はてなキーワード: 駐留軍とは
1883年6月、金玉均は自身にとって3回目の日本訪問の途についた。前回の訪日で会見した日本政府の高官は、朝鮮国王の委任状があれば借款に応ずることを示唆しており、朝鮮からの留学生尹致昊の帰国に際しても大蔵大輔の吉田清成はかさねてそのことを金玉均に伝言していた[5][注釈 2]。
しかし、高宗からあたえられた300万円の国債借り入れの委任状を持参して来日した金玉均に対する日本政府の対応は冷たかった[5]。300万円は当時の朝鮮における国家財政1年分に相当しており、日本の予算約5,000万円からしても巨額なものであった[5][7]。メレンドルフの妨害工作もあったが、日本政府としても大蔵卿松方正義が緊縮財政を進めているなか、財政力に乏しく政情も不安定な朝鮮に対し、そのような巨額な投資をおこなうべき理由は乏しかった[5][10]。金玉均は、日本についで、フランスやアメリカ合衆国からの借款工作にも失敗した[5]。
1884年5月、金玉均は失意のうちに朝鮮に帰国した。朝鮮では、以前にもまして大国清の勢力が猛威をふるい、朝鮮国の重臣たちはそれに追随し、開化派の活動はいっそうせばめられていた[5]。清とフランスの緊張関係の高まりから、5月に遼東半島に移駐することとなった呉長慶にかわって野心家の袁世凱が実権を掌握し、朝鮮王宮は彼の挙動に左右された[5]。これに危機感を覚えた金玉均らは国王高宗を動かそうと計画した[7][10]。高宗もまた閔氏の専横に心を痛め、朝鮮の将来に不安をいだいていたのである[7]。
清仏戦争の直接原因となった1884年6月23日のバクレ伏兵事件(英語版)
1884年6月、ベトナム領有を意図するフランスとベトナムでの宗主権を護持しようとする清国との間で清仏戦争が勃発した[10]。清越国境付近のバクレでの両軍衝突が引き金となったが、この戦いで劣勢に立った清国は朝鮮駐留軍の半数に相当する約1,500名を内地に移駐させた[5]。独立党は、これを好機ととらえた[10]。日本もまた、壬午軍乱以降、無為にすごした失地回復の好機とみて清国勢力の後退を歓迎した[5]。井上馨外務卿は帰国中の弁理公使竹添進一郎に訓令し、10月に漢城に帰任させた。竹添は軍乱賠償金残金の寄付を国王に持ち掛ける一方、金玉均ら独立党に近づいた[5][11]。
竹添進一郎
金玉均らは11月4日、朴泳孝邸宅に日本公使館の島村久書記官を招いて密談をおこなった。集まったのは、金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範、島村の5名であった[12]。そこで金玉均は島村にクーデタ計画を打ち明けているが、島村はそれに驚きもせず、むしろ速やかな決行を勧めるほどであったという[12]。かれら独立党は3つのクーデタ計画案を検討し、同年12月に開催が予定されていた「郵征局」の開庁祝賀パーティーに乗じて実行にうつす案が採用された[12][注釈 3]。金玉均は11月7日に日本公使館をおとずれ、竹添公使にクーデタ計画を打ち明け、そのとき竹添から支援の約束を得ている[12]。
金玉均は漢城駐在のイギリスとアメリカ合衆国の外交官にもクーデタ計画を相談した[12]。かれらは、金玉均のえがく理想に共感し、清国よりも日本を頼るべきことについても理解を示したが、しかし、決行については清国の軍事的優位を認めて、これに反対した[12]。金玉均はさらに、それとなく高宗にも計画の内容を伝えて伺いを立てた[12]。高宗もまた、清の軍事力を考えると不成功に終わるのではないかとの懸念を伝えたが、金玉均はこれに食い下がり、フランスと連動して動けば充分に勝機はあると訴えた[12]。高宗は、これを諒とした[12]。
しかし、クーデタに動員できる軍事力といえば、日本公使館警備の日本陸軍仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊第1中隊の150名と、陸軍戸山学校に留学して帰国した10数名の朝鮮人士官学生および新式軍隊の一部にすぎなかった[5]。この人数では、半減したとはいえ、なお1,500名を有する清国兵および袁世凱指揮下の朝鮮政府軍に対抗するのは無謀といってよかった[5]。
返還されたところで、跡地の開発を誰の金でやんの?って話
ちな2年前の県のレポートは下記
沖縄経済の特色の一つである基地経済は、駐留軍従業者や軍用地地主などのように基地に生活を依存している県民の存在や、基地交付金等の基地関連収入が歳入総額の20%以上を占めている公共団体が4町村(※)あるなど、なお、県経済に一定の影響を与えているが、県経済の規模拡大などを背景に、軍関係受取については復帰後、その比重を徐々に低下させている。
http://www.pref.okinawa.jp/site/kikaku/chosei/keikaku/h17-kwizaigaikyou-2syou-3.html
○委員長(郡祐一君) 昨日これも問題に提供されました全国農民大会のデモ隊に対する米兵の汚物投下事件について山口国警本部刑事部長が見えておりますので、説明をお願いいたします。
○説明員(山口喜雄君) フアイナンス・ビルから汚物を投下したというふうな事件につきまして赤松委員からお尋ねがございましたので、私どものほうでわかりました点を御説明申上げます。
本月の四日芝公会堂におきまして凶作対策全国農民大会が参会者約一千五百名ということで催されまして、その大会が終了後大体午後一時頃からかと思いますが、国会への陳情デモ行進に移り、午後三時半から三時頃までの間多分二時四十五分頃、その最終の第四班の列がフアイナンスビルの北側道路にさしかかりましたときに、同ビルの窓から何かが落ちて参つて、行進中の農民等に液体がふりかかつたという事件が起きたのでございます。麹町署におきましては、直ちにその液体をふりかけられた者、それから目撃者等の取調を開始します一方、米軍側に通知いたしまして、米軍側との憲兵司令部、犯罪捜査部、MP、IDでございますか、ビル内の全員に禁足を命じまして捜査をいたしたのでありますが、この結果犯人は見習水兵でデービツト・バーガスという十八歳の少年であることが判明したのであります。で彼はビルの最上の窓から新品のコンドームに水道の水を入れたものを三度に亘つて投げたことを自供したのであります。初め何か糞尿等の汚物を投下したように新聞等で言われておりましたが、犯罪科学研究所等の鑑定の結果によりましても泥水である、汚物ではなかつたようであります。又その場に居食わせた者が拾得して提出したコンドームも三個でありまして、その犯人の自供と合致しておるのであります。犯罪の動機は、デービツト・バーガスの述べるところによりますれば、彼は最上階の窓からデモ隊の通つているのを見下して、同僚にあれは何かとこう聞いたところが、あれはコミユニストである。こういうふうに言われたので、日頃コミユニスト嫌いであつたので、ついそのゴムの袋に水を入れたものを投げた、こういうふうに言つておるようであります。本件は駐留軍施設からその外へ物を投げたという案件でありますが、これは本人の公務執行中の犯罪とは言えないわけでございまして、我がほうとして暴行罪と認定して五日、昨日でございますが、麹町署に本人の出頭を求めて取調をしたのであります。なお今朝東京地検に事件が送致されるはずになつておりますが、同地検において慎量捜査の上処理を決する予定でおります。なお米軍憲兵司令官においても遺憾の意を表すると共に、今後かかる事件の発生せんよう関係部隊に厳重警告を発したということであります。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/017/0488/01711060488006c.html