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はてなキーワード: 租借地とは

2024-03-02

anond:20240301215107

香港そもそも租借地であり、

中国返還後、一国二制度を導入して、2047年まで、中国香港政治的に関与しないはずだった。

だが、中国2020年国家安全法を導入して、一国二制度形骸化させている。

から中国非難されている。

2023-07-22

1903年イギリスレーニンを立ててメンシェビキの党(中流国民共産党)を作る

1912年レーニンがメンシェビキの党をボリシェビキ大衆共産党)に作り替える

1917年ボリシェビキロシア王政を倒すが、メンシェビキに政権を奪われる

1918年ボリシェビキがメンシェビキを追放独裁ロシア共産党が発足する

1919年レーニンコミンテルン(第3インターナショナル)を発足させ、労働革命が始まるが、ここで内戦や、ポーランドロシア侵攻が発生

1922年、敗退したポーランドは、ヒロヒトと日波通商航海条約をして手厚い輸出支援を受ける。スターリン共産党書記長になる(他方で、日本は元ドイツ租借地中国青島権利を失い、刑訴法改正検察の不起訴裁判権が設置)

1923年日本検事総長小山松吉が、『露国司法制度及び訴訟手続』を出版法曹会)

1924年レーニン不審死スターリンソ連独裁

 

元のボリシェビキを潰すために、スターリンレーニンの見張りにつけ、ポーランドソビエト戦争で戦功を上げさせ(しかソ連ポーランドへの侵攻には反対させ)、書記長にしたのは誰だろうなあ(棒)

レーニン暗殺なんだろ?

スターリンは、ポーランドに味方した時点で追放すべきだったね

2023-07-03

anond:20230703112901

絶対に取り返せないって証拠あります証明できるんですか?

過去に取り返せた例はたくさんありますよね?

実際に日本過去領土租借地返還してますよね?

嘘付かないでもらえますか?

2023-03-10

女に選挙権がない時代もあったが、男を利用したい諸国優遇されてただけなのに気づかないかなあ

変な外国様のために、清やロシア皇帝を潰したり、朝鮮キリスト教布教してさしあげていたよね

ただそのあとは、膠州湾租借地占領しちゃあ国際世論に追い出され

ロシア様の原油で南進政策をやっちゃあ、飛ぶアルミ産業本土フルボッコ

ただのバカだろ

日本人的には、自分だけ助かりゃいいんだもんなあ

2022-12-21

世界のレール幅は1435mmが標準、日本の1067mmはイギリス植民地で使っていた安い狭軌だった、日本植民地扱いされていた、という記事に接した

一方、満鉄山東ドイツ租借地など、中国ではもともと標準軌使用されている

都内電車が混雑するのはイギリス植民地の名残り

明治天皇が試乗して喜んでいたけれども、知らないうちに安物にされてるとか日本人は不幸だな

2021-08-16

日本民族宗教で分断されてない同質的な国で本当に良かった

アフガニスタンみたいに、これからも今後も民族宗派部族対立内戦が続くだけの運命の国を見てると、日本あんな風に分断された社会じゃなくて良かったと心の底から思う。

そりゃあ大国に囲まれて介入され放題の内陸国と東の果ての島国じゃあ全然条件が違うけどさ、

日本だって歴史歯車が少しずれてたら、

欧米列強支援を受けたキリシタン大名江戸時代を通じて勢力を保ち、九州人口のかなりの割合キリスト教徒になってたり、

アメリカ琉球薩摩と清による二重搾取から住民を「解放」するという口実で植民地化して、沖縄県民英語母語日本本土文化の共有が難しい民族集団になってたり、

ロシア支援するアイヌ幕府残党の軍閥北海道の一部を支配してたり、

そして現代に至るまで分離独立を求める少数派のテロが頻繁に東京で起きてて、

対抗上、多数派(「本州人」や「仏教徒」みたいなくくり?)による政府も武断的になるしかなくて、テロ組織の撲滅を強行して、それがまた少数派のテロ引き起こして、人権侵害だの民族浄化だのと欧米メディアから叩かれまくり

開発の遅れた少数派地域では中国資本によるインフラ整備が着々と進み100年租借地基地建設が始まって人民解放軍駐留時間問題……

みたいな国になってたかも知れない。島国でもフィリピンインドネシアのように宗教民族少数派のテロに悩まされてる国もあるしね。

欧米列強がこの極東列島植民地としての価値なしと放置してくれたのは本当に運が良かったし、

ちょっと露悪的だけど、江戸幕府キリシタンをほぼ絶滅させて、明治政府が不平士族を懐柔し琉球アイヌ同化させて、それが許されてた時代日本人の同質化を完了してくれたのは本当にありがたい。

当時の犠牲者にとっては悲劇だったにせよ、彼らの子孫にとっては、21世紀になってもアフガニスタンのように武装勢力支配地域で貧しく抑圧的な生活をしたり食うために自らもテロリストになったりする分断された国よりも、

屈託なく東京に進学・就職したり、地元東京からの客相手商売したりする今の平和生活の方がはるかに良い結果になった。

2021-08-07

栃木県民だが群馬コンプレックス

北関東民独特の感覚だと思うのだけど、栃木群馬茨城県民は互いに自分が上だと思ってる。

自分もその例に漏れず、栃木県こそ北関東のテッペンだと思っていた。

茨城県には親近感はあった。

あらゆる面で似てる。

茨城栃木と同じで観光アピールが下手だ。

他県からイメージ栃木餃子茨城干し芋くらいのもんだろう。

栃木県民だからって餃子が好きなわけでもなく、茨城県民だからって干し芋ばかり食べてるわけでもないが、他県からみたらそう思われてるのが現実だろう。、

製造業も、茨城は海、栃木県は東北道東北本線東北新幹線地理的には恵まれているのに、互いにパッとしない。

正直、HITACHIには嫉妬してるが、HITACHI本社東京だし、HITACHIカウントしなければ栃木県の勝ちだ。それに、今は県民所得としても栃木県が上なのだ

たぶん勝因は、茨城県民の自滅だと思う。茨城県民は怒りっぽく協調性がない。互いに足を引っ張りあってたから、平成の大合併まで村ばっかりだった。天狗党の乱から成長してない。

港を擁するからには、天下人を何人も輩出し東海地方を見習って欲しい。東海地方からトヨタホンダが生まれたのは偶然ではあるまい。

さて、前置きが長くなった。

故郷を離れて上京するまでは、群馬県のことなんてほとんど意識しなかった。

空気のような県であった。

海無し県の栃木県に生まれると、海水浴のために茨城に行くことはあるのだが(栃木海浜自然の家は茨城にある。租借地みたいなものだ)、群馬とはとんと縁がない。

草津伊香保くらいは聞いたことがあるが、温泉など栃木県内で間に合ってる。

焼きまんじゅうかいう具なしの小麦菓子があるとか、蒟蒻や葱を好むという情報は流れてくるが、別段憧れもしなかった。

群馬総理大臣を多く輩出したことは知っていたが、その中に特に思い入れがある人物もいなかったので、コンプレックスを感じることもなかった。初めて群馬の地に足を踏み入れたとき、道の広さに政治家の力を感じたがその程度であった。

群馬意識しだしたのは、埼玉生活圏にし始めたときだ。

思いのほか、埼玉はに侵食されていたのだ。

埼玉県民は牛を食べない。食卓は常に豚だ。

埼玉県民は蕎麦も食べない。蕎麦より小麦だ。未開人群馬県民みたいな食生活だった。

栃木県民は海無し県だというのに魚介類を好んで食べるというのに。

そしてロードサイドヤマダ電機栃木県の誇りコジマはすっかり埼玉から駆逐されてしまった。

カインズホーム群馬企業ベイシア系列と知った時は衝撃だった。

しかしたら、群馬は侮れないのかもしれないと思った。

それからだ、群馬企業を調べ始めたのは。

ベイシア系列ベイシアカインズホームオートアールズ、前述のヤマダ電機築地銀だこ、悔しいが強い。

栃木企業じゃ勝てない。

しかし、意識して見てみると、群馬企業不思議群馬っぽさがある。

赤青黄色緑のけばけばしさ、雑さと下品さの融合。

栃木県民が好むデザインダサいけど、あん下品さはない。

企業の実力じゃ負けたが、センス栃木の勝ちだ。

と思っていたのだが、実家帰省したときに母が

最近出来たオシャレでとっても美味しい」とべた褒めしレストランフライングガーデン、うーん、群馬臭…

2021-04-10

anond:20210410114121

人心を鎮撫して安寧秩序回復住民生命財産保障するの義務がある。嘗て日清戦役の際は戦局の進展に伴ひ、第一軍は先づ安東縣に民政廳を置き、次いで海域海域善後公署を置き、又營口民政署を置いて軍政を司らしめ。第二軍は金州城を陥るゝと同時に金州城行政廳を置き、次いで旅順行政署を置き、更に蓋平、復州、貔子窩に各行政署を起き金州城行政長官の式に属せしめた。日露戦役の際には樞要の地に軍政署を置き、軍政委員を任命した。後遼東守備軍の編成により遼東守備行政規則を發布して軍政委員統轄せしめ、租借地内にては殆んど全部の行政を擔當せしめ、租借地意外にては普通民政は清國官憲に擔當せしめ、軍政委員軍隊の便益を図り、傍ら地方官憲監督の任に當らしめた。後遼東守備復員により租借地には民政署を置き民政長官を任命した。

 戦闘部隊前進に随ひ占領地域は益々擴大さるゝが故に機關を設け軍政を司らしむる必要あるは明かなるも、前述の如く領土性質曖昧なるにより、其の権力行使必要以内に止め成るべく其の地方法規慣習を尊重して事に當り、又地方住民をして自治的の行動を採らしむるを要す。而して第三國人の關係に就き特に細心の注意を拂ひ、無益の國際問題惹起せざるべく努むべきである。(八月二十八日稿)

五六

北支事變と陸戦法規

外交時報 第八十四巻』昭和十二年、外交時報社、pp.47-56

北支事變と陸戦法規

篠田治策

 明治四十年(千九百七年)十月十八日海牙に於いて調印せられたる開戦に關する條約第一條によれば、一國が他國と戦争を開始するには理由を附したる開戦宣言形式又は條件付附開戦宣言を含む最後通牒形式を有する明瞭且つ事前の通告をなすことを要す。故に現在北支及び上海方面於いて進展しつゝある日支両國の戦闘は、理論上之を日支戦争又は日支戦役と称すべきものに非ずして、事變即ち北支事變、又は上海事變と称すべきものである。我が政府公文にも新聞紙報道にも総べて事變の文字を用ゆるは之れが為めであると思はる。換言すれば宣戦の布告を見るまでは、戦争又は戦役と呼ばずして軍に事變と称し、両國間の國交は断絶せざるのである。之れを先例に徴するも、明治二十七・八年の清國との戦、明治三十七・八年の露國との戦、世界大戦参加による青島攻撃戦等は、之れを日清戦争(戦役とも称す以下同じ)、日露戦争日独戦争と称し、明治三十三年の義和団事件、近年に於ける済南出兵上海出兵満州出兵等は、総べて之れを事變と称したのである

 此の招呼は従来何よりて定まりしか詳知せざれども、現今に於いては確然明白に区別せらるるは、政府公文或は法規等にも「戦時事變に際し」云々等の文字を用ゆるも明らかである。故に日支両國の何れかより

<四七>

宣戦の布告若くは條件附開戦宣告を含む最後通牒あるまでは、如何に大部隊の衝突あるも未だ事變の域を脱せずと謂ふべきである。猶ほ八月二十三ワシントン發の同盟通信によれば、アメリカ國務長官コーデル・ハル氏は、今回の北支事變に際しては終始冷静な態度を持し形成注視しつつあつたが、二十三日午後聲明を發し、日支両國政府に対し「戦争行為に訴へぬよう」要請した由である二十三日は我が陸軍部隊上海附近上陸を開始した日である。即ちハル長官現在の日支両軍の戦闘行為を以て、未だ戦争に非ずと見て居るのである。然れども、我が政府最初宣言したる事件不拡大の方針余儀なく抛棄したるのみならず在外艦隊司令長官支那船舶に対し沿岸封鎖を断行し、支那も亦縷々大部隊を動員して攻撃的態度を採りつゝあるにより、或は近き将来に於いて事變を変じて戦争となるべき可能性ありと信ずるのである

 我が國の國内法に於いては事變と戦争区別せざる場合多く、例へば出征軍人の給奥、恩給年限の加算、叙勲に關する法規など総べて事變と戦争を同一に取扱ふも、國際法上にては事變と戦争は大なる差別がある。

 即ち現在の事變が変じて戦争となれば、日支両國は所謂交戦國隣、共に戦争放棄を遵奉する義務を生じ、同時に中立國に対しても交戦國としての権利と義務を生じ、中立國は皆交戦國に対して中立義務負担するに至るのである。語を換へて言へば事の事變たる間は必ずしも國際法規に拘泥するの必要なきも、一旦戦争となれば戦場於いて総べて國際放棄を遵守すべき義務を生ずるのである。然れども事變中と雖も正義人道に立脚して行動し、敵兵に対し残虐なる取扱を為し、良民に対し無益の戦禍を蒙らしむるが如きは努めて之れを避くべきは言を待たずである。此の點に關しては、皇軍は我國教育の普及と伝統武士道精神により、毎に正々堂々たる行為を以て範を世界に示しつゝあるは欣快である。嘗て済南事變の際支那兵が邦人

<四八>

対する残虐視るに忍びざる殺戮行為、今回の通州に於ける邦人虐殺行為等天人共に許さゞる野蛮行為に対しても、敢て報復の挙に出づることなく、飽くまで正々堂々唯だ敵の戦闘力を挫折するに留めたのみである。故に皇軍には戦場於いて事變と戦争区別する必要はない。何れの場合にも武士道精神に則り行動するが故に、戦争違反問題を生ずることは殆んど無いのである

 従来我が陸軍戦場於いて戦時國際法適用の万全を期せんが為目に戦時國際法の顧問として日清戦争には故有賀長雄博士を、日露戦争には第一軍乃至第四軍に何れも二人づつの國際法学者従軍せしめたのである日清戦役後仏國の國際法学者にして同國大審院検事長たるアルチュール・デジャルダン氏は日本軍の行動を激賞し左の如くに曰つた。

東洋の僻隅に大事業を成就すべき一國あり、之れを日本とす。其の進歩は単に戦争の術に止まらず、戦時公法理想於いて欧州をして驚嘆せしむるものあり。國際法論は欧州於いても漸を以て進みたるものなるに、日本は一躍して此の論理を自得したり。是れ果して高尚なる正義を感得したるに因るか將た又利害を商算したるに因るかは別論に属すと雖も、其の之れを寛行するや極めて勇壮にして、恰も自國の能力覚知する心念の中より適宜に之れを節抑するの嗜好を自然に生じたるものの如し。是れ人類一般利益として祝す可き所なり。

又仏國の國際法学者ポールフォーシル氏も、當時日本軍の行動を評して左の如く曰つた。

此の戦役に於いて日本は敵の万國公法無視せるに拘はらず、自ら之れを尊敬したり。日本軍隊は至仁至愛の思想を體し、常に慈悲を以て捕虜支那人を待遇し、敵の病症者を見ては未だ全て救護を拒ま

<四九>

ざりき。日本は尚ほ未だ千八百六十八年十二月十一日の聖比得堡宣言に加盟せずと雖も、無用苦痛を醸すべき兵器使用することを避け、又敢て抵抗せざる住民の身體財産保護することに頗る注意を加へたり。日本は孰れの他の國民も未だ會て為さゞる所を為せり。其の仁愛主義を行ふに熱心なる、遂に不幸なる敵地住民租税を免じ、無代償にて之れを給養するに至れり。兵馬倥偬の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、凡そ生霊を救助するの策は擧げて行はざる無し。見るべし日本軍の通過する所必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを、云々。

日清戦役にては敵軍は全然國際法を守らざるが故に、我軍にても之れを守るの義務無かりしも、然も四十餘年前に完全に之れを守つて先進國を驚嘆せしめた。日露戦役當時は海牙の平和條約調印後なりしが故に、陸戦法規を守るべき義務ありしも、尚ほ宣戦の詔勅中にも「國際法の範囲内に於いて一切の手段を盡し違算なからしむることを期せよ」と宣せられ、参謀総長は訓令を發して戦規遵奉の趣旨を周知せしめ、更に前期の如く各軍司令部に國際法顧問を配属せしめた。戦役中特別任務を以て米國派遣せられた法学博士男爵金子太郎氏が歸朝の後國際法学会にて為したる演説中に左の要旨の一説がある。

米國人は事實の真相調査せず、動もすれば國際法違反を称するを以て之れに対する材料蒐集中、新聞紙上にて我が第一軍乃至第四軍に國際公法専攻の学者二名宛を配属し、陸戦の法規解釈其の適用参謀部に於いて國際法専攻の学士協議せしめ、公法違反を生ぜしめざることを發見せり。是に於いて各種の集会に於ける演説或は新聞記者との会見に於いて余は毎に「米國人は國際公法提唱日本政府の決心は露國は大國なり腕力於いては或は露國は日本に勝るならん、貴國人が露西亞の聲を聞き戦慄す

<五〇>

る程の大國なれば、日本も恐れざるに非ず、然し國家の危急存亡に代えられざれば全滅を賭して最後の一人まで戦ふにあり、而して此の戦争日本が國際法を破りしことあらば世界歴史汚名を遺すが故に假令戦に敗るるも國際法は遵奉する決心にて現に此の如く専門学者が各軍に配属せられあり、故に余は日本軍に國際法違反無きを保證す」と説明せるに、此の説は次第に傅播して後には日本同情者が各所にて演説等をなす時、日本軍が國際公法家を二名づつ従軍せしめたる事實を述ぶる毎に非常に喝采を博したり。又エールハーバード等の米國國際法大家と会見せる際彼等は各國共に今度日本が外國との戦争に國際法学者従軍性せしめたる如き前例なし、将来日本の新例に倣ふべきことにして、右は一進歩を陸戦の法規に與へたるものなりとして大いに称賛したり。之れ實に日本陸軍の今回の處置は文明國の真價を世界に示したるものと謂ふべし。云々。

 世界大戦の時は、青島攻撃軍に嘗て筆者と共に日露戦役当時第三軍に在勤したる兵藤氏従軍したるを聞きしも、其の職名を詳かにせず。又浦鹽派遣軍には主として外交官をもつ組織したる政務部を置いた。此の政務部は主として外交方面事務従事したるも、亦國際公法適用に關して其の権威たりしは勿論である(筆者も數ヶ月間此の政務部に派遣されて居つた。)

 過去に於ける皇軍の行動は實に右の如く最も鮮かであり、所謂花も實もある武士的行動であつた。斯かる傳統的名誉を有する行軍の行動は今回の事變に際しても決して差異あるべき筈は無い。理論上事變は國際戦争に非ざるの故を以て、節制無き行動に出づるが如きは想像だに及ばざるところである

 唯だ、陸戦法規適用に關し、茲に疑問の生ずるは領土性質である。假りに之れを中華民國

<五一>

領土なりとせば、國交断絶を来さず単に事變たる間は、未だ之れを敵國領土と称するを得ざるが故に、出征軍は如何なる程度に其の権力行使すべきか、又南京政府官吏は既に逃亡し、地方民衆自ら自治政権樹立したりとせば、國家として列國の承認無きも、戦闘地域を其の領土として取り扱ふべきか等の問題である

 宣戦の布告により事變が變じて日支戦争となりたる場合於いて北支一帯が依然として中華民國の領土なりとせば、問題は至つて簡単にして、我軍は之れを支配して軍政施行治安を維持するのみである。然れども事變として繼續中及び新政府領土となりし場合には、其の地域行使すべき軍の権力に多少の差異あるべきは明らかである

 日露戦役の際は戦闘地域性質を異にする三種類の領土があつた。即ち樺太の如き完全なる敵國領土遼東半島及び東清鐡道沿線附属地の如き敵國の租借地と、満州一帯の如き第三國の領土があつた。樺太に關しては完全に我が占領軍権力行使したるは勿論なるも、租借地に關しては租借権其物の性質すら学者間に議論一定せず、如何なる原則に基きて之れを占領すべきかは問題であつた。筆者は遼東半島上陸直ちに此の問題に直面し、又間も無く着手したるダルニー(大連)の整理に際して実際問題に逢着した(拙著日露戦役國際公法第二章三章)。又当時諸國は局外中立宣言したるも、遼東以東は之れを除外し日露両國の戦場たらしめるが故に、所謂喧實奪主の観ありて、交戦國は任意に此の地域活動したるも、其の権力講師には純然たる敵地占領とは自ら異なるものがあつた。

 今回の北支事變に於いても、其の交戦地域領土性質曖昧なるに於いては、日露戦役当時の先例を参

<五二>

考にして之れに善処し、然も恩威併行、皇風をして六合に洽からしむるの用意あるを要す。

 従来北支方面は日・満・支に微妙なる關係を有し、外交政治に極めて複雑なる舞臺であり、事變の原因も一部は其処に在つた。故に平和克復の後は雨降って地固まり、明朗なる新天地を現出して再び颱雨の發生地たること無からしめねばならぬ。従って陸戦法規適用に当たりても緩急宜しきを制し、傍ら戦後政治工作に關する其の地均しの役目を引受lくるを必要と考へられる。固より事變であり、戦争であるに拘らず、我が武士道の精神と殆んど一致する陸戦法規は完全に適用せらるゝは疑ひなきも、其の間事に輕重あり、絶大の権力を有する軍司令官禁止事項の外は自由裁量余地あるかは明かである

 陸戦法規の條項を北支事情と敵軍の素質に対照して一々之れを論究するは、紙面の許さゞるところなるにより、筆者が茲に希望するところを一言に表示すれば、過去の二大戦役にて、克く陸戦法規を遵守して皇軍名誉を輝かしたる如く、此の事變に於いてもこの點に注意を拂ひ、更に占領住民に対しては軍律を厳重にし軍政に寛仁にすべしと謂ふのである

 凡そ遣外軍隊は一地方を占據すると同時に、軍隊安全作戦動作の便益を図るが為めに、無限権力を有するが故に、軍司令官は其の占據地域内に軍律を發布して住民に遵由するところを知らしめ、軍隊安全作戦動作の便益を害する者には厳罰を以て之れに蒞み、同時に一般安寧秩序を保持し良民をして安んじて其の生業従事せしめねばならぬ。固より戦闘に關係なき事項は其の地従来の法規により、其の地方官吏をしてその政務に当たらしめ、以て安寧秩序回復維持瀬しむるを便宜とするも、事苟も軍隊の安危に關するものは最も厳重に之れを取締らざる可からず。假令ば一人の間諜は或は全軍の死命を制し得べく、一條の

<五三>

軍用電線の切断は為めに戦勝の機を逸せしめ得るのである。故に軍司令官は此等の危害を豫防する手段として、其の有する無限権力を以て此等の犯罪者厳罰に處し、以て一般を警めねばならぬ。故に豫め禁止事項と其の制裁とを規定したる軍律を一般公布し、占據地内の住民に之れを周知せしむる必要がある。日清戦役の際は大本営より「占領人民處分令」を發布して一般に之れを適用した。日露戦役の際は統一的の軍律を發布せず、唯だ満州総司令官は鐡道保護に關する告諭を發したるのみにて各軍の自由に任せた。故に各軍區々に亘り第一軍にては軍律の成案ありしも之れを發布せず、単に主義方針として参考にするに止め、第二軍には成案なく、第三軍にては確定案を作成したるもの司令部より統一的軍律の發布あるを待ち遂に之れを公布するの機を失し、遼東守備軍は第三軍の軍律を参照して軍律を制定發布したりしが、後遼東兵站監は之れを改正して公布した。旅順要塞司令部特に詳細なる規定を發布し、旅順海軍鎮守府別に軍律を發布し、第四軍にては一旦之れを發布したるも後に之れを中止し、その他韓國駐剳軍、及び樺太軍は各々軍律を發布した。

 軍律に規定すべき條項は其の地方の状況によりて必ずしも劃一なるを必要とせざるも、大凡を左の所為ありたるもの死刑に處すると原則とすべきである

一、間諜を為し及び之れを幇助したる者

二、通信交通機關を破壊したる者

三、兵器弾薬其他の軍需物件を掠奪破壊したる者

四、敵兵を誘導し、又は之れを蔵匿したる者

<五四>

五、我が軍軍人故意に迷導したる者

六、一定軍服又は徴章を着せず、又は公然武器を執らずして我軍に抗敵する者(假令ば便衣隊の如き者)

七、軍隊飲料水を汚毒し、又軍用井戸水道破壊したる者

八、我が軍軍馬殺傷したる者

九、俘虜を奪取し或は逃走せしめ若くは隠匿したる者

十、職場於いて死傷者病者の所持品を掠奪したる者

十一、彼我軍隊の遺棄したる兵器弾薬其他の軍需品を破壊し又横領したる者

 而して此等の犯罪者を處罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず。何となれば、殺伐なる戦地於いては動もすれば人命を輕んじ、惹いて良民冤罪を蒙らしむることがあるが為めである。軍律の適用は峻厳なるを以て、一面にては特に誤判無きを期せねばならぬ。而して其の裁判機関は軍司令官臨時に任命する判士を以て組織する軍事法廷にて可なりである

 帝國政府が屢々聲明する如く、我國は決して北支侵略して我が領土なすが如き意圖を有せざるも、今回の事變によりて北平天津地方より支那軍隊駆逐し、現に事實上その地方を占據し、戦局の進展に伴日、占據地域を拡大しつゝある。而して此の地方住民自治政権樹立したるとするも、我軍の支援無くしては一日も安定し得ざるは明かである。故に如何なる外交辞令を用ゆと雖も、此の地方一時的にもせよ事實上我軍の占領である。勿論日支両軍衝突の一時的現象に止まり永久に之れを占領するの意思無きが故に此

<五五>

占領は九國條約に牴觸するものに非ずと信ずる。

 我軍が一時的なりとも北支地方占領したる以上は、我軍は其の地方の人心を鎮撫して Permalink | 記事への反応(1) | 11:41

2008-11-05

日本は侵略国家であったのか」を読む 補遺

http://anond.hatelabo.jp/20081101232814

 こんにちは元増田です。

 その後、台湾外交部からも抗議声明が出されたようです。

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20081102-OYT1T00492.htm

 しかし、田母神氏ご本人は、「誤っているとは思わない」「(論文の内容について)今でも間違っていない」、

http://www.asahi.com/national/update/1103/TKY200811030159.html

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081103-OYT1T00526.htm

とおっしゃっておられるようであり、

近現代史の一面的な見方を見直そうという動きが各方面から起きていたが、その象徴的論文

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081103/plc0811031834005-n1.htm

という新聞もあるので、ネット上にある反論ソースをあげておくのも意味ないことではないと思い、対中外交について落ち穂拾いをしてみます。今回もネット上にあるものだけを参照しており、私はこの時代の一次史料を読んでいませんので、「ちらしのうら」であることに変わりはないですが、根拠を何も示さない所論よりはましだと思っています。

日本は・・・(中略)・・・相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない」のか

見出し引用の出所は、田母神俊雄日本は侵略国家であったのか」2008年

http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf

それでは、公開されている次の論文を紹介する形で反論します。

古屋哲夫「対中国政策の構造をめぐって」『近代日本における東アジア問題』古屋哲夫山室信一編、吉川弘文館2001年、をPDFHTML化したもの(単行本にはあたっていないことをおことわりしておきます)。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/pdf/75.PDF

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 まず、日露戦争後の日本中国権益についてみてみましょう。そもそも初期条件は清の関与できない日露両国の話し合いで設定されました。

日露講和条約によって日本が獲得した在満権益とは、ロシア権益の残りの期間を、「清国政府ノ承諾」を条件として、譲り受けたものであり、具体的には 1923年大正12)に満期となる(露清原条約の期限が25年)遼東半島租借権と、運転開始から36年後の1939年昭和14)年に中国側に買戻権が生ずる南満洲鉄道経営権を中心とするものであった。

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 清の事後的同意が必要とされたこと、租借権と経営権には期限が設けられていたことは留意されるべきでしょう。

 後の関東軍へとつながる駐兵権の話も、この段階で出てきます。

それは清国の了解なしに、その主権を侵害する鉄道守備兵駐兵権を設定したものであった。それは現に軍隊存在しているという既成事実を権益に転化させようとするものであり、日露両国は清国の主権侵害の共犯者となったことを意味し、また、以後の満洲支配についての日露共同行動の可能性をしめしたものでもあった。ところで講和条約ロシアから日本への権益の移転譲渡は、「清国政府ノ承諾」を条件とするとしており、それにもとづいて、1905年11??12月にそのための北京交渉が開かれたが、そこで清国側がもっとも強い反発をしめしたのは、この鉄道守備隊の問題であった。・・・(中略)・・・結局この問題は日本側が、ロシアが撤兵を承諾したときには、日本も同様に撤兵するという条件を付けただけで押し切ってしまうが、小村寿太郎全権は、ロシアの撤兵など起こりえず、したがって日本の撤兵もありえないものと考えていた(5)。この鉄道守備兵が、租借地守備兵とともに、後の関東軍を構成することとなる。

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 先に既成事実があって後に法的に問題を確定させようとしていることは留意されるべきでしょう。

このようなやり方が、相手側に不満を生じさせ、後の紛争の種となるのも当然でしょう。

日露講和後の清国に対する交渉において、もっとも紛糾したのは、前述の駐兵権問題についで鉄道権益をめぐる問題であった。・・・(中略)・・・その結果、1905年12月に調印された、「満洲ニ関スル日清条約」(実質的内容は附属協定)では、吉長線も新奉線も協定附属の取極に譲らざるをえず、前者は清国の自主建設により、資金の不足分を日本からの借款による、後者日本から清国に売渡し、その改築のための費用を日本より借り入れる、という譲歩をよぎなくされている。結局協定本文には、安奉線が残されただけとなったが、これも軍用軽便鉄道商工業用に改良することは認めるが、18年後には清国に売り渡すべきことが規定されていた。それは安奉線についての日本の権利が、長春旅順間の鉄道とは全く異なるものとして協定されたことを意味していたが、日本側、とくに現地の実権を握る陸軍は、条約には目もくれず、安奉線を駐兵権や附属地を持つ満鉄の支線とすることを 実力で押し切ろうとしていた。

 実際に、満洲よりの日露両軍の撤兵期限である1907年明治40)4月になると、遂に、安奉線上の本渓湖の市街に新たに日本軍が進出し、同時に日本警察官出張所が設置されたとして、清国側からの抗議が提出された。これは前年8月陸軍が主導して在満権益を管轄するために設立された関東都督府(都督は陸軍大将または中将、初代は 大島義昌大将)が、既成事実を作り出しはじめたことを意味した。そして外務当局もこれを追認する態度を示している。日本側のやり方を条約違反とする清国の抗議に対して、同年5月18日林董外相は、安奉線は満鉄の支線であり、守備隊の駐屯や警察官派遣の権利も満鉄と同様だとの態度をとるよう奉天総領事に指示している(7)。それは条約よりも既成事実押し通せ、ということであり、対満洲政策の一つの性格が早くも形作られつつあったことを示している。

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 上記のような「条約よりも既成事実押し通せ」という態度は、国際法にのっとった正当なものと言えるでしょうか。

軍と外務当局との関係については、一致することも異なることもあったでしょうが、ここでは両者ともに既成事実化をはかっています。

軍だけに責任を負わせることはできません。

安奉線が朝鮮半島満洲を直結するものとして重視されたことはいうまでもないが、日本側は他面では、韓国北東部に隣接し多数の韓国人が居住する間島地方に、領事館及分館を設立して、韓国人に対する領事裁判権を行使することで、日本の勢力を浸透させることを企図していた。そして清国側が容易に実行しないことを予期しながらも、日本希望を記録しておく意味で、前記「間島ニ関スル協約」に、清国が吉林から間島を経て韓国北部の会寧に達する鉄道建設する際には、吉長線と同一の弁法によることという一項を押し込んでいる。しかし中国側は辛亥革命後も、一貫してこの吉会線構想を拒否しており、満洲事変以前には交渉が成立する見込みさえも立たなかった。

 つまり、日露戦後の対中国政策は、その基礎に、「交渉」によっては解決しえない部分を抱えこむ形で出発しているのであり、この時点においてすでに、中国との平穏な交渉によって、利権拡張を図ることは不可能になっていたと言える。

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 ここまであげてきた行為から、相手国の了承などどこ吹く風といった態度があったことは明らかではないでしょうか。

 つづいて、中華民国期に入ります。

ところで日本が主導しえなかったこうした〔引用者注辛亥革命以後の〕経過の中でも、日本の対中国政策のなかに、様々な特徴が蓄積されてくる点に注目しておかなくてはならない。その第一は、中国全体の情勢を制しえないならば、むしろ分裂を促進して日本が操作しうる地域を造りだそうという発想が生まれてきたという点である。たとえば、在清国公使伊集院彦吉は、1911年10月18日の時点で、清朝にもはや中国全土を統治する力はないとして、「中清ト南清ニ尠クトモ独立ノ二ケ国ヲ起シ、而シテ北清ハ現朝廷ヲ以テ之カ統治ヲ継続セシムヘシ」「何レノ途北清ノー角二清朝ヲ存シ、永ク漢人ト対峙セシムルハ帝国ノ為得策ナリト思考ス(10)」 との意見外相におくり、さらに11月19日になると、清朝の情勢がより困難となりこの三分案の見込みもうすれたとし、第二案として清朝をして「十八省以外満蒙等ノ地域」に国を保持させる、それも駄目で清朝滅亡の際には第三策として新共和国首都を武昌など中国中央に置かしめ「満蒙ノ地域ヲ遠ク辺外二置キ漸ク閑却セシムル(11)」との意見を具申している。それは親日地域の確保のための中国分割という発想に行き着くことになろう。さらに翌12年2月になると、いわゆる大陸浪人川島浪速らが、参謀本部関東都督府と連絡しつつ、北京より脱出させた清朝親王を擁し、蒙古の王公らをも参加させて、満蒙独立国を造り出そうとする画策が実際に行われるに至っている。

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ここでは、一外交官、一大陸浪人の例しかあげられていませんが、後にみるように、国の分裂を促進させようというのは国の政策となっていくのであり、その萌芽がみられることは留意しておくべきでしょう。また、ここでも軍のかかわりがみられるようです。もちろん、他国を分裂させようというのは、相手の了承を得た、国家間の条約を尊重する態度とは言えないでしょう。

この間〔引用者注革命後、1910年代前半の中国情勢の混乱〕に付加された対中国政策における第二の特徴として、中国現地において日本軍人が侮辱されたと日本側が解釈した場合には、「原因の如何にかかわらず」、中国側に責任者の処罰と謝罪を行わせて、日本軍威信を守るという方式が打ち出されてきたことに注目しておかなくてはならない。いわゆる第二革命の 時期に、日本人が被害を受けたとする、漢口・エン州・南京の三事件がおこっている・・・(後略)・・・

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 漢口事件について、古屋論文に基づき、要約します。

 まず、陸軍少尉中国軍の制止を無視して戒厳地区に進入し、一時抑留されました。

 軍からの報告は、「無抵抗の西村少尉らが、理由もなく暴行を受け、軍服をぬがされるなどの侮辱を受けた」というものでしたが、日本の総領事は「これを信用せず、自ら調査して西村らの横暴と暴行について牧野伸顯外相(第一次山本内閣)に報告」しました。しかし、「陸軍中央部は、現地の調査も行わずに、「日本将校凌辱事件」として」、謝罪と賠償利権を要求し、結果として中国側に処罰・謝罪させたものです。

 古屋論文は、このような事例が満洲では蓄積されていたであろうことを指摘し、「このような先例の蓄積は、「日本軍威信」の確保を第一義とするという条件によって、日本の対中国政策が実質的に拘束されるようになってゆくことを意味していた。そしてその翌年の第一次大戦への参戦は、対中国政策にさらに決定的な影響を及ぼすこととなった」と評価しています。

 交渉ごとにおいて、譲歩できないものを必要以上に多くすることは、カードの手札を事前に少なくしているのと同じではないでしょうか。

 つづいて、第一次大戦下の部分をみていきましょう。

第一次大戦下で目に付くのは、前述した鉄道付属経営権や、軍の威信を確保する事件解決方式など、条約面に現れない既得権の高圧的行使や、軍を背景とし、あるいは軍に依拠した陰謀的行動の横行であった。とくに袁世凱が自派による帝政運動組織し、1916年1月1日帝位について洪憲元年と称したのに対して、反対派が第三革命に立ち上がるという事態に対応して、大隈内閣が反袁運動支援の方針を決定したことは、こうした傾向を著しく促進することになった・・・(中略)・・・この〔引用者注内閣の〕方針は具体的には「適当ナル機会ヲ俟テ南軍ヲ交戦団体ト承認スルコト」などをあげているが、実際には山東に居座った日本軍(侵攻以来ワシントン会議後 まで7年以上駐留)や、満鉄守備隊を含む関東都督府の現地軍が関与あるいは支援したことが、最も重要であったと見られる・・・(中略)・・・大隈内閣の反袁政策は、結局のところ、現地日本軍と其の周辺の日本人の横暴への反感を広めただけに終わったようにおもわれる・・・(中略)・・・第一次大戦下の日本の対中国政策は、侵略性の膨張として特徴づけることができるが、列強のすべてが参戦し、中国に手を出すいとまがないという条件のもとで、初めて実現したものであり、従って戦争の終結とともに転換を迫られることは必至であった・・・(中略)・・・日本軍は、青島を攻撃・占領する以前に、ドイツ兵に守られているわけでもない中独合弁の私立会社経営する山東鉄道を占領(26)しているのであり、日本の参戦がたんにドイツ軍事力の打破のみでなく、新たな権益の獲得を目指していることは明らかと見られた。

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 ここでは、中国の内部分裂を促進させる政策を内閣採用しています。政治が、権謀術数やパワーゲームというのはその通りなのかも知れませんが、これに対する中国の、その民衆の反発は至極まっとうなものでしょう。ベルサイユ講和会議における中国の要求が退けられたことから、五四運動へとつながります(中国ベルサイユ条約への調印を拒否しました)。周りにいくら根回しをしても、当事者同士に納得が得られなければ物事は進みません。

 そして、アジアの国際秩序について話しあわれたワシントン会議では九か国条約が結ばれます。

中国政策全体は、領土保全・門戸開放・機会均等というアメリカの主張を柱とする九か国条約規制されることになり、そこには勢力範囲政策を排除することも明文化されていた。

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 このような流れのなか、詳細は省きますが、古屋論文では、「国際的に通用しなくなって」きた「特殊権益」、「勢力範囲」にかわり、「満蒙治安維持」という、関東軍の謀略による満洲事変につながっていく「政策理念」が出てくるとされます。

しかしそれ〔引用者注:満蒙治安維持〕は、他国の一部を自国の利益に従属させるという点では、勢力範囲と同じことであり、中国との対等の関係確立するためには、破棄しなければならない要求であった。しかしそのことは、幣原外交においても、ほとんど意識されることはなかったように思われる。

 それは幣原外交もまた、国民の対中国意識のあり方に規制されていたということであろうか。第一次大戦中に強められ広められた中国に対する侮蔑を基礎とする優越感は、大正デモクラシーによっても解体されることはなかったし、さらにその基底では、満蒙を20万の将兵の血と20億の巨費であがなわれた明治天皇の遺産とみる天皇制意識が形成され、大衆呪縛していたことであろう。現地軍における統帥権独立と、国内における大衆中国侮蔑感とは、対中国政策の構造的改造を困難にするものであった。そしてその大衆意識は、満洲事変への共鳴板として鳴りはじめ、状況を一挙に転換させることになるのであった。

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 ここまでみてきたような、日露戦争から満洲事変にいたる流れをおさえてなお、「相手国の了承を得」た、「条約に基づいた」と表現することが妥当なのでしょうか。ご覧の通り、日本大陸政策に対する軍の関与は明白ですが、まさか防衛大を卒業された方がこの程度の知識をご存知ないとは思いませんので、あの「論文」の内容とどのように整合性をとられているのか興味深いところです。

 さて、このように、一つの論文をみて、「論文」の一部の所説を検討するだけでも結構な手間がかかります。歴史勉強はそれほど甘くはありません。粗雑な「論」を示して誤りはないと言われても困ります。また、「事実小説より奇なり」ということもありますし、歴史学においては、「神は細部に宿る」こともあるので、個人の感覚からおかしいと言うだけでは有効な批判にはなりません。また、学問においては、勉強が足りずに事実認識が間違っているのは、明らかに勉強が足りないことに非があります。今は勉強不足で根拠が示せないというのであれば、その主張は根拠がないゆえに認めれらないのです。いつか証明されるのかもしれませんが、そのときが来るまでその主張に強度はありません。

 ところで、古屋論文の最後に、「国内における大衆中国侮蔑感」の問題が出てきました。今もまた、中国に対する偏見百害あって一利なしであり、中国の実態を虚心にみつめ、評価しなければならない、と私は考えています。

 その意味で、中国の民衆運動について、興味深い論文をみつけたので最後に紹介します。

しかし,中国民衆のナショナリズムとは,つねにそうした「暴力」をともなうものとしてしか実現されなかったのであろうか。そこには多くの場合,「暴力」の受け手の側からするバイアスがかかってはいないだろうか。一昨年の,「反日デモ」についての日本マスコミ報道が,デモの「被害」を強調し,一面的な批判に終始したことも想起される。「歴史」と「現在」を同時に射程に入れねばならない現代史研究者にとって,そして,民衆の運動対象であったわれわれ外国研究者にとって,必要なのはこうしたバイアスを克服し,実証的に中国の民衆のナショナリズムの実態を注視することではないか

江田憲治「民衆運動ナショナリズム1925年の五・三〇事件を手がかりとして―」『現代中国研究』21、2007年、27-28ページ。http://modernchina.rwx.jp/magazine/21/eda.pdf

 私はこの問題意識に全面的に賛同し、実証的な近現代史の議論が進められることを希望するものです。

またしても、このような長文をお読みになってくださった方に感謝します。

 
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