「AIR」(2005年)、「君が望む永遠」(2003年)、「ひぐらしのなく頃に」(2006年)などエロゲーや同人ゲー発のアニメである。
萌え系の定着と並んで、00年代のもうひとつの巨大な変化は、「インターネットで見る」習慣の定着だった。動画共有サイトYouTubeの台頭は、これまで数十年続いてきた日本人のアニメ視聴のスタイルを抜本的に変えてしまった。「らき☆すた」(2007年)も、ニコニコ動画に“違法に”アップロードされなければこれほどまでにヒットしなかったのかもしれない。「らき☆すた」本編にも、ニコニコ動画での反応を取り入れたかのような演出が入ることもあった。
インターネット視聴の定着は、ネットで話題になったアニメはワンクリックで見れるという手軽さから、オタクのライト化を促進させた。その一方で違法の動画流出が横行し、1990年代まで隆盛を誇っていたOVAというジャンルを衰退させる一因となった。
自分なりの整理としてはこんな感じ(キッズ向けは専門外なのでご指摘を仰ぎたい)。
2011年以降は、さて私たちにどんな変化を見せてくれるか。
http://twitter.com/#!/zaway
あずまんが大王では、卒業式も終わったあとに、よみの合格発表を見に行って、合格を確認し、
それからともが「遊びにいくかー」と言い、それを受けてちよが「そっか、卒業してもみんな一緒だ」と言って終わる。
「毎日あえなくても、それでも友達でなくなるわけじゃない」ということだろう。
これはハッピーエンドととらえた人が多いだろう。
ここで、あまりジャンル的な関連はないが、秒速5センチメートルを思い起こしたい。
この物語は、距離に引き裂かれて結局別れ別れになる恋人同士を描いている。
「近くに居ないということで、関係が駄目になってしまうことがある」ということだろう。
これはバッドエンドである。
一見、あずまんが大王と秒速5センチメートルは別々のメッセージを発しているように見える。
だが、ゆかり先生のこのセリフで、そうではないことがはっきりとわかる。
ちよの「もう毎日みんなと会えなくなるんですね・・・」を受けての「まぁそんだけの事だ あんたらは大丈夫だろ」というセリフである。
つまり、大丈夫な関係と大丈夫でない関係がある、ということだろう。
何が違ったのだろうか。
もちろん、男女どうしであるとか、恋愛関係にあるとか、2人か複数人かとか、
卒業か転校かとか、別れが小学校か高校か、とかいろいろあるだろう。
しかし、それら個々の要因について分析するのはここではやめておく。
重要なのは、「ちよたちは大丈夫だった。遠野貴樹と篠原明里は駄目だった。では、放課後ティータイムはどうだろうか?」ということである。
正直言うと、全員が同じ大学に進むという展開に対して、わたしも似たような感想を抱いた。
彼女たちには自分が勝手に正しいと信じている価値観を体現してほしいと思ったからだというのもわかっていた。
だから、私は古い人間だなぁ、と自分をすこし笑っただけであり、
このように作品自信をけなして自分を正当化しようとするバカがいるとは思わなかった。
それにしてもこれはひどい。これで何かを主張した気になれるものなのだな。
けいおんがあるから悪いんじゃなく、けいおんが求められてしまう社会が悪い。けいおんへの嫌悪はむしろ社会にむけるべき。
けいおんというモルヒネが求められるほど、いまの社会が病んでる
病治せないのにモルヒネは取り上げられん。その後に責任持てないし。
このジャンルでやるべきことは、あずまんが大王の「そっか、卒業してもみんな一緒だ」ですでに語られているし。期待なんて最初からない。
トマス=モアの作ったユートピアという概念は、ギリシア語で「すばらしく良いがどこにもない場所」の意。けいおんの世界はまさしくユートピア。それは天国や極楽へ通じる思想。誰かが言った。天国には死人しかいないと。
正直、高年齢向けアニメがどんな傾向に走ろうとどうでもいい。児童向け作品が「試練」に挑むことや「成長」する事を放棄しない限りは希望を捨てる必要はない
私はね、マイマイ新子における「笑顔の別れ」を見た時点で、けいおんは見なくてよしと思ってたよ。だって、出来るわけないと最初から思っていたから。
今へのの批判はそれでも結構、
しかしそれではどうするかの提案が「昔を取り戻せ」「普遍の価値を守れ」という。
ユートピアを主張しているのはどちらなのだろう。
それは本当に「マイマイ新子」という千年を伝える素晴らしい作品のメッセージか?私は違うと思う。
あの作品でそもそも別れやその他の悲惨な現実が笑顔で肯定されるのはなぜなのか?ってね。
作品によっかかってただそれをたたくことを主張と思い込んでるやつが多い一方で、
だから私はこの人たちの主張があまり相手にされない一方で
「蛸壺屋」の作品があれだけ人気になったのはわかる。
東ひろきさんが曲がりなりにも自らの批評を仲間内に閉じた駄サイクルの中に閉じ込めておくのではなく
ちゃんと外に広げていこうとしたり、ついに小説という形で一般的な表現に近づけようとしたのも
すごく格好いいことだと思う。
というわけでアニオタ保守さんたちは他人を批判するより前に自分たちの立ち位置や方向性をもう少し意識してほしい。
以上の内容を一行でまとめると。
「保守」についてちゃんとべんきょうしてから保守を名乗れ。おまえらのはただの年寄りのわがまま。
で終わり。
(参考)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100417/p1
これって、ちょっと読んだ感じでは「成長を信じている」んですよね・・・・それが、僕には違和感。
『けいおん』とかに代表される今のあたりの日常脱力系のコアの部分は「そもそも成長は信じられないし、そんなものいらないんじゃない?」という等身大脱力系の価値観だと僕は思います。この世界に来ている人は、、、たぶん「ムリをしない」連中なんだと思うんですよねー。過剰なことを求めない。
(中略)
このへんの自己評価の低さや心の非充実感は、なんというかな・・・それは、人間が生きていく上で、かなりの人々にとってデフォルト(=前提)なんだけれども、「そればかり惑わされる」とのは、いまの時代では違うでしょう?
(中略)
団塊のJr以下の世代は、そもそも成長を神聖視して絶対に生きてはいないでしょう?。マクロ的にはね。とすると、僕は何度もいっているんだけれども、「この次」の世界を見たいんだよね。もちろん、人間はそうさ・・・自己評価の低さや「あるべき姿」とのギャップで悶えながらのたうちまわるものだけれども、、、けど、それを「自分とは関係のない世界」にわめき散らしてもどうにもならない、むしろ悪くなるだけって、わかっているでしょう?
過去から流れる今を理解して、十分に味わい、そのうえで次を思う人を格好いいと思う。
いつも時間から離れて「自分の考える最高」というどこにもないものを追い求める人たちは
マイマイ新子という作品の本当のメッセージをを全く理解していないと私は思う。
私が思うに日常系漫画の面白さ=魅力的なキャラ×多彩な舞台(あるいはシチュ)なんだと思うんですよ。
今までのけいおん!って箱庭と揶揄されるアニメ群でも群を抜いて箱庭度が高かったと思うの。極端な話し、学校と、楽器店と、唯の家とムギの別荘だけで物語が作られていた。
だけど、私の好きなARIAはまさにネオ・ヴェネチア全体が舞台だし、時々不思議世界に行っちゃうこともあるのですが、この不思議世界というのは別にARIAだけに限らず、「GA」でも「あずまんが大王」でも「それ街」や「ちびまる子ちゃん」でもあり以外と日常系ではポピュラーな話しなのです。もっとも不思議世界展開をやれば面白くなるという訳じゃないでしょうが、前述の多彩な舞台の確保には役に立つのだと思います。
それか、「ワーキン」か「マリみて」みたくラブコメ要素を入れるか。「マリみて」がラブコメと言われると違和感がもたれるかもしれないけど、令ちゃんのバカといってロザリオを返したあげくよりを戻したり、可南子と瞳子どっちを選ぶかとかモロラブコメの文脈なんですよね。恋人という普遍的なもので結ばれるか、スールという特殊なものよってむずばれるかの違いだけど。
だから、「けいおん!」も音楽やるより、男性キャラを出してのラブコメとか、唐突にガチになる展開は絶対にあり得ないわけで、琴吹家私有ゴルフ場でゴルフやったり、骨董品屋に行ったり、山荘に閉じ込められて事件が起きてその謎を解いたりした方が面白いんじゃないかと思いました。
とはいえ注意しないといけないのは演奏シーン。、本来なら演奏レベルは読者や視聴者の想像に任せないといけないのですし、梓が入った理由も、上手いからじゃなくメンバーの誰かが親戚か、音楽やっていると知っていて、強引に入れさせるか、逆に澪を最初から知っていて、彼女に憧れてとかそういう理由じゃないと駄目なのだと思うのですよ。もっとも今更それを言うのは手遅れだけど。
ようやく9巻を読み終えたので、という訳でもないが、ふと思った「よつばと!」と物語性について少し書きたい。もう似たような議論をしている人もいるかも知れないが。
まず、「よつばと!」を物語性があるか?という視点で考えていきたい。
もちろん、ストーリー性は薄いよね、というのが大抵の人の回答だろうと思う。
確かに、時間軸的には進展しているが、エピソードの連続であり、ストーリー性は薄い。
ただし、この漫画は「(この作者の前作であるあずまんが大王のような)日常系キャラ萌え四コマではない」事にも注目したい。平たく言うと、ページ数から考えて、「よつばと!」はオーソドックスなギャグマンガ(モテモテ王国やジャガー、イカ娘など)に近い構造をしている。つまり、ページ数が少なめで、非日常側にいる(ボケ役の)メインキャラクターの一人(この作品では、よつば)を中心に話が進むという構造である。
一つ思うのは、この漫画の非常に新しい点は、”ギャグマンガになっていない”事にあるのではないかということだ。
通常、ギャグマンガの場合、非日常側のボケ役が非日常的な行動を行い、ツッコミ役の常識人がツッコミを入れるという構造になっている。この「よつばと!」の場合は、基本的に、非日常側のボケ役を子供(よつば)が行っており、それに周りの大人達がツッコミを入れていく。
しかし、よつばは果たして、非日常側の人間なのだろうか?と考えた場合、(ちょっとおかしな所はあるけれど)子供は普通こんなものであると言ってしまえる部分もあるのではないだろうか?よつばは十分に日常側の人間であると言うことができるのではないか。ただし、子供は基本的に非日常側の人間である、という意見も説得力もあるけれど。
議論が混乱してきたので、言いたいことをざっくり言ってしまうと、ポイントは以下の点だと思う。
①子供(よつば)から見ると、日常が驚きに満ちた非日常に見える。
(ので、よつばの視点では、日常が冒険(=物語)に満ちあふれている)
②子供のいる日常は、子供という非日常を包含しているが、「その非日常性は、大人自身も体験してきたことである(誰にでも子供時代がある訳だから)」。従って、漫画を読む視点として、複眼的視点が生まれる。具体的には、非日常的なよつばを見ることで和んでしまう大人としての視点、もう一つは、自分が子供の頃の頃を思い出すノスタルジックな視点。
結局、「[誰にとっての]日常or非日常なのか」という視点の問題なのかも知れない。
例えば、銀英伝に出てくるヤンウェンリーが劇的な勝利を収めたとする。
ヤンウェンリー以外の作中人物はドラマチック性を感じるだろうが、ヤンウェンリー本人にしてみると、割と散文的な現実ではないだろうか。そして、非日常の中に日常を見る人間と、日常の中に非日常を見る人間という点で、ヤンウェンリーとよつばは、対照的であるし、その点が「よつばと!」の新しい点ではないかと思う。
あずまんが大王から始まる系譜、以降、らき☆すた、けいおん!のような四コマ漫画からアニメ化された作品はストーリー性が薄い。多分、もう誰かが言っているような話だと思うが、この辺を少々書きたい。
まず、物語というのは、主人公が「非日常」の世界へ行って帰ってくる、あるいは来ないという構造が基本である。しかし、上記のような作品はどうか?
まず、原作は「日常系」四コマ漫画である訳だが、日常系と四コマは抜群に相性が良いという事実が一つある。なぜなら、「彼ら」の日常も我々の日常と同じく、基本的にエピソードの連続だからだ。そこに物語性はあまりない。
さて、日常系四コマ漫画が流行る前に、四コマ業界を席巻したジャンルがある。
「不条理」四コマ漫画である。
つまり、読者がずっと「非日常」に浸かっているようなジャンルであり、「不条理」四コマ漫画から、「日常系」四コマ漫画の流れは、「あちらの世界(非日常)」から「こちらの世界(日常)」へ回帰したという見方も出来ると思う。
……ただ、思うのは、「日常系」四コマ漫画は、本当に「日常」を語っているのか?という疑問である。何が言いたいかというと、「日常系」四コマ漫画で語られる日常というのは、大半のアニメファンにとっての非日常ではないかということだ。要するに読者や視聴者にとっての逆転現象が発生する。惨めな現実を送っている者には、「不条理」四コマ漫画は現実の理不尽さのリアリティであり、「日常系」四コマ漫画には、自分が浸かっていたい、例えば、失われた青春や理想の学生時代への妄想・空想世界として、今現在、需要があるのではないか。
この仮説を、「事態はもっと深刻になっていることか」と捉える人もいれば、「現実を忘れるための需要がある以上、そこに救いの手を差し伸べるべき。そこにビジネスチャンスもあるはずだ」と捉える人もいるかも知れない。個人的な意見を言えば、どちらでも良いし、あくまで四コマ漫画は漫画の中のサブジャンル的位置づけ・周辺ビジネスであり、とても魅力的な題材(具体的には、政治、プロ野球、初音ミク、エヴァンゲリオン、ドラクエなどの強力な題材)があって、初めて活きるものという気もしないでもない。
言い方は悪いかも知れないが、「あずまんが大王」や「コージ苑」にせよ、雑誌の中では割と「おまけ」的な立ち位置(少なくとも初期は)だったような気がしている。だから、「けいおん!」も、ストーリー性の強い作品があってこそ、肩の力を抜くという意味で、相互補完的によりその魅力が映えるのかも知れない。(……割と面白くない穏便な結論になった)
手には「あずまんが大王 2年生」「グレンラガン(漫画版)」「パーツのば」.
その状態で,急に見知らぬ人に声をかけられた.
なんだけど…急に聞かれたので「いや,あんまり…」って答えてしまった.
見知らぬ人怖いです(>_<)ってので頭一杯で.
そしたら,そっすか,ってすぐ居なくなっちゃった.
他の仲間と一緒に店から出た模様.
居なくなってからすぐ,なんで声掛けたんだろ,ってのと,
その後会計を済ませて(上記プラス「ドリドリキャス子さん」www),店外に出るとその人達がまだ居た.
で,もやもやしてたのでこっちから声をかけてみた.
俺「あの,…さっき声掛けた人ですよね?」
「ああ,はい.」
俺「どうして声掛けたんですか?」
「え,いや,普通に話とかしようと思って.」
俺「ああ,そうですか.…いや,ちょっと気になったもんで.
それでは.」
逃げてしまった.
こっちの言葉はもっとぶっきらぼうだった気がする.
とにかく,なんか悪いことした気がしてもっとモヤモヤ.
心当たりのあるあなた,ごめんなさい.
悪気はなかったんです…
隊員A「そうだな」
隊員B「絵変わりすぎだろ」
隊員D「しかしなぜこの時期に?」
隊員A「確かに。『あずまんが大王』は現在にいたるまでの萌え4コマブームの端緒となった偉大な作品ではあるけど、「今復刊しなければならない理由」なんてないよな……」
隊員D「作者がメディアワークスとケンカしたとか、なんらかのメディアミックスがあるとか……」
隊員A「そういう話も聞かないな……」
隊員D「?」
隊員A「そ……そうか…」
隊員A「そういうことだったのか……」
キバヤシ「どうやらわかったみたいだな……」
キバヤシ「彼が『存在論的、郵便的』でサントリー学芸賞を受賞し一世を風靡したのは1999年のことだった!」
キバヤシ「1999年といえば、ノストラダムスの大予言に記された恐怖の大王が降臨する年!」
キバヤシ「そして遡ること数ヶ月前、1999年の2月には『あずまんが大王』が連載を開始している!」
キバヤシ「このマンガの題名には重要な暗号が隠されているんだよ」
隊員C「どういうことだ!キバヤシ!」
キバヤシ「あまりにもあからさまなメッセージで、いままで気がつかなかったんだ……」
「あずまんが大王」
「あずまん が 大王」
キバヤシ「つまり!!」
キバヤシ「『あずまんが大王』は思想界における恐怖の大王=東浩紀の出現を予告したものだったんだよ!!!」
_人人人人人人人人人人人人人人_
> な なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
キバヤシ「その『あずまんが大王』が10年の歳月を経た今年、新装版として発売される!」
キバヤシ「これは東浩紀が2009年になにか大変なことをしでかすという新たな予言としか思えない……」
隊員B「まさに恐怖の大王の再臨だな……」
つづかない
「俺、萌え系4コマ漫画好きだよ」と言う男に、好きな作品や作家を聞いてアニメ化作品の名前があがってくるとげんなりする。心底がっかりする。アニメ化したのも私も大好きだし、素晴らしい作品だと思うけども、臆面も無くらきすた・けいおんの名を挙げる人のほとんどが、それ以外の萌え系4コマを読んでいないんだもの。それどころか、そのアニメ化作家さんの別の作品も読んでいない。せめて「棺担ぎのクロ。」ぐらい読んでから言ってもらえませんかね。
要するに「萌え系4コマ漫画を理解する心のアレな俺」を演出するために、いちばんてっとり早くて優等生な回答なんですよね。らきすた・けいおんは。あと、あずまんがもこのカテゴリに入る。
確かに男性に人気の萌え系4コマ漫画家として鉄板なことは間違いないけど、本当に萌え系4コマが好きならもっとたくさんの名前が挙がってもいいと思う。もっと読めよ!きらら以外も!エロマンガ雑誌のも!「あずまんが大王」「らき☆すた」「ひだまりスケッチ」「けいおん!」のコンボはもう飽きました。
1度だけむんこという回答が返ってきて、土下座せんばかりに感動したことがあります。あ…この人、本当に萌え系4コマを読んでる人だ…と思ったよ。
(元ネタ古…)
性代替的と言うよりは性逃避的なんだよな、と夙に思います。
自分が惹かれるのが、女の子の仲良し集団を中心に描いたマルチヒロイン系の作品に偏向していることは、随分前から薄々気付いていました。
現実ではモテないから仕方なく二次元の女性に行くというのを代替的と称するなら、それとはやや異なる、逃避的なあり方というものがあるでしょう。
現実の恋愛は煩わしく、それでも女性的な何事かに触れたいと思うとき、マルチヒロイン系の作品は大いなる癒しを与えてくれます。(ちなみに、ギャルゲ、恋愛ゲーと言われるものは一度もしたことがありません。)
主要な要素として、次のことが挙げられます。
A.女の子の間での仲良し具合が中心に描かれる。
B.主人公及びその周りの主要登場人物は、未通女であることがほぼ絶対的に保証されている。
C.男性が登場しても、巧妙に疎外される。
D.人物の性的な魅力(あるいは、身体的な魅力)に関する事柄は、あくまで女性から女性への視点で描かれる。
これらの事柄は、所謂「百合」「ソフト百合」と称される作品、あるいは迂遠に「百合的な視点で鑑賞することもできる」と言われる作品に、ほぼ共通しています。
D.に関連して、どのくらい身体的な事柄が出ているかの指標となるような、良く出てくるトピックというものがあります。それは、「貧乳・豊乳をめぐる話」です。
それでは、ケーススタディをば。
性を直裁に連想させる話が割合多いです。しかし、それとバランスを取るかのように禁圧的でもあります。話を出しておいて全力で否定するという図式。
・吉野屋先生 :本人が自覚している豊乳。想像は良くしているが、未通女であることがほぼ明示されている。
・沙英:本人が自覚している貧乳。同じく想像は良くしているが、未通女。
・ヒロ:男女交際をまだ早いと感じていることを理由にお断りする。
榊さん:豊乳。美人であるが、男性から見てどうかという視点はありません。終盤の話からは「豊乳」が榊さんの母性の可能性を暗示しているように見えます。
「百合」の語を人口に膾炙させた作品です。女性から見た女性の魅力をさまざまな形で提示しています。第一巻で祐巳が自分の貧乳についてショボンとする場面があります。単に何らかの欠落の意識ではなく、特別な対象(祥子さま)と自らを比較して、という文脈の上で出ているのがこの作品らしさなのでしょう。
・泉こなた:貧乳。敢えて意味づけを行うとすれば、彼女の「元気ないたずら小僧のような性質」から類推し、(当然、胸は無いという)少年の身体的特質と関連付けられます。オタク少女ということになっていますが、こなたの魅力は大人の世界の囚われが少ないという意味での「自由な子供」としての特質として描かれているのではと思うのです。
・岩崎みなみ:貧乳。どのような意味で岩崎みなみが貧乳を気にしているのかは語られません。しかし、人物像を考えるときには興味深いです。
・徹底的に、(そしておそらくはかなり意図して)身体的な魅力に関する話題は排除されています。人物の纏う雰囲気についての魅力(アリシアが優雅である、等)は、辛うじて身体的な魅力に近い話と言えますが、やはり人物として備え持つ美徳としての文脈の上にあります。「百合」として捉えた場合、極限まで身体性を取り除いた功績は大きいです。
・アリシアの「結婚」が話の終盤と共にもたらされたのは興味深いです。男性の存在は暗示されたのみで、最後まで登場しません。
・一方で、アリシアの結婚、藍華の恋愛は、大変まじめな扱いを受けています。
・作品の性質上、教育的な配慮からか、身体的な魅力についての話はほとんど出てきません。運動ができる、といった「能力」としての身体は存在しますが。
…いろいろと掘り下げ不足ですが、今回はこの辺で。
IDコールはできないようですが、一応、ね。
・id:kashmir108 さま
やっちゃった(恥)。確かにそんな描写がありました。
・id:gadgetman さま
あれま。がっかりです。ということは、表には出ていない生活の基盤があって、その一部だけを選択的に表現した世界、ということになるのでしょうか。あるいは都市伝説とすれば、背景となっている生活がもっといろいろあるのではないかと読者に思わせるに足る「リアルさ」がある、ということなのでしょう。
・id:junkMA さま
ちょっと偏った言葉を使ってみたかったのです。
・id:kuippa さま
「つとに」ですよー。
・id:wideangle さま
会話の中で、エキセントリックな反応をしている箇所があるのです。(Wikipedia参照。)
・id:wideangle さま
うお!?何やら隠微な雰囲気を醸し出している作品ですね。チェックしておきます。
あずまきよひこも昔そんな話してたな。
Q.あずまんが大王のコミックスの絵を自分のHPで使いたいんですが、許可は貰えませんか?
すみませんが許可はでません。
まず著作権の許可は「はいどーぞー」って軽く出せるものではないですし。
それに許可を出すってことは、どのように使われるか、とかをチェックしていかなきゃいけませんし。100km制限の高速道路。
警察官に「110kmで走っていい?」と聞いたら、そりゃだめって言いますわな。
110kmでは捕まりませんが。でも150出すと捕まりますよ。なにが良くて、なにが悪いのかは、各自が考えて、
自分の責任で自分の行動を決めてください。
http://web.archive.org/web/20030416133811/www.geocities.jp/azyotuba/faq/faq01.htm