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2021-08-14

お盆だな

高齢化社会葬儀が身近になってくるにつれて、

土葬や、コンポスト葬、風葬みたいなものへの関心が高まっているんだな。

土葬され、菌や虫や動物栄養源になれば、分子レベルでは火葬より長く生き続けることができる。

またリユース度が高い。オーガニックエコだ。

火葬されてしまえば、生物連鎖から切り離された無機的な骨と炭になってしまう。これを嫌がる人たちが出てきているんだな。

2020-12-07

anond:20201207223652

その点京都

化野→風葬

蓮台野→風葬

鳥辺野→鳥葬

文化的この上ないどすなぁ

2017-01-31

遺骨と記憶

昭和集合住宅に住んでいて平成不況人口流出で空室が多いんだが、火災報知器が昨日誤作動して消防出動の事態になったからか、工事をしていてうるさい。うるさくてつらいので、ヘッドフォンで昔に買った音楽を聴いている。それでふと思い起こしてこの人のブログを見たんだが、いまも死んだペットのことに執着しているらしい http://ameblo.jp/mariko-kouda/entry-12243053638.html

さて、私は仏教徒から遺骨には執着しない。遺骨に後生大事に執着するのは儒教徒だ。ちなみに中国仏教儒教習合してしまって渡来たか日本では混同されている。

私は数年前にもペットが死んだけど、遺骨は残さずにパアッと処分してしまった。私は、片親殺されているが、親の遺骨を相続したくないし、親の遺産相続したくない。

遺骨が残るのは、超高温でもなければ燃え残るからだ。火葬にするのは、インドではおそらく、遺体が腐ってむごくなるのを避けたかたか火葬にしたわけで、そうやって火葬された人の霊魂は報われていいとこに生まれかわると信じられていた。だから、偉い人、偲ばれている人は、火葬にされる。火葬にもされなかった人はいいとこに生まれかわれないと思われていた。

遺骨は残さない方が本当はよい。遺骨に執着するのは凶相だ。ちなみに世の中には「お焚きあげ」というのがあるが、捨てるに捨てられないものを焼却処分してもらう、ごみ処理である。以前流行った(流行らせた)ことばでいえば「断捨離である。例えば写真にしても、焚きあげて処分してもらう。それを、いまでも世の中にはなんでもかんでも写真に撮りたがる人々がいるが、画像データが大変だ。そして、見て記憶に残すことを忘れて、カメラで撮るのに必死になっている。

千の風になって」ではないが、遺骨はナノ単位にでも砕いて風葬にでもした方がよい。それとも、処分に困ったら一心寺にでも持っていけばいい。遺骨を墓碑か寺院にでも納める人は多いと思う、遺骨を手元に置いて仏壇にでも納めていると大変だ。ましてや、遺骨や位牌に執着して逃げ遅れて死ぬ人がいるが、正直に言って客観的にみて、滑稽だ。

遺骨は生きていないし、生前のものでもない。古代エジプト人ではないから、ミイラにしたらいつか復活するとも思っていないし。

生きているというのは状態であって、実体ではない。生きものというのは状態である

死んでもうこの世にない生きもののことは、記憶には残る。忘れられない。しかしその記憶所詮細胞状態しかない。記憶している人もそのうち死ぬ。残された記録もデータであって、実体ではない。

日記であろうが、枕草子であろうが徒然草であろうが愚管抄であろうが、経典であろうが、データである日本では驚異的なまでに昔の経巻が保存されているそうだが、それも経巻の内容より経巻そのものに執着し信仰してきたかららしく、「御真影」ではないが火事になっても必死に経巻を運び出したからだそうだ。しかし経巻を後生大事にとっておいてもしかたがない。それなら中村元岩波文庫のやつでも読んだほうがよい。

そうならないのは、貴重な経巻が残っているということが寺院資産であり「箔」が付くからでもあり、それで檀信徒から財施(供養)をもらっている。法要にでもなれば、漢訳経典暗誦するんだが、聞いている方は意味不明だ。我々は漢文ネイティブではないし、そもそもその漢文はいま「生きている」言語ではなく中国に行っても話さないだろう、ラテン語みたいに学術のものしかない。それでもその檀信徒財施をするのも、彼らがモノに執着しているからであり、だから古い仏像とか経巻とか建物とかをみて大したもんだといい、布施をするのである。そして、経典の中味ではなく、経典を読むこと自体目的化している。

あの人も、遺骨もアロマドームも生きていないしうまくすれば朽ちないだろうから後生大事に持っていれば何十年後かわからないが自分死ぬ方が先だろう。

忘れられないのはわかるし、忘れてはいけないのかもしれない。死なないと消えない記憶というのは、ときには快いかもしれないし、ときには残念かもしれないが、ある。空襲だか「鉄の暴風」だかに遭ったり、ベトナム戦争だかイラク戦争だかに行ったりした人は、忘れられないトラウマが残ってつらいものである。ヘタすれば人は80年とか100年とか生きられてしまうから大変であるしかしその記憶データであって、細胞状態である

本当に火事になったら私は死ぬかもしれないし、そうでなくとも私もいつか死ぬ。いま聴いている音楽も、データしかなく、ディスククラッシュでもしたら消える。人類が滅亡したらヒトの遺伝子も失われる、それがいつのことかは、ちょっと、わからないけど。

それにしても、あの人もそのうち50である。どうなんだろう。たしか40を「不惑」とかいったと思うが。当人も、未だに残っているファンも、互いに執着して、共依存して、期待される姿を互いに演じて定着してしまっているということもあるかもしれない。しかしそうした姿は、私の望んでいることではなかった。

私も歳とった。個人的には早く死にたいんだけれど、それもエゴか。

なお、この日記にはオチはないしTL;DRも書かない。

 
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