はてなキーワード: 追放運動とは
各方面の有識者が述べ始めているので屋上屋を架す行為かとは思うが、あるブコメをしたときに、改めて恐ろしくなったので文字数制限のないこちらで整理してみたい。
「岸田さんが麻生氏や菅氏や二階氏らの長老を撫で斬りにして、河野太郎氏や小泉進次郎氏や福田達夫氏らの次代や若手有望株を逮捕して、内閣・党三役・自衛隊を地元子飼の広島市長や県議とかで固め総裁任期も8期に延長して岸田万歳と唱えさせるレベル」
共産党大会終盤での胡錦涛退席。これは衝撃的だった。全て習近平氏の描いたシナリオ通りなのだろう。衆目監視の中、白髪でやつれた胡錦涛氏が退席。江沢民は出席すらしていない。先代の国家主席である胡錦涛氏は江沢民氏率いる上海閥の事あるごとの容喙に悩まされたが、習近平氏にはもはや恐れる長老はいないのだ。革命第一世代は世を去り、上海閥は衰え吸収し、共青団派は根絶やしにした。
日本で例えると、麻生氏・菅氏・二階氏・甘利氏らの大物長老を、公衆の面前で辱めたうえで政界から退場させるに等しい。
2000年代後半から中国政治に少し興味を持った自分だが、今の政治状況は想定できなかった。王岐山に主導させた汚職追放運動、これ自体は間違いではないのだろうが、習近平はこれを老獪にも政治闘争に最大限に活用した。
汚職追放運動で追放された政治家・軍人達だ。みんな失脚前から自分も知っていた大物達。これらを全て終身刑や党籍剥奪にして政治生命を奪っていった。隣国日本から興味本位でのぞいている私から見てもこれだけのインパクトがあるのだから、中国政界ではもっと有為で有能な人材が排斥されることもあったのだろう。もちろん、追放された面々が全て潔白だったと言うつもりはないが、裁く側の手も相応に汚れているだろうとは思う。
今回の共産党大会で政治生命を奪われた共青団系の李克強・汪洋・胡春華を含めて整理しなおすとこうなるか。
過去10年の国家主席在任期間に徐々に進んでいたので麻痺していたが、本当に恐ろしい数の政敵を葬ってきたと思う。
これで真っ先に思い出すのは、スターリンだ。
キーロフ・ジノヴィエフ・カーメネフ・ブハーリン・トロツキー・トハチェフスキー…彼らも粛清されていった。同時代だからなのか、歴史で学ぶスターリンのような苛烈さは感じていなかったが、改めて歴史として振り返ると相似していると感じる。
これは各有識者が指摘しているので、そちらに任せたい。
少し書くと、留任した趙楽際は習近平の父親である習仲勲の墓を盛大に改築し気に入られて抜擢された人物だし、王滬寧は江沢民時代から共産党の思想的正当性を理論化した人で派閥的には中立で取り込んだ方が正当性を確立できる人物。それ以外はすべて子飼の人物だ。権力掌握としては露骨すぎるほど露骨だが、批判を恐れなければ最短ルートなのだろう。
個人的に驚いたのは2点。
:今回の政変で一番驚いたのはこの胡春華氏の放逐。汪洋氏はリベラルすぎるので頂点には至らないとは思っていたが、胡春華氏は最低でも首相だと考えていた。現副首相で、首相の一歩手前と見られていた人物。共青団系ではあるが、習近平氏とも折り合いをつけていたと言われるし、何しろ20代くらいからその俊秀を謳われてその通りに出世してきた。日本的にベタに言ってしまうと、小泉進次郎氏の期待値(言うまでもないプリンス・二枚目・将来の首相候補)と米山隆一氏の個人スキル(東大医学部で弁護士)を兼ね備えた人物と言える。中国全体の才能の集まる北京大学に16歳で飛び級入学しそのまま卒業生総代となり、その後もきちんと業績を上げてきた人物なのだ。もちろん、習近平氏とは政治的主張で折り合わない部分があったかもしれないが、首相にはならなくとも、少なくとも一つ出世した常務委員への昇格で処遇すると思っていた。それをまさかの降格。これは共青団派にとっては一番の衝撃ではなかったか。
:習近平派で重慶書記の陳敏爾氏は常務委員入りするのかと考えていた。少なくとも李強・李希の二李よりは大物だったのじゃないか。この人事を見て、他派閥どころか、自派閥に対しても自分が生きている間は権力を譲らないという習近平の強い意志を感じた。
これも言うまでもない。
安倍さんは2期4年を3期6年に延長したが、習近平氏は2期10年を3期15年以上に延長した。自民党総裁の期間に換算したら7期21年みたいなものだろう(8期と書いたのはなんとなくキリがいいから)。
これまでに毛沢東の文化大革命への反省のうえ鄧小平の遺訓として残されていた集団指導体制は死文化した。現時点では3期15年まで可能だが、今後習近平の望むままに延長できるだろう。
書いていて大分辛くなり疲れて粗雑になってきた。が、今回の共産党大会は習近平の独裁が確立・確定したという意味で、もしかするとロシアのウクライナ侵攻よりも世界史的に大きな事件なのではと考えている。
自分は浅学なので、詳しい人からの意見があれば嬉しいです。是非意見・異論ください。
熊谷千葉市長は千葉市が行った、コンビニにおける成人向けコーナーについて、これの表紙にカバーをかけることを要請するという行政上の行いに対し、民主主義的プロセスによって決定されたものであり、この要請は正当なものであると主張している。
また、その要請を端緒として決定されたイオングループにおける成人誌等に関する流通規制について、これは民間が独自に行ったものであり、表現規制という批判は当たらないと主張している。
以上のことについて反論すべくつらつら書いたのが、書いたら満足してしまった部分があるので、増田にて放流することとした。
五千文字以上の乱文を読むことは骨が折れると思うので、主たる主張を始めに書く。
まず、民主的プロセスのみを根拠として表現規制を行うことは肯定することには大きな問題がある。
表現規制を行うのであれば、表現の自由の重大さから鑑みて、単に民主的プロセスの正当性のみではなくそれ相応の慎重さが求められると考えるが、千葉市が成人向けコーナーの雑誌に対しカバーをかけることについて民間に要請するにあたり、慎重に取り扱ったという証拠は今のところ提示されていない。
またイオングループの自主規制は、その前提となった千葉市の要請に基づくものであり、これと一体として論じるのが適当である。
このことは、ミニストップと熊谷千葉市長が共同して記者会見したことからも明らかなように、千葉市の要請とイオングループの規制は政治的にもセットで語るべき問題であることは明らかである。
よって、イオングループの決定についての政治的責任を、熊谷千葉市長は一定程度負わなければならない。
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ある表現物に対し、役所などの行政が規制を設けることは、これはすべて表現規制である。これは表現規制という単語を見れば明らかである。
よって、千葉市によって行われたコンビニに対する表紙の隠ぺいなどの要請は表現規制の要請である。
また、イオングループによる撤去について、これの端緒となったのは千葉市の要請であり、その因果関係があることは熊谷千葉市長も認めるところであり、また共同記者会見を行いイオンの発表として千葉市の要請を端緒としていることを明記しているのだから、千葉市の要請した表現規制の延長として捉えることは自然なことである。
このようなイオンの動きは「自主規制」と呼ぶべきものでもあるが、日本の表現規制の歴史においては行政による規制と自主規制は両輪の関係で不可分であり、特に本件はイオングループによる自主規制も行政による規制の要請とそれを受けての自主規制であることから、これを一体として論じることが適当である。
一度ここで確認したいことは、あらゆる表現が許容されるわけではないということだ。これは、一部の表現が法などによって規制されていることからも明らかであろう。例えば他者の人権を侵害するようなものは名誉棄損の罪などによって規制されているし、性器の露骨な描写についてはわいせつ物として規制が行われている。
すなわち、あらゆる表現のなかから、他者の人権などと比較し、規制されなければならないものについてこれを行っているのである。
したがって、今回の千葉市についてもその表現規制が妥当であるかどうかが検討されたかどうか、またそれが客観的に見て妥当であるのかどうかを見なければならない。
しかし、熊谷千葉市長のツイートを読む限り、民主的手続きの正当性を主張するのみであり、そのような妥当性の検討を行った形跡は確認できない。
また、表紙の隠ぺいについては自由競争市場に対する規制であることもここで指摘しておきたい。
「民意があり、議会が承認しそれを行政が実行したものであるから、この表現規制は正当なものだ」
とまとめることができるだろう。
しかし、これを以ってして表現規制を行うことの危うさについてここで指摘しなければならない。
なぜならば、民主主義は必ずしも正しさを担保するわけではないからである。
例えば、以下に例示したものは民意に基づき、民主的な手続きに基づき行われたものだが、果たして正当化しうる政策だろうか。
ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP)は一応は民主的な選挙によって議席を獲得し、一応の手続きを経てユダヤ人に対する迫害を行った。
日本がアメリカとの戦争状態に入ったとき、アメリカは世論の後押しを受けて日系人を強制的に収容した。またこのときその財産も事実上簒奪された。これらの名誉回復は1980年以降にようやく行われた。
「黒人専用」「白人専用」といった人種差別政策が行われていた。これらは民意によって支持されていた。
オーストラリア政府によって行われていた一連の非白人への差別政策。
また、熊谷千葉市長の主張を言い換え、このようなものも導くことができるだろう。
『民意の代表たる議員が議会質問をもって提案し、関連予算が議会で承認され、並行して市民意見も聴取して改善を求める意見が多数と確認』
されたならば外国人や性的少数者に対する排斥などを行うことは正当である」と。
これらは不当に差別的なものであり、人権の侵害であることは論を待たないと思うが、熊谷千葉市長はこの理屈で表現規制は行えるものとしているとしているのだから、これについても是であるとこれまでのツイートからでは判断せざるを得ない。
そうではないのであれば、熊谷千葉市長はある特定の物事については単に民意や議会における手続きだけではなく、より広範な正義に基づいて判断するべきだと考えているのであり、そしてその特定の物事には、表現に対する規制は入っていない、ということになるだろう。
表現の自由も、単に手続き上満たしているからといって、これに制限を加えることを正当化することができるのだろうか。
私はそうは思わない。表現の自由は大切なものであり、表現の規制はこれを慎重にしなければならないと考える。
そしてそうであるならば、それは単に手続きを満たしているからと言ってそれを実行することを正当化することはできない。
表現の自由は基本的人権の一つであり、すべての見解を検閲されたり規制されることもなく表明する権利をいう。
また、ここには報道や出版の自由なども含まれる。民主主義において自由な討論は欠くべからずものである。政府などによって恣意的に表現を規制することは原則としてあってはならない。
日本における性的表現物に対して規制している法律は刑法175条で定義しているわいせつ物頒布等の罪である。
サンデー娯楽事件により、わいせつ物を構成する三要件が定義された。
すなわち、
.性欲の興奮、刺激を来すこと
その後チャタレー事件、悪徳の栄え事件などで判例を積み重ねている。
刑法175条の運用として、警察は局部が映っているかどうかで取り締まりを行った。このとき、陰毛も性器の一部として取り締まりの対象としていたが、1980年頃から徐々に変化し始め、陰毛が映っていても直ちにそれをわいせつ物とされなくなっていき、1990年に入ると事実上陰毛については刑法175条の規制の対象ではなくなった。「ヘアヌード解禁」とも呼ばれる。
このように、判例に拠らず行政側の恣意性によってわいせつ物の判断が変動していくのが我が国におけるわいせつ規制の特徴の一つである。
1950年のチャタレー事件をきっかけとして各地の地方自治体で青少年健全育成条例が制定されていき、それと同時に民間のPTAなどで悪書追放運動が起きる。特にマンガが標的とされ、各地で燃やされるなど過激化した。
1989年東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が発生、宮崎勤が逮捕され、大量のアダルトビデオを所持していたと報道されたことで、これらのメディアが人間に悪影響を及ぼすとしてメディア効果論が起こた。また、それに関連して朝日新聞が漫画本が子供に悪影響を与えると社説で論じたことをきっかけとして再びコミック追放運動が起きた。これらを受け、成年向けコミックでも激しい自主規制が行われた。
各地で制定されている青少年健全育成条例で定められており、過激な暴力や性表現のものを包括的、あるいは個別的に指定する。指定された書籍は18歳未満への販売が禁止され、区分陳列をしなければならないほか、業界団体が自主規制として指定を受けた図書の流通を制限している。
業界団体の出版倫理協議会が制定した、性描写が過激な成人向けコミックにつけられるマーク。
コンビニで定めている成人誌とは区分が異なる。これらはコンビニには原則として流通しない
-コンビニ向け成人誌
コンビニエンスストア側が成人向けとして区分し、成人向けコーナーなどに陳列する雑誌。
-春画の展示
春画は江戸時代に版画で刷られた性的表現物で、今日ではその美術性が評価されている。
しかし、日本国内でこれを自由に展示することはできない。なぜならば、性器に修正が施されておらず、わいせつ図画にあたるからである。数年前に実現した春画展も、主催者と警察など関係先がなんども折衝を重ねて半ば例外的に開催にこぎつけたと理解している。
その春画展に合わせて春画を掲載した週刊誌のいくつかがわいせつ図画を掲載したとして警察から指導を受けている。
このように、日本の性的表現物については行政側の規制の要請と民間団体の自主規制とが複雑に折り重なっており、民間側の自主規制についても含めて表現規制として論じられる。特に今回は熊谷千葉市長並びにイオングループが千葉市の要請をきっかけとしていることを認めており、千葉市の要請とイオングループの自主規制については一体として論じるのが適当である。
政治的にも、ミニストップと熊谷千葉市長が共同して記者会見したことなどから、この自主規制とそれによってもたらされる表現規制に対し、一定の政治上の責任を負っている判断される。
熊谷千葉市長はコンビニ成人誌に対して自主規制を行っていないかのように批判したが、コンビニ向け成人誌はコンビニで流通できるよう自主規制がすでに行われているし、その内容は青少年健全育成条例などによって規制を受けている。
表紙についても水着を着用するなどわいせつ性を抑えており、青年誌などと比較して規制しなければならないほど突出して過激であるとは言えない。言えるのであればその根拠を規制する側である行政は提示しなければならない。
また、表紙の卑猥さについて基準を設けての規制ではなく、区分陳列されていることによって一律で規制しようとしたことは、表紙の卑猥さとは無関係の規制である。これは当初の規制の目的のひとつである、成人向けコーナーの雑誌の過激さによってもたらされる不快さを低減するための措置としては不適当である。
以上より、私はコンビニにおいて成人誌と区分される雑誌に対して表紙をカバーするなど表現規制を行うことについては正当性を見出すことはできない。
また熊谷千葉市長のツイートを読む限り、これら比較検討を行い、それでもなお成人向けと区分される雑誌の表紙を隠さなければならないことの正当性を検討した過程が見えず、よって表現規制に対する慎重さを読み取ることはできない。
不快に思わされないことは人権の一部と言えるが、その人権を擁護するために他者の権利を侵害する場合、これを比較検討して結論を出さなければ公平ではない。
例えば、性的少数者に対する不快感はどうであろうか。近年、性的少数者についての認識が変化し、これを受容する方向に世論は形成されているが、これまでの歴史において性的少数者は迫害されてきた。性的少数者が迫害された理由はいろいろ考えられるが、そのうちのひとつは個々人が思う同性愛者に対する不快感によって、同性愛者を迫害することへの肯定的世論が構成されていたからだろう。
多数が不快に思っているのだから、性的少数者を迫害してもいいのだろうか。
もちろん、これは否である。性的少数者を不快に思う気持ちは内心の自由ではあるが、内心の不快によって性的少数者の人権を侵害していいわけではない。
表現の自由も同様である。単に不快であるというだけではそれを規制することは他者の表現の自由に対する侵害である。
また、個々人の趣味嗜好は多様であることから、単に不快さを理由としたとき、その範囲は無制限に拡大していき、実質的にすべてが不快であるから規制する、ということにもなりかねない。
よって、不快さを根拠として表現を規制することは適当ではない。
以上すべてより、千葉市が当初求めた成人向け雑誌にカバーをかける要請について、これ表現規制であり、またこの規制は適当ではない。
イオングループが発表した流通規制は千葉市が要請した表現規制と一体として論じられるべきものである。また、イオングループが実行した自主規制に対し、熊谷千葉市長は一定の政治的責任を負う。
こいつらはまず閉じた場所でよくよく考えて推敲してからアウトプットをすることが求められる。
この人たちは、散々他人のアウトプットにケチをつけては追放運動をやらかしておきながら、自分たちが他人を不快にするアウトプットをしても責任を取らないことで嫌われて来た。
オタクですらリア充化していく中で、ネットにしか居場所がなく、かつ誰かを批判する形でしか自己表現できない彼らは、彼らが嫌いなものを汚物のように穢れとして扱い続けるうちに、自分たちの脳内にしかない空想の汚物まみれになって、いつしか自分達が批判していた汚物より汚い存在になった。今では彼らこそ忌避されるべき穢れとなっている。最初は綺麗だったかもしれないが、もうその面影はない。姿を見ただけで人が嫌がるような存在である。天使のような傲慢さと欺瞞で自らの悪魔の所業を正当化する最低最悪な集団とみなされている。
この人達に必要なのは、一度俗世間のいざこざから離れて自分たちを清める場所だ。自分たちのヘイトが回り回って自分に跳ね返って来て内も外もヘイトまみれに染まっていく悪循環からの脱却だ。