はてなキーワード: 芸術的表現とは
個人的に水着云々はあまり興味がないんだけど児童労働に関しては同意だなー
現在のところ例外として認められている役者についてもより強い保護措置が必要だと思う。
今の保護措置として午後8時から午前5時までの就労が禁止されているけど
本来は自己決定権および自由意志の観点から見れば役者を例外とするべき理由はないのかもしれない。
これだって例外として認められたのは歌舞伎とかの「伝統」や表現における「必要性」を理由としたものや、
子供の自己決定権に対する観点からの考慮は十分されていないのではないかと思う。
まあ、そもそも成熟した意志決定ができる年齢というのは個々人によってかなり差があり
少なくとも18歳より前倒しするのであれば本人への権利の明示とその理解について何らかの方法で計る必要があるのではないか。
※2 最低年齢
(1)満13歳以上の児童については、非工業的業種に限り、①健康及び福祉に有害でないこと、②労働が軽易
であること、③修学時間外に使用すること、④所轄労働基準監督署長の許可を得ること等により使用するこ
とができます。
(2)満13歳未満の児童については、映画の製作又は演劇の事業に限り、上記の①~④の条件を満たした上で
https://jsite.mhlw.go.jp/tochigi-roudoukyoku/library/tochigi-roudoukyoku/hourei/kantoku/nensyou.pdf
はてなでは表現の自由が金科玉条のように扱われているように思われる。
あいちトリエンナーレや、ネット上の発信、漫画の規制などの話題では同然にこの言葉が使われる。
しかしなぜ表現の自由はそれほどまでに大事にされているのだろうか?表現とはなんだろうか?
表現の自由は憲法学では精神的自由の中においても優越的地位にあると考えられている。
その根拠として、精神的自由は侵されやすく、また回復が困難である。
では表現の自由はどうであろうか?
まず表現とは人格の発露であり、人が人らしく生きる上で欠かせないものであるとの認識がある。
そのためただ思っているだけでは規制されない人の精神的活動が表現を伴うことで侵害されやすくなるのである。
次に表現内容について考えてみよう。
表現は多種多様であるが、その内容は多岐に及ぶ。そこでここでは政治的な意思と芸術の2つを考えてみよう。
この二つについては関連することも当然であるが、まずは切り分けてそれぞれの側面から見ることにしたい。
はじめに政治的な意思であるが、これが表現の自由において語られるのは、民主制との関連である。
人々は民主制で意思決定をしているが、そこでは人々が各々考え方を示して、それを戦わせることによって収斂させていく。
するとある事柄に対する政治的表現が失われてしまうと、そこから生じる決定からも失われてしまう。すると正しい決定ができない。
またそのような表現を規制することは他の考え方に基づく決定したい人にとっては規制したい誘引が大きく、侵される可能性も高い。
次に芸術的表現であるが、人々は自ら考えそれを外部に行為として表現する。これは人格の作用にとってかけがえのないものである。
こう考えると表現の自由にも内容に差があることがわかる。
これに即した考え方が必要であろう。
書いてて思ったが、今、ネットで語られてる表現規制はこの違いを明確に意識する必要がない気がする。
なぜなら多くが単に自分の気に入らないことを正当化根拠もなく、規制したい人ばかりだと捉えられるからである。
詳細に考えれば、あいちトリエンナーレなんかは芸術における政治的表現をする場について、公権力が表現され、議論されること自体の価値を中立的に支援することの必要性とかが語られるべきなのに、
誤解に基づく単なる気に入らない表現行為を正当化根拠もなく、ただ規制したい人々の話にしか感じられないな。
表現行為の価値と正当化根拠の詳細な検討が行われてるケースなんてどこにもないわ。
これなら単なる意見の相違でしかない(大半は正当化根拠すらない)から表現の自由から考えなくてもいいか。
書いたことで納得できた。
まだ誰も真実を書いていないようなので、辛口レビュー(口コミ)をしてみる。
http://www.ppschool.jp/teachers.html
これが講師一覧だがなんと16名!!
それぞれの名前をググってもらえればいいが、校長のテラウチ氏を除くとほとんど写真家としての実績が出てこない。
例えば講師の中に名前を連ねているM川女史の名前をググってみる。なにか写真家らしい実績が出てきただろうか?
Phat photoの講師である以外の実績が出てこない。それもそのはずだ、某ネット系企業に務めるただのOLだ。
「PHaT PHOTO講師養成講座修了を経て、ビギナークラス講師に」とある。
つまりこれまでコマーシャル・フォトでプロカメラマンだったとか、なんらかの作品が評価されたとかではないのだ。
ということはM川女史はPhat Photoが考える講師の基準を満たしているだけに過ぎない。
素人同然とはいいすぎかもしれないが、ゴルフでいえばゴルフ練習場で教えているレッスンプロレベルだ。
プロのアシスタントが務められるほどの技量があるわけでもない。
Phat Photo School自体がマッチポンチ式の運営といえる。
悪徳経営とまでは言わないが、自画自賛の手前味噌写真学校といえるだろう。
授業の中身は、講習+講評という流れで進む。講評は写真技術的なことだけでなく、芸術的表現も含まれる。
世間の目に作品を晒されたことが無いような講師から、芸術的表現を講評されるとは微妙すぎる。
芸術的価値という意味で言えば、Phat Photo Schoolの講師陣も、ずぶの素人も対して変わらないはずだ。
なにせ、これらの講師陣には、Phat Photo以外の実績が無いからだ。
とはいえ悪いところばかりではない。
事実この学校で知り合って結婚したという人を何組か知っている。
写真を学ぶためというより、出会いを期待している人には是非オススメの写真学校である。
以上Phat Photo Schoolの口コミでした。
慰安婦像が表現の自由って、あたま大丈夫?表現の自由だからって法律とか条約に違反してもいいのかよ。
日本でも「表現の自由」をうたって公道に落書きしたり、構造物を設置したりしたら逮捕されるでしょ。それが放置されてるのは異常な状態。
表現の自由で何でも通るんだったら、ヘイトデモだってOKってことになるなわけだけど、ここで「表現の自由だから」ってコメントしてる奴らは普段ヘイトデモは表現の自由の範疇じゃないって紛糾してるじゃない。どんだけダブルスタンダードなんだよ。
表現の自由は完全になにをしても良いという自由ではないよ。他者の権利や法律を犯さない範囲で認められているもの。極端な例で言えば、芸術的表現のために人を殺して良い訳はないし、薬物でハイになってコンサートを行っていいわけでもない。
表現の自由は「何を表現するか」が自由なだけ。「どこで」とか「どんな手段で」みたいなことは自由じゃない。私有地で展示するのなら、どんな形の銅像であっても問題ない。(現実の人物とかを揶揄するようなものは名誉毀損になるけど。)
だから慰安婦像を作ること自体は表現の自由だけど、どこに設置するかは自由じゃないんだよ。
どうか表現の自由をはきちがえないで欲しい。