はてなキーワード: 魔法科高校とは
フォロワーが「なろう系は陰キャ男の自分最強妄想中学生乙」みたいな感じであまりにも常日頃からブッ叩いてる(なんか恨みでもあるのかもしれんが)から、「あんたがよく読んでる凡人主人公が色んなパターンのイケメンに言い寄られまくる少女漫画や乙女ゲームも同じじゃないんか?」って言ったら「全然違う!!!!!」ってヒステリー起こされた
一応言っとくけどなろう系もおもしれー女系も両方詳しくないし両方好きじゃないし魔法科高校のお兄様キツと思う(なろうではないが俺TUEEではあるのかな?)しアンミナやっててこの主人公なんで無条件でイケメンに好かれるのか分からんと思ったし両方のハイブリッド型みたいなはめふらもちょっとみてしんどくてやめた
なぜ物語の少年少女が「学園」に呪縛されるようになったのか - Togetterまとめ
このまとめの最初のあたりで芦辺拓氏が例に挙げている作品の刊行年は以下のとおり。
西條八十の白ばと組
→『あらしの白ばと』1952年
高木彬光の古沢姉弟
まず、このくらいのスパンの話だということを理解しておいてほしい。
たかだか十年前と比較するくらいの感覚で「最近のラノベ作家は楽をしたがるから」などと言っていると論点がズレてしまう。
さて、そもそも「昔は学園ものは少なかったが今は学園ものばかり」というのはラノベだけの問題なのだろうか。
Wikipediaの「学園漫画」の項には以下のように書かれている。
少年少女を主人公とする作品に学校を場としたりその人間関係が中心になることが多いことは当然であり、漫画以前の小説の時代から学校ものは存在したし、学校を舞台とする漫画作品も昭和30年代から存在した。ただ昭和30年代には、放課後に家の手伝いをする者や中学で卒業して実社会に出るものがまだ多く、学「園」ものという呼び方にはある程度の生活階層の青春ものを意味するイメージもあった。
結果的に、雑誌の漫画において学園漫画という「分野」(市場分野?)が生じたと言われるのは、日本の高度経済成長が成果を安定させて生活の向上や学歴の向上が既定路線となった1960年代半ば(昭和40年前後)からである。
学園漫画で言えば『ハリスの旋風』が1965年、『夕やけ番長』が1967年、『ハレンチ学園』や『男一匹ガキ大将』が1968年である。
芦辺氏と同じ論法を使えば「戦前や終戦直後には学園ものの少年漫画は少なかったのに今は学園漫画ばかり」とも言えそうだ。
もとより、「学園もの」増加の原因を、一足飛びに現代のラノベに求めたところで、何が分かるものでもあるまい。
学園小説が一定の発展を見せたのは、少年雑誌よりも少女雑誌においてである。もっとも著名な作家としては『少女世界』の読者から作家デビューした吉屋信子があげられる。
1916年に連載が始まった吉屋信子の『花物語』は、当時ベストセラーとなった連作短編で、女学校を舞台とした話が多い。→エス
これは「漫画以前の小説の時代から学校ものは存在した」「学園ものという呼び方にはある程度の生活階層の青春ものを意味するイメージもあった」ということの実例と言える。
こうしてみると、むしろ「1960年代以前の少年向け娯楽作品において学校が舞台とならなかったのは何故か」というほうが問題なのではないかと思えてくる。
そしてそれは、Wikipediaのとおり経済力に理由を求めるほうが、現代の青少年の心性を大仰に言い立てるよりは筋がとおっているだろう。
(もちろん他の要因もあるだろう、議論するならその点についてすべきである)
最後に、筆者が最近読んだライトノベル50作品を「A. 学校が出てこない」「B. 学校は出てくるが事件が起こるのは学外である」「C. 学校が主な舞台である」で分類したところ、以下のような内訳となった。
つまり芦辺氏が言うような「全てが学校で起きる学園もののラノベ」は16/50=32%である。
言うまでもなく、このサンプル数は少なすぎるし、個人の嗜好による偏りなどもあるので参考程度にお願いしたいが、
最近のライトノベルの全てが「学内で完結している」ということはありえない、とは確実に言えるはずだ。
大ヒット作だけを見ても、SAOやダンまちは「A」であるし、禁書目録や魔法科高校は「B」に分類されるだろう。
ライトノベル『魔法科高校の劣等生』を読んで、ネットの評判に流されてしまっていた自分を実感した話
http://d.hatena.ne.jp/thun2/20150104/p1
この記事を読んだわけだ。
で、ブコメとか色々読んでこれ以上魔法科高校の劣等生を読んで不幸な人が出る前に誤解を正しておいたほうが良いと思ってな。
題名:魔法科高校の劣等生 -The Irregular at Magic High School-
・2008年10月12日、小説家になろうにアマチュアWeb作家として連載開始。
・2011年に電撃文庫化。担当編集は三木一馬((「俺の妹がこんなに可愛いわけがない。」「とある魔術の禁書目録」「ソードアート・オンライン」の担当編集も務める有名編集者))。現在の総発行部数は公称560万部。
・体系化された魔法を扱う職業「魔法師」を養成する架空の教育機関「魔法科高校」を舞台とした学園バトルアクション
・作者は本作品をSFエンターティメントの一種「超能力もの」であると述べている。
まず、初めに言っておきたいのが魔法科高校の劣等生はロードオブ・ザ・リングみてえなハイファンタジーじゃなくて、「とある魔術の禁書目録」みてえなよくある超能力ものだ。たまに勘違いしてる奴がいるけど、ただの超能力ものだ。
このへん押さえとけ。
「あと、俺TUEEEEEじゃなくて敵YOEEEEEなんだもんなぁ。」とかのたまってる奴たまにいるけど、お前の見たいもんは俺TUEEEEEでは見れないから。
例えばドラゴンボールを俺TUEEEEEだと呼ぶ奴が一部でいる。
なんでそんなこと言われるかって悟空が圧倒的戦力差で持って敵を蹂躙するからだ。
代表的なのがVSナッパの話だ。
戦闘力4000程度のナッパ相手に悟空がぼっこぼこに無双して、上から目線で説教するからだ。
でもドラゴンボールはそこまで俺TUEEEEとは呼ばれてない。
なぜならそのあとすぐに超強いベジータが出てくるからだ。主人校と敵の戦力差が重要なわけだ。
敵が銀河系破壊できるキャラなら主人公は5次元に移動して一方的に相手を粉砕するから。
つまり強い敵が出てきた時点でもう俺TUEEEEじゃねえんだ。
あと、俺TUEEEEがすきだからって努力が嫌いとは限らんから。
普通に史上最強の弟子ケンイチとか僕のヒーローアカデミアとか読むから。
子供みたいなこと言ってないで大人になろう?
あと、魔法科高校の劣等生でたまに物理学が云々とか言ってる奴いるけど、殆ど関係ないから。核融合とエネルギー保存法則の部分だけだから。
あの世界の魔法の仕組み、オブジェクト指向プログラミングだから。
オブジェクトの情報を操作して魔法発動させてるだけで物理学とか殆ど関係ないから、適当知識で知ったかするのいい加減やめろ。
あと、てめぇの空想の中のパーフェクトワールドと比較すんの大概にしろ。
知ったかで適当に難癖つけてストレル発散するのいい加減やめとこか
あと、リベラルキチガイは宗教だから、作品世界の中の話と主張をごっちゃにしちゃうから読むのやめとけ。
別に作品世界=作者の主張とも限らないし、それを理由に特定個人の誹謗中傷もいい加減やめとけ。
※追記
id:fusanosuke_n 残念ながら名前だけでそれを期待して実際見たら違ったのでめためたに叩きまくってる奴がいたんだなこれがぁ。
id:harisenbon_fukurahagi そしたらそれは俺TUEEEEに似たなにかであって俺TUEEEEじゃないってことだ。技術がどうとかの問題じゃない。
良い俺TUEEEEEとか言って自分の都合のいい作品を持ってきて片方を貶めすのはやめろ。それはおめーにとっての俺TUEEEEだろうが。
id:kori3110 批判してはいけないんじゃなくて、適当知識でしったかしたり無理やり屁理屈持ってきて批判するなってことだ。
敵YOEEEEEなんだよなぁなんてのは最たるものでミステリ読みながら剣と魔法が出てこないとか文句行ってるようなもんだ。
id:yajicco そういう極論使って誇張すんのもやめろ。どう考えても蟻にはならねえだろ。それともお前は人間が蟻にでも見えるのか?脳みそイカレてんのか?
別に敵は普通の人間だよ。ただし、主人公は大陸吹っ飛ばせるけどな。
id:yunker_y 魔法科高校の劣等生の世界(パラレルワールド)ではそういった魔法や超能力や神通力のようなオカルトの力は全て同じ仕組で動いており、忍術もその1種です。
つまり、火遁の術で火を噴いたりミズグモの術で水面を走ったりというような架空の話は実在したのだ。という世界観なわけです。実際敵キャラに超能力を使ってくる敵ものちのち出てきますしちゃんと設定を読んでいれば忍術というのも別段おかしくはないというわけです。
ちなみにキャラの中には先祖が魔女だったという人も出てきますよ。まぁ、字面で笑ってしまうというのもなんとなくわからんでもないですけどね。
id:nemuibayashi ところがブコメを見ても分かる通り、極論か藁人形たたきの人間が9割以上なんですなこれが。ただの体の良いおもちゃにして遊んでるだけですよ。まじめに議論してる人がほとんどいない。重箱の隅をつつくか極論で遊んでるだけですよ。
そういうアホどもに別の作品読んでろよと言ってるわけです。
id:YukeSkywalker っていう
id:suna_kago 魔法科の問題で特徴的なのが肝心の魔法科の内容がどんな話なのかよくわからないと言うところに尽きますね。批判する側も私も含めて基本的に作品設定の外やまるで関係ない事柄ばかりが取り上げられて場外乱闘を繰り広げている状態で何が問題なのかという点が一向に明らかにならないので。
ブコメを見ても批判しているという点のみが共通しており、肝心の内容はまるで統一性が感じられずカオスな状態に陥ってしまっています。(このエントリーのブコメにかぎらず。)
最近web小説をよく読むというので、「魔法科高校の劣等生」のアニメがクソつまらんという話題を振ってみた。
彼(友人)としては、あれはあれで良いらしい。
曰く、web小説というか、なろう読者である自分が求めているのは「ハラハラ」でも「ドキドキ」でもなく「ダラダラ」である。
チート主人公が出る話は、主人公が強すぎるゆえに、何か事件が起こっても解決へのハードルが低いので何も起こっていないのと変わらない。
劣等生も似たようなもんだから、あれは日常アニメとして見るべき。あのダラダラ感が愛おしい。
これを聞いた時は妙に納得して、その後の話も盛り上がった。
だけど、一眠りした後で冷静になってみると、なんだか騙されたというか、上手いことごまかされたような気がしている。
http://anond.hatelabo.jp/20130402094250
電撃で例えればSAOだの魔法科高校だの、webで実績残してからレーベル入りしてる作品もあるけどな。
大手出版社の主催する賞で落ちたような作品を、他会社で拾い上げて出版させて10万売り上げの実績を残した、て話を聞かされても。
書籍化やら印刷やら何やら結局出版社の力借りてんじゃねえか、としか感想を述べられない。
実力ある作者が独力で書籍化まで漕ぎ着けられれば、何も出版社の力を借りなくとも同じように本を流通させられるんじゃないか?という疑問に対しては、以下のエピソードで答えようと思う。
最近アニメ化もされた『ソードアート・オンライン』はもともとweb上で公開されていた作品だった。
多大なPVを稼いでいたところに編集者から声がかかり、作者はこの作品を書籍化する形で電撃文庫からデビューする事になった。
しかし書籍化にあたり行った作業というのは、ただ挿絵を入れたり表紙を選んだりといったデコレーションの作業だけじゃなかった。
アニメや小説版だと、クラディールを殺したのはキリトになっている。
だが改稿前の文章では、土下座するクラディールを前にしたアスナが、レイピアでその後頭部から地面まで刺し貫いて殺した、という形になっている。
“殺人に対しては処女であらねばならない”というヒロイン像の聖性とでも呼ぶべきものを、編集が重視したどうかは知るよしもないが。
ともあれ改稿は行われ、アスナのキル数は0に、キリトのキル数は3になった。
さて、ここでアスナが土下座する敵を惨殺していたら、どう変わっていただろうな。
web上ではその展開でも相当数のPV稼いでいたわけだから、別にそのままでも良かったんじゃないか?という意見も確かにあるだろうな。
だったら何で編集は改稿要請出したんだろうな? 編集の一人よがりか?