はてなキーワード: 能楽師とは
去年
https://anond.hatelabo.jp/20200101232410
を書いた増田です。
去年は散々な一年でしたね。
私も、去年は個人的にも色々と散々な年だったんですが、そんな中でも「年始には半分釣りでタイトルつけたけど、ほんとに人生変わったかも」と思うところがありました。
まぁ正確には、変わってきたかも、、、?ですが。
以下つらつらと書いていますが、まとめると
「100分で名著とは別のジャンルで、去年実感した「知識がつながって読めるようになる」が再現できた」
それでいて、
それによって、去年一年で少し世界が広がったと思いますし、それでいつつ、本業で必要な知識の深化も出来たと思っています。
これが何故出来たかと言うと、一昨年本業と関係ない本を100冊読むという行為をしたメタ効果じゃないかな、と思うわけです。
以下詳細。
いきなり自分語りスイマセン。
去年もちらっと書きましたが、私は趣味の一つとして持久系スポーツをやっています。
レベルとしては社会人アマチュアでは上位1-2%くらいには入っていましたので、まぁまぁ本気の趣味です。でした。
が、一昨年(2019)の末に足をボキッとやりまして、都合4ヶ月ぐらい走れませんでした。
長い時間をかけて鍛えてきたものが為す術なく失われるのを見ているだけという喪失感は中々きつくて、だいぶメンタルやられました。
の上、御存知の通りコロナで夏以降の大会も全て中止、日常復帰後の練習モチベーションも上がらず正直一年で別人レベルまで体力落ちたと思います。
健全な肉体に健全な魂が宿る、あれは「だったらいいな」という話らしいですが、少なくとも肉体が「健全でなくなるカーブ」を描いているときには魂も降下カーブを描きますね。
振り返るとマジで生活全般にやる気の出ずやっとメンタルが上向いてきたのが晩秋ごろ、という一年でしたが、唯一分量を維持ないし増加させられた生産的アクションが読書でした。
結構これに精神的に救われていた部分もあると思います(クソみたいな1日だったが一応本は読めた。。。と言う感じ)。
春頃はもう死にたいとか思った瞬間もあった気がしますが、今は寝たきりになっても少なくとも本は読めるな、という心持ちでいます。
気持ちがどんだけ落ち込んでいても、ベッドの中でできる生産的活動がある安心感があるという感じです。
100分で名著解説本で掴んだペースを維持したかったのもあり、読書の方向性を広げる方向として去年はNHK出版のテキストを中心に選びました。
本の物理的サイズ、厚さ、章毎の分量等々が似ていたからです。(これは今まで読んでいた場所、時間、等々がそのまま続けられるということです。)
あと、NHKが好む文化人というのは大体決まっているので、百分で名著シリーズで知っている人が著者だったりして安心感あります。
結果読んだ数(下記しますが、28冊)が物語っていますが、良かったです。
NHKは番組内容とか受信料であれやこれや言われることもありますが、教育系のコンテンツは極めて良質だと思います。
前置きが長くなりましたが、特に読んでよかったのが宗教の時間シリーズです。
最初の7-8冊程度は、これは求めているレベルを超えている、九分九厘内容忘れるなと思いながら読んでいましたが、
これも何冊か読んでいうちに「知識がつながって」読めるようになってきました。
この年になっても、何かを身につける、学ぶことができる。それは読書による独学だけでもある程度可能である、ということは個人的に心強いメタ経験になっています。
逆に言うと最初の数冊はほぼわからないままなので、数年後また一気に読み返したいですね。
去年は、自発的にはまず読まないであろう本も、読んでみたいと思っていました。
そのための方法として、友人におすすめの本を聞くという方法を取りました。
また、一週間以内くらいには実際に読んで感想を伝えて内容についてやりとりするというマイルールを作りました。
これによって狙い通り、新しい関心フックが幾つか作れましたが、想定外の効果としてある程度親しくなった人とさらに距離を縮める手段としてかなり有効だったように思います。
一昨年以前の私だったら、それが有効だと知っていても負荷が大きかったでしょうが今なら別に無理せずやれる、むしろ楽しい、というところがポイントです。
今のところ猛烈につまらないものを紹介してきた人がいないのもありますが。。
何かについて知りたいと考えた時、ネットで検索するという初動は変わりませんが、さらに知りたいことがあるor体系化したいor記憶への定着率を挙げたい時、本を読むというアクションが自然に追加されました。
また、読書をするにあたって、ちょっとした障害になっていた事が怖くなくりました。例えば下記のように。
・中断:面白そうな本を見つけたらそっちを読み出してしまう。中断してもまた一週間もしたら読めるのだから。もし中身忘れていたら都度振り返ればいいのだから。とシンプルに考えられるようになりました。自由です。
・積読:いま読めなくても恐れることはない、そのうち読めると素直に考えられるようになりました。流石にそろそろ消化に一年ぐらいは掛かりそうなくらい本が積まれていますが、現在のところ三年後の自分を信じられます。
・読書履歴・読書キュー汚染:穏やかでない単語を使いました。これは要するに「話題になっているけど、こんな俗っぽい本を読む時間を~もっと重要な本が~」とか考えなくなったということです。気になったら読みます。
これらって結局全部やらない言い訳だと思うんですが、単純に読書に対する心理的ハードルを下げて読書量で解決するというパワープレイ(一昨年の私比)が可能になりました。
一昨年解説本を100冊読んだのは運動部一年生がやるような練習のための練習だと書きましたが、あれはそんなに外してないなと今でも思います。
百分で名著シリーズ:12冊(2021年1月分の「資本論」も、もう読みました)
で、個人的に出色なのは教養系の読書がたっぷりできたことより、仕事の本がたくさん読めたことです。
去年までは年間7-8冊ほど読んでるかな?という感じでした。
ところが、今年は読書に占める仕事本の割合は減ったにも関わらず、倍以上読めました。
本を読むという行為自体がスムースになったと言うか、「仕事の本は(趣味・教養の本より)重要である」という心の中の序列がどうでも良くなり、いつかは読めるのだから、になった効果だと思います。
はてなあたりで使われがちな「文化資本」「分断」あたりの用語の社会学的なバックボーンについて理解できました。
はてブ見てると「社会学者って、、、」と思うシーンも多いですが、必要な学問だと捉えなおすいい機会になりました。
面白くない話として社会を伝えて分析するのが社会学、という分類はなるほどと思いました。
逆に言えば、美しい弱者、貧者のストーリーなんかばっかり見ている人は社会学者とは言えないのだなと。こういう人はてブあたりでよく見る気もしますが。。。
年末だったのもあり、久しぶりに放送の方も全て見たのですが、やっぱりできたら放送も見るべきですね。
解説本の著者の言いたいことが、スルスル入ってきます。それと、伊集院光さんやっぱすごいなと。ああいうレスポンス返せる人間になりたい。
能楽師の安田登氏解説の古典説明本です。下記する「史記」でもそうですが、
漢字の成り立ちに纏わる深い知識(今ある漢字が成立した年代には開きがある)から独特な解釈をされています。
これが真実なのかはわかりませんが非常に興味深く、この著者の著書をあたったり、この視点で更に歴史を追ってみたいなと思わせてくれる本でした。
安田登氏の能舞台も見てみたいと思ったのですが、昨今の状況では難しいですよね、、、今年あたり何処かで見に行けるといいな。
タイトルのとおり、経典や歴史的事件ではなく残っている手紙から親鸞聖人の人物に迫ろうという趣旨の本です。
上記したとおり「何冊か読んだ効果」が大きいのでしょうが、これ読んで、はじめて浄土真宗わかった気分になりました。
ちなみにうちは曹洞宗なんですが、曹洞宗はいまのところわかったと思う瞬間がないです、、、
観無量寿経をベースに、浄土系の教えが中国~日本で花開いていった過程を追った本です。
私が読んだ中では最も単独で理解しやすく、去年おすすめした「集中講義・大乗仏教」と合わせて読むとより日本仏教の流れが理解できるかなと思いました。
宗教の時間は多くが前後編の2冊構成なのですが、1冊構成なのも読み返しやすくて良いです。
著者の釈徹宗さんには、もっといろんなお経の解説書を書いて欲しい、、、!!
単純に、日々の話題の元ネタとして興味深くまた著者が「面白い人」であると感じてとても読みやすかった。
独立した章立てで分割した読書もしやすく、何方にもおすすめできる本だと思います。
子供向けに実施された19世紀の科学講義を書籍化したもので、科学レクチャーの傑作と言われているそうです。
当時はプロジェクター等も無いため図があまりなく、正直、本として読んだだけでは当時の雰囲気を十分に味わうことは出来ないかと思ったのですが、
ファラデーという当代最高の学者がが全力をもって子供たちに科学の楽しさを伝えようとしていることはとても良くわかりました。
去年は西欧文明というか西欧社会の限界的なものが色々見えた年かなとも思うのですが、ソロモンの指輪もそうですが、こういった本を著した方々が繋いできたものはやっぱり尊いなと思います。
100分で名著の解説本を読んでから、絶対に読もうと思っていた原典の一つ。
下記の、薩摩焼窯元めぐりと合わせて水俣に行く前に読みました。
内容については私が今更感想をいうのもあれなんですが、「読む前と後で違う自分になっているような気がする」読書体験ができる数少ない本の一冊と思います。
あとがきにある通り、書かれていることは読んだ印象より遥かに創作の比率が高い、ということを差っ引いてもこれは日本人全員が読んだほうがいいんじゃないかと。
恥ずかしながら初・司馬遼太郎でした。焼き物が好きで窯元めぐりも趣味なもので、薩摩焼の里をめぐる前にと思って読んだんですが、面白かったです。
声に出して読みたい日本語というか、何でしょう、文章がうまいと言うより文章の響きが格好いいというか、流石昭和の大作家ですね。一気に好きな作家リストに載りました。
今、ちょっと重めのものもと思って坂の上の雲もちょっとずつ読んでいます。
タイトルの付け方も最高にうまいですよね、、頭にのこるというか。
2019年11月にシリーズ待望の新作が18年ぶりに発行された十二国記。私はとても楽しみにしていた。なぜなら18年前に発行された本の終わりが謀反で姿を晦ました泰極国国王の驍宗を探しに麒麟の泰麒が旅を始めるところで終わっていたからだ。ご存知ない方に説明すると『十二国記』とは小野不由美による古代中華王朝風ファンタジー小説である。題名の通り12の国がありその一つ一つに王とそれを選ぶ麒麟という神獣がいる。この両者の関係は何人とも立ち入れないものである。
今日のオタク界隈でときたま物議を醸すお気持ち表明。それらをお気持ちならお気持ちらしくご自分の胸にしまっては?と冷笑してきた。そんな私がなぜこうしてお気持ち長文を認めているのかについて長々とお気持ち表明するのでお付き合いいただきたい。
十二国記を元にした古典翻案新作能をやると聞いてワクワクした私は演目を見て仰け反った。「恋重荷」翻案「阿選」。
阿選?あのぽっと出の?かわいい雛泰麒に斬りかかった??
阿選を知らない人の為に説明すると阿選とは泰王驍宗に叛いた謀反人である。元は前泰王に驍宗共々使えていた禁軍将軍だ。新作では4巻分使って阿選の悪行が描かれる。幼子の麒麟の頭を斬り王を追い落とした。そして偽の王として国を収めるかと思えば朝をほっぽり出し後宮で一人過ごしている(セクシャルな感じではなくただの引きこもり)。その間に驍宗を信じる民が反旗を翻せば村を焼き背いた兵がいれば逃げ込んだ村まで焼き女子供までお構い無く殺した。とんだ下衆野郎である。
そんな男の名を冠した新作能だと?怒りに手は震えながらもチケットを申し込んだ。十二国記新作能は3日間の公演を全通するとポスターと同じ写真を使用したクリアファイルが貰えるのだ。しかしこのポスターも気に入らない。ポスターは6種類ある。そのうちの2種類が謀反人の阿選なのだ。
まず一つ目は能楽師さんが般若の面をつけて屋内の舞台上で右手を顔の前に掲げ甲を観客側に向けているポーズ。全体的に照明を落としているので顔は見えにくい。そして二つ目は、こちらは両手で、甲をこちらへ向けて顔の前で構えているポーズ。揃えた両方の指先が目頭にかかるようになっている。般若のお面は口元しか隠れていないので目がよく見える。白目の部分が金色で真ん中に黒い穴があるからそれをつけているのは人間だとわかっているのにとても怖い。
どちらのポスターも般若の面をつけていて髪は肩口で切り揃えられている。『白銀の墟 玄の月』4巻表紙の阿選そのままである。忌々しい。まあ阿選といえばこの特徴しかないしなと私は思っていた、これまでは。
チケットは全日通して買ってしまったし空席を作るのはファンとしてのプライドが許さない。2日間は純粋に楽しみ、3日目は村を阿選に焼かれた村人のような怖い顔をしつつ指定された席に座ると「阿選」の公演が始まった。
え〜〜〜っと、そのなんというか夢を見ていたような心地で記憶が曖昧なのでアレだけど良かったとだけまず言っておこう。
能楽は門外漢なので細かいことはわからないがよくわかった。気がする。阿選のことを。
泰麒の白い装束と最後に阿選に泰王驍宗がかけた白い衣。戴極国は雪深い国だ。民は冬の寒さに凍え死ぬ。死体は白い雪に覆われる。驍宗様が被せた白い衣は雪でありそこで死んだ阿選は再び動き出したとき今まで一瞥もしなかった泰王驍宗と泰麒を見る。泰麒と同じ白い衣を被った阿選の般若の面はもう見えず舞台をはけていく。冷たい雪を触った後に手がじんわりと悴むような気持ちになった。
公演後に阿選を演じた能楽師さんのお話を聞けたのだがとても面白かった。何度も原作を読み返したそうだ。そして阿選の装束を考えるにあたって足袋に一手間加えることにしたらしい。学生時代弓道部に入部して初めて家に持って帰って青い袴を洗濯した。そうすると一緒に洗った制服の白いポロシャツが目を背けたくなるほど白くなったそうだ。袴の青がポロシャツを薄い青に染めたことで目の錯覚によりとんでもなく抜ける白色に見えるのである。制服なので他のものを着るわけにもいかず光るポロシャツを着た通学途中の駅のホームで同級生に出会ったそうだ。そして言われた。「眩しすぎて直視出来ない。あまりに白いので目を背けていたら線路に落ちるところだった」と。あの目映く真白く光る足袋は阿選そのものだ。わざとらしいほどに白い足袋。人が目を背けたくなるほどの。
謀反を起こす前の阿選は人当たりがよく人望もあった。なのに王に選ばれなくて八つ当たりで謀反を起こしたのだと思っていた。それが報酬を貰えなかったから逆ギレしたのだと短絡的に思っていたのだが違う。選ばれなかったのが悲しくて大きく足を踏み鳴らしていたのは子供の地団駄ではなく「ここにいるぞ」という意思表示だったのだ。そういえば謀反を起こす理由が「(泰王である)驍宗の影になりたくない」だった。
普段見ない能だけど言葉を尽くされるよりもいろんなものが見えた気がする。ほんとにただのお気持ち表明感想だけど阿選のお気持ちを大舞台でぶつけられてしまったので吐き出したかったのでした。
そして髪。私がただのキャラ付けの為だと思っていたあれは阿選への弔いとして能楽師さん達が髪を伸ばしあの長さでバッサリ切ったのだという。愛が凄い。
普段見ない能だけど言葉を尽くされるよりもいろんなものが見えた気がする。ほんとにただのお気持ち表明感想だけど阿選のお気持ちを大舞台でぶつけられてしまったのでお気持ち吐き出したかったのでした。
追伸
新作能 「阿選」 見た方がいいよ
幻覚です
日本の芸能に触れると、そのフィジカルに驚かされる。演劇やミュージカルを相当見てきたけど、歌舞伎を初めて観たときもびっくりした。無意識に体動かしてるような役者がいないの。そこにある体が圧倒的に強い。
能は意外にもインプロなのが面白い。昔はこんなにゆっくりじゃなかったって前に能楽師の人から聞いたことがあるけど、そのときはどんな体でやっていたのか知りたい。
いままで30年くらい生きてきて、触れずに過ごしてきたことをちょろっと後悔した。
いや、後悔と言ってもぜんぜん遅くないというかむしろ早いほうだと思うんだけど。
なにしろ、客席の平均年齢が70歳くらい。(中には90歳くらいでは?という人も)
若い人は着物をお召しの人(習ってるっぽい)や外国人観光客が多かったね。
で、何がいいって、なんつーの。まず、フィジカル。
想像してた倍くらい動きがゆっくりで、想像してた倍くらい声がでかかった。
あれアスリートよ。オペラ歌手とかもすごいけど。また質が違う感じ。
あと鼓もすごい。音も信じられないくらい響くんだけど、すごいのが誰もタイミングを合わせようとしないの。
タイミングが合ってないのに誰もあわてない。
合ってないんだけど、合ってる。
何言ってるかわかんねーと思うけどそうとしかいいようがない。
売店で、謡本ていう台本みたいなのが売ってる。
(そこの版元が創業350年とかちょっと意味分かんないくらい歴史が長い。)
それ買ってパラパラめくってると、何言ってるかわかる。
逆に言うとそれがないと何言ってるかわかんない。
(狂言師だけは例外でなんとか現代人にも聞き取れること言ってたけど)
で、館内でも謡本開いてる人がそこかしこにいる。
舞台が進行していくと定期的にページをめくらなきゃいけないんだけど、
みんな気を使ってかそーっとめくる。
静かなシーンで、館内の色んなとこでパラパラいうのが聞こえてきて、それがなんだかすごく粋なんだよ。
舞台上の能楽師にしてみれば、謡本ばっかり見てる人に思うところがあるかもしれないけどさ、そう思ったわけよ。
話の内容も謡本のおかげでよくわかったよ。
なんつーの、すごく引き算的というかさ、ま、このへんはおれの陳腐な言葉を尽くしてもしょうがないよな。
過去みた娯楽のなかでぶっちぎりで平均年齢高かったけど、だからって二の足踏むのはね、もったいないですよ。
長々と回しもんみたいなこと書いたけど、館内の人口ピラミッド考えたらさ、いてもたってもいられなくて回しもんになりたくなっちゃったんだよね。
だからとにかく、観にいこう世!ってことです。
日本人は英語が苦手だと言われる。理由として最初に思い浮かぶのは日本語は欧州系言語に比べて、英語の発音と根本的に異なるからというものだ。しかし自分の経験から考えると、日本語の発音体系に問題があるわけではなく、単に原因は英語っぽく抑揚をつけて喋るのを恥ずかしがってるだけという印象がある。学校の英語の授業を思い出してほしい。音読のときにアメリカ人のように思いっきり抑揚をつけるのは恥ずかしくなかっただろうか?逆に言えば日本人でも感情を込めてメリハリある日本語をしゃべる人は英語の上達も早い。日本語に「抑揚を抑えて発音しろ」というルールがあるわけではないのだ。しかし大部分の日本人は英語圏の人々と比較してボソボソ喋るので「感情が伝わりにくい+発音が悪い」と二重のファルターがかかって壊滅的な英語を話すハメになる。
日本人は農耕民族だから抑揚の少ない言語が発達したのだ、というのは一理ある。だが能楽師や剣道家の発する声を聞いてほしい。抑揚があるというより抑揚しかないと言えるほどにメリハリのある声だ。確かに日本人には猫背でボソボソ喋りがちになる歴史的背景があるが、それは尊ぶべき伝統ではなく克服すべき弱点なのだ。例外的に読経など抑揚を無くすことを良しとする文化もあるが、単純に日常生活でのコミュニケーションに上達したい!というなら抑揚はつければつけるほど良い。良い声というのは抑揚のある声なのだ。低い声や高い声というのは生まれつきだしあまり関係がない。以下、抑揚のある良い声になるための方法をいくつか挙げる。腹式呼吸を鍛えるとか呼吸筋のトレーニングとかは面倒くさいし誰も実践しないので書かない。
1.姿勢を良くする。
やっぱりか、といわれそうだが姿勢というのは声に直結しているし、スラっとした姿勢というのは人類にとって最も普遍的な善だ。その範囲は東洋の古武術、読経から西洋のオペラ、バレエ、果てはアメリカの大統領選挙のマニュアルにまで及ぶ。姿勢を良くするトレーニングというのは何百種類もあるが、最も簡単な方法は「頭のてっぺんに糸がくっついててそこから上にひっぱられてるイメージ」を持つことだ。これならヨガマットを敷いたりダンベルを買ったりする必要は無く、歩いてるときやデスクワークをこなしてるときでさえも、思いたった瞬間に実践できる。
コミュニケーションという観点からみればデーブの日本語は日本人よりもうまい。彼の声はどんなアナウンサーよりも抑揚に富んでいる。なんとなく聞き流してるだけではあまり実感できないが、実際にデーブ口調で喋ってみるとあまりの抑揚の豊かさにびっくりするほどだ。デーブ可愛いよデーブ。
「脱オタしたら以前のオタ仲間と会話が盛り上がらなくなって関係が消滅した」というのはよく聞かれる現象だが、これは多くのオタがテキスト化可能な2ch的、blog的コミュニケーションに依存しているからだと思われる。この方法に依存しすぎるとテキストを共有していない人間と話すときに頭がフリーズして感情が生まれなくなり、ボソボソ喋るハメになってしまう。相手と自分に共通点が少かろうとかまわず抑揚のある声で喋れるようになるためには、目の前の人間をブラジル人だと思って喋ってみることが有効だ。言葉がほとんど通じないブラジル人とコミュニケートするには、クソ生意気な小学生のように興奮したりはしゃいだり踊ったりしなければならない。必然的に自分の声はどんな相手に対しても抑揚のあるよい声になる。