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はてなキーワード: 科学コミュニケーションとは

2024-01-07

anond:20240107054050

2chルール常識だと思ってるガイ発見

科学コミュニケーションの分野では釣りからネタからマジレスするな、というのはオウム成功のように百害あって一利なし、間違った投稿に訂正をした方がいいというのは言われてますよね

2ch現実区別がつくようになった方がいいですよ

2023-09-03

anond:20230903190820

そうじゃなくて、それが自然科学とかの場合は「科学コミュニケーションの失敗」だとして扱われるだろ?ってこと。

批判再検証するほかの分野の学者が出てくる。

なんでそれが人文学社会学の時にはできないの?

人文学社会学危険性についてもっと考えたほうがいいんじゃねえの?

自然科学工学危険性というのは失敗例が重大かつ大規模(公害非人兵器医療事故etc)になるので

少なくとも20世紀末以降の日本では

自然科学工学には危険性がある

専門家も非専門家意識して対策をとる必要がある

という程度のコンセンサスはさすがに確立してるんだけど

翻って日本社会って人文学社会学もつ危険性に鈍感すぎるんじゃね?ってのがここ十年近く思う事。

直近だと以下で

https://note.com/000gwen/n/n1f395563e1b7

「こういうことがこれからどんどん起きるんだろうな」と想定していた感じのことがまさにそのまま起きたようなケース。

上のnoteは少し経緯が不足してるので補足しつつ経緯を書くと

・王谷晶っていうレズビアンでLGBTQ+寄りの本書いたり帯文寄せたりしてる作家がいた

過去トランス差別批判されたが謝罪反省SNS上でトランス女性女性と認めないフェミニスト(TERF)を批判したりしていた

・王谷晶が「LGBTQ+にはペドファイル小児性愛者)は含まれない」的な発言

・LGBTQ+界隈でジェンダー学を専門に学んでる連中からペドファイル差別だ、ペドファイルチャイルドレスター児童虐待者)は違う」とSNS上で詰められる

・王谷晶が帯文書いたLGBTQ+本の日本語版翻訳者出版社に公開抗議文謝罪か帯文撤回を求める

出版社全面謝罪、王谷晶も「ペドファイル差別しません」と公開謝罪し鍵垢、小児性犯罪被害者だった過去などを告白するなどかなり混乱した内容

ジェンダー学を専門に学んでいない一般左派が「ペドファイルはLGBTQ+には含まれない、チャイルドレスターと似たようなもん、犯罪者予備軍なのでパージせよ」とSNS上で抗議

・そこだけ読んだ非左派議論オタク連中が「ペドファイルだろうが手を出さなければ内心の自由範囲内、自由を守れよ、つーかいもの反差別はどうした?」とSNS上で絡む

一般左派が「ペドファイルをLGBTQ+に含めようとするのは反左派オタクデマ工作」と騒ぐ

・TERFが「いやペドファイルをLGBTQ+に含めようとしたのはジェンダー学の連中だろ、そもそもLGBTQ+運動自体が狂ってる」と騒ぐ

ジェンダー学連中は凍結されたり、残った連中も旗色が悪いからだんまり議論オタクは飽きてどっか行く、TERFと一般左派喧嘩し続ける

・結果としては、本当に正しいかよくわからない理由出版社作家が公開謝罪させられたが、たぶん検証とかはされない

という、カオスまりない状況。

ここで考えてほしいのは、上の連中のどれに賛同するかって話以前に

ジェンダー学の結果を社会に直接反映しているのに結果責任を取らない、とる能力がない学者専門家サイド(出版社ジェンダー学界隈、作家

ジェンダー学の内容(主張、学問根拠歴史的経緯)を把握せずにジェンダー学の議論だけ使おうとして失敗している非専門家一般左派、TERF、議論オタク

対立状況って、科学コミュニケーションとかで言われてた「学者専門家市民コミュニケーションの失敗」のまさに典型例なんだけど

くそう捉えて扱おうとする社会学者やらが全然出てこないことなんだよね。

これって異常じゃね?


すくなくとも

学者や学徒の知見が専門家に影響を与えて専門家社会に影響与えるので、直接法的な責任はなくても道義的責任はあるよね」とか

知識の差があるので知識のある側は無い側を責めないこと」とか

専門家が事後的に検証批判をすることで市民社会責任を果たしましょう、市民はそうするように専門家要求するのも責任です」みたいな

自然科学工学危険性的な話では当たり前のように出てきた初歩の初歩の話が全然出てこないんですよ。

なんでだろう。

なんでだと思う?

色々仮説はあるんだけど正直よくわからないというのが第一なんだが

そもそも論として「人文学社会学危険性」自体学者専門家にすら認識されてないというのが理由だとしたら

「それって自然科学とか工学の話ですよね?今関係あります?」と本気で思われていたら

中々恐ろしい話ではないだろうか。

2023-08-25

anond:20230823145057

科学っていうか工学領域から社会においてリアル問題として立ち上がるときに「科学」と呼ばれるものは。

医学はいわば人体工学だし、

原発事故対応)は言うまでもなく核物理学だけでなく広範な分野に跨がるエンジニアリングの複合体。

科学当為きらう工学当為に直接接続する。

抜き身の科学原則を振りかざすことに意味があるという機会はそうないだろう。

それなのに、この世に純粋科学とそれ以外のゴチャゴチャしたおまじないしかいかのように「本来科学的な姿勢とは〜」とか語る奴は学者馬鹿というか端的にモグリなんだろう。ガチサイエンティストは嫌でも娑婆世間リアル相手に苦労を重ねているはず。

■「工学科学だ」んなこた誰でもわかっとるわ。書き方が不十分だったかもしらんが。

科学全体の中の、現在進行形社会との界面にある工学レイヤー政治倫理が嵌入してくるその入り組んだシーンで起きてる問題において

基層から直接、基礎科学プロトコルの断片を掬い上げてきて水戸黄門の印籠よろしくかざすことはなにか生産的ですか、とき原理原則に立ち返ることの必要をいうなら「やれやれ、これだから一般人は」じゃなくインターフェース部分の科学コミュニケーションを本気で頑張らないと自己満足したいだけの説教バカかと疑われます

■「科学当為を〜そうなの?」科学はまあなんのためというかそれ自体のために存在するとして、工学は人を幸せにしてなんぼなんだから当然そうだと思ってるけど?

2023-06-04

anond:20230604102530

まさにこういうやつね

https://nazology.net/archives/113739/2

ダニングクルーガー効果でググって欲しい

稀に科学者尊敬されてる一般人というのはいるが(30年にわたり毎日特定場所での○○の数と写真を記録し続けている人とか)、数十時間調べた程度では無理ですね

適当町医者との間で発生するのはむしろ経済的合理性問題であって科学コミュニケーション反論としては不適切

anond:20230604093352

科学コミュニケーションとか陰謀論否定コストみたいな話だな

陰謀論者というのはYouTube個人ブログで30分くらいで得た知識理論武装しており、それらを作る人もそもそもデタラメなので誰でも適当に30分で書ける

学問について正しく想像できないし、知識を持たないために学を軽視しており、自分は正しい知識を持ってると強く思い込んでいる


専門家20年30年かけて体系的に学んでおり、新情報キャッチアップし、知識経験にかかった時間は数万時間にも及んでいたりする

話すのにも考えるにも調査を経て、細かな学説議論にも配慮し正確性を担保しようとするので、何時間も何日もかかることもざら

一言だとしてもそこには数万時間分の本が何冊も書ける知識が背景にあるのをギュッと縮めて喋っている


前者は、相手に「自分理解できるくらい分かりやす範囲での短く明瞭な反論」を求めている

こいつらの言う「具体的」とはそういう意味

なんとなく自分が納得感を得られるかどうかという判断基準で会話を進めようとする

が、科学議論はそういう性質を持たない

専門家反論というのは基本的に膨大な体系的知識を前提にしないと読み解けず、高い科学リテラシー(人文科学含め)が読み手に求められ、不明瞭でわかりにくく、短い説明でも何十万字の長い説明部分的な切り出しの要約にすぎなかったりする

専門家同士だと互いに短い質問ややりとりでも相手知識量を判断することができ、前提知識は共有済みなので、それなりに短いやり取りで議論が成立する

からちゃんと「具体的」なのだ


無学な人が雑なネット知識で考えた何の時間もかかってないどうでもいい陰謀主張に専門家反論しようとしてるときというのは、何時間も費やして丁寧な検証データに基づく反論をすることを求められるという非対称性がある

しかもそれを仮に実行したところで、説明の量はとんでもなくなることもあり、陰謀論者の求めてるど素人にも分かりやすくてバカに納得感のある説明にもならず、かけた労力に見合う効果は全く得られないという話

2023-02-20

『失敗』の言い換え

これは非常に厄介な事態だと思う。今日ロケット関連の記事トップコメントを見てほしい。

[B! 増田] 「JAXAに打ち上げ失敗を認めさせたい人」への説明に悩んでいる

frothmouth普通は失敗」「一般論では失敗」みたいな市民感覚と、科学技術専門家の使う言葉意味が違うのは当たり前で、2者の科学コミュニケーションを繫げるのがメディアに求められる役割なんだけど、記者がコレでは困る

[B! メディア] 国産ロケットH3の打ち上げは「失敗」である

steel_eel 「別にノーミス打ち上げチャレンジじゃないんで失敗じゃないですね。運ぶものロケットが爆発四散とかしたら失敗です」って何度説明されてもノーミス打ち上げチャレンジだと思い込んでいる人々。

(太字強調は引用者)

どちらの人気コメント記者批判的な立場なのにもかかわらず、その書き方は失敗を認めてしまっているように見えることに注意してほしい。ノーミスミス和製英語だが、mistake には失敗の意味が含まれる。これでは開発側に何らかの失敗があったようにも読めてしまう。

ロケット開発に明るい方の分析によると、JAXAのような権威ある機関が「失敗」を認めてしまうと取り返しのつかないことになるらしい。

打ち上げに失敗した」なんて見解JAXAが示したりしたら世界中ロケット業界が大騒ぎになると思うんですよ。

今までの共通認識が変わってしまうし、また安全よりスケジュールが優先されてしま時代に戻りかねない。

ロケット業界の中には「絶対に失敗してはならない」という意識下の前提条件がある。だからひと言でも失敗と発言してしまえば、「JAXAだって失敗してる」「失敗してもいいんだ」とはならずに、失敗の共通認識前線が後退してしまうことになる。「今回の打ち上げは失敗」が未来業界を、失敗を避けるために一か八か勝負に出るような打ち上げをするような体制に変化させてしまう。失敗は成功のもと、と発言した文科相直ちに追及されて謝罪したのも必要なことだった。

ロケット開発に限らず、あらゆる業界で「失敗」が避けられる。皆んなもちょっと思い出して見てほしい。自分からあれは失敗でした、などと言い出した人を、一人でも思い出せますか? … いないでしょ。

だってハッキリ言って、「自分は失敗した」などという自己認識を持つことにメリットはないから。

失敗だなどという認識を持てば自己肯定感は下がり、部下や仲間の士気も落ち、悪いと鬱傾向になってしまいかねない。集中力を失えばプロジェクトは瓦解する。また、失敗感は未来自分や後輩の首を絞める側面もある。失敗するかもしれないという恐怖が心理的安全性を著しく損なう。だから近年、「失敗した」という人は少なくなってきた。長い歴史のなかで人類は「失敗の悪さ」を学んだのだと思う。

にも関わらず「失敗」は相変わらず言われている。主に、敵によって。例えばアベノマスクだって明確に失敗だったとは言えないはずだろう。当時のコロナ禍の五里霧中の状況ではチャレンジングな施策だった。確かに注意深さは十分ではなく、後から見れば問題は多々あった。だけど反体制側の人間は躊躇なく「アベノマスクは失敗だった」と言う。これは立場問題だ。敵側の人にとってはあらゆる隙は「失敗」のレッテルを突きつけるチャンスになる。映画版スラムダンクは失敗だった。はてなブックマークUI変更は失敗だった。ツイッターイーロンマスクは失敗だった…。「失敗」は敵の言葉だ。

味方のフリをして足を引っ張る悪者にならないように、注意深く「失敗」のワードを避けるべきだと思う。失礼ながら、冒頭のトップコメントたちの修正案を考えてみた。

簡単に諦めてしまいがちな部外者である市民感覚と、責任を持って問題に向き合う専門家が使う言葉意味が違うのは当たり前で、2者の科学コミュニケーションを繫げるのがメディアに求められる役割なんだけど…

別に一発クリア打ち上げチャレンジじゃないんで失敗じゃないですね。運ぶものロケットが爆発四散とかしたら失敗です」って何度説明されても一発クリア打ち上げチャレンジだと思い込んでいる人々。

できるだけポジティブ表現に置き換えるのがコツ。見てる人の気分をダウナーにしないように時間をかけるのは時に難しいかもしれないけれど、必ずプラス意味を持つ。誰の心にも響かなかったとしてもマイナスにはならない。そういう細かいケアが求められる時代になってきたと思う。ずっと勘違いされてきたけど、実は、ヒトの心は簡単に折れてしまうのだから

2016-02-08

http://anond.hatelabo.jp/20160208013142

博士まで進んでアカポス就きたくないやつなんてあまりいないだろ。

分野によるんじゃない? 情報系だと博士から企業就職って多いっしょ。面白いことを求めていたら自分にとっては博士取って海外企業就職(のち起業)というコースになった。アカデミアでしか出来ないこともあるだろうし、企業の方がやりやすいこともあるし、結局はやりたいことをどんだけ出来たか自分基準判断するしかないわけで、周囲と比べて上だの下だのって気にしても意味ないよね。

元増田生物というから、それだと企業コースは厳しいのかも知れないが。

でも昨今の科学コミュニケーション問題とか見てると、もっとD持ち人材が広い範囲に散らばってもいいんじゃないかって気はする。(ごめん、すげー雑な印象論になっちゃうけど)。人類の知の先端がどんどん細分化・高度化してゆくにつれ、先頭を目指す人だけじゃなくて、分野間、あるいは頂上と裾野ブリッジになる人もたくさん必要とされると思うんだよね。

2013-05-17

ニセ科学小考

科学が"正しい(確かな)こと"をつくる過程が、実は全然世間に知られてないってことが(あるいはその認識がないことが)、ニセ科学跋扈する背景にあるんじゃないかと思えてきた

現在日本で観察されるニセ科学が言ってることは、「最先端科学から間違ってるとは言えない」ってことよりもむしろ「ある程度すでに分かっていることから考えてもこれはおかしい」と思われることが多い。

まりニセ科学というのは、ある程度科学者コミュニティ内でのコンセンサスが得られている事柄に反しているのに、それを無視して「科学的」な知識である標榜することだとひとまず僕は理解している。

科学的」であればすべて正しいと考えてしま市民(非専門家)の"性質"を巧みに利用して、「主張」を信じさせようというところに、ニセ科学の罪がある。

後出しですが、ここまで何度か使ってきた「科学的」という言葉を僕は「科学者コミュニティの中での精査の繰り返しによる確かさの増大によって、ある一定の確かさが保証されている」みたいな意味で使っています

科学は正しいことを言っている、という素朴なイメージは間違ってはいない。実際、理科教科書に載っていることは一般的な意味ですべて"正しい(確かだ)"。今日科学文明を見ればなんとなくわかる(ただしこれは価値判断を含んでいる)ように、科学は"信用できない"わけではない。

ただ問題なのは、「科学から正しい」になってしまうことだ。つまりつのまにか、科学的なこと(数式とか専門用語あるいは科学者の肩書など)が言われていればそれは正しいのだと思い込んでしまう。ある意味科学への信頼の表れでもあるのだが。

実際そう考えるのは無理もないことだと思う。学校理科教育は当然"正しい"ことしか教えられないからだ。教科書の中の科学はすべて正しいんだから、"すべての科学(とそれっぽいもの)"は正しいと考えるのはまあ自然である

しかしこれでは見過ごされるポイントがある。教科書の中の科学でさえ、最初からまったく正しかったわけではないということだ。残念ながら普通理科の授業(初等、中等、もしかしたら少なくない数の高等教育でも)では時間の制約上、そういうことに言及されることはない。事実事実として(初めからそうであったように)教えられる。むろんこれは間違ったことではない。学校教育宿命かもしれない。

科学が今のような強固な体系を持っている理由のひとつは、科学が広い意味で積み重ねの産物であることだ。それもただの積み重ねではなくて、数えきれないほど多くの科学者による検討実験による再現性のチェックなどを経たものだ。学術論文をはじめ科学的知識はピアレヴューや引用反証とそれに対する反論なんかの積み重ねで、ある水準の確かさを保っている。

この、科学の正しさが積み重ねられたものであるという認識が、世間には意外とないんじゃないかと思うのです。これはつまり、いわゆる"通常科学"とよばれるもの認識、に近い。

こういう科学の"裏側"みたいなものはあまり世間では語られないような気がする(実際、日本では科学高等教育を受けた人でさえ学部なら4年生になってはじめて(すこしだけ)わかるようなものだろう)。それで科学事実科学事実として生まれる、みたいなイメージ固定化されたら、"科学ベール"をまとった主張をすんなり信じてしまうのは無理もない。相手がそれを逆手にとって、初めから騙す気でいるならなおさらだ

教育の力は大きい。すくなくとも義務教育は全国民が受けるのだから理想論ながら、理科教育科学の多く(ここは大事ですね)は積み重ねの営為によってその確かさ正しさを増してきたのだという認識を育む教育であるべきだと思う。そして"通常科学"におけるその過程もっと積極的に教えるべきだと思います。要するに科学が"正しい(確かな)こと"をつくる過程科学の裏側がもっと世間に知られることが大事なのではないかと。

科学的」だから正しい、という前提が世間にあるために、「科学的」なものの"絶対化"が促進され、その権威に付け込んでニセ科学跋扈する。そしてニセ科学を批判するために科学言葉を使うと、社会科学のなかの対立だと見なして、科学全体に不信感を持つ。さらにこれによってニセ科学に「(ニセ科学を批判している)科学は常に正しいとは限らない」という言い訳を与えている。科学の妄信的権威化の前では、ニセ科学は光に対する影のようなものだ。

まず社会が前提とすべきは、科学の知識の多くは積み重ねによってより正しい(確かな)ものになっていく、さらにいえば、いまこの瞬間もそうなっていっているという認識ではないか。より実践的な意味重要なのはニセ科学は単に科学的な誤りというだけではなくて、現在日本ニセ科学のすべてが、科学者真摯な積み重ねを無視・拒否していることです。しかし、こういった認識はまだ一般的でないような気がします。

もちろん、科学的真理というものがあるとすれば、それは科学者コミュニティの中の多数決で決まるというものでは決してない。単に時間が解決してくれるものでもない。時には、そのとき科学ではまったく説明のできない問題が生じ、"ただの積み上げ"だけでは科学の正しさが保証されない場合もある(というか何度もあった)。しかしながらニセ科学クーンの言う"危機"の発端ではないだろう。むしろ"通常科学"のなかで淘汰されるべきものだ。

ニセ科学という影に対峙するためには、むやみやたらな科学の絶対化は止めるべきだ。しかし、「じゃあ科学の相対化!」という(お決まりの)流れになるのではなくて、まずは世間にある静的な科学観をもうすこし現実にそった動的なものにかえていくべきではないだろうか。科学教育科学コミュニケーションの出番はここにあると僕は思うのです。

そのためには、たとえば理科教育科学史科学哲学科学社会学エッセンスを加えてみるだとか、また理科時間に拘らず、国語社会科時間科学という営みのエッセンスを振り分けてもいい。あるいは実際の研究前線を知っている博士号教員を増やすだとか、そういうやりかたもあるんだろうと思う。

科学の楽しさ素晴らしさを知ってほしい!っていう理科教育はもちろん素敵である。いっぽうで、科学とはどういう営みなのかということを誠実に教えること、あるいはいっしょに考えていくことは、科学のもたらす"正しい"知識を教えることと同じくらい大切なことではないだろうか。"科学という営み"についての観点も含めて、"科学リテラシー"なのではないかなと思うのです。

2009-11-02

サイエンスアゴラ

こんな記事も上がってたけど

サイエンスアゴラは、やる気の無い団体とお役所仕事税金泥棒の展示会かよ!!」

http://blog.livedoor.jp/youkaiteikoku/archives/50936070.html

なんか科学コミュニケーションやってる人たちって近寄りがたい。

いつも内輪で誉め合ってるか、裏でネチネチけんかしてる感じなんだよな〜

 
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