はてなキーワード: 機微とは
芦原先生にとって一番クリティカルだったことは、9話と10話の脚本を執筆して、その評価が芳しくなかったことなんじゃないかなと思っています。
「原作通り・結末は自身で指定する」という当初のオーダーを果たすために、脚本家を降板させるという(現場的には)強行にでて、
自身の作家性を込めたオリジナルストーリーを描いたにもかかわらず、その評価が芳しくなかった(と本人が認識した)のなら、
作家としてのアイデンティティに大ダメージですよ。私は自分の作品を守る為に必死にやったはずなのに、それは求められていなかったと。
このあたりの心情は当のブログ文章からも何となく読み取れます。
何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。
素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです。
漫画「セクシー田中さん」の原稿の〆切とも重なり、相当短い時間で脚本を
執筆しなければならない状況となり、推敲を重ねられなかったことも悔いてます。
9話、10話の脚本にご不満をもたれた方もいらっしゃるかと思います。
どのような判断がベストだったのか、今も正直正解が分からずにいますが、
改めて、心よりお詫び申し上げます。
https://web.archive.org/web/20240127104246/http://ashihara-hina.jugem.jp/
この先生のテキストについて、自分も最初は内部告発やカウンターかと思ってしまったのですが、
本当は経緯の説明と執筆脚本に対する釈明だったのではないかと今では思います。
脚本を書いて責任を負ってしまった結果、これは自分の作品ではないと分断処理も被害者側に立つこともできなくなり、余計に苦しみを背負うことになったのではないでしょうか。
そのうえで、ブログの公表によって意図せずに脚本家を原作レイパーとして全責任を負わせてしまったわけです。
作品を駄目にしたのは自分自身ではないか、そんな感情が渦巻いてる時にこれは、より惨めに思えたことでしょう…。
先生に届けられた脚本家による9話、10話のシナリオは初稿ではないはずです。現場ではOKとされたものが、原作者監修と回されて全ボツになったわけですから、現場の士気には少なからず悪影響があったはずです。
また脚本家の方は現場に出向いてる様子で、キャストやスタッフとも信頼関係にあったことも忘れてはいけません。先生にはブログ記事にあるように、そもそも交流もなかった。
原作者権限として、あるいは契約として先生がやったことは正しいのですが、現場の感情としては正しくなくて、これが出来栄えにも影響与えたかもしれません。
なのでドラマの打ち上げにも呼ばれなかったとかもありそうで、そういうのもダメージの蓄積になってそうです。
ちなみにドラマの9話、10話の評価に関してはネット漁ればネガティブコメントはまぁあります。ただそれら全体の1割くらいで、最終回まで見た人は概ねポジティブな感想を残している印象です。
視聴率も9話→10話から1%低下してますが、これも面白さと直結している指標とは言えません。
ただ脚本家のインスタと併せて、先生が責任を感じるには十分過ぎた、という感じだったのではないでしょうか。
ブログ発表後に「最終回が変だったのはこういう事情があったからなんですね!」なんて無邪気に投稿してる人もいて、自分が先生の立場だったら本当に死にたくなるなぁっと思った次第です。
原作設定を大幅に改変しまくった脚本だったから仕方なく書いたという流れなのに、原作者が望んで書いたのに、みたいな前提になってないか?
芦原先生が脚本を書かなれけば放送できない状況ではなく、誰かに書けと圧力をかけられたわけでもないようです。
消極的な選択だったのでしょうが、作品の為に自分が書くと決断したんじゃないでしょうか。
だから余計にシンドくなってしまったんじゃないとか、そういう感触です。
ただ制作中の作品において、その問題が表出している場合、貴方が先生の立場だった場合どういう行動を取りますか?
芦原先生は正面から必死に戦った結果、「正解が分からなかった」と吐露しています。
とても難しい状況だったと感じます。
もう触れないほうがいいかなと思っていたのですが、最後に少しだけこっそりと。
本件に関しては今なお延焼していますが、原作と映像化の構造、あるいは原作者と脚本家と対立に関する議論に完全にシフトした印象です。
ですが、これは心を痛めた人間が死んでしまった事件であり、自死に至るまでの心の機微に焦点が向けられていないことは素直に悲しく思います。
芦原先生がどんな気持ちを抱いていたのか、それが明かされる日はこないと思います。
だからといって先生の心情や作品を透明化してしまうのは、なんともな感情が抱いてしまいます。
ですが、このエントリのブコメやトラバのなかには、先生に対する心情や心労に対しての洞察も多数あり、
自分とは異なる観点で書かれたそれらは、大変価値のあるものだと思っています。コメント残してくださった方々、本当にありがとうございます。
先生がなぜ「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい。」というメッセージを最後に書いたのか。
そのことに各々が思いを馳せることこそが、一番の再発防止に繋がるのではないかと信じたいです。
あの漫画家さんを、皆が口々に繊細な人と表現するのかがわからない。登場人物の心の機微を描くのが上手いから、きっと人の心がわかる優しい人なんだと、漫画を読んでた人が書くのはわかる。
繊細な人だから、の裏側には、
どこか、弱い人だから自ら死を選んだんだ、
弱いから淘汰されて仕方ないんだというような心の面持ちが感じられて苦しくなる。
実際は、いくらなんでも命を捨てる必要は無いじゃないかと思っての言葉なのは理解できる。私もそう思う。
自分の言葉が、自分の手を離れ、止めようもなくおびただしい憎悪の輪が広がっていく怖さは、死を選ぶ理由には値しないんだろうか。
去年、りゅうちぇるが亡くなった。
好きなイラストレーターが亡くなった。
まだ若かった。
ずっと昔に、好きなボカロPが亡くなった。
あまりに若くに才能を認められたからなのか、若き天才の称号に苦しんでたのかわからない、どんな形でもいいから生き続けてほしかった。
死んだのはすべて嘘で別の誰かとして世界の何処かで生き続けてるのかもしれないと想像して更新の止まったTwitterやチャンネルをみる。交差点の花束みたいに、毎年、命日に追悼コメントが書き足されてる。
最近ショート動画で音源を使われているのをみて、この景色を本人に教えられたらいいのにとおもった。
あなたの死を悼む人たちの声を届けて、生き返ってくれたらいいのにと思った。
ネトゲみたいに、現世に復帰してよ。
世論調査で政党支持率が出て、裏金問題があっても自民党だけ圧倒的支持率を獲得しているけど、一度番組の企画とかでもいいから自民党は派閥別にして支持率調査をやってみてほしい。知っての通り自民党は派閥ごとに考え方が全然違うし、普段は別政党と思うくらいにバラバラに動く。自民だけ派閥別にしたほうが政策や政局に対する世論の機微が反映されやすい。
今回の裏金騒動では自民の支持率が変わらないのに、岸田の政権支持率だけがダダ下がりして岸田の一人負け状態になってる。派閥ごとの世論調査していた場合、裏金問題の中心にいるのは安倍派であるから安倍派の支持率が下がっているのではないかと思いがちだが、実際は安倍派の支持率は全然下がらず、むしろ岸田派の支持率だけが過去最低になっていたことだろう。
発達障害の特性の一つに「コミュニケーションが苦手」という点がある。このことは、診断されず、支援がないまま成長してしまうと、社会生活の中でいくつもの課題を生み出すのだという。
「いろんな課題があるのですが、一つには、性被害に遭いやすい点が挙げられます。
社会には暗黙のルールがたくさんあるっていうことを、丁寧に説明してあげなければならないのですが、性に関する暗黙のルールや機微は親は伝えにくいし、友達から教わることもあまりないので、性被害に遭いやすいんですね」
ーー性に関する暗黙のルールって、どういうことでしょうか?
例えば夜道や、男性ばかりの飲み会って、暗黙的に“危険な場所だな”と認識できますよね。しかし発達障害の方は、仲の良い人たちだから行ってみようかなとなるんです。“危ない” “怖い”という感覚がないことがあります。
さらに例えば、2人でゲームしない?と誘われて男性の家に行くことも、ある意味、性的関係になる可能性もあるのに、社会的文脈や暗黙知が分かりにくいんです」
https://news.yahoo.co.jp/articles/4bc4928a9c4ee9603dc4a0deba7a94a0a142fbd8?page=2
健常者同士であれば“セックスの同意”と取られるような言動を発達障害者女性が無自覚にしてしまい、それで健常者男性は経験上「同意があった」と判断して強引にキスしたり押し倒したりして、発達障害者女性が「レイプされた」と思ってしまう事例はかなり多そう。松本人志の件もコレの可能性がある。
「はっきり言葉で同意を明示してないのに行為に及んだ方が悪い」というのは正論だけど、健常者同士でそれをやると「コンテキストを理解できないクソダサい奴」=発達障害者扱いされてしまう。
これを避けるためには、できるだけ若いうちに発達障害の診断をして、発達障害者専用のヘルプマークみたいなものを身に付けてもらうしかないのでは。「この人は発達障害者だから思わせぶりな態度にみえても本意ではなく、無自覚にやってるだけ」と健常者側に回避してもらうしかない。
松本人志の性加害報道が取り沙汰された後、このような動画が発掘・RTされてた。
https://x.com/karate_fighter_/status/1671784145092239361?s=46&t=2K4OW3kjh3NOSzlKqM0y8g
この動画への引リツは批判とドン引きが大半だ。当然である。当時小学生でこれらを毎週見てた俺でもドン引きするし、PTAがこれらの番組から子供を守りたかった気持ちもよくわかる。(一応世代として弁解をさせてもらうと、キャシィ塚本をはじめとしたごっつのコントに対しては、当時であってもこれで笑って本当に良いのだろうかという多少の罪悪感を持ちながら視聴していたファンが多かったように思う。)
今回の騒動で気づいたのは、視聴者の笑いに対する価値観のアップデートは知らず知らずのうちに行われて、また供給者もそれを機微に感知して絶妙なチューニングを施してきたんだなあという事だ。ごっつまで遡らなくても、ほんの10年前のお笑いをみると、セクハラ・パワハラ・差別的笑いが横行している。今でもオンラインアーカイブなどでも視聴可能だが、ここで具体的な番組名を出して配信停止になると嫌だから書くのは控える。
この間のM-1でも「不倫」に関するボケを入れていたコンビがいた。これはそのコンビの漫才中で1,2を争うくらい爆笑をもたらしていたが、もちろんリアルのリテラシーからして不倫は許される行為ではない。不倫で傷ついている人間はたくさんいるからだ。それらの人の事を慮らずに笑いにするとは何事だ!という批判も今後十分に考えられる。
なにが言いたいかというと、今の笑っているコンテンツが10年後、20年後も生きているかなんてのは誰にもわからない。今の価値観で過去を批判するというのは、将来自分の首を絞めかねない危うい行為であるのだ。
ギレルモ・デル・トロが『ゴジラ-1.0』を大絶賛!「奇跡だ」|シネマトゥデイ
https://l.pg1x.com/JtVcUbvARtYTzNRH8
オマエラの「物事の機微が画面に出てて、人間性を抑えて、それで味わい深くなる画面」を演技、って思ってんのかよ(笑)
バカジャネーノ。いいんだよ。大衆娯楽なんだから。ソースどばー、で。
そりゃ米帝作品に「親子の確執と和解」が入っている度「くそつまんねーんだけど!いらねー!」って叫ぶ人たちが後を絶たない訳だ。
まぁ、俺もキンバリーは嫌いだけどさ。コイツが事態をややこしくしてる面が大きすぎる。古いな(笑)しらねーよな、平成キッズ共は、『24』ってドラマ。
どうせ俺の大好きな『私家版』とか見ても「わけがわかんねーんだけど!」っていうのが目に見えてんだよ、はてなーのバカコモディティ共が。
いいか。映画の好き嫌いなんてのはなぁ「ソイツの生きてきた時間と環境“だけ”が影響を与えるもの」なんだよ。
何を食って何を見て何を感じて何を理解して何を嗜好するか。それだけなんだよ。
良いも悪いもねぇよ。
『ヴァンパイア最後の聖戦』なんかOP5分10分で「おもしれー!最高!もう大丈夫!」って評価Sを上げていいんだよ。
オマエラ、スノッブの悪い癖はなぁ「何にでも意味を求め、何にでも価値を求め、何にでも善性を求める」ことなんだよ。
人間は邪悪。7つの罪が前提のどうしようもない消費しか行わないクソ霊長なんだよ。
たかが1個の作品が、好きなカテゴリーだからって「神木隆之介の演技がクソ!」って怒鳴り散らそうが、デル・トロには「最高!」ってなったらひっくり返せないの。
だからオマエの感想を言った後は、他人の感想は『なるほどそれもアイカツだね!』ぐらい棚上げして気にするな。
人間の善を信じすぎていたのに気付いたので記して戒めにしたいと思う。
話のベースは"個人宛大量フラスタのお礼を全く言わない推し"にキレている私。
人間性は元々切り離して推してきたので、発言がズレてたり認識に齟齬があったりしても推し続けてきた。
典型的な 「私はちゃんと理性的だから大丈夫」 だったんだと思う。
推しはお手紙や贈り物、フラスタのお礼は基本的には言わないが気まぐれでお礼を伝えたりは数年おきにしていた。
更に、お礼は基本的に言わないくせして手紙や感想を寄越せと言ってきた時期もあった。
まにうけた若い私は普遍的で手短な感想を直接伝えた事も、手紙を送った事もあった。
対面の際に私が見たのは、一般的な反応では全くなく、迷惑そうにしていたので違ったんだな、とそれ以上なにかレスポンスを取ることはなかった。
そこで私は気付いた振りをしたらしい。
こういう人間なので、仕方のない、これがこの人間の普通で、考えた行動でもないと。
これが最大級の推しに期待をしていない だと思い込んでいたらどうやら根本から間違っていたと気付いた。
人間は「ありがとう」と「ごめんね」をちゃんと相手に伝えるべきだと諦めきれてなかったようで、大まかに言えば性善説が根底にあると思い込んでいた。
嫌いなゴミカスであればすぐにバケモノレッテルを貼れるので、確実にそうなんだろう。
とは別に私自身他人の事を自分の事のように思う癖があるのも気をつけないとな、と思った。
同じ寿司が回り続けるのをみて廃棄かもしれない…と寿司に心を痛めているのは普通に考えて鬱病。
こいつみたいな奴に花を贈る時点で"覚悟"をしておけって感じ、と妹に言われて推しって人間味ゼロだと他担に評価されてんだ…でも本当にそう…としみじみ感じる。
私は結局声が良くて、演技も良くて、顔もスタイルも良い心の機微などないバケモノを推していた。
自分が信じる人間の誰でも持っている善性はそもそもないし、推しはバケモノである。
これを踏まえて今後、イベントに行くかちゃんと感じないといけないなと妹に言ったら
バケモノを推している事に折り合いをつけて自分はバケモノを推しているんだと自覚しろ、みたいな事を言われたので覚悟を決めなければなと思いましたが、そもそも2023現場はトーク系は行かず相当選んだ上で行ってたんだよな。
自分は記憶力があまりない方なので、嫌なことつまらなかったことは綺麗さっぱり忘れる性格だ。
つまらない映像作品を見ると、もれなく見た記憶すら消し去られてしまうので好きな作品は何度も見ないのに。つまらない作品を何度か観てしまう。
ヴァイオレットエヴァーガーデンは、色んな人から勧められていたのでついに観る時が来たかと。ワクワクしながら先日視聴した。ストーリーの「心を失った機械のような少女が、愛を貰い心を取り戻していく純愛戦場ラブストーリー」には確かに自分の好きそうな要素が多くワクワクして視聴していた。しかし所々、既視感あるシーンがあり、ストーリーにも不満がどんどん募っていった。ああ、これ多分見たやつなんだ。つまらなかったから忘れてしまっていたやつなんだ。そう気づいた時にはもう遅く。とりあえず見てみることにしたが本当に綺麗な映像だけでありきたりな万人ウケするショートストーリーの詰め合わせに、グルーミングクズ男の少佐となんだかんだ最初から愛を表現しちゃってる機会というほど非情ではない中途半端な少女のラブストーリーを見せられて本当に残念だった。勧められたからにはきっといいところがあるだろうと、外伝や劇場版を見たが。個人的にいいと思ったのは外伝だけだった。メインのストーリーは、人を平気で殺せるレベルの機械のような非常な女の子が心を取り戻すなんて壮大に煽りながら実際は4話あたりで号泣し始めるなど。全く心の機微を表現する気がなくて残念だった。
近年のアニメは、視聴者の需要に応えるためにはつまらない作品や演出をせざる終えないことはわかっている。展開が遅いと視聴者が離れるし。アニメ好きに刺さっても、儲からなければ廃れてしまう。見る人見る立場が変われば、印象が変わるような。絵画を見ているような。芸術点の高い作品に出会いたいな。
ムダ派の輩には大きな勘違いがあるよな
意図的に重要な話がタバコ会議や飲み会で行われてるに違いないとか思ってそう
んなわけないんだが
これは裏返せば
って話なんだよな
ここに勘違いがあって
誰もそれが重要な話だなんて思って話してねぇんだよ
そこで行われてるのは雑談なの
特定の人には重要だったり、方針決定に寄与したりするだけなんだよ
で、これを聞いた嫌煙下戸は「きちんと報連相として出力しろ」ってドヤ顔すんだけど
それやると絶対に「失敗」するんだよ
理由は簡単で、そんなレベルの話をいちいち全社的に共有なんかしたら、情報で埋もれてしまう
何でもかんでもメールのCCに入ってたら関係ないメールを読まなくなるみたいなもんよ
読まなかった方が悪いってなる
タバコ部屋と飲み会の価値を下げるために、くだらない事でも全員で共有しましょう
全員キチンとそれを読みましょうってか?
馬鹿抜かせよ
結局、どんなツールを使おうが出力する時には、咀嚼して整理したものになるんだよ
そうじゃなきゃ、誰も使わなくなるんだよ
Slack 使おうが、Notion 使おうが変わらねぇの
誰も彼もが垂れ流した上で、それを取捨選択して拾えとか、アホかと思うんだよ
あの世界って、高度なコミュニケーション能力と、共感能力や恋愛感情への機微を持ち合わせてないと人間として認められない世界だと思う。
アウラの発言が魔族の証明みたいになるのがわからなかった。村長を殺して娘の代わりがいるよって渡す魔族がやばい奴なのは当たり前だが理解るよ。
でもアウラの発言は、ちょっと前に闘ったときはフリーレンは死体戦士たちをボロボロにして倒してたわけで、ヒンメルに怒られたからって理由ならヒンメルがいない今も守る必要なくない?って思うのそんなにおかしいのかな。
死体に関しての宗教観は色々なので、エルフのフリーレンからすると死んだらその体は無意味だと思ってたからボロボロに倒してたんだろうし、死体を損壊してほしくないっていうヒンメルの気持ちにフリーレンが寄り添ったとして、その事情をアウラは知らなくて当たり前じゃない?
しかも、フリーレンが勝つとはアウラは思ってないわけで、そんな宗教観に寄り添って負けてたら意味がないわけじゃん。
自分がASDの診断下りてる発達障害者だからわからないのだろうか。
フリーレン世界の人間とは、発達障害者も境界性知能の人間もいなくて、発達障害や境界性知能の人間はエルフか魔族に振り分けられるのかな。
英語圏での吹き替えではアウラの発言に侮辱の意味が強まっていたと賛否両論になってたの読んだけど、そりゃあ差別に敏感な欧米なら、自閉症や境界性知能の人間は人間じゃない魔族だみたいになりかねない文脈避けるだろうな。