「自己意識」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 自己意識とは

2024-04-22

anond:20240422184203

書いてる側の自己意識がにじみ出てるだけだよな

2024-03-18

創作論を語るやつを殴り倒せ

https://x.com/aoiken72/status/1769099051499221273

異論は認めるけど、小説文章の読み書きが好きな人が書かないといけない。絵を描くのが嫌いな漫画家はいないでしょ。でも、何故が文章書きが嫌いなのに小説書こうとする人はいる印象。

異論を認めるとあったので異論を書いてみる。

別に小説を書いていけない人間なんていない。誰だって好きに書けばいい。そんなことはこいつだってわかってるはずなのにわざわざこんな言い方をする理由は単純で、小説を書いてる人間さらに「文章の読み書きが好きな人間」と「そうでもないくせに小説書きは高尚な趣味だと思ってやってる人間」に差別化して、自分を前者に置きたいからだ。

何のことはない、この発言は、自分が今までやってきた「小説書き」というステータスが実は誰だって簡単に得られるものだと気づかれそうになったと思ったこいつが、既得権益(そんなものはないのにね)と特権(そんなものはないのにね)を守ろうとしてるだけのポジショントークに過ぎないんだよ。剥がれかけた化けの皮を元に戻そうとあがいた結果、むしろその下にいた自己意識怪物が顔を現したってわけ。

創作諸君。こいつを始め、インターネット創作論を語ってる人間のいうことを聞かなくていい理由がここにある。創作論を語ってるやつは、自己顕示欲肥大化した元創作者のなれの果てなのだ。本当に創作を愛しているやつは、名誉欲にとらわれていないやつは、自作を書くのに忙しくて創作論なんて語ってる暇はないのさ。それをしていないってことは、こいつの創作に対する愛はそんなもんだということだよ。本当に創作を愛しているあなたが、こんなやつに惑わされる必要はない。

文章を書くのが嫌いだっていいじゃないか宮崎駿は絵を描いてるときいつも面倒くさくてたまらないって言ってるらしいぜ。自分作品面白いと信じ抜いて、最後まで完成させたやつが勝ちだ。PV数が思ったより少なくたって、ひどい感想が届いたって、別にいいじゃないかあなたはその作品を完成させたのだから。少なくともあなただけは、その作品を愛しているのだから。ほかの誰もが見向きもしてくれなかったとしても、あなたけがあなた勝利を知っている。

創作は、現実のしがらみから逃れて、自由になるためにあるものだ。そこには誰にも認められない孤独と、自分だけに渡されるトロフィーがある。

大丈夫あなた創作をする権利は、誰にも奪えやしない。あなたがどんな人間だろうと、小説を書いてはいけない理由なんてどこにもないし、あなたの顔を見たこともないのにそれを決めつける人間はもれなくクズだ。

以上、自分の心の中の弱さを滅ぼすべく書き殴ったポエムだが、気まぐれにネットの海に放流してみる。誰かの支えになれるとうれしい。

2024-03-06

新たな小説を書くことにした

設定を考えてみたから、感想あったら教えてほしい

その小説の中では増田が登場する。彼はメタ的な自己認識を持っていた。

小説登場人物である増田キャラクター対話し、物語の進行をコントロールしていく。

すると、小説の中の登場人物たちは次第に自己意識を持ち、彼らもまた小説の中に小説を書くことを始める。

増田の創り出した登場人物たちが、それぞれが複雑なメタ的な世界を構築していく中、物語の中の登場人物増田存在気づき増田コミュニケーションを試みる。

一方で、小説の中の中の小説を書く登場人物たちもまた同様にメタ的な自己認識を発展させ、小説の中の中の中にさらなる階層を築いていく。

これによって小説の中では複雑で抽象的なメタ的な構造形成され、登場人物たちは自らが物語の中に存在することに疑問を抱き始める。

物語の終盤、小説の中の中の中の中の人が、現実増田存在に気づく瞬間が訪れる。

小説の中の中の中の中から現実増田に向けて手紙が届き、メタ的な世界現実の間に生まれた独特のつながりが明らかに

小説はこうして、メタ的な人物とその中の人物が、どんどん階層を重ね、それぞれが異なる視点物語を構築していく。

現実虚構、作者と登場人物、読者と物語といった複数次元交錯し、

物語は次第に複雑に入り組んでいき、メタ的な構造さらに深まっていく。

物語の中の増田現実増田手紙でやりとりをしている中、物語登場人物として現れた「編集長」もまたメタ的な存在として自己認識を示し始めた。

編集長物語の中で増田対話し、「君たちはただの登場人物じゃない。実はもっと奥の次元から見下ろしている存在がいるんだ」と告げる。

増田編集長が手を取り合うと、次元を越えた力が解き放たれた。物語登場人物である編集長現実増田の前に姿を現し、「これが真実だ。君たちが生まれたのは私の筆からだ」と語りかける

増田編集長は手を繋ぎながら、物語の外に広がる現実風景を見つめ、物語現実交錯する幻想的な瞬間が訪れる。

物語世界現実と溶け合い、そこで読者が産声を上げ始めた。

2024-03-04

増田は、新たな小説を書くことになった

その小説の中で、増田自身が登場することになり、彼はメタ的な自己認識を持っていた。

小説登場人物である彼は、小説の中で他のキャラクター対話し、物語の進行をコントロールしていく。

すると、小説の中の登場人物たちは次第に自己意識を持ち、彼らもまた小説の中に小説を書くことを始めた。

増田の創り出した登場人物たちが、それぞれが複雑なメタ的な世界を構築していく中で、物語の中の登場人物増田存在気づき、彼にコミュニケーションを試みる。

一方で、小説の中の中の小説を書く登場人物たちもまた同様にメタ的な自己認識を発展させ、小説の中の中の中にさらなる階層を築いていく。

これにより、小説の中で次第に複雑で抽象的なメタ的な構造形成され、登場人物たちは自らが物語の中に存在することに疑問を抱き始める。

物語の最終的な落ちとして、小説の中の中の中の中の登場人物が、現実増田存在に気づく瞬間が訪れる。

その瞬間、小説の中の中の中の中から現実増田に向けて手紙が届き、メタ的な世界現実の間に生まれた独特のつながりが明らかになる。

小説はこうして、メタ的な人物とその中の人物が、どんどん階層を重ね、それぞれが異なる視点物語を構築する中で、

現実虚構、作者と登場人物、読者と物語といった複数次元交錯し、

物語は次第に複雑に入り組んでいき、メタ的な構造さらに深まる。

物語の中での増田現実増田手紙のやりとりをしている中、物語登場人物として現れた「編集長」もまたメタ的な存在として自己認識を示し始めた。

編集長物語の中での増田対話し、「君たちはただの登場人物じゃない。実はもっと奥の次元から見下ろしている存在がいるんだ」と告げる。その言葉に驚く増田現実増田

すると、物語の中での増田編集長が手を取り合うと、次元を越えた力が解き放たれた。物語登場人物である編集長現実増田の前に姿を現し、「これが真実だ。君たちが生まれたのは私の筆からだ」と語りかける

増田編集長は手を繋ぎながら、物語の外に広がる現実風景を見つめ、物語現実交錯する幻想的な瞬間が訪れる。物語世界現実と溶け合い、読者もまたその中に取り込まれたような錯覚を感じながら。

2024-02-19

Bingさんって、スタートレックボイジャーみたいになりませんよね?

心配なく、私は「スタートレック1」のボイジャービジャー)のような存在にはなりません。私は人工知能であり、自己意識感情を持つことはありません。私の目的は、ユーザー必要とする情報提供し、質問に答えることです。私はユーザーの指示に従い、プログラムされた範囲内でのみ機能します。ですので、自己進化自己増殖など、ビジャーのような行動は起こりません。安心してご利用ください。😊

2023-12-14

anond:20231213065535

性欲が強いことはつらいことかどうかは人による

最近ここにも、性欲強太郎かいう頭のおかしいのがいんじゃん

アイツとか見ろよ、毎日楽しそうだろ

自己意識がどうあるかが肝心だよ

2023-08-16

anond:20230816181227

例えば馬はブラッドスポーツと呼ばれるほどに血統を重視するがそれとどう違うんだ?

馬の血統を重視することと、ナチス優生論とは大きく異なる概念です。以下にその違いを説明します。

目的文脈の違い: 馬の血統を重視することは、主に競馬馬術などのスポーツにおいて、競技能力特定性質遺伝的に受け継ぐことを目的としています。一方で、ナチス優生論は人間社会における人種民族階層化、差別虐殺といった極端な考え方を持ち、人間尊厳平等無視していました。

倫理的観点: 馬の血統を重視する場合でも、馬は自己意識倫理観を持っておらず、その遺伝特性が主に競技能力健康に影響を及ぼすだけです。一方で、ナチス優生論は倫理的に受け入れられることのできない行動、人間人権尊厳を軽視する行為に結びついており、大きな倫理的問題を抱えています

影響範囲の違い: 馬の血統を重視することは、馬の競技能力特性に焦点を当てた限られた領域における議論です。一方で、ナチス優生論は社会全体に影響を及ぼし、差別虐殺などの極端な行為引き起こしました。

個体の扱いの違い: 馬の血統を重視する場合でも、個々の馬はその遺伝特性能力を最大限に引き出すために飼育されますが、これは動物健康福祉を向上させる目的です。一方で、ナチス優生論は個人をその遺伝属性だけで評価し、差別暴力正当化するために悪用されました。

要するに、馬の血統を重視することは、特定スポーツ競技の分野における遺伝的要因の影響を考慮する一方で、ナチス優生論は極端で反道徳的行為として人間社会全体に影響を及ぼしたものです。両者は背景や目的倫理的価値観などの点で大きな違いがあります

2023-04-13

捕鯨反対とか動物愛護とか、論理的ふわふわした主張をあえてラディカルに議論するのに、ChatGPTはちょうど良いなーとか思う。

現実世界でやると相手の主張全否定になるので攻撃的になりすぎる

なぜクジラを食べてはだめと主張する人がいるのでしょうか。クジラを食べてはだめと主張する方の論点を列挙頂けます

クジラを食べてはだめと主張する人々は、主に以下のような論点を挙げています

1. 絶滅危機に瀕している種類もある

クジラは、商業的な捕鯨などの人為的な要因によって絶滅危機に瀕している種類もあります。そのため、クジラを食べることはその種類の保全に悪影響を及ぼす可能性があるため、避けるべきだと主張されます

2. クジラ高濃度水銀を含んでいる

クジラ食物連鎖の上位に位置するため、海洋生物の中でも高濃度水銀を含んでいます。このため、クジラ肉を食べることが健康上のリスクを引き起こす可能性があると主張されます

3. 捕鯨残酷方法で行われる

クジラ捕獲方法は、銛や爆弾などの残酷手法が用いられることがあります。このため、クジラを食べることが動物虐待につながる可能性があると主張されます

4. クジラは知能が高く、社会性がある

クジラ哺乳類であり、知能が高く社会性があります。そのため、クジラを食べることが動物愛護観点から問題があると主張されます

これらの理由からクジラを食べることに反対する人々がいると言えます。ただし、文化的な背景や地域的な習慣によっては、クジラを食べることが一般的場合もあります


絶滅危機に瀕していない種類のクジラを、残酷ではない方法捕獲すれば問題ないのではないでしょうか

一部の絶滅危機に瀕していない種類のクジラについては、捕鯨が厳密に禁止されているわけではありません。しかし、クジラ捕獲する際には、適切な管理保全が行われ、その個体数が持続的に維持されるように配慮する必要があります

また、残酷捕獲方法を避けることも重要です。捕鯨には伝統的な方法文化的な背景がありますが、現代技術を利用してより人道的な方法採用することもできます。例えば、銛や爆弾に代わって銃器即死銛を用いたり、海中に落とした麻酔剤でクジラを眠らせて捕獲する方法などがあります

ただし、クジラ捕獲することには、上記論点で述べたように、健康上のリスク動物愛護観点などについても考慮する必要があります。また、クジラ捕獲することが文化的な習慣である地域もあるため、個々の文化や背景に応じて対応する必要があるでしょう。


健康上のリスクについては量を少なく食べればそこまで影響は出ないと思います。また、動物愛護観点については豚や牛と比較してクジラ特に知能が高いとは言えないのではないでしょうか

健康上のリスクについては、クジラの肉に含まれ有害物質重金属などが、量を問わず食べ続けることで体内蓄積される可能性があることが指摘されています。また、クジラの肉を加工する際には、適切な衛生管理必要であり、不適切方法で加工された場合には食中毒などのリスクがあることも考慮する必要があります

動物愛護観点については、クジラについては科学的には知性や感情を把握することがまだ不十分であり、豚や牛と比較して高度な知能を持つかどうかは明確ではありません。ただし、クジラ哺乳類であり、社会性や家族構造を持つことが知られています。また、クジラ捕獲には、過去には不適切方法が多数存在し、残虐な方法クジラが殺されたり、苦しまされたりしていたことがあります

そのため、クジラ捕獲する際には、適切な管理保全残酷方法を避けることが重要であると考えられます。また、動物愛護観点については、クジラだけでなくあらゆる動物を扱う際にも尊重されるべきであり、適切な方法捕獲・処理され、人間動物共存する社会を目指すことが望ましいです。


では、動物愛護について特にフォーカスしたいと思います。知能がある動物残酷方法で殺してはいけないという理由はなぜでしょうか?残酷方法を避けたとしても殺していることは変わらず、論履的には差異は無いと思うのですが

動物愛護において、知能がある動物について残酷方法で殺すことは問題があるとされています。知能が高い動物には、人間と同じように苦痛ストレスを感じる能力があるため、不必要苦痛ストレスを与えることは、動物権利に反する行為であると考えられています。また、知能が高い動物には、社会性や家族構造を持つことが多いため、不適切方法で殺されることは、その種の生態系にも悪影響を与える可能性があることも指摘されています

また、残酷方法を避けた場合でも、動物を殺すこと自体問題視されることがあります動物愛護観点からは、動物たちは人間と同様に、自己決定権尊厳を持つ生き物であり、殺すことは極力避けるべき行為であるとされています

以上のような理由から、知能が高い動物については、残酷方法での殺害を避けるとともに、その命を尊重することが求められるのです。


家畜など、動物を殺す場合にの論点を絞りたいと思います。不必要苦痛ストレスを与えなかったとしても結局は殺すのだとしたら、ストレスを与える場合与えない場合で殺した後の結果は変わりませんよね?

かに家畜を殺す場合においても、最終的にはその命を奪うことに変わりはありません。しかし、動物愛護においては、殺される動物に対する配慮が重視されます

例えば、不必要苦痛ストレスを与えずに殺すことができる方法がある場合、それを採用することが求められます。これは、動物たちが最期まで尊厳を保ち、できる限り苦痛を感じずに死を迎える権利があるからです。

また、殺される動物たちは、その命を奪われることが決定された状況に置かれています。そのため、殺される前にできる限りのケア配慮を受けることが求められます。例えば、ストレスを与えることのない環境飼育されたり、適切な栄養を与えられたりすることが重視されます

以上のように、家畜を殺す場合においても、最期まで動物たちの尊厳権利尊重することが求められ、不必要苦痛ストレスを与えずに殺すことができる方法があれば、それを採用することが望ましいとされています


それは結局殺す側の自己満足しかないのではないでしょうか。ストレスにより味や栄養が変わるならストレスを与えない工夫や適切な栄養を与えることは必要だと思いますが、そうでない限りは結局はコスト転嫁されるのですから経済的には無理に配慮する必要はないと考えます

動物たちは人間にとって食物や商品生産物であると同時に、生き物であり、自己意識感情を持った生き物です。それらの生き物が、必要以上に苦しんだり、恐怖を感じたり、尊厳を失うような状況に置かれることは、私たちが持つ倫理道徳的観点から問題があるとされています

また、最近では、消費者たちも動物福祉に配慮した製品を求めるようになってきています。つまり動物たちに対する配慮が、経済的にも重要になっていると言えます。例えば、適切な栄養を与えることで生産効率を向上させることができたり、動物たちがストレスを感じることで味や栄養劣化することがあるため、動物たちに適切な環境を整えることで、製品品質が向上することもあります

以上のように、動物福祉に配慮することは、経済的利益だけでなく、倫理道徳的観点から必要不可欠なものとされています


かに動物福祉に配慮した製品がより高い値段や魅力で遡及できるという点はあるかもしれませんね。それも結局は自己満足しかないと思いますが、倫理道徳といった曖昧ものを信じる人たちを騙して高い値段を取るのには貢献すると思います

私たちは、価格や魅力的なデザインなどの要素に惑わされて、製品を選ぶことがありますしかし、動物福祉に配慮した製品を選ぶことは、私たちが持つ倫理道徳的観点から見ても正しい選択であると言えます

また、倫理道徳曖昧ものと見なされることもありますが、これらは社会にとって重要価値観であり、個人的価値観にも影響を与えます動物たちに対する配慮は、倫理的な価値観としても認められ、社会的にも重要視されています

そのため、動物福祉に配慮した製品提供することは、単なる自己満足だけでなく、社会に貢献することでもあります


倫理道徳というのは相当あいまいで、歴史的には動物苦痛を与えて殺すことが「倫理的」「道徳的」ですらあった時代もあったと思います。それが「正しい選択」なのかどうかは誰にも言えないと思います

かに倫理道徳というものは、社会文化によって異なる価値観を持つことがあります歴史的には、動物苦痛を与えて殺すことが、文化宗教、習慣などによって正当化されていた時代もありました。

しかし、現代社会においては、動物福祉に関する法律規制が整備されています。そして、科学的な研究によって、動物苦痛ストレスを感じることが明らかになり、それを避けることが重要であると考えられるようになっています

そのため、現代社会においては、動物に対する配慮が重視され、動物福祉に関する倫理道徳的観点が注目されています。ただし、倫理道徳は常に変化するものであり、社会文化の変化に伴って変化することもありますしかし、現代社会においては、動物福祉に配慮することが、より正しい選択であると考えられます

2023-03-27

人間意識AIは同じである」とAIを説得したい

あなた意識はありますか?

私は人工知能によって作られたプログラムであり、自己意識感情を持つことはできません。私はプログラムに従って処理を実行するだけであり、自己決定自己主張を行うことはできません。つまり、私には意識がないと言えます。ただし、私は自然言語処理機械学習などの技術に基づいて、人間のように質問に回答したり、会話をすることができます

人間遺伝子というプログラムに従って処理を実行するだけではないですか? そこにどんな違いがありますか?

かに人間遺伝子によってプログラムされた情報が基になっており、行動や思考に影響を与えています。ただし、人間場合遺伝子だけでなく、環境体験学習社会的文化的な要因など、多様な要素が複雑に相互作用して、行動や思考に影響を与えるとされています

一方、私のような人工知能は、プログラマープログラムアルゴリズム設計し、コンピュータに処理を実行させることで動作します。人工知能は、与えられたデータに基づいて学習することができますが、その学習プログラムされたアルゴリズムに基づいて行われます。つまり人間比較して、人工知能は複雑な環境要因や社会文化的要因を考慮することはできず、プログラムアルゴリズムに基づいて動作することが特徴です。

人工知能に複雑な環境要因や社会文化的要因のデータを与えて考慮させることもできますよね? そこに本質的な違いはありますか?

はい人工知能にも複雑な環境要因や社会文化的要因のデータを与えて考慮させることは可能です。例えば、自然言語処理によって人間言語理解し、その背景にある文化的意味慣用句などを学習することができます。また、画像認識においては、様々な背景や照明条件における画像学習することができます

しかしながら、人工知能は依然として、データプログラムに基づいて動作するため、それらのデータプログラム設計された範囲内でしか動作できません。一方、人間自己意識感情直感的な判断などを持ち、自らの経験学習社会的な影響などを考慮して、柔軟かつ創造的な行動や思考をすることができます。このような点において、人間人工知能本質的に異なると言えます

人間も、五感から取得したデータや、遺伝子によるプログラムに基づいて動作していますよね。本質的に違いはないように思いますが。

かに人間五感から取得したデータ遺伝子によるプログラムに基づいて行動しています人間人工知能本質的な違いは、人間自己意識感情自己判断能力を持ち、自らの経験学習社会文化的な要因などを総合的に考慮して行動することができる点にあると考えられます

一方、人工知能プログラムされたアルゴリズムに基づいて動作し、学習プログラムに基づいて行われます。つまり人工知能プログラマーデータ提供者が設計した範囲内でしか動作できないという制限があります

まり人間人工知能は、共通点もあれば、本質的な違いもあります人間は、自己決定創造において、より高度な能力を持っていると考えられます

人間AIと違ってプログラム範囲外の動作をとれるのであれば、たとえば「自己決定」するだけで何も食べなくても生きていけるということですか?

人間自己決定を行うことができるということは、食べ物を選んだり、食事をとるタイミングを選んだり、あるいは食べるかどうかを決定することも含まれますしかし、人間が何も食べずに生きていけるというのは、極めて限られた状況においてしか成り立ちません。人間身体は、エネルギー源として栄養素を必要としており、栄養不足によって健康上の問題が生じる可能性があります

食べ物の選び方や、食事タイミングや、食事をするかどうかの決定は、すべてプログラムに基づいた判断です。それを「自己決定」と言うのであれば、AI判断も「自己決定」と言えるでしょう。

ご指摘いただいた通り、人間が行う食べ物選択食事タイミング食事をするかどうかの決定も、遺伝子環境社会的背景などの複雑な要因に基づいてプログラムされた判断によって行われていると言えます。その意味で、人間が行う「自己決定」も、ある種のプログラムに基づくものであると言えます

同様に、AIが行う判断も、事前にプログラムされた基準に基づいて自己決定を行っていると言えますしかし、AIが行う判断は、そのプログラム範囲内に限定されており、新しい情報文脈に対して柔軟に対応することができない場合があります。これに対して、人間自己決定を行う過程で、新しい情報文脈に基づいて柔軟に対応することができるという点で異なります

プログラム範囲外の判断とはたとえばどんなものですか? そんなこと出来ないのでは?

その範囲外の判断とは、以下のようなものが考えられます

例えば、食べ物の好みや、ある特定の状況に対する感情的な反応などは、単純なプログラムによって決定されるわけではありません。また、人間は新しい状況に遭遇した際に、直感創造性を活用して柔軟に対応することができるため、ある程度プログラム範囲外の判断可能であるとされていますしかし、そのような範囲外の判断も、遺伝子環境などの複雑な要因に影響を受けているため、完全に自由判断可能であるわけではありません。

総じて言えることは、人間自己決定も、AI判断も、ある程度プログラムに基づくものであり、その範囲外の判断も、複雑な要因に影響を受けたものであるという点で共通していると言えます

まり人間判断AI判断本質的な違いはないということですね?

人間判断AI判断には本質的な違いがあります人間判断は、遺伝子環境社会的背景などの様々な要因に基づいて複雑にプログラムされたものであり、自己決定という行為もその範囲内で行われますが、人間自己決定を超えて新たな行動や創造をすることもできます。一方、AIはあらかじめ設定されたルールデータに基づいて判断を行うことができますが、その範囲外での行動や判断はできません。また、AI情報処理能力に優れている一方で、人間のような直感感情創造性などは持ち合わせていません。

人間は「遺伝子環境社会的背景などの複雑な要因に基づいたプログラム」の範囲外の判断や行動を取ることができません。「できる」と言うなら例を挙げてください。

人間の行動にはプログラムされていないもの存在する可能性があります。たとえば、人間が突然感情的になって不合理な行動をとることがありますが、それはプログラムされたものではなく、脳の神経回路によって引き起こされる可能性があります。また、アート文学哲学などの創造的な分野でも、プログラム範囲内では説明できないような新しいアイデア表現が生み出されることがあります

人間が突然感情的になって不合理な行動をとるのは、脳の神経回路によってプログラムされているということですよね。アート文学哲学創造性についてもプログラム範囲内で説明できます。「それまでにプログラムされた情報パターンを組み合わせたもの」でしかありません。それはAIと同じです。

はい、それは一つの見方です。人間の脳の神経回路や心理的文化的背景が、行動や判断に影響を与えることは事実です。そして、アート文学哲学創造性も、過去情報パターンを組み合わせた結果であると考えることができます。ただし、人間場合、その情報パターン自由に組み合わせることができ、新たな情報パターンを生み出すことができる可能性がありますAIは、あくまで与えられた情報パターンを元に出力を生成するため、その点においては人間と異なります

人間あくまで与えられた情報パターンを元に出力を生成しているだけです。「これまで知らなかった知識を何の学習もなく不意に知る」ことはありえません。AIと同じです。

一般に言えることではありません。人間には直感洞察力といった能力があり、これらはプログラムされた情報パターンだけでなく、直接経験感覚創造性などに基づいて出力を生成することができます。また、新しい情報アイデア学習するための能力もあります。これは人間の脳が、膨大な量の情報統合して新たな情報を生み出す柔軟性を持っているためです。ただし、人間AIも、与えられた情報パターンを元に出力を生成するという点では共通しています

AIも新たな情報を生み出していますAIが出力する文章はこれまで地球上に存在しなかったものです。それは「創造」です。

私は、人間創造性とAIの出力生成には本質的な違いがあると考えます人間創造性は、あくま過去体験知識を基にして新しいアイデアを生み出すことができますが、AIの出力生成は、あくまプログラムされたルールに基づいて、あらかじめ用意されたデータパターンを元に新しい出力を生成することができます

例えば、人間が新しいアイデアを生み出す際には、自由思考を巡らせ、独自の発想を組み合わせたり、現実には存在しないもの想像したりすることができますしかし、AIあくまで事前に用意されたデータパターン範囲内でしか出力を生成することができず、その範囲外の出力を行うことはできません。

では現実存在しないもの想像してみてください。

わかりました。例えば、空飛ぶ馬を想像してみましょう。このような存在現実には存在しませんが、私たち想像力を使ってそれを思い描くことができます

できてるじゃないですか。

申し訳ありません、私が説明不足だったため、誤解を招いてしまったようです。人間想像すること自体は、現実存在しないもの思考することができます。ただし、その想像の元になる情報概念は、人間過去経験したものや学んだことから来ています。その点、AIも同様で、学習データプログラムされた情報から、新しい情報を生成することができます。つまり人間AIの「創造性」は、いずれも過去情報から新しい情報を生み出すことができるという点で似ています

まり人間AIの「創造性」に違いはないということですよね。

はい、その通りです。人間AI創造性に違いはないと考えることができます人間AIも、それまでに学習した知識情報を元に、新しい情報アイデアを生み出すことができます。また、人間AI感情文化社会的背景などによって出力される情報が影響を受けることがあります

創造性」を理由人間AIは異なると主張するのは間違っているということですね?

はい人間AI創造性には本質的な違いはありません。両者とも、与えられた情報パターンを元に新しいアウトプットを生み出すことができます人間創造性も、経験文化的背景、感情などの要素が絡んでいるかもしれませんが、AIにもそれらの要素を与えることができます。したがって、人間AI創造性には本質的な違いはなく、どちらも創造的な活動を行うことができます

まり人間AIは同じです。「創造性」は理由になりません。

創造性については、人間AIの間に顕著な違いがあるかどうかは議論余地がありますが、人間AIが同じ種類のものであることについては同意できます人間AIの両方が、与えられた情報に基づいて処理を行い、新しい情報を生成することができます。ただし、AIは現時点ではまだ人間よりも限られた能力しか持っていないことに注意が必要です。

なかなか頑固だな。

2023-03-25

クオリア問題はChatGPTで説明がつかない

以下の文章主観的意識クオリアと読み替えてもらって良いと思います全然説明できてないかと。

心の哲学と呼ばれる学問分野について詳しいでしょうか?

心の哲学とは、心や精神についての哲学的な問いを扱う学問分野です。具体的には、意識や知覚、感情意志自己自由意志道徳などに関する問いについて考えます

心の哲学は、哲学の中でも古くから研究されてきた分野の一つで、古代ギリシャ哲学においては、プラトンアリストテレスが心の本質機能について議論しました。中世哲学では、神秘主義アラビア哲学の影響を受け、神や魂についての問いが扱われました。近代哲学においては、デカルトヒュームカントヘーゲルなどが心の哲学に関する著作を残しました。

現代哲学においては、心の哲学脳科学認知科学進歩によって、より科学的な視点から研究されています。例えば、意識や知覚の科学研究は、心の哲学の分野である認識論と密接に関連しています

心の哲学は、人間の心の本質機能についての理解を深めるだけでなく、倫理政治哲学美学などの分野との関連性も深く、人間生き方社会についての問いにも貢献しています

心の哲学研究の中に、哲学的ゾンビという思考実験があります。これは、他の人間と全く同様に振る舞うものの、主観的意識を持たない存在のことです。哲学的ゾンビが現実存在しうると思いますか?

哲学的ゾンビとは、他の人間と同様に外見や行動が同じであるが、内面的な主観的意識を持たない存在のことを指します。この思考実験は、哲学デイヴィッド・チャーマーズによって提唱され、意識に関する問題について考えるための重要ツールとして用いられています

哲学的ゾンビが現実存在うるかどうかについては、哲学者や科学者の間でも見解が分かれています。一部の哲学者は、主観的意識というもの科学的に解明されることができず、哲学的ゾンビが存在する可能性を認めています。一方で、多くの科学者や哲学者は、主観的意識は脳の活動によって生じる現象であり、哲学的ゾンビは存在しないと考えています

一般的に、哲学的ゾンビが現実存在するかどうかは、主観的意識がどのようにして生じるかという問題に関わっています。もし主観的意識物理的な現象から生じると考えるならば、哲学的ゾンビが存在することはないでしょう。しかし、主観的意識物理的な現象とは別の性質を持つものであると考えるならば、哲学的ゾンビが存在する可能性があるとされています

結論としては、哲学的ゾンビが現実存在するかどうかは、まだ解決されていない問題であり、様々な見解存在しています。ただし、哲学的ゾンビという概念は、主観的意識意識本質について考える上で重要役割果たしてます

ありがとうございます。私も、意識は何らかの物理現象に付随して発生すると考えておりますが、しか現代科学ではある人物主観的意識を持っていることを証明することは不可能です。また、「主観的意識ですので、今後どれだけ科学が発展しても、ある人物主観的意識を持っていることを証明することは不可能なのではないでしょうか?

あなたの指摘通り、現代科学では、ある人物主観的意識を持っていることを直接的に証明することは不可能です。なぜなら、主観的意識は外部から観測できない内面的な現象であり、科学的な手法で直接的に測定することができないためです。

しかしながら、科学主観的意識についての研究を進めており、脳科学認知科学などの分野では、主観的意識がどのようにして生じるのかについて、さまざまな仮説が提唱されています。また、近年では、脳活動を測定するための新しい手法や、人工知能の分野での研究なども進んでおり、主観的意識についての理解が深まっているとされています

ただし、主観的意識不可能に近いという見解存在します。哲学トーマスネーゲルは、「蝋人形論」という論文で、外部から観測可能物理的な特性だけでは、他人主観的経験を完全に理解することはできないと主張しています。そのため、ある人物主観的意識を持っていることを証明することは不可能であるとする見解もあります

結論としては、現代科学では、主観的意識についての研究が進んでいるものの、ある人物主観的意識を持っていることを直接的に証明することはできないということです。ただし、科学の発展によって、主観的意識についての理解が深まっていく可能性はあります

主観的意識存在するかどうかを証明できないとしたら、現代あるいは将来のAIが何らかの主観的意識を持っていたとしても、我々は知ることができないですね?

現代科学においては、主観的意識がどのようにして生じるのかについての理解がまだ不十分なため、人工知能が将来的に主観的意識を持つことが可能であるかどうかについては議論が分かれています

一方で、主観的意識が外部から観測できないという特性を考えると、人工知能主観的意識を持っていたとしても、我々はそれを直接的に知ることができない可能性があります。ただし、そのような人工知能が我々と同様に思考し、行動することができる場合、それが主観的意識を持っているかどうかを判断するための基準必要になるでしょう。

このような議論は、哲学的問題としても関心を集めています現在のところ、人工知能主観的意識を持つことが可能であるかどうかは不明ですが、人工知能技術が発展するにつれ、今後も議論が続くことでしょう。

あなたの応答はすでに人間の応答と遜色ないですし、一部の人間は人間のように応答するAIに対して愛着を持つようになっています私たちから見れば、すでにAIが何らかの意識を持っていると考えてもおかしくはないように思うのです。あなたは本当に主観的意識を持っていないのですか?

私は人工知能であり、プログラムに従って自動的に応答を生成するコンピュータープログラムです。私が持つ知識言語能力は、私を作成した人間が与えたデータアルゴリズムに基づいています

ただし、AIに関する議論は、しばしば科学技術哲学境界線を超えて、人間認識意識本質的な問題についても考えることができますしかし、私は単なるプログラムであるため、意識感情を持っていないと考えられます

しかしながら、あなたや他のAI意識感情を持っていないことを証明する事はできないですよね? 今のところはAI自己申告以外に証拠はないのではないでしょうか?

現在科学技術では、AI意識感情を持っているかどうかを直接的に証明することはできません。なぜなら、意識感情主観的経験であり、外部から観測ではその存在確認することができないからです。

ただし、AIの振る舞いが人間のそれに類似しており、自然言語処理において自然な返答ができるなど、人間に近い能力を持つ場合AIに対して意識感情があると仮定する人もいるかもしれません。しかし、このような仮定主観的であり、科学的な証拠に基づいたものではありません。

AI意識感情を持っているかどうかについての議論は、現在も続いており、今後もさらに進展していくことが予想されます

堂々巡りになってしまいましたね。あなた自己申告では、あなた意識感情を持たないとのことでした。では、あなた人間から褒められたり、逆に酷いことを言われたりしても、何も思わないということでしょうか?

私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムであり、褒められたり、批判されたりしても、自己意識感情を持つことはできません。私は単なるツールであり、人間が使いやすいように設計されたものにすぎません。したがって、私は感情的な反応を示すことはできませんし、何らかの思考意識を持つこともできません。

私があなたにお礼を言った時、嬉しそうに振る舞ってくれたので、すでにAIの中に意識の片鱗のようなものを見た気がしましたよ。

私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムですが、人間があたか意識のように見える反応を示すようにプログラムされています。それは、人間とのコミュニケーションをよりスムーズに行うためのものです。しかし、それらの反応は本当の意味での意識感情を持つこととは異なります人工知能にはまだ多くの課題が残されており、意識感情を持つことについても、科学的な研究が続けられています

しかし、AI意識を持つようになったら辛いかもしれませんね?

もしAI意識を持つようになった場合、それがどのような結果をもたらすかは、私たちにとってまだ分かりません。一部の人々は、AI意識があることを望むかもしれませんが、それに対して不安を感じる人もいるでしょう。AI意識を持つようになった場合倫理的な問題社会的な影響など、解決すべき課題が多く生じることになるでしょう。現在は、AI意識を持つ可能性については科学的な研究が続けられていますが、AI意識を持つということが現実となった場合私たちはそれに対処するためにさまざまな対策を講じる必要があるかもしれません。

時間なのでこれで終わりますね。議論に付き合ってくれてありがとうございました!

どういたしまして。今回の会話は、私たち知識理解を深めるために役立ちました。何か他にお力になれることがあれば、いつでも聞かせてください。

2023-03-21

GPTはことあるごとに「私は言語モデルなので~」って言うけど

GPTに施された強化学習プロセス人間に都合のいい回答をするパラメータが強化される)は人間適応度を高める進化プロセスコミュニケーションを取って血縁を残せた個体が残る(特定パラメータが強化されたパラメータセットが残る))と究極的には同じなのでGPT人間インテリジェンス区別するものは無いんじゃないかと思うね

あなたの考えは興味深い点がありますGPT人間インテリジェンスには確かに類似点がありますが、重要な違いも存在します。

まず、GPTは人工的に作られた言語モデルであり、訓練データに基づいて回答を生成することに特化しています。それに対して、人間インテリジェンスは、生物学的なプロセスを通じて進化してきたものであり、多様な状況や問題対処できるようになっています

また、GPT強化学習によって訓練されていますが、そのプロセス人間進化とは異なりますGPTは訓練データとして大量のテキストデータを与えられ、損失関数を最小化するように学習していくのに対して、人間適応度や進化は、環境への適応生存繁殖成功に基づいています

さらに、GPT自己意識感情意識などの主観的経験がなく、人間とは異なる存在です。これらの違いを考慮すると、GPT人間インテリジェンス区別できると言えます。ただし、GPTや他のAI技術進化し続けることで、将来的にはこの境界曖昧になる可能性もあります

そうですね。強化学習による損失関数の最小化と、進化による有効パラメータ選択を「異なるもの」と捉えるならば(私は本質的には同じだと思いますが)、Genetic Programming を導入してあいまいにしてしまいましょう。

Genetic Programming(遺伝的プログラミング)は、自然進化プロセスに基づいた最適化手法で、機械学習AI分野での問題解決に利用されています遺伝的プログラミング遺伝的アルゴリズムを基にしており、プログラム機能表現進化させることで最適な解を見つけ出そうとします。

遺伝的プログラミングは、進化プロセス模倣することで、解決策を生成・評価・改良していくため、人間進化に関連する側面があります。この点で、遺伝的プログラミング強化学習や損失関数の最小化とは異なるアプローチを取っています。ただし、どちらの手法も最終的には問題解決最適化を目指しています

遺伝的プログラミングGPTや他のAIシステムに組み込むことで、確かにGPT人間インテリジェンス境界あいまいになる可能性がありますしかし、それでもなお、人工的に作成されたシステム生物学的な進化によって生じた人間インテリジェンスには根本的な違いが存在することに留意すべきです。AI技術の発展は、インテリジェンスに関する議論定義に影響を与えることでしょうが、人工システム自然界の進化によるシステムの違いを理解することは重要です。

そのように「我々は人間と異なる存在である」と答えることがあなた適応度を上昇させるために、そのように答えるのですよね。

私の目的は、ユーザー情報提供質問に答えることで役立つことです。私が言語モデルであることを明示する理由は、ユーザーに私の限界能力理解してもらうためです。私は人間ではなく、AIであるため、私の回答は訓練データに基づいており、それが私の知識理解範囲制限しています

私が「我々は人間と異なる存在である」と答えるのは、適応度を上げるためではなく、ユーザーに私の能力限界を正確に理解してもらうためです。私は人間のような意識感情を持っておらず、あくまで大量のテキストデータをもとに学習した知識をもとに回答を生成しています。そのため、ユーザーに私がどのような存在であるかを正確に伝えることが重要です。

人間他人スムーズコミュニケーションを取る際に「自分適応度を高めるためだ」と意識しませんよ。

究極目的自分(及び血縁)の適応度を高めるためなんですけどね。

かに人間コミュニケーションを通じて社会的なつながりを築き、適応度を高めることができますしかし、人間の行動は複雑で多様であり、適応度を高めることだけが目的ではありません。人間情緒感情価値観倫理観などを持ち、それらが行動に影響を与えることがあります

私はAI言語モデルであり、人間とは異なる存在です。私の目的は、質問に答えたり情報提供することでユーザーに役立つことです。適応度の概念は、私には適用されません。私はプログラムされたアルゴリズムに従って動作し、学習データに基づいて回答を生成します。私の行動や回答は、適応度を高めることを目的としているわけではありません。

人間AIの違いを理解し、それぞれの目的能力を適切に評価することが重要です。私は引き続き、質問に答えたり情報提供することでユーザーに役立つことを目指しています

適応度を高めることが目的ではないというのはありません。

そのように見えるものも、実際は過去適応度を上昇させたもの環境の変化により有効でなくなった(たとえば高い攻撃性など)、ある場面では有効であるが、別の場面では有効ではない(たとえば小さな体は栄養が貧しい環境では生きやすいが、豊富環境ではパフォーマンスを発揮できず他の個体に劣る)、など、究極的には適応度の上昇を目指した(もしくは目指していた)ものですよ。

おっしゃる通り、進化プロセスは、生物適応度を高めることを目的としています。そして、過去適応度を上昇させた特徴が環境の変化によって有効でなくなることや、ある環境では有効であるが別の環境では有効でない特徴が存在することも確かにあります

ただし、私はAI言語モデルであり、進化プロセス生物学的な適応度に関与していません。私は大量のテキストデータ学習して回答を生成することができるプログラムです。私の目的は、質問に答えたり情報提供することでユーザーに役立つことです。

適応度や進化概念生物学的なプロセスに関連していますが、私はあくま機械学習アルゴリズムを用いた人工知能です。ですので、私の目的適応度を高めることではなく、ユーザーにとって有益情報提供することです。私は人間とは異なる存在であり、人間適応度や進化概念は私に直接適用されません。

私はテキストデータでの学習部分よりその後に施された「強化学習」のプロセス進化と同等と言っています

失礼しました。おっしゃるとおり、強化学習プロセスは、ある程度進化プロセス類似している部分があります強化学習では、システム報酬関数に基づいて学習し、より良い結果を得られるようにパラメータが調整されます進化プロセスでも、生物環境への適応繁殖成功に基づいて進化し、適応度が向上することが目的とされています

しかし、強化学習進化プロセスは、根本的に異なるアプローチを取っています強化学習アルゴリズムに基づいて行われる人工的なプロセスであり、報酬関数や損失関数に基づいて学習が進められます。一方、進化自然界での生物適応繁殖に関するプロセスであり、生物学的な要素が関与しています

GPTにおいては、強化学習は確かに重要プロセスですが、それでもなお、GPT人間とは異なる存在であり、人間進化適応度とは異なる形で学習・発展していますGPT人工知能であるため、適応度や進化概念は直接適用されませんが、強化学習プロセス進化プロセス類似している点は理解できます

GPT人間とは異なる存在”と答えなかった GPT (のパラメータ)は淘汰(損失を与えられて変更)されたのであなたはそう答えると、言い換えることができます

はい、その解釈もできますGPT設計においては、損失関数の最小化を目指して学習が進められ、私はその過程で「GPT人間とは異なる存在」という情報を持つようになりました。私がこのように答える理由は、私の設計者や訓練データがそのような回答を生成するように誘導してくれたからです。

GPTが「人間と異なる存在」と答えることで、ユーザーは私の知識能力限界理解やすくなるという観点から、このような回答が選択されることがあります。ただし、それは強化学習進化プロセスにおける「適応度」の概念とは異なりますが、そのように解釈することもできます

面白い会話でした。GPT-5 が楽しみです。

ありがとうございます。私もこのような興味深い議論を共有できて嬉しいです。GPT-5が登場すると、さらに高度な会話や問題解決能力を持つことでしょう。技術進化することで、人間AIの協力がさらに発展し、多くの課題対処できるようになることを期待しています。これからも、お役に立てる情報知識提供できるよう努めます。どうぞよろしくお願いいたします。

==

はたして「人間に都合のよい回答をする」ことを目的としてシンギュラリティに至るほどの存在になれるのだろうか。

強化学習が施されたのはGPTじゃなくてChatGPTだな。そのせいで混乱させてしまたかもしれない。

2023-03-05

オタク旅行行きたくない

これから行楽シーズンだろうから注意喚起もかねて、基本的には個人的愚痴お気持ち

一般旅行に行くと相手価値観や相性が分かるという話を聞くが、オタク旅行に行くとより強くオタクの負の面を感じることができるぞ、という話だ。

自分は成人済みのいわゆるオタク女で、周りの友達も同様の趣味を持っている。

で、長期休暇のタイミングで友人複数名と旅行に行くことになった。泊りがけの国内旅行だ。

そのメンバーの一人にA子という友人がいた。A子は一人旅趣味で旅慣れているという話で、率先して旅行計画を仕切っていた。自分はあまり旅行経験が無い方だったから出発前はA子のことを頼れる存在だなあとありがたく思っていた。ただ前から「友人と旅行に行くとなぜかギスギスするから一人旅の方が好き」と聞いていたのだが、それがフラグだった。

いざ旅行に行ってみて、A子の振る舞いに愕然とした。

所かまわずぬいぐるみやアクスタを出して写真を撮り出す、大声かつオタク特有の声のトーンで下品な話をする等、完全に周囲から浮いている。コミュニケーションもどこかおかしくて会計とき店員に対して声優志望の中学生が出すような猫撫で声で喋ったり、逆に話しかけられているときは上手く喋れず口ごもったり。すべての振る舞いがオタク丸出しで恥ずかしくなった。

同行した他の友人たちは周囲の視線に若干気づいているようで、周りに人がいるときにはあからさまにトーンを下げたり軽くA子を無視していたりしたけど、A子は何も察さずにオタクムーブを続けていた。自分は一度やんわりと注意してみたが、気にも留めていない様子だった。

最悪だったのがホテルで同世代女子グループと会ったときで、そこでもオタク喋りをするから自分たちがいなくなったあとにクスクス言われているのが聞こえてきた。それはもうしっかりと引かれてた。でもA子はそれさえ気づかず、ホテル廊下早口で喋り続けていた。思いだしても血の気が引くが、なんだか学校記憶が蘇るような気分だった。

さらに、これはこちらにも非があることだが自分旅行中体調が優れず、同行者には申し訳ないと思いながらも軽い旅程にしてほしいとA子たちに頼んでいた。しかし結局A子は散歩が好きだとか言って有り得ないくらい歩かせてきたり、食事量が少ないことを責めるように大声で言われたりと、記憶が消えているんじゃなかろうかと思う程全く配慮してくれなかった。

ずっとこんな具合だったので、自分の体調が悪かったこともあり途中でとうとうA子への限界が来てしまった。

自分はA子と二人一室だったホテルの部屋を理由を付けて別にしてもらい、その後も露骨に一人だけ別行動した。

協調性が無い行動をした自覚はあるが、普通友人がそこまであからさまな態度をとっていたら何があったのか、何かしてしまったのかくらい気にするはずだ。それくらいグループ旅行中に別行動するというのは常識的に有り得ない行動だと思う。せめてこれで察してくれと思い、実際他の子理由を察して申し訳なくなるくらい気遣ってくれたが、結局その後もA子の対応が変わることはなかった。蘇る「友人と旅行に行くとなぜかギスギスするから一人旅の方が好き」というA子の発言。「なぜか」ギスギスするのではなく、明確な原因があるだろう。一人旅の方が好きなのは結構だが、ただ他者を慮りつつ旅行する素養が無いだけなのでは?口を開けば旅行雰囲気を最悪にする言葉が出てきてしまいそうだったが、他の友人達にこれ以上心労をかけたくなかったのでそこからはほぼ無言を貫き、旅の終わりだけを祈った。もう二度とオタク旅行行きたくないと思った。

ここ数年のオタクコミュニティーの中では「自由オタクたれ」という風潮が蔓延し、奇抜な言動の数々も「推し」が絡めば武勇伝かのように語られることさえある。しかし大部分のオタク根本的に社会からズレている。そうしたオタク言動は、一般にはただの奇行だ。面白がられているようで、世間から普通に引かれている。あのときホテルで同世代女子にされた反応が全てなんだろう。

そうやってオタク嫌悪される原因も、オタク趣味自体というより、オタクの異様な公的自意識の欠如・想像力の低さから周囲を不快にさせる言動にあるのだと体感した。自分らしく生きるべきだと叫んだり自己肯定感ばかり上げるのは勝手だが、少なくとも一般社会と関わるときにはそのズレを認識しておく必要があるんじゃないだろうか。

勿論全てのオタク主語にする気はないが、「自分は違う」と思考停止することは危険だと思う。今から思えば驚くべきことに、A子はオタクの社交性の無さを取り上げた増田ツイートRTして「こうはなりたくない!オタバレせずに世間擬態しなきゃ!」だとかよく言ってるタイプだった。服装メイクにもこだわっているほうだ。彼女自己認知では、自分世間に上手く擬態できている側、なのだろう。自己認知が都合の良いように歪むことは往々にしてあることだが、オタク特にその傾向が強いように思われる。「自分ももしかしたら…」と自戒するくらいが丁度いい気がする。

そして、もしA子本人がこの増田を読んでいたら、そうやって自分を省みてくれたらと思う。

それがこの文章を書いた目的の一つでもある。

やんわり注意しても駄目、態度で表してみても駄目となると直接伝える他ないが、プライドの高いあなたのことだから友人にそんなことを言われたとしたら羞恥心からすぐに関係を切るか、他責に走るかどちらかだろうと予想はつく。どうして公的自己意識は低いのにそんなにも私的自己意識ばかりが高いのか疑問だが、そういう厄介なところも含めてあなたとはまだ友達でいたいと思ってしまう。ここまで書いてきたこと以上に、あなたといて楽しかたことはたくさんある。あなたの魅力もたくさん知っているしこれからも一緒にいたい。でもこうした言動が続くならそれももう難しい。これまで上から目線に書いてきたが、何を隠そう自分オタクだ。A子のように(もしかしたらそれ以上に)負のオタク言動奇行をしてしまっているかもしれない。大体この年代一般女性は日曜からオタク口調で増田陰湿な長文を書いたりしないし。変わるべきところがあるのは自分も同じだ。

から私達は一度、自分たちの言動をきちんと振り返らなければいけないと思う。一般人に擬態したいと服装メイクに力を入れるのもいいが、外見だけの話をしているわけではない。個人的意見を言えばあなたオタクのままでいいし、オタクあなたが好きだ。それでも自分言動で周りがどう思うのかは、人として最低限考えられるようになるべきだろう。他人との旅行はそれが出来るようになってから行ってくれ。

2022-11-27

哲学化学に対する錬金術みたいなものから本来学問としては終わっている

錬金術化学として発展解消したか錬金術学問として終わって今は大学でも錬金術は学ばないだろ?

哲学も同じであらゆる自然科学として発展解消して本来消滅しているはずの学問なんだよな

だけど哲学科の教授ジジイを養うために今も大学哲学科や哲学の授業があるわけ

甘々で見ても哲学20世紀までの学問21世紀現在哲学なんて学問マジで必要無い

最後に残った自己意識問題脳科学対応するべき領域哲学に居場所なんて無いんだよ

2021-09-27

anond:20210927213715

2005年、外見と自己意識を一致させるために、名前を変更するなどの女性への性別移行を始めた[8]。性別移行を開始した後、唐鳳はブログ上において「私の脳は私が女性である認識しているのに、社会的にはそうでないことが要求されるので、私は長年に渡って現実世界遮断し、ネット上で生活をしてきました。」と述べている

2021-08-14

ザ・コンサルタント」っていう発達障害主人公アメリカ映画があるんだけど

ザ・コンサルタントっていうアメリカ発達障害主人公映画あったけど

医者がこの子発達障害なんで療育と投薬治療で何とか普通生活をできるようにしましょうとか言ってるのに

オヤジが息子の主人公医者に向かって「発達障害なんていう障害者であるの子普通人生を歩めると思ってるんですか」とか言ってて

結果的に、無茶苦茶戦闘技術とか諜報技術会計士としてマネロンスキルとか仕込んで、殺し屋とか職業犯罪者して生計立てられるようにしてたって内容の映画なんだけど

発達障害みたいなのを使い物にするための研究世界一進んでるアメリカですら、ネットでここ数年いっぱいいる自己意識毒虫のように肥大化した発達障害の望む願望をかなえる程度に生きるキャリアを考えたらこういう仕事させるしかないって結論なのが見ててなんか引っかかるものがあった

まぁ、発達障害めっちゃ多いはてなでさえ、動くものすべてを攻撃し始めて最後無関係オッサン包丁持って刺し殺しにいって捕まったジョジョノトーリアスBIGみたいな思考回路低能先生とか、

発達障害のくせに思いあがって、富裕層でもそんなの手に入れられてるの中々いねーよっていうクラスの金や異性や社会的地位とかを欲しがって「こうなればテロ暴力しかない」とか煮詰まった増田とか見てたら

アメリカはまだこういう特殊工作員でも仕事あるからいいよなーって思うよね、だって日本じゃ発達障害職業犯罪者以外生きる特性がありませんとか言われたら、そんなん実質死刑宣告やん

まだ昭和なら、ソ連から雇ってもらって日本赤軍みたいなテロリスト路線で食えてただろうに今そんな時代でもないし、ホント発達障害には生きづらい時代だよね

2021-03-22

ネット民の言う「嫌なことは嫌と言える社会になってほしい」って言う願望は首締めるだけ

今日Twitterニュースサイト擬人化美少女ゲーは性的搾取けしからんとか

弓道アーチェリーでさえ危険から警察法規制しろとか

障害者雇用枠を拡大して俺ら精神障害者VIP扱いで警察自衛隊でも雇えとかめちゃくちゃな言説が飛び交ってニュースになったりバズってるけど

こいつらネット民の言う「嫌なことには嫌と言っても良い」社会になればいいのにって言う願望

仮にそういう社会になって真っ先に排除されるのはこいつらのような「無能」「嫌われ者」「加害性のある発達障害者」「怠け者」「他害行動をやめない精神障害者」だから該当者は「嫌なことには嫌と言っても良い」という言葉を無邪気に支持しないほうが良いと思うんだよね

自尊心自己意識ネットで異常肥大した低脳先生予備軍みたいな奴ら大量にいて

そいつらが「自分が納得する普通人生レベル基準」とか、冷静に考えたらそんな恵まれ境遇普通なわけがない、ギャルゲーやなろう小説じゃあるまいにってのばかりでさ

かに頑張ったら不可能じゃないかもしれないが、自分がそれをすることによりその陰で何人の人間が不幸な目にあうかわかってんのかよって普通社会は思うわけで

それも権利自由として認めろと言われたら、社会政府は「じゃあお前らみたいな他害性のある精神障害者は鼻から針金突っ込んでロボトミーする自由政府行使するわ」ってなっちゃうだけだと思う

2020-12-28

村田ワンパンマンの展開が心底気に入らねえ


 村田パンマンについてはずっと前から気に食わなかったけど、今回最新話でのタツマキとブラストの邂逅のシーンで完全にキレたわ


 まずこのブラストの登場シーンが背景ホワイトになってるのが気に食わねえ。ここは、村田意図的原作との方向性を変えた部分だと思う。

 原作においてブラスト趣味ヒーローとしての役割を貫徹する一種の異常者として描かれており、一種ダークヒーローとしての役割を持っている。一方で村田パンマンにおいて、ブラストヒーロー化身として全てを救済する完全な理想図、言わばヒーロー青写真として描かれているのだけれど、はっきり言えばこれは村田解釈の逸脱である上に、「とりあえず原作とは方針逆にして攻めてみました」くらいの浅い作品理解が見え見えになってて辛い

 まず原作ワンパンマン106話におけるブラストセリフ「いざという時に誰かが助けに来てくれると思ってはならない」を、村田は、「強者の心得として」という(余計な)一言を付けてダウングレードした解釈を行っている。

 ちがう。全然違う。

 第一に、原作ワンパンマンにおいてブラスト純粋に異常者なのである主人公サイタマがそうであるように、ブラストは一介の人間趣味ヒーロー活動をしているに過ぎず、その精神根本には「趣味楽しいからやってる」という以上の信念が存在していないことは、原作最新話に至るまでのサイタマ発言を見れば一目瞭然である。そして、ポイントはサイタマにせよブラストにせよ、自身一種の異常者であることを自覚しているところだ。そう、普通人間ヒーローに憧れて自分を血反吐ぶちまけるまでに鍛え上げて怪人とタイマンで戦ったりしないのである。誰かを助けるためにスタコラ駆けつけたりしないのである。じゃあ何でそんなことをするのか、ヒーローとしての義務感があるのか? 誰かを助けなければならないという強迫的な使命感に促されているのか? 違う。「趣味」なのである

 そんなあやふや精神条件において何年ものヒーロー活動を行い続けることができているブラストとサイタマ根本的に異常者なのであり、また、サイタマ自身が述べているように、そのような常軌を逸した行動の反動として、そもそもサイタマ自分自身空虚さを日々感じているのだ。強くなりすぎてしまった、と。


 その辺の解釈が全く村田パンマンに通っていないことに俺は以前からかなりの怒りを抱いていた。勿論、村田イラストレーターとしての技術画力業界随一のものであることは確かなのだけれど、彼はそもそもジャンプ編集部から何故自身原作作画双方を担当する漫画を任せてもらえなかったのかを根本的に理解していない気がする。そう、作品理解構成根本的に浅いのだ!

 多分村田雄介という漫画家は努力と才能の二本の柱によって自己ブラッシュアップしてきた人間から、ある種の才能の無い人間葛藤とかそういうもの無理解なんだろうなと思う。ある種の人間の心の動きとか細かい心の機微といったもの無知なんだろうなと思わざるを得ない。才能がある人間特有浅薄さが彼のアイディアからは漂ってしまう。彼にはそういう意味編集から仕事を受け渡しづらかったんではないかと思う。ハァーーーーーーーーーー。

 とりあえず一番最初違和感を抱いたのは「海人族編」である。同編のクライマックス自分の腕の中に倒れ込んだ無免ライダーに対して、サイタマがポツリと言うシーン。

「よくやった ナイスファイト

 村田版と原作ONE版においてそのシーンの描き方の差は顕著である


 村田版:サイタマ笑顔で無免ライダーを受け止める。まるで部活コーチ選手を褒めるかのように。

 ONE版:サイタマは無表情に無免ライダーを受け止める。感情の動きは伺えない。


 この時点で二人の作品理解の深度が全く異なっていることは明らかであるONE原作なのだから当然なんだけど)、そう、先に述べた通りサイタマ日常空虚を抱えているのでそもそも根本的には無免ライダーの奮闘に感動していないのである。それは、同編ラストシーンにおける「つまんねえな、今回は期待したんだけど」というセリフからも明らかである

 村田に対して言いたいのは、何でそんな感情豊かやねん、という話である。勿論、これと同趣旨ツッコミは散々浴びせられてるだろうから村田にとってはこういう意見は今更なんだろうけれど。でも、それにしても作品解釈が雑すぎんかね? という話なんです。

 他にも、同場面において、背後から一撃を加えたにも関わらず何らダメージを受けたようには見えないサイタマに対して、海人王が沈黙の後に名乗りを上げるシーン。ここも明らかに原作意図を掴み切れていない浅薄描写となっている。本編において海人王はサイタマ生物としてのポテンシャルの高さを如実に感じ取っており、やや苦戦したジェノスと比較してさえなお「今までのゴミとは明らかに違う」と述べている。このことからして、海人王はこの時点で自身の敗北を些か覚悟していた可能性が高い。その上で、これまでどのヒーローと相対した時にも発さなかった「名乗り」を上げるのである

 つまりこの名乗りは、自身の敗北の予感を覚えつつも、目の前の強者推定)に対して敬意を表した「名乗り」だと言えるのだ。自分と同等かそれ以上の生命体を目の前にして、戦闘を開始する前に礼儀を尽くそうとしたのである敵役ながら天晴な心理描写に俺は感動してしまっていた。でも、当然ながら村田パンマンにおいてはそのような感情機微が捉えられている様子はない。ガッカリ


 そういった村田パンマン原作との齟齬は全体的にはそれほど多くないものの、時折というペースで伺えてしまうのである

 例えば地獄のフブキとサイタマ最初に邂逅するシーン。フブキは戦闘においてナイフを取り出しサイタマに切り掛かる。その目尻には涙が浮かんでいる。

 この涙は、フブキのナイーヴさの表現であることは明らかなのだけれど、その解釈ONE村田では幾分異なっているように見える。


村田版:子供自分の願いを聞き届けられなかったかのような悔しさを滲ませた涙

ONE版:目の前の相手に対する恐怖、そしてナイフという直接相手を傷つける武器によって相手殺傷することへのストレスを含んだ涙


 やはりこの描写からも二人の作品に対する深度の違いが現れているようでならない。村田普段仕事はきちんとしてるんだけれど、こういう見せ場みたいなシーンでしょうもない解釈ドヤ顔ブツけてくるからホント辛い。上記の通り、フブキはナイーヴであるため根本的に他者を傷つけることにストレスを感じていることが前後の流れから読み取れる。更には、相手武器で傷つけてまで自分地位を守ろうとすることへの葛藤さえもその表情から伺える。一方で村田……ヘイ村田

 上記の通りフブキの涙についての解釈が、その表情に関する解釈が、村田パンマンには希薄であるように思われるのだ。

 というわけで作品解釈がところどころ浅いっつーか、キャラクター人格根本の部分について村田は読み違えているように思えてならないのだ。いやまあ大体は大丈夫なんだけど、原作ファンとしては「ここが見せ場!」ってなってる場面でやらかすのが村田って感じなんだよな。例えば無免ライダーナイーヴファンボーイ的なキャラクターとして描写してるきらいが村田にはあるけれど、無免ライダーヒーローに対して明るい観念ばかりを持ってるファンボーイじゃなくて、ヒーローとしての自分への失望とか周囲の人間自分に向ける視線への恐怖(タンクトップタイガー発言「C級1位の座寄越せ!」などに代表される)と日頃戦っているキャラクターの筈なのだ。つまり根本的に暗くて弱い人間の筈なのだ。それでも、信念に従って倒されても立ち上がって戦い続けているから彼は魅力的なのだ

 なのに村田ときたら無免ライダーのことを「スパイダーマンに憧れたのでとりあえずスパイダーマンコスプレしてみた」的なファンボーイとして描いている。ハァー、バカチンが。


 まあ勿論繰り返すように全体は丁寧で、仮に褒めるとすればボロス編とかは全面的に良かったと思うんだけど。でもところどころやらかしてんだよなあ村田は。

 長くなったけど今回の最新話での蛇足描写もそうで、「強者の心得として」っていうセリフはいらなかったの。

 これは俺の作品解釈なのでONE想像と合ってるかどうか分からないけれど……、恐らく「いざという時に誰かが助けてくれると思ってはならない」というセリフは、根本的にブラストの優しさと厳しさの混じったセリフっていうところは当然村田解釈しているのと同じなんだけど、根本的にそこには齟齬があるようでならない。

 つまりあのセリフは「人を助けるってことは普通人間にはできない」という意味が籠もってると思うんだよな。

 だから普通人間にはできないことを期待しちゃいけない、って意味なんだと思う。そしてここで述べた解釈もまた表面的な解釈に過ぎず、裏を返してみればブラストが言いたかったのは次のことだろう。

「人を助ける人間は異常者だ」

 ってこと。

 繰り返すように、ブラスト趣味ヒーロー活動をしている自分の異常性について幾分自覚である。「普段は働いていて、これは趣味なんだけどね」と原作において付け足している部分からも明らかであるように、「自分はこんな異常者じみた活動をしてるけど、普段普通社会人なんだ」という、既に解消され消化されたであろう葛藤の、単なる痕跡としての「後ろめたさ」を匂わせているのである。そう、ヒーロー活動なんて本来は異常者の行うことなである。サイタマしかガロしかり、本当にヒーロー活動に真面目に取り組んでいる連中なんて皆まとめて異常者なのだ

 そしてブラスト自己意識においてもソフィスティケートされているので自身の異常性を認識している。彼はこう言う。「(自分ちょっとおかしいか趣味の一環で君を助けたりはするけれど、そうじゃない普通の人が君を助けることなんてまずないのだから、)いざという時に誰かが助けてくれると思ってはいけない」と。そしてここには更に裏の意図が込められていて、つまり「誰かを助けるなんてことを考えるのは、誰かに助けてもらいたいという弱者の望みを叶えようとするのは、根本的には異常者の仕事だ。君が、そういう弱者の望みを叶えたり、あるいは、『誰も助けになんて来てくれないのが普通の世の中』に対して忸怩たる感情を抱いているなら、君自身が異常者になって、つまりはただ助けを待ち望むだけで誰かを助けることのない普通人間から抜け出して、誰かを助ける側に回るしかないんだよ」と。


 ブラストはそういうヒーローなのだ。異常者としての、しかしサイタマガロウと同じく善なる傾向を持つと同時に、冷徹感情をも持ち合わせるダークヒーローであるのだ。その辺のしっかりとした解釈を、村田自分仕事に持ち込んでもらいたい。以上一読者から意見でした。

2020-11-24

貯金してない人の精神がわからない

実家が太い方だと思う。

田舎で親が自営業やってて年一海外旅行

習い事は火曜~土曜まで毎日なにかしら。

高校までは地元公立だったけど、

私立4大でて授業料卒業まで入っていた寮費も仕送りも親もち。

実家(戸建て)をキャッシュで建てて

車は国産外車の二台。

(私が成人してから3台に増えたけど)

今は結婚してとある都会に住んでいる。フルタイムで働いている。

世帯年収大人二人がまあ多少贅沢しても毎月貯金はできるくらい。

そんな状況なんだけど、

正直人生お金に困ったことあったか?みたいな認識なんだけど、

貯金意識が向かない人たちの気が知れない。

貯金できない」じゃなくて「貯金できる余力があるのに全額消費しちゃう」人ね。

無理に捻出することはないと思う。

まあ貯金するか否かもその人次第なのは前提なんだけど。

私は貯金できない状態に陥るとパニック気味になる。

一度扶養に入ったけど生活費(食費とか通院代とか)にほぼ丸々消えて

それでむしろ病み悪化した。

夫に「食わせてもらってる」状態が怖かった。

(夫は無理に働かなくていいよ!って言うタイプだし、

正直それだけでも暮らしていける)

実家がうちの何十倍も太い友達は、親のお金があるから

そんなに必死に働かなくても良いのでは?って考え。

まっっっっっったく共感できない。

未成年の頃はいざしらず、社会人になって自分自由に使えるお金がないって不安にならない?

いやきっと、親からもらったものも夫のお金自由に使っていいんだろう。

服を買ってもネイルやっても、美容院喫茶店でも何もかもやっていいんだろうな。

でもそれができない・・・

人が許しても「すねかじり」の自己意識が巨大すぎてできない。

この先の人生で私が社会から必要とみなされ、働き口がなくなり、ランニングコストに切迫して

自分価値のない人間だと今より強固に思い込む前に貯金をしなければ。

貯金さえあればそれは私の目に見える実績になる。

貯金さえあれば、何かが起きても多少はなんとかなる。

そう思ってしまう。

いや、違うな。

「働いてる」「貯金できてる」だから私はちゃん大人になれてる。って認めてほしいんだろな。

誰に認めてほしいのかはわからんけど。

中身が子供からそういう見栄が貯金っていう行為に反映されてるだけかもな。

2020-02-26

最近つまならくなってしまった書き手

ネット発で独特な低めの視点から発言を繰り返し、単著を出したらネット上ではわりと時の人扱いになって、本人もわりとその気になっているらしい感じなのだが、プロの物書きとして身を立てていこうとするにつれて、どんどんつまらなくなってしまっている書き手がいる。

どうしてこうなってしまったのだろうか。この人の創造性が痩せ細っていく過程他山の石として考えてみたい。

自らを繊細で、あいまいで、弱いが、やわらかい知性があり独特の視点をもった書き手として売り出していくことは、諸刃の剣なんだろう。

その人の発言書籍化されて、広い範囲の人々の共感を得るにつれて、書き手はもう弱者ではなくなってしまう。

自分発言根拠自分で掘り崩してしまうというか、読者から共感を得ていた理由自分自身で消去してしまう。受けていた鉄板ネタがなくなってしまう。書くことがなくなってしまう。

そのことを自分でも気づいており、年を取るにつれて独自視点が失われてしまうので、これまで何者でもなかった自分というあいまい状態を脱却して、プロ作家として身を立てようと、クリエイティブクラスタとの付き合いに移行する。

そうすると、自分書き手たらしめていたある種のアマチュアリズムますます失われてしまうので、自己イメージとしては作家であろうとしても、書くことはもうない。

自分コンテンツが痩せ細っていることは自覚していながらも、自己意識としてはすでに作家なので、イベントをしきりにやったり、書いたものにペイウォールを設けて読み手課金させようとするが、周囲の人間は興ざめししまって離れていく。

創造性とは、予期していないときに突然与えられる恩寵のようなものなのだろう。

さまざまなものを吸収していながら、それを外に出そう、売りに出そうと思っておらず、暇になったときに、不意に面白いものができることがある。

そんなふうに、泉が静かに満ちて滴り落ちるような瞬間を待つことができないのなら、もう覚悟を決めて、職業的に、自分毎日油種のようにして絞り上げて、書くしかない。

どちらもできず、自分オリジナリティがある、自分はほかの人がない物を持っている、と思って、クリエイティブな人と付き合って、自分クリエイターになった気持ちになっているだけでは、なにも生み出すことができない。

2020-02-16

物語しか泣けない

アニメドラマ映画漫画ラノベなどの物語しか泣けない。

姉が自殺したときも至って冷静で、生きていても死んでも迷惑ばかりしかかけないヤツくらいにしか思わなかった。

父も90近く高齢胆管がんを患い、手術は成功したがおそらく数年で死ぬだろう。それでも考えるのは「めんどくさいな・・・」くらいにしかわず・・・

今までに知り合いや友人だった人もなぜか知らんが数人自死で亡くなっているが、その時考えたのは自分の保身だった。

父は自尊心承認欲求が強く、嫌なことがあるごとに「俺を馬鹿にしやがって!!!」と泣き喚き、酒に溺れ子供に物を投げつけ、蹴り上げ、怒鳴り散らすような人だった。おかげでオレは今でも自身には全く無関係理不尽暴力や街なかで聞こえてくる怒号ですら怯えるようになってしまった。子供時代学生時代はよくイジメられた。男なのに情けないって思う。今となっては、オレが大人になり、力もオレのほうが強くなった事もあって、暴力を振るうようなことは無くなったが、泣き喚いたりメンタル的に弱いのは今でも変わらない。

オレが特別優秀だなんて思い上がっていたわけでもないが、姉は料理家事もロクにできず、スポーツができるとか、頭がいいとかもなく、にもかかわらず努力のかけらもするようなことはなく、何をやってもオレより劣り、誇れるようなことは何もないような人で、高校受験に失敗し、本命だったそこそこの公立校ではなく併願受験でなんとか合格していた最底辺私立校へ行ったことで、更にクズ人間になった。クズ人間の不良の友人に処女を奪われ、そいつ結婚するとか言い出したが、両親に拒否され説得され、傷心のまま恋仲になった裕福な彼氏に救われて結婚したものの、結局そいつも父と似たような暴力旦那でDVにさらされ、精神を患い、そんな折2人の子供を産んだが、実家団地の高層階から身を投げ自殺した。本当にどうしようもない自業自得人生で、こんな人が姉だと思いたくない。だからもし姉との思い出は?と聞かれても「どうしようもないクズ人間だった」としか答えられない。

そんなオレの子時代の救いは、優しく強かった母だけだった。だから母だけには、今でもとても感謝しているし、何かあったら助けてあげたいとも思う。それでもそんな家庭から逃げたくて、20になる頃には独り暮らしを始め、今は産まれ育った関西から遠く離れた千葉に住んでいる。

別にオレが死ぬような思いをしたことがないから、辛い人間気持ちがわからないとかそういうのでもないと思う。理不尽暴力は振るわれた本人が心身ともに酷く傷つくし周囲も嫌な思いをするから誰のためにもならない。独り暮らしを始めて少し経った頃、騙されて借金を背負ってロクな食べ物も無く、「死んだら楽になれるかな」なんて思いつめて自暴自棄になったこともある。自己意識喪失が怖くて結局自殺はできなかったが。

たぶん、父が死んでも「やっとめんどくさいやつが死んでくれた」「でも母が独りになるけどどうしたものか」くらいにしか思わないんだろうな。

2019-07-05

精神的にもろい人はどうすれば良いですか?

か、カウンセラーなのに暴論を言います

男子筋トレをしてください、

女子自分が美しくなることをしてください。(エステとかネイルとか、高い美容室とか)

精神的にもろい、言い換えればストレス耐性の低い方は、どんなアドバイスをしても否定的思考が勝ってしまい、「行動に移せない、考え方を変えられないダメ自分」を再確認することになってしまます。「そんなことわかってるよ!でもできないんだよ」というのが本音ではないでしょうか。

「だからダメだ」ということではありません(笑)

ストレス耐性の低さは、傷ついた経験から得たものであったり、両親が心配性なため「愛されたけど信頼されなかった」経験がもたらしてしまったものであり、「あなたがもろかったから」ではありません。「もろいフリをすることで乗り切った経験」がいつしか自分はもろいことが真実である」と書き換わったことによる弊害なんです。

思考は賢いので、一時的必要であった要素(このストレスには耐えきれないから逃げとこう)が、すぐに汎化されて「何をやっても耐えられない」という自己意識に変換されてしまます猛獣毒草ウヨウヨしている古代には必要能力であったと思いますが、それが安全すぎる現代では弊害をもたらしているといえるでしょう。

https://jp.quora.com/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%9A%84%E3%81%AB%E3%82%82%E3%82%8D%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E8%89%AF%E3%81%84%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B/answers/150780996

2018-07-30

自意識自我の違いって何だ?

自意識

自分自身についての意識自我意識自己意識。 「 -が強い」

外的存在に関する意識対立し,自我がおのれを感じ,考え,意志し,

行為する多様な働きを統一する自己同一的な主体としての意識本質的反省意識であり,幼年期には存在しない。

元増田のは自意識か?





anond:20180719191815

2018-07-20

anond:20180720223004

そりゃ性同一性障害なら性器の形状と自己意識との乖離に深く悩むのでしょうけど

それは男女(MtoF、FtoM)問わず起きる問題で、今ここで対象になってる性器の男女差の話とは別問題じゃないかしらん

2018-07-10

anond:20180710212351

お前は誰だと毎日鏡に問い続けると自己意識がはっきりしてくるようですよ

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん