はてなキーワード: 文豪とは
フォロワーに歳取ったオタクが多いとさあ、Twitterに現れるんよ。
「エモいって言葉嫌い」「使わないようにしてる」「これ使ってる奴は語彙力の無さをさらけ出してるだけ」「もっとふさわしい言葉があるのに大雑把な言葉でごまかしてる」
みたいなことほざく奴。
すまん、一つだけいい?
きっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっしょ
こういう奴って皆の周りには居ない?居ないなら幸せなことだと思う。俺の周りにはたくさんいるし、インターネットにもたくさんいる。
信じられないならTwitterで「エモい 語彙 貧困」とか「エモい 使わないようにしてる」とかで調べてみ?
石の裏のダンゴムシみたいに、出てくる出てくる。Welcome to underground..........
この類型で「推し」「担当」「シュール」あたりの言葉も攻撃されてるのを見たことあるけどさあ。そいつら全員チンカスなんだよなあ。
エモいって言葉が嫌いとか抜かすチンカスさあ。お前、絶対勘違いしてるよな?
そこから間違いなんだよ。
エモいって言葉が誕生したのは、エモいって言葉でしか表現できない感情があるからなんだよ。わかるか?
感動とか、感傷的とか、胸を打たれるとか、センチメンタルとか、類語は確かにいくらでもある。
例えば「感傷的」。コイツは良く出来てる。エモいにかなり意味が近い。
でも考えてみてほしい。【感傷的だがエモくはない】【エモいが感傷的ではない】って感情、普通にあるだろ?
ってことは同じ意味ではないわけ。
例えば富士山の山頂から雄大なご来光を見て興奮してる状態、これってエモいけど感傷的ではないよな?
感傷的ってのはどちらかというとダウナーな感情だけど、エモいはダウナーにもアッパーにも使えるし、その中間にも使えるわけ。
そもそも画数の多い漢字だらけの感傷的【カンショウテキ】と、カタカナで書かれた柔らかい響きの【エモい】は、字面や音から感じ取るニュアンスも全然違うじゃん。
この2つはかなり似てるし、どっちをどっちに言い換えても意味が大きく変わることはないけど、言葉が与える印象は決定的にまったく違うわけ。別の言葉なんだよ、この2つは。
だから令和の今になって「エモい」なんて新語が流行ってるんだよ。
他の単語じゃ、 役 不 足 なの。
「エモい」と、その他の似てる単語を言い換え可能なものだと思ってるんだとしたら、それはお前が「もっとふさわしい言葉があるのに大雑把な言葉でごまかしてる」から、なんだよ。
「エモい」と、その他の似てる単語を両方知ってるのに、どっちかしか使わないんだとしたら、それはお前が「語彙力の無さをさらけ出してる」だけなんだわ。
感情ってのは無限の段階があるんだから、感情を表す言葉が一つあったら、その言葉にしか近くない感情ってのが絶対に存在するわけ。わかる?
言葉の大師匠であるところの、明治~昭和の文豪の作品を読んでみろよ。太宰でも芥川でもいいけどさ。当時はきっとそこまでポピュラーじゃなかったであろう外来語が、意外とたくさん登場するだろ?サンチマンタリスムとかさ。
彼らが使ってる外来語の多くは、意味が近い日本語に訳そうと思えば訳すことも可能なわけ。
でも彼らは、その外来語でしか表現できないことがあると思ったから、その外来語をそのまま使ってるの。そんでそれが名作って呼ばれてるの。
意味も、響きも、字面も、文脈も、全部ひっくるめてその言葉なんだよ。
中学生の頃、読書感想文に「おもしろかった」って書いたんだよ。
そしたら担任のチンカスがさ、「おもしろい、という表現が見られましたが、子供っぽいのでやめましょう」「興味深い、などに置き換えましょう」とか言ってきたんだよ。
マーーーーーーーーーーーージでカスだよな、このフェイク野郎。
「おもしろい」と「興味深い」は、 別 の 言 葉 だ ろ
【おもしろいけど興味深くはない】【興味深いけどおもしろくはない】ことって、2秒あれば思いつくだろ?
小島よしおはおもしろいかもしれないけど、きっと興味深くはないだろ?
ボルツマンの原理は興味深いかもしれないけど、たぶんおもしろくはないだろ?
おもしろいと興味深いは、意味からして別の言葉なわけ。字面とか、発話したときの響きから生じるニュアンスも含めると、とんでもない差があるわけ。
あのさあ~。俺がおもしろいって思ったんなら、それは「おもしろい」でしかないんだよ。それをカッコつけるために「興味深い」に言い換えたら、ただのウソだろ。
「エモいって言葉は使わないようにしてる」ってことは、使いたいって思う瞬間があるってことだろ?
なのに使わないのだとしたら、それは、お前が本心とは違う言葉を喋ってるクソみたいなフェイク野郎である証拠だろ。
カッコつけるために表現をこねくり回すウソつきのチンカスフェイク野郎のくせに、言葉を大切にしてますぅ~みたいな雰囲気を出すな。
使いたいと思った単語を、使いたいと思った瞬間に、使いたいと思ったままに言葉にしろよ。
ビジネス文書ならカッコつけた表現を使ったほうがいいかもしれないけどさ、お前の小説やブログや漫画やツイートは、お前の自己表現だろ?卑しく金儲けするためのゴミ文書ではないんだろ?ならカッコつけんなよ。
ヤバいだろうがダサいだろうがエグいだろうがキショいだろうがナウいだろうが、いかに陳腐に感じる表現であっても、その言葉が浮かんだのだとすれば、それだけが真実なんだよ。
お前が見下してる「エモい」を使う人間は、ウソついてない時点でお前の100兆倍上等なんだわ。
序列としてはさ、お前がいっっっっちばん下のカスで、その次に「エモい」しか使えないやつが来て、その少しだけ上に「エモい」も使えるやつが来るわけ。フェイク野郎のお前が、この世で一番下なの。わかった?
あのさあ、お前がどんな言葉を使わないか、なんて便所のゲボよりどうでもいいわけよ。
「この言葉、使いません!w」とか表明されても、コイツはこの程度の語彙も使いこなせない雑魚なんだな、としか思わないの。
別に「エモい」を使いこなせないこと自体はいいんだよ。歳取ったら若者言葉を使わなくなるのなんて当然のことだし。俺もナウいとかチョベリバとか絶対言わんし。
お前の使う語彙の中にエモいって言葉が存在しなこと自体は別にいいんだよ。ただ、それを誇るなって言ってんの。
使わない言葉を誇ってるからお前はダサいし、ゴミだし、チンカスだし、チョベリバなんだわ。
言葉にこだわりがありまーす、みたいな雰囲気を出しておきながら、誰よりも言葉に不誠実で、誰よりも言葉というものを理解していなくて、一生何者にもなれない完璧で究極に凡夫の、そこのお前。わかったか?
さほどYoutubeを見ない自分でも知ってるくらいのYoutuberが不倫したらしい。
コメント欄を見ると不倫したやつが作った動画はもう見れないという趣旨のコメントが大勢いる。
……なんかそれってずいぶんと薄情だなって思う。
僕は作品に罪がなく、単に不倫をした人間が批判対象で有って、作品と作者は切り分けて考えるべきだと思っている。
もし、犯罪者の作品が批判され、淘汰されるべきなら太宰治だって複数の女と自殺未遂してるし、太宰だって不倫してる。
いやまぁそりゃぁ文豪様と一介のYoutuberを比較するのは流石にどうかと思うだろう。
でも、属性を抜きにして考えて欲しいわけだ。
あくまで1つの素晴らしい作品があったとして、大衆に受け入れられたとする。
それが後に主演なり作者なりが不倫したとして、その作品に対してそれは関係あるのだろうか?
作品はあくまで作品であり、作者は作者として別で考えるべきではないのか?
さほどYoutubeを見ない自分でも知ってるくらいのYoutuberが不倫したらしい。
コメント欄を見ると不倫したやつが作った動画はもう見れないという趣旨のコメントが大勢いる。
……なんかそれってずいぶんと薄情だなって思う。
僕は作品に罪がなく、単に不倫をした人間が批判対象で有って、作品と作者は切り分けて考えるべきだと思っている。
もし、犯罪者の作品が批判され、淘汰されるべきなら太宰治だって複数の女と自殺未遂してるし、太宰だって不倫してる。
いやまぁそりゃぁ文豪様と一介のYoutuberを比較するのは流石にどうかと思うだろう。
でも、属性を抜きにして考えて欲しいわけだ。
あくまで1つの素晴らしい作品があったとして、大衆に受け入れられたとする。
それが後に主演なり作者なりが不倫したとして、その作品に対してそれは関係あるのだろうか?
作品はあくまで作品であり、作者は作者として別で考えるべきではないのか?
夫婦の夫の側がお母さんという言葉を使った場合、夫の女親ではなく妻を指すこともあるが、母と言った場合は妻を指すことはない。
このような使い分けは辞書に書いている表面的な意味の語釈からは絶対に把握できない。
辞書で新しく知った言葉を背伸びして使って恥をかくリスクの背景にはこういった事情もあるんだと思う。そりゃ明治の文豪気取って漢語バリバリ使いたいけど漢籍読んでないんじゃ辞書の意味だけ見て知った気になっても語用論的に的外れな使い方しちゃうことになるよね。
意味的には同じでもこういう場面では使わないみたいなのはもう実際の会話や文学で経験積んだ上で十分熟知してるだろうって言葉に対してだけ安全に使えるだろうって程度だろうね。
畢竟 ひっきょう。「言ってみれば」
須く すべからく。語尾の「べし」とセット。意味は必ず何々しなさい(古代中国の役人がよくつかってた命令文)。
兎も角 漢字の意味は不明。だって明治の文豪がつくった当て字ですもの
いやしくも 血筋や身元の話をわざわざ口にするのが卑しいくらい明白に高貴なお方なのに……の短縮形。だけどこの辺いやしくも字下げ増田様とか自称・他称するやついっぱいいそう。
よしんば 「ほとんどありえないけどもしも」くらいの意味。場合とセット(おばあちゃん頭良い)
可及的 そうそう、できるだけだけどなぜか速やかとセット。急急如律令~
果たせるかな 「自伝を書くときに使う予定」←そんな思い通りの人生よんでもつまんねえのでは。どっちかというと「豈図らんや」な意外性の人生が読みてえな
希くは 語尾に「~んことを」とつけるとかっこいいぞ。希うのは天に対してが多いので「お願いだから自然と~~なってください。」
のべつ幕無し お芝居に全く休憩時間(=幕間)がないってことです。2時間ごえで席に着いてるのめちゃだれてきた、もうあんなにみたかったお芝居が騒音にしかきこえない系拷問。
三三五五 大体居酒屋とかにあつまったり解散するときの様子ですね。学校の登校とか。
徹頭徹尾 昇進しなくてもつかってええし粉骨砕身(力士昇進からけっこうつかわれるようになった)よりわりと気軽ちゃう? ウクライナは徹頭徹尾抗戦するとのことでした~とか。
ゆめゆめ 怠るなとかわするるなとかがセット。 反対語は「夢にも思わない」。
文豪をキャラ化した作品の同人誌即売会に、元ネタとなった文豪の書いた小説や詩歌をそのまま同人誌にして頒布やDL販売しているサークルが複数ある。
イベント主催企業のFAQには「ある作品の聖地巡礼写真集(notコスプレ)はどのジャンルを選べばいいですか?」「メインとなるパロ元の作品ジャンルでお申し込みいただけます。」とあるので原作キャラとは関係のない元ネタを扱った同人誌を作品ジャンルで頒布するのは問題ない。著作権は切れているので誰かの権利を侵害しているわけでもない。
でもそれって同人誌としてどうなの?
文豪の随筆を元にキャラの漫画や小説を書いて、出典として一部引用するならわかる。詩歌を読んで得たインスピレーションを元にイラスト集を作るのもわかる。
文豪の記念館・文学館やゆかりの地を巡って旅行記にするのもいいし、文豪の作品を読んで感想文を書いたり執筆背景を調べて本にするのもいいと思うよ評論はコミケの老舗ジャンルだし。
文豪の作品をコミカライズしたり朗読CDにしたり、古語や外国語で書かれた本を翻訳したり別の作品の形に翻案するのもクリエイティブだと思う。
でも文豪の作品をそのまま同人誌にするのはうーん…二次創作とはいえ何らかのオリジナリティを発揮するのが同人イベントの趣旨じゃないのか?
夢女子歴18年、そのうち腐っていたのは3年弱。
初恋はBASARAの元親で、自由な生き方を貫く彼とムキムキの筋肉と声が大好きだった。
彼氏と付き合って5年、どっぷり沼にハマったジャンルも特になく、ゆるキャン△に憧れて一緒にキャンプをしたり、コーヒーが好きすぎて一式そろえたり…
pixivを定期的にあさりつつ適度なハッピー夢女子ライフを送っていた。
ただ、前のジャンルで3年くらい沼ってたもののおかげで、純文学をこれでもかと読んでいた。
もともと本を読むことが苦ではなく、小学校の図書館で漫画の偉人伝だったり、西遊記だったり、祖母の家からパチッてきた小公女、父親の書斎から掠め取った司馬遼太郎の坂本龍馬とか、読めそうなものはなんでも読んだ。
本に明確に感動を覚えたのは小3に読書感想文のために「アルジャーノンに花束を」を読んだ時である。そのあとはもう本屋と図書館に入り浸り、上橋菜穂子の獣の奏者も守り人シリーズも、有川浩の作品全部、高田大介の図書館の魔女など有名どころのファンタジーは読みつくし中学を終えた。
高校に入るととあるゲームのおかげで、日本の近現代文学史における文豪たちの本にハマる。これが3年くらい沼ってた前ジャンルなのだが、なんだか運営側の不祥事が沢山あってフェードアウトしてしまった。しかし本好きは衰えず、坂口安吾の桜の森の満開の下の不気味で美しい表現と、小林多喜二の雪の夜の思想抜きの彼の生き様などを毎日触れていた。
話を二次創作に戻すと、そんなに本を読んでいたら自分も書き始めないわけなく、pixivに初めて投稿したのは2万字程度の二次創作であった。
普通以下の、下手くそが書いた、今見ると恥ずかしくてたまらないものであったが、三桁数のブックマークに喜んだ。
結局界隈を去ってしまったのと、当時の作品たちがあまりに下手くそすぎて続きを書く気が失せたのでWordのデータファイルごと消してしまい、創作活動から離れていた。そのあとも時間があれば本を読んでいた。
最近、卒論やら国家試験の勉強やらのストレスから超クソデカジャンルのキャラにハマった。そのキャラは人気がそれほど高いというわけではないが、なんせ母数が段違いすぎて沢山の素敵な作品に溢れていた。
現実逃避のために私もサクサクとしたクリスピー食感をもって1章を2万字程度を書き上げた。
どれくらいの方が最後まで読んだのかはわからないが、ブックマーク数は脅威の3であった。
確実に最初に書き上げた時に比べ文章は上達し、表現も緻密である。ではこのブックマーク数の差はなんだ??
誰かからの評価が欲しいとか、承認欲求を満たしたいとか、決してそういったもののために二次創作をしているわけではないが(2%くらいある)、ちょっと悲しい気持ちになった…
比べてみると答えは簡単だった。
私が初めて投稿したのは一人称。常に主人公の内面が書かれており、主人公が見えていないことは書くことができない。
対して私が今回書いた文章は三人称。複数のキャラクターの視点に切り替わることができる。
個人的な考えであるが、二次創作は一人称の作品が多いと思う。つまり市場の需要と嚙み合ってなかったのである。
#作品名+(プラス)というタグは夢主の一人称視点、つまり「私」の視点で物語が進んで行き、「私」の見たこと・感じたことが書(描)かれている。その方が感情移入しやすく、一体感・臨場感が楽しめるのだろう。
三人称の場合、いろいろな場面の出来事を書けてしまうため、キャラとの距離が遠い。実際、今回私が書いた三人称の文章は2万字の字数の中で30分程度しか作品の中の時間が経過していない。多分めちゃくちゃ間延びしているし余計な描写もたっぷりだ。
表現の上手い下手はあると思うが、どの人称だから優れている・劣っているというのは決してない。要はネタに合った人称を選べばいい。一人称が~三人称が~言っている暇があったら書(描)け!!!!お前がジャンルやカプを盛り上げるんだよ!!!!!!(自戒)
最近の「クリエイターと作品は別」という風潮に違和感を覚えているのでぶち撒ける。作品だけじゃなくてクリエイターも守らなきゃならんだろ、と。
Aはサークルでも頭一つ、いや二つも三つも抜きん出ていたが、ツイッターでもPIXIVでもどんどんフォロワー数は増えていった。
だからAが就活をせず、イラストレーターとして食べると宣言した時は誰も心配や反対なんてせず、むしろ当然だと思った。
卒業後もTwitterで常時繋がってたが、同人誌即売会がリアルの同窓会になり、会うたびにAの絵の上達や仕事を讃えた。
夏になっても毎年恒例の新刊案内も出さず、もちろん当日スペースに行っても誰も座っていない。
失踪したのだ。
でも、俺はこの時大して心配していなかった。
おおかたAのことだからどこかの企業から声がかかって商業作品に関わっているだけだろうと思った。
そういう話をAに会った時に聞いていたからだ。
でもその年の冬、翌年の夏も、Aは申し込みすらしなかったようでどこにも見つけられなかった。
さすがにこの頃には心配になったが、俺にも仕事があるからプライベートでAを探すなんてことはしなかった。
ある日、元サークル仲間のBとfpsをしていた時、突然Aのことを思い出して「そういえばAって今なにしてるの」とVCで聞いてみた。すると、Bは
「…………は?」
詳しく聞いてみると
・来なかった夏の直前に飲食店に強盗に入った(新刊の印刷代を稼ぐためじゃないかとBは言っていた)
・Aは実刑になった
・今も刑務所にいる
・どこの刑務所かは知らない
ということだった。
ここ数年漫画家とかイラストレーターが逮捕されるたびにAを思い出して胸が締めつけられる。
Aは捕まらなかったら今頃何かのゲームを任され人気のイラストレーターになっていたのは間違いない。
きっと何万、何十万人の人に感動を与えて救っていただろうと思う。
そんな才能を刑務所に送ることが本当に社会の利益になるのだろうか。
昔の文豪や芸術家には今だったら捕まってるようなエピソードが多くある。
それでも彼らは捕まらなかったからこそ、歴史に残る作品を送り出し、今なお世界中の人々を感動させ続けている。
創作の無限の可能性に賭けることこそクリエイターを尊敬し文化を守る社会ではないのか。
昨今、クリエイターが不祥事を起こすたびに仕事を下したり自粛させたりするキャンセルカルチャーが問題になっている。
無論、不祥事がどのようなものであれ、キャンセルは単なる文化破壊であり、絶対に許してはならない。作品には何の罪もない。
キャンセルを推進してる連中の取り締まりは国家の安全保障上何よりも喫緊の課題であると思う。
しかし、俺はクリエイター側に立つ人間がクリエイターを背中から撃っていることを憂慮している。
彼らはいう。「作品に罪はない。でも犯罪は犯罪だから罰されないといけない」と。
このような意見は作品を産み出しているのはクリエイターであるという至極当然のことを理解していない。
当たり前だが、逮捕されたり刑務所に入れられたりすれば物理的に創作が邪魔される。
そして、クリエイターの側に賭けることこそ、クリエイターを尊重するということではないのだろうか。