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2015-03-18

シュマリゴールデンカムイ

似てるってのをホッテントリで知って、今シュマリ読んでるところ。

確かに似てる部分はあるけど、シュマリ全体の1/10くらいじゃん。

逆に言うと、手塚治虫があのテーマで書いたらあっさり3,4話で終わっちゃうってことなんだなーと。

波瀾万丈すぎるのにあっさりサクサク進むから逆にメリハリがなく感じるレベル

演出に凝る今の作家が書いたらいったい何十巻になるんだってレベルの内容だよ。

火の鳥しかり、何を今更って言われるであろうことは百も承知だけど。

あと読んでて既視感たくさんあったよ。ゴールデンカムイ以外にも。

熊谷達也の邂逅の森に、ヴィンランド・サガ

結局似たテーマを扱う以上、広がりに限界はあるってだけのこと。

ゴールデンカムイはそこにかろうじてグルメマンガ的要素のボリュームを増やしてちょこっとだけ幅を広げてる。

とりあえず最後までシュマリ読も。

2013-08-06

最近読んだ本

先週、天童荒太の歓喜の仔を読んだ。

主人公男の子歓喜の歌を歌っていた。

次に、熊谷達也調律師を読んだ。

主人公共感覚を持つ男で、歓喜の歌合唱に関わるエピソードがあった。

さっき、今月の日経サイエンスを読んだ。

共感覚の特集があった。

次は何ですかね?

2011-04-17

東北の怒り

4月16日河北新報 「3.11 震災作家たち(6)」より

河北新報HPに掲載されてはいないが以下から転記。

http://ameblo.jp/goldenchildsee/entry-10863022937.html

東北の怒り  熊谷達也

3月11日巨大地震大津波以後、「想定外」あるいは、「想定を超える」という言葉が、この国ではどれだけ飛び交ったことか。

メディアを通してそれを耳にするたびに、最初から私は腹が立って仕方がなかったし、いまだに腹立ちは続いている。

沿岸部の被災地の人々は、あるいは、私を含め、東北に生きることで同じ痛みを抱え、困難な未来を共に引き受けようと覚悟している者、誰ひとりとして「想定外」という言葉を口にしていない。

たとえ確かにそうだと思っていても、目の当たりにした数々の光景はそんな簡単な一言で片付けられるはずがなく、無言を貫くか、懸命になって違う言葉を探そうとするかの、どちらかだ。

 

人間は何をどう想定しようと、人智をはるかに超えた力を、時に暴力という形で解き放つの自然だという事を、私たち東北人は誰に教えられることなく知っている。

からこそ私たち東北人は、自然に対して謙虚に向き合い、その厳しさに耐えることを当然としていき続けてきた。

から今回の震災に対しても、失ったもののあまりの大きさに嘆きこそすれ、恨む事はしていない。

ただ黙々とその日に出来る事をひとつづつ積み重ね、日常を取り戻すための辛抱をするだけだ。


だが、内に抱える腹立ちや怒りを今回ばかりは遠慮せずに言葉にしてはいいのではないか

それほど、東京を中心とした首都圏から発信される言葉は、下品なまでに卑しく、呆れ果てるものが多いからだ。

ここまで言葉に傷つけられ、それでも黙っている事は、もう出来ない。今回だけは、東北人はキレていい。誰もキレなくても、私はキレる。

例えば震災直後、大きな決断しましたと言わんばかりに「2万人の自衛隊員派遣する」と発表したこの国の政府

その後すぐに「5万」と変更したと思うが、冗談じゃない。

被災地にいる我々は、2万はおろか5万だってぜんぜん足りない、最低でも10万は必要だと、誰もが直感的に思ったはずだ。

メディアがこぞって原発事故ばかりを騒ぎ立てている間にも、助けようとしたら助けられたかもしれない命が、瓦礫の下でどれだけの数、失われていった事か。

暴走しようとする原発を宥めるべく、現場に身を置き続ける作業員や自衛隊員消防隊員には敬意を払う。

しかし、冷たい雪になぶられる瓦礫を、なすすべなく見つめるしかなかった私たちには、東京放射線騒ぎや計画停電なんかどうでもよかった。

燃料の尽きた底冷えのする避難所で空腹を抱えていた被災者はもちろん、同じ寒風の下で幼い子どもの手を引き、愚痴をもらさず何時間スーパーマーケットに並んでいた仙台市民も、東京のバカ騒ぎに対して、いい加減にしろっ、と心の内では吐き捨てていた。


東京電気を送るために、私たちは進んで原発を引き受けたのではない。原発なんかなくても暮らす事は出来ていた。

原発がなくては暮らせないように東北の村を作り変えたのは、首都圏エゴイズムだ。

今度原発を作る時には、東京湾に作ればいい。原発道路なんか、私たちには必要ない。

あるいは、今後は津波の来ない場所に町を再建すべきだと、訳知り顔で言ってのけるものもいる。

何度津浪が来ようと、海のそばでしか暮らせない人々の、その気持ちがなぜ分からない。

いつも海を見ていた人々の心の在り方に、どうして思いが至らないのか。

もちろん、東京人だって、私たちの痛みを同じ目線で共有しようとしてくれている人々がいることを、一緒に痛みを引き受けようとしてくれている人々が沢山いることを、私たちは知っている。

しかし、それを差し引いても、私の腹立ちが収まる気配は一向にない。

想定外」などという、想像力のかけらもない安易な言葉に、これ以上傷つけられるのはもう沢山だ。

 
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