はてなキーワード: 賽銭とは
その小説は常に下書き状態で、毎日加筆しているが公開するつもりはない。
それは半分事実のフィクションで、別段珍しいことを書いているわけでもない。
例えば昼ご飯。
新しいお店に入り、俺は日替わりの定食を頼む。
A定食。
しかしもしそのとき、俺がB定食のカキフライを選んでいたらどうなっていたか。
ただカキフライを食べていたら、どんな味だったのかを想像する。
それを書いているだけだ。
そのifを俺は想像する。会社からの帰り道、暗がりにぼんやり佇む名も知らぬ神社。
何者も居なく、何かがあるわけでもない。
ただなんとなくお賽銭を投げ、願うこともなく手を合わせる。足元に感触。目を開けると猫が居た。にゃあんと鳴く。
頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を細め、世界に二人だけのような気持になる。
そうすると決まった時間に、神社の外からとても丁寧なお辞儀をしてから駅に向かう家族がいる。
どんなお願い事をしているのか、それとも過去に起こったことに感謝しているのかわからない。
両親は50歳くらい。おそらく息子と思われる男子は中学生くらいだと思う。
過去に大きな病気にかかったときに頼ったのか、未来のために何か大切な願い事を掛けているのか。
特に会話もなく神社に近づき、入り口の外に3人が横並びになって、特に合図があるわけでもなく3人がきれいにお辞儀をして、そのまま何事もなかったかのように駅に向かう道を行く。
そこだけ切り取るととても美しい何かを感じさせるシーンなのだが、何かが引っかかった。
毎日しっかりと決まった時間に家を出ているわけではないので他の日はどうかわからないが、同じ時間に神社に差し掛かるときは決まってその家族が神社の外からお辞儀をする姿が確認できた。
それでなんとなく他の時間帯でも気にするようになったのだが、この家族以外にも、一定数の人が神社の外から非常に丁寧なお辞儀をしてから駅に向かっていることに気がついた。
朝の時間帯、忙しいという理由で中に入るまでもないという感じなのかもしれないが、お辞儀だけは手を抜くまいとする姿は皆に共通していた。
それだけ切り取ると確かに美しい何かを感じさせるシーンなのだが、やはり何かが引っかかった。
そうなのである。
お賽銭を全く投げていないのにも関わらず、お辞儀だけはクソ丁寧なのである。
願い事の万引き。
ちゃんと参るっていう行為自体が信仰の対価になるのだから、そこ端折ったら万引きでしょ。
それに気づいてからそれまでどこか神聖に見えてた彼らがエビルな存在だとした感じられなくなってしまった。
もしかすると何かのタイミングでまとめてそれなりのお布施(初穂料?玉串料?)を払っているかもしれない。
それにしたって、そんなに大きな神社なわけでもないのだから、たった十数メートルの参拝を省略するのはどうなのか。
だったら神社の前を通るときに心のなかで手を合わせていけばいいだけなのに、お辞儀だけクソ丁寧っていう願掛けの線引はまじで意味がわからない。
神様にガチなプレッシャーかけて、絶対に元取ってやろうっていう魂胆が見え見えなのだが。
似たような話で、大手町に将門塚というのがあるのだけど、めちゃくちゃ丁寧なお参りをしてる人がすぐ横に路駐してた車に乗り込む姿をみるとやるせない気持ちになるのよね。
そこを通るとかなりの頻度で路駐があるのだけど、そのせいで左折車線に入りづらくて迷惑だしそもそも危ない。
人に迷惑をかけてまで参られる側がどんな気持ちになるか考えればわかることだろうって。
お参りは誰よりも丁寧!って姿が、謙虚の皮を被った傲慢に見えておかしくて仕方ない。
献金袋見たら
夫婦とも信者3%程度、配偶者が未信者1.5%程度、独身者3%程度、親を扶養している人1%程度、その他事情がある1%程度
と書いてあった。
プロテスタントなら宗派により十分の一献金(聖書の記述にある収入の10%献金)を厳密にするところもあるみたいだけど。
PTAみたいに仕事を減らそう!って中堅が言ったこともあったけど、〇〇の行事は地域の理解に必要で〜とご老人が引き止め、その他ご老人方が拍手、仕事は減らんかった
祈りたいけど維持手伝いは嫌ってのはわかる。掃除程度なら時間都合してできなくもない。
バザーとか、三連休潰してキャンプとか遠足とか、日曜学校の教師とか、クリスマスツリーの電球這わせるとか、ホームページ作成とか楽しい教会演出しんどい。
ミサ後のコーヒーとか知らん、ぼーっと手伝わんかったら怒られた。
平日頑張って日曜にミサ行くだけでへとへとだよ。メンタル病んで退職したけど、そしたら暇でしょ?って仕事めっちゃ振られるし。
つい数ヶ月前まで首吊ろうとして痣があったんですとは言えん。
大事なのはわかる。変なカルトと思われると困るご時世だ。ただ、皆普通に暮らしてるだけでくたびれ果ててるんだよ。
そういう人が祈りに来るときの最低限ってなんだろうな、こっちもわからん。
コロナで行事減ってミサもリモートで見られるようになり助かった。これも撮影して配信してる仕事してる人がいるんだよな。感謝。
明治から始まった(少なくとも「初詣」という言葉が初めて確認できるのは明治)のは本当だが「賽銭目当て」というのは微妙。
それまでは神社・寺ごとに決まった縁日に行くのが基本(今でも西宮神社とかの十日戎(えべっさん)なんかには名残がある)だったのが(地方によっては大晦日からの二年参りみたいなのもなかったわけではないけど)、
明治に入って日曜休日と正月祝日の制度ができて日付固定の初縁日に行くのが難しくなった。
そんでその頃できはじめた鉄道会社が「正月休みは初詣に行こう!」ってキャンペーンを打ってこれが全国的に流行って今に至る。まあ娯楽のない時代のレジャーやね。