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はてなキーワード: 達兄とは

2023-12-24

お見合いの話になると、なんでそこに父親は含まれないんだろうな

当時はそれが当たり前だったけど、今考えるとおぞましい気もするし、意に沿わぬ結婚をさせられて子を産まされ、稼ぐ力を奪われて自立もできなくなったことを呪いながら人生を終えた女性も多かったと思うが。

https://b.hatena.ne.jp/entry/4746858782856212399/comment/matone


こういう話が出るけど、なんでそこに男は含まれないんだろうなって思う。


俺の父親はクソだったけど、お見合い制度被害者だと思うよ。俺とか俺の兄弟とかを育てるために金も時間も全部奪われた。



俺の父親は人とコミュニケーションをとるのが苦手で怒りっぽく酒飲みの典型的カスだったけど、


音楽やら車やら服やらスポーツ観戦やら読書やら、いろんな趣味を持ってて、たまに口を開いてその辺の話を聞くと色々蘊蓄を語ったりしてまぁまぁ面白かった。


でも親父って、それらの事に時間や金をどれだけ使えたんだろうなって今、俺が大人になって仕事し始めて、改めて思う。


俺がガキの頃は、俺達が寝るまで帰らなかったなんて毎週のようにあったし、ひどい時は1週間のうち、2,3日しか家に帰らないなんてこともあった。


警察関係で働いていたか仕事ではずいぶんキツイものも見聞きしたらしい。


家に帰っても物置みたいな一室で何かやってるか、居間で黙って酒を飲んでるかだけで、親父の居場所なんてなかったし、


金も、俺達兄弟はみんな大学に出たから、かなりの部分はそっちに持って行かれたんだろう。





俺の父親がクソなのは間違いないけど、そうさせたのは俺や俺の母親であって、もしお見合い結婚圧力が無ければ、人に怒鳴ることも酒を飲み過ぎる事もなかったんだろうと思う。


子供世間体を盾に、意に沿わぬ仕事をさせ時間金も奪われ、司法制度関係からそれらを投げ捨てても金は戻ってこず、やりたい事なんてほとんど出来ずにただ金を吐き出すだけの存在にさせられたんだよ。


そしてその苦しみすら矮小化されたり、なかったことにするなんて許されるわけないだろ。

2023-06-27

ガンダム履修してないけど

タヌキックって増田ネタじゃなかったの?

2022-01-17

大嫌いな父を見殺しにしてしまった話

私は父が大嫌いでした。

末っ子の私は末っ子あるあるなのか、あまり幼少期の写真もなく、家族旅行に行ったのもベビーカー東京ディズニーランドに行ったのが最後だった。シンデレラ城の前で撮った古びた写真を見せられ、ほらみんなでディズニーランドに行ったんだよ。なんて母に言われても覚えているわけもなく、羨ましいという気持ちが膨らむばかりでした。

誕生日ひとつとっても、兄達は母手作りアンパンマンケーキと一緒に写った写真も残っていてズルい。私の誕生日なんて写真どころかケーキがないことだってあった。それも全部、父が悪い。父がギャンブル好きで借金まみれなのが悪いのだ、と思っていました。休みの日は寝るかパチンコ競艇か。たまに家族サービスをしてくれることもありますがそれは稀なことでした。

そんなこんなで家計は火の車なので私が小学校中学年の頃から母は働きに出るようになりました。最初日中働いていた母も、稼ぎが足らずホテル厨房の夜パート、更にスナックと職を変えていきます。父も泊まりや一日仕事が多かったので兄妹だけで夜を過ごすことも多くなりました。それに比例するように両親の喧嘩が増えていきます。何度も母の携帯を逆パカ(死語)して破壊したり、服を切ったり、暴力を振るったり、果ては首を絞めて兄妹で警察を呼んだこともありました。祖父母の家から電車で1時間以上かけて小学校に通うことも何度もありました。

なんで離婚しないのかと兄妹で何度も言いましたが、ひとり親で兄妹5人も育てられる福祉サポートも無く、余裕がないか我慢するしかないと言われ続けました。

そうして半引きこもりになった私は高校受験の時を迎えていました。レベルを下げまくった公立高校すら内申点の悪さで落ち、さらに下の公立二次募集も落ちました。父から私立にやる金なんて無いと言われ、もう中卒で生きてくからいいわ!喧嘩していたところを母の説得で私立に進学することに。(兄は私立に行ったのになんで私は駄目なのかという思いもありました)

そして在学中のバイト代は完全母管理バイト代自身お小遣い代としているバイト仲間が羨ましくなることもありました。若かったので。

やってきました修学旅行私立あるあるなのか、私達の旅行先は海外でした。授業でも楽しくどこを観光するか話し合っているうちに班長に決まり、ワクワクは最高潮。ですが、修学旅行の積み立てを崩し、父が遣いこんでいたことが発覚しました。

ひととおり泣いて暴れた後に全てを諦めました。もう行けないんだ、どうでもいいやと。母が知り合いかお金を借り、行けるようにしてくれましたがそんなお金で行くのも嫌でした。行かせようとする母と行かない私で揉めに揉め、結局無理矢理タクシーに乗せられた私は集合場所遅刻して現れました。こんな話出来るわけもないので、寝坊して迷惑をかけてごめんなさいと謝り普通の顔をして修学旅行に参加しました。先生とも一悶着ありましたがいい思い出になりました。

その後も両親の喧嘩は何度もありましたがそれもいつも通り。出席日数は足りてないはずでしたが先生方の温情で無事に卒業の日が来ます奨学金も借りられず、高卒フリーターになりました。成人式振袖ももちろんお金がなかったので諦めていましたが、小学生の頃に亡くなった祖母が私の為に着物屋さんにお金を掛けてくれていたので素敵な振袖を買うことができました。本当に祖母には感謝しかないのです。

なんやかんやで父も年を取り、それにつれ性格が丸くなりました。仕事に行かなくなってからは毎朝のように私を職場に送ってくれました。両親と私でいきなり日帰りで温泉に行くこともありました。父が私にたくさん話しかけてくるようになりました。ですが返事だけで会話をすることはほとんどありませんでした。どうやって接していいかもわからないし、今までのことを無かったことにされるのも嫌だった。だから冷たくするくらいが丁度いいと思っていました。

今は誰も住んでいない祖父母の家に家族が集まりました。夜は皆で近くの焼肉屋さんで食べて、父は発泡酒ではなく、大好きなビールをしこたま飲んでそれはご機嫌でした。祖父母の家に着くと一足先に父は横になりました。たまに母に水を持ってくるように頼んでいましたが、私達兄妹はそんな父を気にすることなく、リビングで兄妹水いらずでテーブルゲームをして遊んでいました。すると、父が急に雄叫びのような大きな声をあげました。その時に、相変わらず寝言がうるさいなぁなんて言わずに、確認をしに行けば良かったと後悔しています

30分後、気づいた時には父は動脈破裂で亡くなっていました。

父がまさか亡くなるなんて。晴天の霹靂でした。思春期の頃は死ねばいいのにと何度も思っていましたが、本当に死ぬとは思っていませんでした。憎まれっ子は世に憚ると思っていたんです。どうせ母のが先に亡くなるだろうから老後の面倒見るの嫌だなーと思っていたんです。震える手で救急車を呼んだり、警察の方に事情を聞かれたりしましたがあんまり記憶がないです。ただ、あの時に気付いていれば父は助かっていたんじゃないかということばかり考えていました。

最近は姪っ子を可愛がったり猫を可愛がったり車を出してといえば出してくれたりして、実は好感度が上がっていたのです。冷たくしたり、母と一緒にふざけてお尻を叩いたりして、少しずつあの頃の仕返しをしていたのです。結局逃げられましたが。畜生

何年か経ちますが今でも父への思いはあまりまとまっていません。嫌いなような好きなような。まあ素直に好きと言いたくないだけなのでしょうけど。

あんなにあんなに憎んでいても時が流れると絆されたり、むしろ後悔したりすることがあるんだよ。ということです。ちなみに兄の中には未だに父を許していない人もいます。なのでまあ人それぞれですね。でも亡くなった人のことを悪く言っても仕方がないし、良くしてもらったこともあったのでその事を覚えておこうと思います天国に行けたかはわからないけどイッヌと仲良くしてて欲しいな。

母と久しぶりに父の話をしていたらお互いに涙が止まらなくなったので書いてみました。

人生ままならないですがこれからも頑張るぞ!

2022-01-10

大嫌いな父を見殺しにしてしまった話

私は父が大嫌いでした。

末っ子の私は末っ子あるあるなのか、あまり幼少期の写真もなく、家族旅行に行ったのもベビーカー東京ディズニーランドに行ったのが最後だった。シンデレラ城の前で撮った古びた写真を見せられ、ほらみんなでディズニーランドに行ったんだよ。なんて母に言われても覚えているわけもなく、羨ましいという気持ちが膨らむばかりでした。

誕生日ひとつとっても、兄達は母手作りアンパンマンケーキと一緒に写った写真も残っていてズルい。私の誕生日なんて写真どころかケーキがないことだってあった。それも全部、父が悪い。父がギャンブル好きで借金まみれなのが悪いのだ、と思っていました。休みの日は寝るかパチンコ競艇か。たまに家族サービスをしてくれることもありますがそれは稀なことでした。

そんなこんなで家計は火の車なので私が小学校中学年の頃から母は働きに出るようになりました。最初日中働いていた母も、稼ぎが足らずホテル厨房の夜パート、更にスナックと職を変えていきます。父も泊まりや一日仕事が多かったので兄妹だけで夜を過ごすことも多くなりました。それに比例するように両親の喧嘩が増えていきます。何度も母の携帯を逆パカ(死語)して破壊したり、服を切ったり、暴力を振るったり、果ては首を絞めて兄妹で警察を呼んだこともありました。祖父母の家から電車で1時間以上かけて小学校に通うことも何度もありました。

なんで離婚しないのかと兄妹で何度も言いましたが、ひとり親で兄妹5人も育てられる福祉サポートも無く、余裕がないか我慢するしかないと言われ続けました。

そうして半引きこもりになった私は高校受験の時を迎えていました。レベルを下げまくった公立高校すら内申点の悪さで落ち、さらに下の公立二次募集も落ちました。父から私立にやる金なんて無いと言われ、もう中卒で生きてくからいいわ!喧嘩していたところを母の説得で私立に進学することに。(兄は私立に行ったのになんで私は駄目なのかという思いもありました)

そして在学中のバイト代は完全母管理バイト代自身お小遣い代としているバイト仲間が羨ましくなることもありました。若かったので。

やってきました修学旅行私立あるあるなのか、私達の旅行先は海外でした。授業でも楽しくどこを観光するか話し合っているうちに班長に決まり、ワクワクは最高潮。ですが、修学旅行の積み立てを崩し、父が遣いこんでいたことが発覚しました。

ひととおり泣いて暴れた後に全てを諦めました。もう行けないんだ、どうでもいいやと。母が知り合いかお金を借り、行けるようにしてくれましたがそんなお金で行くのも嫌でした。行かせようとする母と行かない私で揉めに揉め、結局無理矢理タクシーに乗せられた私は集合場所遅刻して現れました。こんな話出来るわけもないので、寝坊して迷惑をかけてごめんなさいと謝り普通の顔をして修学旅行に参加しました。先生とも一悶着ありましたがいい思い出になりました。

その後も両親の喧嘩は何度もありましたがそれもいつも通り。出席日数は足りてないはずでしたが先生方の温情で無事に卒業の日が来ます奨学金も借りられず、高卒フリーターになりました。成人式振袖ももちろんお金がなかったので諦めていましたが、小学生の頃に亡くなった祖母が私の為に着物屋さんにお金を掛けてくれていたので素敵な振袖を買うことができました。本当に祖母には感謝しかないのです。

なんやかんやで父も年を取り、それにつれ性格が丸くなりました。仕事に行かなくなってからは毎朝のように私を職場に送ってくれました。両親と私でいきなり日帰りで温泉に行くこともありました。父が私にたくさん話しかけてくるようになりました。ですが返事だけで会話をすることはほとんどありませんでした。どうやって接していいかもわからないし、今までのことを無かったことにされるのも嫌だった。だから冷たくするくらいが丁度いいと思っていました。

今は誰も住んでいない祖父母の家に家族が集まりました。夜は皆で近くの焼肉屋さんで食べて、父は発泡酒ではなく、大好きなビールをしこたま飲んでそれはご機嫌でした。祖父母の家に着くと一足先に父は横になりました。たまに母に水を持ってくるように頼んでいましたが、私達兄妹はそんな父を気にすることなく、リビングで兄妹水いらずでテーブルゲームをして遊んでいました。すると、父が急に雄叫びのような大きな声をあげました。その時に、相変わらず寝言がうるさいなぁなんて言わずに、確認をしに行けば良かったと後悔しています

30分後、気づいた時には父は動脈破裂で亡くなっていました。

父がまさか亡くなるなんて。晴天の霹靂でした。思春期の頃は死ねばいいのにと何度も思っていましたが、本当に死ぬとは思っていませんでした。憎まれっ子は世に憚ると思っていたんです。どうせ母のが先に亡くなるだろうから老後の面倒見るの嫌だなーと思っていたんです。震える手で救急車を呼んだり、警察の方に事情を聞かれたりしましたがあんまり記憶がないです。ただ、あの時に気付いていれば父は助かっていたんじゃないかということばかり考えていました。

最近は姪っ子を可愛がったり猫を可愛がったり車を出してといえば出してくれたりして、実は好感度が上がっていたのです。冷たくしたり、母と一緒にふざけてお尻を叩いたりして、少しずつあの頃の仕返しをしていたのです。結局逃げられましたが。畜生

何年か経ちますが今でも父への思いはあまりまとまっていません。嫌いなような好きなような。まあ素直に好きと言いたくないだけなのでしょうけど。

あんなにあんなに憎んでいても時が流れると絆されたり、むしろ後悔したりすることがあるんだよ。ということです。ちなみに兄の中には未だに父を許していない人もいます。なのでまあ人それぞれですね。でも亡くなった人のことを悪く言っても仕方がないし、良くしてもらったこともあったのでその事を覚えておこうと思います天国に行けたかはわからないけどイッヌと仲良くしてて欲しいな。

母と久しぶりに父の話をしていたらお互いに涙が止まらなくなったので書いてみました。

人生ままならないですがこれからも頑張るぞ!

2021-09-28

ガチャという言葉が嫌いだ

僕は親ガチャという言葉が嫌いだ。

だが、だからといって親ガチャという語が内包している階級固定化格差問題否定する気はないし、寧ろそれらは問題であるとさえ考えている。

しかし、個人的感情からこの言葉は好きになれない。

世間一般的には僕の家庭は経済的には恵まれている。父親大手に勤め、兄弟2人とも首都圏中高一貫私立から難関国立大学に進学した。

これだけを見れば親ガチャに勝ったのだといわれるだろう。

だが、僕達兄弟の親は所謂低学歴教育ママと無関心の父親”だった。“低学歴教育ママ”のデフォルトである束縛は勿論、それに加え暴力もあり、僕の体には未だに刃物の傷が残り、弟も親に殴られ骨が折れたことがある。

それに加え僕個人としては、「あなたは〇〇なんだから黙っていなさい」と中学時代母親に言われたことが子供ながらに心に来た。

これは国内有数の進学校入学していた弟に対して、中堅進学校に通っていた僕に母親が放った言葉だ。

多分自分で考えているよりもこの言葉より強烈なもので、それからは親に対し面従腹背で何を言われていてもヘラヘラするようになったと思う。

それなのにそれ以上酷い状況に追い込まれのが怖くて、いつもビクビクしながら親の顔色を伺い、先回りしてよく家事などをしていた。このような生活が続く中で、精神は摩耗していった。

だが大学入学一人暮らしをするようになった。一人暮らしは本当に精神的に楽で、そこで一時期は“毒親”といった言説にハマったりもした。(今はある程度は抜け出せたと思いたい)

途中から気持ち悪い唯の自分語りになってしまっていたが、要するに言いたいことは、一部分だけを見て“親ガチャ”という言葉を使うのはあまり乱暴ではないかということだ。

ガチャという語が内包する、階級固定化格差毒親などの問題をそれぞれの問題として本来捉えるべきであり、親ガチャといったような雑な言葉を使うのではなく(雑な言葉であるから使われているというのもあるが)、より問題を明確にすることで解決の糸口も見えてくるように思える。

またそう考えないと、自分にとっての地獄であったあの中高時代をまるで存在しなかったようにされているようでやりきれない気持ちになる。

2021-08-19

田舎自民党員の世界を知ってほしい

祖父医者だった。村唯一の医者医師会員で自民党員。

家族は全員法人理事関係法人に勤めており、もれなく自民党員。

もちろん選挙は好きに投票しても良いのだが、地元自民候補者が落選した暁には損をするので大人しく入れる。

総裁選の票も何口も持っているので楽しいし、自分の票が総理大臣に繋がれば誇らしい気持ちになる。

達兄弟は〇〇先生のお坊ちゃんお嬢ちゃんと呼ばれて村中から接待を受けて育った。

車で30分以内の距離に他の病院は無かったので役場学校も私達を特別扱いした。

祖父にくっついていき、成人前から総裁選の票を入れさせてもらっていたし、小さな選挙ほど力を感じた。

村の投票率はほぼ100%だった。都会の人間にはわからない世界だと思う。

私たち選挙は、感覚的には直接選挙だ。支持率が下がるとイラっとさえする

ただ、一族医者が一人いたというだけである

私たちは紛れもなく烏合の衆だ。でも祖父なき今もまだ力を失っていない。

不便な田舎を適度に維持し続けてほしい。コレが本当に大事だと思う。

そうすれば私たちはいつまででも王様でいられる

この村にはもう老人と宗教家しかいない

「次は誰に総裁やらせます?」医師会が新しく送り込んできた若い医者も、数年でそんな口をききだす。

これで良いとは思っていないが、これが日本人政治限界だとも思ってる

2020-08-03

俺の姉は強かった。

俺は5人家族、3兄弟末っ子で上には兄と姉が居る。兄は絵に描いたような優秀な人で、頭のいい大学を出て新卒入社した会社でも上手くやっているので、周囲からはよく「自慢のお兄ちゃんでしょう。」と言われる事があるし、肯定している。下の2人の手本になる様な人であれという両親の言葉を苦にもせず実行する姿を俺は尊敬している。

対する姉は、そんな兄の妹とは思えない様な人で、昔から小学校中学校では「あの人の妹なのに」と言われていた様だし、俺も先生から「君はお兄ちゃんに似ていて良かった。」と言われる事が多かった。「あの人の弟とは思えないくらい真面目だね。」と言われる事すらあった。ここでは、そんな姉の話をさせて欲しい。

我が家学歴コンプレックスを持つ母とそんな母に言いなりな父に育てられ、母は俺達が幼い頃からいい大学に出て、良い会社就職するんだよ。」と教え込んでいた。兄は幼い頃からの子達よりも優秀で、褒められてばかりの少年だったので母は自慢に思っていた様で、その頃兄と同等程度の学力を発揮していた姉を小学校1年生の頃から塾に通わせ、学校の授業の範囲を先取りする形でどんどん吸収させ、兄より優秀な娘を作ろうとしていた。また、ロングヘアも可愛らしい服も似合わないと笑われた過去トラウマとしていて、それの当て付けの様に姉の髪を伸ばし、可愛らしい服を着せていた。姉はそれを従順に受け入れていたし、身内の贔屓目もあるが姉はかなりの美人であった為、幼少の頃の姉は俺にとって「可愛いお姉ちゃん」だった。

転機が訪れたのは、姉が小学校4年生、俺が小学校1年生の時だった。よく一緒にケーブルテレビ放送されていたスラムダンク兄弟3人で観ていた俺達は、3人で地元バスケチームに入りたいと両親に相談をした。

父は「スポーツを習うのは良い事だ」と賛成していたし、母もスポーツに興味を持った俺達を喜んでいたが、入部を認めて貰えたのは俺と兄の2人だけ。姉は「お姉ちゃん大事な塾があるからそんな暇無いでしょう。」と却下されてしまった。その時姉は「それもそっか、塾と被るもんね。」と笑っていたが、その後子供部屋に戻った時、ボロボロと目から涙を零して「行きたくて塾行ってる訳じゃないのに。」と泣いていた。俺はそこで初めて、姉の本心を知った。兄はそんな姉を見て「母さんを説得しようか。」と声を掛けていたが、泣きながらも姉は「いい、無駄やと思う。」と首を振っていた。

それから姉は、塾をサボる様になった。塾の時間に外に出て居るものの、友達の家で遊んでいる事を俺は知っていた。姉の友人の弟もまた、俺の友人であったからだ。でも俺はそれを両親に報告もしなかったし、姉に知っている事も言わなかった。しかし、なんだか俺は悪い事を姉と一緒に隠しているつもりになってしまって、落ち着かなかった。

からはいつも、姉が居ない事について電話が来ていたらしい。父がよく連絡を受けていたらしいが、父にも思う事はあったのか母には姉が塾をサボっている事を伝えていなかった様だった。悪い事は、父も一緒に隠していたのだと思うとなんだか安心したが、偶々その日家に居て塾からの連絡を受けてしまったのは母で、母は全てを知ってしまった。そして、帰宅した姉の髪を掴んで家の柱に顔を打ち付け、殴り、11月の寒空の下、ベランダに締め出した。姉は泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返していて、兄も俺も助けてやりたかったけど、母はそれを許さなかった。あの日、父が母を説得して家の中に入れてやるまでの3時間程度の間、俺と兄は母がトイレに行った隙にこっそり姉にカイロを渡す程度しかしてあげられなかった。

やがて、両親が離婚した。原因はまだ幼かった俺に説明は無かったが、兄と姉は知っている様だった。でも姉は「知らない方がきっとお前の為だから」と言っていたし、兄は「両親がお前には教えないと判断したなら、俺もお前には言えない。」と言っていたので、理由は知らないままであるが、兎に角離婚した。そして、俺達兄弟は父に引き取られた。母は少し離れた場所引越し、1ヶ月に1度程度会関係になった。

母の引越しが行われた日。母が出て行ったのを見送った姉は、そのまま一人部屋を得ていた兄の部屋へと向かった。俺も暇だったので何をしているのかと着いて行くと、姉は兄に「ねえ、お兄ちゃんの着れなくなった服ちょうだい。」と言い出した。「男の服だからお前が着ると変だよ。」と言う兄はそれでも、持っていてもどうせ着れないからと姉に小さくなった服をあげていた。いつか、俺が大きくなったらお下がりで貰おうと思っていた服もその中には混じっていて、姉はそれを嬉しそうに受け取るとリビングで着替えた。女の子らしい、可愛らしい服ばかりを着ていた姉が、男の子の格好をしているのにそれはそれは強烈な違和感があったし、見ていた父も何事かと首を傾げた。

次に姉は、そんな父の所へ行って「髪の毛切りに行きたい」と言い出した。父は了承すると姉に美容室代を渡して、姉は通い慣れた地元美容室へと一人で出掛けて行った。リビングでそれを見ていた俺についでと言わんばかりに父はお小遣いをくれて、「これで駄菓子屋美容室の隣にあった。)行ってお菓子買って、姉ちゃんとわけっ子して2人で帰っておいで。姉ちゃんの事待っとくんぞ。」と言った。俺は了承してウキウキ駄菓子屋自転車を走らせ、駄菓子を沢山買って店の前で姉が美容室から出て来るのを待っていた。

店の前に出て20分くらいだろうか。美容室のドアが開く音がして顔を向けると、そこには男の子の服を着て、髪をすっかり短く切った、ジャニーズ風の雰囲気髪型になった姉が立っていた。「え、そんな切ったん?」「うん、長いの嫌やったっちゃん。てか何でおるん?」と会話をしている相手は姉なのに、見たことも無い姿にやっぱりなんだか違和感があった。離婚を機に、姉は塾も辞めたらしい。「ホントはずっと塾も長い髪も嫌やったっちゃんね。男子の服の方が動きやすそうやし、かっけーしさ。」と笑った姉は、何だかいつもより楽しそうだった。

中学生になった姉は、優秀な兄と比べられるストレス、兄が優秀な分同等の価値を求められるストレスから段々とおかしくなっていった。ちょっと悪い人達と一緒に居るようになって、学校サボる様になった。髪を染めてピアスを開けて、知らない人みたいになっていった。偶に会う母と姉の関係は冷え切っていた。理想とは真逆を進み始めた姉を母は受け入れられなかった様で、居ないものとして扱うようになってしまったし、姉は「元々ね、うちと母さんは理解し合えんのよ。やけん仕方ないね。」と笑い飛ばした。結局姉はそのまま中卒で社会に出た。

俺が高校生になった頃。よく姉が仕事休みの日に家に連れて来る女の子が居た。その子と姉は休みの度に会っているようで、なんだかやけに親しげだった。

姉は俺のテスト期間や週末に休みが被ると、よくご飯に連れて行ってくれて、多少値が張る店でも俺が好きそうな飯がある店によく連れて行ってくれていた。その日は個室タイプ居酒屋ランチ営業に2人で行っていて、聞けるのはこういう時しかない、と思って俺は口を開いた。

「ねえ、姉ちゃんってレズなん?」

姉は驚いた様に目を開いて、暫く迷う素振りを見せた後静かに首を振った「違うよ、でも、最近連れて来るあの子と付き合ってんの。」そう零した姉に、俺は首を傾げた。女と付き合ってるならレズなんじゃないの?そう言おうとした俺に姉は「今からね、お前がびっくりする話すんね。でもお前にしか言わないから皆には秘密ね。」と続けた。

話によると、姉は性自認が人と少し違う人だった。でも、性同一性障害という訳でもないし、自分が女であるというのは理解している。でも、自分が女だという事に強烈な違和感があり、だからといって男なのかと聞かれればそれも違和感がある、所謂性自認がどちらでもない人」だった。後で調べた話、こういう人をどうやら「Xジェンダー」と呼ぶそうだ。

そして、姉はレズビアンではなくて、性自認がどちらでもない関係上、女も男も異性であり同性。そして、自分とは違う人達という認識で、そこに差を持たない生粋バイ・セクシャルだった。でも、男と付き合うと女である事を強く求められるけれど女と付き合うと自分のままでも受け入れてもらえるからと、女性と付き合う事が多いのだと話していた。

その頃の姉は奇抜な髪色に、耳と顔に沢山のピアス。そしてやっぱり、男性物の服を着た性別も年齢もよく分からない様な見た目をしていて、「そういう格好もわざとなん?」って聞いた。そしたら姉は「女を押し付けられたちっちゃい頃の反動。分かんない、反抗期なんかな。」と煙草を片手に笑っていた。俺は姉を「姉ちゃん」と呼ぶのを辞めた。友達みたいに、名前で呼ぶようになった。姉はそれに気付いたみたいで泣きそうに潤んだ瞳で一言「弟のくせに生意気」と言った。

そんな話から3年後。姉に珍しく彼氏が出来た。親や兄の前では特に触れてなかったが、彼氏の紹介を終えた姉は俺の部屋に来て「あんね、彼氏ね。うちの性自認理解してくれる人なん。」「女の子やなくてね、うちのままで居ていいって言ってくれたん。」と嬉しそうに笑っていたし、性自認を打ち明けられない息苦しさと、女性と付き合うことによる周囲から偏見の目に晒されていた姉の言葉に俺は夜じわじわと一人で寝る前に泣いた。幸せになって欲しかった。姉は派手な見た目と素行から誤解をされがちだったが、いっぱい我慢して来た人だった。そして、誰より優しい人だった。自分を殺してでも、周りが求める理想従順である努力を、ほんの幼い頃から出来る人だった。ふたつしか貰わなかった大好きなクッキーを、「兄ちゃんと弟にあげるから」と食べずに持って帰って来る様な姉だった。人の為に、が出来る人だった。反発の仕方が分からなくて、反骨の仕方が上手くいかなくて、すっかり周りからは「グレたヤンキーのどうしようもない娘」だと思われていたけど、俺にとっては大好きで大事で、自慢の姉だった。

社会に出るまでの道筋は兄が示してくれた。でも、人に優しくする方法は、いつだって姉が示してくれた。

半年後、姉は彼氏同棲を始めて家を出た。寂しくて、荷造りする姉の手伝いをしながら、昔話を2人でして、引越しの前はアルバムなんか俺が引っ張り出してきて、あんな事あったこんな事あったと話して2人で泣いた。随分派手な見た目になった姉は、それでもやっぱり昔のままで「うちの事受け入れてれてありがとう」と嗚咽混じりに告げた。髪が長くて可愛らしい服を着た「可愛いお姉ちゃん」は、見た目が変わってしまってもやっぱり美人で、俺にとっては「かっこいい兄弟」にランクアップしただけだった。姉は泣き腫らした顔で翌日旅立った。俺はその日、寝る前にまた一人で泣いた。

姉には幸せになって欲しかった。やっと姉が、姉のままで居られる環境に旅立てた事が自分のことの様に嬉しくて、次会った時にもっと男みたいになってて、俺よりよっぽどイケメンになってたらどうしよう。なんて再会を楽しみに思っていた。

思っていたのに。

2年後姉はボロボロ状態で帰って来た。

髪を伸ばして、派手な色もやめて、ピアスだって全て外して、綺麗めな女性の服を着て、パンプスなんか履いていた。一人称は「私」になっていた。父には「やっぱ私さ、実家が好きだわ〜!嫁に行けんでごめん!」とか言って笑い飛ばしていた姉は、荷解きをする為に戻った自室で1人で泣いていた。

「びっくりした、めちゃくちゃ女になってて。」

だって、そうしろって言われた。隣に並ぶの恥ずかしいってさ。」

嗚咽混じりに聞いた話はあまりに酷い話だった。

彼氏が姉の性自認を受け入れてくれたのなんて嘘だった。姉と付き合いたいが為に理解者のふりをしていただけで、同棲開始直後からである事を求められ、髪は伸ばし黒く染め、持っていたメンズユニセックスの服は捨てられた。一人称も、喋り方も矯正させられ、前の喋り方が出ると「気色悪い」と詰られた。

「お前みたいな厨二病メンヘラと付き合ってやってんだから」と姉に言い聞かせ、2年間ずっと都合のいい存在として消費されていたらしい姉の話は、俺の心にずっしりのしかかって来るなにかがあった。姉には幸せになって欲しかった。姉にはありのままの姿で生きていて欲しかった。泣いて帰って来てなんて欲しくなかった。

俺は財布から金を抜いて姉に渡した。「俺、お前のショートヘア大好きだったよ。かっけーもん。」

俺のお下がりの服は、体格差から姉にはかなり大きかったけど、それでも小さいサイズのものを選んで貸した。あの日から10年以上経って、姉は今度は兄ではなく俺の服を着て美容室へ向かい、長い髪の毛をすっかり短くして来た。ツーブロックまでした姉を俺はあの日と同じ様に駄菓子屋で待ちたかったけど、駄菓子屋改装して雑貨屋になっていたから、雑貨屋で姉の部屋に飾るアクセサリースタンドを買って、袋を提げて店の前で待っていた俺に姉は「お前もおっきくなったね」と笑った。やっぱり中性的な姉は美人だった。

俺は5人家族、3兄弟末っ子で上には兄と姉が居る。兄は絵に描いたような優秀な人で、頭のいい大学を出て新卒入社した会社でも上手くやっているので、周囲からはよく「自慢のお兄ちゃんでしょう。」と言われる事があるし、肯定している。下の2人の手本になる様な人であれという両親の言葉を苦にもせず実行する姿を俺は尊敬している。

対する姉は、そんな兄の妹とは思えない様な人で、昔から小学校中学校では「あの人の妹なのに」と言われていた様だし、俺も先生から「君はお兄ちゃんに似ていて良かった。」と言われる事が多かった。「あの人の弟とは思えないくらい真面目だね。」と言われる事すらあった。しかし、俺は幾らだって言いたい。俺を優しいと言うけれど、その優しさは姉から貰ったものだった。優しくて、生きづらくて、それでも決して誰かを悪く言わない強い姉だって、昔から兄と同じくらい自慢の姉だった。

2020-06-10

出版業界の息子です。この度は母、業界がご迷惑をおかけして申し訳ございません。

この事ははてなブックマークで知りました。母の口からは直接聞かされておりません。

母、女手一つで私達兄弟を育ててくれました。その母がここまで皆様にご迷惑をおかけしてしまったのは未だに信じられません。

しかし皆様の言葉を聞いて客観的判断するとそうであろうこともわかりました。

この場を借りて謝罪申し上げます

2020-02-20

 昔から、人に強く言えなかった。

その場の空気を悪くするのが嫌だとか、

自分意見が正しいとは限らないのに安易に言えないとか、

今まで頭の中で適当理由を付けてきたけど、

本当はもっとシンプル理由があった。

 人に攻撃を受けるのが怖いからだ。

 人に聞き流されて、受け入れてもらえないのが怖いからだ。

 その記憶はずっと昔。

私が小さい頃、父は酒を飲むたびに私達兄弟を怒鳴り散らした。

直接暴力を振るったことは殆どないが、時々襖にものが投げられたりもした。

怒声はいつも突然だった。

当時の私達は、幼稚園生くらいだったと思う。

無力で口答えもできなかった私は、ただただ身を縮こまらせたまま、

その時間が終わるのを待った。それしかできなかった。

 母親はというと、いつもそそくさと台所に逃げてしまう。

いつも溜めこんでいる皿洗いを、こんな時ばかりは自ら洗いに行っていた。

実家居間台所が直結していて、私の定位置からは母の背中がよくみえた。

その背中と時々聞こえる流しの音が、今でも脳裏に焼き付いている。

 その数年後、父が幼い弟を突き飛ばしたことをきっかけに、

父は酒で怒鳴ることは無くなった。

 それでも、私の脳裏には怒鳴る父と、弟を突き飛ばした父の姿が脳裏に焼き付いている。

 その過去から私は、頭の中に「人は突然怒るから無理に刺激しない方がいい」という考えが刷り込まれしまった。

から相手が嫌がるだろう意見を言うのが怖かった。

いつも人の怒りに敏感で、ビクビクしていた。

大声を聞くのが怖かった。

 

 人に聞き流される孤独が心に沁みついたのも、幼い頃の記憶からだった。

はいつも、私の話を最後まで聞いてはくれなかった。

母は私の話し方を会話の最中にいつも指摘した。

主語が無いからわかりづらい」

憶測ものを言わない」

言い訳をしない」

そうして、話すことに疲れ果てた私に、母はいつもこう言って締めた。

あんたにも原因があるんじゃないの?」

 私は次第に自分の悩みを人に打ち明けられなくなった。

 母に物事を指摘することも難しかった。

もう少し大人になった頃、母の言動に疑問を抱き、それを指摘したことが何度かある。

その度には母は逆上した。

「私が悪いの?!」と。

 母の行動がはっきり悪だと言いたいわけじゃなかった。

ただの純粋意見だ。その言動を少し変えた方が物事スムーズなのでは?という。

 しかし、私が懸命に説明をしようとすばするほど、母は乱暴に話を終わらせようとしてしまう。

結局私の意見を何一つ取り合ってはくれなかった。

 そういった日々のおかげで、私の心の隅に「人に懸命に想いを伝えても無駄だ」という気持ちが棲みついた。

 社会人になっても人に悩みを打ち明けることができずに、悶々と日々を過ごした。

人の言う「なんでも言って」が信用できなかったし、

私自身が最後まで自分気持ちを伝える自信もなかった。

 人が自分の話に戸惑っていると分かった瞬間、私は言葉を止めてしまう。

聞き手があの頃の母親のように私の話を迷惑に思っているかもしれない、と。

 そんなことすらもずっと言えずに心に溜めてきた。

 本当はずっと昔から言いたいことが山ほどあった。

 世間にも、同僚にも、友人にも。

両親にも、まだまだ言いたいことがある。

お父さん、

どうしてあなたは酒に逃げたんですか。

どうして直面している問題私たちと話し合って解決しようと思わなかったんですか。

私達が家事をサボっていると思うなら、どうしたらサボらずにできるようになるか、一緒に考えてくれたらよかったじゃないですか。

どうしてそれをしなかったんですか。

お母さん、

どうしてあなたは父に正面から対抗しなかったんですか。

どうして助けに来てくれなかったんですか。

どうして一緒に父から逃げてくれなかったんですか。

離婚なり、実家に帰るなり、対抗策はいくらでもあったはずなのに。

でもあなたはそれを言えば、私が悪いの?!とまた怒りだすのでしょう。

どうしてそうやって、私の話を聞き入れてくれないのですか。

私はただ、あなたのその態度が悲しかったと、そう伝えたいだけなのに。

 例えばこれを今本人たちに捲し立てたとしても、

「今更そんなことを言われても」と思われるのがオチだというのも分かっている。

 でも、自分がこの気持ちを抱えたまま生きるのもしんどくて、

からここに放流する。

 他人自由意見を言えるのを羨ましく思うのは辞めたいから。

どうしてあの人はあんなに自由発言できるのに、私はダメだったんだろう……って、

悔しい気持ちを抱えたまま生きるのに疲れたから

 誰かを無意識攻撃してしまう前に。

自分もっと楽に意見が言えるようになる人になりたいから。

2018-03-30

俺の父親しょうもない人間の屑。

俺の父親しょうもない人間の屑。

まず職業しょうもない定義的には職にはついておらず、ただ日がな一日パチンコをして、なにかあったら“事務所”に寄って、夜には負けて怒って家に帰ってくる。

それで30万円もらっていたらしい。ヤ○ザってすげえな。


次に子育てしょうもない基本的になんでも放置するくせに殴る蹴るだけはしっかりやる。

それで骨折して医者に行けば、後ろで「階段で転んだんだよな?」と俺に言ってくる。首肯した。

なにをしても褒めない。絵画コンクールで1番になっても褒めない。

その後入賞常連になったけれど「1番じゃないからなあ」とか言ってついぞ褒められたことがなかった。

でも罰だけは与える。サディズムがすげえな。


性格しょうもない。あれをしてやった、これをしてやったばかりで「してやれなかった」「してしまった」ことを一度も口にしたことがない。

謝罪をしない。小さい頃電気屋で店頭デモパソコンを夢中になって遊んでいると、父親が切れてしま店員を殴って怒鳴り散らしていた。

お兄さんは鼻血を出しながら怯えきっていた。屑。すげえな。


考え方がしょうもない。俺が精神病気になってもそれを認めようとしなかった。

から見るとただの怠け者らしいので、これで治るはずだと整体だの電気治療だの行かされた。

俺は今も障害者手帳を持っている。顧みなさすげえな。




俺の父親は本当にしょうもない職業が本当にしょうもない

抗争になって“指定”になって、家にいると俺達兄妹も殺されかねないから1週間に一度しか帰ってこなくなった。

1週間に一度、いつ殺されるかわからないのにきっちり家に帰ってきて、お金と1週間分の食べ物を置いていく。

ワケは何も言わない。俺はそれをいいことに学校サボり夜更かしして笑っていた。すげえな。

俺達が県外へ出ることを望んでいた。自分の評判が悪すぎるからということらしい。

自分の子どもだと知られない方がこの子たちのため”だと思っていたようだ。すげえな。


子育てが本当にしょうもない。欲しいと口に出して言えば、どんなに家計が苦しくてもきちんと買ってくれた。

なにかしても謝りさえすれば一応許してくれた。

風呂場で、妹とふざけて溺れたふりをして「助けてー」と叫んでいたら血相を変えて駆けてきた。

なんでも自由やらせてくれた。すげえな。

裁判親権は父に移った。

母親は俺達を育児放棄していて、保育園先生から見ても「お父さんに育てられなかったらあなたたちは死んでいた」らしい。

ヤ○ザになったくらいだから自分だって碌な育てられ方をしていなかったくせに、知りもしない無理した男手一つの育て方で今俺は27歳になっている。

「この子たちには母親がいないから、その分、物くらいは」と無理をして色んなものを買ってくれた。美味いものをたくさん食べさせてくれた。

それもあってか、今では自身が惨めな暮らしをしている。すげえな。


性格が本当にしょうもない

今は自分だってお金なんてないのに、何も言わず家出して関東に行った馬鹿息子が「生活が苦しい」と言えばお金を送ってくれた。

精神おかしくなった俺が「死ぬから探すな」と書き置きすれば、あらゆる方面に連絡して探してくれた。

から家出をしたら絶対に探して、見つけて家に帰した。すげえな。

いつも俺に彼女ができないか聞いてくる。お前は痩せればモテるぞと笑う。

妹が結婚したとき、式場で泣いていた。家でも泣いていた。

妹が癌になって死ぬかもしれないときには、どんなに金がかかっても治せる先生を見つけて付きっきりで看病していた。

俺が難聴になってしまったときも、県で唯一治せる病院に入れてくれた。

精神病も知識なんてないくせに方々に相談して一番定評のある病院に入れた。すげえな。

ヤ○ザである自分長生きしていることに罪悪感と疑問を感じている。

「あそこの○○さんはきちんと働いて真面目だったのに亡くなって、俺がまだ生きていて……」と最近よくこぼす。

抗争で仲間内は皆死んでしまって、自分けが生きていることが虚しいらしい。すげえな。


考え方が本当にしょうもない生活費だけは絶対に取っておいた。

今でも浪費癖が激しい俺に貯蓄の重要性と効果的な資金の分け方を毎回教えてくれる。

どら息子は何度聞いても実行しない。すげえな。

今頃になって“自分が何をしてもらっていたか”にようやく考えが至った阿呆息子が仕送りやらを持って行くとお礼を言ってくれる。

俺はしてくれるのが当たり前だとありがとうなんて言ったことがないのに。すげえな。

いつ死んでもおかしくないと思っているらしい。もう72歳になる。

身体も弱って思考も鈍って、それでようやく自分の胸の内やなぜ昔そうしたのかを話してくれるようになった。

これを書いていて、そういえば、という風にしてもらったことが湯水のように湧いてきた。涙がとまらない。すげえな。


息子がしょうもない。本当にしょうもない

自分のことしか考えておらず、いつまでもから何をされただのしてもらえなかっただの不満に思っていた。

何をしてあげられるかを考えていない。

世間で言う毒親自分父親もピッタリ当てはまると、一致する部分だけをことさらあげつらっていた。

一体どれだけのことをしてもらったのか考えていない。あとどれだけ話ができるのかわかっていない。

息子は掛け値なししょうもない


俺の父親しょうもない。実にしょうもない

俺にできる復讐は、父の残る余生をしょうもなく平和に静かに、奴の領分であるしょうもない争いとは無縁の生活にさせてしょうもない退屈のまま過ごさせることだと思う。

なんだかんだ実家を訪れたら2時間ぐらい話して帰る。しょうもない

未だに俺を心配している。しょうもない。笑って話してるがそいつは裏ではあんたの悪口を山ほど言いまくっていた人間の屑なんだぞ。

しょうもない。騙されやがって。

騙されたまま笑って余生を送れ。震えて眠れ。しょうもない

2016-10-10

復讐とはかくも陽気で胸躍る

晴れ晴れとしているこの気持ちを陽気と表現した。

復讐の標的は実父である。散々母を足蹴にし、倫理の欠片もない振る舞いで好き放題に傷付けた男だ。

ごく自然な流れで暴力の矛先は私達兄妹にも向いた。意に沿わない子供を殴る蹴るなどし、それを躾と称するベタものだった。身動きする姿がテレビゲーム邪魔であれば、幼い子供三人並べて正座させ、泣くな動くな喋るなと厳命した。兄も私も妹もその命を守れる程の齢でなかったから、やはり蹴られた。それでも姉が風呂場で熱湯を掛けられた、という話を聞けば当時は足蹴すら有難かった。

最も印象深い暴力小学校の頃、床に押し倒された事である。床に両手を縫い止められ、「お前は子供で女なのだから、親で男の言う事を聞け」と言われた。あまり理不尽さに声も出なかった。「早く謝れ。女だから男に力で敵う訳ないぞ?ほら?どうする?」等と言われ、悔し泣きしながら謝らされた覚えがある。この嘲り煽り立てるような口調を思い出す度、未だに腹の底に溶岩を注がれる様な心地になる。

それでも耐えなければならなかった。こんな親でも、子供庇護無しでは生きられなかった。母が子を守る為に荒げる声にすら怯える日々だった。

この無力で歯痒い日々のなんと長かったことか。今では自分と母が慎ましく暮らしていけるだけの安定した職と収入がある。去年の父の源泉徴収を見て笑ってしまった。もう働き出して三十年は経つだろうに、社会人一年目だった私の半分しか収入がないのだ。手前の収入全てを小遣いに、家の生活費は全て母と母の実家に払わせるような男の浅い懐にはさぞしっくりくるだろう。

もう庇護必要ない。老後を意識し、いやに私に媚び諂う男をこれからどうして差し上げようか考えるこの瞬間、私は「この男の子供で良かった」と感じる。この男に復讐する為に私はこの男の子供として生まれたのだ。

高揚に胸が躍る。まだ喪服を持っていないから買いに行かなくてはいけないが、楽しみな予定は出来るだけ後回しにしたい性質である

あなたの子供で良かった。どうか長生きしてください。

2016-04-26

先月、父親が亡くなった

落ち着いた頃、どうやらとある会社連帯保証人だったことが判明

第1順位法定相続人なので、1000万円の負債相続することになるようだ

兄妹と相談して相続放棄申請するということで進めることにした

これって結構めんどくさいんだね

達兄妹が相続放棄すると、次の第2順位人達(いとこ)に負債が回る

彼らも放棄すると、その次が第3順位となるのかな? 詳しくはまだ把握できていないんだけど

血縁関係確認して連絡するにも、見逃しがあったら大変だし、弁護士相談するのがベストだと感じた

色々時間取られるし、いとこにも書類用意してもらったりしないとだし、大変だなと思っているが、

何より嫌なのが、恐らく母が勝手にどこぞの誰かさん連帯保証人として父を契約したってこと

そして、母もどこかの連帯保証人なんだろう

2015-01-06

眠れないので書く

地元から東京に出てきて、今年で13年目となった。年も30を越え、配偶者も、もちろん子供も居ないものの、仕事生活も安定してきている。

でもふと実家に目を移すと、そこには愛する両親、そしてもう80を越える(けどまだ元気な)祖母が3人だけで住んでいる。

私の家は農家で、3人兄弟長男である私が地元を離れて東京大学に行きたいと言った時は家族中大騒ぎとなった。

いずれ家長(もうそんな制度無いけど)となるべき人間が家を離れ、もしかするともう帰ってこないかもしれないのだから当たり前だ。

だけど、やっぱり自分人生だし好きに生きたいと思っていた私は両親と話し合いを持ち、結果的に「好きにしろ」という一言を貰う事になった。

(当時は当たり前だと思っていたけれど、今になってそのときの両親の気持ちを考えると、心が痛む。)

家の事を思わないでもなかったが、幸い3人兄弟だったので、2人の弟のうちどちらが一人でも家に残っていてくれれば、それで丸く収まる、家は存続する。他力本願もいいところだけど、そう思っていた。

でも、そうはならなかった。好きな事をやるために家を出て行ってしまった私の背中を見てか、弟二人も高校卒業と共に家を出て行ってしまった。

それでも就職先が地元になれば、と淡い期待を持っていたけれど、そんな事は起こらなくて、二人ともそれぞれ首都圏会社就職してしまい、あの家に住む者は両親と祖母だけの3人となってしまった。

父親は私達兄弟が全員家を離れてしまった後しばらく、毎晩酒を飲みながらそのことを嘆いていたらしい。

その事を教えてくれた母親も、口には出さないけど祖母も多分同じ気持ちなのだろう。

私にとって帰るべき家はあの家でしかないと今も思っているし、若い頃は無くなってしまうなんて思ってもいなかった。

でも、もう時間切れが迫っている。

数年前には父親が大病を患い、その影響か最近は体力の衰えも顕著になってきている。母親はまだ元気だが、それでも今年はもう還暦を迎える年となる。

いつも元気な印象がある祖母も、最近は出歩く事が少なくなってきているらしい。やはり、寄る年波には勝てないのか。

このままだと、緩慢だけど、確実に、あの家は無くなってしまうのだろう。

私は家に帰るべきなんだろうか。近頃はそう思う事も多くなってきた。

でも、今の仕事生活も捨てて、イチから地元仕事を探しながら農家を継ぐなんて度胸は私には無さそうだ。

私にとって「家族」はあの家にしかないから、こんな風に悩むんだろうか。

配偶者を持ち、子供を授かり、家族が出来ればこんな葛藤も乗り越えられるのだろうか。

はいつまでこんな悩みを抱えたまま生きていかなければならないんだろう。

全て終わってしまったら、後悔して生きる事になるんだろうか。

いっそ、投げ出してしまえば楽になるんだろうか。誰かが言うように、一度仕事辞めてみたら目の前が開けたりするのだろうか。

本当に私がしたかった生き方は今の自分なんだろうか。今ではそれも分からない。


書きたいことを書き連ねていたら眠くなってきた。寝よう・・・

追記:

トラックバックくれた方、こんな掃き溜めのような記事コメントありがとうございます

両親と相談すべきと言うのは本当にその通りで、臆病な私はこのことをタブーのようにしてしまっていて、まだ両親とこのことについて話し合った事はありません。

このままですと、状況は悪くなる一方なので、今度帰省したときに両親と膝を突き合わせてコの件について話し合ってみようと思います

2014-04-01

http://anond.hatelabo.jp/20140401134200

現在ウチの妻が中学生の息子を絶賛スポイル中。

生活習慣の締め付け過干渉のため、

幼児期に発揮していた創造的才能はすっかり影を潜めてしまった。

やめさせたいが妻は全くこちらの聞く耳を持たず。

母の過干渉で才能を伸ばす可能性を潰されてしまった兄と、

から放置気味でそれなりに成功した自分という例から演繹すると、

自分達兄弟の幼児期ととてもよく似た行動パターンだった息子は、

放置気味に育てた方がたぶんうまくいくのだが。

正直言って、妻と息子が疑似夫婦みたいで見ていて気持ち悪い。

オレは単なる空気

2013-10-30

父親と縁を切らないと心が壊される

数週間で結婚することになる。

結婚相手に関しては私にとってもったいないぐらいの人間なので不満は何もない。

ただ、私の父親に関しては黒くドロドロした淀みが心中にある。

奴は建築関係仕事の就いているからかもしれないが、とにかく怒鳴る人間だった。

幼少から怒鳴られ、そして夜は頻繁に飲みに行く。

母は奴が飲みに行くのに車で送らされていた。

それは20年前に引っ越してきた実家となる場所に来ても変わらなかった。

しろ、母はその家に引っ越してきてから辛そうにしていることが多かった。

実家も奴曰く、

「俺は長男から大きな家を建てなければならないんだ」

という到底理解できない理由で6LDKの家を福岡田舎に建てた。

その周辺では私と兄はのびのび育ったが、母はその家を毎日掃除しなくてはならず、そして炊事や草取り等の雑務も来なさなければならなかった。

そして、母は、

「私はこの家の家政婦ではない」

と私にこぼすことが多かった。

そして、相変わらず奴は怒鳴りまくった。

とにかく自分が気に食わなければ、怒鳴りまくった。

怒鳴れば何とかなると思っているのだろう。

奴の中では奴以外の人間は獣かもしれない。

そして、やはり飲みに行くことは頻繁で、時折私や兄が小学生中学生必死に貯めた小遣いを借りて飲み代に当てていた。

一応それはパチンコや次月の奴の小遣いから返還されていた。

だが、子供から金を借りて飲み代やパチンコ代に当てることに内心呆れていた。

また、休日家族でどこかに行くということはほとんどなかった。

それも子供心ながら寂しくも恨んでいた。

深夜に酔っ払って帰ってきて、暴れまわったり大声を出してわけのわからないことを喚く。

挙句の果てには吐瀉物をまき散らす。

しかもその後奴は寝てしまい、その片付けは私達や母にやらせていた。

吐瀉物の件で最も許せなかったのはSFCにぶちまけたことだ。

奇しくも、SFCは綺麗に拭いてなんとか壊れずにすんだ。

不幸中の幸いである。

そして何より、幼少の私達に対して、

「家のローンは俺が死んだらお前たちが払わないとならないんだ」

「金が無い金が無い。あー、きつい」

といった金に関する発言をことあるごとにしていた。

そしてその言葉が重荷になったことを奴は気付いていなかった。

私の反抗期が始まると、奴との関係さらに悪化した。

から借金や私達兄弟への理解がなく、己の妄執に基づいた「常識」を押し付けてきた。

母は私達をかばってくれ、そして理解しようとしてくれた。

そのため何度も離婚話が出ても、私は母に付いていくことを明言していた。

奴との関係とは対照的に、母との関係はすこぶる良好だった。

だが、その母も私が20歳の時に亡くなった。

乳がん転移して脳まで来ていたらしい。

絶望だった。

兄との仲は良くもなく悪くもなくだ。

だが奴との関係は最悪だ。

話しても理解しようとせず、己の中で凝り固まったもの押し付けることしかできない奴しか親がいなくなることが絶望的だった。

この時、どれだけ母ではなく奴が死ねば良かったと思っただろうか。

いや、この時だけではなく今でもあるが。

母は所謂新興宗教信者ではあったが、お金を取られるわけではないので私自身は構わないと思っていた。

しろ、そこは火の車っぽかった。

度が過ぎるのであれば、忌避するべきであるが母は私にそれを押し付けなかったのだ。

私自身としてはやはり信仰心は大切にするべきものとあるという考えがあるので、特に何も言わなかった。

だが、母は所謂仏教葬式をあげてほしくなかったらしく、その宗教葬式をあげて欲しい旨を私に伝え、それを私は奴に伝えた。

だが奴はそれを一蹴した。

世間体のためだった。

奴は特に信仰していない仏教葬式をあげ、おまけ程度に母の宗教葬式をあげた。

これで満足だろうと言わんばかりにだ。

私は憎んだ。

母の信仰心を汚した奴をとにかく憎んだ。

母が大切にしてきたものを奴は20年以上共に生きていても理解していなかったのだ。

私の大切な母を奴は殺したのだ。

から、憎んだ。

念のため、学費を払ってもらって就職してからも盆と年末年始実家帰省した。

だが、2,3日もすると家の中の空気が息苦しくなる。

そして、帰省しても話す内容は一緒だ。

住宅ローンや祖母の入院費、それにお前たちを進学させた教育ローンが苦しい」

「あー、金が無い。金が無い」

こればかりである

また、兄は規制せず、私だけ帰省するので家のことを何でもかんでもさせられる。

この時に思ったのだ。

「私はこの家の、こいつの家政婦ではない」

と。

私は皮肉にも母と同じ心境に辿り着いていた。

そもそもこいつは己の見栄のために無駄に広い家を建てた。

教育ローンに関してはお前の甲斐性の問題だ。

祖母の件もそうだ。

それを子供に言ってどうなる?

苦しめるしか無いのに気付かないのか?

ああ、気付かないだろうね。

お前は己のことしか見えておらず、私たちのことを理解する気もないのだからな。

金の問題に関しては、生前の母から聞いた話がある。

奴は飲み屋のねーちゃんの借金保証人になったのだ。

祖母が飲み屋で働いていたのと重なって哀れになったらしい。

愚かである

もちろん、そのねーちゃんは雲隠れした。

そして我が家には借金が新たに増えた。

その借金は祖母の葬式代のための貯金から補填された。

この事件から数年後、奴は私に対してこう言った。

「母さんの治療費にばーちゃんの葬式代を使ったけど、その金も貯まった」

と。

奴と母親、どちらの話が信用できるかと云えば、どう考えても後者である

私はこの話を聞いて奴と縁を切りたくなった。

こんなのが身内だと、いつトラブルに巻き込まれるのかがわからいからだ。

社会人になりIT社畜になったら、案の定精神的に追い詰められてしまい、退職した。

一時期は「死ぬしか無い」とまで追い詰められていた。

だが、それも徐々に良くなり、なんとか私は生きている。

結婚することになったので、色々な準備をしている。

式は近縁の親族のみで執り行うようにしている。

そもそも、私はドレスを着たいだけであって式などどうでも良かったのだ。

だが、奴だけは、

「ここで式を挙げないと、母さんに何言われるかわからん

と言ってきた。

正直に、自分が式をやってやったということを周りにいいたいがためだと云えば良いのに、母親を引き合いに出す時点で侮蔑感情が湧いた。

式までも、やはり奴関連でトラブルが多発している。

そもそも、メールをしても返信が来ない。

電話で返信内容を伝えるのである

それで何度もトラブルになったので私は電話スピーカー状態にし、録音するようにした。

そもそも、結納の件をやるかどうかを訊いても、「やらなくていい」といったと思えば、

「なんでやらないのか!?

お前は常識がないのか!?

こっちは犬猫を嫁にやるわけではないのだぞ!!!

と怒鳴り散らしてくる。

そして、いざ結納をやり、食事会を行っても一人だけひたすら飲み、挙句の果てには私の過去の嫌な思い出ばかり相手の両親に話している。

そして、奴の兄弟とは疎遠になる、縁も切ると言っていたのに突然、

「お前から俺の兄弟や従兄弟電話しろ

「私は結婚後に結婚の報告の葉書を送るつもりなんだけど…

「そんなことしなくていい!

いか電話するんだ!

それが良識だろうが!

そんなこともわからないのか!?

そして、今度はいつ帰ってくるんだ?

俺の兄弟たちとお前の婚約者との顔合わせの食事会をやるからな!」

と言って、電話口で怒鳴り散らしてくる。

これがきっかけだった。

言っていることが論理的ではなく、ころころと内容が変わるので、それに振り回されていた。

振り回されることで、精神的に落ち込み、

「ここまで振り回されて死ぬしか無いのだろうか」

と考えることも増えてしまった。

そもそも母方の方には何も連絡していないのに、何故父方のみ会わなければならないのかがわからない。

奴の見栄に付き合わなければいけないのか?

私は奴の所有物なのか?

そもそも、縁を切ると言っていた人間たちに会わなければならない意味がわからない。

そして、私から必ず電話をしなければならないわけでもないだろう。

もし、私の病気の理解があれば負担を減らそうとするだろうが、その素振りもない。

単純に自分がやりたくないだけなのだ

服装に関しても、相手はモーニングを着るというのに、

「俺はサイズが無いか礼服しか着ないぞ」

と言い始めた。

奴は155センチ100kg超なので特殊な体型ではあるが、何もやろうとしない時点で呆れてしまった。

結局は奴はモーニングを探す気も無く、ドレスを借りる衣装店に頭を下げて探してもらえた。

憎悪しかない相手に対して、至れり尽くせりをして疲れてしまった。

実家帰省したら、家政婦になり、延々と金が無い話をされ、怒鳴られるのだろうか。

そんなに金が無いことを言って私を苦しめたいのなら、私を殺せば良いだろうに。

私を理解する気が毛頭もないのなら、父親面をしなければ良いだろうに。

そんな気持ちになってしまう。

こんな気持ちになるぐらいなら、もう疎遠になろう。

そうしないと、またあの地獄に逆戻りだ。

から、私は父親と縁を切ろうと思う。

私はただ、この平穏毎日笑える日々を守りたいんだ。

バージンロード

それは婚約者と歩くよ。

あと数週間の辛抱ができるかどうか不安だが、とにかくできるだけ平穏に過ごしたい。

2010-12-06

家庭内不和

物心ついた時から両親は不仲だった。

父は金遣いの荒い営業マンで自分趣味を率先し、子供と接するのが苦手

母は明るいが口うるさい人。一度これと決めたら回りの意見は無視。

昔は仲が良かったと母は言うが

私は20数年生きてて両親が仲よさそうにしている所を見た事がない。

そんな父が浮気した

家庭は当然荒れた。浮気所か借金したため、親戚中が荒れた。

そして、それ以降冷え切ってた夫婦仲は更に冷め、家庭内別居状態になる。

その余波は私達兄弟にも来た。

長女である私は母の愚痴を一身に受け、恋愛結婚に恐怖を抱くようになった。

好きな異性が出来ても、「この人も将来父の様になるかも…」と思うと

それ以上近づく事が出来なくなった。

母が悲しむのを見た次女は父を憎み、世の男性に異常に厳しくなった。

弟はゲイの方向へ進んだ

そんな私達に親戚や母は「良い年なんだから結婚しなさい」と口うるさく言う。

どうして娘達が不幸になる事を願うのか?

勿論、うちの両親が特殊なだけで世の夫婦はもっと仲が良いと思う。

しかし、20数年間家庭内別居夫婦を見て、恋愛結婚希望を持てと

言うのは酷じゃないのか?

聞けば母方の祖母も祖父のお陰で苦労したそうだ。

祖母、母と因果が続けば次は私。おお怖い。

それでも、仲良く手をつなぐ夫婦を見てると羨ましくて泣けてくる。

複雑な家庭の中育って結婚した人、新しい家庭では幸せですか?

2010-12-01

20代、皆が恋愛謳歌してる頃はなんだかんだでまだそこまで必用じゃない。友達も家族も居る、孤独はない。皆が恋愛してるからしたいかなー程度。いなくても平気。

30代、友達が結婚生き方独身自分と変わり少し疎遠になる、ちょっと寂しい、この時点で恋愛したいなと思っても不利、10代なら許される失敗も30代ではきつい。でもまだ家族も居るしそこまで寂しくはない。

40代、友達兄弟は自分家族子供を持ち遠い存在に、親は病気になり介護や死後の不安も出る、孤独が身にしみる。恋愛しようにも売残りの40代異性に魅力はなく、20代から愛されるわけもなく。老人ホーム資金を蓄える。

50代、親の介護が始まる、さらには早い人は親の死、自分の体調不良、全てに1人で向き合う、天涯孤独。一緒に生きる家族が欲しいしかし居ない。

2010-07-21

俺が誰かに言いたいこと

どうでも良い話だし、誰にあてて書くでもない。

でも、自分一人しか知らないと悲しむ連中が居るので書いておく。

我が家は男ばかり3人兄弟だった。3人も男がいれば、近所でも学校でもそれなりに有名と言うか、

誰からでも「3人もいると将来楽しみですね」って言われる様な感じだった。

親父は自営業なので、「3人で跡を継ぐんだね」云々と言うのは、枕詞みたいなもんだった。

真ん中の兄貴中学に入った頃から、何かが変わって来た。

真ん中の兄貴剣道をやっていて、それなりに強かった。

ガタイもデカいので、ケンカも強い、そんな奴だったんだが、

いつの頃からか登校拒否をするようになった。

何やら蛇の様にネチネチしつこい担任に目をつけられて、

毎日の様にいびられる様になったらしい。

教師からのいじめだな。

そこで登校拒否になるわけだが、そんなのは学校だけのせいじゃなくて、

家の責任でもあるので恨み言は書かない。

(まぁ今時の教師にどれだけ覚悟があるか分からないが、教師ってのは人の人生を変えるぐらいの影響力があるって、

どんだけど命かけて教壇に立っているのか、それぐらいは認識して欲しいと思うが。)

その後はお約束のように「不良」というレッテルが貼られお約束の展開になって行った。

高校は何とか進学したが、結局中退暴走族シンナー中毒

俺が中学に行った時にはもう、あいつの弟、って事だけで教師からも

その手のグループからも目を付けられて、そりゃもう肩身の狭い思いをした。

高校中退後の兄貴は、勿論仕事にも就かず、暴走族からその日暮らしのバイト

金がなくなれば無心、そしてシンナー、と、そんな生活を繰り返していた。

高校を出て東京大学に入学した俺は、そんな積み木崩しな生活から少し離れられた気がして、

家の状況の事をあまり考えなくなっていた。

大学の間に、兄貴は更正したのか?親父の会社を手伝い始めていた。

それでもまぁ、暴走族時代のまんま、70年代アメ車を買って来ては改造して乗り回していたらしく、

いわゆるDQN成分は変わっていない感じだったが。。。

俺が帰省すると、「就職なんてしないで一緒に親父の会社手伝えばいいやん」と口癖の様に言っていた。

俺はそんな気は全然なかったんだが。。。


で俺が大学7月

俺はバブル崩壊直後の東京と言う凄まじい環境の中で就職活動をしていた。

携帯ネットだと情報が氾濫している今より氷河期度合いは凄かったと思う。

とにかく思う様に就職が決まらず、焦っていた。

当時発売されたばかりのスーファミストII大会を夜通し学校でやってそのまま飲み会

阿呆の様な気晴らし方で毎日をして過ごしていた。

そんで徹夜明けの始発でアパートに帰っていたその日、実家から留守電が入っていた。


電話して」


母親からの短い伝言。??と思い家に電話をした。

親父の会社部長さんが電話に出た。

なんでだろう?と思いながら母親電話を変わってもらった。

母親はいきなり、ごめんね、ごめんねと言い出した。



俺は兄貴が死んだ事を告げられた。




意味が分からなかった。

死んだって?


調子に乗って乗り回していた70年代アメ車。それが老朽化していて、排気ガスが漏れ

一酸化炭素中毒で死んでしまった。。。そんなバカみたいな死に方だった。

夏休みですぐに飛行機も手配出来ず、翌々日、家に帰り着いたのは通夜最中だった。

客間が、なんか真っ白な布で張り巡らされていて、見た事ない人たちが走り回っていて、

その部屋の奥の方に祭壇があり、兄貴が眠っていた。

その日はそのまま明け方までそこにいた。

途中、ウトウトした時に、兄貴に呼ばれた。そんな気がして目が覚めた時もあった。

そっから葬式までほとんど覚えていない。

嫌なくらいに暑かった事と、直前に控えていた第一志望の就職先の試験の事だけを考えて、

ここで崩れてたまるかと、唇を血が出る位に噛み締めていた記憶だけはある。


長男は何時までも号泣していた。俺も泣きたかったが、負けてたまるかと、そんな事ばかり考えていた。



ここで見事就職決まれば美談だが、そうはいかない。物語の主人公の様にはいかなかった。

結局、その年の就職には失敗し、就職留年をした俺は1年遅れで地元の小さな会社にようやく就職し働き始めた。




長男はフリーターだった。当時はそんな呼び方もなかったが、バブル景気

その真っ只中にいながら就職出来ず、フラフラした生活を余儀なくされていた。

実は長男はてんかんを患っていた。クスリで抑えながら、発症しないように、そんな生活を送っていた。

何年間か、発作が起きなければ完治。もし起きてしまえば治療のやり直し。

高校受験大学受験に失敗した長男からすると、高校、大学と順調に進学し、

留年しながらも就職した俺に対してコンプレックスがあったようだ。

実のところ、あまり仲は良くなかった。

というか、俺もどこか毛嫌いしている節があった。

そんな長男が、てんかんの症状も出なくなって、働ける様な体調になった、

遅ればせながら就職をし、「社会人」となり、次男の死以降、それまで落ち着かなかった

俺の家も、なんとなく落ち着き始めていた。

だけど、次男の事故から3年後。

また7月。

仕事が原因か何かは分からない。ただ何か最近様子がおかしく、

ひきこもり状態になっていた長男に対し、情けない奴、とぐらいにしか思っていなかった俺。

親は心配していた。手首に、今でいうリスカのあとがあったらしい。

あいつにそんな度胸はないっしょ、程度に考えていた俺。

ある日の夕方、俺を呼ぶ叫び声の様な親父と母親の声。

慌てて駆け付けた俺が見たのは、首を吊って自殺を図った兄貴の姿だった。

救急車を呼び、意識不明の兄貴と一緒に乗り込み、親より先に病院へ向かう俺。

訳も分からず、スローモーションの様に救急車カーテンの隙間から見える流れる外の景色を見ていた。

ICUに運び込まれた兄貴を見届け、待合室に待つ俺。

親が来るまで、どれぐらいだったんだろうか、何時間にも感じた。

どうすればよいか分からず、入院の準備の為に看護婦が質問する事にも、

ヘラヘラ愛想笑いをしながら答える情けない俺。

1人だけ取り残された待ち時間の間に一度だけICUに通された。

その時はまだ、長男の顔は人間の顔をしていた。なにか寂しそうに、

半分開いた目が宙を見ていた。

その顔に、何とかなるんじゃないかと、と言うか死ぬとかなんだとか、

そんな事は考えてもいなかった俺。

こんな時は泣けばいいのかなぁとか、漠然と考えていた。


時間か経った明け方、親父母親揃って、俺達はICUの中に呼ばれた。

その中で見た長男の顔は、さっき1人で見た時の、まだ人間の顔をしていた長男の顔ではなかった。

どす黒く変色して、もう人間の顔ではなかった。

それを見た瞬間に、俺は悟った。

あ、もうダメなんだ。。。

医者からこれ以上の延命をしても回復する見込みがない事を告げられた。

初めてICUに通された両親は意味が分からずにいた。

その顔の変貌振りに、悟ってしまった俺は両親に告げた。

もういいよ、もういいよね?

何がいいだろう?何がよかったのだろう?この自分で発した言葉は、

今でも俺を苦しめるときがある。

そこからはテレビドラマを見ている様に、心音?が途切れ途切れになり…

そしてピーーーと言う音。

その瞬間、母親が泣き崩れた。

残されたこの子(俺の事)が可哀想すぎる!

泣き崩れても最初に出た言葉は他の誰でもない、俺に対する言葉だった。

今なら何となく分かる。俺は両親から愛されてると言うことが。

だけど、当時の俺は、もう自分の事だけで精一杯だった。

またもや嫌なぐらいに暑い夏の日に、葬式

警察が来て、事情を聴かれ、遺書を探し。。。結局原因は分からなかった。


で、2人の兄貴の死を経験し、これで何か目覚めれば美談なんだが、

さっきも書いたけど俺はもう自分の事だけで精一杯だった。

一人は事故、一人は自殺。次の俺は何だ?病気

うそんな事に頭の中を占領されていた。

2人から取り残された思いがして、その不安に押しつぶされそうになり・・・

いわゆる鬱状態だった。

病院にも行った。精神安定剤やら何やらもらった。

自分の事しか考えられない俺は、また、実家を離れて東京に戻って職を探そうかとも思った。

とにかく、ここから逃げ出したかった。その事を、ふと母親の前でつぶやくと、母親はその場で泣き出した。

親父からは、今はそんな事を言うなと怒られた。

それからもう、13年。次男の死からは20年近く。

立ち直れたかどうかは分からないが、いつの間にか、普段どおりの生活になり、

普通に生活し・・・そんな日々を過ごし、俺は結婚して3人の子供にも恵まれた。

また、夏が来る。7月が。この季節は、毎年なんか鬱になる。

どうして俺だけが生き残ったのか、そればかりを考えてしまう。

これは今もトラウマになってるんだが、親からの電話

救急車の音、嫌なくらい暑い日に汗が出てスーツシャツが肌にまとわりつく感覚

とにかく一瞬意識が飛びそうになる。


もしも兄貴たちが生きていて、そして結婚子供を作っていたのなら、その家族に語り継いで行ったであろう

達兄弟の話は、残念ながら、俺しか知らない話になてしまった。

だから俺は良く子供達に言う。

「真ん中のお兄ちゃんは喧嘩がものすごく強かったんだぞ!」

「一番上のお兄ちゃんは、ピアノギターが得意だったんだぞ!」

俺たち兄弟の話は、親が死んで俺が死んだらもうそれで終わりだ。

だから、少しでもあいつらがどんな人間だったかを残したいんだ。

で、何にも教訓めいた事もなく悟りを開いた訳でもなく、

今もフラフラ右に左に迷い、突っかかり引っかかりながら俺は生きてる。

決して順風満帆でもなく清く正しくも生きていない。

だけど、やっぱり人間は生きている事が一番の幸せだとだけは思うようになった。

今日うまいメシが食える。今日失敗しても明日が来る。

当たり前の様に明日を迎える事ができるのが、最高の幸せだと思う。

そして、自分幸せにできるのは、やっぱり自分しかいないんだと思う。

どんなに人から施されようが愛されようが、自分幸せに出来るのは、

自分幸せだと思える、自分自身の気持ち以外にないと思うんだ。

お前らの中に、もし今の自分の置かれた環境に憤りを感じ、絶望を感じているヤツがいるなら、

もっと今を生きる事で自分幸せにしてやって欲しい。

死ぬ幸せを選んだ長男の顔は、俺には悲しい顔にしか見えなかったんだ。

お前らもまず自分自信を幸せにしてやってくれ。

誰の為でもなく、自分の為に。

自分幸せに出来ないと、誰も幸せに出来ない。

2009-11-06

http://anond.hatelabo.jp/20091106161528

男の場合は友達が嫌で……なだけで性別ではないもんな。

趣味さえ合えば俺たち友達兄弟の関係はすげえらく。

どういう男でも男ならうまく行ける気がするんだ。

2009-09-02

ボランティア、考え方

父と話していてでた話。

私「ボランティアってあんまやった覚えないよね」

父「いやいや、やってたじゃん。昔陶芸教室行った、あれも取りようによってはボランティアだよ。」

確かに陶芸教室に父に連れられて行っていたことがある。

父の知りあいの障害者サークルが色々な活動をしている中の一つで、

陶芸の他に生け花教室なんかも開いているらしかった。

サークルには知的障害、肢体障害の人もいれば、障害者に関わる健常者の人もいた。

達兄弟はそのサークルには入ってなかったけど、父の子どもだったのもあり何回か参加した。

私「ええ?でもあれって、先生お金出してみんなで陶芸教わってただけだよね?」

父「うん。でもそういうのでもボランティアって考えることができるって思うんだよ。」

私「お金が関わってもボランティアになるの?

じゃあ私が昔お父さんの仕事の関係の集会で、頼まれて保育したよね。

あれもボランティア?あの時は確かちょっとだけどお金が出たよね。」

集会は障害を持つ子ども母親が多く参加するもので、何人かのお母さんたちは子連れできていて

お母さん方が集会に出ている間その子どもたちを私やほかのお手伝い数人で面倒をみるというものだった。

父「理想的なボランティアの形っていうのは、障害者ボランティアする人がお互い平等な立場で支援することだと思う。

ボランティアする人が最低限生活、行動するだけのお金は出てもいいんだよ。ただし本当に必要な分だけだけどね。」

ボランティアって完全に無償だと思ってたけど、そういう考え方もあるのか。

2009-06-08

http://anond.hatelabo.jp/20090607232227

http://anond.hatelabo.jp/20090607232227

病院、行ったほうがいいと思う。

うちにはヤンデレな母がいる。

私を含めた兄弟は当然壊れていて

まっとうな思春期を送れなかった。

母がちょっと変わっていることには家族は気づいていたけど

どうおかしいかは私達にはわからなかった。

父がある日支えきれなくなって

看板を見て発作的に精神科に駆け込んだ。

(そう言っていた。こらえきれなくなったんだそうだ)

最初は父だけが、そのうち母が、最後に兄弟

全員が精神科にかかった。

嘘みたいな話だけど、それから母のヤンデレが軽くなった。

今、母は普通な人の顔して暮らしてくれてる。

不思議なもので子供の生活もおちついた。

家族カウンセリングを受けてくれなかったら

達兄弟も壊れたままだったろうと思う。

やんでたのは父ではないけど、

父が行くことで適切な援助を受けられたので。

病院には行ったほうがいいと思う。

ちゃんとした先生には、偏見のある家族に対する

対応法の蓄積もちゃんとあるから

奥さんの偏見のことも含めて力になってくれる先生を探すといいと思う。

2009-04-10

今日は年に一度のじいちゃんの墓参りの日だ

オレはじいちゃんが大好きだった。

オレが中学生に上がる頃、親父の経営する工場が傾き

オレと2つ下の妹は、じいちゃんの家に預けられた。

ばあちゃんはオレが生まれるよりも前に死んでいたし

ずっと一人暮らしをしていたじいちゃんは、心底嬉しかったんだろう。

オレ達兄妹にいつでも優しく、ニコニコ笑っていた印象ばかり残ってる。

じいちゃんの家で暮らし始めて1年程たったある日、親父が唐突に

オレ達兄妹を引き取りに来て、その生活は終った。

身寄りと呼べるのはオレら一家だけしかなかったじいちゃんが

また一人で寂しく生活する事を想うと、その時は涙が止まらなかった。

そんな大好きだったじいちゃんの墓参り・・・今年は今までと少し違った。

墓の前で手を合わせると、じいちゃんがオレ達家族に語りかけてきた気がした。

いや、気のせいなんかじゃない。紛れもなくあの優しいじいちゃんの声だ。

じいちゃんは家族名前を一人ずつ呼びかけてくる。

大丈夫だよ、じいちゃん。

親父もお袋も妹もそしてオレも、皆ここにいてじいちゃんの事を想っているよ。

長生きして、又来年墓参りにきてくれよ。

寂しい思いをさせて本当にゴメン、じいちゃん。

親父が一家心中なんか考えなければ、今頃一緒に暮らしてたかもしれないのに。

2009-01-31

ホームレスの親父が死んだ

誰かに聞いて欲しかったので長文になるかもしれないが書かせて頂く。

自分は29歳サービス業勤務。

休日が不定期なのだけど昨日は休みだったのと

大雨だった事もあり昼間からネットに張り付いていた。

一人暮らしの雨の日なんてのはこんな事しかやることがなかった。

そして退屈し始めた15時頃携帯に見知らぬ番号から着信があった。

見た事ない番号は取らない事にしてる為に無視していたのだけど

そのあと16時頃、姉(既婚)から電話があった。

警察から電話があったんだけど、○○(俺)何か心当たりない?」

というジョークから始まり勿論心当たりなど無いにも関わらず

内心ドキドキしながら

「あるわけねーじゃん(笑)」と返す。

そしたら急に真面目になった姉から帰ってきた言葉

「心して聞いて欲しいんだけど…

パパが死んだって警察から連絡があったから確認してほしいって」

親父が死んだ?

あの親父が?

親父とはもう14年会っていない。

勿論、姉と母だってそれ位は会っていないだろう。

親父は小さな町の寿司職人だった。

自分の店を持ち、俺達家族を養っていた。

だが元々酒癖が悪く店の経営が上手くいかなくなった事もあり、

DVに耐えきれなかった母は俺が中学卒業と同時に姉と俺を連れて家を出て行った。

3人で家を出た事はそれまでに何回かあるので、

多分親父も帰ってくるんだろうと考えてたと思う。

家を出て半年親戚づてに連絡が来て、

母と姉と俺で親父と会った時にはちょっと痩せて昔みたいに坊主になってたが

まだ俺の記憶の中の変わらない親父だった。

その時に家に置いてきたものを取ってきたかったので、

先に帰るといって姉と二人で家の鍵を使って家に入った。

店は運営してなかったと思う。

もともと母と経営してた為に親父1人じゃ運営出来なかったんだと思う。

家の中はほとんどそのままで十何年と飼っていた犬は居なくなってて

猫達もいなかったが、猫達は家の裏の竹やぶにいた。

「ごめんな」と姉と言いながら御飯を置いて帰った。

これが俺の中でのあの寿司屋と親父の最後の記憶だ。

今思えば親父は普通の小さな人間だった。

達兄弟も可愛がられてなかった訳ではなかったし、

酒を飲んで豹変する事さえなければ母にも優しかった。

ただ荒れた生活が何年と続き、

家を出る1年程前から家庭内暴力もかなり酷かった。

ある時は母が暴力に耐え切れなくなった時に

子供だけなら大丈夫だろうと1人で親戚の家へ避難した。

そして親父が酒を飲んで暴れたので、

俺と姉は部屋に逃げていたのだが、

呼び出され俺は頭を靴で何十回と叩かれ嘔吐が止まらず、

救急車で運ばれたりもした(呼んだのはびびった親父)

またその頃は既に体格的に親父に負けてなかったので、

暴れた時に一発ぶん殴ってやろうと立ち上がってこぶしを握ったら

包丁を持ってきて「刺してやんぞ」と凄まれた事もある。

そして家を出てから親父に会いに行こうと思った事がない。

3人の生活で完結していたからだ。

もう親父と会う事はないと決めて忘れようとしたんだと思う。

別に悪い思い出だけだったわけじゃない。

むしろ楽しい思い出も沢山あったのに会いに行くことは無かった。

家を出て数年後母親から店が更地になってた事を聞いた。

長くなったので話を戻す。

姉から電話が来て姉の会社社長さんに送ってもらい

母と姉と俺で警察まで行ってきた。

一度市外に移り住んでた俺達3人だけど既に1人暮らしだった俺は

仕事の都合で元実家と同じ市内に戻ってきてた。

まず警察の話を聞く所によると親父は市内でホームレス暮らしをしていたらしい。

市内といっても外れのほうで、河川敷近くだったという。

死んでた時はアスファルトの上で息絶えてたという事だった。

近隣住民の話だと1年前位から住んでて親父がいつからホームレスなのかは分からなかった。

親父の身元が判明したのは診察券を持っていて

(昔酒で内臓がやられて入院した事もある)

さらに万引きで捕まった履歴があり指紋が全部合致したので間違いないという。

待合室で安置室の準備が整うまで待たされる間に死因不明だったという事で、

解剖をしなければならないため母がサインをしていた。

この時までは正直実感が全くなく「早く終わらせて帰りたい」という気持ちしかなかった。

結構待たされたが30分位して準備が整い安置室へ通された。

警察の人に白い布をめくって貰い顔を見せられ、

そこに居たのは見覚えの無いやせ細った老人だった。

無理もないと思った。

最後に会ったのが46位の親父で目の前にいるのは60位の老人だったのだから。

母も俺も姉も確証が持てず何度も顔を見たり特徴を思い出し体の傷やらを見せてもらったが、

その時点ではなんとも言えなかった。

結局こちらは墓がないので遺体を引き取れず警察の方から

親父の実の兄弟に連絡して、そちらに引き取ってもらう事になった。

親戚付き合いが元々そんなになかったので連絡先が一切分からなかったためだ。

警察の人は「こういっちゃなんだけど」と付け加えて

奥さんは他人かもしれないがお子さんは血の繋がった親だからと

引き取るのを薦めていた)

警察の人が「最後に線香をあげてください」という事で

確証が持てないその老人の最後に顔を見て線香をあげた。

線香をあげてる時ですら俺は他人事のように思っていた。

最後に警察の人が「持っていた物があるので見ますか?」

という事で遺留品?を見せて貰った。

外国の紙幣となぜか古ぼけたロレックスの本体と

濡れてしわしわになった一冊のノート

そのノートを若い警官が持ってきてさっきから説明してくれていた年配の警官

指示されて無理やり最初の1ページをめくると自転車の車体番号と

親父の実家の住所が書かれてた。

母は「間違いないです、そうです、○○の田舎の住所です…」と泣いていた。

さらに寿司屋の屋号が書かれた自転車があるという事で

「なんて書いてありましたか」と俺が聞くと自転車置き場に案内して貰って自転車を見せて貰った。

自転車は見た事ないものだったが自転車にはしっかりと寿司屋の屋号と

あの家の住所が記されていた。

そして若い別の警官が来てもう一つノートがあってそこには

俺の名前と姉の名前がしっかり書いてあったと聞いた時、俺は泣いていた。

ああ、親父が最後まで忘れず心の依り所にしていたのは俺と姉だったのかと。

俺の人生の半分を一緒に過ごした親父。

その俺も親父が居なくなって人生のもう半分が過ぎようとしている。

貴方は何を思って冷たいアスファルトの上で逝ったのだろうか。

恨んでいるのだろうか仕方ないと諦めていたのだろうか。

惨めな生活を送っていたのだろうか。

それなりには生きていたのだろうか。

俺と同じくらいにはあの頃の生活を思い出していたのだろうか。

ダダをこねればおもちゃを買ってくれていた貴方

包丁を突きつけた貴方も夜中車で飛ばして海へ連れて行ってくれた貴方

お使いにいかない俺を叱り飛ばした貴方

その夜出前のついでに熱帯魚を買ってきてくれた貴方

沢山全部今となってはあったかどうかもあやふやな程実感のない

貴方との懐かしい思い出です。

今となってはもう何も話せない親父。

親父は今日火葬され叔父に引き取られていったそうだ。

長文すまんせん。

2008-09-06

人を否定しなきゃ自分を肯定できないなんて惨めなだけと彼女は泣いた

「と彼女は泣いた」っていうのは昔の歌のフレーズで何となく借りてきただけです。

私に彼女がいてその女性が泣きながら何か言ったってわけではないです。

私は女。

私には幸せ癖がない。

今日も一日自分をほめることができず

自己嫌悪を数えて終わった。

父の顔には笑い皺がある。

私の顔には眉間の皺がある。

現在私は仕事に就いていて普通に働いてはいるけれど、

人と上手に関われないことをとても苦しく感じていて、

人の優しさや好意をたびたび踏みにじってしまう。

私は思い通りに物事が運ばないと不機嫌になり、

黙りこんで一言もしゃべらず不機嫌さを周囲にぶつけてきた。

自分でもそんな人間でいたくないのに、

なんで自分の気分を抑制できないのか、

自分の事さえも思い通りにできないことに苛立ち、みじめになる。

みじめさがつのると思い出す場面。

まだ多分、幼稚園にも通っていなかったのじゃないかな。

茶の間に敷かれた絨毯の赤い色。古いふすま。

私を叱り終えて茶の間から出ていく母。

叱られるべくして叱られたのかまでは覚えがない。

(いつも母は気分で怒っていたり優しかったりしたから)

茶の間に残された私はめちゃくちゃに気持ちが乱れていて、

泣きわめきふすまに向かって何かを投げた。

「ふすまを破いたり壊すようなものを投げると

 また母が飛んできてさらに私を怒鳴りつけるに違いない」

投げたのは肌布団か何か、布製の柔らかいものだったように思う。

その場面が一気によみがえったあとは

眉間の辺りに消化しきれずに残った澱のようなものが漂っているような気がする。

そんなものは実際見えてないのに忌々しさだけがあって、ますます皺が深くなるじゃない。

お母さん、私はお父さんとお母さんに本当に本当に本当に感謝しているよ。

いま私が30半ばで独身であることを思うと、20代前半で私を生んだお母さんは

お父さんと一緒にがむしゃらに一生懸命に私と兄を育ててくれて、本当にすごいことだと思う。

でも、お母さんのような人にはなりたくないってずっと思ってきたし今でも思ってしまう。

なんでなんだろう。悲しい。

悲しいのだけれどやっぱり、お母さんの事を私、誇ることをためらってしまう。

ずっと一緒に暮らし続けてきて、これ以上お母さんと一緒にいたら

私はどんどん腐っていくような気がして私は家を出ようと決めた。

自分が望むように家にとどまらない私に向かって

引っ越しのその日もお母さんは近所中に響き渡る声で私を罵ったよね。

離れて暮らし始めてから叱られることも感情をぶつけられることもなく、

たまに訪ねたり一緒に出かけたりするのを通して、

母は普通の人よりもずっと弱い人なのかもしれないって

客観的に見えるようになった。

お母さんには悪気なんてなくって、ただ無邪気で単純な人で、

むしろ私達兄妹のわがままをいっつも叶えようとしてくれて、

本当に私達を大事に大事に守ってきてくれたんだよね。

なのにお母さん。

私はこんな年齢にもなってお母さんのせいだ!ってまだ時折はらはらと泣いているよ。

でも本当は私はお母さんの事が好きじゃないのではなくて、自分の事が全然好きになれなくてつらいのだよ。

2007-03-13

http://anond.hatelabo.jp/20070313073448

自分は推薦でMARCH。他の二人の兄弟は受験慶大

IQサプリで一番先に回答するのは自分。今一番給料が高いのも自分。

ただ兄弟二人は「自分がやりたいこと」に固執する粘り強さがある。

兄弟間の最終学歴の差は、そのままお互いの人生に現れていると思う。

要領よくステップをあがって、給与は高くなったけど、気力がなくて抑うつの自分。

どんなにプレッシャーをかけても、やりたいことを貫き、それなりに様になっている兄弟。

達兄弟の間にある、辛抱強さ、努力の差。

自分が上位大学卒の人を尊敬するのは、その裏に努力があるからだ。

 
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