はてなキーワード: 山嵐とは
子どもの教科書に出てきたので久しぶりに家の本を読み返してみて疑問に思うことがあって。
坊ちゃん家の下女、清というおばあさんと坊ちゃんの関係が、どうも子供のころに読んだときのイメージと違うんだよね。
子供のころに読んだときには、坊ちゃんをかわいがるおばあさん、という印象だった。
坊ちゃんは母親を亡くしていたので、おばあちゃん子がおばあちゃんに懐いているようなものだと思ってた。
でも今改めて読み返してみて、どうもこの二人の関係がそれとは違う、なんだか年の離れたカップルのように思えてきて、当惑している。
例えば、山嵐に一銭五厘返すことを決意するときに、清にかつて三円借りて今だ返済していないことを思い出し、
これは返せないのではなく、返さないのだ、なぜなら
【清は今返すだろうなどと、かりそめにも俺の懐中をあてにしてはいない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。
こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑るようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。
返さないのは清を踏みつけるのじゃない、清をおれの片破れと思うからだ。】
と、清を自分の片破れ:かたわれ、とまで云う。
また、田舎暮らしで嫌なことが重なり、もう帰りたいと思ったときに、
【数学なんて役に立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本にして牛乳屋でも始めればよかった。そうすれば清もおれの傍を離れずにすむし、
おれも遠くから婆さんの事を心配せずに暮される。いっしょにいるうちは、そうでもなかったが、こうして田舎へきてみると清はやっぱり善人だ。
あんな気立のいい女は日本中さがしたってめったにはない。婆さん、おれの立つときに、少々風邪を引いていたが今頃はどうしてるか知らん。】
と清を懐かしみ、清からの手紙を待ちわびて、下宿先のお婆さんに東京から手紙はこないかと何度も尋ねたので、なぜ奥さんを連れてこないのか、
と手紙の相手が離れて暮らす妻からのものだろうと勘違いされる始末。
そして最後東京に帰った坊ちゃんは、まっさきに清の家に向かい、涙を流して喜ぶ清に、
【俺もあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだ】という。実際、つてで職を得て玄関もないような家を借り、そこで清と暮らす。
清と一緒に暮らすことを、清と家;うちを持つ ということに当惑したし、
ほどなくして清が亡くなる際に今度は清が、坊ちゃんに
【坊ちゃん後生だから清が死んだら、坊ちゃんのお寺へ埋めてください。お墓のなかで坊ちゃんの来るのを楽しみに待っております】
と云うんだよ。
これって、あの世でも一緒になりたい、っていうくらいの遺言じゃない?
とまあ、これ以外にもこの話では端々に坊ちゃんが折々に清を思い出しては今ごろどうしているだろうかと思いを馳せる場面がいくつもあったりして、
マザコンというのとも違う、おあばちゃん子というのとも違う何かを感じて仕方がない。
たしかに、清はまっすぐすぎて社会からはみ出しがちで生きるのが下手な坊ちゃんの唯一で最大の理解者であり、その清を坊ちゃんが大切に思う気持ちは理解できる。
でもそれだけじゃないでしょ、と。
親子でも、おばあちゃんと孫でもない、英国モノのご主人と忠実な執事との間の独特な信頼感に基づく絆、というのとももちろん違う。
これって一体どういう関係なんだろう?
とはいえ、私自身はこれを今回改めて読み直してみて、こういう二人の関係っていいなと実は思っている。
年齢差はあるけど、恋愛結婚ではない別の形の家族の作り方、とでもいえばいいのかな。
これを夫婦と呼ぶのは違うかもしれないけど、もしこういう関係も含めるならば結婚の幅って広がるかもしれない、と思ったり。
なんの結論もでてないけど、とにかくもやっとしたので書いてみた。
ヒプノシスマイクを好きな人たち、結構な割合で「推しディビ(ディビジョン)を勝たせる」って言うけど、私あの表現がめちゃくちゃ嫌い。
たしかに、ヒプノシスマイクはキャラクターの所属するディビジョン同士がhip-hopアーティストの作詞作曲したラップでバトルし、その勝敗を投票で決めるコンテンツだけど。だけどさ。
ファンがやってる事って、単にCD買ってるだけじゃんって思うんだよね。曲を作るのはアーティスト、歌うのは声優、それで「勝たせる」ってなんか烏滸がましくない?CDを「頑張って買う」っていう発想、おかしくない?って思うんだよな。
何を頑張ったんだよ。
ただCD買ってるだけなのに、物語の参加者の気分になれるの、よく考えられたコンテンツだよなって思うわけだ。
いや、意味合いとしてはわかるし、自分の好きなキャラクターに勝ってほしい気持ちもわかる。私もそう。わかる。
けど、それで「病む」とか「推しディビが勝てるか不安で泣きそう」とか、いや落ち着けよ。
頑張ってるのは、アーティストと声優なのに、なんでCD買ってるだけのお前が病んだり泣いたりするんだ。
買いたい人は買えるだけCD買ったらいいと思う。でも、沢山買えないからって「私はそんなに積めないから…」とか、そんな自分を責める必要なくないか?
作り手のアーティストも、声優も、「同じ人に沢山CD買ってほしい」なんて言ってないじゃん。hip-hopが、ダーティーな文化じゃないっていう形で、世の中に広まってほしいって言ってるじゃん。
それって、「沢山の人にちゃんと音楽を聴いてほしい」ってことじゃないの?
「沢山の人にちゃんと音楽を聴いて貰った上で」評価されて、それが投票っていう形になって、結果勝ちたいってことなんじゃないの?作り手の人が言ってる事は。
誰でもいいからとにかく沢山CD買えと思ってる人がもしいるとすれば、たぶんレコード会社の人だけだと思うよ。AKB売ってるレコード会社だからそれは仕方ない。
レコード会社に踊らされすぎじゃない?って思うわけ。(キングレコードごめん)
「勝たせる」ってさ、あまりに物語に踏み込みすぎた表現じゃない?CD買う事が義務になってない?そんな気持ちで応援するのが、めちゃくちゃ楽しいならいいと思う。
そういう戦闘民族みたいなオタクが一定数いることもわかる。でも、自分はそうじゃないのに、無理して、結果「病む」とか「泣く」とかになるなら、そんな馬鹿馬鹿しい話はない。
ここからは私の身の上話になるんだけど、数年前まで私は、結構本気(と書いてマジと読む)でとあるヴィジュアル系バンドの追っかけをやっていた。所謂バンギャだった。
本命バンドをオリコンランキングに入れたくてCDをアホみたいに買ったし(CDを買うと参加できる握手会があったのもある)、チャレンジングなキャパのライブはとにかく埋めたくて、チケットを余分に買って無料で友達に配ったりした。
本命麺が貧乏だという話を聞くたびに、服やら何やらプレゼントした。
そんな事をして、ヒプマイオタクの人たちがいうような「推しを勝たせた」気持ちになっていた。
最初のうちは、純粋にバンドに有名になってほしい、バンドマンに良い暮らしをして欲しいという気持ちでやっていた事だったけど、1年、2年とそんな事を続けているうちに段々と苦しくなっていった。
ファンの母数が増えるに従って、自分より自由に使えるお金の多い子も増えていった。そういう子たちに、買うCDの枚数で負けた、あげるプレゼントの金額で負けたと、嫉妬してる自分に気づいた時、私の中で大切な事が「バンドが有名になる事」ではなく「本命麺に使った金額で他のファンに勝つ事」にすり替わってしまっていると気付いた。
バンドが有名になる夢を叶えて貰うために使っていたお金という手段が、自分がそのバンドにどれだけお金を使えるか見せびらかす為のものになってしまっている事に気付いた時には、私はバンギャ活動がとてもつらくなってしまっていた。
誰とも戦ってなかった私ですら、こうなった。
明確に対戦相手のいるヒプノシスマイクのオタクが、対戦相手が相手の推しディビにどれだけお金を使ってるか見て、自分と比べ病んでしまう事は想像に難くない。
ヒプノシスマイクというコンテンツは、めちゃくちゃに楽しい。楽曲はかっこいいし、声優さんのラップはめざましく上達していくし、木村昴はいい奴だ。
もし、今、推しディビを「勝たせなきゃ」CDを買わなきゃって義務感で焦ってるオタクがいたら、ちょっと一息ついたらいいんじゃないかなと思う。
一息ついてもやっぱりCDを沢山「買いたい」それが楽しい!と思うならそうしたらいいし、もしそれが自分にとって苦しいならコンテンツとの関わり方を少し見つめなおしてもいいのかもねと思うよ。