はてなキーワード: 論文作法とは
これは単純に、日本の出版社が東京に集中しているからだと思います。
最も良いやり方は、英語なら(Oxford: Oxford University Press, 2004)のように「出版地:出版社、出版年」を書くやり方で、日本語でもたまに(東京:岩波書店、2017年)とか書いてる人はいます。
ただ、英語(あるいは他のヨーロッパの言語)の文献は出版地があちらこちらにあるわけですが、日本語の場合はほとんどが東京でたまに京都や横浜が混じり、分野によっては札幌が加わり、たまに広島や大阪や福岡で出た本が散見される……といった具合なので、「東京」とだけ書いてたら大混乱必至だと思います。
英語圏の日本研究なんかを見ると、「特別な表記がない限り出版地は東京ね」と記して、日本語の文献については出版地を書かずに出版社だけ書いてたりします(たとえば、ケネス・ルオフ『紀元二千六百年』朝日新聞出版、2010年)。
この「出版社を略す」風習は欧米でも議論があるところで、ウンベルト・エーコ先生は『論文作法』という名著の中で「出版地だけ書いてあっても本を探せない! 出版社も書くべきだ!」って主張してます。私はもっともだと思うんですが、根強く普及していて廃れない形式なんですよねこれ。
ただ、最近は逆に「出版地を略す」方式が出てきつつあるみたいです。なんでかといえばOxford University Pressみたいに世界各地に支社を持っていると、どこを発行地として書けばいいのか混乱するし煩雑になるからなんですよね……
なんかけっこうな数の人に勘違いされてるようで驚く。そんなおかしなことじゃないでしょ。ということで補足。
言っとくけど、これは剽窃や無断転載をしていいって意味じゃないですよ。参考文献の情報を表示する方法が違うってだけの話。
標準的な理系とか社会科学系の論文では、注ってこうやって示しますよね(以下、例はあくまで架空のものです)。
Trump (2018: 70)は次のように主張している。一方、Obama (2018: 47)はこれに反対していて……
この場合、文献リストがないと駄目です。だってこれだけじゃ、どの論文・書籍のことなのかわからないもん。だから、論文の末尾に文献リストをつけて、
って書く必要があるわけです。これがないとアウト。
トランプは次のように主張している(※1)。一方、オバマはこれに反対していて……(※2)
※1 Donald Trump, Make America Great Again (New York: Trump Tower, 2018), 70.
※2 Barack Obama, Yes, We Can (Chicago: UC Press, 2018), 47.
って表示することが許されてるわけですよ。これ、末尾に文献リストつける必要あります? そりゃつけた方が親切だと思うけど、なくても別にいいでしょ。だって参考文献の書誌情報はじゅうぶん伝わってるんだから。
なんで下のようなやり方がされるかっていうとですね、私も確かに上の方が便利だと思うんですが、文系の論文だと、
みたいな資料を引用することが結構あってですね、そういうタイプの資料を扱う研究者にとっては下の形式の方が楽なんですわ……。もちろんそれらの資料でも、工夫すればちゃんと上の形式で引用できますし、実際そうやってるひともいるけど、下のやり方は伝統的なので根強く残ってるのです。
あとまあ、学会によっては「下のやり方で書いて文献リストをつけるな」って投稿規定に書いてあったりするしね(もちろん上を指定してる学会もあります。ケースバイケース)。
http://anond.hatelabo.jp/20170525145352
おっ、せやな。シカゴ・マニュアルそのものじゃないけど、手元の解説書を読んでみたら、次のように書いてあるわ(分量的に引用として許される範囲を超えているけど、そこは勘弁してほしい)。
本書は、2つの最も一般的な引用方式を扱っている。「注記式参考文献目録方式notes-bibliography style」、または簡単に「参考文献目録方式bibliography style」(人文科学全般や一部の社会科学で用いられる)と、「カッコ入り出典―参照リスト方式parenthetical citations-reference list style」、または「参照リスト方式reference list style」(大部分の社会科学、および自然科学と物理学で使われる)と呼ばれるものだ。(後略)(※1)
参考文献目録方式の引用では、資料を使ったことを、典拠に言及するセンテンスの最後に、上つき数字を付けることによって示す。
He argues that "in an uncertain world, printed materials can be put to use in ways that make them powerful." 1
それから、対応する数字をつけた注で、引用の出典を挙げ、それに関する情報(著者、表題、および出版情報)とともに、該当するページ番号を明示する。注はそのページの一番下(脚注と呼ばれる)か、レポートの最後に集められたリスト(後注と呼ばれる)の中に印刷される。すべての注は共通の形式をとる。
N: 1. Adrian Johns, The Nature of the Book: Print and Knowledge in the Making (Chicago: University of Chicago Press, 1998), 623.(※2)
※1 ケイト・L・トゥラビアン(沼口隆・沼口好雌訳)『シカゴ・スタイル――研究論文執筆マニュアル』慶應義塾大学出版会、2012年、194頁。
※2 同、195頁。
元増田でも例を挙げたけど、この方式を採用している英文学術誌なんてたくさんあります。私が見たことある限り(ちゃんと読んだというわけじゃなくて、単純に論文をダウンロードして形式を確認した限りということ)では、中国語・韓国語・ドイツ語・フランス語・スペイン語・イタリア語・ロシア語の学術論文でこの形式は許容されてる。
海外の著者だと、たとえばウンベルト・エーコが『論文作法』って本の中でこの方式を詳しく説明してるので、ご覧になってみては。
人文系からすると、この方式を知らない方がガラパゴスですよ。だって、文系は理系の人はこの方式使わないで別の方式使うよね、って知ってるもん。なんで理系は、文系では別の方式も使うよねって知らないんです?
もちろん、この方式でも、たとえば1冊の本にまとめる場合なんかは末尾に文献リストをつけるのがふつうだと思います。だってそうじゃないと、その分野に関する文献にどんなのがあるか知りたいときにめんどくさいもの。一度、文献リストをつけられてない英語の本を読んだことあるけど、注を逐一確認して文献を探すのめんどくさかったですよ。ただ、論文程度の分量なら、注を逐一確認するのもそこまで苦ではないし、だいたい単にめんどくさいってだけでじゅうぶんに出典表示の義務は果たしてるし、紙幅の問題もあるしで、つけないことが多いんじゃないかなぁ。学位論文とかで、文献リストを絶対につけること! っていう決まりがある場合はつけないといけないけど、それは単に投稿規定守れっていうのと同じ話なので……
まずここからしてわからない。「思う」は抽象度高いの?じゃあ「思われる」は?「考えられる」は?「…と推定するのが合理的である」は?
「指し示してすらいない」って何を指し示そうとしているとあなたは考えてるの?
それとあなたの「論文作法も知らないバカ」に対して「文系の話なのか」と返しているのだから、おれにとってのすべて(これは多分論文のすべてという意味だと思うが)が自然科学だと考えるのは合理性に欠けると思うなあw
(23:15追記)
トラックバック(2)とあるからお返事があったみたいなんだけど一部しか読めない。これ他の人にも読めるのかな?
http://anond.hatelabo.jp/20140914225119
全部抽象度高いけど思うよりはマシだな断言は100だと言い切る行為。思うは0ー100のどこも指し示さない。不確定なものを言い切ることはその不確定さをより際立たせて想起させられる。
http://anond.hatelabo.jp/20140914230536
論文のすべて?勝手に捏造して決めつけて脳みそ腐ってんのかな 現象を捉えて言葉ですべてをという話なのに随分前から引っ張り出してきたのは単なる煽りしかできないゴミの匂いしか...
こういう内容。すごい気になるけどもう寝ます
同じ研究者(生物ではない)として、そう感じてしまう。彼女が犯したミス(?)はそれほどに初歩的だ。
しかしこのSTAP細胞の一件で最も不自然なのはそれほど初歩的な事も知らない人物が一方でNATUREの査読をすりぬけるほど論文の「書き方」に精通している、という事だ。
職業柄、他人の論文はよく読むのだが、素養のなさ、能力のなさは論文執筆に際して隠しきれるものではない。素養のない人が書いた論文を読むと、論証に致命的なミスがあったり、研究方針がそもそもおかしかったり、論文を書く上での基本的な作法(論理展開や用語)がなってなかったり、成果云々以前の所ですでにあやしいものが多い。論文を書く、という行為はそれ相応に修行を必要とするものなのだ。
しかし彼女の論文がNATUREに通ったという事は、こうした基本的事項には一切問題がないとNATUREの査読者達が判断したという事だ。
問題のない研究方針を立てられ、非の打ちどころのない論証ができ、まとも論文作法を身につけるほど修行をつんだ人が、なぜか超初歩的な一部の知識だけ欠落しているという事がありうるだろうか?
まぁ、研究計画や論理展開のような難解なところは共著者が行っていて、小保方氏が行ったのはいわば下働きのみであるとすれば一応は説明がつくが、これだとなぜ小保方氏が論文の主著者になったのかが説明できない。
なお、彼女が一切嘘をついていないとしても、彼女の実験結果は信用できないと私は思っている。
彼女の成果が信用できないのは、ハンドのルールを知らない人が「私シュートを1000本きめたんだ」と主張しても全く信用できないのと同じだ。
初歩的な事を知らない人が出した成果なのだから、「それって一試合あたりなの?」とか「ゴールポストのサイズはルール通りなの?」とか「それ以前にボールってどんなものか知ってる?」とかそういった初歩的なところで間違いを犯している可能性が大なのだ。