はてなキーワード: 思索とは
いま話題のこの増田 https://anond.hatelabo.jp/20230515161310 もそうだけど、最近のインターネットでは
「早いうちに子供を持てば子育て終わっても若いから自由に好きなだけやりたいことをやれる」
という意見が褒めそやされ拍手喝采で受け入れられる傾向がある。
しかし、上の増田でもそうだけど、例えば20歳で子供を持ってとにかく家族のために働き20年過ごし、いざ「子育て終了!自由だ!」となったときの自分自身は、
「20歳から働けるようなキャリアで20年間働き続け、その間は家庭と子育て重視で自己研鑽も思索も新しいことをやる試行錯誤の経験も中途半端な、20歳に毛が生えた程度の経験しかない上に肉体的にも精神的にもくたびれた自由な40歳」
でしかないと思うんだよね。
自由は自由で、好きなことをやれるのはその通りだけど、その状態からできることってそんなに大したことじゃなくなってしまうというのがあると思う。
新しい趣味でギター始めちゃおっかな〜とか、海外旅行行きまくっちゃおうかな〜とか、そういうのはできるけど
音楽でプロになるために自分が納得するまで挑戦してみるとか、海外赴任して国際的なビジネスにかかわるとか、そういうことは(本当にごくごく一部の超例外を除いて)不可能だと思う。
みんなそれが分かっているから、早く子育てが終わって自由になれると理解していてもそうしようとはしていないんじゃないの?と思う。
挑戦したいこととか達成したいこととか全然ないですお金が稼げて楽しく生活できればそれでいいですというのが最近のネットでは主流派かのように言われるけど、言ってるだけで実際は全然そんなことないからこそ少子化してるんじゃないのと思う。
大学はぜひとも不義理があって行きにくいところであるべきだという固定概念(?)(固定観念の誤記?)がある。
裏を詮索するに、(大学にとって)我々(ごときの教育などというの)は物足りないのだろう。
(我々が役不足であるという)結論が出る状態に至るのも嫌なので、話の核心部分だけにしておこう。
最高学府は須く敷居が高いという固定概念がある。穿った見方をすれば、我々の役不足に過ぎないのだろう。煮詰まるのも嫌なので、話のさわりだけにしておこう。さて、狭いユニットバスで性癖を解放しよう。
「須」は漢文で「すべからく」と読み下す場合は「〜べし」とセット(成句)だが、国語辞典では「下に『べし』が来ることが多い」と説明されており、つまり「べし」を伴わない用法も許容されている。
「煮詰まる」には「もうこれ以上新たな展開が望めない状況」という意味もあるので、今回はそのような意味だった可能性もある。大抵のものはさわりこそ煮詰まった末なので、煮詰まるのが嫌なのにさわりだけにするというのはいささか不自然ではあるが、結論のみ投げられている分には案外逃げ道があったりするので、そういうシーンを想定しているのかもしれない。
性癖を解放ということは、日頃は己の性癖を抑えているのだろう。単にユニットバスというのではなく狭いというからには、もしかするとバストイレ一体型かもしれない。したがって住居自体も狭いだろう。狭い住居のさらに狭い風呂場、したがって他人からも見られない、そんな所でのみ自身の偏りを表現できるという。
この閉塞感の背後にはもしかすると、己の学問心が非才ゆえに大学で軽くあしらわれてしまったというような、大学に対しコンプレックスを抱くような挫折があったのかもしれない。己の凡才ぶりという核心に正面から向き合うのも苦しい。
わたしは「もにょる」という言葉が嫌いです。しかしその理由をここで開陳するのはやめておきましょう。そんなことを書き出したらわたしが本来書きたいことが書けなくなってしまいますから。
ということについてです。
元増田さんはきっと「繊細さん」ではないのでしょう。「繊細さん」を「(笑)」などと言って嘲笑しているのですから。
なぜそう判断するのか。簡単です。多くの人は自分を嘲笑したりしません。というか、できないのです。自分をあざ笑う為には自分を客観的に観察する必要があるからです。多くの人が自分の心は、胸若しくは頭の中という自己の体内にあると認識していて、それを自分の外部に持つことができないのです。自分をあざ笑う為には自分の体の外部に視点を持って自己を点検してみなければなりません。目の玉を切り離してその目で自分を見るというようなホラー映画のようなことを言っているのではないですよ。思索のことです。そういう思索が多くの人はできません。元増田さんはきっとそうできない、そうしない人でしょう。だからこんな一文を全世界から閲覧できるインターネットに放つのでしょう。でもご心配なさらないでください。元増田さんはきっと多くの人と同じですから。マジョリティですから。マジョリティであることほどこの社会で生きていく上で安泰なことはないのですから。
すいません。元増田さんが繊細さんではないという説明に字数を費やしてしまいました。わたしが書きたいことはそれではないのです。ただ元増田さんが繊細さんではないという前提で話は進めさせていただきます。その条件は整っているので。
話を進めます。世の中を白か黒かに二分することをわたしは悪手だと思っています。が、しかし、世の中は繊細さんと鈍感さんに二分されると思っています。その間には大きな中間部が存在して実を言うと彼らこそがマジョリティです。中間層にもグラデーションは存在しますが、しかし繊細さんが問題になるときには、その中間層と鈍感さんが結託して繊細さんを苦しめるのです。だから中間層も鈍感さんの寄りの人々は鈍感さんの一部であると言ってもよいとわたしは思っています。
わたしが言いたいのはここからです。この世界は未だに鈍感さんに支配されているので残酷極まりないのです。あなたたち鈍感さんが何も気にしていない、どうってことこと無いと思っているせいで、環境問題や、地球人口の増大や、資本主義の行き過ぎや、貧富の拡大や、男女格差の問題や、女性の生き辛さや、男の苦労や、結婚できない若しくはできなかった男女の苦悩や、結婚と子育ての大変さや、資源を浪費することや、核爆弾で人類が死滅してしまうかも知れない危険性や、科学を軽視しスピリチュアルに心の癒やしを求める問題や、インターネットによる陰謀論の拡散や、差別発言の問題や、利己的でなければ敗者に陥ってしまうことや、障害者の生き辛さや、あらゆる犯罪や、共産主義の不自由さや、綺麗で印象の良い言葉を次々に無思慮な人々が汚染していくことや、労働者の酷い待遇や、権力者の横暴や、腐敗や、既得権益や、行政の不作為や、ルッキズムに関することや、子どもたちに真っ当な教育が届けられない問題や、人口の減少問題や、マチズモや、自己責任論や、著作権や、資本を持つものが資産を拡大し維持しつづけるというシステムの問題や、詭弁や、宗教原理主義や、知識人の軽視や、警察の横暴や、勘違いしたフェミニズムの行き過ぎや、儲かれば法に触れない程度で何をしても良いと思っている人たちの問題や、暴力の連鎖や、権力者を批判することを揶揄する人々の薄気味悪さや、都会の若者の孤独や、高齢者の孤独や、詐欺しを教祖だと勘違いすることや、自然が日々損なわれいてる問題や、性的な表現の問題や、商業の無法さや、法の軽視や、音楽家に対価が支払われない問題や、過去の発言を顧みないコメンテイターや、氾濫する性的な画像や、右派の暴力的な言説や、倫理を超えた技術の有用性や、左派の極端な規制主義や、識者を名乗る人が権力者に寄り添った発言しかしない問題や、労働者を軽視する経営層の発言や、異常気象や、生活が困窮していく人が日々増えている問題や、あらゆる問題を世代間問題にして解決しようとする安易な言論や、質疑応答で言語の共通理解が破壊されている問題や、良い権力者には権限を無制限に与えてもいいという安易な強権国家の入り口や、南北極圏の氷山が融解する問題や、グローバルノースとグローバルサウスの問題や、エネルギー問題や、自由を制限することで効率化がはかれるのならそれを推し進めようとする人たちがいることや、税金の使い途や、政治家の不透明性や、核廃棄物を万年単位で管理し続けない問題や、日々劣化していく倫理観の問題や、不採算部門は切り離してもよいという行政に営利企業の目的を導入することや、美しいもの以外は滅んでもいいという傲慢さや、情報発信が容易になっていくことになることで不確かな情報が拡散していく問題や、伝統が失われていく問題や、科学の軽視や、豊かさという強さに人々が憧れを抱き思慮もなくそこに追随していく問題や、権力差の強さに同調して同じ論調を繰り返す愚かな人々の問題や、後先顧みずに営利原理主義で法の穴をつく者がいる問題や、弱肉強食が種の起源の本質であると勘違いしていることや、戦争や貧困や倫理や常識や平等や公平や優しさが失われること、は改善も改革もされず放置されています。
もう少し真面目に繊細さを獲得すべきだと思います。というか、これらは繊細差の問題ではなく、あなた達が鈍感過ぎることによる弊害です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%9D%E6%83%B3
「思想(しそう、英: thought)は、人間が自分自身および自分の周囲について、あるいは自分が感じ思考できるものごとについて抱く、あるまとまった考えのことである。」
「単なる直観とは区別され、感じた事(テーマ)を基に思索し、直観で得たものを反省的に洗練して言語・言葉としてまとめること。また、まとめたもの。哲学や宗教の一部との区分は曖昧である。なお、その時代が占める思想の潮流(時勢)のことを思潮と呼ぶ。」
つまり、思想とは、直観で得たものを反省的に洗練して言語・言葉としてまとめること又はまとめたものを言うのであって
恋愛というのは、思想とは区別される「単なる直観」の最たるものでしょ?
例えば、一女性が個人として「低身長の男とは結婚したくない」と思う事は単なる直観だ、
だが、「低身長の男は(如何なる女性とも)結婚すべきではない」となったらそれは優生思想。
こういう単なる直観というか好みって何も恋愛、というか人間相手に限った事じゃないんだけど
例えば、「犬より猫が好きだから猫を飼いたい」は優生思想ではないが、
あるいは、「肉や魚は苦手なので食べたくない」は思想ではないが、
沖縄の話、感情的な問題なんだって話が結構出てるけど、職場で隣に座ってるやつの気持ちも考えもわからんのに、沖縄の人のことなんて正直遠すぎてわからん。わからんけど、わからんなりに大変で気の毒だなという素朴な気持ちはある。
ただまあ、日本自体が軍事的にはアメリカの属国なわけで、基地問題はこっちに言われてもな、感はある。
国のメンツがあるから日本がなんか関与できる風な態度でいるけど、実質的にはアメリカに逆らえない状態でしょ。「極東の軍事事情が云々」だってアメリカの都合の代弁者になってるだけだし。
正直直接アメリカとやりあった方が話が早いと思うので、琉球として独立したのちに自分でアメリカと交渉したほうがよさそう。
琉球っていう独立国が日本に支配され、アメリカに占領され、日本に復帰したけど、なんで琉球まで戻らずに日本復帰だったんだ。
二次大戦後の帝国主義国家からの独立ラッシュをみても琉球になるべきだったのでは。
結果として軍事的緊張とか実際の戦争とか起きるかはわからんけど、沖縄の人の気持ちが解決するならそんなに悪くはないでしょう。
今のままだって戦争になるかもしれんし。仮にひどいことになっても、苦しい目に合う人のお鉢がこちらに回ってくるのは仕方ないところはある。
自分の中の沖縄への罪悪感に向き合っても、じゃあこちらがひどい目にあってもいいよ、としか言えないぐらい何もできない立場。
『北斗の拳』が大ヒットした当時、学校の見学旅行でプラネタリウムを訪れたことがある。その際に、解説役の女性ナレーターが、おおぐま座・北斗七星について語る場面で「誰ですか?『死兆星が見える』なんて言っている人は」とジョークを挿入してきたことを、場内が爆笑の渦に包まれたことと共に、今でも記憶している。
『北斗の拳』がヒットして以降「北斗七星は死を司る星辰(星座)」という認知も、神話伝承にそれほど明るくない人々にまで普及した。特に、プラネタリウムでもジョークに用いられた「死兆星」は、たとえ天文学的な正式名称(ミザールとアルコル)を知らなくても、当時の少年ジャンプ読者で知らぬ者はいないと言っても過言ではない。
この北斗七星の柄杓の柄の端から2番目の星が、二つの恒星から成ることを見分けられるか否か、それを尋ねることで兵士の視力を検査するという手法が、古代エジプトでは採用されていたという。しかし、古代エジプト人が寿命の長短を判定するのにこの二重の星を利用していたか否かは、寡聞にして知らない。西欧の星座伝承の大部分は、古代エジプト以外で言えば、古代バビロニアや古代ギリシア・ローマ等に起源を持つと思ってさほど間違い無いと思うのだが、これらの方面でも寿命の長短を見分けるのに使われたという形跡は、今のところ見かけた記憶が無い。単に私が不勉強で知らないだけかもしれないので、有識者の意見を知りたいものである。
死兆星の元ネタとして、とりあえず直ぐに思いつくのは、この二重の星が日本では民俗的名称として「ジュミョウボシ」と呼ばれていたことであろう。この名称を個人的に初めて知ったのは、星空に関する多数の優れた本を著し、我が国における少年少女の天文ファンの数を増やすことに貢献した、作家・野尻抱影(SF作家・野尻抱介のペンネームの元ネタである)の本で読んだ時であった。野尻抱影の本には、次のようなことが記されている。
この名の由来は、二重の星を見分けられなくなった者は、それから遠からず一年かそこらで、御迎えが来ることから付けられたものらしい。主に、漁業従事生活者たちの間で用いられていた名称のようである。海上での航海が主要な部分を占める漁業において、視力の良さは要であった。そのため、視力の衰えは即ち食い扶持を稼げなくなることを意味し、そこから、星が見えなくなることで寿命が来たのを悟るという話になったのであろう、と。
つまり、ジュミョウボシは、死兆星とは正反対に、見えなくなることが死の予兆というわけである。おそらく『北斗の拳』の作者たちは、星が見えなくなるよりも、見えるように変化するという現象にした方が、視覚的に表現することが容易である(見えない星では絵に描けない)という漫画表現上の要請から、これを改変したものであろう。
これ以外に、北斗七星が人間の生死に関わる星辰として語られる起源を遡れば、中国は東晋の時代の人・干宝が著したとされる志怪小説『捜神記』に収められた物語に行き着くことになる。
原典の漢文を読んだわけではないし、若い頃に読んだ日本語訳(私は平凡社東洋文庫で読んだ)の記憶を掘り起こすだけだが、おおよそ次のような物語である。
「或る農夫が、息子と共に畑仕事をしていたところ、その傍らを方士が通りかかった。方士が、農夫の息子の相を見て『この子は、このままでは十六の歳で死んでしまう』と彼らに伝えた。驚いた農夫が、方士に『それを避けるためにはどうすればいいのか』と尋ねると、或る策を授けてくれた。方士の言葉に従って、農夫は、用意できるだけの酒と干し肉を携えると、南の畑の桑の木が植えられた場所へと赴いた。
方士が教えてくれたとおり、南の畑の桑の木陰では、二人の老人が囲碁に打ち興じていた。囲碁に夢中になっている老人たちは、農夫が傍に来たのにも気づかない様子であった。方士に言われたとおり、農夫は無言のままで、酒と干し肉を老人たちの手元にそっと差し出した。碁を打ちながら老人たちは、差し出されるままに干し肉を食べ、酒を飲み続け、農夫はお代わりを差し出し続けた。さんざん飲み食いし終えた後で、ようやく二人の老人は、農夫の存在に気がついた。
二人のうち、険しい顔つきの老人が『何者だ貴様は?いつから傍にいた?人間が儂らの傍で何をしておる?』と責め立てたが、方士に言われたとおり、農夫は平身低頭して無言を貫いていた。すると、柔和な顔つきの老人が『この者が振る舞ってくれた酒と干し肉を、儂らは楽しんだのだ。そう怒るな』と、怒る一人を宥めた。そして『この者に、酒と干し肉の返礼をせねばなるまい』と柔和な顔つきの老人が言うと、険しい顔つきの老人と共に何やら帳面を捲り、農夫の息子の寿命が『十六』と記されている箇所を彼らは見つけ出した。険しい顔つきの老人が、渋々それを『六十』と書き換えると『これでよかろう。もう去れ』と農夫に言い渡した。農夫は無言のまま、二人の老人に頭を下げて感謝の意を示すと、その場を去って家に帰った。
家で待っていた方士に農夫が一部始終を伝えると、方士は『これでお前さんの息子は、もう心配が無い』と言った。農夫が『あの人たちは何者なのですか?』と尋ねると、方士は次のように語った。
『あの者たちは、北斗と南斗である。柔和な顔つきの方が南斗六星、険しい顔つきの方が北斗七星である。人は南斗から生まれ、その生涯は星々の間を辿り、北斗へと還る。それで、人が寿命を延ばすためには、北斗に祈りを捧げねばならないのである』と」
現代人の目から見た感想を率直に言えば「これ、お人好しの農夫が、単に詐欺に遭っただけじゃねえか?」と思うところであるが、それは置いておく。
天空の天体、太陽や月や星や星座の動向が、地上世界で生きている人間に影響を及ぼす、或いは逆に、人間の運命その他の動向が、星など天空の現象に反映されるという考え方は、洋の東西を問わず広く見られる文化現象である。そういう意味では『捜神記』の物語も、ごくありふれたものだと多くの人は思うかもしれない。
しかし、私が『捜神記』の物語を面白いと思うのは、最終的に北斗七星と南斗六星のように夜空で目立つ星座が重要な役目を果たすにせよ、社会的に見れば無名の人にすぎない農夫の息子のような人間にも、個別に対応するような名も無き天空の星が存在しているという考え方を示している点である。
古代ギリシアには、現代の民主主義政治の源流があったけれども、無名の市井の人であっても天空の星との結び付きを得ることが出来る、という古代中国のような発想には至らなかったようである。してみると、天空の星との結び付きに関しては、古代ギリシア・ローマは、神話の登場人物レベルの選ばれた者にのみ許されるという選民思想だったわけである。そう考えてもらえれば『捜神記』の物語のユニークさを分かってもらえることと思う。
北斗七星・おおぐま座のように、明るくて目立つ恒星とそれらが形作る星辰(星座)は、自然と人目を惹くものだから、古今東西の人類の記録に残されている。金星・火星・木星などの惑星もそうである。太陽や月は言うまでもない。しかし、観測技術が発達するまでは、星辰(星座)の構成員になるほどの明るさを持たない目立たない星々のことは、一々観測して天球上のどの位置に存在するのか、動いているのかいないのかと確かめることは非常に困難であったことは想像に難くない。しかし、事実として夜空には、命名も位置確認も追いつかないほどの無名且つ無数の星々が存在することを、昔の人は知っていたのである。科学的な知識を持つ我々現代人よりも、むしろ昔の人々の方が、実感としてそれを知っていたはずである。現代の文明社会のように至る所に夜間照明がある条件下とは異なり、太陽が沈んで「本物の夜の闇」に包まれて空を見上げた昔の人々の肉眼には、文字通り無数の星々が見えたのだから。現代人も、もし口径が大きい双眼鏡の力を借りて夜空を眺める機会を得たならば、その時は、名前も知らない星々の多さを実感して驚くことだろう。私は今でも時々、双眼鏡で星空を見て感嘆する。
こういった、存在することは分かっていても昔の技術では天球上の位置を確定することが困難であった無数の星々については、占術師たちが「実は、天球上の無数の星々は、消えたり現れたり移動したりしているのだ」と主張したとしても、民衆も確認しようが無く、比較的簡単に信じてもらえたことだろう。恒星の間を動き回る「惑星」、何処からともなく現れる「彗星」、明るさの変化する「新星」など、変化を示す天体現象が現実に見られることも、占術師たちの主張を補強してくれたに違いない。
ただし、庶民が自分個人の運命専用の星を天空の何処かに持つことができたとしても、自分の意志でその星を動かせる訳では無い。天空の星の動きでも人生でも、同じことである。王侯であろうと庶民であろうと、現代人であろうと昔の人であろうと、人生を己の自由にするというのが困難なことに関しては、立場は同じである。自分の人生がままならず、自由意志で動いているのではなく、自分以外の超越的な何者かによって動かされているのではないかと感じるという感覚は、古今東西の汎ゆる宗教的な思索の出発点となる。
この何者かに動かされているという感覚を『捜神記』の筆者は、南斗・北斗の両老人が打つ囲碁の対局という形で表現している。つまり、ここでの囲碁の盤面に配置されている碁石とは、夜空の無数の星々の象徴ではあるまいか。将棋やチェスの駒とは異なり、碁石は没個性的である分だけ、名も無い星に擬えるのには都合が良い。囲碁という遊戯の起源がどのようなものであるか、それを現代人の我々が確実に知ることは不可能であろうが、もしかしたら、星々の配置を操作することによって人間の運命を変えようと働き掛けるような、呪術的儀礼としての遊戯にその起源の一端を持っているのかもしれない。
もっとも、これはあくまでも個人の勝手な空想に過ぎないので、南斗六星から北斗七星へと星空を動くというのであれば、この場合には囲碁よりもむしろ双六の方が象徴的な遊戯には相応しいのではないか、といった具合に幾らでも異論を唱えることは可能と思う。
それに、南斗と北斗の囲碁の対局結果は語られていないので、囲碁の対局によって星々が動かされ、運命が左右されるという仮説は、正直に言えば我ながら牽強付会であることは否めない。まあしかし、たとえ学問的専門家ではなく、実生活に役立つわけではなくても、こういった空想をすることは非常に楽しいので、なかなか止められないのである。
農夫が酒と干し肉を提供した行為が、祈願の対象である神への御供え行為であることは無論言うまでもないが、この他にも、無言を貫くという後代の神事や魔除けにおける物忌と通底する行為が見られる点や、南斗・北斗の翁神に邂逅する場所が霊樹の一つである桑の木の傍である点など、興味を惹くところがまだまだある。いずれまた暇を見つけて『捜神記』を再読してみようかな。
「あなたにとって究極にエッチな女の子の身体ってどんな感じ?」
最初こそ恥ずかしがったり、真面目ぶって明言を避けたがるだろうけど。
この女優の顔、ダメ出しするならどこが問題? エラの張り方は理想に比べてどう?
気にくわないポイントを挙げるならどこ?
一見より性的に旺盛になるように見えるけど、実は逆効果になるんだよね。
夢のエロティックな女神なんて実世界には存在しえないし、仮に存在したとしても自分の人生では決っして手が届くことは無い。実際にやらせてるのは、そんな現実を再確認する行為。やればやるほど性欲と現実のギャップを思い知らされて、性欲の萎えが期待できるってわけ。
面白いのは、理想の女性像を二次元に設定しても同じ効果が得られるってこと。
このエロ画像は、このヒロインは、本当に究極にエッチか? 落ち度はないか? って考えると必ず欠点が見つかる。ダメ出しする程に絵のアラが見つかるようになって、追えば追うほど未だ見ぬ女神は遠ざかってしまう。
考察する必要があると言ったきり、私自身の見解を述べていなかったので追記に記した。
思索の結果、悩む必要のある事が隠れていると解った。ぜひ読んでいただきたい。
警戒しろという要請が「単に女がムカつくから叩きたいだけ」ではない場合がある。
その解説はここに書いた。
https://anond.hatelabo.jp/20220907021026
確かに言うとおりミソジニーによる性差別攻撃の場合があって、元増田からのツリーでもそれは明白に見てとれる。しかし差別にマスクされている奥にも、差別的構造が隠れていて、それが表面上のダブルスタンダードを引き起こしてるんだ。
写真家の今森光彦氏が、段々畑のある里山に土地を買ってアトリエを作り、雑木林などを大改造。様々な種類の樹木を植え、溜め池を堀り直し、花々の咲き乱れる庭を作った。大好きな蝶を沢山呼ぶためである。足掛け30年でつくり上げられた「チョウの庭」には75種類もの蝶が来るようになった。
写真が多くルビも適宜振られている、分類としては児童書なのだが、大人が読んでも面白い本。
私は庭いじりはあまり本腰入れてする方ではないが、必要に駆られてちょっとはするので、草木の手入れについて知っている事もあるけど、それでもこの本を読んで「へー初めて知った!」という事があった。草刈りの必要性についてだ。
年に数度の下草刈りが必要という事までは知っていた。だが草を刈る事で特定の丈の高い草に土地を独占される事を防ぐ効果があり、それによって植物の種類が多様になり、するとその植物達を利用する昆虫達の種類もまた増える事になるというのは、私は知らなかった。つまり里山の生物多様性は人の手によってつくられるのだ。
昔、映画『もののけ姫』の監督インタビューを『アニメージュ』か『もののけ姫を読み解く』で読んだ。そのインタビューで宮崎駿監督が、世の人々が「自然」だと思っている里山の風景は人工的につくられたものだと言っていたと記憶している。
人の手によってつくられた「自然」とは何か……その具体的な有様をこの『小さな里山をつくる』によって見せられた。人の手の入った里山の「自然」はありのままの自然よりも豊かなのだ。それは人間にとって有用という意味だけではなく、植物や昆虫、小動物など生物にとっても住みやすい環境なのだ。
蝶は、それぞれごく限られた種の植物に依存して生き、しかもその美しく奇妙な姿と優雅で愛らしい羽ばたきからよく人の目にとまる。そのため、ある土地に暮らしたり立ち寄ったりする蝶の種類の数というのは、その土地の生物多様性の指標としてはもってこいなのかなと思った。
30年もかけて土地に多様な種類の樹木や草花を植えてつくられた蝶の楽園。楽園の維持には草刈りや木の間伐、野焼きなど、農業や園芸を知らない人ならそんなにやって大丈夫なの? と心配になってしまうようなダイナミックな手入れが必要なのだ。
自然のまま草木の生えるままにしておけば強い草木だけが生え、それに依存する少数の昆虫しかいなくなる。そしてやがてそこに生えていた木々は老いや共倒れにより滅びて、ただの荒れ果てた草原に戻る。
人間による手入れは自然の中ではたまにしか起きない天変地異の再現であり、しかも計画のもとに行われる。本来だったら競り負けてしまう草木を残し、土地の養分と日照権を独占する草木を打ち倒したり、勢力を抑えたりする。
環境保護というトピックにおいてはつい人間の存在を不要の物として私は考えてしまいがちだったのだけれど、人間は自然のよき管理者にもなれる可能性も持っているのだと知った。本書のメインの蝶の話からは脱線しているけれど、私は本書を読みながらそんな事に思いを馳せた。
裏を返せば、自然の中に住む様々な生物……こと植物……生態系のベースとなるので彼らの生き様というのは重要だ……にとっては、多様性や共存共栄というものはあまり重要な事ではないのかもしれない。常に競い合い頂点を目指す、自分の繁栄だけが願いなのかもしれない。人の夢見る生物多様性というのは、不自然な事でしかないエゴなのだろうか。
まあそんな面倒臭い思索は置いといて、庭がクリエイトされていく過程は読んでいてわくわくするし、里山の風景や草木や蝶をはじめとする昆虫の写真は素敵だし、全75種類もの蝶がずらりと並んだページは壮観で興味深い。お、『鬼滅の刃』の胡蝶しのぶさん柄の蝶まで。アサギマダラという珍しく美しい蝶だ。
それと、本書に度々登場するジャノメチョウ。私はこいつに嫌な思い出がある。だからあまり出会いたくないのだが、本書で久しぶりに目にしてふと気づいた。昔はよく家の網戸に停まっていたのに、最近全然見かけない。本書によればジャノメチョウはススキに依存して生きる蝶であるらしいので、最近とんと見かけないのもむべなるかな。ススキの生えた場所なんて、市街地には全然ないもんなあ。
そしてこの投稿は明らかにムスリムに対する偏見に満ちている。…とかは悪質な誘導。だって別に禁忌じゃないんだから。イスラム教においてはこれが禁忌であることを前提とする書き方は全くおかしいし、調べない人ならイスラム教では罰せられる行為だと誤認するでしょう。
投稿者が調べない人本人であると分かっているにも関わらず、あたかもわざとやっているかのように書いている。明らかに悪質な誘導だろう。
誤認している → 禁忌であることを前提とする。の単純な構図であることにその文章を書いていてなぜ気づかないのか。
境界線上のケースを持ってきたいなら、まずちゃんと背景を調べてから持ってきなよ。「マイノリティのことを考慮する必要が」とか言うけど、そのマイノリティに対して無知と偏見をむき出しにするのは全く不誠実極まりないからね。
誰しもが英語に通じてるわけじゃないし、その投稿自体は無名の思索者によるたった四行で書かれた疑問だ。誰もが初めから無知に自覚があるわけではない。自分で調べるよりも詳しい他人に聞いた方がよっぽど早く正確な情報を得られる。それと同時並行して自分でも考えているのだから、真実に対してこれ以上誠実な態度はない。サーベイの能力差を無視し、勇気ある学習者の足を引っ張る態度こそ、全く不誠実極まりないからね。
追記:いま気づいたけど、言い訳をダラダラと追記するぐらいなら『イスラム教においては緊急時にAED(なりCPR)を行うことは許されている』ことをまず追記しなよ。本当にどうしようもない…。わざとだとしたら非常に悪質な行為だと思う。
いま気づいた難癖をダラダラと追記するのこそ、本当にどうしようもないダブルスタンダード…。
追記では思考停止に陥っている人々の不誠実さに腹を立ててるのであって、考えたり調べたりしない人々に安易に正しい情報だけ与えるのは主義に反するんだろう。
ある宗教は堂々と女性を差別的に抑圧するのに、他人は自分の主義主張を曲げてまで宗教をフォローしなければならない。そんなことを個人に強いることこそ非常に悪質な行為だ。あなたが指図しているようなことをしなければならない理由はありません。
かつてのアメリカ副大統領が自分に課している、いわゆるペンス・ルール。
これが日本でもそれなりに支持を集めていて、はてなブックマークでも話題になっていた。
当時、私は考えていた。男性としての正しい振る舞いを。
エレベーターを利用していて、一時的に男女が二人きりになる状況がある。
差別の教科書は通常の状況では統計的な差異に捉われず、コミュニケーションを取ることで相手の安全性・危険性を確認せよ、と説く。しかしエレベーターに乗り合わせた、ごく短時間の突発的な状況でそれは空虚な理想論として響く。現実的に不可能だ。
そんな状況が生じたとき、男性は女性にエレベーターを譲ってただちに降りる。
あるいは、女性の方が先行して譲ったりするのもよい。とにかく二人きりになるのを避ける。
決して男性がコントロールパネルの前に立ってエレベーターの主導権を握ってはならない。
コントロールパネルの前に立っている女性の背後に立つのも良くない。女性から動きが見える位置に移動するべきだ。
この新しいモラルを提示しようと思いついた当初は、半ば冗談のつもりで書く気だった。
行き過ぎた品行方正を参考にできるくらいの善人は、早々いないだろうとタカを括っていた。
だから、数年後に実際にこの紳士的態度を取っている男性が現れ、女性たちもその態度を求めている、そんな話がバズってると知ったとき、椅子から飛び上がるくらい驚いたんだ。
さらに月日が経って、当時気にしていなかった疑問が浮かび上がってきた。
レズビアンやホモセクシャルがいるのに、女性同士・男性同士で同衾状態を避けようとしないのはなんでだろう。確率的に低いとはいえ、密室で女性が女性に襲いかかったり、それを怖れたりする可能性はあるじゃないか。レイプののち妊娠が発生しない事は安心の材料になるんだろうか。この思索は温泉で男児が女湯に入ってくるのを女性が怖れる話に繋がる。どうして暴力のあり得ない、生殖どころか性欲さえ芽生えていない男児を、大人の女性が恐怖するのか。ひょっとすると疑問の答えは、Vtuber 女性が男性とコラボするのを忌み嫌うファンが、女性同士のコラボは許してしまう理由にもつながっているかも知れない。恐怖や嫉妬で考慮の外に置き去りにされる同性愛。
なぜAVにまつわる人権侵害の話には「自由意志でやってる尊い職業!」が湧くんだよ。
まず「AV堕ち」って言ってる人に「AV女優は全て自由意志に基づいて行われる職業なので
その言い方はやめろ」と言って来てくれ。本当にそう思うのならな。"
https://twitter.com/Hachikobi/status/1524572683655999489?t=2ExTl5ChqOcQ7d0oASfVeg
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/Hachikobi/status/1524572683655999489
「インチキに気付いていながらとぼけて賛同」ですらなくなってる。
まずさあ
他と変わらない仕事じゃん?
この人がなんでこっそり「尊い」を付け足したかったのかというと
「AVは自由意思でやってる職業」と「AV堕ち呼ばわり」は別に衝突しないからなんだよねw
「その仕事を自分で選んでる」ことと「その仕事を見下した言い方する人間がいる」ことは全然矛盾しない。
ドカタを見下す人間がいると、ドカタのお兄さんは自由意思で働いてないことになるわけ?
相手の主張に無理矢理「尊い」を付け足したうえで「AV堕ち」と衝突させてるの。
藁人形論法ってやってるの気付かれると信頼ガタ落ちするうえに
自説のどこが厳しいと思ってるかまでバレちゃうんだよね。
次に、
AVに対して「堕ち」とか言ってる連中は確かに失礼で職業差別的だと思うけどー、
なんでその差別言説を取り締まる義務が一部の人にだけ発生するの?
特定の職業への差別言辞なんて我々みんなで非難して取り締まるべきことじゃなーい?
「AVを自由意思で選ぶ職業とか言ってる奴等(お前等)が抗議しろ」
「本当にそう思うならな」
ってどゆこと?
「だからそのようなことを大声で言う人を取り締まる気が私にはありません」
そうとしか取りようがないよね。
お前等が抗議しろ、「本当にそう思うのならな。」っていうのは
AVが賤業ではないと本当に思ってるならな
って意味だよね?
すごいね!言い逃れ出来ないほど明確に差別意識を自白しまくってるね!!!
人の仕事に「堕ち」とかほざく職業差別は厳しく非難していきたいかなー。
でもそこすら共有できなくて「お前等がやれ」「本当にそう思うならな(ニヤニヤ)」なんだー。
本当にすごい!
こんな差別人間のtweetにまたはてなの自称リベラルさん達が賛同ブコメしてるけど
じゃあここらで毎度お馴染みはてなリベラルのパップップーのブコメを引用するね。
sand_land そう。カジュアルに蔑む呼び方をしておきながら、
「キモい」が差別なら他者の「自由選択の結果」の職業を蔑む呼び方もまた差別になり得る。
2022/05/15
tweet主が慎重に踏みとどまった箇所に気付かず踏み越えちゃってるの。
tweet主は「AV堕ちと言ってる奴等に抗議してこい」って言ってるんだよね。
なんで命令口調?とかなんでお前は抗議しないの?とかはあるんだけどさ、踏みとどまってる部分がある。
「AV堕ち」って言ってる奴等と「AVは自由意思で選ぶ仕事」って言ってる奴等、重なってる保証がどこにもないんだよね
だからそこ突っ込まれないように「言って来てくれ」って言い方をしてるの。
論理ガバガバで詭弁含みの難癖なりに、最低限の神経使ってるわけ。
なのにこのはてリベのsand_landっていう人が文章読むときの注意力が微塵もない感じの知的能力の方であったため
という風にその二つを同じ奴が言ってないと成り立たない論陣を張っちゃった。
これだと「じゃあそれを同じ人間が言ってるって証明してくださーい」って言われて終わり。
「折角そこに神経使った言い方してるのに何で台無しにしたうえ
って話。無能な味方。
よりによって☆を集めて押し上げるブコメがこれなの、
いつもながらはてなリベラルって本当に知能がウーンて感じだよね。
知能が低いリベラルって存在価値ないと思うんだけどなんで息してるんだろう。
当該tweetみたいな論理のおかしい低レベルな詭弁があったら
こうやって腑分けして「こことこことここがおかしいですね」「大衆の皆さんこんなのに騙されないでね」「レベルの高い議論をしましょう詭弁は許しません」ってやるのが役割なのよ。
でも昨今はてなやtwitterに跋扈する自分ではリベラルと自称しがちな低スペック脳みそさんたちはその正反対で、自分の素朴なお気持ちを押し通したいだけ、何の思索も論理もない。気に入らん奴らに対する対抗論陣すら立てられない。
それで自分の気持ちにかなえばこんな支離滅裂な詭弁tweetに結集しちゃう。
更にはtweet主が神経使ってつけておいた詭弁用の安全弁も勝手に壊す。
おめーらが見下して(バレバレだからな?)余計なおせっかいで撲滅抹殺してあげようとしてるAV女優さん達はー、きちんと需要のある仕事をして人と社会の役に立ってるわけじゃん。
リベラルぶろうとしてるけど頭悪いために意味のある議論も出来ない・社会を一切善導しないリベラルもどきはー、誰の役にも立ってないじゃん。
人間に貴賤があるとしたら明らかにAV女優が貴でおめーらが賤なんだけどそれは理解してんの?
どうしてもなにか撲滅したいんなら低知能リベラルの方がAV女優さんよりはるかに社会に不要で撲滅されても惜しくない存在だぞ☆
って教えてあげる人間が周りにいないのかな?
wwww
本当にこういう人達、リベラルやる知能がないのにリベラルごっこするのやめなって。
おめーらみてーなモノ考えるのが苦手な人間ってのは
アカウントに日の丸付けてプロフィールに「普通の日本人」て書いて
「日本古来のソボクな一般常識としてAVみたいなフシダラな仕事は撲滅されるべき!」って言ってりゃいいんだよ。
あんたたちは自意識でどうなってんのか知らないけど実態として知性も人格も一般大衆以下なんだからさ。
ハッとする霊感で社会にもの申そうとか、愚民を啓蒙教導しようとか、そういう邪心は捨てた方がよくね?
AVについてもあんたらはAV女優よりはるかに劣る見識しかない上に調べる意思も考える能力もない。発言の責任すらとらずに逃げる。ならもう黙ってろよ。
この人の場合、ラノベが好きなんじゃ無くて、一時期ブームで評論家みたいな連中が持ち上げてたラノベ論壇シーンの空気が好きなんだろうな。
ミミズクやイリヤなんて当時評論ごっこをやってた連中がなんとか受容できた文芸趣味のラノベで、正直、ロードスやスレイヤーズ世代の俺からすればなろう系よりつまらないわ。趣味に合わないと言ったほうが正しいか。
今も当時もヒットしてるのはジャンプ漫画や大作ゲームって中でさ、セカイ系だの日常系だのラノベだと小さなブームを見つけては時代の象徴みたいに取り上げて、肯定派否定派分かれて自分語りしてれば大勢が注目してくれたし、ひとかどの論客のような錯覚に浸れた時代があったんだよね。
まあ、増田が辛口批評持ち上げてるところから分かるように、だいたいは流行ってるものを如何に叩くかってゲームだったんだけどな。「撲殺天使ドクロちゃん」みたいに読み捨てて終わりという娯楽娯楽した作品は、俺はこういうのも評価できますよ的にあえて褒めるか黙殺するかだったな。
世間の流れに逆らう無頼を気取ってるけど、こいつらがやってるゲーム、結局ブームを基準に自分語りするしか無いから10年後に残る残らないのような紋切り型のロマンチシズムが残り続けるんだよ。
じぶんのやってるゲームをメタ認知して、作品と対峙の中でクライテリアを磨き続ける、その程度の思索もやらずに辛口批評なんか読んでなんの意味があるんだか。人とじぶんの価値観を照らし合わせて、他人が褒めてるけどnot for meとか、批判されてるけど当てにならないなとか、普通はフォロワー任せにせずにある程度じぶんで出来るようになるもんでしょ。
あげく、ちぐはぐな基準で作品を探したり、人に頼っては勝手にキレ散らかしたり、流行と感性が合わないだけで周りに怨念ばらまくとかなってるじゃない。