はてなキーワード: 都落ちとは
とある分野の成功者として、昔の知り合いに似た特徴の人物が出てきていた。ハンドルネームを使っているが、私には心当たりがあった。
進んだ分野、趣味の傾向、おおよその予想される年齢。それらの情報から自分の頭の中に1人の人物像が浮かび上がる。同じ高校の同級生だ。自分が無理をして進学し、深海魚*となった学校で、同じ深海魚をしていたアイツ。そうして腐り果て放課後にダラダラとマックでモンハンしていた集団の1人の顔を思い出す。
だが奴は、大学受験直前に「やりたいこと出来たわ」とニヤニヤしながらやる気を取り戻し、気づけばそれなりの大学に進学した。一方自分は、大幅に偏差値の下がった大学へと都落ちし、そのまま腐り果てしょーもない職場で今は働いている。
焦った自分はソイツの名前で検索をかけた。論文が出てくる……最近の論文だ……奴は大学卒業後、本当に行きたかった分野で働いているらしい……。恐ろしくなった。今の自分と比較したからだ。自分はもう全く研究内容と無関係なことをしている。というかほとんど事務員と営業の間の子みたいなことを延々とやっている。何かについて研究したことなんて無い。大学出てからは勉強なんてエクセルのマクロについて少しやっただけだ。取引先の資料がよく分からない時もググって終わらせるだけで詳しく学ぶ気なんて無い。
不安に急き立てられるままにさらなる情報の収集を行っていくと、趣味の分野は一緒だがその中で微妙に好みが違う。宗旨変えをした?いや、どうなんだろう。確信は持てない。別人なのか?もういい別人ということにしよう。こんな気分で日曜日の夜を終えられるものか。
自分の中で無理矢理に結論は出したが、そうなると今度はこんな事に対して慌てふためいた自分の方へと視線が移ってしまう。同級生が成功していたからってなんだというんだろう?あの時自分もなにかやりたい分野を見つけていればよかったのか?だが自分にだってやりたかった事が無いわけじゃない。一応は興味の有りそうな分野に進み、一応はその分野の論文を書いた。そうしてから競争についていくほどの気力はないからと楽な就職先を選んだ。そしてグズグズと腐っていった。そもそもの価値観がそうだっただけなんじゃないのか?やりがい搾取をされまいとする自己防衛意識が強すぎた結果、仕事によって自己実現をすることに拒否感を持ったのが失敗だったのだろうか。大学教授の人格破綻ぶりを見るうちに、精神構造が脆弱な人間が変に自分の力に固執することに警戒心を覚えた。いや待てこれは流石に物語を作りすぎだ。単にだらしない人間だったのだ。そして、そのだらしなさに見合う人生を選んだ。選んだ選択肢に後悔はあっても間違いと言えるほどじゃなかった。落ち着いてきたぞ。やっと落ち着いてきた。だが恐ろしい……無数の同級生、無数の知り合い、ネットで作った友人、嫉妬出来るような相手はまだまだ無限にいる。早いうちに上手くラインを引かないといけない。年齢的にもそろそろ誰もがそれぞれの道で頭角を現す頃だろう。若き天才はそうそうはいない。だがある程度やって全く何も出来ずに終わる人間も少ない。人間なんて一生に1つか2つ立派な仕事が出来ればいいと言われるが、その1つを手掛ける奴らが次々出てくる頃だ。自分の仕事にそんなものはない。延々としょーもないことをやり続けるだけだ。人生においてやり遂げた1つがない。そして実家に帰ると今でも「高校受験でいい学校入ったのがピークだったよね」みたいな話が飛んでくるのだ。人生で成し遂げたことが高校受験?は?ゴミクズすぎるだろ?死にてえ……助けてくれ……。もう無理寝よう。
*深海魚……無理に良い学校に入ったせいで授業についていけなくなった人。受験で背伸びしすぎた身の程知らずのカス、受験終わった途端にナマケ始めったクズとされている。学校のカラーと合っていれば受験で背伸びしていても深海魚にはなりくいという噂も。そのため、単に偏差値の高さだけ見て学校を選んだバカとしての側面もあるとされている。酷い。そこまで言うな。
創価中高ですごした増田(https://anond.hatelabo.jp/20220714094742)に触発されて。
今のわたしのように、たとえ大人になってから学会活動をやらなかったとしても、親の庇護下・監督下にあり、人間として成長段階でもある、幼少期・思春期・青年期前半くらいまでを「二世」として過ごすって、人生経験の中で結構なインパクトがある出来事のような気がする。
たまに誰かに話したいな~とか思うけど、世間的な見られ方から、「私親が学会で~」っていうのはいまだに言いづらく、そこでどんな活動をしていたかというのは周囲の非学会員には一切話したことがない。
増田になら…と改めて思ったので、書いておこうと思う。
うちは最初に母が入って、父が母につられて入ったという感じで、活動に熱心なのは母だった。
父は言われて新聞配達してたくらいで、仏壇の前に座るとかそういうことは一切しないライト会員。
私は生まれた翌年の桃の節句の日に入会した。0歳なのでもちろん自発的な悟りとか目覚めとか釈迦みたいなことではなく、親に勝手に入れられた。
このシステムがまずすごいよなと思う。自発的な意思が芽生えないうちから新興宗教に入会って人権的蹂躙っちゃそうだろという気がする。
入会日を桃の節句にあわせたのは女の子だったからだそうです(シンプルな理由)
私自身に学会員の自覚はなかったが、母はバリバリに活動していた。会合なんかにも連れられて行っていた。
地域の役員…地区部長とか? 的な人の家でやるやつと、文化会館といわれる宗教施設でやるやつ、どっちにも連れていかれていたが何の集まりかは全然わかってなかった。
人がたくさん集まってて、同年代の子どももいる集いにつれていかれ、後ろのほうで遊んだり絵本よんだりしてるくらいの感じ。
ちなみにこのころは、まだ学会は日蓮正宗に破門されていなかったので、普通に七五三等で日蓮正宗のお寺にも行っていた。
戦前戦後の墨塗教科書感があり、当時ですらちょっと「え? もうお寺にいかないの…なんで…?」ってなってた。
母が地区の役職についたようで、低学年のころから自宅が週2くらいある会合の会場になった。
家が創価学会の会合の会場になるとか、もしかしたらかなりヘビーな悲劇の二世体験のように思われるかもしれないが、実際にはに集まった大人の人らにかわいがってもらったりおしゃべりしてもらったり、同世代の子どもと楽しく遊んだりという記憶でしかない。
家に人がたくさん来るのがシンプルに楽しいので、自分から会合の場にいることが多かった。
嫌だな~と思ったことはなかった。日常風景みたいな。でもそれは小さかったからで、多感な時期からそうなってたら絶対嫌だったと思う。
会合の最初にみんなで法華経方便品自我偈をとなえたあと、唱題する。
低学年のころ、その方便品の教本(勤行要典という)をみて、会合に来た大人たちに「これは外国の言葉なのか? 何が書いてあるのか?」ときいて困らせた記憶がある。ひらがながふってあるので音だけは読めたが意味不明すぎて…。
あと、会合してる裏で、当時家で飼ってた猫が産気づき、私が猫にかぶりつきで「がんばれー! もう少し!」とかでっかい声ではげましていたので、隣の部屋で会合中の大人らはこっちが気になってしかたなかったらしいということがあった。
会合・座談会の内容は、『大百蓮華』(日蓮の残した著作(まとめて御書とよばれる)の抜粋がのってる会合用のテキスト。月刊)の勉強とか体験発表とか、今思っても穏当な感じだったなと思う。
家で歌われまくってたのと、中学くらいまで学会歌のオルゴール目覚まし時計(なんかの記念品)で起床していたので、今だにメロディーの一部をおぼえている。
https://www.youtube.com/watch?v=Z5ydB2Onbo8
朝この曲で起きてました。奇特すぎ。
役職についてる人がいるとはいえ、子どもの目には会員同士の関係はあくまでフラットな感じに見えていた。
今もあるのかしらないが、当時、学会二世キッズは、学会がやってる合唱団にさそわれることがあった。
しかしこれは入会時とちがい、親に強制的に入れられたのではない。
母に「やってみる?」ときかれたので、そのころウィーン少年合唱団にあこがれていたというただそれだけの理由で「やってみるわ」と答えた次第。
ウィーン少年合唱団にあこがれてなかったらたぶんやんなかったし、やんないならやんないで母は何も言わなかったと思う。
一応入団に際してオーディション的な歌唱テストもあったが、そこで音痴だったら落ちるのかっていうのはわからないし、多分そんなことないんじゃないだろうか。
入ってみたら、多分毎週ではなかったと思う駆れども、日曜日に文化会館で指導があった。
指導は学校で音楽教師してる等、歌舞音曲の心得のある会員が、おそらく無報酬でやっていて、学会歌ではなく一般的な合唱曲の練習をしていた。
「たんぽぽ」(どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りましょう♪)にここで初めて出会って、なんて素敵な曲なんだろう、情景が目に浮かぶぜ…とめっちゃ感動したのはいい思い出の一つで、いまだにとても好きな歌。でもタンポポは別にいらない…。
小学校が違う気の合う友達もできたし、先生の一人が若めのイケメンだったので合唱団は楽しみだった。
創価中高の増田も似たニュアンスのことを言ってたが、池ちゃんは外国の歴史上の偉人をリスペクトしがちで、それが関係してるのかしらないけど、ある日突然第九…大晦日に歌うあれを練習しますーってなった。
小学生ながらに「フロイデーシェーネルゲッテルフルケン」とかって一生懸命練習したよね…。
なんのためにやってたかというと、当時、学会がヤフド(当時は福岡ドーム)を貸し切って、そこで池ちゃんがやってくる大規模な記念式典をやることになってて、そこに九州ブロック? のみんながあつまって第九合唱する…みたいな話になってたので、そのため。
このときの練習は普段の練習の20倍くらい気合が入っていて、池ちゃんが来ることの重み・貴重さ、池ちゃんの前で歌を披露できることがどんなに名誉かをめっちゃ説かれた記憶がある。
あと、合唱のほかにも「夢や目標をもったら、それがかなうように唱題(お題目を唱える)を一生懸命やりましょう」的な指導があったのだが「でもお題目を唱えるだけではだめ。目標をかなえるためには、そのための努力もかかせない。努力に加えてお題目も唱える。どっちかだけでは意味がない」ということを先生が言っていたのを今でも覚えている。
今の私は別に努力だけでいいだろと思うが、現世利益志向の宗教として、特段変な教えじゃないよなってのは思う。
なんの催しか忘れちゃったんだけど、発表会のために合唱団員の何人かからダンスするメンバーを選ぶってことがあって、私は踊りとかドへたくそなのになぜか立候補。
練習時点でグダグダの踊りを披露してたんだけど、そのとき「自分でやるっていったんだから、責任もってしっかりやろう」という、もはや信仰とかなんも関係ない普通のダメだし(指導)受けたのも印象に残っている。
学会二世には「選挙は祭り」って感覚持ってる人がいるんじゃないかと思う。
実際祭りだし、会員はその時期になると手弁当で友人知人宅を突撃し、候補者のビラをわたして投票のお願いをしていた。電凸とかじゃなくて、家凸。やば。電凸もしてました。
でも不思議なことに、母って、当時凸ってた相手と絶縁どころかいまだに仲いいし、最近できた非会員の友達(母はめちゃくちゃ社交的で友達が多い)に対しても、投票日に投票所に連行する「連れ出し」とか平気でやってるのに、不思議と嫌われてる様子もない。こないだ連れ出し被害食らった人と母と私の3人で飲んだくらい。
私は自分の友達に同じことやったら絶対ドン引きされて絶縁されるだろうなと思うんだけど。このへんは世代感覚なのか、母のキャラゆえなのか、いまだによくわからないところ。
とにかく私は同じことはできないし、したくもないし、そもそも公明党には投票してない。
話がそれたが、当時の家凸は、同じ地区の会員同士で車とかに乗り合わせて回ることがおおくて、子どもの私も車に同乗していた。
完全にお出かけドライブ気分だし、乗り合わせする家の同世代の子とかも来るので、普通に楽しんでついてってた。
あと、当時は親のやってることや信じてることを当然に受け入れていたので、乗り合わせた子といっしょに、信号停止中、後部座席からリアガラスに候補者のチラシを掲げて、後続車にアピったりしていた。
若いカップルがにこにこ笑って、オッケーマーク出してくれたの未だに覚えてる。向こうは覚えてるかなあ。
今おもえばひたすらめちゃくちゃ寛容な人たちだ…それか会員だったのか?
小学生のころから国語と社会(歴史)が好きだったんだけども、中学生になると古文の授業がはじまり、日本史の分量も増えたこともあり、その分野への興味関心は増していった。
母の蔵書である古典文学全集や解説書、文学系文化財の図録本などを開くのが大好きで、たのしみな時間だった。
円地文子が清少納言と枕草子を解説している文章のリリカルかつキリリとした美しさに感銘を受けた。
腐女子としての目覚めとこじらせも発生していて、その脳のままに平家物語の現代語訳を読んで、平経正と守覚法親王の関係(都落ちに際して琵琶返しにいくあれ)に爆萌え。
絶対修学旅行では仁和寺に行きたい!! って心に決めて実際行ったり、数多のいにしえの物語や随筆の舞台になった京都、その登場人物である彼女ら彼らが参詣し今も残っている古寺への興味がすごく高まった時期だった。
しかし学会員は寺とか神社とかを蛇蝎のごとく嫌っており、母もそういうメンタルだったので、京都や、京都に限らず、寺や神社に積極的に行きたがる私との間でちょっと揉めた。
寺や神社を頭ごなしに否定する学会員の在り方に疑問が芽生えてきたのもこのころだった。
教本には、勤行の最後には「諸天善神のおんために」祈ると書いてあり、ご本尊にも「南無妙法蓮華経」の字のまわりに、いろんな神様の名前が書いてあるのに謎すぎる。
(ちなみに改定が入った現在の教本では諸天善神のおんために、部分は割愛されてるらしい。祈れよ)
私は母に、はるか昔から善男善女が祈ってきた場がそんなに悪い場所であるとはどうしても思えない。貴重な文化遺産、歴史の息吹を感じさせるすてきな場所だとしか思えない。そんなに嫌うなんておかしい、というような趣旨のことを懸命に訴えた。
訴えられない、訴えても聞き入れてもらえない学会の家の子もいたのかもしれないけど、私の母はそういうタイプでもなく、私の考え方や言動によって、寺や神社への抵抗感は薄れたといっていた。
そんなわけで、母とはのちに一緒に京都旅行を何度もすることになったし、そんなときには寺や神社にも普通に詣でた。
世間一般は学会に偏見をもっているんだなあ…ということを知ったのもこのころだった。
中学の友達が立正佼成会で、呼び出されて逆折伏されそうになるっていう出来事もあってしんどかった。そして世間からしたらどっちもどっち。
政教分離的なところでも疑問が生じてきて、もやもやすることが増えてきた。
でも学会は小さなころから当たり前に傍らにあるもので、うちは別に多額の献金とかで破産してるわけでもなければ、活動で生活が破綻してるわけでもない。どころかその時点で、楽しい思い出がいっぱいあった。
(今もって)学会の一側面しか知らないにもかかわらず「世間で決めつけられてるような団体じゃないのに…」というジレンマを感じていた。世間で決めつけられてるからには理由があるだろうに…。
ちなみに、法華経の方便品は一体何を言ってるのか? という低学年のころ解消されなかった謎は中学生の時まで続き、ミネルヴァ書房から出てた法華経の日本語訳を読んで解消した。(文化会館の、数珠とかうってるグッズ売り場で普通に買えた)
読んで「シャリホツ!(なるほど!)」みたいな感じあった。(?)
日本語として何を言っているのか? という謎は解消したが、内容は中学生には難しい部分も多く、あまり心に響くことはなかった。
教学試験について説明すると長くなるので省く(説明はここ: https://www.sokanet.jp/kaiin/news/2022070101302/)けど、リンク先にもあるとおり、中学生になると、先述の「御書」やなんやから出題される試験を受けることになる。
一般的な検定試験と同じで、初級~上級みたいな段階的な区分けがあって、当然上の試験程合格は難しいし、そもそも試験も年に1回きっちりあるといかそういうもんでもないらしいがよくわからない。
上級のほうになると、ある程度しっかりした活動してないと受験資格も得られないんじゃないだろうか。
ただ最初にうける、英検で言えば5級的な試験だけは、中学生になったらすぐ受けられるっぽくて、私も中学時代に受けた。
さっきも書いたけど、古文が好きで得意だったので、「御書」の勉強はシンプルにおもしろかった。夜にやってる勉強会も同世代が集まるから楽しかったし、普通に合格した。
でもそれ以降の試験は受けたことないし、受けろと言われたこともない。多分受験資格が発生してない。
高校のころは学会活動への興味はほぼ0になっていたので、文化会館でやる大きい会合だけ顔を出していた。
信教の自由であるとか、折伏や新聞啓蒙、選挙活動についての疑問についてまじめに、ナーバスに考えていたのはむしろ中学生のころで、高校ではもはやあまりそういうことに囚われなくなっていた。
やりたい人がやればいいし、やりたくない人はやらなくていいい、自分はあんまかかわりあいになりたくないかな、くらいの、ごくのシンプルなところに落ち着いてきた。
親は、そういう私の姿勢についてはじめのうちはいろいろと小言を言ってきていたけど、会話を重ねるうち「それも考え方だね」とむこうが折れた感じ。
高校生になると学区がかなり広くなり、生徒数も中学までとは比べ物にならないため、同級生の二世について「あの子学会なんやな…」と会館である大きい会合の場に来て出くわして互いに知ることになる。
けっこういるのにおどろいた。
多分あなたのまわりにもいっぱいいると思いますよ、私がそうであるように口にしないだけで。
学会員の間では、創価大学は超絶いい大学、東大にも負けない日本最高峰の大学! みたいな扱いなので、高校に進学してから偏差値的に全く大したことないのを知って驚いたというか拍子抜けした。
めちゃくちゃいい大学なら目指すのもありかなと思っていたけど、そうでもなかったので、最終的に滑り止めの一環として受験した。
活動自体はどうでもいいかなと思いつつ受験しているの……もうこれは、幼少期からの刷り込みとしか言えないと思う。
偏差値的に大したことなくても、学会員の間ではめっちゃほめてもらえるのもわかってたし…。
当日の試験も易しかったし、学費免除の枠で合格したが、魅力を感じてるわけではないので進学はしなかった。
同じクラスの、割と熱心な二世からは「せっかく合格したんだから行かない?」と最後まで説得されたが「すまん、京都行きたいわ!」ってことで断った。
親でもそんなこといってこないのに…とおもってちょっと引いた。
そんなわけで京都に進学したら、すぐ現地の会員の人が面会に来て、京都の会館(堀川にある立派なやつ)に連れていかれたし、同じ大学の先輩ともつながらせられた。
ちなみに大学には創価学会のサークルがあって普通に活動していた。
極左サークルとかはめっちゃ厳しく規制されてて、校内いたるところに掲示があったが、創価学会のサークルは普通に野放しになっていた。
どっちにしろ私は入らなかったし、学会員としても一切活動しなかった。会館に行ったのも最初の一度くらいだったかな。
この時つながらせられた大学の先輩、1回生前期のかなり早い段階で連絡を取らなくなり、名前も覚えていないのだけど、この人に勧められて宮本輝の『錦繍』を読み、最終章で身も世もなく泣きまくったのを覚えている。
ITエンジニアでそこそこ都内で働いてきた23区住みフリーランスなのだけど、完全リモート可な案件増えてきたし、ここいらで都落ちしようかとおもってる。
けど、一番困っているのが、どこに引っ越せばいいのかがわからない。
今までは、だいたい職場に近いとこに引っ越してた。電車時間を生産的に過ごせないので。
わりとそれを重視していたので、リモート前提だと急にどう決めればいいかわからなくなった。
いまのところは、なんとなく神奈川かな、ぐらいしか思い浮かばない。
別に、いざとなったら職場に通える距離だし、とかでは全然なくて、
他に住む場所の条件って何があるんだろう。
クリエータじゃないし50M以上実測であれば十分。
メタバースだのVRだのが進むと5Gとかじゃないときついかもだけど、まだ考えなくていいと思ってる。
英語喋れるし海外でも問題ないが、ビザとかとれるのかよくわからん。
資金調達とかSaaSとかベンチャーとかスタートアップとかベンチャーキャピタルとか、そういうキラキラとは別な零細自営業について語ります。
特に戦略とか持たずに、のんべんだらりと会社をやってきたおっさんの独り言です。同時期に会社を急速に伸ばした人を見ると、自分のだめさ加減が露呈して辛い。
家族のケアをしながらできる働き方はないかと模索したところ、「起業、、、ありかも」と思い立ち、友人知人から仕事を集めたらなんとかなりそうなことが判明。
よっしゃ、辞めるぞ、ということで、転職から1年未満で退職。退職時は、同じ会社の人に結構微妙な対応をされる。まあ、そりゃ実績も出さずに1年未満で辞める人にかける言葉もないよな。辛い。
退職直後は、友人知人からご祝儀の仕事が来て結構ウハウハとなるが、その後、ご祝儀案件がすぐ蒸発。辛い。
「あなたに任せるよりも、安いインターンに任せることにしました」という屈辱的なこともたくさん言われる。辛い。
友人と共同で受けた案件、お客さん会社の社長がパワハラ気味で、やった作業を簡単にひっくりかえすx3を食らう。辛い。
この時点でサラリーマン仕事6ヶ月(給与)+自営業6ヶ月(売上)=800-900万円
友人からの仕事で食いつなぎつつ、クラウドソーシング。辛い。1文字1円のライター業とかやる。格安SIMがどうとか、転職がどうとか、そんな記事を量産する。
格安SIM記事なんて、定められた構成に従い、機械的に書くだけ。書く機械。人ではない。そして、1円ライターでも「もっとちゃんと書け」と怒られる。辛い。
それ以外にもクラウドソーシングのよくわからない案件をこなす。光通信系の会社の人から「プロだと思って頼んだら全然だめですね」と言われる。辛い。
新卒で入社した会社が結構有名企業だったので、「あー、あんな有名な会社に勤めていたのに、そのまま勤めていれば年収もずいぶん高かっただろうに、いまは1円ライターやっているのかー」と自分を客観視すると、辛い。
単価高いITエンジニアがうらやましくて仕方ない。ああ、どうしてプログラミングやらなかったのだろうと人生を後悔する。辛い。
元同僚の会社の営業代行などしてしのぐ。営業なんて大嫌いなのに。辛い。
自営業12ヶ月(売上)=700-800万円
クラウドソーシングの受注案件から強引に営業したら、月額30万円くらいの安定収入になる。嬉しい!
営業代行仕事も好調で結構売上が伸びる。ただ、営業対応と出張が多いのと、売上にならない案件フォローとかがかなり面倒。フォロー遅れると怒られる。辛い。
家族のうつ病が再び悪化。仕事したいのに、やる気もあるのに、張り付いていないといけなくて仕事できない日が増える。辛い。
Switch買ったら、昔のゲームやるのが面白すぎて仕事が進まない。でも止められない。作業遅れ多発。辛い。
また別な継続案件を口コミで受注するも、親会社が推奨する会社にリプレースされてしまい、一瞬で案件なくなる。辛い。
業界違いの案件を受けたら、「メールかChatworkで連絡してください」としたにも関わらず、毎日電話くる。そのうえ、レスが悪いと怒られて案件終わる。辛い。
自営業12ヶ月(売上)=1000-1100万円
子供が生まれる。しかも双子!嬉しい!でも、お金なくて色々申し訳ない。旅行するときに、泊まりたいホテルでなくて、安いホテルから順に調べないといけない。辛い。
行きたいタイミングで旅行に行けず、カードのマイルを使って特典航空券が空いているタイミングを選ばないといけない。辛い。
元同僚の営業代行していた会社から、いいがかりをつけられて売上が減少。新卒で入社したときは、楽しく酒を飲み交わしたことを思い出す。一緒に仕事しなければ友情は続いたのだろうに悲しい。紙の契約書がないって辛い。
売上どうしようと思い悩んでいたところ、交通事故にあい、そのさなかにクラウドソーシング経由で営業した安定収入案件を失注。辛い。
別な友人経由で仕事をもらうが、「すみませんが、成果でないですね」と言われ、2ヶ月で切られる。辛い。
コロナで友人知人と会えず、精神的なバランスも崩れる。精神的なバランスが崩れても、息子たちのおむつ替えもミルクも待ってくれない。辛い。
自営業12ヶ月(売上)=700-800万円
知人からの紹介で再び別の案件を受注。月30万円くらい。嬉しい。
他の案件がほとんどなくなり、辛い。業績低迷を理由にコロナ融資受ける。ある意味コロナの恩恵を受ける。うちみたいな会社にお金貸してくれるなんて最高。大好き日本国。
妻から、「稼ぎが悪い、お金がないから子供の服を1着買うのも悩む、友人は家を買っているのにうちは車すら買えない、ちゃんと考えずに会社経営しているだろ、融資返せるのか」と言われる。辛い。
さすがに食っていけないので、ほぼフルリモートでサラリーマンも再開する。成功できずサラリーマンに都落ちした気持ちになる。恥ずかしい。辛い。
ただ、普通に考えて自分の会社の仕事しながら、サラリーマンやるのは普通に考えて無理がある。溺れながら時々顔を出して仕事をしている感を装っているような感じ。情けないし辛い。
自営業12ヶ月(売上)+サラリーマン4ヶ月=700-800万円
2022年予定
来年は、サラリーマン年収が1000-1100万円+自営業が600万円。結局自営業の金額はしょぼいので、ダメ社長だ。辛い。
金額全体が増えたのはうれしいが、仕事をコントロールできず溺れている。自分の会社もサラリーマン仕事も完璧にできていない。だましている感が強い。辛い。
大学時代の同期は、キラキラベンチャーでCxOして資産数十億円築いたり、コンサルで上り詰めたり、起業して成功したり、外資系の部長職で年収3000-4000万くらいのポジションについている。羨ましくて仕方ない。辛い。
会話の流れがあってそういったことが紛れ込んでくるならわかるんだけど、ほんとうにその一文だけ。だからなんなんだ。
最初はこちらで話を膨らませて返答していたけど、妙なところで会話を向こうから辞めてしまうしこちらの話題に興味がない場合は無視である。
これでは会話というよりログを送りつけられているだけだ。そんなことならTwitterや日記にでも書いておけばいいことだろう。
そんなところから任期付ポスドクを繰り返して44歳になってしまった理由を垣間見てしまった気がする。
一番大事な時期に論文も書かず海外の学会ついでに遊びまくっていたからかもだが、結局顔見知り程度の人脈しか残らなかったんだろうな…。
会話の際にも「~さんとは面識がある/ない」とか聞いてもないのに言い出すが面識や博士号があれば、無条件に人は評価してくれると思ってんのかな。
そしてその人は事務職を見下したり、一般企業に対する研究界隈への無理解に怒っている。お金が集まらないのは企業が研究への価値を認めないからだ =認めないのは知性がないからとのこと。某プロジェクトが表彰されたときも第一声は「国は表彰より金を出せ」と冷水をぶっかけている。
この人の今までの給料は馬鹿にしている営利企業の税金で成り立ってるし、だいたい何様なのかと。お前が買った自慢の最新iPhoneは誰かの税金だよ・・・ちゃんと出してるよ。あなたは見返りに何を残しましたか?残業に文句をつけ、1時間程度の時差分で起きたような超過勤務にケチすらつけていましたが。
視野が狭すぎじゃないのか。
お勤め施設の要覧などを見ても大きいプロジェクトから外されてるし、3年後はどうなることか。もはや都落ちしないことだけに必死になってるように見える。