はてなキーワード: 自転車道とは
さっき暗くなってから道を歩いていたら、向かいからロードバイクに乗ったおっさんがライトをチカチカさせてきて、光が直接こっちの目に入って眩しかった
こっちもたまたま手に持っていたマグライトで正面を照らしたらおっさんの目に光が入ったらしく、すれ違いざまに止まって、ふざけんなと難癖をつけられた
ご迷惑をおかけして申し訳ありません。自転車を走行中に、車や自転車、歩行者などとの衝突や事故を防ぐために、自転車には前照灯やリアライトが必要です。また、自転車に乗るときは、自転車道や自転車専用道路を使用することができます。その他にも、信号や標識などを守ることや、周りをよく見て走行することなど、安全を第一に考えることが重要です。自転車乗りは、他の人々や自転車、車、歩行者を尊重して走行することが求められます。そのため、どのような場合でも、他の人を怒らせたり、迷惑をかけたりすることは避けるべきです。
この文を書いている今日、所用で外出した先で雨に遭い、それが止むのを夕方まで待ち、さて自転車で自宅に帰ろうとした道すがら、空に虹(にじ)を見た。
今日の外出先から自宅へと向かおうとすると、ちょうど西から東へ進行する形になる。東の空へと流れ去る黒い雨雲を背景に、色の濃く鮮やかなもの、色が淡いもの、二本の虹が綺麗な弧を描いていた。
その時、私が通行していた自転車道兼遊歩道には、他に散歩やランニングをしている人たちもいたのだが、彼らも私と同じように、虹に見とれたり、スマホで画像を撮ったりしていた。中には「二本の虹なんか初めて見た!」と驚いている人たちも少なからず見られた。虹が二本出ることを知らない人もいるのかと、むしろそれに私は驚いたのだが、のんびりと空を見上げる余裕を持つことがあまり許されない現代人には、仕方が無いことなのかもしれない。綺麗な虹を見たという新鮮な感動が機会となって、彼らが空の気象や天体に関心を持ってくれたら嬉しい。
ところで、二本の虹が出ることを知らないということは、おそらく彼らは二本の虹の名前も知らないのであろう。しかし、虹が二本出ることを知っている人でも、案外その名まで知っている方は少数派ではなかろうか。こんなことを言うと「虹は虹でしょ?区別とかあるの?」と思われるかもしれないが、漢字による呼称は区別がある。
漢字の原型は、殷代の甲骨文字に見ることができるが、その中には既に、虹を表した象形文字を見出すことができる。それは、弓形の弧を描く二本線で描かれており、弧線の両端には口を開いて下を向く頭を持ち、しかも角らしき突起まで見られる。
甲骨文字は占いに関する記録を遺したものであることから卜辞(ボクジ)とも呼ばれ、古くから中国人自身による研究が行われていた。その一つに郭沫若(かく・まつじゃく)の著した『卜辞通纂考釈』があるが、この中で「一つ出た虹を『虹(コウ)』、二つ出た虹を『霓(ゲイ)』と称したものであろう」という説が述べられている。ただし、現在の漢和辞典を引けば、『虹(コウ)』が雄で『霓(ゲイ)』が雌とも記されていて、郭沫若の説とはやや異なる。二本の虹の濃い方を『虹』、淡い方を『霓』として雌雄ペアと見るのが後代の見方である。いずれにしても、卜占の亀甲や肩甲骨に刻まれるような神秘的・神話的存在として、虹・霓は古代中国人の心を捉えていた。
残念ながら、私のデバイスの文字変換では『霓』の文字しか出てこないのだが、本来は『虫』偏に『兒』旁で、ちゃんと『虹』とペアになるのに相応しい形をした文字である。それが現在、雨冠の字形が主流となっているのは、科学的な物の見方をするようになった近・現代人が、この漢字には神話的・呪術的な役割ではなく、気象用語という科学的な役割を担わせるようになったことの反映であろう。
虫偏の字であることからも判るとおり『虹(コウ)・霓(ゲイ)』のことを、昔の人々は、広い意味での『蟲(むし)』の類いと考え、すなわち「ヘビ」の一つと見做していた。これは日本でも同じことで、マムシやフクムシなど「ムシ」の呼び名がヘビには用いられている。『フクムシ(福虫)』というのは、これは穀倉を荒らすネズミなどの害獣を捕食してくれる益獣だからである。『マムシ(真虫)』の真(ま)は、オオカミに冠した神名『大口真神(おほくちのまかみ)』における真(ま)と同じく、強く猛々しい神の名を軽々しく直接的に呼ばないようにするための、一種の忌み名としての尊敬の接頭語であろう。
『虹(コウ)・霓(ゲイ)』は、両端に頭を持つ怪蛇であるから「それではヘビじゃなくて、むしろ龍とかの仲間ではないか」と言われるであろう。しかし、昔の人々にとっては、家屋の周辺や田畑などで身近に見かける普通のヘビですら、神秘的な存在だったのである。昔の人々にとって、龍(りゅう)/蛟(みずち)etc.と普通のヘビとの間の境界は、我々現代人が考えるよりも遥かに曖昧であったと言ってもいい。足を持たない、もしくは四脚が有っても小さくて目立たない、細長いクネクネとした身体の動物のことを、一纏めの仲間として昔の人々は捉えていたと考えられる。このことを少し頭の片隅に置いてから、以下を読み進めてもらいたい。
「それにしても、虹がヘビだなんて、昔の中国の人たちは面白いことを考えていたものだなあ」と思われるかもしれない。しかし、実は「虹(にじ)=天の蛇」という考え方は、近代化する以前の社会では、地球レベルで広く見られた/見られるものである。そして、それは日本も例外ではない。そもそも日本語の名称『ニジ』そのものが『ヘビ』を意味していたとも考えられている。
日本における「『天の蛇』としての虹」の話に関しては、ロシア人言語学者ニコライ・ネフスキーによる有名な研究をはじめとして、多数の調査研究が為されている。それらから、思いつくままに事例を紹介していこう。
例えば、琉球諸島宮古島では虹を『ティンパウ』と呼んでいたが、『ティン』は「天」、『パウ』は「ハブ」のことである。『ハブ』は『ヘビ/ヘミ』系統の語である。大蛇を表す『ウワバミ』の語に含まれる『バミ』もまた『ヘビ/ヘミ』の転訛であると考えられる。『ウワ(上)』はマ(真)カミの真と同じく、忌み名としての尊敬の接頭語であろう。
宮古島の北にある池間島には、若返りの水についての昔話が伝えられている。欠けて新月となり姿を消し、再び満ちて姿を現すことを繰り返す月。脱皮して不老不死を保つ(かのように信じられていた)蛇。若水とは、神話では月や蛇と結び付けられて語られる、不老不死の象徴である。月と水が結び付けられるのは、潮の干満との連想であろうか。
太古の昔、人間はスデ水(若返りの水)を浴びて脱皮することで、不老不死を保っていた。ある時、天の太陽神が、セッカ(ヒタキ科の鳥類)に命じて、スデ水を月から地上へと運ばせていた。ところが、途中で『アウナズ(虹)』が、スデ水を奪って捨ててしまった(あるいは、スデ水を横取りして使い、脱皮するようになった)。このため、太陽神と月神の怒りを買ったアウナズは、それ以来、太陽の反対側に出るようになったという。
若水物語に登場する『アウナズ』という語は、琉球諸島地域におけるアオヘビ類を指して言う『アウナジ/オーノジ』系統の語と明らかに同じものである。他に、八重山群島竹富島でも『オーナーヂィ』と言うとされる。つまり『天の虹』と『地上の蛇』を、同じ名前で呼んでいたのである。
少し変わったものでは、小浜島では虹を『チネー・ミマンチィ』と呼んでいたというが、これは『ティン・ヌ・ミミジィ(天の蚯蚓[ミミズ])』の意であるという。細長くてクネクネした動物を昔の人々は一纏めに捉えていたという話を、今一度、思い出してもらいたい。
新城島では、虹を『アミ・ファイ・ムヌ(雨を食うモノ)』と呼ぶ。雨が降りそうで本格的には降らない俄か雨で終わる状況を「虹が雨を食った」と言うからだそうである。与那国島には『アミ・ヌミャー(雨を飲むモノ)』という呼び名もある。
虹が喉の渇きを潤すために雨や地上の水を飲みに現れる、或いは、虹が喉の渇きを潤すために雨を呼び起こすという信仰もまた、広く見られるものである。
長野県では、龍が天から水を飲みに降りてきた姿が虹とされ、また、同県更科では「虹は『ジャ(蛇)』の吹く気である」と信じられていた。山梨県西部でも「『ノジ』は蛇の息」とされた。秋田県平鹿では「『ノギ』は吹いた」と表現した。大分県でも、虹が出ると「『ジャ(蛇)』が吹いた」と言われていた。水神としての蛇神が棲むとされた湖沼から天の蛇としての虹が出現して、雨を呼び起こすという話も広く分布していることが認められる。このことから、ネフスキーは湖沼の支配神を指す『主(ヌシ)』も『ニジ』と同一起源ではないかと考えたようであるが、それは流石に後代の研究者から否定されたようである。しかし、湖沼の主といえば大抵は龍蛇なので、語源論としてはともかく、ヌシと虹を結びつけるネフスキーの見方は意外に悪くないと思える。
ネフスキーと同じ頃の時代、宮良当壮という研究者は、虹とヘビ類の方言呼称を分析して「『ニジ』はヘビを意味する語から分化した」ということを立証しようと試みた。ニジの呼び名には『ノジ/ネジ/ヌジ/ヌギetc.』がある。既に上でも紹介したが、琉球諸島地域におけるアオヘビ類の呼び名が「アヲ+(語根)」の形をとっており、その語根部分の変化が『ノジ/ナジ/ナギetc.』となっていて、極めて似ている。そこから、宮良は「『ナギ』が『ウナギ(鰻)』を含めた『ヘビ型動物』の総称であり、そこから『ニジ/ヌギ』などの語が派生分化していった」と考えたのである。細長いクネクネした動物を一纏めに捉えていたという話を、再度、思い出していただけたであろうか。
この宮良説の傍証としては、例えば秋田県ではアオダイショウのことを『アヲノジ/アヲノズ』と呼び、『ノジ/ノズ』は同地域における虹の呼称と共通しているなどといった事例が幾つも見られるので、宮良説はあり得ると個人的には思っている。大蛇を指す『オロチ』という語も、尊敬の『接頭語オ(御)+ロチ(ノジ系統語の転訛)』と考えられる。
とはいえ、現代人の感覚から見れば、特に、生物学や動物分類学の知識を通じて見れば、ヘビとウナギを同類視するという考え方は、なかなか受け入れ難いものと思われるかもしれない。しかし、以下の話を読まれたならば、どうだろうか。
昔の日本人は、雷神に対して信仰を抱いていた。特に農民は、落雷に対する特別な信仰を抱いていた。例えば、岐阜県美濃地方では、稲田に落雷があれば、その場所に注連縄を張って神聖視・聖別した。何故このように稲田への落雷を特別視したのか。それは『稲妻(イナヅマ)』という単語に端的に表されている。イナヅマとは「稲の配偶者」であり、昔の日本の農民たちは、雷神を「稲田神を孕ませる夫(ツマ)」と見做したのである。これは、落雷のジグザグ線が蛇神の顕現と見做されたこと、そして、蛇体が男性器の象徴と考えられていたこととも関係しているのであろう。落雷は豊作の予兆であった。
東北地方には、落雷のあった稲田を神聖視する風習が存在した。例えば、岩手県では、落雷のあった稲田を「お田の神の田」と呼んだり、女性や家畜を入れないようにしたり、雷神と刻んだ石を建てて祀るなどした。
この岩手県をはじめ、東北地方には「ウンナン田」と称する水田の事例が見られ、これは「落雷のあった水田」であり、しかも「鰻(ウナギ)の姿が見られる水田」のことであるとされる。ウナギが住める水田は、水温が比較的高く、良い水田だと考えたからともされる。落雷後の水田でウナギを目撃したことで、農民たちは「雷神が水田に棲み着いて、良い水田に変化した」と考えたのであろう。しかし、それだけではあるまい。
今では、落雷が豊作の予兆であるという考え方は、単なる非科学的な迷信ではなく、それなりの自然科学的な根拠があったと知られている。農作物の稲だけに限らず、植物の生長には、窒素肥料成分が不可欠である。大気中には気体の窒素が大量に存在するものの、それらは化学的に安定な窒素分子の状態で存在しているため、そのままでは植物も栄養素として利用できない。ハーバーボッシュ法による大気中の窒素を人工的に固定する方法が確立し、窒素肥料の大量生産が実現するまでは、大気中の気体窒素を、植物が栄養素として利用できる窒素化合物の形に化学変化させることができたのは、マメ科植物の根に共生している根粒菌を除けば、雷による空中放電だけであった。おそらく、落雷が起きた水田の周辺では、雷の電気により生じた窒素酸化物の影響で、稲の発育が良かったのだと想像される。それを見た農民たちが、経験知として「落雷=豊作の徴」と語り伝えたものが、ウンナン田なのであろう。
最後になるが、もしも『ナギ』系統の語がヘビ型動物を指すという説が真実であるとすれば、そこからどうしても思い浮かべてしまうのが、インドから東南アジア地域に広く分布する蛇神『ナーガNaga』の存在である。果たして、ヘビの古い呼称の一つである『ナガムシ(長い蟲)』の『ナガ』は『ナーガ』と関係があるのか。水の中にいる長くクネクネしたヘビのような身体をした動物ウナギは、もしかしたら『オ(御)+ナーガ』からその名が付けられたのか。
妄想は尽きない。
今回の内容は、この本の受け売りである。とても面白い名著なので、是非、図書館などで一読することをおすすめしておく。
栗花落カナヲと蛇の話⇒anond:20221108215545
ちょうど自転車の違法運転の取り締まり厳格化がニュースになってるから頑張ってね
https://news.yahoo.co.jp/articles/5d84788e0a8c728e3e72be57fcf0d0fe10b92cf0
自転車は原則として、車道を走行中は車道の信号を守り、歩道を通行中は歩行者用の信号を守らなければいけません。
歩道を通行する場合、自転車での走行が許可されている場合でも、いつでも停止できるスピードで徐行しなければいけません。具体的には時速4~5kmほどとされています。
→歩道は知るときは時速5㎞が目安。歩くスピードと完全に同じってことだね
自転車は原則として車道の左側を走らなければいけません。反対車線で道路の右側を走る、いわゆる「逆走」はいけません。また、自転車道が設置されている場合は、自転車道を走行します。
→自転車通行帯があるのに歩道を走る自転車も多いし、逆走もしばしば見るよね
夜だったはずだ。7時半だったか、ともかくその頃にはもう、すっかり暗くなっていた。そこを自転車で行くのだ。所在は、比較的には都会の方だったから、宵闇はネオン光や、車が放つ種々の光が斑に照らしている。そこを、当時中一だった私(以下、私と呼称する)が、幼稚な自転車で通行するのである。むろん、舐められる。
塾まで、至極単純な道のりで、自宅から、三十分もせず到着する。順路も、ちょっと右左、捻じ曲がった局所を踏破すると、後の二十何分を道なりに、ひたすらに直進するのみだ。国道から、十分も満たない近所だからだろうか。交通の便を良く配された、長い道路の両脇には、BOOK〇FF、PCでない方のマック、小さな銀行……大抵の設備が整っている。つまり、人目だって、十二分にあった。
そこは、少し幅狭な通路だった。少なくとも、まだ自転車道を通行することに、一縷の不安を持っていた私にとっては、その通路は少し手狭で、七面倒な場所であったことに違いない。幾つかの難所を脱した私は、もう二分も立たない内に、目的地にたどり着く手はずとなっていた。もう着くのだ。気だるさと同時に、私の顔はほころんでいる。前から、二人組の男が歩いてくる。
水溜まりボ〇ドみたいな二人だった。違いと言えば、デブの方が金髪だったと言う位である。それ以外は、本当に酷似していた。
私は、車道に幅を寄せた。その時、自動車道を大きく乗り越えトラックが接近していたし、ガードレールもあったので、どのみちそうする他ない。当然、私は二人組が、通りやすいよう、右に固まってくれる事を期待していた。
その期待は砕かれる。そうした類の善意どころか、彼らは私へと悪意すら向けてくる始末だ。具体的には、私の通行を阻む様に立ちふさがると、デブは何を考えたか、「こんばんは」と言う。
怖いと感じた。私は一層横に寄せると、少し、身を縮めた。一瞬、彼らは不気味な沈黙を保ったと思うと、私の右をぬるりと通過してゆく。デブは再度、「こんばんは」と言った。先程より大きい。彼の声は、記憶に定かではないけれども、高い声をしていたはずだ。その高い声が張り上げられるのだ。再度、「こんばんは」と言った。ほぼ怒鳴る様だった。男の身も蓋も無い叫び声は、あなたも聞き覚えがあるのではないか。私はそれに強い不安を覚える。恐怖ではない。しかし、どうも、身の安全が脅かされる様な気がしてならなくなるのだ。
その瞬間もそれだった。恐怖はなく、不安だけが総体を循環するのだ。不愉快な感覚だった。横のガリが笑う。何故か笑う。彼らは、人を脅かすことに悦びを見出しているに違いない。双方とも笑うその声は、喜悦と興奮に歪んでいた。
彼らは通り過ぎてゆく。距離の壁が初めて私に事態の終息を確信させた。気付けば私は塾内に入っていた。授業はするすると脳に染みわたるようだ。私は、その日から少し、見た目に気を遣うようになった。あの日買った競技用自転車は今は錆びつき、備え付けの駐輪場に放置され、今も風雨に打たれている。
これは思い出話。
この増田の筆者である増田こと私が趣味で自転車を始めたころの教訓。
なにが半端かというと途中でどっちに行けばわからなくなるのだ。
おおむね川に沿っていけばいいのだがあるところで突然土手を登っていき一般道に放り出される。
そしてそこからどう進めば自転車道の続きに行けるのかわからなくなってしまう場合がある。
もちろん事前にルートの確認はしているのである程度は方角はわかるのだがそれが必ずしも正しいとは限らない。
自転車というのはなかなか軽快な乗り物でうっかりと間違った道を辿っていって気づいたときにはここは何処?ということがよくあった。
そんなとき人は自らの過ちを素直に認めることが出来ず、おそらくはこちらの方向へと向かっていけば正しいルートへとつながるはずだと進んでしまう。
そういった間違いを何度も犯して学んだこと。
道に迷ったときは来た道をそのまま戻っていくこと。
そうすると不思議なことにどこで間違ったか気づいて正しいルートへと復帰できるものだ。
今となってはスマートフォンがこれだけ普及した世の中、こんなことも起こらない。
𝐀𝐧𝐨𝐧𝐲𝐦𝐨𝐮𝐬 𝐍𝐞𝐰𝐬は、『ローカルなニュースを全国に』をスローガンに、何気ない小さなニュースを不定期で紹介していきます。かなしいニュースや目も当てられない悲惨なニュース、ストレスを感じるニュースの紹介は避け、毒にも薬にもならないような何気ないニュースや、時にクスっと笑えるような記事の発信を目指します。
筆者は取材を行わず、地方新聞等の媒体に掲載されたニュース等を参考にしつつ、情報を収集して記事を作成しています。また、配信されてから数日経過したニュースを題材として用いることがありますので、ご注意ください。
なお、参考にした記事のリンクが切れている場合があります。なるべくWaybackMachineにアーカイブを取るようにしていますので、リンク切れの場合はそちらをご活用ください。