はてなキーワード: 未来のためにとは
https://anond.hatelabo.jp/20231016145136
商業施設を騒がしく走り回る子どもたちの中に、ときどき自分の子を幻視する。並びあって登下校する中学生の集団に、電車の中で勉強している高校生たちのひとりに、自分が育てていたかもしれない子の姿を思い描く。私には子どもがいないので、もしも子がいたならば、あの小学生のようにあどけなく笑っているだろうかとか、進路に悩む姿を見守っていただろうかとか、ひとりで過ごす時間に、ふと想像をする。
40代のおじさんになってみて、子どもがいない自分の状況・環境のメリット、デメリットを改めて実感している。メリットは言わずもがな、自分たち夫婦に使う時間とお金が保てることと社会的な身軽さ。デメリットに関しては、夫婦二人が関与する世界が狭くなっていくことの不安や、人生における暇と無駄な時間の浪費や、老後の心配といったもの。それぞれ書き出すとキリがない。おそらく今はメリットが最大化されている時期で、このあとデメリットがどんどん大きくなっていくのだろう。
親が思春期の自分を育てていた年齢を迎え、よくそんなことができていたなと親を尊敬することしきりだが、周りの友人や同僚たちも当たり前のように子どもを産み育て、日々やってくる課題に立ち向かっているのをみると、自分の親に対するように尊敬の念を抱かずにはいられない。私から見れば偉業と言っていい。
その一方で「どうしてそんな苦労を背負い込むのか」と思ってしまうのも正直なところだ。想像もつかない苦労をすると分かっていて子どもをもうけるだなんてすごい勇気だと思うし、自分は若い時から今まで、そんなコストとリスクをとる気力は抱けなかった。子どもはかわいい、生きがい、子を成し育てるのは当然、という感覚や考えを抱けなかった自分は、子どもがいることに対する具体的な実感を持ち得ず、想像するのも難しいゆえに、臆病風に吹かれた弱者として、子を育てない大人であることにちょっとした引け目を感じながら中年の日々を暮らしている。
臆病風のほかに、収入・子育て費用の不安、出産の身体リスクを妻に負わせることの理不尽さ、自分は遺伝子(ジーン)よりも情報因子(ミーム)を残すんだぜといった謎イキリ、積極的に子どもを持とうとしなかった妻の意志、生まれた子の健康状態への不安、育つ中で犯罪や害意に晒され傷けられることの恐怖、膣内射精障害、劣化した遺伝子がもたらす実子への悪影響、など、子どもを作らなかった理由はいくらでも後付けで挙げられる。だが、結局ただの言い訳、逃げの一句に過ぎない。
たいした理由も展望もなく、ただ、子どもを持つことを想像できず、覚悟もできなかっただけなのだ。
この年齢になって、子どもは未来だとつくづく思う。もし子どもがいれば、成長した10年後、彼らが家庭を持っているであろう30年後、そして100年後、と続いていく未来を自分ごととして認識できるだろう。自分の子どもたちがその未来を生きるのだから、少なからず興味と関心を抱けるだろう。
ところが、子どもがいないと、未来の時間は自分が死ぬまでの時間でしかない。2050年にどんな世界になっているかなんてたいした興味も持てない。社会に生きる大人として、何らかの主義主張を持ってより良い未来のためにアクションするのが市民としての態度だとは思うが、いかんせんその未来の主体は、自分の肉親ではない他の誰かである。もちろんずっと平和であってほしいし、心が躍る進化や文化がある未来であってほしい。そんな未来を楽しむ期待はある。だが、そこにいるのは死にゆく老いた自分であって、その頃にはもう希望も期待も薄れてしまっているだろう。
もし子どもがいれば、彼らが生きる未来こそが自分の生きる意味だと実感できたかもしれない。子どもが健やかに生きられますように、と祈る未来よりも、自分たち夫婦が心安らかに過ごせるようにと望む未来は、だいぶシンプルで色褪せていて、だいぶ寂しいんじゃないだろうか。子どもがいないことは、自分の未来が短くなることなのだ。
「子どもを持ちたい」という欲を素直に少しでも抱くのであれば、どうか子どもを持ってほしいと思うし、産みやすく育てやすい社会を目指して私も努めたいし、そういう社会になるべきだと考えている。あつかましいことこの上ないが、自分たちのような人間の未来も託せる存在として、子どもは社会の宝、というのは真理な気がする。
子どもを作らなかったことは後悔していない。私はそれを選んだし、妻も納得したうえでの選択だ。ただ、もしも子どもがいたら、という妄想を時々してしまうのをやめられないだけだ。
子どもを失った人や子どもを持てなかった人たちとは全然違う境遇だけれども、子どもを作らなかった人たちも私同様にさまざまなことを感じて過ごしているだろうから、ひとつのケースとして私の今の感覚を書いてみた。
子どものために生きないかわりに、自分勝手に暇な時間を過ごせている。思っていた以上に暇で、人生のステージはずっと踊り場だ。今はそんな感じである。
ただ、街ゆく子どもの中に自分の子を幻視したとき、言ってもらえるはずだった言葉を想像したとき、あたたかく触れ合える存在がいてほしいと願ったとき。
そんな幻が消えたとき、少しだけ寂しくなる。
みんなは寂しくないのかな。
あくまで関係性としてだけど、ヒガシ×ジュリーさんはアリだなと思った。いや当人同士に関しては無いんだけど、関係性を煮詰めてくとめちゃくちゃ自分好みのCPだわ
美貌の商品×売人の一族、商品を食い散らすのに躊躇ない叔父と愛のない母、自分たちの商売に疑問を持ちつつ囚われていくお嬢様、世間の人気者になっていく美青年。
結婚の話が現れても当人同士は互いの未来のために拒絶し、しかし芸能界から自由にはなれずに長い年月が過ぎる。エモい。
そしてふたりが老境に近づいた時、叔父の重ねた罪の清算が必要となって、二人は初めて公の場で手を携える…いやエモくない?
倫理観壊滅しててすまんな
そうすると決まった時間に、神社の外からとても丁寧なお辞儀をしてから駅に向かう家族がいる。
どんなお願い事をしているのか、それとも過去に起こったことに感謝しているのかわからない。
両親は50歳くらい。おそらく息子と思われる男子は中学生くらいだと思う。
過去に大きな病気にかかったときに頼ったのか、未来のために何か大切な願い事を掛けているのか。
特に会話もなく神社に近づき、入り口の外に3人が横並びになって、特に合図があるわけでもなく3人がきれいにお辞儀をして、そのまま何事もなかったかのように駅に向かう道を行く。
そこだけ切り取るととても美しい何かを感じさせるシーンなのだが、何かが引っかかった。
毎日しっかりと決まった時間に家を出ているわけではないので他の日はどうかわからないが、同じ時間に神社に差し掛かるときは決まってその家族が神社の外からお辞儀をする姿が確認できた。
それでなんとなく他の時間帯でも気にするようになったのだが、この家族以外にも、一定数の人が神社の外から非常に丁寧なお辞儀をしてから駅に向かっていることに気がついた。
朝の時間帯、忙しいという理由で中に入るまでもないという感じなのかもしれないが、お辞儀だけは手を抜くまいとする姿は皆に共通していた。
それだけ切り取ると確かに美しい何かを感じさせるシーンなのだが、やはり何かが引っかかった。
そうなのである。
お賽銭を全く投げていないのにも関わらず、お辞儀だけはクソ丁寧なのである。
願い事の万引き。
ちゃんと参るっていう行為自体が信仰の対価になるのだから、そこ端折ったら万引きでしょ。
それに気づいてからそれまでどこか神聖に見えてた彼らがエビルな存在だとした感じられなくなってしまった。
もしかすると何かのタイミングでまとめてそれなりのお布施(初穂料?玉串料?)を払っているかもしれない。
それにしたって、そんなに大きな神社なわけでもないのだから、たった十数メートルの参拝を省略するのはどうなのか。
だったら神社の前を通るときに心のなかで手を合わせていけばいいだけなのに、お辞儀だけクソ丁寧っていう願掛けの線引はまじで意味がわからない。
神様にガチなプレッシャーかけて、絶対に元取ってやろうっていう魂胆が見え見えなのだが。
似たような話で、大手町に将門塚というのがあるのだけど、めちゃくちゃ丁寧なお参りをしてる人がすぐ横に路駐してた車に乗り込む姿をみるとやるせない気持ちになるのよね。
そこを通るとかなりの頻度で路駐があるのだけど、そのせいで左折車線に入りづらくて迷惑だしそもそも危ない。
人に迷惑をかけてまで参られる側がどんな気持ちになるか考えればわかることだろうって。
お参りは誰よりも丁寧!って姿が、謙虚の皮を被った傲慢に見えておかしくて仕方ない。
「食べ物を残してはいけない」という価値観が社会に蔓延っている。
自分が快と感じる範囲を超えて食べ物を貪るのは不幸になる道以外に無い。
もしそれが他人から与えられたものであれば、食べ物を与える者の言いなりになる奴隷精神につながる。
もしそれが自分が得たものであるなら、自分が食べられる量を間違えて計算したことになる。しかしそれは残してはいけない理由にはならない。間違いを許さない不寛容な精神につながるものである。
しかし問題なのは自分を含め多くの人がこの価値観をすっかり内面化していることである。
まだ皿におかずが残っていればもったいなく思い、残す人を見れば品が無く不快な人間だと判断してしまう。
であるならば、物心つかないうちから教育を行なってこの内面化を防ぎ、次の世代での考えを変えなければならない。
そのためには
・食べ物を残するのを非とする漫画や小説を子供に見せない。また、そんなシーンがある作品には抗議を行う
「いつ離婚しても問題ない」って精神的安定感ってものすごいプラスのものだと思うんだよな。
どちらかが専業主フを選択しなければキャリアも止まらんし(止まっても資格あれば十分説明の上復帰可能だし)
これって親ガチャ当りのやつが「自分の力で大成しました!」みたいな、いやいや崖際にいないんだからそりゃ自由にやれるでしょみたいな、そういう優位性があると思うんだよね。ズルくね?
そもそも子供がいることのプラスってマウント取るくらいしかなくね?それも今や剥奪されつつあるし、子供を産むことのメリット話せば「メリットで子供産むな!子供はお前のものじゃない!」とかインターネットに全世界に公開されていいねとかはてなスターとかで追い打ちされてボコボコにされるし。子供を作らないメリットはいくらでも語っていいのにこれじゃあ不公平よなそもそも。
こんなんだったら「本当に自分の子供を産みたい!!」と思ってるか、「日本の未来のために子供生むのは使命でしょ」と思ってるか「出来ちゃったから責任は持って育てるか」って人しか作らんよね。これまでは「結婚ってそういうもんだし親のためにも作ろう」ってなってたけど、減ってるじゃん?根拠はないけどさ。
そんで子供がほしい人に限って子供が出来づらい、できないってなってたりするのよね。ほんと💩だよなこの世の中。滅びればいいのに。ftwだよ。ファッザワールド。
最近、檜山さんの結婚報告が注目され、その件を通じて「弱者男性」というワードがとりわけSNSを賑わしている。
自身、24年間生きてきて、悲しいことに何となく自分の人生の終着点というか、限界がおぼろげながら見えてきて、私は弱者男性なのだ、と最近気づいてしまいました、、、
まぁ、、長い人生前向きに考えてセルフ弱者男性認定記念に「弱者男性」に対して私が思うことをつらつら書いていこうかなと思います。SNSでもよく挙げられる話題だしいいかなって。
24歳地方国立大学の大学院生。いわゆる限界大学院生というやつでして、日々精神すり減らしながら研究行っている感じです。就活は売り手市場と呼ばれる今年の中、7月に入ってもまだ内定先が決まっておらず、バイトでは高校生の同期に任されている仕事量で負けているという具合ですかね。
その中でも決定的だったのはお付き合いしている彼女の精神的なケアが全くできないこと。正直、仕事の愚痴や相談をされても自分のことでもう手一杯なのにそういう事言ってくるなよ。こっちも疲れてるんだからさぁ。みたいに思ってしまってすでに何回も喧嘩していく中でどうしようもなく自分は弱者男性なのだと思いましたね。
私が考える「強者男性」の最大値は華々しい学校を卒業し、名が通った会社に勤め、会社の激務をこなしながらもちろんいる彼女や妻の精神的支柱になりながらバリバリ家事育児もこなす。そんな感じですかね。これに比べたら自分は弱者男性といわざる得ないですよね。
ここまで読んでくださった皆様の中には ふざけるな!弱者男性をなめるな! と思われている方もいるかと思います。
なぜなら私は周りからの評価はクソ悪いものの、そこそこの大学の院生であり、彼女持ちだからです。これは私も肩書としてはそこまで悪くないし、弱者男性と言い張るには無理があるなと正直思います。下を見ればもっと“終わり”に近い男性もいるわけで、私が弱者男性の代表みたいな顔でネットにこんな書き込みをしてたら批判を受けるよねって思いますね。
この理論が私が自身を弱者男性だなと思う所以であり、私がこの文章の中で一番主張したいことなのです。
恋愛市場にいる女性から見た男性の評価というのは「強者男性」「弱者男性」、そして圧倒的多数の「視界にも入らない男性」という構造ではないかと思います。言い方が悪くなってしまいましたが「視界にも入らない男性」というのはいわゆる最初から恋愛対象として認識できない男性のことを指します。私達男性陣がある女性に選ばれるためにはまず”恋愛対象として受け入れられるスペック”を身につけてやっと強者・弱者という勝負の舞台に登れるわけで、この勝負の舞台に登れなかった人は「何物でもない存在」になってしまうわけです。
つまり、先程記載した “終わり”に近い男性 という「弱者男性」はあくまで男性の価値観であり、女性からしたら強者・弱者という認識ではなく「何物でもない存在」でしかないのです。
彼女がいる私は勝負の舞台に立ててはいるのですが、やはり自己紹介で記載した自分の現状を見るにどうしようもなく弱者男性であると思うのです。
一応若者である私から見た女性が男性を評価するポイントをまとめてみました。
①肩書
③オス力
順に解説すると、①は学歴・勤め先・年収・容姿などといったものになります。やはり女性は男性を自身と比べてどうか、を意識しますので①を重視する方は非常に多いと感じます。
②のコミュニケーション能力は言わずもがな、立ち位置というのはミクロな社会において男性がどんな扱いをされているのかの評価になります。例えば、企業において上司にゴマすりばかりする男性はたいていの場合多数に嫌われているので恋愛対象にならない、学校でいじられキャラの男性が恋愛対象になりにくい、などが挙げられるでしょう。つまり、立ち位置とは男性と女性自身のコミュニケーションではなく、男性と他者とのコミュニケーションがどのように行われているのか、それを端的に表す指標となり、立ち位置が良くない男性と恋仲になると自分の立ち位置も悪くなり、他者とのコミュニケーションに支障が出ちゃうかも、、という感じで女性は考えると思いますので重要な項目になります。
③のオス力はどれだけ性的に魅力であるかということです。頼りがいがある、身体機能が高い、女性をエスコートできる、エッチがうまい、発言力や社会的影響が高い(これは男女に限らず存在する)、などなど主に女性にはない側面で他の男性と比較して優れているかを評価していると思います。やはり人間も動物なわけで、性的に魅力、強い個体とつがいであることは女性にとって非常に大切なことであり、自己の肯定に大きくつながるので重要であると思います。個人的に、イケイケ系YouTuberやプロ級ナンパ師、Tinderヤリ目つよつよ勢などは圧倒的に③が優れているため女性から選ばれていると思います。(③が優れている男性は自然と自信を身につけていくので②もつよつよになっていきます。。)
個人的には、需要の伸びという点で④が一番であると思います。④は端的に言えば”理解がある彼君”であり”家事育児に積極的に取り組める精神的・体力的強者”であるかの指標です。時代が移ろい、女性の社会進出が一般的になるとやはり、女性もストレス社会にさらされるわけで(主婦にストレスがないとは全く思っていない)、その精神的な支えを彼氏・夫に求める、そして今まで女性が押し付けられてきた家事育児を男性にも求めるようになってきていると思います。SNS上でも④に関する話題は日常的に注目を集めていますし、自分の周りの女性も④に関して自分なりの理想を持っているように思います。④はこれまで女性は家に閉じこもって家事育児をし、常に男の顔を立てるべきという価値観の時代には全くない新しい概念ですので需要の伸びと注目度は非常に高いです。
①に関しては今は大学院生という肩書があるものの、就職先がないので非常に危うく、②に関してはコミュニケーションはまだしも、バイト先での立ち位置が終わっているので評価は低い。③はもう全くダメダメで、④は最初に決定的と書いたように自分のことで精一杯すぎて精神的支柱にも家事育児等の手伝いも録にできていない、将来的にできる自信(就職してはたらきながら家事育児に積極的に関われるバイタリティーに対する自信)もそんなにない。悲しいけどそんな感じです。
ここまでいろいろなことを書いてきて、やっぱり思うのは弱者男性から見て女性が男性を評価する社会であるということに加えて、近年評価の高度化がもうすごいところまできてしまっている。①は女性の社会進出とSNSによる超優秀層の可視化によってありえないハードルの高さに跳ね上がり、②③は大学・企業間を越えた交流やマッチングアプリなど不特定多数の男女の出会いが増えたことによって女性の目が肥え、もう一般男性レベルでは勝負できない。それに加えて新評価項目④が加わり、対応できない男性(家事育児や女性のケアの必要性を感じれない)、要領が悪い男性(家事育児や女性のケアにまで手が回らない)、精神的に余裕がない男性(家事育児や女性のケアを行う精神的なゆとりがない)がさらに脱落し、恋愛市場における男性がごく少数に限られてくる。
毎日女性の求めるレベルが上がり、「弱者男性」が「何物でもない存在」に脱落していくが、女性の目には決して入らないし、問題にならない。これが今の恋愛市場かなと。最初にも記載した、華々しい学校を卒業し、名が通った会社に勤め、会社の激務をこなしながらもちろんいる彼女や妻の精神的支柱になりながらバリバリ家事育児もこなす。こんな男性は少数だろうが確かに存在するし、そんな奴に私は逆立ちしたって勝てない。「強者男性」~超えられない壁~「弱者男性」である。
しかし、「弱者男性」と「何物でもない存在」はそうではない。何か機会があれば一瞬で「何物でもない存在」に落ち得る、かつ、そうなると勝負の舞台に返り咲くのはなかなか難しい。例えば、私の場合、大学院を修了できなかったり、就職先が決まらなかったり、彼女に振られたらその時点で「弱者男性」ではいられない。これと「何物でもない存在」への救済のなさが昨今の恋愛率の低下・未婚率の増加につながってると思います。
総括すると女性から見た「強者男性」が不動の地位を確立し、大多数の女性から出会いを望まれる中で、「弱者男性」は高度化の波に飲まれながら疲弊し、「何物でもない存在」は勝負から降り始める。こんな感じかなと思いますね。なかなかにカオスかなと思います。
当たり前のことをつらつら、偉そうなことをつらつら(特に「何物でもない存在」とかは一体何様で言っているんだ、、)と書いてきたわけですが、恋愛市場のハードルが高いのはやはり若者にとってはしんどいですね。私自身が強者男性になる、または弱者男性のままで成功する努力をするべきなのですが、簡単な解決法としてイケイケつよつよ男性はできるだけSNSなどのメディアから退いてもらってハードルを下げてもらいたいというのが本音ですね。イケイケつよつよ男性の皆さん、日本の未来のためにどうかよろしくお願いします。
加えて、初投稿で至らない点多しなのですが、批判でも何でもいいのでコメントくださると嬉しいです。自己顕示欲満たすために書きこんでるところあるんで、よろしくお願いします。
「リトル・マーメイド」のアリエル。ハリー・ベイリーが演じた(C)2023 Disney Enterprises, Inc. All Rights Reserved.
というかまずこの図版が白い
2023/6/27 11:00
人魚姫アリエルを描いた1989年のディズニーアニメ映画を実写化した映画「リトル・マーメイド」が米国や日本などでヒットしている。白い肌に赤髪という外見だったアニメ版のアリエルと異なり、今回はアフリカ系の俳優を起用。この点が公開前から注目を集め、米国のみならず日本でも「黒人差別ではなく、アリエルはアリエルらしい人にやってほしい」などの声があがった。ヒットと論争から見えてくるものとは。
ストーリーの骨格はアニメ版と変わらない。美しい歌声を持ち、人間の世界に憧れるアリエルが、エリック王子と運命の出会いを果たす。海の魔女アースラがアリエルに近づき、人間の姿になれるという取引に応じたアリエルは声を失ってしまう。
だから黒人ベースのストーリーじゃないし、深海の生き物は黒人じゃない。
デタラメ過ぎる
日本でもSNSを中心に「アニメで親しんだアリエルのビジュアルが完全に無視されている」「黒人の輝かしい未来のために、ファンがないがしろにされた」などの批判が相次いだ。
「アニメ版のアリエルを重視したいだけで、人種差別ではない」。SNSを中心に、「アリエルらしさ」を差別と切り離す言説もありましたが、これをどう捉えればいいのでしょうか。日本で暮らすアフリカにルーツを持つ子どもたちや、識者の見解を交え、考えました。
一方、SNSでは「同じ肌の色だ」「私みたい」と喜ぶアフリカ系の子どもたちの姿が映る動画も広がった。彼女たちにとって、ディズニーの過去作では同じ「リプリゼンテーション(表象、見た目)」の主役は限られていた。そうした意味もあり、好意的な声も多い。
こんなんサクラや。
母の妙子さん(33)も、ベイリー版のアリエルを歓迎する。「友だちに『有環は肌の色が違うからプリンセスにはなれない』と言われたこともあった。いろんなルーツをもつ子どもが自己肯定感をもてる作品が増えることを期待したい」
絶対おらんやろ。
人種による分断も見え隠れ
識者はどうみるのか。
米国映画における人種の描かれ方に詳しい椙山女学園大学の水島和則教授(表象文化論)は「ハリウッドを中心にプリンセスといえば白人という認知が刻み込まれている。映画界でもかつては異人種間の恋愛を禁じる規制があったという歴史もある。新たな表象を描くことで、そのバックラッシュ(反動)が起きている」とみている。
水島なんて適当なことしか言ってないばかでしょ。そもそも歴史上黒人のプリンセスはいない。嘘です。
今回の配役については「アリエルにベイリーを起用したことに加え、白人のプリンス(エリック王子)との異人種間の恋愛を描くまで踏み込んだ作品だ」と受け止めた。「消極的にポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)に配慮したのではなく、製作者の強い意思を感じる」
日本語になってない。ポリコレという事実が認められないのは知能に問題あり。
ディズニーのプリンセスなどを社会的に論じた著書「戦う姫、働く少女」がある専修大学の河野真太郎教授(英文学)は「ディズニー自体が白人プリンセス像を生み出し続け、観客に『プリンセス=白人』という像を刷り込んできた。白人の権力の中心性を揺るがせなかった歴史が関係している」とみる。
そんな歴史はない。
「ディズニーが今まで採り入れてきた多様性は、『ちぎり取られたもの』と言ったほうが正確だ。『リトル・マーメイド』でベイリーを起用し、白人優位の権力性に本格的に手を突っ込んだことで、抵抗が起きたのだろう」と河野教授。
頭湧いてて草。
こういう腐った肉みたいなバカしかいない。お前の考えが間違っている。
こういうデタラメをエンターテイメントに押し付けるクソカスな社会学はマジで有害だという結論にしかならない。それ自体が差別だこのクソカス寄生虫どもが。
脱炭素社会の実現に資する等のための建築物等における木材の利用の促進に関する法律
https://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/mokuzou.mokusoku.html
脱炭素社会の実現に資する等のための建築物等における木材の利用の促進に関する法律
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=422AC0000000036
第一条 この法律は、木材の利用を促進することが地球温暖化の防止、循環型社会の形成、森林の有する国土の保全、水源の涵かん養その他の多面的機能の発揮及び山村その他の地域の経済の活性化に貢献すること等に鑑み、建築物等における木材の利用を促進するため、木材の利用の促進に関し、基本理念を定め、国及び地方公共団体の責務等を明らかにし、並びに建築物における木材の利用の促進に関する基本方針等の策定、建築物における木材の利用の促進及び建築用木材の適切かつ安定的な供給の確保に関する措置等について定めるとともに、木材利用促進本部を設置することにより、木材の適切かつ安定的な供給及び利用の確保を通じた林業及び木材産業の持続的かつ健全な発展を図り、もって森林の適正な整備及び木材の自給率の向上に寄与するとともに、脱炭素社会(地球温暖化対策の推進に関する法律(平成十年法律第百十七号)第二条の二に規定する脱炭素社会をいう。第三条第一項において同じ。)の実現に資することを目的とする。
これは素人の感想なのだがいくら木材を内部で多用しても外側の見た目が木材っぽくなければ宣伝効果も景観効果もないのではないだろうか?
逆に木材ではなくとも木材のような着色をすることで木材の見た目の宣伝だけにはなるのではないかと。
技術革新のお陰か、木造のビルや木材の防火壁(のようなもの)も登場している。
どんどん木造を増やしてほしい。
おれは自由意志や実存主義が人生唯一の確かなコンパスだと思っていて、構造主義というのがイマイチ好きではない。
人が生きるという事は事実の追求だけで片付く問題じゃないだろうし、そこを照らすのは論理ではなく何かしらの信仰だと思う。言葉は何でもいい。信念や納得、お気持ちとでも言い換えればいい。
内から発するプリミティブな価値なんてものはほんの些細なもので、大半は誰かの、なにかのコピーかもしれない。でも外から刷り込まれた、無自覚に規定された価値観とて、一度心に刻まれたのならそれはもうその人を成すその人自身のもんでしょって思う。
人生は、少なくともおれにとっては納得を追い求めて貫き続ける旅だと思う。目的とか考えずにボーッと生きたいと良いというのも、それはそれでそこには納得があるだろうし。前向きなものであれ後ろ向きであれ。
納得も意志もなくただあるようにあるだけのままであれば、それは本質的に石ころと変わりない。それを肯定して悟りの境地に至れるほどおれの心は強くない。
だから命はそのための手段というかステージに過ぎないと思う。もちろんそれが無きゃ何も始まらないけど、納得に従ってそこから降りるというのもまた一つ価値ある生き方(死に方だけど)だと思う。
人類全員がそういう考えで生きてる訳じゃないだろうけどおれにとってはそうなのだから、他人が自殺をしようが、同様におれにとっては何の問題にもならない。
まあ別に人殺そうとするのも良いと思うけど、当然それに抵抗するのも自由だし、現に人殺しへのそれなりのペナルティは多数決的に定められてる。
構造主義的な話としては、自殺も尊重されるべき自由意志のようでいて、実は無自覚に環境に追い込まれてるって可能性が問題になるのかもしれない。
でもさっきも書いたけど、一度内面化された価値観は過程がどうあれその人のもんだと思う。
了見の狭さ故にラディカルな方へ突っ走る人に対して、「まずは他にも視点を持ってみない?どれを選ぶかはあなたが後で決めれば良いし」みたいなスタンスならまあ分からんでもない。
けど暇を持て余して抽象的な考えを拗らせて死にたがる人ならともかく、もっと目先の切実な苦しみに耐えかねた人に言うのはどうなん?って思うよね。
今のアナタは自分の決意で死のうと決めたと思っているのだろうけど、実はそう思わされてるだけなんです。もうちょっと頑張ろうよ。
なんて疲れ切って余裕なんかないであろう人間に言うのも酷な話じゃないですか。
明るくなるかもしれないし暗いままかもしれない未来のために、頑張る気なんて中々湧きやしませんよ。
湧かないからこそ他人が止めてやる必要がある。酷なのを承知で、それでも生きて欲しいという願いを押し付けてでも止めるのが愛ってもんだ。
自殺を許せない人は概ねそういう事を言うんでしょう。
そういう優しさもあるだろうけど、放っといて死なせとくのも確かな優しさだと思うけどね。
無関心な相手だからそう言える、本当に人を愛した事がないサイコパス気取りの拗らせた厨二病野郎の妄言だとか言われるのがオチなんだろうけど。
その辺の事もちゃんと踏まえた上でおれは死なせてとけば?って思うけどね。
あと最近親ガチャってよく言われてるけど、あれも構造主義的な発想の問題提起なのかな。
人生のネタバレとか、そういう悲観に終止する決定論の方を志向する話はさておいて、その事実にどう取り組んでいくかって点で。
おれも格差の再生産とか親ガチャが無いものだとは思わないし、その是正に取り組むべきだって意見にはまあそうでしょうねえ、って思う。
現実はあるようにあるのだから、与えられた環境で自分で乗り越えるなり現状に甘んじるなり、好きにするしかないだろとも思う。
それらは別に二者択一でもなくて、目先の今を耐えつつ少しずつ構造と格闘していくというのがベストなんだろうね。
おれはラッキーな事に恵まれた環境で育ったからこそこんな抽象的な事を考える余裕があるんでしょう。つまりポジショントークなんだけど、それを言ったら環境に苦しんでる人の言い分もポジショントークだよねって話になる。
他人事じゃないんだし、ちょっとでも構造に抗う暇すら無いわけじゃないでしょ?と言われればごもっとも。
それはそれとしておれの人生はおれのものなので、そんなことはナン ノブ マイ ビジネス(夜に影を探すようなもの)です、って感じ。
社会を良くする事はイイ事なんだろうけど、それがおれに与えてくれる幸福は知れてる。
そんな気の長そうな話よりは自意識を拠点におれの人生をやっている方が魅力的。それならそっちにウェイトを置きたいよね。
子供とか作って「まとも」になれば考えも変わるんだろうけど、今んとこその予定もないからおれが死んだあとの事とかどうでもいい。次世代がどうなろうと知った事ではない。
こういう話をすると概ね素朴な相対主義とか冷笑とか厨二みたいな説教をかます人間がいるけれど、そこにクリティカルな内容を伴っているのをおれは見たことがない。
今日はそんな事を考えていました。
いいえ、繰り返しますけど、それは本能でも性欲でもなく、ただの依存です
これからの子どもたちのためにもセックスでものを買おうとするをするのはやめて自立しましょう
オタク女子、特に腐女子らに顕著なんだけど、セックスは、自己決定で望んで楽しくするものでは無くて、
"恋人" や "妻" という肩書きを得る為に、直球で "(理解ある彼くん等に) 養って貰うために"
『させてあげるもの』だと思ってるからな。あるいは一方的に暴力的に第三者に強制されるものとかね
ここから既にコケている逃げているのに女性の社会進出もなにもねーのである
実際、はてブでヤベー言動をしている腐女子ブクマカを眺めていると、当たり前のように男に縋るしか無い思考であり経済レベルもヤバければ自己実現も他者任せだ
現行、生活保護あるし、低所得世帯に限って大学無料だし、残念ながら英語オンリーですけど無償でMBAやCS(コンピュータサイエンス)の学位が取れるオンライン大学も存在します
先進国であれば IN が少なくても認知能力に問題が無ければ(メンヘラじゃなきゃ)子どもを育てられます
なので先進国に移民した一世が IN が少なくても子ども作るのは至極当然の話なんですね
IN が少ないが為に、子どもに面白くない思いをさせることも時にあるかもしれないが、
安全で頑張っただけ未来が開ける、"人権" という概念のある先進国の国籍を子に与えることが出来た移民一世は、自分自身のことを誇りに思っています
移民一世は、母国では、ホワイトカラーだったり、友達・親族と楽しく仲良く暮らしてたりしますが、
一方で先進国のメンヘラ親こと毒親&候補どもが何をしているかというと、
自分自身にも子どもがいるのに Twitter で児童ポルノイラストを垂れ流し(https://anond.hatelabo.jp/20220716065429#)
自分自身にも子どもがいるのに児童アイドルや10代の飲食店従業員にきゃっきゃいい、
子どもたちも見ることが出来る Twitter で子育て辛い・子育てのせいで遊ぶ時間がない・生きるの辛いとわめきちらし、アドバイス罪とかほざきながら子育て助けて!!!!
仕事をバリバリやらず、プライベート優先してたのなら、プライベート優先してるなりに生活をサイズダウンすればいいだけなのに、
金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ金をよこせ
まぁ金は無いよりあった方がいいからそこは目を瞑るにしても、
生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ生活保護が羨ましい生活保護はずるいぼくあたちは非正規or低賃金だ
『身のほどを弁えろ』ってこれ以外のシーンで使うことってある?
<論点整理>
松尾:人間なのに、すごいことやれてるじゃん、みたいな将棋みたいな価値観は残るから教育はあり。未来のために資産的な意味なら意味がない。
松尾:人間を生産性の指標として捉えるからおかしい。農業が8時間労働から30分でできるようになって、なのに仕事作っているってのは人間がそうしたいからそうしてるだけにすぎない。そういう、やってもしょうもない仕事で優劣決めて分配決めてるだけで、生産性は関係ない。そういう人間なのにすごいじゃんで分配しあってるだけ。
働きたくない、社会と関わりたくないです。AIに仕事奪われる側だな自分は。
尊敬されないし、仕事もできないから、人間社会の評価でも負けてるから配分が取れないわけだな。
<論点整理>
松尾:企業数が増える。少人数で、たくさん仕事できるようになるから、小さな仕事をする小さな企業が増える。
川上:しかし経済では、人からお金を取るシステムにしなきゃだから、みんな無職で金がないと経済が回らない。ベーシックインカムが必要。
松尾:人は人からすごいと思われたい、人と接したい。ベーシックインカムでも、人だからすごいと感じて、人は人に金払う関係は維持されるはず。
ひろゆき:すごい人には大量に金が集まるけど、90%の人は人間に相手されずCGとかに相手されて気持ちいいで子供残せなくなりそう。
川上:人口減った方がいい。労働力みたいな人口が国力の指標になってるけど、AIで労働力はダブつく。資本主義は、資本受け継ぐ人が少ない方が有利だから。
松尾:老化は病気という科学的コンセンサスができつつあり、到達ゴールに据えられているから、10年,20年後は子供産む感覚が変わってる。
不老不死なりてえ。
<論点整理>
川上:文字をソクラテスは否定した、馬鹿になると。でも、現代人はソクラテスの賢さ超えた。AI使えば人間は強くなる。整形とかAIとかVRでマトリックスでプラグ繋ぎたいとか受け入れる人は勝つ。
不老不死になったなら、マトリックスみたいなプラグ繋ぎたいなあ。
リアル社会はクソすぎる。
<論点整理>
ひろゆき:日本でも生成AI作ってデジタル赤字出さないために、松尾さんが数百億円、日本で集めても、デジタル庁みたいに、デザイナーとかが上に立って、まともなことできないんじゃないの?
松尾:GPUを買うのに突っ込んでます、まともじゃない人はGPU使えないから
ま〜一応、勝負してんですねえってかんじ。
GPT-5が出て欲しい、マルチモーダル欲しいとかくらいしか思ってなかったけど、日本もファイティングポーズはとってるんですねえ。
AIで仕事奪われるってのは、現状のchatGPTでなく、もうちょいpdfの読み書きとか、ドメイン知識の理解とか、そういう話が今後できた時に来るんだろうけど。
それって、来年にはもう来てそうだね。
弱者男性で現状の社会では救われない身からすると、さっさとベーシックインカムで失業者になるのが最高だなあってかんじ。
そん時にセクサロイドとか、AIが作る神ゲームや神漫画がないときついけど。多分できるんちゃうの数年以内に。
あとは、不老不死が来るかどうかだなあ。不老不死が来てくれないと困るけど、不老不死は今のところ達成できる道が不明なのが怖いところだなあ。
AIで仕事を奪われた天才や秀才たちが、不老不死に到達できるんかなあ。
こうやって、未来に弱者男性が救われそうな可能性がはっきり見えてきたのはありがたいんだけど。
半導体だのフラッシュメモリの進歩がいまいち現状のAIの使用に耐えるために進歩が必要とか。
AI動かす電力問題が解決する道の核融合がまだまだ遠いとか問題はあるかあ。
ソフト側だけの進歩は強いみたいだけど、ハードがノロノロなんだよなあ。
ロボティクスとか、セクサロイドのキーポイントが抜けてるのも痛い。
仕事だけ奪われて、AIが弱者男性に利益与える未来にはギャップがありそう。その時期は地獄やんけ!
個人としては、起業をしてみてるんだけど、小さな会社ってか、自分一人でやってんだけど。AI使ったりしてるけど、営業とか古臭い感じで一軒一軒会社を訪ねる感じになってる。
地獄から救って欲しいなあ。AIが強くなれば、自分の起業も強くなるから、なんとか世界中のAI研究者頑張ってくれ。
そうして人生が腐り果てた結果に対して「過去の自分から懺悔を聞かされる」人生がどこまでも続いていく。
本当に辛い……。
俺はどこで間違えたんだろう……。
割りと聞き分けのいい子供だったので「残さず食べて大きくなろう」と親がいうものだからどんなに味覚に合わないものでも必死に食べていた。
好きじゃなかったはずのニンジンやピーマンがいつの間にか私の好物であることにされ、親戚の集まりに行くと従姉妹連中が私の皿にニンジンを次々に投げ込んできて、私はそれを黙々と食べ続けていた。
そんな人生がずっと続いていた。
でも心の中では本当に辛かったから、即物的な快楽に身を委ねることが多かった。
将来のために頑張って受験勉強をして、とにかく今すぐ気持ちよくなりたいからゲームやオナニーをしまくった。
スポーツや趣味と言える思い出はなくただただ学生時代は勉強してオナニーしてゲームしていただけだった。
でも勉強は苦手だったんだよな。
自分事として勉強に向かってないから、全く興味が湧かなくていつだってただただ苦しいだけで全然頭に入らなかった。
二流の中学に入って、エスカレーターして、そのあとは3流の大学に入り、3流の人間なりに「将来」を考えて公務員に就職することを選び、今は毎日後悔している。
過去の自分なりに頑張って積み上げたはずの「未来」の姿は、ただただ辛い辛いと毎日言いながら意味を感じられない仕事をするだけの人生だった。
今を考えることを無視しすぎた。
「未来の自分」はいつか「今の自分」になるし、「今の自分」が「過去の自分」になったとき過去を変えることはもう出来ない。
未来のためにすり潰される苦痛の中でそれを紛らわすための痛み止めのような行為ばかりをして過ごした過去が無数に積み上がっていく。
今もただただ辛い……安定しているだけの仕事だけど、その安定は「苦行のような人生」が安定して続くことしか居意味してねえ。
何も見えねえ。
俺の人生は完全に失敗した。
「今を生きた結果として、素晴らしい過去と、それなりの未来が手に入った」という形に人生をどうにか作り込めなきゃ行けなかったんだ。
頑張ってニンジンを食べ続けた結果、好きなんかじゃないと今更言う事も出来ずに親戚中からディスポーザーにされていた幼少期がそのまま自分の人生の延長線なんだ。
しんどすぎる……なんでこんな人生になったんだろう……。
今からどうやって軌道修正すれば良いのか全く思いつかない……。
自分が何をしたいのかもよくわからないし、それほど辛くもなく出来ることで金を稼げそうなものはない。
ダラダラゲームをしてダラダラとネットで駄弁るぐらいしか出来ねえ。
程度の低い人間は程度の低い人間としかコミュニケーションの機会を得られないっていう階級固定のシステムがだいぶインターネットでも強くなってきた。
そしてそのことにはもう辟易している。
若さから来る勢いと柔軟さを失って、下ネタとパワハラの押収に頼ることしかできなくなった人間とのコミュニケーションはもうしたくない。
職場で無理やりつきあわされるのだけでもう十分だ。
インターネットに疲れたと言ってる人の気持ちがやっと分かってきた。
「ウェーイ!肩パンウェーイ!」「ちょwww今季の深夜アニメがマジシコwwww」みたいなコミュニケーションを50年も100年も続けられるのはある種の天才なんだよ。
多分大抵の人は人生において下劣さとか高潔さとか清純とか外道とか善良とかそういう属性を貫いて生きることさえ出来ないんだろうな。
同じキャラを続ける才能がないんだ。
多分俺の悩みも、30年続けてきた「将来の自分のために」を旗印として粛々と過ごしながら溜まったストレスはシコシコして吐き出す生き方にいい加減飽きたんだ。
恐ろしいな……公務員何て「ダラダラと同じ生き方を続ける権利が得られること」だけがメリットみたいな仕事を選んじまってこんなことになるとは。
でも今更辞めるのは怖いんだよ。
俺は要領が悪いからさ、たった10年そこらでももうショーシャンクの爺さんみたいになっちまったんだ。
外は怖いんだ。
自分が本当は人の役には立てないのを認めたくねえ。
業務処理能力として身につけたと言い張ってるものが単にくだらん身内ルールに対しての慣れでしかないことを直視したくねえ。
でもこんなことをあと30年も続けるなんて気が狂っちまいそうだ。
つい1時間前に帰ってきたような生活をもうずっと続けてるんだ。
疲れたよ……せめて時間が欲しい……仕事をしている時間が安らぎもなく楽しみもないならせめてそれ以外の時間を作るための時間をくれ……。
俺は本当に人生を間違えたと思う。
今なあらハッキリ分かる。
安直な道を進んだ俺の罪だ。
罰が重すぎること以外は納得している。
先日、Twitterでスープストック論争が巻き起こっているのをみて、ま〜た色んなところで女の敵は女論やフェミがなんだツイフェミがなんだ言い争ってるんだなぁと思っていたのですが、その中で出てきた「無産様」というワードが想定していた以上に心に刺さってしまって、ちょっとだけ泣いてしまったので、気持ちの整理をつけるために書いています。
誰に見られるものでもない前提ではあるものの、世に放つには随分と乱文になるかと思いますので、もしお読みの方いらっしゃったらご了承ください。
大前提として、スープストックが取り組む施策について、「子ども連れの肩身が狭い」と言われる昨今、すてきな取り組みだと思っています。
それに対して、本当にうれしい!という感想も、無料だと客層大丈夫?という感想が出ることも、いきにくくなるのだとしたら悲しい、という感想が出ることも、それぞれの方の反応なので、それぞれが思っていればよいことだと思います。
無産様がいわゆる「子持ち様」と揶揄されてきてしまった方々へのカウンターとして用いられているということも、この騒動において「お子様連れなんて!」とお怒りの方に対して向けられていることも、理解しているつもりです。
無産様という言葉が、私に向けられた言葉では無いことはわかった上で、それでも傷ついてしまったとき、感情の向け先がなくなってしまった。
まぁ自分で処理しろよ大人なんだから、ということに尽きてしまうのかもしれませんが。
「男性はxxxxxxだ!」という主語の大きい言葉が、よく話題に上がり男女の論争になることを見てきました。
これだから「男」は、「女」は、という言葉が、自分を指していなくても内包されて同一化されることの不快感を、ようやく理解したのかもしれないなとも思っています。
ただ、私のこの気持ちを、「俺たちの/私たちの気持ちがようやくわかったか!」という言わばマウンティングや、今回の件で「無産様」というワードに対して「面白さ」を感じた人たちの免罪符にだけはされたくないとも強く思う。
と言っていた貴方。
あなたは今おいくつですか?
あなたのライフステージは今どこで、それは社会からただしいと見なされている段階に進んでいますか?
私は今回使われた意味ではないとしても、きっと「無産様」として死にます。
私が家族を持つイメージが、どうしてもどうしても持てない。絶対的に「向いていない」のだと思う。
20の頃からきっと1人で生きていくんだろうなと思い、25をこえていよいよ1人であることの現実性が増してきてる。
まだ若いよもまだ分かんないよも、いい人と出会ってないだけだよももう十分だと思っている。
面白いと嘲笑ったあなたが10代のお子様なのであれば、それはもう仕方がないとして、いつかあなたがきちんとしたライフステージを歩まれることを心から願っています。
どうか、親ガチャ失敗wなどとあなた自身が言われないよう、どうぞすてきな20代をお過ごしください。
上手いこと言ったなぁwと高みの見物をしているあなたが20代前半なのであれば、まだ差し迫る恐ろしさを知らないのか、それとも自分はただしいライフステージを歩めるという自信があるのか、それとも開き直ってるのかは分かりませんが、早く大人になれることを願っています。
ツイフェミと馬鹿にし、独身女おわってるなぁと思っているあなたが、20代後半以降なのだとしたら、あなたが何をどう考えて人生を生きているのか、本当に教えて欲しい。本当に本当に切実に。
私は、無産様というワードにここまで、何よりも傷ついているのは、私が女として、生物として子をなさないという、劣等種であるという自覚を強く持ち、社会にプラスを与えない、正しくないライフステージを歩んでいるという思いがあるからに他ならないのかもしれない。
分かっている。
結婚しなくても幸せになれる時代に、というキャッチコピーがいつだったか流行っていた。
分かっている。
子どもを持たない選択をする家庭があることも、心身の理由により子どもを持てない方がいらっしゃることも。
その事により、その方々が「劣っている」とみなされるわけではないことも、分かっている。
まして、子どもがいない方を見下し劣っているというレッテルを、私自身が貼りに行くことなど決して、決してない。
でも、分かってしまった。
正しいライフステージを進めなかった私は、子どもを持つことがない私は、こうして、「無産様」と嘲りを、罵りを受けるステータスの人間であるということが、今回骨身に染みてしまった。
スープストックの対応につっかかったからとか、子持ちに対して怒りを向けたからとか、そういうことではなく、「子どものいない独身女性」に対する社会からの侮蔑がなければ、こんなワード生まれないじゃないですか。
誰かが面白がる前に、止めるじゃないですか。
止まってないじゃないですか。
「無産様」という言葉を面白いと、外野から笑ったあなたが、子を持たず、家庭を持たず、私と同じく正しいライフステージを歩んでいないのだとしたら、どうしてそんな風に生きていけるのかを教えてほしい。
小さい頃から嘲りを受けてきたから今更なにか言われてもということですか?
女は、独身女性としてなった時にはじめて、弱者男性の世界がみえるとでも??
ここで、地獄だよ、なんてわかった顔しないでほしい。
優しさを持てないことを嘆いているのであって、この世界が地獄であることはあなたもわたしも優しさを持てていないことの証明でしかならない。
違うのだとしたら、なぜ、与えられた痛みを与え返すことができるのだろう。
分からない、本当に。
「無産様」として生きている私は、産まないからこそ、生きてきて次の世代に、生物として+1を引き継げないからこそ、子どもは大切に大切に育てられて欲しいなと思っています。
そのために制度が、補償が、サポートが必要なら、未来のために使われるべきと思っています。
ただこんなにも残酷で悲しい言葉を楽しめてしまう環境に、未来なんてあったもんじゃねぇわ、とは思いました。
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こういう形式の投稿がはじめてだったこともあり、色んな意見があるな〜とみてました。
反応があることにわりとびっくりしてたので、強い言葉であってもなんであっても、ありがたいなと思いました。
そもそもどの立場(男/女/主婦/子なしなど、本当に様々)においても蔑称が存在するのはたしかにそうで、私が当該者じゃなかったから痛みに気づいてなかっただけでしかない。
誰であっても何であっても蔑称があり、それが社会からの目線とかでもなく、インターネットにおける悪意なんだとしたら、なんか凹むことないな〜と思えました。
かつての蔑称に怒ってこなかったのだから傷つけられて怒るな、は、今後登場しうる全ての蔑称に耐えるしかない+全員が痛んでいくしかないということ…?とも思ったけど、そういうものだから「痛めつけられる必要がない」なのかもと思えました。
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しばらく「無産様」をTwitterで検索するのをやめて、はてなをみるのもやめて数日たっていたのですが
ありがたいことになのか、バズワードゆえなのか、想像していなかった反応をいただけておりさらにびっくりしました。
心臓どきどきしながらみました、ありがとうございます。
まだ若いんだから、という声やどうせ30になったら結婚して子ども産んでるよ!という言葉もあり
いつか自分が見返した時に本当に恥ずかしくなるかもしれんなぁと思いつつ
長いし乱文です、だらだら日記です。
痛みに過剰反応しがちで被害者ヅラしがち、という意識をもっておかないとこういうことまた起こしちゃうんだろうな~と思ったので学びでした。
後、いくつか見かけた「弱者男性」をスケープゴートにするな、という意見については
私がTwitterでみたときに所謂反ツイフェミの方々が特に反応されているんだ、と思い
反ツイフェミの方は「弱者男性」を自称されている/弱者男性というワードをよく使用されている印象があったので
これが「弱者男性の世界だ、ざまぁみろ!」の気持ちなのかなぁと思って書いてしまっていました。
ガルちゃんという場所から生まれたことを知らなかったので、傷つけてしまってごめんなさい。
『子を持たず、家庭を持たず、私と同じく正しいライフステージを歩んでいない』、『「無産様」という言葉を面白いと、外野から笑ったあなた』が
弱者男性なのだとしたら、という意図で書き、弱者男性が生み出したということを伝えたかったわけではないのですが
文章力が低いので伝えることができず、
かつ結局対立構造をあおってるだけじゃんね、結局加害者なんだね、という意見は
「本当にそうですよね~~~!ごめんなさい」としか言いようがないです。
これまで私が自覚的にしろ無自覚にしろ得てきた、誰かから見た「特権階級」のメリットを受けなくなること、
選択した自由の責任を取ること、覚悟を持つこと、本当にいろんなこと考えないといけない。
そんな中で、何を言うのも何を受け取るのも難しいなとも思いました。
誰かが何かを言ったとしてもそれは「私」にいっていることではないし、
私が何かを言ったとしてもそれは「あなた」に言ったわけではない
主語をでかくするなとはさんざん言われてきていると思うんですが、
内包されると途端に、ということがわかってよかったなとも思っています。