はてなキーワード: 映像とは
クソ面倒くさい事件が続いただけで本来は映像化されることで絶大な宣伝効果があって出版社も原作者も儲かるっていうお互いにwin-winな商売だから永遠に続いてるんだぞ
結局さ、原作付きの映像化は、オリジナル物より楽して儲かるという発想がいかんと思うんだよな
原作付きは縛りがキツくてオリジナルより作るのに制約があって、儲かるかもしれんが面倒くさいっていう、
そういう認識が広まるのが正しい気がする
広告戦略の一環としてやってるのは間違いないんだから、今より売って金稼ぎたい出版社と原作者が金払って作って、その上でゴミが上がってきたらクライアントとして広告効果が低い、もしくはマイナスとして好き放題叩いてなんなら慰料やら違約金の請求すりゃええやん。
原作者として「作品の雰囲気が変わってまで広告打つ必要ありません。今くらいの売れ行きでお金も満足です」ってんなら映像化しなきゃいいだけ。実際にそうやって映像化断ってる奴いっぱいいるじゃん。
原作第1章をそのままアニメにしてるっぽいんだが、これをこのままやって6話ぐらいで第1章が終わっても見てる側の心に大したものは残せないと思う。
リリースと同時に銀行強盗が話題になったスピード感がアニメのテンポでは全く出せてないし、アルが登場してあっという間に落ちぶれるスピードも再現できないだろう。
設定も全然わからないままにハイスピードで次々と情報が降り注いでるうちに全てが終わり「なんかよく分からんけど皆いい子だな」でとりあえず〆るしかなくなるのが魅力だった。
でもこれを1ヶ月半かけてダラダラとやられてもそれは普通の廃校アニメでしかなくなってしまうわけだよ。
ましてその後に第2章で今度はアリス編をやられて、その終わりがアレなわけだけど盛り上がるのだろうかと不安しかない。
最大の問題は、あんまりのんびりやってたら最大の強みである3章をやらないでアニメが終わることだ。
皆が求めているのは映像化された3章なんだ。
1章は理不尽ギャグとしてそれなりに話題性があったけど、2章の評価は凡作止まり、多くのプレイヤーが「アリス可愛かったね。それじゃユズは俺が保護しておくから」でゲームから去った過去さえある。
3章なんだ。
もしもそのままアニメ化するなら3章は絶対にやらないと駄目だ。
いっそのこと1章を4話ぐらいで終わらせて、その次は3章に飛んでしまうというのもありかも知れない。
1・2・3・4はそれぞれが独立していて、最終章において一つに繋がる形になっているから順番を入れ替えても問題はない。
そうか、この手があるのか。
じゃあなんとかなるな。
3章が来たら教えてくれ。
アニオリが来たらでもいいぞ。
本なんてその程度の扱いでいいものだし、本に限らずあらゆる産業の商品・サービスはそのように扱われて然るべき。
それが商業というもので、そうした方がビジネスのパイが広がり、商材も洗練されていくから。
抜きん出たものをさらに目立たせることで、より多くの人に認知され、共有され、その分野の裾野が広がる。言い換えればバズらせることができる。
それくらいのことをしないと、世の中にはあらゆる商業分野や消費的娯楽があふれているわけだから、認知してさえもらえない。
例えば今ゲーム業界では、市場規模を成すセールスの8割はサービス運営型のものから来るようになった。
それはなぜかというと、運営型ゲームの多くは基本無料の形態をとっており、「手に取る」ハードルが限りなく低くなったからだ。
それくらい、みんなが知っている、みんながやっている状況を作ることは大事だ。
ハードルが下がることで、消費者にとっても、常に手軽に「相見積もり」ができるような状況になっており、都合がよい。
だから無料で触れてもらって、良し悪しはその後で判断してもらうという態度こそ、消費者のセンスや知性を信用する誠実な売り方だ。
音楽や映像などの分野もサブスクの隆盛によって、「見てもらう」のにかかる費用がにわかに低廉化している。
そうした音楽・映像コンテンツを導入口にして、イベント等のファン商売へと誘導することで利益をあげている。
翻って、書籍分野の売り方を見てみると、電書という選択肢が増えたくらいで、ビジネスモデルは変化していない。
売れている本をより売るために目立たせるくらいでは、正直言って生ぬるすぎる。
手に取るハードルを低くできない以上、「絶対に外さない」ように一極集中させるのは理にかなっているだろう。
本当に書籍文化の未来を願うなら、考えることは真逆であるべきだ。
「隠れた良書」とされがちな性質を帯びた作品というのは、もともとその分野にどっぷり浸かっている人が、商業的なアシストがなくとも自分で探し出していける。
逆にそういう発掘の楽しみが残っていた方が、商業に食い荒らされない方が、良いとさえ言えるだろう。
ゲーム業界で言い換えるなら、SteamのインディーやPC・PS5などの買い切りの大作タイトルにはもっと優れた作品がある、それは事実だが、それを声高に叫んだとしても、そういう古い「あり方」が主流に返り咲くことはないのだ。
むしろ現実には、基本無料ゲーム開発のために資金と人材が集まり、ビジネス面では主戦場と化しているのがここ十数年の流れだ。
コアで偏狭なゲームファンはそれを直視できずにいて、運営型ゲームのガチャシステムなどを古い認識のまま嫌い続ける。
もちろん中身を重視するなんたらアワードのような世界では、AAAタイトルがマニアに評価され続けるだろう。
だがAAAタイトルを触れるのはゲーム消費者全体を俯瞰してみると、本当にマニアだけになっている。それは悪いことではない。
ゲームという「あり方」が柔軟に広がって裾野を広げた結果、おじいちゃんでもポケGOを楽しんでいたりする世界を一概にダメとは言えないだろう。
それと同じように考えれば、商業主義を嫌い、「隠れた良書」のようなものをアピールすることがいかにズレているか分かるだろう。
伸びているものをさらに伸ばして多くの人を巻き込み、素晴らしい方向へ成長させる圧力を生産者側へかけていくことが、誰も想像できないような膨らみ方をした未来の文化を作るわけだ。
モバイルゲームでは、開発費が高騰して、競争が激しいのに失敗リスクが大きくなっていることから、技術力や繊細な運営センスがない会社は早々に撤退を余儀なくされ、淘汰が激しくなっている。
この中を生き残って成功していく会社は、従来のゲーマーが評価するAAAタイトルを部分的に超えた品質のものを作れる能力を持ちつつある。こうやって想像を超えた進歩をしていく世界、面白いだろう。
本で例えるなら、なろう系ラノベをくだらないと言って一掃しようとするのではなく、なろう系をさらに洗練・発展させて世代を超えたジャンルへと育てていこう、あるいはそういうものが見たい、という考え方をすべきだ。
原作使用料が少なすぎるから映像化にメリットがゼロすぎるってマ?
アニメ化して都内におうちたてた漫画家そこそこいるのに、アニメ化しても金銭的メリットがゼロすぎるってマ?
bkmkアホすぎるだろ。
近年、原作者自殺という最悪な結末を迎えた「セクシー田中さん」や、つい先日にも「スナックバス江」がアニメ放送中にあてつけるように原作者による自主制作アニメが公開されるなど、原作者と制作サイドの関係性の問題が取り沙汰されています。
これらの問題により「原作を改変してはならない」「原作者の意にそぐわない映像化はしてはならない」という声も大きくなっています。
以下は、はるか昔にあった漫画原作によるアニメ制作時に起こった実話です。
もう何十年も前、当時のある人気漫画がOVAとして制作されました。
その漫画は今でも根強いカルト的人気を誇るSFコメディー漫画でした。
その漫画原作をアニメ化するスタジオは、長い下積みを重ねてこれが初の元請け作品になりました。
原作者はSFマインドに造詣が深く、絵も非常に達者で女の子の絵柄も可愛く、今もなお高い評価を獲得している有り体に言えば「天才」漫画家でした。
酔った勢いで気に入らない関係者に殴りかかったという話もある武闘派な人でした。
新旧のアニメーションにも造詣が深く、アニメ雑誌にもコラム連載を持っていました。
そんな原作者の作品をアニメするにあたって、やはり原作者はアニメ制作にも介入してきました。
監督は◯◯◯◯(巨匠クラス)にしろ、アニメ化のテイストはこういうふうにしろ、ああしろ、こうしろ・・・・
かなりの我儘とも言える多大な注文をスタジオに強いてきたのです。
スタジオもせっかくの初元請けなので強く出ることもできず、原作者の我儘な数多いの要望を聞き入れながら、なんとかアニメは完成させました。
上映中、原作者はまだ途中にも関わらず退席し、そのまま帰ってしまいました。
後日、アニメ誌の連載の中で自作のアニメ化を徹底的にこき下ろしました。
そんな作品が売れるはずもなく、失敗作の烙印を押されてスタジオも大打撃を受けました。
誤解の無いように言いますと、そのアニメは決して出来が悪いわけでもなく、単体として見ればとても丁寧に作られた良作でした。
しかし原作ファンからしてみれば「?」と疑問符がでるようなものであったのも確かです。
原作の魅力であったシニカルで毒のあるユーモアは鳴りを潜め、低年齢層が見るような童話的テイストに仕上がっていました。
しかしこれは原作者の要求通りに作った結果であって、アニメ制作側には原作者に恨まれる筋合いはまったくありません。
にも関わらず原作者は何が気に食わなかったのか公の場でアニメ化を糾弾したのです。
スタジオは原作レイプの汚名を着せられ、次に元請け制作のチャンスが巡ってくるまで実に20年もの時間を要しました。
ここで重要なのは「原作者の要望」はアニメ制作サイドは全て叶えてきたにも関わらず、その原作者が被害者ムーブをかました事です。
「原作者は絶対」なら、こういう横暴にも制作側は耐えなければならないのでしょうか。
「原作者は絶対」にも、限度というものがあるのではないでしょうか。
今後、原作者の権限はますます強まる風潮になってなるでしょうが、こういう無限定な我儘までをも許してよいとはとても思えません。
今一度、原作者と制作サイドの関係性を考えて、このような原作者が制作サイドを奴隷や玩具のように扱うような事が今後起こらないことを祈ります。
後日談として、
そのアニメを作ったスタジオは今ではクオリティに定評のある中堅スタジオに成長し、アニメファンからの支持も厚いスタジオになりました。
2024年3月31日(日)放送のMBSのドキュメンタリーだけど生で見られなくて配信まだかなぁと待ってたらTVerに来てた。
https://tver.jp/episodes/ep706l9a50
労組と弾圧~関西生コン事件を考える~ | MBSドキュメンタリー 映像’24 | MBS 毎日放送
https://www.mbs.jp/eizou/backno/24033100.shtml
ウクライナやガザを映したドキュメンタリーみたいに特別な映像があるわけではないのに、見てて緊張感覚える構成で迫力があった。経営側が警察と右翼と暴力団と四位一体となって労組潰しをする様子が描かれる。
最初に「連帯ユニオン関西生コン支部、通称‟関生″」がアメリカでは普通の産業別労組として生まれて労働者の待遇向上を勝ち取ってきた歴史。
続いて生コン企業が作る経営者側の団体「大阪広域生コンクリート協同組合(大阪広域)」と対決し潰されていく過程。関生のゼネストからの官財暴の連携の鮮やかさが怖かった。大量逮捕された組合員は警察の取り調べで「関生を脱退すれば釈放されるぞ」と脅されていたという。
見どころは右翼活動家に直撃インタビューして「大阪広域の木村理事長にお願いされて毎月70万円で関生を潰す活動をしてた」と話す場面。大阪広域は金銭の支払いを認めず。
終盤の展開は逮捕された組合員たちがぞくぞくと無罪判決を勝ち取っていき希望が見えるが、元警視総監は「無罪が出ても警察に後悔はない。組織暴力と変わらない」と言い放つ。そして無罪判決は上告審で高裁差し戻しになって終わる。戦う労組の将来の暗さが暗示されて陰鬱な気持ちになる。
歩道に。
毎年忘れるけどこの季節の今頃がいちばん突然歩道で死ぬ確率が高いんだなわが北国は……ということを今日思い出した。今煽り運転自転車のニュースを見て。
でも自転車に限っていえば「ごく普通」の運転をしている人も本当にごく普通に危ないことやってるからああいう煽り運転映像を見てやべー奴がいるなwって全くの他人事として嗤ったり怒れない人たくさんいると思うんだよな。
あのスピードでよく後ろから人を追い抜いていけるよなせめて徐行して声かけるか降りて押して追い越せばよくない?って人やら正面からぜったいあいつがよけるやろここ自転車のための道だしって気分で突っ込んでくる人やら
タバコ吸いながらスマホ見ながらそのスピード出します?みたいな人やらバイクくらい太いタイヤの自転車で人の足轢いていく人やら怒号で避けさせようとする人とか夜無灯火で集団爆走してくる男子高校生とか女子高生が並走でおしゃべりしながら向かってきて歩道にどこにも避けるところがなくなって困って車道に出ざるを得ないとか、とにかく歩行者をいないものとしてルンルン走ってる自転車いっぱいでさながら自転車専用路のよう。歩道の概念が壊れる。
自分はとりあえずまだ反射神経があるけど自分のやや高齢の母をそういう自転車から守るのにめちゃくちゃ苦労してる。特に雪が解けた直後の今頃はカンが戻らなくて苦労する。
自分がそばにいなくて一人で歩いてるときも後ろから来る自転車に全然気づけないっていうからいつか嫌な連絡飛び込んでくるんじゃないかと思って怖いわ。
そうやってやっと後ろからの自転車を避けさせて、こっちが悪いわけじゃないのに「とろいな」って感じて舌打ちして通り過ぎる自転車の人、タンスに足の小指1日1回ぶつけてほしい。
雪解け一転春一番に自転車を出す気持ちよさはわかるし車道なんて素で自転車が走るような状況じゃないこともわかるけど、それにしても下手したら人を殺すか再起不能にするか自分が突然死ぬか再起不能になるのに本当に危ないものを扱ってるという認識がないんだなあという気分になってこの季節一番イライラしてしまう。
いうか普通に怖いしな。一歩右によろけてたら今轢かれてたなってことが多すぎる。いや、本当に怖くないの?乗ってる人自身。
家族も過去に一回轢かれかけてトラブルに巻き込まれてるしもういい加減うんざり。
結局警察が介入して向こうを怒ってくれてそれはよかったけど、いよいよ嫌になって危機感を忘れたり十分速い乗り物に乗ってるにも関わらずもっと早く目的地に到達したいと思う気持ちがなぜかどうしても生まれてくるらしいことや、それらを考えることが面倒で自分自身もそういう運用をしてしまうかもしれないのが嫌だし疲れちゃって自転車乗るのそれ以来一切やめた。
日本人はマナーやルールをよく守るって言うけど、自転車のルールや危機意識に関しては底を尽いてるなってよく思う。
前にお店からぱっと出てきた子供を猛スピードの自転車が轢き逃げしてそれをカメラが捉えていて発覚したという事件があって、その反応においては子供の方が非難されて自転車乗りの方に同情する意見が多くて目を疑ったことを思いだす。
子供がコンビニなんかに一人で寄らなくて店から唐突に飛び出してこなければ、そんなん予想できないんだからって。そんなこと言ったらそもそも歩道をあんな猛スピードで走ってなきゃ起きない事故だわ。冷静に考えろ。
やっぱり自分が普通にやってることを改めて認識するとバツが悪くなるというかそんなことないやろだってみんなこれで普通にやってるしってどうしても言いたくなるんだろうけど、やっぱりそりゃないよ。普通に危ないし良くない。
最近はヘルメットが努力義務化されて、子どもたちにヘルメットもかぶせて肘当て膝当てもさせて安全を意識させても、お父さんがその状態の子供4人を引き連れて歩道を集団で爆走するんじゃ意味ないやろ。
自分の身を守る安全と同時に他人の安全を守るために教えることもあるのに、後者の方が完全に抜けてる。
大人の方も自転車の安全な運用を知らないし今のままでいいし遠慮するのは歩行者の方と思ってるから改善されない。
いいけどいつか死ぬかもしれないのに。被害者になる確率も加害者になる確率も普通にあるのに多分まだ少なくない数の人が保険にも入ってないんだろうし。
「普通の乗り方」程度に思ってるかもしれないけどその乗り方は本当に危ない。危険運転自転車滅びますように。
自転車専用路がちゃんと危なくない、おざなりでない形で整備されますように。
自身や家族がこういう事態の関係者になることなんて十分以上にありうるのだから。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/article/20240410/k10014410001000.html
必ず来ると思うんだよ
おれ氷河期世代なんだけどさ、年金も医療も介護も絶望的でしょ?
下に支えられるような世代がいないもん
団塊世代はおれらが低賃金重労働で今のまま支えきるけど、おれらの世代だともう絶対無理
そうなると、死ぬまで働く=働けなくなったら早く死ぬしかないよね?
いろんな死に方がサービスとして提供されてて自由に選べたら良くね?
酒池肉林の宴の最中に死ねるとか、映画のワンシーンみたいに劇的に死ねるとか、先に死んだ妻と再会して天に昇っていく映像見ながら死ねるとか、いろんなパターン(商品)がありうる
金持ちは生身のキャスト使って派手な演出したり、麻酔も使って苦しまずに死ねるようにしたり、より高付加価値な死に方選んで、庶民はVRと酒とかで済ませるとか、差別化もできる
それどころかボケや寝たきりの不安から解放されるし、社会保障費も削減できるし、新しい産業も発展するし、メリットがとても大きいように思う
たぶんこれはそう遠くない将来に実現してるだろう
かわいいメスザルとかバナナがふわふわ浮いてる映像を見せることで
全然食えなくても
「俺はこれを見るためにボタンを押している、餌はもう運、まあ食えればラッキーくらいの感じ?ww」
って納得させることができる
映画「オッペンハイマー」は重厚感のある大作だと思ったけど、クリストファー・ノーラン監督がどんどん社会派・歴史派な作品の製作に向かっていくんだな、みたいな一抹の寂しさがある。
むかし「セブン」「ゲーム」「ファイトクラブ」と映像や企画の鋭さで作家性が強く見えたデビッド・フィンチャー監督がゾディアックやソーシャル・ネットワークを作っていったように。