はてなキーワード: 蟠りとは
n=1の意見で貴方のお子さんは同じ考えではないかもしれないてあくまで参考程度に聞いてください。ポイントは下記の2点のみです。
不登校を選んだのは学校で経験した事象を経て、苦しんで苦しんで苦しみ抜いた上で選んだ選択なので、不登校になった頃には学校に関わるあらゆる物が苦痛で仕方が無かったです。その状態の子供に克己心を持たせようとするのは死人にムチを打つような物なので、子供の心に蟠りが生じます。私は親に「ちょっとリビングに降りておいで」と言われて降りたら当時の担任が居たことは今でも親への不信を抱く理由の一つになっています。
学校で沢山嫌な思いをした子供は学校に関連するものが大嫌いになっています。勉強が好きでもない子供にとっての勉強なんて「良い学校へ行くための苦行」ぐらいの認識ゆえに、学校に行きたくない子供にとって勉強をしない事が最も学校から遠ざかることができる手段になります。しかし、子供の学力だけは守って上げてください。勉強習慣を身に着けさせ、勉強への心理的障壁を取り払う事は学校に行かせるよりも重要だと考えます。学校嫌いで勉強嫌いの子供は学校に通い続ける限りそれは身につきません。基礎学力が高ければ高い程、子供の選択肢は増えます。これから先引きこもりになっても、基礎学力が高ければ、競技プログラミングにも取っつきやすいですし(数学力がないと苦労します)、インターネットで海外の人とコミュニケーションだって取ることだって出来るようになります。要は引きこもりながらできる遊びの幅が増えるのです。勝手に自己学習して自走してくれる子供ならいいのですが、不登校になった子供にそれは無理なことが多いので、「学校には行きたくないならもう行かなくていい」「しかし、勉強だけはしっかりやって欲しい」事は明確に伝えてください。家庭教師や個別塾が理想ではあるのですが(学校から離れたところでモラルのある生身の人間と接するのは、学校以外のコミュニティを認知し視野の広がりに繋がります。何よりもモラルのあるコミュニティに触れることで社会への希望も持てます。学校の生徒同士のコミュニティのモラルは大体糞でした)、今は五教科e-learningで学べたりするので、私の学生時代よりも引きこもりに優しい時代になってきたと思います。
もしも中学生なら高校なんてどうでもいいと思ってるかもしれませんが、高校を卒業してほしい旨と、週一のスクーリングで卒業できる通信制の高校があることを教えてあげてください。
私は親に無理やり学校に行かされた結果、中学生で頭が白髪だらけになり、学校に居てもずっと寝てるだけになり過眠症も併発。精神は常に不安を抱え、対人恐怖症と人間不信になりました。(大人になってから精神科で社交不安障害と診断されました)
中学卒業した頃に私が手に入れた物といえば、偏差値40程度の糞みたいな学力と、常に霞がかかった脳みそと、精神疾患と、社会生活の諦めでした。
子供の頃の経験というのはとても大切なものです。今思えば、私の親も私に普通の子供のように普通に学校に行って他の子供と同じような経験をさせたかったのだと思います。子供の為を思って。しかし、それは私のためにはなりませんでした。どうか貴方のお子さんが私のようにならず、幸せな人生を歩めることを心より祈っています。
ストーリーがひたすら無難な作品が人気出るイメージがあんまり湧かないのが結構面白いなと思っている。
仲間同士は基本的に皆仲良くて、挫折や試練があっても何だかんだ結束の力で爽やかに乗り越えてあまり後に確執を残さない、所謂ウマ娘やアイマスタイプがあまり見当たらないというか。
あんさんぶるスターズも、ツイステッドワンダーランドも、アイドリッシュセブンも、魔法使いの約束も、セルラン上位でよく見るようなソシャゲには、界隈で言う何らかの『闇』要素がある。
登場キャラクター同士ガチで仲が悪かったり、仲の良いキャラクター同士でもガチで疑心暗鬼になるような展開があったり、はっきりした故意でもって業界人としての生命どころか本当に人命を奪おうとするキャラクターが出てきたり(さすがにこの立ち位置のキャラはNPCであることが多いが)、等々。
バトルやサスペンスものの作品ならむしろ盛り上がりそうなシリアス要素が、少なくとも売り文句の上ではシリアスなバトル・サスペンス展開とは縁遠そうな作品にも盛り込まれがちな傾向、みたいなものだろうか(魔法使いの約束については最初からシリアスなファンタジーを謳っているので、この例にあげるには若干不適当かもしれない)。
そして発生した確執が後に引くことも多い。ゲームの中のキャラクター同士どころか、ゲームの外でそのキャラを推しているプレイヤー同士で蟠りを抱えてしまう例を身近なところでも良く見た。
最近公開されたシナリオ(と言っても裏設定なのだが)が流石にアイドルものというテーマに対して描写が過激すぎると現在進行形で盛り上がってしまっているのはあんさんぶるスターズだが、この騒動もあんスタというゲームに於いてはある意味恒例ではある。
それでも人気がある。というか、そういった要素が『そこまで無い』ゲームが、これらのゲームをぶち破って上に来る例をあまり見た記憶がない。
あまり『闇』のなさそうな、爽やかな青春・アイドルものとして売り出している作品は、良くてなんとか中堅位置をキープしているかソシャゲ自体は終わってしまっているイメージが強いのだ(ドリフェス、ダンキラ、Readyyy!等々、私が目にしたり触れたりした『闇』があまり濃くないアイドル・エンタメ業界ものはことごとくサ終してしまった)。
アイマスと言えばsideMはどうなんだと言われそうだが、こちらも最近リニューアルして若干勢い付いたものの、華々しく最上位に返り咲いた、というほどの強烈な存在感はない。そもそもリニューアルしなければアプリ版のゲームは終わっていた作品である(Mobage版は続いてはいるが)。
勿論今最上位にいるようなソシャゲが必ずしもストーリーだけで人気を獲得した訳ではないだろうが、それでもやはり男性キャラメインの作品については、ある種過剰なシリアス要素は受けるための必須要因の一つとなっているような気もする。
単に今のトレンドであるだけかもしれないし、そもそも単なる印象論なので別にそういった傾向自体私の勝手な偏見から見えてしまっているものなのかもしれないが。
(ちなみに刀剣乱舞はどうなんだという話だが、少なくともソシャゲに於いてはメインのストーリー自体がほぼ存在しないゲームなので何とも言えない。その分プレイヤー各々でほのぼのからシリアスまで自分好みのストーリーを作りたい放題の作品なので、逆に案外無難ストーリーものの需要の多くはこっちに行ってたりするのかもしれない)
ヒカルの碁をやっと読み終えた
小畑先生の作画が本当に美しくて、一コマ一コマが画集のクオリティだと思う。これが週刊誌で連載されてただなんて信じられない。
でも、だからこそ、最終巻、いやとあるシーンからずっとあれ…?え…?!て感じで、そのまま終わってしまって悶々としているという話をします。
私はヒカルと佐為の関係の物語と思って読み進めてしまった、読む前から私の中で佐為の存在が大きすぎたんだ。
そりゃだって小学生の頃人知れず恋してた人だったんだもの。何故か恥ずかしくて誰にも言えなかったけど佐為に会いたくてこっそりアニメを見てた、途中からだったし囲碁のこと全然分からないからストーリーは知らないままだったけど。
だからこそ自分の中で佐為への期待が大きすぎて、勝手にストーリーを作ってしまってた。
ヒカルはきっとプロになって最終巻で塔矢と対決して、ヒカルの力だけで塔矢に勝ってそれを見届けて成仏していくのだろうなって、それしかないよなって確信を持って読み進めてしまってた。
だから最終巻どころか終盤にも差し掛かってない段階で、割とあっけなく佐為がいなくなってしまってそれからはえ?あれ?もう?いや、さすがにここで終わりはないよね…?なんだかんだまた戻ってくるよね?という考えて頭がいっぱいのまま、結局佐為は最後までヒカルのところに戻ってくることはなかった。
ネットで調べると韓国との戦いで高永夏に敗れたことが納得いかない、最後なら勝って終わって欲しかったと言う意見をたくさん目にしたが、個人的にはあの試合はたしかに負けてしまったけど素晴らしい描写だったし、囲碁というスポーツや戦闘モノと比べると動きの少ない勝負であれだけの躍動感を描き上げた小畑先生の画力は日本の宝だと思う。
でもやっぱりね、やっぱり佐為もういないの…?という気持ちが消えない。どんなに素晴らしいシーンを見ても佐為のことばかり気にかけてしまう。
どうしてこんなにやるせないのだろうと自分で考えてみたんだけど、多分私の感性ではヒカルと佐為の関係性を思ってたよりも深く知ることができなかったんだ。ヒカルにとってはなくてはならない存在だったと言うのは充分にわかったんだけど、佐為にとってのヒカルはどうだったんだろう…?と思ってしまうの。
塔矢を見てあの子に憑きたかったとか、秀策はたくさん打たせてくれたのに…とか佐為の不満が描かれていて、それを見てた頃はそう言いつつも最後はきっとお互いにかけがえのない存在になって私と言う肉はそれを垣間見て美しい友情に涙するんだろうな…とにやにやしていた。
でも結局突然いなくなってしまった。成仏というのは本人の中に後悔や蟠りが無くなって現世に執着する理由がなくなって初めて行われるものと思い込んでた私にはこれはあまりにも衝撃的だった。
真相はわからないから勝手な予想だけどきっとファンなら最初の段階で誰もがそう予想する(塔矢との対決でヒカルの成長を見届けて安心して成仏していく)だろうから、それだとあまりにも予想通りの展開だからってことでこういう展開になったんだろうか。
この終わり方だと結局、佐為は探しているものを見つけられたのだろうか、もしかして別にヒカルじゃなくてもよかったの?不満を抱えたまま消えてしまったの?という思いが拭えない。
多分私はこの二人にあまりにも期待しすぎてしまってたんだと思う。他作品だけどネウロと弥子の関係性が本当に大好きで理想的だったから、勝手にこの二人もきっと最終的にネウロと弥子みたいにお互いにかけがえのない存在に
ひたすらに辛い。今周りから妬み嫉みが止まらない。その原因が自分のくせであることも解決方法も少しばかり分かってきているが、それでも辛い。何年間も自分を嫌ってきた人が居てなんか分からないけど辛い。もう少しで見た目を少しばかり変えて、今までやってきた癖に終止符を打ってみようと思う。ただ、髪の毛を止めたりして、なんか言われないか心配である。それでなお妬み嫉みが来るなら尚更嫌だ。自分がADHDで、周りを困らせている。ひたすらに前向きに生きようと、どうしようもなくても生きてみようと思っているのに、心が痛い。心臓が、喉が、奥に引く感覚がする。なんだろう、これ。恐怖と焦燥が合わさったような蟠りがある。
見た目をとりあえず変えてみよう。あいつらは見た目だけで判断している。判断材料がそれしかないからだ。会話もろくに交わせないので(コミュニケーションを自分からとることが出来ない、しようとしない。)それだけで少し変わるかもしれない。ドンキに行こう。ダイソーに行こう。4000円程しかない。髪の毛を止めた経験も、クソでかい鏡もないし、どうとめれば正解も分からないが、やってみよう。
初めていわゆる希死念慮の存在に気づいたときはまだ15歳とかそんなもんだったので、大人になるにつれて収まっていくと思っていた。自分がいわゆる思春期で精神的にメチャクチャ不安定だということは理解していたので死なずに頑張っていればいつか何かにつけて死にてぇ~と思う状況は脱せると信じていた。でもそんなうまい話があるわけもなく、約十年が経った今でも希死念慮絶賛継続中だ。
希死念慮ってこんなに持久力あるのかと驚いた。しかも大人になると降りかかってくるライフイベント一つ一つがクソ重く、結果学生時代より精神状態は深刻になっている。終わりが見えないもんね。十代のトラブルは大概「卒業」まで耐久すればなんとかなったが大人は自己責任でリスクを取って引越しだの転職だのするしかない。あるいは人生を降りるか。
実家と蟠りがあるタイプの人間だから軽率にそちらは頼れんし、メンタルの医者は当たり外れが激しいから探すだけでかなり労力になる。一回行ったことあるけどそこで外れを引いて嫌になってしまった。
みんなこんなもんなのかな、とは思っている。でも、みんなこんなもんだからといって僕の辛さは軽減されない。二十代にして気持ち的には人生詰んでいる。こんな精神状態のままアルコールだのカラオケだのゲームだので騙し騙し残り何十年もあるだろう人生生きていくのか?と思うだけで誇張抜きで気が遠くなる。
みんなどうしてる?どうしようか?
小さい頃は父が好きだった。多分母よりも好きだった。
何かと父に懐いていて、趣味も漫画やアニメ好きだった父から多大な影響を受けた。今でもガンダムとか好きだ。
でも、大きくなるにつれ次第に父のことを素直に好きと言えなくなった。
そうなった経緯を何となく身バレ防止のフェイク込みで書いていく。
中学生くらいまではなんの躊躇いもなく父が好きだった。
仕事で帰りが遅い日が多かったけど、家にいる時は積極的に遊んでくれた。
本も読んでくれたし、外にも連れてってくれた。色んなことを教えてくれたし、母に内緒でお小遣いをくれたりおかしを買ってくれたりもした。
私が中学に上がるくらいの頃から父は自宅で仕事をするようになり、日中も家にいるので、学校から帰れば父がいるのが当たり前の生活になった。
裕福ではないけれど、それなりの暮らしができる程度の一般家庭だった。と思っていた。
高校の時くらいだったかな。ふと、父が仕事で使っているパソコンを見てしまった時があった。
父の仕事場に、父になんか用があって呼びに行った時だった。その時父はなんかちょっとした買い物かなんかに出ていて、ちょうど離籍していた。
仕事場に入ると、父の姿はなく、パソコンの画面だけが煌々と点いていた。
そのパソコンの画面にちらりと目をやった時、メールの画面が開かれていた。
人のメールボックスを勝手に見るのはいけないことだ。そんなことはわかっていたけれど、あの父が普段仕事でどんなやり取りをしているのかが気になり、送信済みメールボックスを開いてしまった。
そしたら真面目そうな事務的なメールに混じって、「〇〇ちゃんへ」みたいな、確実に女の人に向けて書かれたっぽい親しげな件名があることに気付いた。
ここまで来たら、もう止められなかった。見ない方が幸せだってわかってたのに、好奇心とかなんかそういう気持ちに抗えなかった。
そこには、もう細かい文面は忘れたけど、今でいういわゆる「勘違いおじさん」的な内容の分が書かれていた。あまりの衝撃に全文は読まずにすぐ閉じたから、詳しくは覚えてないけど。
もう、なんて言ったらいいのかな。ショックだし恥ずかしいし、いや勝手に見た私も悪いけど、もうとにかく鳥肌立つほど嫌悪感を覚えた。
だって、おそらく20代くらいの女の子に向けて、妻子持ちのオッサンがデレデレしたメールを打ってる。「また会おうね♡」とか書かれている。もうそれだけでキモいのに、それが自分の父親だなんて。生理的に無理。
でもまさか母親や兄妹には相談できないし、友達にも言えないし。その日を境に、私は父との接し方がぎこちなくなっていった。もう素直に父のことを好きとは言えなくなっていった。
そしてちょうどその頃くらいだったかな。子どもながらに薄々と、ウチの家計ヤバそうだな?と思うようになっていった。
父と母が、たびたび家計のことで言い合うようになっていた。どうも、電気代水道代通信費等、様々な支払いが滞りがちらしい。実際、私が大学に入るころには、通信費の支払いがちょいちょい滞って、月の初めにケータイが使えなくなるということがたびたび起こっていた(ケータイ代は家族分まとめて父が支払っていた)。
母もパート仕事に出ていたけど、それでも足りないくらいに父の事業が上手くいかなくなっていたっぽかった。詳しいことは何も知らない。父も仕事や稼ぎに関しては多くを語らなかったし、そも私がまだ子どものカテゴリーに入っていたから、そんな相談もされるわけがなかった。
競馬にハマっていたというか、諸々足りない分のお金を手っ取り早く競馬で得ようとしていたようだった。それで余計に多くの金を失って、どんどん負のスパイラルに落ちていったようだった。今思えばの話だが。
それで決定的に「この人ダメだ」と思ったのが、ある日父にお小遣いを貰いに行った時だった。
友達の遊びに行く予定を立てていたのだが、その時に自分の財布の中身が若干心もとなく、ちょっとだけ融資してもらおうと思って父のところに行ったのだ。
「三千円くらい貸してもらえるとありがたいんだけど。バイト代入ったら返すから。」
そう言った私に、父は振り返りもせずに言った。
もうその瞬間から、私はその人を、親と思えなくなってしまった。
家計の状態をろくに知らずに、無邪気にお小遣いをせびった私も悪かった。もっとバイトに精を出したり、無駄遣いしないようにしてればよかった。
でもそれ以前に、娘に金を強請られて、競馬で稼ごうとするその姿勢がもう私には耐えられなかった。
「そんなお金なら要らない」と言い放ち、その日はそのまま出かけた。
友達にもこんなことは言えないし、親兄弟にも言いたくないし、メールの件の不信感も相俟ってもう父に対する信頼はすっかり無くなってしまっていた。
その後、父は結局借金が嵩み自己破産となり、母とは離婚し、今は離れて暮らしている。
私も数年前から仕事を始めると同時に家を出て、今は一人暮らしをしている。
そうなるまでにも色々あった。多額の借金が明るみになる直前には、私に万単位のお金を貸してくれと頼んできたこともあった。私がコツコツ貯めていた500円玉貯金が私の留守中に半分くらい持っていかれたこともあった。これらは未だに返してもらっていない。
なんだろうな。こんな形で嫌いになりたくなかったな。私も、職場の人たちが父親談義している中に、笑顔で入っていって、自分の父親はいい人なんだと胸を張って言いたかったな。
私が小さかった頃の父は大好きだった。それは本当だ。色んな事実を、知らなきゃよかった。
「隠し事はナシね」なんて綺麗ごとを言うつもりはない。でも、それなら隠し通してほしかった。私(たち)に失望させないでほしかった。大好きなお父さんのままでいて欲しかった。
お父さんと今でも何の蟠りもなく仲良くできてたら、今でも「もうすぐGレコ劇場版やるやん!見に行く?」みたいなLINEを送り合う仲だったりしたのかな、と寂しく思う時もある。
一部で話題になってる、大阪ライブでのレポをみて踏ん切りがついた。断捨離みたいなものだ。
思えば、一年前くらいから辞めるタイミングを伺っていたのかもしれない。ただ黙って辞めるのもこの数年間の自分が可哀想なので文章にしてみる。人に読ませるというか、自分のために書く。
多分、私にとって最初で最後の推しだと思う。もともと、舞台に興味があった人種ではないから。私は、上京してテニミュを観劇する機会がなければ出会うことのない世界だった。ただ、舞台上に立っているだけであのキャラクターが生きている。観劇経験がない私にとっては衝撃的だった。自分が1番好きなキャラクターをこんなにも巧みに演じてくれる役者がいるのか、とその巡り合わせに感謝すらした。勝手に恩義を感じて、その後の仕事も追いかけ始めた。といっても、舞台だったら複数回入るだけ、イベントも1回参加できれば良しとしている側から見れば緩いオタクだった。けれど、少ない給料から家賃、生活費を出した残りからだけだが、彼にお金を使えるということが嬉しかった。何度も同じ演目を観ても、違う表情を見せてくれた。観劇って、好きな役者ががいるって、こんなにも楽しいものなのかと幸せだった。
日々、アプローチを変えるお芝居への探究が、舞台は生物を体現していていつまでも観ていたかった。
どこか煙に巻くようなカーテンコールの挨拶をしつつも、周囲の人々への感謝を忘れない姿勢がなんだか誇らしかった。
友人が、誰も名前を知らなくても堂々とこの役者が好きだと言えた。
でも、もう応援する気が失せてしまった。この人をみていたいという気持ちよりも、チケット当たったし、行かなきゃなという義務感が強くなってきた。
元々やりたがっていた音楽活動をやり始めたからなのか、刀のミュージカルでソロライブをやり始めたからなのか、彼のSNSの存在意義が分からなくなったからなのか、彼より年下の役者の発言の方がしっかりしているのがだんだん目につくようになったからなのか、どれがキッカケか分からないけれど、少しずつ蓄積されていったんだと思う。
しまいには、有名な人と共演する機会を得た舞台を観ても、自分のなかの蟠りのせいで余り楽しめなかった。
私みたいなのは彼の想定するお客ではなくなってしまったんだろう。悲しいが、彼にとっては数多くいるファンが1人消えるだけでなんでもないことだ。
2月のライブのチケットも譲渡に出した。3月の舞台のチケットも友人に譲った。
キッカケがどうであれ、初めて推しを降りるという経験をした訳なのだが、嘆き悲しむかと思いきや通常運行で日々を送っている。そもそも、ここまで3次元の人間に入れ込んでいたのが24年生きてきたなかでたった数年だ。こちらのほうが異常だった。でも、そうまでして応援したいと思わせるものを彼が持っていたのも事実だ。
SNSで彼に感じてしまった不平不満を発信したことはないが、多分壊死する呪いをかけられる側のファンであったことには違いない。
キッカケはそうだとしても、彼にそこまで価値を感じなくなっていた私にとっても、彼のファンを辞めたことはなんでもないことだった。
僕が煙草を吸っているとよく聞かれることがある。
「なんで煙草を吸ってるの?」
単なる会話の糸口として聞かれる場合もあるし、疑問の提示の場合もある。ともかく上記の疑問の後に続く文は経験上多くの場合共通していた。
「体に悪いよ」である。
この呼びかけに対する返答に僕はひどく困るのだ。
ただ、こんな返答をすれば今度は相手が困る番だ。それは僕の望むところでは無いので当たり障りのない嘘を返すことになる。
嘘をつくのはどういうものであれ、僕にとっては蟠りとなる。なので、ここでは何故僕はそのような理由で煙草を吸っているのか、吐き出すことにした。
本来であれば墓まで持っていくかチラシの裏にでも書くべきなのだが、僕は墓まで持っていける程の思慮も持ち合わせておらず、最近のチラシはツルツルした紙に両面印刷されているので書きにくいのだ。
前提として僕は特徴のある生き方はしていない。
普通の両親から生まれ、地元の公立小中高校と進み、地元の国公立大学を4年で卒業し、東京の企業へ就職した。年齢は30代が見えてきた辺り。履歴書の経歴欄は2,3行で埋まり、「特徴ねえな」と思ったものである。
だがこんな人生の中でふと思ってしまったのだ。あと何年も生きることになるのか。と。そんな思考に至ったのは記憶が正しければ高校生時代に進路を考えていた頃だった。
この思いは一種のひらめきに似たもので、どのように導き出されたのか自分にもわからない。ただ分かるのは、この漠然としたひらめきは僕にとっては恐怖として解釈されたということだ。
生きることに恐怖を抱いた場合、自明な解決手段がある。死ねばよいのだ。
ただし人間はそれほど明瞭な思考回路をしていない。人は、パンによってのみ生きるのではなく、必要なものはまだまだあるのだ。そして生きるために必要だったそれらの多くは、死ぬときにはしがらみとなるのだ。
僕にとってそれは家族と自分自身であった。家族に迷惑をかけたくないし、自殺者の家族という不名誉を負わせたくない。この思考は理解が容易だと思う。
問題は自分自身だ。あくまで僕は僕の保身の為に一定の名誉を保ったまま死にたかったのだ。
改めて文字にしたためてみると途轍もなく独善的であることを認識させられるが、これは僕自身をどう殺生するかの問題だ。独善と詰られようと知ったことではない。
まず思いつくのが自殺であるが、実行後の障壁が多すぎて諦めた。車や電車に身を投げようが高所から飛び降りようが樹海に行こうが、最終的に家族に多大な迷惑がかかる。
なので病気になって死ぬことにした。次善手である。この方法では僕は"不幸にも"病気にかかって死ぬことになるため名誉を失わず死ねるのだ。病気の合間は苦しむことになるだろうが、周囲の同情を買ってくれるのではと打算的に考えている。
病気になる方法は色々あるだろうが、摂取する毒が広く売られているのでそれを利用した。それで行き着いたのが煙草である。
死ぬには数年から数十年かかるだろうが寿命が縮むのは間違いないだろう。またその期間で両親が他界し、兄弟姉妹が結婚していれば言うことがない。
結果として僕は病気で死ぬため、ひいては自殺と悟られないよう大手を振って死ねるよう煙草を吸っているのだ。
体に悪い事を知りながら。むしろその悪性を利用して。
僕は結婚はしないだろう。子供を持つことに興味を覚えることはあれ、現実感はないし人の親になる器ではない。
何よりしらがみが増える事を良しとしない。親戚の子とゲームで遊ぶくらいがちょうどいい。
会社の昇進にも興味がない。死のうと思っている人間には煙草を買える分の金さえあればいい。煙草が一箱1000円になれば考えるかもしれない。
職場の人間に興味が沸かないのでいつまで経っても名前が覚えられない
初めは興味を持っていた筈だった。だけどそれも次第に演技になった。
きっと相手も皆演技をしている。
そういう事をされている内に、少しずつ興味が失せていった。
ああ、この人達に自分は必要ないのだ。欠員が出てもすぐまた埋められる存在なのだと。
幼馴染のIは結婚して九州へ渡り連絡途絶中だ。思い入れがある存在である筈の父はかなり昔から別居している。
貴方が大切です、だなんて言えば言うほど虚しくなる。
ここに自分を置いて下さい。大切にして下さいと嘆いた所で同情しか寄せられない。
幼い頃はこうではなかった。愛していたし、愛されていた。担任からは疎まれていたかも知れないけど、担任は逆に子供達に囲まれながら孤独だったに違いない。
弁えられる年齢になってしまったからこそ、近付けば近付く程壁を認識するからこその無関心だ。
だって、ほら、あそこまで近い仲になったあの子と自分の間に結局何が生まれた?今や齟齬、蟠りとなりつつある。だから、もう、良いのだ。淡白になりきってしまえば、その方が気が楽だ。
最近、周りで死刑制度の是非について聞くことが多くなったので自分の意見を具体的に言葉にしてみようかなと。
まず、反対派の主張をずらっと挙げてみます。
②再犯の可能性があるからと言うけれど、犯罪を犯す可能性があるのは人間なら誰だって同じである
大きくこの四つですね。
僕は死刑賛成派なので、これについて反証していきたいと思います。
犯罪抑止効果は確実にあると言えるでしょう。実験をして科学的に証明をしたりせずとも、それは分かり切っていることです。
そもそも一般人は罪を犯しません。不可抗力や軽度のものならまだしも、死刑判決を食らうような大罪は犯しません。普通の倫理観を持っているなら。
死刑判決を食らう犯罪者達はその「普通の倫理観」を持ちません。若しくは一般的に広く人々が持っているであろう「罪の意識」や「やってはいけない事」の意識が圧倒的に低いです。
では、そんな犯罪者達と一般人を比べて犯罪を犯す確率が高いのはどちらでしょうか?
正解です。言うまでもなく前者ですね。
③
恐らくこれが一番の論点です。「人権が~」「人としての尊厳~」云々が一番の問題だ!と言う人もいるかもしれませんが、そんな曖昧模糊とした適当な概念について語るつもりは毛頭ありません。
司法には推定無罪の原則というものがありますが、その上で物的証拠も何もかも揃い、本人の自白も取れて死刑判決が下された場合、まだ冤罪がどうとか言ってられますかね?
とは思うのですが、それでもなお万が一にでも冤罪だった場合の話をします。
冤罪なのに処刑された人は既に死亡していて、責任をとることはできません。
…難しいですね。これについて僕は蟠りを覚えているのです。ひとまず保留として、よく考えてから機会があれば書きたいと思います。
④
応報刑論(目には目を、歯には歯を)というけれど、それなら犯罪者を処刑した刑務官も死んで償うべきではないの?
というものですね。これを聞いたとき、応報刑論を持ち出して死刑制度賛成のスタンスを示していた僕は「なるほどなー」と思いました。
これについては、僕はこういう風に考えています。
まず、『目には目を、歯には歯を』と言っても、「命」を取られてしまえば被害者はその時点で相手の「命」を取ることはできません。
つまり刑務官は「被害者の代役」となって加害者の「命」を取るわけですね。
「目には目を、歯には歯を」まではできますが、「命には命を」は相討ちでもない限り不可能です。ならば別の人間がするまで、ということです。
しかし、三点目の「万が一の冤罪」は未だに良い反論が見つかりません。
詳しい方、誰か教えてください~。
http://anond.hatelabo.jp/20160923031920
・『聲の形』の視点人物は元いじめっ子だが、『ズートピア』の視点人物は元いじめられっ子。→いじめられっ子たちの繊細で多様性に富んだ内心をウサギ(尻がいい)一個人に集約するのはいかがなものか。
・その元いじめられっ子がいじめられて即いじめをはねのけるほど強い。→「いじめられっ子はいじめられてもめそめそせず、強くあるべき!」という押し付け
・元いじめっ子(デブな方のキツネ)があっけなく許されすぎ→ウサギ(尻がいい)の親に至っては元いじめっ子となんの蟠りもなく商売やってる。ちゃんと自分の娘がいじめられてたのは知ってたはずなのに。「あのころは俺は自分に自信がなかったんだブヘヘ」で許されるんなら、『聲の形』だって「あの頃は俺もイキっててさw」で許されるべきだろ。
・ウサギ(尻がいい)もデブじゃない方のキツネにひどいこと言ったけど、泣いて謝ったら許してもらえたよね。→泣くだけで許してもらえるのはウサギがかわくて性的なアピール(尻がいい)にめぐまれているから。たとえば、魅力のないイタチは泣いても許してもらえないだろう。
・結局、ウサギとキツネが互いに許し許されているのは、美男美女だから。→ウサギは尻がいいし、キツネは尻尾とアナルを同時に攻めると弱そう。
・え? 何? 「ズートピアは聲の形とくらべて、自罰的ないじめ被害者が出ないからいい」ですか?→羊はどうなんですか? あいつは明らかにライオンからパワハラを受けて、それをいかにも自罰的に受けながしてましたよね。
・「いじめられっ子が復讐するのは悪」というストーリー→羊さんはライオンからのパワハラに耐えかねて、それでキャラが歪んで権力を志向したんですよね? いじめられっ子が復讐する話ですよね? なんでそれが否定されるんですか? いじめられっ子は暴力をふるわれるままにガタガタ震えてろってことですか?
あるソシャゲ(音ゲー)のライブが先日あった。ライブ自体は大変よく満足できるものだったが、どうしても気に掛かることがあるから書く。
そのソシャゲは主に「曲が良い」という文脈で知られることが多く、実際ソシャゲは全くしないがCDは買う、曲だけは聞く、という人がTwitterのタイムラインでも目立つ。お察しの通りソシャゲのできは決して良いとは言えない、むしろやや古い作りと言って良い。毎週のイベントに参加する人数も多くない。もちろんコンテンツの楽しみ方は人それぞれ、どんな楽しみ方があっても良いと思うし、興味を持つ切っ掛けは何だって良いと思う。
だけど、普段は別のソシャゲの話しかせず、曲以外に興味のある素振りも見せない人がライブに行って最高だった~!とか言うのを見るとどうしても蟠りがある。
曲にしか興味ないのに最高だったの?
演者がMCの時に言った言葉がソシャゲの台詞をなぞったものだってことも、きっと気付いてないよね?
演者の人はユーザを楽しませようと努力してくれてるのに、ユーザは何も努力しなくていいの?
要するに、普段は禄に顔も見せないような遠い親戚が、宝くじが当たったと聞いて突然現れて騒いでいくような気持ち悪さを覚えるのだ。ライブは、せめて普段からそのコンテンツが好きで好きで楽しんでいる人にこそ楽しんで欲しいと思う。
こんなのは心が狭い、楽しみ方は人それぞれだというのを否定している、新規を阻む老害思考だ、そんなことぐらいわかっている。だけど最初から、或いは途中で飽きてコンテンツとの接点を減らしてしまった人をファンと呼んで良いのか。素直に納得できない想いがある。
追記
トラックバックにも書いたけど、広い意味で支えるファンだし曲だけでも聞いてもらえるだけありがたいとは思う。ただ、いちいち曲しか聞いてないわwみたいに間接的にdisることを言う人が目立ち過ぎる。まだ曲しか知らないけど〜なら、シナリオ読むともっと楽しめるよとか言いようがあるのに、曲以外には興味ありません、ゲームクソだから起動すらしませんシナリオにも興味ありませんアピールしなくても。はい、ただの老害ですねわかります。
去年の今頃、ネットで偶然知り合ったある女性とちょっとした約束をした。「◯◯を一緒にやろうね」程度のものだ。
だが夏頃、相手から「今はできそうにないので中止にして欲しい」との打診があった。
結果、その約束は取り止め、となった。
約束の仕方がやや強引且つ内容に配慮が欠けているところもあり、何より下心もあったので、自分には負い目があった。
それは多分見透かされていたし、その上で断られたのなら仕方ないので、まぁ残念、という感じだった。
今年に入って、彼女はどうも他の人間とその約束の内容を実行することにしたようだった。
それも別に構わなかった。相手は自分も信用している方だったので、きっと俺より上手くやってくれるだろう。俺の中で芽生えた蟠り程度の感情は放っておいたら直に萎んだはずだ。
でもどうしてもダメったのは、彼女がTwitterで「増田との約束果たせなくて申し訳なかった」「あの時のことが心残り」と書いたときである。
(俺のTwitterアカウントは去年夏頃に消したので、俺がツイートを見るとは思わず本音を書いたのだと思われる)
決定的に、みじめな敗北者になった瞬間だったと思う。
ツイートを見た後、「あの件の責任は自分にある」と気持ち悪い懺悔の長文を相手に送った。俺が悪い、ごめん、気にしないで、忘れて、といったふうに。
(ただこのメッセージは自分が一方的に責任を持つことで楽になりたい為に送ったもので、相手の感情を慮ったものではなかった。送ったことを後悔している)
ただ帰ってきた言葉は「忘れるというのも寂しいので、良い思い出にということにしたい」といったようなマシュマロみたいな言葉だらけだった。
彼女は他者を傷つけるような言動は決してとることができない純粋に優しい人で、俺のプライドを傷つけないよう返信してくれる。
相手の対応は素敵だと思う。ただ俺を相手にしないだけだ。そして、本音も窺えない。
何か俺の知らない事情があったのだろうといのは分かるが、その真意は最後まで分からなかった。
でも、俺としては、これほど言って欲しくない言葉もなかった。罵詈雑言を並べてくれた方がよっぽどマシである。俺も「バーカ」と清々しく返せる。
俺を切り捨てる選択をしたのだから、そのことは振り返らず前を向いておくべきだ。それくらいの責務と強さは持っていて欲しい。
そっちの方が俺も誇らしい。
彼女は俺の約束を断った理由はなんだったんだろうと、今更思う。
シンプルに考えると「俺のことが生理的ダメだった・交友関係を深めたくない対象だった」とか「交際相手がいるので特定の男性と距離を縮めたくなかった」、
「俺ではなく、今組んでいる相手と一緒にやりたかった」、「萎縮してしまった」とか、その辺りだろうか。
交際しているなら、堂々と言ってくれたら良かったのにと思う。それならこちらも意識を変えて違う付き合い方ができた。
(一応、あるタイミングで交際相手がいないことを確認していた。でも彼女は俺の事情を確認してくれなかったので、その時点で上手くいかないだろうという想定はあったが、これは余談)
まあここにこんな未練たらたらな文章を書く時点で、俺がどういう人間かご明察なのは間違いない。四六時中というわけではなかったが彼女のtwitterを確認するのもアレである(諸悪の根源)。俺は童貞である。
ただ男女間の問題ではあったが、正直、お互い恋愛を意識するような距離感でもなかった。なにせ座標的にも結構遠い。彼女の住む所に行くのに一万円くらいかかる。
友人関係として、ちゃんと成り立っていたのかも今となっては疑問である。
上っ面のやり取りばかりだったと思う。相手が優しいから関係が紙一重で続いてただけで、約二年のやり取りは価値の無いものだったのかもしれない。
なんというか、下心はあったが、最後まで表面部分しか彼女のことを捉えられず、恋という感情まで持っていけなかったところはある。
そういう、中途半端な態度がダメだったのだろうか。思い込みでもダメもとでも強引に誘って散ればよかったのだろうか。
いや単に、致命的に噛み合わなかったとか、相性の問題とか、状況の問題とか、そういうふうに考えたらいいのだろうか。
何か俺が猛烈な誤解でもしているのだろうか?
正直良くわからなくなってきた。
俺に人間としての魅力がなく彼女が優しすぎた結果、という話ならシンプルだったし、今でもそれが正解だとは思っているのだが……。
なんにせよ彼女にとって俺が負担になっているのは間違いないので、今日、「もうメッセージも送らない」とやんわり伝えた。縁は切れるだろう。
素直に思うのが「かかわって申し訳なかった」という気持ちだ。しかしこれは本人に伝えても傷つくだけだろうし、俺としても行き場のない感情なので、ここに綴った。
女友達を切ったら楽になった
15年間仲良くしてきた友達と最近になってギクシャクしてきたので切ってやった。
アラサーになり、今すぐ結婚したくてたまらない友人と、結婚なんていつでもいいや。と思っている私との間に蟠りが出来たのはここ一年位になる。
友人はLINEで二週間に一度、大企業に勤める人や医師、弁護士との合コン自慢を送ってくる。
私がどんなに頑張ってもそんな職業の人たちと合コン出来ないのを知っていてわざと自慢してくる。
私が「いい人居たの?」と尋ねると友人は「変な奴ばっか、いい人なんて居なよ!」と必ず言ってくる。必ず!
そんな事ばっかり言って男人たちを貶し続けている。
では、お前はいい女なの?
と言い返したかったけど、友達だから傷つけないためにぐっと飲み込んだ。
口を開けば男の愚痴。
寂しい。結婚出来ない。私に合う人は限られてる。こんなに頑張っているのに。なんで?
うんざりだ。
連絡先削除したら本当楽になった。
それらを聞かなくていいんだと思うと楽になった。
中学の頃からの付き合いだったけど、15年たって友人は子供の頃の気持ちが無くなったんだと思う。
結婚と言う焦りがそうさせたのかも。
私はただ、たわいもない話をしたかっただけ。
今は独りが楽だ。
仕事が終わった後、スーパーで夕飯の事を考えながらお買い物をするのは仕事脳から家庭脳への切替でもある。
通勤時に切り替えろって話かもしれないけど、ボクは朝の巻き戻しだけでキリッと切り替えるのが難しい。
最初のウチは切替時に買いすぎたりしたけど、半年後には脳内に「はっちゃけ夫さん」的な人が発生し調整をしてくれるようになった。
(ウチの冷蔵庫は単身用なので買いすぎると入らないという即日で反省できる環境だからってのもある)
仕事から疲れて帰ってきた家族が癒され、笑顔で食べてくれる事を考えながら作る。
そのために毎日台所に立つ。
大袈裟に言えば、台所は家族への愛情確認の場でもある。なにか心に蟠りがあると進行が滞る。
食材の買い物ではなく日用品の買い物をする日もあるので、スーパーに行くのは一日置き程度。
ドラッグストアの日や百均の日もある。買い物をしない日もある。
前日にはレシピの計画を立ててあるので、そんな日は元増田奥みたいに計画に沿って調理する。
が、材料は同じでも調理法や味付けで違うメニューになるのが料理の楽しみでもある。
前日の自分とは違うアイディアを思いついて別メニューにする事もある。
限られた食材の縛りで、違うモノを作り出す喜び。
ぜひ元増田奥にははっちゃけ夫さんと事前協議の上、新たなメニュー開発に勤しんでいただきたい。
がんばって。休日は仲良くお買い物してね。