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はてなキーワード: 自己否定とは

2023-10-27

中学生の時にバイブルのように読み漁っていた小説家がいたんだけど、高校受験シーズンに入ってから高校時代勉強で心に余裕がなくて小説自体まり読まなかった。大学生になって溜まった未読本を読もうと思って手を出したら作風とか、あとおそらく作家メンタリティ結構変わっていた。解釈が変わったらなんだか中学時代に読んだ分まで遡って好きでなくなってしまいそうで、それがあまりにも寂しく感じ、自分中学時代とその作家蜜月を密封するために新作は一切読むのをやめた。

大人になってからは、すでに読んでいたものに対してさえ卑屈な感情を抱くようになった。知識が増えた目でその人の作風エッセイを捉え直すと、あっ なかなか上流階級ですね…ということが見て取れるようになったからだ。そして本人はあるあるネタとして書いているものも、結果的にそういう階層内での内輪ネタしかなっていないように感じるものが増えた。卑屈な気持ちになるし、それをいつか自分体験するんだと無邪気に信じていた中学生自分馬鹿みたいで情けなくなった。

自分感性や考え方の土台は明らかにその作家追随し、模倣する形で作られたのに、それを基礎にした思考体系の1番上にいる現在自分は、彼の書くものテーマからしてしゃらくさいとしか思えない。不相応な世界観をそうと気付かずに取り入れた自分が恥ずかしい。そう考えている今の自分思考はそこからまれていることも苦しい。彼のことを考えると自己否定に繋がる。

まあだからまり考えないようになって10年は経ってたんだけど、さっき彼とは関係ないラジオ番組を聞いてたら作家名がでて少し触れられていて思い出した。

2023-10-21

学生時代にされた「何々が出来ない奴は人生を舐めている」という呪いが解けてきた

運動を習慣的にするようになった

読める字が書けるようになった

挨拶をするようになった

体重食事管理可能になった

睡眠時間が安定してきた


学生時代に親や教師から何度となく「こんなことも出来ないのはお前が社会を、他人を、人生を、人間というものを舐めているからだ」という罵倒を受けてきたことが、今は普通に出来る。

それは自分社会人になってから少しずつ図書館小学生レベルの本を借りて勉強し直したおかげであり、私を呪ってきた奴らが言うような「社会舐める」をやめたからではないと断言できる。

学習意欲を削ぐような言葉を投げかけられ、彼らの言葉に従うことが自己肯定感を大幅に下げる行為につながるように誘導されてきた呪いがとけたおかげだ。

もし当時の私が彼らの言葉に素直に従ったらそれは自分自分の全人格否定することにほかならない。

「字が汚い奴は人間としても薄汚れている」等という意味不明差別意識にまみれた狂人の側に与するわけにはいかないのだ。

それが通るならこの世界人間がありとあらゆる要因によって全人格否定されるべきであり、たまたま否定やす理由を見つけただけで相手人間性を指図するには奴らだってそうやって否定されるべき悪癖の塊なのに。

息が臭い癖にツバをつけてプリントを配ったり、イケメンにだけ猫撫で声で話しかけて何でも甘やかしたり、女子生理不調を訴えるとズル休みを穿たうくせに自分頭痛が酷いからといってすぐ休んだり、「字が汚いか人間として駄目」と同じレベル否定されるようなことをいくらでもしておいて、改善する気もなく堂々と生き延びてやがる我田引水カス共の身勝手な暴論になんでおもねってやらねばならんのだ?

学校という牢獄を飛び出てから10年程して、私はその頃にかけられた呪いの数々からようやく解き放たれることが出来た。

「字が汚いことが人間性を貶める訳ではないが、字が綺麗な方が自分メモを後で読み返すのが楽になって便利だから字を綺麗に書こう」

運動能力人間存在価値の全てではないが、長く歩けたり重いもの簡単に持てると便利なことがあるから体力はつけておこう」

そういったポジティブで前向きなプラス意識を持って訓練に当たるようになってから、今まで苦手だったことが出来るようになるのがだんだんと楽しくなってきた。

「この行為を改めようとしても、それは全人格自己否定ではなく、単に伸ばしておきたかったスキルの取りこぼしをやり直しているだけだ」と思えるようになったことが、私に学習をやり直す意欲や機会を与えたのである

他人生き方に口を出す時に全人格否定してはいけない」というのは非常に重要なことのようだ。

少なくとも、私はそういう事をされると完全に改善への意欲を失うらしい。

年齢的にも自分が後続に物を教えることが増えてきた。

周りと話していても「パワハラとして訴えられるのが怖いから気軽にゲンコツとか出来なくて不便だよね」なんて愚痴を聞かされることも出てきた。

そうじゃない、そうじゃなくて、そもそも能力の有無を理由相手人格否定してたら伸びるものも伸びなくなるんだよ。

今はまだこのことを人に上手く伝えられる所まで行ってない。

そもそもこれが本当なのかも分からない。

単に自分がなんだかんだで生真面目であり、同時に反抗心の強い人格だったからそうなだけかも知れない。

まだ仮説の段階だ。

人に偉そうに「いやいやそもそも人格否定で気軽に相手の気を引き締めるとか単なる妄想から」なんて言うにはまだ早い気がする。

あくま自分が人に物を教える時に相手否定しないようにするまでだ。

それで相手から「舐められ」たとき、どうしたらいいのかはまだ思いつかない。

まあ単にメリットデメリット説明して相手選択させるだけでいいんじゃないかって気はする。

だけどそれを「増田さんって上から目線で「俺がいつも正しいからさ、結局」みたいな態度取ることありますよね」って思われたらどうしよう……

2023-10-14

anond:20231013190413

2種だと増やすという目的争奪戦ができるけど3種以上になるとそれ以外の目的で性を争うことが発生するから

生命は全部増えることを目的としているので結果なにかを殲滅することはあっても殲滅目的生物はいない

3種目以降はその殲滅目的のものが出来てしま

LGBTなんちゃらもそれが問題

別に誰が何を名乗ってどの性別が好きでも問題全然ない むしろ全員まじってつながるなら最高

どれが嫌いだれが嫌いといって自分の増殖行為を阻害されてるわけでもなく増殖する気もなしに攻撃を始めるのは生物として異常

害を与えるためだけに生まれてくるものなんていないはずなんだけど性別を3種目以降にすることでそれになってる人が現にでてきてもいる

追記

殲滅は前提なしに出す言葉としては不適切だった

基本的に取り込まないからの排除からの「接触すると徹底排除」が殲滅だと言いたかった

LGBTQ+も話題範囲に近かったので手っ取り早くあげてしまったのは不適切だった

イカでもエイでも宇宙人でも「人間」という種別として取り込んだとき言及するに面倒だった

単純な話3種類目以降が別の生物生態系だと考えてみてほしい

形がヒトのそれだから なまじっか言葉理解できるからという形のものから人間のものまで

みんな分かり合えるとおもうのだろうけど 現状でさえ宗教が違うというだけですら人間でもニンゲン扱いしないんだよ

創作の話でいうと超能力をもった人間と旧来の人間とかスターウォーズとかスタートレックとか

なぜみんな交配しあわないのかなってまず思ったりするのならば人間ほどの複雑さをもってしてもmRNA生物並みに生存競争してるのかって驚異的ではあるけどね

複雑さが増すほど差異境界としての意味をもたなくなり寿命は長くなる

社会という単位で言うと性別は2種を内包するが地球上でも200とか300とかの単位寿命は1000年も2000年もある

地球という単位だと億という年単位生命という分類をがざっくり水上と水中くらいにわけれもする

単純になっていけば短い期間でどんな生物にも結合して変化し次の世代を残していく

人間という生物基本的にそういう構造をしているというだけで人口的に生命を生み出せば人間観測範囲においてはそんな境界線はなくなるかもしれない

男性が好きな高校生漫画とかゆるい百合とかジャンプ漫画ホッテントリに時折あがる時でさえ性別がと

LGBTQ+の記事もあがるけど性別がと 関係ないのだからほっとけばいいし好きにさせておけばいいのにそれですら「当事者でないところから干渉」をしてるよね

3番目以降の生態系干渉抑制排除ではない方向で扱われる状況を目の前でみることができるのは寄生生物みたいなものがあるけども

人間があれを許している領域ほとんどないといっても過言ではないほどに狭いのではないか

人間もっと蕩けて一つになるくらいならばより広い範囲になるかもしれないしより人間的であろうとするならばどんどん性別は減っていくというかすでに2種なんだがというところだろう

【さいごに】

コメントありがとうございます

排他的になる第三というのは「日本語OKとかまったくわからんとか正しい生物学の」と付けていただいた話のそれです

なぜ融合してどうなるかわからないにしても結果を生産しようとしないのでしょうか

自身の持っている定義に合わないから「排除」を開始するのですね

自己確立と存続のために

からいか理解しようとしない 種が違うから結びつかない

からないなら関わらなければよいのになぜ共存しない目的関係をしようとしてくるのかということです

生命はこれまでそのおはなしにならないものバクテリア時代から分解し吸収し融合して生物進化してきました

増殖したり進化したり共存を試みようとしなければ関係をせず離れていくだけで済みますし結果離れて存在はなくなっていくわけです

だれとでも何とでも溶け合おうとするなら性別は数えきれない対象と結びつきをもつでしょう

その関係性別とするなら多すぎて意味を成さなくなります

認めた相手共存を求めることやそれを守る事のために他者排除しようとする結果が人間の男女2種なわけです

人間の種類が少ないということは転じて人間という定義がそれだけ幅のせまいものだという事です

イルカも熊も人間だとオスとメスがあるので人間と認めるのかと言われたらどうでしょう

今回はこの話題で三番目が存在したとして

主観とそこからみた利用する他者の2者関係以上になると第三者はその関係性に対し自己の保持のために積極的に取り込まないという行動をとる例が見れたと思います

からいからまず攻撃してみるというのはSF映画でも定番になるほどあります

例として多くあります攻撃的になることが悪いわけではなくそ構造に従った一般的ものなわけで

より複雑で優先度が高いために得るための確度をあげようとして攻撃的になることもいたしかたない部分もあるかと思います

人間には3番目の選択がもう取れないところまで進化してきているのではないでしょうか

種の規模で見ると全体の破綻を導いてしま自己否定的なものは1者でも2者でも発生はしま

性別という個の状態で見る規模でいえば人間関係性で似たもの垣間見れるという事です

実際今回の状況を話題をはさんで双方という2つにおいて1つの議題という目的を持った状態に対し関係をもってくる第三者基本的破壊的だという話でした

2023-10-03

anond:20231003182613

要はチームがよりよく機能するようにするための心理からアプローチという包括的概念から理解しづらいのは仕方ない気がする。

ミスする度に怒鳴り散らす上司排除することで報告がキチンとされるようにしたり、困難な目標を出さないようにすることで不要心理プレッシャーを除去して余計な問題が発生することを防いだり、自身の案が否定されたからといって自己否定されたわけではないことを認識させたり、と具体例はいくらでも出せるからなぁ。

2023-10-02

米欧…というかヨーロッパ的にはカジュアルアイデンティティ自己否定を行うべきものとしているのだろうか

魔女狩りから変わってないってここ最近言ってるけどほんとにそうかもしれん

「そんな噂を見聞きしたことはあるけれども、それはそれとして」ジャニーズ所属タレント)が好きだった、あるいはテレビなどを通じてなんとなく好感を持っていた―そんな自分は"ギルティ有罪)"なのか?という問いです。

米欧では、すでにほぼ決着がついています。性加害を含む人権侵害が絡む商品コンテンツ享受し、消費者となることは明確に「アウト」

https://news.yahoo.co.jp/articles/303a85cc9039fd5bcc93189795ea39dd04a38f8b

2023-09-18

純文学って結局なんなの?

文章表現のものの持つ可能性を追求した芸術作品」みたいな定義だっけ?

だとすると俺が読んだことがある純文学は「アルジャーノンに花束を」と「虎よ虎よ」だけかなあ。

あれ?どっちも世間的にはSF小説ジャンル分けされてね?

え?じゃあ純文学ってなんだ?

そもそもサブジャンルみたいなもんなのか?

恋愛ドラマ戦争映画でサブテーマ人種差別が入ってきてるような感じ?

純喫茶は「純」=「酒の力に頼らずソフドリと飯と雰囲気だけで勝負してますよ」って意味だっけ?

じゃあ純文学も「純」=「内容に頼らずに文学性だけで勝負してますよ」じゃないとアウトなんか?

チョット調べたら「こころ」や「よだかの星」も純文学らしいね

でもどっちも「"潔癖症的な自己憐憫自己否定"vs"自己満足的な懺悔自己破壊"のタッグマッチ」がメインテーマであって、文学としての表現力はそれを盛り上げるための裏方業務って感じじゃね?

裏方凄いなーって所で盛り上がるときがあるのは分かるよ。

サマフェススピーカーの仕組みがバズるとか、競馬名実況で思い出トークが始まるとか、でもそれってやっぱりサブジャンル的な楽しみ方だと思うんだよなあ。

純粋純文学」ってやっぱ存在しないのかな。

それとも「SF」や「歴史小説」や「架空戦記」みたいに単なる舞台設定の一種なのか?

いやそもそもの考え方が違う気がしてきた。

小説って作品ジャンルを何によって定義するのかが他のコンテンツよりも自由すぎるんだな。

あとテレビゲームの「アクションアドベンチャー」とか「MMOFPSRPG」みたいな合体型のジャンル表現が発達してない。

分類する人間漠然と一番濃度の高い要素で定義してるだけなんだな。

そうなると「純文学」って言われる作品の傾向がなんか見えてきたわ。

「他にメインジャンルになれるような要素が強いものがなく、かつ純文学カラーが強い」って場合に「純文学」の棚に分類されていくってことなんじゃねえか?

あーあーあー今完全にわかってしまった……。

必要条件十分条件認識が間違っていたのか……。

文章表現のものの持つ可能性を追求した芸術作品であることは「純文学」の必要条件しかなく、「文章表現のものの持つ可能性を追求した芸術作品」だったら全部「純文学」になるわけじゃない。

逆に「純文学」と呼ばれている作品はすべて「文章表現のものの持つ可能性を追求した芸術作品であるってことか。

すげー地味なオチだな。

中学生数学問題じゃね―か。

しかしアレだな、こうなると「純文学」ってジャンル区分されるってのは「それ以外の要素が特定ジャンルに含まれるには弱いね」を意味しているってことだな。

恋愛小説」や「ライトノベル」っていうジャンル区分けされるのと「純文学ジャンルに入れられるのどっちが作者的に満足が行くのだろうかってのは永遠の謎だなあ。

アルジャーノンに花束を」にしたって文章によって主人公の知能状態表現しているのは凄いんだが、それを通して描かれる差別問題、知性の絶対性に対する問題定義の方もちゃんと読み込んでやらんとアカンやろとは思うんよな。

絵画世界だと手段のもの目的になっていることは結構あると思うが、文学世界でそうなってる作品ってあんま多くなさそうなんだよな。

結局求めているのは自分が切り取りたい世界観に合わせたより適切なレンズフィルターであって、それが凄いねって褒められたとして作者的には「いやそれを通して見せたかったものの方の感想言えよ」なのかも知れねえなあ。

あーこれもどうせまた中学高校レベル現国問題なんだろうな。

受験用の詰め込み勉強しかしてねーから現実と繋がってね―んだよな―全部学歴社会が悪いよ学歴社会が―。

2023-08-28

研究ゴミからって、=俺の人権蔑ろにしていいわけではない

って分かってるんだけど、直面するたびに自己否定が止まらない

2023-08-02

anond:20230802134646

あの家に男で生まれてたらヤバかったんじゃないか、みたいな恐怖感もある。

これはたしかに恐怖だな

自己否定強要されて病みそう

似たところで過激な著名フェミのもとに産まれた男も人生ヤバそう

2023-07-16

心の性別あやふやな時期って誰しも経験あるんじゃないか

 私は身体性別女性で、性自認女性だ。しかし、自分性別に強い違和感を抱いていた時期がある。

 それは小学5年生の頃。真っ平らだった自分の胸が膨らんできて、シャツに擦れるだけですごく痛かった。初潮が始まって戸惑いながら報告したら母親におめでとう!言われた。クラスメイト女の子)に「今日の体育なんで休んでたの?生理?……(他のクラスメイトに)○○ちゃん生理始まったって」と言われた。クラス女子の間では、誰が生理が来て、誰がまだ来ていないのか、ひそやかに情報共有されていた。これは女性なら誰しも経験があることだと思う。けれど、そんな一つ一つが積み重なって、身体の変化と共に一人の女性として扱われるようになった自分ものすごく嫌だった。何が嫌なのか不明だけどとにかく嫌で気持ち悪かったし、「女になるのは嫌だ。男になりたい」とひたすら思っていた。今振り返ると、これは男になりたいんじゃなくて、「まだ心が追いつかないか身体が変化するのは待ってくれ」が正解だったと思う。ホルモンバランスの乱れと共に感情がぐっちゃぐっちゃで、女体になってしまった自分がひたすら嫌で鬱だった。

 実は当時、性的興奮の対象は女体だった。クラスメイト女子好意を抱いていたのではなく、アニメの変身ヒロインの、裸を連想させる変身シーンにどきどきしているタイプ小学生だった。なので性的興奮の対象にしていた豊かな胸やしなやかな曲線を持つ女体に、自分がなってしまうことがひたすらショックで受け入れられなかったのだと思う。ただし、クラスの中に格好いいな、好きだなと思う子は居て、その子男の子だった。クラスの人気者でサッカーが好きで、休み時間に一緒に遊ぶのがとても楽しいし、彼の特別存在になれたらいいなと憧れを抱いていた。なので、好きになるのは男なのに、性的興奮を覚えるのは女というよく分からない状態になっていた。

 それが変わったのが中学1年生の頃。これは今でもはっきりと覚えているんだけど、鏡に向かってすっかり女性身体になってしまった自分を見て、嫌だなぁとぼんやり思っていた時、「せっかく自由にできる女体がここにあるんだから自分が思う理想彼女をこの身体で作ればいいんじゃない?」と閃いた。そこからの切り替えは早かった。当時は女性らしい服装髪型が嫌だったのに、可愛い髪型服装研究をし出した。自分が着ると考えると嫌だったのに、「彼女に着てほしいならどんな服か」と考えると全く抵抗なく可愛いスカートやふんわりしたブラウスを選んで着られるようになった。どんどん理想彼女になっていく自分が好きになった。これがとても不思議感覚だったのだけど、自分のことが好きになるにつれて、徐々に男になりたいという願望が薄れてきて(たぶんここら辺で女性ホルモンが安定してきたのだと思う)、男性に対して性的興奮を覚えるようになり、性自認女性になった。

 現在社会人になった私は女性として生きている。ボーイッシュな服も好きだし、可愛い服も好き。化粧も好きだし、美容院で髪を整えるのも好き。女性である自分を嫌いと思うことはもう無い。ただし、オンラインゲーム趣味で家に帰るとそればかりしているのだけど、ゲームアバターは男で、ボイスチェンジャーで男声に変換しているので、ゲーム仲間は私のことを男だと思っている。男として扱われて、好きなゲームを一緒にするだけのその空間がとても心地よい。バーチャル世界なら自由アバターを変えられて、声も男性にできるので、本当に良い時代になったと思っている。男になりたい欲を仮想世界で発散し、現実世界では女性としての生を楽しむこの状況、自分ではわりと幸せだなぁと思っているので、あの思春期の時に思い詰めて「男になる!」と行動しなくて本当に良かったと思っている。ホルモン治療して身体を変えちゃうと、やっぱり自分女性だった、元に戻したいと願っても戻れないからね。

 あと、生理に関しては、子宮病気が見つかってジエノゲストを飲んで止めている。生理がなくなってから、気分の落ち込みや生理時の体の負担が無くなって、メンタルが安定し、「これが本来自分だ!」と思えている。この生理問題が解消されたことも、男になりたい欲が解消された理由の一つだと思ってるよ。少なくとも、今は仮想世界で男として扱われるだけで十分だ。

 思春期からこれまでを、冷静になってよくよく思い返してみれば、自分はずっと「男性に憧れている女性」だったなと思っているし、これから女性として生きていくと思う。ただ、思春期の頃に、心と体の性別が一致しないと思い込んでいたあの時期は、自己否定をずっと続けている状態で本当に辛かった。あのしんどさと、鏡の前で閃いて自分の体の性に折り合いを付けられた時の、心のもやもやバーッと晴れていく感覚は一生忘れられないと思う。実は世の中に生きている人って、誰しも多少は心の性別あやふやだった経験ある(けど表に出さないだけ)んじゃないかなって思うときが時々あるよ。こんな話、誰かにしたこといから、実際のところは分からないけどね。

 ずっと秘密にしようと思っていた経験だったから、吐き出せてスッキリした。拙い文章なのに、ここまで読んでくれてありがとう

2023-07-15

anond:20230714205336

今作は千と千尋以上にメタファー連続からメタファー込みで読み解く必要がある

例えば以下の様なメタファーがあると俺は思ってる

これでもまだ一部だけど

石⇒アメリカから渡来したアニメーションディズニー

石の塔⇒スタジオジブリ/俗世から隔絶された内的な世界

ペリカン⇒旧世代象徴/アニメ業界の古株

ワラワラ新世代の象徴/アニメ業界新人

インコ権威ジブリ)に固執する大衆メディア

インコの王⇒東映日テレ

青鷺⇒鈴木敏夫

叔父宮崎駿分身職業人、特にジブリ以降の駿

真人宮崎駿分身少年時代の駿/未来を生きていく若者達の象徴

ヒミ⇒母性象徴であり永遠の少女

まり今作に込められたメッセージ

・俗世に背を向けて内的世界に耽溺し少女母性を求め続けた表現者としての宮崎駿自己否定

・この先の未来を形作っていく若者達へ向けた「俺(たち)の真似をするな、自分自身の道を切り拓け」っていう警句

・「鈴木さんは嘘つきです」

の3本にまとまっている

ちなみに石の塔っていうのはユング心理学的には深い意味があって、今作ともめちゃくちゃリンクしてると考える

石の塔のユング心理学的な意味については以下URLがわかりやす

http://www.j-phyco.com/category2/entry54.html

駿は千と千尋の神隠しの制作の際にユング心理学言及してたはずなので、意識的に石の塔を描いたと俺は思う

今作は表層のストーリーラインだけを追うとキャラクター感情が飛び飛びで意味不明の怪作になる

2023-07-11

私自

最近調子が悪く、「自分に向き合う」ということをせざるを得なくなった。私はずっと自分直視することから逃げてきた。

幼い頃に両親が離婚し、私は母親と母方の祖母に育てられた。母は父親から慰謝料を受け取ることを拒否し、公務員として働きながら私を大学に進学させてくれた。家は過疎地帯の小さな町にあり、まともな進学が叶う高校へは片道1時間かけて通う必要があった。祖母は60歳で余命半年を宣告されるレベル胃がんを患った。寛解はしたが、体力的には勿論大きなダメージがあっただろう。しか祖母毎日5時に起き、私を起こして朝食を食べさせてくれた。

私は物質的には何不自由なく育てられた。勉強ができることを常に歓迎されたのも、私が女であることや時代地域性を考えればとんでもない僥倖だ。母も祖母も(田舎人間としてはかなり)知的好奇心教養を重んじる気持ちが大きく、そういう家で育てられたことも幸運だった。ただ、嫌なことも山ほどある家だった。

祖母は80歳を過ぎるまで苛烈自意識を悪気なく振りまき続けた。とにかく華やかなものや高級感のあるものに目がなく、目立つことが好きで驚くほどの見栄っ張り。そして私からすると異常に闘争心が強かった。祖母にとって他人は「常に勝つべきであり決して負けてはならないもの」「自分を当然に認めて賛美するもの」「自分のお眼鏡にかなうのはほんの一握りしかいないもの」と認識されていた。そして厄介なことにこのような性質を全く客観視できず、自分の考え方に沿わない人間は「馬鹿」もしくは「おかしい」とジャッジした。孫の私でさえもだ。

物心ついた瞬間から私は常に周囲の子たちと比較され、劣っている点を突きつけられた。ゆきこちゃんのように可愛らしくない。さきちゃんみたいに上手な字を書けない。ようこちゃんと違って美人じゃない。ともかちゃんのように性格が良くない。めぐちゃんみたいに明るく如才なく人と接することができない。みゆきちゃんみたいな勝ち気さがない。かなちゃんみたいに女の子らしくない。話はいつも「おばあちゃんは、ああいう子がよかった」と締め括られた。祖母の考えでは、私が奮起して「よし、頑張ってあの子を超えてやる!」とがむしゃらな努力をするはずだったのだと思う。でも私は祖母じゃない。他人と争うのが何より嫌いな、内向的人間だ。生まれたのは燃えるような向上心などではなく、凍えるような自己否定感と身を焦がすような憎しみだった。憎しみは祖母に向かい名前を挙げられた女の子たちに向かい祖母を止めない母親に向かい自分にも向かった。

はいつも祖母の虚栄心を満たす在り様を求められた。勉強ができるという点は合格、他は総じて不合格容姿趣味人間性も。私が太っていて内気で運動が苦手で片付けができなくて愛想が良くなくて放っておくと黙っている子供であることが「恥ずかしい」と祖母はいつも言っていた。大学時代一時的な過食傾向に陥ったことがある。7キロくらい太って帰省した私に、恥ずかしいから日が高いうちは近所を歩くなと祖母は言った。心配はされず、「どうしたの」「何かあったの」と訊ねられすらしなかった。私は常に祖母の虚栄心を損なう悪者だった。

肝心の学業成績も褒められたことは皆無だった。1位じゃない、満点じゃない、進学先がトップ校じゃない。それを論拠に「私の血縁者だけあって頭が悪くはないが、取り立てて優秀でもない子供」と判断された。何かができるようになると、次の瞬間には「それじゃあ次は」と言われ続けた。ゴールがない。苦しかった。

私の母は、その祖母の娘である。私が1歳に満たない頃に私の父親と別居を始め、実家に出戻った。

土地二束三文で買える田舎町にある実家敷地が広く、母屋と離れがあった。離れは母屋より小さいが、リビングとベッドルームと和室ひとつ風呂台所もあった。母はそこに住んだ。私を母屋に残して。役所勤めから帰ってきて、母は毎晩ひとりでレコードを聴いたり古い映画を観たり純文学を読み耽ったり、妻のいる男の人と長電話をしたりして過ごした。平日に私が母と会話できるのは、彼女が許した1、2時間だけだった。それが限界だったのだろう。

母が娘に求めたのは豊かな感受性、繊細さ、抑制が効いていながら豊かな感情表現、心の優しさと清らかさ、従順さ。母の心情に関心を寄せ、いつも注意深く観察し斟酌し、そこに寄り添い肯定すること。母はそれを「素直」というタームで表現した。私は小さい頃から「素直じゃない」と詰られた。自分を偽ってもいないのに素直じゃないと言われるのは心底不可解だった。4歳か5歳の誕生日、私は母からメッセージカードを貰った。「○○ちゃん、たんじょうびおめでとう。○さいのテーマは、すなおになることです」。そう書かれていた。そこから先は「素直とはどういうことか」が説かれていたが内容は忘れた。心臓が止まるかと思うほど嬉しくなかった。

母は癇癪持ちで、定期的に不機嫌の発作を起こした。自分不手際が契機となり、怒鳴られ人格否定され「縁を切る」「家から出ていけ」と言われ、数日間まともに話してくれない。そういうことが日常的にあった。ヒステリーを起こすきっかけなど何でもよかったんだと気づいたのは実家を離れて何年も経った後だった。天災のように気まぐれに降りかかる不機嫌の発作を、子供だった私は心を殺して耐えることしかできなかった。

小学校5年から学校いじめの標的になった。担任女性教師から私はすこぶる嫌われていて、ほとんど彼女の主導のもとに王道いじめを受け続けた。中学は町に一つしかなく、選択余地がなかった。その女性教師の夫が進路指導主任を務める公立中学に進学した。いじめの続きは入学初日から始まった。合計で5年間、私は一日も欠かさず死にたい死にたいと思いながら生きた。

家族に言っても碌なことにならないと子供心に判断していたが、耐えきれずに吐露したことが2回だけある。最初祖母に。「そんなのやり返せばいいだろう」と私の弱さを叱責されて終わり。予想どおりだった。絶望はしたがショックではなかった。母に話したのはしばらく後。おそらく苦しくて仕方なかったのだろう、母がいる離れの呼び鈴を夜中に鳴らした。泣きながら「もう何年も学校いじめられている」と話した記憶がある。母は私を離れの中に入れなかった。玄関先で立ち話をした。片親であることを攻撃されていると話した。「それが何だ」と母は言った。わたしなんか学生運動いちばん盛んな頃に短大に進学して、父親警官だって言ったら「お前、『犬』の娘か」って嗤われたんだから。どんなに嫌だったかお前に解るか。腕組みしてまくしたてる母を冷えきった気持ちで見ていた。

それから長い年月が過ぎた。

祖母は80過ぎで二度目の癌を患った。退院した頃から加速度的に穏やかになり、最終的には少し気弱で優しく品のいい老婆として94年の人生を終えた。亡くなる数ヶ月前に実家で倒れて寝たきりになり、帰省した私が「おばあちゃん、私のことわかる?」と問いかけると「わかるに決まってるだろう、たった一人の孫だもの」と必死に笑みを浮かべて私に答えた。帰り際には「そんなに肌が綺麗だったっけ」と言われた。私の見た目を褒めるなんて、おばあちゃん目が悪くなったんじゃないの?と笑って憎まれ口を叩き、来月も来るからねと告げて東京に帰った。それが最後の会話だった。

母は合わない職務鬱病を患い、50歳を前に役所を辞めた。その数年後には妻子持ちの男とも別れた。相変わらず自意識過剰で感情的で面倒な人だ。でも面白い知的好奇心を保っているのも心強いし、化粧っ気は全くなくなってしまったが今でも綺麗だ。私は母の顔と字が無類に好きだし、無類に好きなところは他にもたくさんある。今はそう思う。

私は中年になった。自分と向き合うことから逃げ続けたままで。

この度よくよく自分の内心を見てみたら、あまりに汚く混乱していて自分でも驚いた。段階的に補強してきた自己肯定感は思っていたよりもまだまだ脆い。自分憐れみ庇う気持ちはあるが、これを自分への愛と呼べるだろうか。するべき(と思われる)ことは容易に把握できるのに「したい」ことは分からず、なのに無欲ではない。綺麗になりたい。痩せたい。頭が良くなりたい。お金がほしい。休みがほしい。美味しいものを食べたい。俗な欲求は人並み以上だ。それを捨てることも開き直ることもできない。

脳内には14歳の私が世界万物に向かって「私に謝れ」と怒鳴る声が反響している。それを恥じて隠蔽しようとしている成人の私がいる。隠蔽しようとする私を「卑小でつまらない人間だ」と蔑視する私もいる。世界観のベースに「私は素敵な誰かの下位互換であり欠陥品だ」という根深い諦念がある。刷り込まれ規範は私の血肉となっていて、私はそれを憎悪しながら切除できない。「本当の自分」とは何か、皆目見当がつかない。

ならば、その正体不明の混乱しきった人間を許してやろうかな、と考え始めた。そしてあわよくば愛してやりたいと。

私は凡庸だ。狭量だ。いろいろと不出来だ。根気がなく三日坊主だ。いい歳して自意識過剰だ。かっこわるい。けれど、別にそれでもいい。誰に馬鹿にされても見下されても、私は「なんでよ、別にいいじゃん」とケラケラ笑いながら私自身を全力で抱きしめる。

それは、世界でただひとり私にしかできないことだからだ。

2023-06-26

anond:20230626032943

本来はともかく、いまのフェミニズムはそういう思考とは真逆で、「わたし被害者で正しい存在です!」だから自己否定とは相性悪いよ。

 

"性に奔放だったのはわたしの望みではなかった"とかいう話をしだすなら、フェミに行くこともあるだろうが。それは奔放っていうより、借金のためにウリやってたみたいな人だろうな。

2023-06-25

元カレに、「俺が好きなあなたのことをあなた自身がそんなに否定しないで欲しい」的な事を言われて、でも当時の私は何を言っているのかさっぱり分からなかったのね。

こう言われた経緯はあんまり覚えていないけど、当時の私は自己評価は低くあるべしと思っていたし、実際に自分のことを本気で無能で無力で生きる価値がないので死ぬべきと思っていたし、天涯孤独ならすぐにでも死ぬけど母に娘が自殺した母親レッテルを貼らすのは忍びなかったから屍のように生きていたニートのような時期であった。

あれから5年以上たち、まあ私もあの頃よりは精神的成長も果たし、就活就職を経て価値観も大分変わりまして、あの頃のような自己否定感は別に持っていなくて、あの頃の私が何を考えて生きていたのか思い出せない。

なんか取り留めもない話だけれど、思い出したから記録しておこう。

2023-05-31

リモートワークのいいところ

今年度から出社回帰流行っている昨今の社会情勢だが、それについて行けなくて脱落しそうだ。

私はリモートワークに救われている方の人間で、就職当初から週5完全出社などにかなりの無理を感じていた。新型コロナ流行時に会社は完全リモートに移行したが、元々私は極端な引きこもり、かつ社会不適合者であったので、その点に関しては問題なかった。

たがこの間、私が元々抱えていた抑うつ状態は加速的に悪化し、それへの苦しみ自体がまたストレスとなり悪循環を産んでいた。

相手不快感を与えてしまうことを恐れ人に顔を見せられない。買い出しが必要なのに玄関までか遠く感じる。好きだったはずの趣味が手につかない。ゲームを遊んでも味気かなく数分でやめてしまう。雑念と疲労感を嫌い風呂に入れない。

しかし、そのような状況でも休職はせずに済んだ。ひとえにリモートワークの普及のおかげだ。リモートワークならば相手自分臭いが伝わることはない。体調が優れず咳が出ていてもミュートか使える。人に見られるのが不安ならカメラを切るか、アバターにしてしまえばいい。人の言葉を過剰に悪く解釈してしまい、自分の情けなさに涙が出てもそれがバレることはない。

リモートであるからこそ、社会不適合者であっても体力と精神が擦り切れる限界まで戦えるのだ。

もしリモートでなければ、今頃無職になり実家自己否定に苛まれ続ける地獄のような日々が待っていただろう。

だが昨今の出社回帰空気により、それが近いうちに現実になるのではないかと思うと怖くてたまらない。

2023-05-17

anond:20230517105805

プレイヤーがまだ分別のつかない子どもなのも危険よな。

子ども時代選択って重要だ。

例えば宿題を毎回ギリギリまでやらない子どもは、

特別矯正なしでは大学レポートだってギリギリ提出だし、仕事も締め切り間際に苦しむような人生を送る。

彼にとって課題を早めに提出するのは成長じゃなくて自己否定なんよ。

過去自分自身他人のように感じられる人生は誰だってイヤなもの

から自己否定しないように自己否定しないように、時を重ねていつの間にか大人になって、気付いた時にはもう直せない。

苗木が支柱に沿うように生長するのと同じだ。支柱が真っ直ぐなら真っ直ぐに育つし、支柱が歪めば歪む。

ポッと出のフローラを選ぶなんて、人間のクズだと薄っすらと思ってた。

結局、

幼馴染で関係値が高くて、我が強くて主体性のあるエネルギッシュなビアンカよりも

大人しくて男性に都合のいい女っぽいフローラの方を選ぶのか。

フローラを選んでしまった子どもフローラを選んでしまった人間になると思う。

2023-05-07

まれてこなければよかったね

DVみたいな家庭だと気づいたのは、二十歳を超えてからだった。

両親は、ふたりとも高校教員で、小学生の頃から厳しい教育だった。勉強についてはことさらだった。

私は九九の七の段が苦手だった。学校宿題で出された百ます計算で、七の段があると一度は間違えてしまっていた。目ざとくそれに気づいた数学教員だった父親は、椅子に座ると私をその前に立たせて、九九を一の段から暗唱させた。

一度間違うと、目の前の父は明らかに機嫌を悪くした。

「違う。もう一回やりなさい」

二度目に間違うと、どうしてわからないのか、というイラつきを見せ始める。

「違うだろ」

三度目に間違うと、いよいよ張り手か拳が飛んでくる。加減は一切存在しない。叩かれた顔が痛み、脳が揺れる感覚意識がぐらっとする。

「何回間違えるんだ!?

痛さと恐怖でそのつもりがないのに涙が溢れる。そうすると、父はますます不機嫌になる。

「なんで泣く?お前が悪いんだろう」

台所で洗い物をしている母は助けてはくれなかった。後になって、叩かれた顔を心配するそぶりも、私の記憶の限りではなかった。

 

母は、私の勉強の内容もそうだが、態度や姿勢についても常に口を出してきていた。

自己啓発本教育本を私に与えて、私が自分でやる気を出すように”仕向けて”いた。私の娯楽も全て監視して、私がなにか趣味を見つけるとそれを排除しようとした。

※ここで言う「趣味」は、母親が気に食わないあるいは不適切で頭が悪くなる、と思っている趣味のこと。ゲームアニメテレビ、友人と遊びに行くことも制限されていた。

貯めたお小遣いで少しずつ買い揃えた好きだったアーティストCDを、階段の上から下に投げ落として壊されたこともあった。

 

両親はどちらも「自分の不機嫌さをアピールして周囲をコントロールしようとする」人間であった。

 

父は機嫌を悪くすると、まず物音を大げさに立てるようになる。冷蔵庫や扉をバン!と閉め、机に物をドンガチャン!と投げるように置き、そして気に障ることがあると机の脚を蹴ったり天板を叩いたりする。

また、大きな声で怒鳴るように威圧する。酷いときは手近なものを壊したり、人に手を上げたりする。そうやって周りの人間に威嚇して、思い通りに動かそうとする。

 

母の機嫌が悪くなると、まず聞かせるようにため息をつく。家の中を大きな足音を立てて早足で歩き、ため息の頻度も音量も上がる。父よりも危険性は少ないが、より陰湿だな、と思う。

また、母は典型的な「お母さんヒス構文」の使い手であった。

 

https://youtu.be/cQG5j8hdfUE

 

今年1月にこのラランドさんの動画を見て、身に覚えしかなくてしんどくなったのを覚えている。

 

母は、この動画内で紹介されている5つの型のうち、ほぼすべての構文を使いこなしていた。

特にひどかったのは「論理飛躍型」・「自己否定型」のふたつで、今までこれを言われるたびに、昔の私は必死母親の機嫌をとっていた。(今になって考えるとバカバカしい)

 

紹介したように、両親はよく暴言(やそれに近い類の言葉)をよく私に浴びせた。私には兄弟がおらず、また言われたことを相談できるような相手もいなかったため、ただ自分の内に溜め込むしか手立てがなかった。

過去に言われて、未だにフラッシュバックしてはどうしようもない気持ちになる言葉を以下に列挙する。

 

・お前はどうしてこうも馬鹿なんだ

・どうせお前にはできるわけがない(馬鹿にするように笑いながら)

・早く出て行け

・もう帰ってくるな

・お前なんて死んでしま

・育て方を間違えた

・お前はどうなってもいい

 

書きながら若干辛くて涙が出そうになった。

おそらく本人たちはそれを知らないだろうし、言ったことを覚えてもいないと思う。言われた私だけが、ずっとこの先もこの言葉たちに苦しんで生きていくのかと思うと、やりきれない。

 

中学高校先生に「悩んでることはないか」と聞かれることがある。特にありません、と私は答えた。

親の言うことを聞かないと暴言暴力が飛んできます、とは言えなかったし、どういうわけかみんなそうなのだと思っているフシがあった。

 

高校生の時に今でも一番信頼している二人の先生出会った。おふたりとも、私の父と一緒に働いた経験があって、父と私のことをよく気にかけてくださっていた。はっきりと明言はしなかったが、父のやや高圧的な態度をよく知っていたのだと思う。

ちょうど受験期に入ってますますエスカレートしていく両親の過干渉具合の相談は、この二人の先生しか話すことができなかった。

(3年生のときはこのお二人とは別の先生担任だったが、その先生は母とタイプが近く、正直あまり信頼していなかった)

学びたいこととか将来の夢とかでなく、ただ両親から離れて逃げるために都会の大学に行きたいのだという正直な理由も、お二人は納得して聞いてくれた。

 

出身地を離れた大学に進学して一人暮らしを始めてから、明らかにストレスが減ったのがわかって、いままでどれだけの脅威にさらされていたのかと実感した。自由に出かけて、自由勉強して、自由に休んで自由活動した。そのどれもがとてつもなく楽しくて有意義ものだと思った。

趣味が合う友達もできて、修学旅行以外で初めて飛行機に乗って遠征したりした。趣味で本を書いたり、デザインをしてみたりした。合わなかったりできなかったこももちろんあったけど、やってみよう、というチャレンジを端から否定する人はいなかった。それがとても幸せなことだと思った。

 

昔母が私に言った、「産まなきゃよかったね」という言葉をたまに思い出す。冷静に考えれば勝手に産み落としたのはそちらだろう、という感じなのだけど、言われたときの私は相当にショックを受けた。

 

そうか、望まれて生まれてきたわけじゃなかったのか。

だとしたら、親がこんなに自分に対して当たりが強いのも、なぜだかすとんと納得できてしまった。

 

しつけのような形で父が首を締めてきたこともあった。近くにいた母は父がふざけているだけだと思ったのか、止めようともせず見ているだけだった。

苦しむ私が必死にやめて、離してと叫ぶように言っても離してくれなかった父の手の感触を、今でも思い出せる。

 

多分きっと、全部忘れているだろうけど。

宝くじに金をつぎ込む奴らは、自分が何者であるかも分からずに生きている。

彼らは自分人生責任を持たず、運命にすべてを委ねている。

それが彼らの夢だというのだろうか?

それは夢ではなく、現実から目を背ける逃避行動に過ぎない。

彼らは自分可能性や才能を信じず、自分で道を切り開こうとしない。

彼らは自分存在意義価値観を見失っている。

それが彼らの幸せだというのだろうか?

それは幸せではなく、自己否定自己嫌悪の表れに過ぎない。

宝くじで一攫千金を狙う奴らは、本当に自分が何を求めているのか分かっていない。

彼らは自分の心や魂に向き合わず、金や物で満たそうとする。

それが彼らの理想だというのだろうか?

それは理想ではなく、空虚欲望の罠に陥っている。

宝くじで夢を買っていると言う奴らは、自分が何を言っているのか分かっていない。

彼らは自分の夢や希望に気づかず、他人社会押し付けられたものに流される。

それが彼らの選択だというのだろうか?

それは選択ではなく、無意識無気力の結果に過ぎない。

宝くじ幸せになれると思う奴らは、自分が何を感じているのか分かっていない。

彼らは自分感情感性に鈍感で、本当の喜びや悲しみを知らない。

それが彼らの人生だというのだろうか?

それは人生ではなく、死んだ魚のような存在に過ぎない。

2023-04-29

[]ザ・スーパーマリオブラザーズムービー

総評

130点ヤッター! 点数の基準は「上映時間映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。多分世間では娯楽映画という評価であり、事実娯楽映画なんだけど、ゲームという文脈においてガチだった(この辺後で詳細語りますわ)で130点なのでした。

130点の理由

見終わった瞬間、あれ、この映画って存外、なんか手堅くまとまってて100点くらいなのかな? 娯楽映画としてよくできているけれど、やっぱ弱点はあるよね、とは思ったのです。

主人公マリオの悩みみたいなものも、その克服も描かれてはいたんだけれど深い描きというよりはあっさりと乗り越えたし、アクションシーンの出来はどれも良かったんだけどアクション娯楽映画ありがちな失点として、アクションシーンの連続になりすぎて、ドキワク感が全体でのっぺりしちゃったところは実際にある。

あと、これはフォローしがたいけどエンドクレジット後のおまけカットみたいなの(2種)は蛇足感があった。

でもそうやって、脳内で「映画減点表」みたいなのを作り、同時に「映画加点表」みたいなのもあり、合計計算して出てきたスコアは100点だったんだけど、見終わった感情的満足感は130点だったんですよ。ズレが有る。

こういう映画ってたまにあって、それは自分言語化できてない、なにかスペシャルな要素があるって証拠だと思うんですね。

じゃあその+30点どこから出てきたんだよというのが、この感想を書いた理由です。

勇気を出して挑戦する、というテーマ

主人公マリオニューヨークで配管工業を営む青年。作中はっきりとは語られてないけれど、イタリア系移民大家族暮らしていて、年齢は20歳ちょいなのかな。新卒で入った会社を飛び出して、弟ルイージを巻き込み、いきなり配管修理事務所を起業して、全財産を叩いてCMを流したところから物語は始まる。

会社を飛び出した経緯の詳細は語られていないけれど、「何をやらせてもダメ」「できることがない」とモラハラを受けていたフシがあり、マリオは「自分は役立たずなんじゃなかろうか」「いいやそんなことはない、やればできるはずだ」の二つの気持ちの間で揺れている。

おっかなびっくりだし、確信はないし本当は自信だってないんだけど、ルイージに対してお兄ちゃんぶりたい気持ちだけはあって、まぁ虚勢を張っている。

映画になって肉付けされたこマリオ像ってのは、結構好感度ありました。

主人公マリオのもってる「自分は役立たずなんじゃなかろうか」なんて悩み、誰にでもあるじゃないですか? はっきり言っちゃえば、具体的な問題の表出は違えども、全人類の99%が成長過程の中で経験するものでしょう。

それにたいして「やればできるはずだ」っていう根拠のない自分自身の鼓舞だって、誰でもやるでしょう。

これらは映画を含む既存ストーリーメディアでは、勇気とか挑戦とか言われるたぐいのテーマ類型です。この類型は多くの、それこそほとんどすべての物語作品で見ることができます内面問題弱気を乗り越える勇気の話は、物語作品王道ですから

歴史上、ストーリーメディアはそれに対して勇気づけるための物語を何千何万と語ってきた。美しくまたはおぞましく、ハラハラ・ドキドキするような物語をたくさん作ってきた。「勇気を出す理由」「その褒美」について、あらゆる物語が手を変え品を変え洗練したストーリーを紡いできた。

そういう歴史あるテーマ歴代傑作の洗練に対して、この映画エピソードづくりや演出最高峰かというと、そんなことはない。マリオの閉塞感もその打開も、徹底的に演出されているわけではない。もちろん赤点ではないんだけど、その部分で言えば「凡庸ファミリー映画」ですらある。

でも正しくそこがこの映画の中心なのです。

たぶん「それ」が、映画としての物語性や演出を厳密に評価した評論家一般ユーザーの間で、この映画評価が真っ二つに別れちゃった理由だと思うのです。

ビデオゲーム

あらゆる人々の実際の人生における、自信のなさ、不安感、でもそのなかで勇気を振り絞って、はたから見ればどんなにくだらなくてもその当人にとっては難題である目の前の課題に挑んで見る――そういう勇気に対して物語メディア物語としての洗練や感動をもって応援してきたわけですが、じゃあそれで現実の人々の不安感や自己否定ちゃん払拭できたかといえば、そうではない。物語の大好きな自分は、それでも物語のない世界は暗闇だと思うわけですけど、世のすべてが照らされて現実問題駆逐されるなんてことはなかったわけです。

でも、全く同じ問題に対して、ビデオゲームは別の方法論で挑んできました。

それは成功体験です。

問題点がある。失敗する。ゲームオーバーしてしまう。つらいね、くやしいね。でも何回かやってみようよ。工夫してみようよ。ほら!さっきよりいい感じ!よし!一個クリア!先に進めた!すごい!ほら、つぎの課題が来たぞ!ジャンプだ!パンチだ!やったぞ!進めたぞ!!

そういう、課題と克服、工夫や練習での突破、つまりは直接的な成功体験で、「キミはできるんだ!」と全存在で訴えかけてきてくれるわけです。ビデオゲームをする人にはあまりにも自明で、やらない人には分かりづらいかもしれませんが、任天堂のみならずすべてのビデオゲーム本質はこれで、これでしかないんです。

何か挑戦すべき課題突破するべきステージでも強敵でも生産目標でも集めるべきコインでもなんでもいいですけど、課題があって、それは最初は難しくて無理かもしれないけれど、ゲーム世界調査して構造を知り、工夫して、練習すれば、達成していける。

努力すればなんとかなる」。

そのことを、人間の子守では到底無理なほどの忍耐(なんせ機械なので)で、何千回でも、何万回でも人間の子どもたち、時には大人にも付き合ってくれた。それがビデオゲームの達成した最も尊い部分だと思います。「レベルを上げる」「レベルが足りない」という今や日常会話でも違和感なく使えるこのフレーズには、「いまは無理でもいずれできる」「できるようになるはずだ」という、生きる上で本当に重要価値観が込められていることがわかるでしょうか?

スーパーマリオ歴史ってほぼイコール、家庭用ビデオゲーム歴史です。そして、ビデオゲーム歴史は、「挑んでみなよ!なんとかなるよ!」というメッセージ歴史なのです。任天堂こそは、それを声高く叫び続けるゲームデザインをしてきた企業でもある。

諦めないという、その尊さ

前述のように、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は既存物語メディアの、少なくとも映画文脈で言えばそのシナリオ演出が傑作に達していないかもしれない。でも、そこにビデオゲームという別の文脈が持ち込んである。そしてそのことに制作陣は自覚的です。

まり、彼らはわかっていて、わざとそう作ったのです。マリオ任天堂と、そしてなにより地球で生まれて40年になるビデオゲームという新顔の娯楽を本気でリスペクトして作ったのです。

マリオは作中「諦めが悪い」「しぶとい」とピーチ姫などに評されます。実際、マリオ映画終盤になっても結構ミスをする。敵の攻撃を食らってパワーアップが解除される、しかも頻繁に。

それをマリオは「スマート物事解決できない」という評価だと受け止めてちょっとしょぼくれたりもするのです。が、とんでもない。

それは「ミスをしてもなげださない」という意味であり、「ゲーム主人公」として、そして「マリオを操るプレイヤーとしての我々」としても、それは最上級の素質です。

そう考えてみると、この映画白眉は序盤、キノコ王国にたどり着いたマリオピーチ姫への同行許可を得るために、練習コースに挑戦した部分だったと思い出されます

マリオは何十回も何百回もミスをする。回転する棒にビビって飛び込めない。移動する床をうまくジャンプできない。ブロックを壊そうとして目測を誤って落下する。

そういった失敗は『スーパーマリオブラザーズ』をプレイしたことのある人々にとっては、あるあるだし、わかるし、お前もか……。なわけですよ。

でも同時に、それを何十回も繰り返せば、あんなに難しいと思えた難所もクリアできるようになるし、ピーチ姫が疲れて寝ちゃった夜中もずっとプレイして、ミスを繰り返して、ヒャッフゥ!と突破できるようになるのもまた、自分自身のことのように、わかるわけです。

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』における「課題勇気、挑戦」はそのようなものなのです。だからブルックリンクッパが現れたって絶望したり家族が死んでスーパーパワー覚醒したりする必要はありません。映画的な意味での過剰なドラマ表現をしなくても、マリオは「やるぞ!」とちゃん理解できるのです。

ビデオゲームが産まれ、親しまれ、市民権を得て、もはや一般的な共通理解となった現代社会において、視聴者理解感覚はもうその段階まで達している。だからこそ映画ドラマの形を拡張して、巨大なリスペクトを持ってゲーム文脈を抱きかかえることができた。

映画ゲームも大好きな自分として、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はそのような映画であると受け止めました。

+30点はあるよ、ちゃん実在するよ! 家族が死んだり国が滅びたり医師生命を失ったりしなくても、そんな悲劇がなくても、僕たちはちゃんと「攻略してやればクリアできるんだぜ」という、穏やかに前向きな価値観ゲームから予め受け取っているんだ。そういう意味で、とても良い映画でした。

クッパ大王リサイタルはとても可愛かったしね!

2023-04-23

他責のススメ

自己責任論が広く叫ばれる昨今の日本社会で、自責を過度に重視し他責非難する風潮が見受けられる。しかし、そうした考え方が社会福祉個人精神的安定に悪影響を及ぼすことも少なくない。本稿では、自責批判他責を再評価する視点から日本社会自己責任論への問題提起を行う。

まず、自己責任論が生み出す過度な自責意識は、個人ストレス精神的苦痛につながることがある。自己責任論は、問題や失敗があればまず自分を責めるべきだという考え方を推奨する。この考え方は自己改革向上心を促す効果がある一方で、過度に自分を追い込む結果を招くことがある。例えば、努力してもうまくいかないことがあるが、それを自分のせいだと自己否定に陥ることがありうる。このような状況はうつ病自己肯定感の低下につながる。

他責の再評価により問題や失敗に対する対処が柔軟になることが期待される。他責により自分以外の要因や環境考慮することで、問題解決に向けて新たな視点を持つことができる。例えば、自分の失敗や問題を周囲の人々や状況、制度などの要因と捉えることで、自分の力だけでなく、他者の力も借りることができるようになるのである視野が広がることで、問題解決方法も増えるのだ。

仏教の教えの中で、他力という言葉がある。他力とは、自己の力だけでは解決できない問題に対し、他者や仏の力を借りて救済を求めるという考え方である。この他力の考え方は、自己責任論に対する有益示唆となる。自己責任論が過度な自責意識を生み出すのに対し、他力の考え方は、他者環境との関係性を重視し、問題解決への道を広げてくれる。他力を受け入れることで、自分だけでなく、周囲の人々や環境と協力し合い、互いに支え合うことができるようになる。また、他力を受け入れることで、自己責任だけでなく、他者環境への責任意識し、より良い社会を形作ることができるようになると考えられる。

結論として、過度な自責批判し、他責を再評価する視点は、日本社会における自己責任論の問題点を浮き彫りにする。仏教の他力の考え方を参考に、自己だけでなく他者環境との関係性を大切にすることで、個人精神的安定や社会全体の福祉が向上することが期待される。今後の日本社会においては、自己責任から脱却し、他責の再評価と他力の考え方を取り入れることがより良い社会を築くための重要な鍵となる。

2023-04-04

anond:20230402141536

芸術方面に進んだ人が、専攻してた芸術を嫌いになるのは当たり前な気がする

芸術方面に進む人って今まで「得意だったから」というより「褒められたから」なる人ばっかりなんだよね。

それで大学に行くと何が起きるかって言うと、とにかく「貶される」「修正される」ことだけで、褒められることが無くなる。

芸術自己表現でもあるから自己否定されまくる感覚になるし、旧態依然とした講師にあたると技術は教えず人格否定するだけみたいな奴もいる

社会に出てもそれが変わるわけでもなく、トップレベルでない人間フィードバックと言う名の自己否定をされまくる

そこで「自己」が認められるジャズとか、所謂亜流文化に移るのは自然だと思う。

2023-03-26

なのにそれができない人間ほどお気持ちで動きたがる

お気持ちで動いていいのは自分に不利な選択自己否定を何の躊躇もせずできる人間だけ

2023-03-11

自分だって愛されてみたいよ

家族から愛されて育った自己肯定感の塊みたいな人が「頑張ることもなくのびのび生きてたら、思いもよらずこんな自分を全肯定で愛してくれるパートナー結婚することになりました!」とか言ってるの見ると頭が変になりそうだ

自分はこんなに必死家族トラウマ自己否定感を払拭しようとひとりぼっち20年は頑張ってるのに、そんな幸せ気持ちがずっとほしいのに、ずっとつらいまんまだよ

寂しいし悲しいよ

その在り方に相応しいごく当たり前なことが起きてるだけってわかってても、自分が一番渇望してるものを他の人が息をするように手に入れる姿を目の前に何度も見せられるのは、つらい

自分じゃない人、おめでとう

2023-03-07

anond:20230307035701

政治家必要な実行力には、女性生得的に持ちやすい全方位の共感性が妨げになりやすいからな

問題解決のために共感感情を抱く範囲を適切に絞ってパフォーマンス(演説)する挙動は、女性からすると欺瞞的で信用ならないオスを選別するときセンサーが働くし

その挙動自分がするということに自己否定感が働いてしま

それを回避するために、女性自己暗示ないし洗脳状態に自らを置くのが常道となる

実際に政治的プロパガンダができる女性というのは、何らかの主義主張宗教などにのめり込んでいる状態のことがほとんど

2023-02-15

anond:20230214190136

創作だとは思うけど、優しくしてくれた女性逆恨み感情が沸き起こるのは、男性なら「あるある」だと思う。


男性女性から評価プライドアイデンティティの源泉になっているので、評価してくれと思ったら実は違った、というのは男の心をズタズタにする。いじめ自己否定感情を募らせている人間はなおさら


別の例で言うと、プロ野球スカウトからさんざん褒められて、すっかりその気になったのに、ドラフト指名してくれなかった、というのに近いかな。

2023-01-28

anond:20230128222618

自覚なきロリコン』を失念してるぞ。

娘がいるのをオープンにしてると、ロリコン男が寄ってくる確率は増えるだろ。もちろんロリコン男の中には自分制御できるロリコンもいるだろう。

でも性犯罪が紛れこんでくる可能性は低くても、上昇するのは確かだろう。

前提がおかしいゆえに論理が正しくとも、このような誤った結論になる。

多くのロリコンは長い人生の中で自分の中に芽生えた人々に忌避されてる欲望と向き合ってきた。精神が未熟な少女に対する、一方的性愛感情自分自身のアイデンティティに近い本能的な欲求社会要請を擦り合わせるために、とき自傷的に、とき自暴自棄になって、自己否定感と戦って生きるための術を身につけてきた。まさしくそれこそが「理性」だ。強力なバリケードがあるからこそ野獣を抑えられる(この説明は性欲を邪悪視したロリコン嫌悪的な、現在世間向けにシンプル化した、厳密さを欠く図だが)。

自覚なきロリコンは違う。彼らは知らず付き合ったシンママの娘と初めて出会ったとき覚醒する。眠っていた野獣が目を覚ますのだ。バリケードもないままに。解き放たれた野獣はあなたの大切な娘を喰らうだろう。良心の呵責もなく。

自分自身の思いもよらない暴力性を目の当たりにして、混乱しながら。


ロリコン一般男性のどちらが危険か。自覚なきロリコンはどれくらいいるのか?

その答えは誰にも分からない。だから危険なのは性犯罪者だ、としか言えない。

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