はてなキーワード: 自己批判とは
https://www.youtube.com/watch?v=2CqnaONH9J0&t=2580s
https://imgur.com/HQuKcBp.jpeg
実話BUNKAタブー編集部@BUNKA_taboo
漫画とかアニメとかの創作物で「救われた」とか言ってる人たち、それらに触れただけで救われたんなら、大してどん底だったわけじゃなく、絶対ぬるま湯な生活を送ってましたよね
実話BUNKAタブー編集部のアカウントがこんな腐しをしていた
あのさ、みんな忘れてるか忘れたフリしてるんだと思うけど、
BUNKAタブーって以前、暇空本人に執筆依頼してまでcolaboを攻撃する記事載せてたよな。
なんで今さら編集部ごと暇空サイド弾劾する流れにシレっと変えてんだよ
手下のロマン優光にこんな事まで言わせてるし
暇空氏に便乗して無分別にデマをばらまいたり、誹謗中傷をおこないにっちもさっちもならないとこまできてしまったこういった人たちは愚かだが、ある意味正直者だともいえる。
自分ではそういった発言をしないが、お気に入りもRTもアンチフェミニズム的なものでいっぱいな人。海乱鬼はRTしないが、もへもへはRTする人。 そういうタイプの人(高学歴、高収入、家庭にも恵まれているような人もいる)が、初期に暇空氏をRTしながらも自分では発言はせず、便乗組が暴走したりして雲行きが怪しくなると、まるで最初から関係がなかったかのようにサッと立ち去るという見事な立ち振舞いをしていたわけで、ある部分では今回Colaboと和解したような人たちよりもタチが悪いと私は思っている。
もう一度言うけどBUNKAタブーは 暇 空 茜 に 記 事 書 か せ て ま し た よ ね ?
暇 空 茜 に c o l a b o バ ッ シ ン グ 記 事
書 か せ て 掲 載 し て ま し た よ ね ? ? ?
何 無 か っ た こ と に し よ う と し て る ん で す か ? ? ? ?
「BUNKAタブーはそういうゲスなスタンスの雑誌だから、わかってやってるからw」「怒る方がバカww」って擁護にならない擁護沸いてきそうだから言うけどな
何事にも 限 度 つーもんがあると思うんだよ。
食い物やら流行りもんやらでそういうゲス記事やんのは別にいいけどさ、社会派ジャーナリズム気取ってそういう事をやられるのは幾らなんでも限度を超えてんだろ
はっきりと害悪だよ
BUNKAタブーのみなさんも暇空に忖度してた事を自己批判なさったらいかがですか
https://anond.hatelabo.jp/20231022080329
だから限度があるだろって話だろ
「BUNKAタブーはこういう雑誌なのでw」って開き直ってれば何したって許されるの?BUNKAタブーなら人殺しても許されるの?
関係ないですけどあのバッキー事件の実行犯の一人がBUNKAタブーを出版してるコアマガジンの編集者だったって事ありましたよね。
https://seesaawiki.jp/w/kobalos/d/%A5%D0%A5%C3%A5%AD%A1%BC%A5%E1%A5%F3%A5%D0%A1%BC
立命館大学学友会は日本最大の学生自治組織である。というよりも、勝手に日本最大になった。
早稲田大学は自治を放棄し、日本大学にはそもそも自治組織が存在しなかった。
私は学友会が進んでいるとさえ思っていた。他の大学が諦めたことを立命館は不断の努力によって続けてきたのだ。最近になって自己批判に晒されている。それがまやかしなのかという疑問が沸々と湧いてきて、組織として上手に隠して運営されていると結論に至る。
学友会と関わりが深かった先輩の言葉を思い出した。「学友会とは時代遅れの組織である」と。
なぜ多くの大学が学生自治を放棄したかは自明の理である。それが生徒会に堕落してしまったからだ。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2014/0331.html『雑談(105)今時の学生たち(2)――大学に生徒会?,2014年3月31日』
この文献が端的でわかりやすい。大学で学位取得を目指す人間は学生なのである。決して生徒ではない。自らの力で、学生の地位向上のために動く組織が自治組織たりえるのだ。生徒会とは、学校の小間使いでしかない。近年、多くの大学が生徒会になった。私は単にナショナリズムの欠如だと思っている。大学に不満を抱いても、インターネットでそれを補完できてしまう。大学側も少子化によって学生を選抜するのではなく、お客さんとしてきてもらうためにサービスを拡充させて学生数の維持及び向上を目指している。今の学生に学生全員が一致団結して争議できる議題は何もない。かくいう立命館大学学友会も前年度、これまで一致団結のスローガンとしてきた学費争議からリタイアした。値上げ反対の姿勢を崩し、学費増額を致し方ないとした上で「未来に向けた議論をしたい」と言い切った。最後まで学費増額に反対する立場を取り続けたのは教職員組合だった。
いまの立命館大学学友会を学生組織として機能させているのは、会費の代理徴収制度である。大学の学費と同時に自治会費を徴収し、学生のみで扱える金銭を自治会に差分するものだ。他の大学は権限を放棄させられた。学生に責任を握らせることはできないと。立命館大学学友会は、代理徴収の権限をひたすらに守った。代理徴収がなくなれば学生で学生を自治する、学生自治で無くなるために、必死に制度を守った。その頃はまだ学費増額への提議、反対勢力の一翼を担う力があった。だが、大学の融和政策に堕ちた。学費増額への反対は、もはやハリボテだったから理念を変えた。その先は学園共創という大学に都合の良い存在にしかなりえない未来である。
学園祭・新歓行事、スポーツなども含む課外活動、学生間の互助活動、大学との学園共創活動、財政の公開、それら役員の選挙。
その全てを、
無給で、
取り組んでいる。
菅野完氏のこの分析が見事だった https://www.youtube.com/live/rbITz5pU2hg "ジャニーズ記者会見に関する考察についての自己批判"
まぁ定期と言っていいだろう。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2218032
社会学】上野千鶴子、学問の中立性や客観性を否定していた。「不利なエビデンスは隠す」だけでなく、覆面査読の拒否、「学問の中立性や客観性は抵抗勢力」と主張。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2217225
宮台真司がどうとかよりも「社会学者憎し」がこれ程潜在的にある・あった事に大変驚く。みんな社会学の事が本当に分かってないか、初めから無価値と決め込んでるんだな。社会学に価値を認めないということはそもそも「社会」に価値を認めないということなんだろうな。
この手の議論となったとき、多くの場合は社会学(者)不要論から文系不要論に進んでしまい、非常に迷惑している。
いつも、特徴として、
○間違った知識で専門外のことを決めつける。
○間違いが指摘されても認めない。
といったところが見て取れる。
ただ、仮にも学者を名乗っているのであれば、ここで社会学(者)に求められるのは、「ワタシ悪くないもん!」と主張するのではなく、以下のようなことではないだろうか。
もちろん、これは「社会学は社会の真理を解き明かすから」などのお気持ち表明ではなく仮説を立てて実証する。集団(群集)心理の研究なんかは正に社会学のテーマと言えるでしょう。
というか今回の宮台先生だって、処理水の安全性ではなく、何故不安に思う人々がいるのかを科学的に分析していたなら正に社会学者の仕事と言えたのにね。
「不利なエビデンスは隠す」と公言するほか、査読への拒否感など手続きを軽視する姿勢が甚だしい。そういった者が主流となり、同業他者からほとんど批判もされない理由の分析が必要です。これも正に社会学の研究テーマと言えるでしょう。
というか、いつも「○○の社会学」って他の分野に切り込んで課題クリエイターとなるくらいなら、まず「社会学者の社会学」をやったらどうですか?
まぁ、他の多くの文系分野同様(経済学や法学の一部(商法など)を除く)に左派色が非常に強い(というか形だけでも左派に理解を示さないと出世できない)中で、出世に重きを起きすぎたせいでこうなったのかなぁ、という漠然とした印象はありますけどね。
こういったところまで視野を広げてアカデミズムの社会学をやろうとすると放逐されるんですよね、知ってます。
これをすると講座制から脈々と続く、後任は前任が事実上指名する体制が崩壊するからね、仕方ないね。
(ちなみに、「保守派は学問を軽視する」という研究は認められますが、「リベラル派は~」となるとかなりオブラートに包まないと無理です。実例あり)
的はずれなブコメがあったので。
「アカデミズムから放逐」(笑)ブルデューも知らんの?https://tinyurl.com/yfdnu3ah幼稚な学問イメージで一つの学を全否定できると考えるバカの戯言。社会学や人文学がこの手のバカに敵視されることがその必要性の証明。
ここで提示したのは社会学者の社会学ね。違いが分からないかな?
分からないなら分かるように書けなかったのが悪かったね、ごめんね。
社会学という学問への自己批判だけでなく(これは社会学の社会学)、何故このような人たちが出世してしまったのかの分析が必要ってことね
https://anond.hatelabo.jp/20230824235929
なんとかいう左翼の報道カメラマンの大御所みたいなやつが最近レイプ常習バレたり
学生運動や過激派の中でも女はモノ扱いされてきた、自称リベラルこそ空気みたいにアナクロなマッチョイズムを身体化してる問題は散発的にはずっと告発されてきた。
まあ外部から見ればそりゃそうだろうねという話なんだけど。世直しヒーローのつもりの思い上がった独善家なんだから、組織の下っ端の女なんか当然備品扱いするわな。
で、当の左翼ジジイが自己批判するわけないのも当然として、上のチズコみたいな左翼フェミ勢が党派性からそこは見て見ぬふりしてきた歴史はもう今更言い訳しようがない
その時点以降、自己の特定の評価をつけ続けるという境界線が「釣り」レッテル貼りなんじゃない?
そうではない情報の場合、その次の時点以降からも自己評価や他者評価を取り入れたり組み合わせたりして派生をさせたり再評価したりするんだと思うよ
評価の最終点としての「俺は降りる」を「それはお前が乗るの値しないからだ」という意を込めて自身のポジションをあくまでその文脈にのせたまま表すことじゃないかと俺はおもうよ
②自分に合っていなければその話題に接触しないようにすればいいだけ
③なのにわざわざ自分から接触しにいって接触した理由が特定の評価をつけるためだけ
④自分がその情報において表現したい(したということを認知され好適な評価をされたい)ためにそうでないものを批判するために情報に触れる
たとえば、石を投げるという行為について
・石をなげられる原因
・原因があったとして石をなげつけるという行為
・止めよと言っているが止められていない状況について
・石をなげられているものと見に行くもの・止めようとするものの関係性について
みたいな行動をとる人間がそれぞれいるとして、その規範に行為を確認した段階で「その行動は一貫性がなく自己批判をしないのか」と関係ない話題に方向転換された場合
それ以降の継続不可を示す自分の説明より「相手が”釣り”だったから」として「関係ない話題への方向転換」を批判することが「釣り」評価をしてそれを発信することじゃないかな
びっくり系やどっきり系のものみたいに、自分が話題の方向転換をしたら全体を制御できているような万能感を感じようとする行為に対し、それを仕掛けた側への不満を表明しての離脱(離脱する意思を繰り返すことでその回数や範囲に対し自分の救済としてる)かなと思うのでどっちにしても相手を調子づかせて、それに呼応するように自己肯定をかけると終わりがなさそう
そういう意味でいえば、記事に対してブコメが批判と賛成と少なからずその他の言及があったとして「結局ブコメたちは」と記事に対してでもそれに対する自分の意見でもなく、全然関係ない他人について自己評価をし始める謎のスタンスで俯瞰した自分を自己肯定しようとしてるものに似てるって気がするね
まあようするに「俺がそう思ったから」だよ
造語を広めた人間は更に社会的救済の批判としての意味も込めたみたいだが、有名無実化してる。
まぁ誰にでもある観念だなぁと思った。だから自己批判的に使われるのだろう。
でも僕は批判しようとすら思わない。
その中での優遇、苦労の度合いによる人助けの指標みたいのもある。
例えば、弱者と強者で結ばれた数直線があって、僕が手を差し伸べる人間を探すとしたら
それは当たり前すぎて言葉にするのも難しいくらいの倫理的な常識で、
弱い人間ほど助けを求めてるに決まってるって経験に基づく相関でしかない。
もちろん、その数直線の並びは人によって変わるから
でもそれだっておんなじことだろう。
フェミはお気持ちに任せて意味不明の長文を書く傾向にあるのでAIに要約させた。リンク元も読ませてある。
ミソジニー連呼する高齢オタクのエビデンスのかけらもない独りよがりの論理だということがわかると思う。AIはこう指摘する。
しばらく共同親権界隈の出来事を見守っていて、いやはやこれはすごいことになってるわと思った。たぶんこういう世界に関わり合いのない人達からすると、目も眩むようなような世界が広がっている。
共同親権絡みの話題って、ネットで目にするものだけ追ってると、「別居親(特に父親側)みんなが共同親権求めてる」みたいな印象持っちゃうけど、そもそも別居親みんなが共同親権くれくれ派ではないのよね。
現時点で別居親の境遇にあって、子どもとの面会交流の機会が充分に持てないなかで、「子との面会交流の機会を持ちたい」って希望をかなえるために頑張ってる人達がいる。そゆ人達は、別居に到った理由(たとえば自分のモラ傾向とか)を反省しつつ、同じ境遇の別居親アカウントと情報交換したり慰め合ったり愚痴を言い合ったりしつつ、一生懸命に元妻や元子どもに誠意をアピールし、時には「全面屈服」みたいな自虐的表現も交えつつ、うまくいった人は徐々に面会交流の回数や時間を増やしたりもしてる。中には「元家族から『よりを戻そう』という申し出を受ける」という幸福な段階に至れた人もいる。つまり「子どもに会う機会が欲しい」という自分の目的がわかってて、そのためにやれることを地道にやってるクラスタ。このあたりは、AAとかの依存症自助団体に似た雰囲気もある。自分を見つめ直し、自己の問題を受け入れましょう、そこからがスタートです、的な(実際、そういう当事者団体もある)。こういう人達はおおむね自己葛藤を繰り返しつつ目的のために誠実に実績を積み上げてる。目的と手段が合致してるといってもいい。彼らの多くは共同親権の制度化についても賛同はしてるけど、そこに望みを託してるわけじゃないし、「共同親権界隈の運動」のことは醒めた目で見てる。
そのネットの「共同親権推進派」のほうは、「そもそもそういうことができない別居親たち」の吹きだまりになってる。別居親当事者がこの界隈を指してしばしば使う言葉に「他責思考」ってのがあるんだけど、ほんとその通りで、とにかく全般的な論調がめちゃめちゃ他責的。今の自分が別居親という境遇にあるのは、妻が悪いからだ、あるいは義実家が悪いからだ、人権派弁護士が悪いからだ、家裁が悪いからだ…と、とにかく理不尽で不条理な「敵」の悪意や攻撃の被害者として自分をとらえてる。
んで、自分をそのような境遇に陥れた元配偶者やそれを支援する人達を、連れ去り事案だ、実子誘拐だ、片親疎外だ、児童虐待だ、洗脳だ、国際的なスタンダードに則してないと罵倒し、同じような考えの別居親当事者とつるんで怪気炎を上げる。自分の家族とは無関係な、共同親権に対して慎重な弁護士たちの懲戒請求をする。面会交流支援の施設での写真をネットに晒してその仕組みの不当性を訴える。いつできるかもわからず、自分がその恩恵を受けられるかもわからん法律の成立のために、ネット上で支離滅裂な「運動」するよりも、今すぐに取り組めて実効性もある「もっと子どもと会うためにやれること」はいっぱいあるはずなのに、それはやらない。
さらに怖いのが、その「俺は一切悪くない」の人達の中に、「ちょっと手を上げられた程度で」「一度『出て行け』と言ったくらいで」とか普通にTwitterに書いちゃうやつが一定数いること。自分自身がDVをやったり追い出しをかけたり(どっちも法定離婚事由の「悪意の遺棄」にあたる)した有責配偶者であることを認めてるのに、でも「俺は悪くない」という認知。ツイートで「虚偽DV」みたいな言葉を振りかざす人達も、そのことは咎めない。そんな雰囲気だから、今回のハッシーの件も、共同親権界隈にはハッシーの行動を擁護する声も多い。自分自身が「出ていけ」と言い放った妻子に対して、言われたとおりに出て行った後で「連れ去りだ」と激怒する支離滅裂なメンタリティが、問題視されずに「そうだそうだ」と受け入れられている。クワ持って殺人未遂事件を起こしたやつは悪くない、悪いのは実子誘拐をしたヨメや片親親権という悪法だ、ということになってしまう。
こういうタイプの人は、仮に一念発起して家裁の面会交流調停を弁護士に依頼しても、途中で辞任されるケースが多いらしい。なんせ弁護士のアドバイスをまともに聞かない。事前に「不利になるからNG」と念を押されていても、堂々と「妻が暴力を振るわれてもしかたない理由があった」「家族なんだからそれぐらいは当たり前」みたいなことを平気で言っちゃうんだから、調停がうまく行くわけがない。離婚案件に詳しい堀井亜生弁護士によると、モラハラ夫の依頼者は「弁護士を変える、必要な証拠を提出しない、遅刻する、裁判官の意見に納得ができないと怒る」みたいなことが多いそうな。さもありなん。
そういう連中の語りを読み続けて薄々わかってきたのは、彼らにとって共同親権というのは、結局「子どもとの面会交流の機会を得るための手段」じゃないってこと。「かつて、自分自身の振る舞いのせいで失ったもの(家族というリソースと、それを一時は所有・支配していた自分の権能とメンツ)を、自分の側は一切の譲歩も努力も歩み寄りも謝罪もせずに、法的な強制力によって、コスト0で取り戻すための手段」なの。「俺は悪くない」の変形で、報復。
もちろん共同親権推進派にも、運動論的な目線で「そんなこと言ってたら、世間的に共同親権推進派は頭おかしいやつばっかりだと思われる」「批判すべきは批判すべきだ」という良識派はいるんだけど、主流派からは叩かれたり黙殺されたりしている。ネットの共同親権界隈のメインストリームは「憎悪と他責の共同体」みたいなところがあって、その仲間意識を乱すような、自己批判や自浄を促すような言説を一切受け入れない当事者も多い。本当にきつい界隈だなと思う。
自分のお気持ちや感想を述べるのが非論理的だ、というのはちょっと間違っている。そもそも論理的というのは文章がつながっている状態を指していて、米国型の文章構造はピラミッドストラクチャーを持つ(ミントのピラミッド原則)。これは科学技術論文で広く採用されている方法だ。ちなみに日本風、フランス風の論理は違うということが示されており、論理的とは単に慣れであり、文化に依存する(*1)。構造さえできてれいば、その内容がお気持ちだろうが、料理の手順だろうが、交渉だろうが、論理的な文章になる。
感想を述べるにしても論理構造を作ることができるし、それを通じて論理的文章を書くことができる。たとえばアメリカの教育で用いられている4square writingは、中央に例えば「おばあちゃんが大好き」と書いて、その理由となる事柄を3つのマス目に書く。「話が面白い」「お菓子をくれる」「においが好き」とか。そして最後のマス目に「だからおばあちゃんが好きです」と結論を書く。話題が一貫しており、列挙された情報に基づいて結論が誘導されており、論理的となる。
これはハンバーガー構造や5段落エッセイとも呼ばれていて、主張、根拠1、根拠2、根拠3、言い換えた結論、という段落構成を学ぶことにステップアップしていく。高校生のころにはこの構造を極めて小論文(エッセイ)を書くのが卒業要件だったりもする。イシューに対する議論だったり、ディベートを通じて強い根拠を上げる訓練をしたり、モノポリーで遊びながら交渉術を学ぶことになる。口述でも文章でも、5段落構造がしっかりと植え付けられる。
なので、大学に入った段階で構造的な文章を書く経験が豊富である。そこで初めて感想(感情)から切り離して情報を伝えるテクニカルライティングによる訓練がはじまる。事実などの根拠の提示、一般常識や前提条件を論拠ととして組み合わせて新たな意見を述べる(トゥールミンモデルなど)、自己批判で主張のリミテーションを掛ける、といった論述の基礎も覚える。
なので感情から切り離すことや事実と意見を分けるというのは、論理的な文章のうち研ぎ澄まされた金字塔ではあるものの、最初から取り組むべき課題ではない。取り組むべきは、話題がつながって構造を作る文章を書くことにある。
最初の話題の読書感想文テンプレも、段落内では「なぜなら」でつながりを持たせてはいるものの、全体をつなぐ構造がないことが問題だと思う。3つの段落の情報がバラバラのままである。そこが問題なのであって、感想文を書くこと自体に問題があるわけではない。論理的な構造を作る訓練になっていないことが心配である。
私は卒論修論博論を指導する立場の人だけど、増田の言う通り悲惨な文章ばかりを目にして実質リライトすることになる。その問題はお気持ち文章だからではなく、論理的な構造がないことに原因があると感じている。といつつ自分は人一倍文章を書くのが苦手で、いまだに多くの本を読んで訓練を続けているし、これまでの指導者に苦労を掛けてきたと思うので、恩返しのつもりで学生さんたちに指導をしているよ。
https://berd.benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2006_06/fea_watanabe_01.html