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2017-05-19

花房 義質(はなぶさ よしもと、1842年2月10日天保13年1月1日) - 1917年大正6年)7月9日)は、明治大正期の外交官岡山藩士で実業家政治家(初代岡山市長)花房端連の長男爵位子爵歴任した主な官公職枢密顧問官日本赤十字社社長など。

目次 [非表示]

1 来歴・人物

2 栄典

3 家族

4 脚注

5 関係記録

6 関連事項

7 外部リンク

来歴・人物[編集]

緒方洪庵適塾で学び、1867年ヨーロッパ諸国アメリカ遊学し翌年帰国1870年から外国官御用掛として外務省出仕。同年日清修好条規の土慣らしの為に渡清。

1872年ペルー国船に乗船の清国人奴隷虐待問題マリア・ルース号事件)で外務卿副島種臣の補佐として書記官担当し、仲介裁判のための代理公使としてサンクトペテルブルク派遣され、訴訟の後は日露国画定交渉のため派遣された榎本武揚全権公使を補佐。

1877年、駐李氏朝鮮代理公使に任命されるが翌年1878年8月10日から1876年5月に締結された日朝修好条規に反して 朝鮮政府釜山の豆毛鎮に税関を設置し、朝鮮国内の輸入行者に対して関税徴収を開始したことから報復措置として代理公使の花房は軍艦と共に釜山派遣され豆毛鎮に設置された税関撤去要求する。最終的に、朝鮮政府が折れる形で事態は沈静化し、1878年12月4日に豆毛鎮の税関正式撤去された。1880年4月日本政府漢城への日本公使の常駐化を決定、初代公使として花房が任命される。だが、この時点ではまだ漢城公使館は開いていなかった。この公使館開設の件と仁川開港問題について金弘集と折衝し、その後、漢城日本公使館正式設置と仁川開港朝鮮政府に認めさせ、それに併せ日朝間で国書の交換がなされ、花房は代理公使から公使へと昇格した。

その後朝鮮駐在朝鮮近代化の為別技軍を提案するが、それが原因となった壬午事変では暴徒に包囲された公使館脱出して命からがら帰国、直後に寺内正毅率いる日本軍と共に朝鮮渡り済物浦条約を締結させ、事件の損害補償とともに、漢城への日本軍駐留などを認めさせる。

1883年より1886年までの3年間にわたり、在露特命全権公使としてサンクトペテルブルク駐在した。

その後は農商務次官、帝室会計審査局長宮内次官枢密顧問官日本赤十字社社長などを歴任した。1896年華族に列せられ男爵

目黒にある城南五山の一つである花房山は、1911年に花房が子爵に陞爵した際に別邸を構えたことが地名の由来。(現在品川区上大崎三丁目付近

1917年慢性胃炎のため死去[1]。

 
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